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教育改革はどうあるべきか

2000年2月12日

日本の公教育は、高等教育は別として、初等教育と中等教育に関しては、うまく機能しており、それが戦後の日本経済の成長に大きく寄与した。しかし、工業社会から情報社会へと社会の構造が変化するにつれて、公教育のシステムが機能不全になり始めた。ポスト工業社会における教育システムはどうあるべきかを考えよう。

Peggy und Marco Lachmann-Anke+OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像を加工

公教育が機能不全に陥った時代背景

現在日本の経済大国としての地位は危機的状況にある。1970年代の石油危機と公害の深刻化をきっかけに、資本集約的工業社会は知識集約的情報社会への構造転換を余儀なくされたが、日本は資源問題や環境問題の技術的克服に成功したためにかえって構造的克服が遅れ、工業社会的体質を温存させることになった。これに対してアメリカは、80年代に脱工業化への構造改革の苦痛を耐え抜いた結果、90年代には情報社会をリードできる立場となった。新しい時代において日本が再び経済的リーダーとなるためには、いち早く情報革命を進める必要がある。

情報革命とは、単なる情報関連機器の技術革新のことではない。農業や工業を含めた全産業の知識集約化のことである。知識集約的産業では、物への投資よりも人への投資が重要だ。もちろん日本はこれまでも人への投資に努めてきた。明治以来、日本の教育システムは、工業社会に適合する人材を育ててきたし、資源に乏しい我が国が経済的繁栄を築きえたのは優秀な人材のおかげだと言える。しかしその「優秀さ」には「工業社会での」という限定が必要である。

日本の学校教育が理想とする秀才の条件と良いコンピュータの条件は奇妙に一致する。即ち、

  1. 記憶容量が大きくて、
  2. 情報処理速度が速く、
  3. バグ(ミス)が少ない

人間が、

  1. あらかじめ出題範囲が指定された、
  2. 制限時間のある、
  3. 減点方式のテストで、

知的エリートとして選ばれる。また日本の道徳教育および体育教育は、命令されたとおりに従順に動くロボット型の人間を作ってきた。だから日本の知徳体の教育は、優秀なコンピュータ代用物と優秀なロボット代用物を量産することによって工業社会に貢献してきたわけである。ところが70年代以降、産業用ロボットの導入によるオートメーション化とコンピュータ導入による事務作業の軽減化が進み、人間にはロボットやコンピュータにはできないような複雑系の仕事が求められるようになった。その結果労働市場では従来型秀才の価値が大幅に下落してしまったわけである。

これまで工業社会では、企業は画一的商品を大量生産してきたし、学校は画一的労働商品を大量生産してきた。大量生産の際、複製にコストがかかる時、このコストを下げる労働はそれなりの付加価値を持つ。日本企業は、これまで欧米から基本的なアイデアを輸入し、欧米と同じ物を、より効率的に、つまりより安く、そしてより精確に模造複製することによって世界市場での競争力を付けてきた。ところが、情報産業の生産物の場合、コンピュータソフトやインターネットコンテンツを例に取ればわかるように、複製や流通にはほとんどコストがかからないので、オリジナルを作成した者のみが利益を独占する。横並びで他者の物まねをやっている者は淘汰される。独創性があり、他とは違う個性を持つ個人だけが生き残るのである。

よく日本人には独創性がない、集団に埋没して個性がない、製造業は強いが非製造業は弱いなどと言われる。これらは根拠なき偏見だ。アニメの宮崎駿、映画の北野武、音楽の坂本龍一など、非製造業分野でも世界的な評価を受けるような独創的仕事をしている日本人がいるではないか。こうした天才的個人は、娯楽産業が比較的自由な分野だから日本からも輩出されるわけだが、出る杭を打つ現在のシステムを改めれば、さらに幅広い分野から現れるはずだ。

もちろん文部省も中央教育審議会も、現在の公教育が時代に合わなくなってきたことを知っているからこそ、「教育の多様化」や「個性の尊重」などのスローガンを掲げて何回となく教育改革を手がけてきたのである。だが政府の教育改革は、公教育の維持を前提としているので、何をやっても制度いじりの域を出なかった。

そうこうしているうちに、公教育は完全に機能不全に陥ってしまった。60年代の末から大学紛争が始まり、70年代の半ばから高校生の荒廃が社会問題化し、70年代の後半には中学校で校内暴力の嵐が吹き始め、80年代の半ばから、校内暴力に代わっていじめがクローズアップされ、そして現在小学校で学級崩壊が始まっている。アメリカでも公教育は半ば見捨てられ、チャータースクールや自宅で学習する子供の数が増大している。工業社会の終焉とともに公教育は歴史的使命を終えたといわなければならない。

現在の学校が抱えている諸問題

現在の公教育には、

  1. 学校が教育機能と同時に評価機能までを持つために、在籍が自己目的化し、同時に教育が殿様商売化する、
  2. 生徒には選択の自由がほとんどなく、自分の個性や能力に合った教育を受けることができない

という二つの問題がある。多くの教育改革論者は、2番目だけを強調するのだが、1番目の問題が解決しなければ、2番目の問題は解決不可能である。公教育の維持を前提とするならば、何をやっても制度いじりの域を出ないのはこのためである。

1番目で謂う所の評価機能とは、個人が一定の能力を持っていることを保障する権威付与機能のことで、普遍的な、つまり超組織的な妥当性があるために、就職や昇進などの際の人選のコストを削減する、資格やコンテストの賞が持っているような機能である。教育機関が評価機能までを持つ弊害がもっともはなはだしいのは高等教育だ。日本の大学で重要なことは、そこで何を学ぶかではなく、そこに四年間在籍することである。それは、入学試験が評価機能を持ち、その後の四年間が評価の対象外になるからだ。社会が大学に求めるものが、教育機能ではなくて評価機能であるから、いかに学力のない学生が学力を身に付けるかによってではなく、いかに優秀な学生が入学するかによって大学の価値が判定されるのである。

学歴は、資格試験やコンテストと同様に評価機能を持つが、教育機能との抱き合わせであるから機能が純粋ではない。学歴には、英検のような学歴を前提としない資格試験と比較すると次のような問題点がある。

第一に資格試験の場合、特定の学校に通う必要はない。実力さえあればそれでよいのである。ところが学歴の場合、本来独学で成果を出せる人の方が他人から教わらなければ成果を出せない人より優秀であるにもかかわらず、前者の能力はまったく評価されない。

第二に、現在の職業を放棄して大学に通うことは困難だから、学歴社会のもとでは、十八歳の勝負で人生が決まり、敗者復活が認められない。これに対して、資格試験は、受験者の年齢を問題としないので、生涯学習を促進する。

第三に学歴が保証する能力は漠然としすぎている。これまで日本の銀行は、偏差値50の大学の経済学部卒業生よりも偏差値60の大学の文学部卒業生を採用してきた。経済学部でも文学部でも入学試験の中身はほとんど同じで、銀行が期待するのは専門的知識ではなくて、潜在的な能力だからである。ところが雇用形態が、ジェネラリストの終身雇用からスペシャリストのアウトソーシングへと変化して行くと、特殊な才能を保証する評価機能が求められるようになる。

第四に、入学試験の難易度は年度ごとに変動する。仮に大学審議会が提案するように、単位認定や学位授与を厳しくして、卒業に評価機能を持たせたとしても、教授の講義は個人色が強く、教授ごと大学ごとに評価基準がまちまちであるから、学位の価値にばらつきが出てしまう。出身大学による人物判定は、資格試験のような普遍性がないし、学閥という形で業績原理が帰属原理に転化することによって、経済の活性化を阻害する危険がある。

教育機関が同時に評価機関でもある弊害は、大学院の場合さらに深刻だ。大学院では進学や専門職への就職は、教授の一存で決まるので、学生は誰も教授を批判できない。有能な学生ほど無能な教授に対して批判的でありうるわけだが、無能な教授ほど無能なイエスマンを弟子にすることを好む。かくして無能の再生産が始まる。訪日する欧米の研究者は、日本の大学院生や助手が教授に奴隷のようにこき使われているのを見て驚く。学問の世界では、既存の学説に対する批判精神が重要なのだが、日本のアカデミズムは、若手研究者の独創的な学説を叩き潰し、彼らに分相応を自覚させることが教育だと思っている。この抑圧構造を打破しなければ、日本の大学は世界的水準に到達できない。

高等教育の下の中等教育では、教育者と教育の目標である入学試験の実施者とが分離されているので、比較的問題がなかった。ところが近年中学校では内申書(調査書)が重視されるようになった。従来内申書の評価は、業者テストで得られた偏差値に基づく客観的学力評価が主であったから、一発勝負の入試のリスクを分散させる機能しかなかったのだが、平成5年に文部省が通知を出して以来、担任教師による主観的評価の占める割合が増加するようになった。一般入試では、その内申点と学力試験の得点が、一対一の比率で評価される。さらに中央教育審議会は、『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について』の中で、内申だけで決まる推薦入学の枠を広げようとしている。

このため中学生は、内申点を稼ぐために、解答を丸写ししてまで提出物を出したり、老人ホームでボランティア活動をやったりするようになった。ボランティアの英語の語源が「自発的意志」であることを考えれば、明らかに不健全だ。直接中学生から聞いた話だが、今の中学生は、先生に知らないことではなく知っていることを質問しに行くと言う。知らないことを聞いて、理解できなければ先生の気分を害してしまう。だからわざと知っていることを質問し、熱心に説明を聞くふりをして、「先生の御説明でとても良くわかるようになりました。ありがとうございます」と言って頭を下げる。すると先生はうぶだから、にこにこしながら内申点を上げてくれるのだそうだ。

文部省は、さらに大学受験にまで学力試験を伴わない推薦入学の制度を普及させようとしている。文部省の『中高一貫教育、来年度より選択的導入へ』によると、平成十一年度より選択的に導入される中高一貫教育も、中教審は「受験競争の低年齢化につながることにならないよう、特に、公立学校では、学力試験は行わず、それぞれの学校の特色に応じて、面接、実技、推薦、抽選等の方法を組み合わせて行う」と言っているが、狙いは名門公立校を作り、小学校教師にまで推薦権を与えることにある。小学校の教員から大学院担当の教授にいたるまで、およそ教師にとって、生徒の推薦権は、一度手にすると手放せなくなるほどおいしい既得権益である。内申点を上げてもらうために生徒の父母が商品券を贈るなどはよくあることで、女子高生の中には、志望大学への推薦をもらうために担任と肉体関係を持つものまでいる。かくして公教育は権力癒着の早期教育の場と化す。

公教育は、教育としては死んだも同然である。公教育がまともな教育をしてくれないから、中学生は進学塾へ、高校生は予備校へ、大学生は専門学校へ通うというダブルスクール現象が起きる。権威だけで中身のないフォーマルな教育と権威はないが中身のあるインフォーマルな教育の両方に出費しなければならないことは、大変な浪費ではないだろうか。

私教育に求められるのは教育機能だけであるから、もし生徒が教師や教育方針に不満があるのなら、いつでも退塾できる。ところが公教育、なかんずく義務教育には、選択の自由はほとんどない。たとえ勉強が嫌いでも、教師と人間関係がうまくいってなくても、「友人」から頻繁にいじめられても、人生の落ちこぼれにならないためには、子供は学校へ行かなければならない。それでも、子供は多種多様なのに公教育は全国画一だから、当然の事ながら不適合を起こす子供も出てくる。近年の登校拒否や保健室登校の増大は、もはや一部の特殊な子供が学校に合わなくなったのではなく、学校自体が時代に合わなくなってきたことを示している。

学校や教師に拒絶反応を示す子供を自分たちの支配下へ置くために学校と教師が使う強制手段は、校則と体罰である。体罰は学校基本法によって禁止されているが、相変わらずなくならない。校内暴力への対策として体罰とともに強化されたのが校則である。覚えられないほど細分化された校則は、生徒の服装から学校生活の一挙手一投足にいたるまでを規制する。中には「掃除の時、男子が一、二、女子が三、四と声をかけて掃除をしなければならない」(千葉県の中学校)とか、「異性との交際は成績五十番以内に限る」(奈良県の高校)とか、「出席番号奇数のものは奇数時限後に、偶数のものは偶数時限後にトイレに行くように」(兵庫県の中学校)といった噴飯物の校則まである。どんなにナンセンスでも、きめ細かな校則はないよりあった方がよいと管理教育主義者は考えている。校則が多い方が、違反者を注意する機会が増え、不良の早期是正ができるというわけである。「服装の乱れは心の乱れ」とは管理教育主義者が好んで口にする格言だが、問題は他人と違う服を着たいという個性の自己主張が、矯正されるべき不健全な欲望なのかどうかである。

70年代後半から荒れ始めた中学校とは対照的に、小学校ではこれまで生徒に選択の自由を認めない画一的教育がうまくいってきた。ところが今その小学校で学級崩壊という深刻な問題が起きている。学級崩壊の引き金となっているのは、注意力欠如多動性症候群の子供たちであるという説が有力である。この症状の子供たちは、授業を理解するだけの集中力がなく、じっと椅子に座っていることすらできず、授業中立ち歩き、注意されるとかっとなって衝動的な行為に走る。教師はこの子供に振り回されてまともに授業ができず、おとなしい普通の子供までが私語を始めるようになる。いったん授業秩序が崩壊すると、もう元には戻らなくなる。これが学級崩壊である。

注意力欠如多動性症候群は、日本のみならず世界各地の子供で観察されるようになった新種の病気で、環境ホルモンの一種が脳の制御能力を低下させることによって起こるのではないかという説も出されているが、原因についてはまだ何もわかっていない。少なくとも言えることは、従来の画一的な教育システムでは対応できない子供が現れてきたということである。注意力欠如多動性の子供たちは、彼らに適した個別対応の学校に行く必要がある。そう言うと、同和教育論者たちは「差別だ」「隔離だ」と反発するだろうが、学歴社会に反対する彼らは、学校を教育手段ではなく、在籍そのものに意味がある共同体と考えている点で、学歴社会擁護論者と同じ地平にある。もし学校が予備校のように、権威付与機関ではなくて教育機関だとするならば、能力別学級編制を含め、生徒が自分の能力に合ったコースを選ぶことにはなんの抵抗もないはずである。

従来、「障害者は特殊学校に行け」と主張してきた人たちは、それを批判する人たちと同様に、《障害者が通う特殊学校》を《健常者が通う通常学校》と対置し、後者は前者よりも優れているという価値観を暗黙の前提にしていた。しかし、私たちは、この前提を疑わなければならない。そもそも、いかなる人にも、何らかの欠点があるのだから、すべての人は障害者である。そして、教育が行うべきことは、障害を克服させることにより、子供たちを理想化された健常者へと金太郎飴的に標準化することではなくて、比較優位のある才能への集中的な投資により、希少価値のある人材を育てることである。私が言いたいことは、「障害者は特殊学校に行け」というよりも、「すべての人は、障害者なのだから、すべての学校は、特殊学校でなければならない」ということなのだ。

子供の個性を尊重しろと主張する人は多い。だが評価機関には普遍性が要求され、そしてその評価機関が教育機関でもあるのだから、公教育は画一的であらざるを得ないのである。冒頭で述べたように、文部省の護送船団方式のもと、同じような学校で、同じ科目を、同じ速度で、同じようなやり方で学ぶ画一的教育は、脱工業化された現代では時代錯誤になっている。にもかかわらず学校が服装から副教材まですべて統一するのは、管理教育がやりやすいからだけではない。お揃えにした方が学校での一括購入となり、業者選定の際のリベートが稼げるからである。稼いだ金は県議会議員や市議会議員を経て教育委員会の上層部にばらまかれる。教育委員会は教員人事の権限を握っているから誰も批判できない。

公教育も一つの公共事業であるのだから、こうした権力腐敗の指摘は陳腐なことかもしれないが、農道空港やダムの建設の場合と違って、たんにコスト高だけではなく、教育への悪影響が懸念される。先ほど、公教育は権力癒着の早期教育の場となっていると言ったが、せめて生徒だけでも官僚的な利権体質に染まって欲しくないものである。

私塾との競争に敗れて、学校はもはや勉強を教えてくれるところではなくなったが、公教育の先生たちは自分の雇用を守るため、それでも公教育には生活指導や道徳教育などの仕事が残っていると主張する。だが謂う所の「生活指導や道徳教育」とやらが、労働市場から相手にされなくなった画一的ロボットの量産であり、権力癒着の早期教育であるとするならば、公教育に存続の理由などないと結論付けるべきである。

教育に市場原理を導入するための提案

私は、教育機能と評価機能を分離し、教育機関をすべて私教育化することを提案する。教育は民に任せ、官は試験だけする。すなわち、小学校から大学院にいたるまでの科目をすべて難易度に応じた数の単位にし、文部省実施の資格試験にする。例えば小学校四年の国語は日本語初等教育三級試験、高校三年の数学は数学中等教育一級試験、大学一年の経済学は経済学高等教育六級試験の合格によって単位が認定されるというように。資格試験であるから、通学の有無や年齢は一切関係ない。一年に複数回実施されるので、得意科目は平均より速く進めばよいし、苦手科目は平均よりゆっくりと進むか、あるいはペンディングにしておけばよい。昔興味がなかった科目でも、後で学習する気になることはよくあるからだ。現在文部省は、学年制の弾力化を検討中だが、飛び級にせよ留年にせよ、それがフルセット式であるところに問題がある。フルセット式は、スペシャリストの時代にはふさわしくないし、生徒に不必要な優越感や劣等感を与えることになる。だから生徒の個性を尊重して、単位修得はアラカルト式にするべきである。

アラカルト式で単位数の合計が一定に達したら、初等教育修了などの卒業証書を出す。高等教育の場合、学位授与のためには単位とは別に論文が必要である。学位論文はいったん文部省に集め、名前を伏して全国の適任の研究者に送って審査させればよい。ゴーストライターを防ぐためにも、口頭試問も必要である。

このように公教育から評価機能を取り上げて民営化すれば、どこの学校にいっても取れる資格(学位)は同じであるから、生徒は学校を従来のように形式的権威ではなくて、教育の中身で選ぶようになる。それは教師にとって良い刺激となるはずだ。また入学者を制限する入学試験もなくなると予想される。客の数を自分から減らそうとする企業はないのであって、近くの貸ビルの一室を借りてでも、学校は生徒を受け入れようとするであろう。

いくら多種多様な学校ができても、自宅から通おうと思えば、学校の数が限られているので、選択の自由も限られている。だから公教育を廃止したら、全寮制の学校が増えるようになるであろう。これにはいろいろなメリットがある。労働人口の減少により、女性の社会進出は必須であるので、「暇な母親」は減少し、家庭で子供の面倒を見ることはできなくなる。

もちろん半世紀前も、子供の数が多かったので、また別の意味で親は子供の面倒をいちいち見れなかった。だが兄弟の中で年長者は年下の面倒を見ることはできた。ところが少子化が進み、近所の子と遊ぶ場もなくなり、代わって各子供に自分の部屋が与えられるようになると、子供たちは自室でゲームに興じたり、漫画を読むようになる。子供のコミュニティがなくなるのである。独りで過ごす時間が増えれば増えるほど、子供のコミュニケーション能力は落ちて行く。寮で生活をともにすれば、一方で人間関係の能力が、他方で両親から自立する能力が身に付くようになる。多くの子供にとって、両親は毎日顔を合わせたくない存在であるから、週末に帰ってくるぐらいでちょうどよいのである。

なお公教育の廃止は、義務教育の廃止を含意しない。貧しい家庭に産まれることは子供の責任ではないのだから、教育の機会均等は守られなければならない。ただ従来のように、国や地方公共団体が、特定の学校(公教育機関)に金を出す制度を改め、六歳から十五歳までの子供に直接、家庭の所得の少なさに応じてバウチャーを発行すればよい。

政府によって認められた特定の財やサービスを民間部門から購入するために個人に支給されるクーポン券のことをバウチャー(voucher)という。経済戦略会議でも、失業対策として、職業訓練のためのバウチャーを発行することを提言している。従来の補助金方式だと、政治家や官僚と癒着している特定の民間部門が、消費者のニーズに合わない財やサービスを提供しているにもかかわらず、恩恵を受けるという事態が生じる。バウチャー方式は、どの民間部門から財やサービスを購入するかを消費者の選択に委ねることによって、従来の補助金方式の弊害を取り除くという長所を持っている。

教育バウチャーは不正に使用されないように、子供の住民票コード入りの電子マネーで配る。十六歳以上の青年には、学校民営化によって得られる売却益を基金にして奨学金制度を充実させ、学費を貸与する。子供はその金で好きな学校と好きな教師を選ぶことができる。その結果学校側には生徒獲得の競争が起きる。各学校は文部省に規制されることなく、自らの教育理念に従って自由に教育できるが、生徒が集まらなければ経営は破綻し、より競争力のある学校によって買収されることになる。

単位の資格試験化と並んで、資格試験の単位化も必要である。就職に密着した既存の実用技能検定などにも、その難易度に応じて単位数を振り分ける。またコンテストなどで一定以上の成績を上げた者にも単位を出す。このように単位修得の選択肢を増やせば、子供たちの多様な才能を早い段階で引き出すことができるようになる。これに対応してクラブ活動も、プロを指導者とする有料オプションコースとして充実するであろう。学歴・コネ社会から資格・受賞社会へというのが時代の流れなのである。

もしどの大学で学位を得るかではなくて、いつ学位を得るかが競争の目標となるならば、早熟教育が加熱して、今以上に「ゆとり」がなくなるのではないのかと心配する向きもあるかもしれない。だが人間は、好きなことなら寝食を忘れて熱中することができる。勉強をつまらないものと決め付けた上で、勉強量を減らすことが子供の健全な発育を可能にすると考えている「ゆとり」の教育家たちは、労働をつまらないものと決め付けた上で、労働時間の短縮が労働者の「解放」になると考えている労組の運動家と同様に、前提が間違っているのである。

研究に市場原理を導入するための提案

最後に、大学には、教育以外にも研究の機能があるので、公教育を廃止した時、どのように大学の研究へ公的資金を補助するかについて論じたい。現在、科学研究費の配分審査は、文部大臣の諮問機関である学術審議会に設けられた科学研究費分科会で行われている。また大学院生などの若手研究者への支援には、日本学術振興会の事業として特別研究員制度が設けられている。いずれも文部省が言うように「適切な審査・評価に基づいて選択的に配分される資金」かどうかは極めて疑わしい。研究が実際に成果を上げるかどうかはあらかじめわからないから、資金の配分比率の決定は官僚や教授たちの政治的な取り引きとなってしまうのが現状だ。

実際科学研究費は、旧帝国大学などの官僚の出身校に「重点的に」配分されている。官僚による天下り先企業の重用が先輩優遇策であるとするならば、旧帝大等への科学研究費の重点配分は後輩優遇策であると言える。文部官僚に言わせれば、旧帝大には優秀な教官や院生がいるから、そこに重点的に投資した方が効果的であるとのことである。旧帝大にのみ優秀な教官がいるわけではないのだが、仮にそうだとしても、大学で配分比率が決まるのなら、研究者にとって研究費は研究へのインセンティヴにはならない。

研究者の業績ではなく、地位に対して研究費を与えているから、日本の大学には、十年間に一本も論文を書かないような無能教授がごろごろいることになる。そんな無能教授が人事権と弟子たちへの資金配分権を独占して研究室内では絶対者として君臨している。無能教授に限って、指導と称して若手研究者の自由を蹂躪しておきながら、自分の業績が査定されるとなると、「学問の自由が侵される!」と声高に叫んで大学改革に反対するものなのである。日本が技術立国で経済大国であるにもかかわらず、そして潜在的には優秀な人材がいるにもかかわらず、日本の大学が世界的に二流の評価しか受けないのは、日本の大学が社会主義的停滞と官僚的硬直化に陥っているからだと断定してよい。

研究活動を活性化させるためには、「有望な」計画への予算としてではなく、優れた研究成果に対する賞金として研究費を出せば良い。具体的には、レフェリーの付いた学会誌で採用された論文に対する掲載費という形で出す。そうすれば、研究者は競って論文を書くようになるであろうし、実績を上げることができた研究者にのみ資金が提供されるし、研究費の使い道に関して官僚が介入することもなくなるから、自由な研究ができるようになる。このほか、実学の場合、企業からの資金協力を求めるとか、実学でない場合は、印税で資金作りをするなど、研究費は自分で稼ぐという姿勢が必要である。

以上、ここで述べたことを要約すれば、教育と研究を活性化させるためには、公教育を廃止して市場原理を導入するべきだというこの一点に尽きる。それはたんに行政改革のために必要であるだけではなく、産業が知識集約化する世界の潮流の中で日本経済が世界の最先端の地位を保持し続けるために必要なのである。かつて教育は国家百年の計と言われた。今では、教育は国家三十年の計である。つまり教育改革は、一世代のうちにその国の運命を決するような帰結をもたらす。教育改革は待ったなしである。

追記(1)バウチャー制度の見直し

本稿は、2000年02月12日にメルマガで「公教育を廃止せよ」というタイトルで発表したコラムの再録であるが、2010年4月現在での、教育改革に対する私の考えを、追記として書き記したい。

本稿では、教育バウチャーを推奨したが、米国では、教育バウチャーとして支出される税金が宗教教育に使われる点が問題視されている。これは、米国では、地動説や進化論を否定する教育を行っている宗教系私立学校があるからである。日本政府は、現在既に宗教系の学校法人に対して私学助成を行っているが、文部科学省の規制が厳しいので、こういう問題は起きていない。しかし、設立の規制を緩めると、カルト教団が、信者の子供を洗脳するために学校を設立し、教育バウチャーがそういう教育に使われる可能性が出てくる。

その点、教育を行う学校にではなくて、教育の成果に公金を出す方が合理的である。米国でも、良い成績を出した低所得の学生に報奨金を与える州がある[1]。この制度ならば、たとえ、宗教系の学校に行ったとしても、宗教教育に対して公金が使われることにはならず、あくまでも試験の結果に結び付く教育に対して、公金が使われていることになる。この方法は、貧しい家庭の子供に有利に働き、世代を超えた格差の固定化を防ぐ効果がある[2]

本稿では、教育のコストを誰が支払うべきかについて、詳しく論じなかったが、受益者負担の原理から、次の三者が応分の負担をするべきだと考える。

  1. 両親:子供を産み育てるという行為は、生物学的には、自分の遺伝子を残そうとする利己的行為であり、子育てと教育のコストは、子供を産んだ両親が基本的に負担するべきである。「子供は社会が育てる」という共産主義的発想に基づいて、子供手当てなどを支給するべきではない。両親が経済的に育てることができなくなったときは、保険金で対応し、義務教育期間内で意図的に教育を受けさせない場合は、親権停止の上、罰金を課し、その罰金で、親権代行者が子供を育てればよい。
  2. 企業:受益者負担の原則からすれば、企業も、採用している人材の数に応じて、教育のコストを、外形標準課税として、支払うべきである。ただし、どのテストやコンテストに金を出すかを選ぶ権利も与えるようにする。こうすることにより、企業のニーズから離れた人材に賞金が出されることが防止される。
  3. 政府:教育の目的には、職業人の育成以外に、民主主義政治の担い手となりうる教養人、社会人の育成もある。だから、教育システムは、一方で専門教育によってスペシャリストを、他方で教養教育によってジェネラリストを育てなければいけない。後者の目的のために、企業が賞金を出しそうにないテストやコンテストを、一般税収を財源として、実施しなければならない。

追記(2)安彦忠彦の問題提起

[3]

公教育は必要か
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年3月12日(月) 16:46.

早稲田大学教授の安彦忠彦は、教育における「新自由主義」的な政策を批判し、公教育と私教育を区別しろと言っている。

公教育と私教育を区別して論じよ! (date) 2012年3月5日 (media) 教育×WASEDA ONLINE (author) 安彦忠彦 さんが書きました:

かつて小泉元首相は、公立学校と予備校・進学塾とを同等・同種のものとして横に並べ、保護者をユーザーと見なしてどちらを選ぶかと問い、予備校や進学塾の教育の方がよいと言わんばかりに、公立学校とその教師をバッシングした。いわゆる「新自由主義」政策として「市場原理による競争」を必要なものとし、「ユーザーの声に従うべきサービス」として「教育」をとらえる見方を政治的に宣伝した。そんな流れの中で、2006年に「高校の未履修問題」が起きたとき、本来の必修教科を教えず、代わりに受験のための教科を秘密裏に教える学校が明るみに出て問題となり、文部科学省は、問題を起こした学校の責任者や教育委員会関係者を呼んでヒアリングをしたことがある。その時、当該の教育委員会・学校関係者の中に、「保護者が求めていたことをやったまでで、どこが悪いのか」と反問する者がいた。まさにユーザーの言うことを聞いただけで、自分たちは悪くないというわけである。しかし、そこで筆者は、「それではあなた方は、保護者が子どもたちに『泥棒の仕方を教えてくれ』と求めてきたら教えるのですか?」と尋ねたら、答えに窮していた。つまり、「公教育」は「私的な」ユーザー主義で行うことはできないということである。

とくに「公教育」については、①国民として最低限の共通教養を子どもに身に付けさせること、②個々の家庭や保護者の経済的・社会的条件に左右されることなく、子どもの能力を最大限に伸長させるために平等な機会を与えること、この二つがその目的として期待されている。そのために「公教育」においては、保護者や予備校などが行う「私教育」のように、自由勝手な教育を行うことはできない。「公教育」学校はみな、日本の場合、教育基本法、学校教育法、同施行規則、学習指導要領等の法令等によってその活動を制限されている。

ところが、今や、予備校や進学塾などの「教育産業」が標榜してきた、「私教育」的要請の一つである「大学・高校への進学保障」を、「公教育」学校という「教育機関」にまで求める動きが拡大し、現在では教育委員会までも、高校に対して、予備校と同様な大学進学の目標や実績を保護者に提示させて、あたかもそれが本来の高校の使命であるかのように振る舞わせる傾向にある。高校は、上記①②の目的の下に、「自立への準備」と「個性の伸長」を保障する教育を行うことが求められているのに、ただ「大学への進学準備教育」を優先的に行うことを強いられている。その結果、大学入試には強いけれども、自立への準備も個性の伸長も経験していない、未熟な若者が年々増えてきている。

早稲田大学の最近の学生を見ていて思うことは、これからの社会には、自立を意識していないため社会的信用が得られず、また自分の能力や個性に自信はないが、生き抜くために表裏のある言動をする小賢しい若者が増えていく気がする。今の日本は、「教育の公私の区別」をつけ、両者のあるべき相互関係を築き直すべき、重大な岐路に立っていると言えよう。

公共の利益に合致する教育成果とそうでない教育成果の区別があることには同意する。入試問題で試される教育成果は公共の利益に合致するが、泥棒の仕方の習得はそうではない。しかし、こうした「教育の公私の区別」をつけたからといって、私教育から区別された公教育が必要であるという結論を導くことはできない。

安彦は、予備校などが行う私教育は自由勝手な教育を行うことができると言っているが、実際にはそうではない。安彦も言うように、予備校や進学塾は「大学・高校への進学保障」を標榜している。だから、合格につながらないような教育は許されない。その意味では、決して「自由勝手な教育」を行っているのではない。そして、ここに「教育の公私のあるべき相互関係」を見つける鍵がある。

私は、かねがね公教育の廃止を主張している。すなわち、国や自治体が公教育を行う学校を設立して、そこに税金を投入するのではなくて、政府は試験のみを行い、合格者に賞金を与えるというシステムを提案している。こうすれば、泥棒の仕方の教授に税金が使われることはない。合法的に努力して金が手に入るのなら、泥棒をする動機も薄れる。

こういう提案をすると、きっと安彦は「試験には強いけれども、自立への準備も個性の伸長も経験していない、未熟な若者が増える」と言って反対するだろう。しかし、本当にそうだろうか。安彦は、自分の大学の学生を観察しながら、「自分の能力や個性に自信はないが、生き抜くために表裏のある言動をする小賢しい若者が増えていく気がする」と言うが、それは日本の公教育が、内申点重視、面接重視の推薦/AO入試を増やし、《結果重視の教育》から《プロセス重視の教育》へ、《学力重視の選抜》から《人物重視の選抜》へ方針を切り替え、その結果、教師が見ている前でだけ教師が望むとおりに振る舞う偽善的な学生が増えたからだろう。

推薦/AO入試を「生き抜くために表裏のある言動をする小賢しい若者」を減らしたいなら、《プロセス重視の教育》から《結果重視の教育》へ、《人物重視の選抜》から《学力重視の選抜》へ方針を転換するべきだ。そして教育における公私の区別を、公教育と私教育ではなくて、公的評価と私的教育という形で分断するべきだ。すなわち、政府の役割は、公共の利益に合致する教育成果の提示とそれへの到達の判定であり、どのような教育手段を用いればその目標に到達することができるかは、民間の創意工夫に委ねればよいのである。

Re: 公教育は必要か
投稿者:muu.投稿日時:2012年5月06日(日) 19:31.

永井俊哉 さんが書きました:

政府の役割は、公共の利益に合致する教育成果の提示とそれへの到達の判定であり

完全民営化への途中過程として、政府の役割をそのように限定することは、良い方法だと思います。
また、お金を出す以上、口も出すのは当然です。

しかし、それがいつまでも「政府の役割」である理由はないでしょう。
民間が様々な「教育成果の提示とそれへの到達の判定」をすればよいのであり、どの「教育成果の提示とそれへの到達の判定」が好ましいかは、市場が判断すれば良いことです。
政府の役割がなくなれば、もちろん政府がそこにお金を出す必要もなくなります。

そもそも「公共の利益」とは、いったい何ですか?
保護産業やそれと癒着している官僚が、その補助金や新規参入規制の言い訳に使う言葉としか思えませんが。
「有益な商品やサービスの提供」のことならば、そうでない商売などありません。市場によって淘汰されます。
(もちろん有益かどうかは、個々の消費者が判断することです。)

消費者が求めるならば、泥棒の仕方を教える学校があってもいいと思いますよ。
泥棒は犯罪ですが、泥棒の仕方を知ることは犯罪ではありません。
ハッカーなどは刑務所から出てくると、ハッカー対策のスペシャリストとして企業から引く手あまただと聞きます。
民間に任せればハッカー試験も生まれるでしょうし、「ムショ帰りでハクを付ける」ことも減るでしょう。

Re: 公教育は必要か
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年5月07日(月) 03:50.

現在の公教育には二つの大きな目的があり、それに応じて二種類の教育があると考えることができます。

  1. 職を得て自立するための専門的な教育:日本のように分業が進んだ社会システムでは、特定の職種に適した人材を育てる必要があります。求職者は、より良い職を得るために自分に投資するし、企業もほしい人材を確保するための投資をおこないます。
  2. 民主主義を維持するための一般的な教育:民主主義的な政治システムは、有権者に判断力があることを前提としています。有権者が文盲であったり、政治、経済、法についての基礎的な知識がなかったりすれば、まともな判断は行えないでしょうから、それだけ民主主義が機能しなくなります。

子供の教育コストは、その子供を産んだ両親が負担するのが大原則ですが、これらの目的を考えるならば、政府や企業による教育への支出も正当化されます。

  1. 企業は、これまでも社内で教育を行ってきました。しかし、終身雇用制度が崩壊し、雇用が流動化すると、せっかく若手社員の教育に投資しても、他の企業にその人材をヘッドハンティングされてしまうリスクがあります。こういうフリーライドを防ぐためにも、雇用者数に応じて一定以上の教育支出を義務付け、しかし税とは異なり、その支出内容は自由に選択できるようにするとよいでしょう。この場合、企業がスポンサーとなって、賞金を出すということになります。
  2. 他方で、読み書きあるいは計算などの基礎的学力は、職種とは無関係にすべての子供が身につけるべきであり、そうした学力の育成に対して国家は責任を持たなければいけません。有権者が基礎的な判断力も持たないようでは、民主主義は成り立たないのです。だからといって、政府自らが公教育を行う必要はないのですが、こうした教育を奨励する制度を持たなければなりません。

米国で科目選択の自由化をしたところ、自動車の運転免許取得などの実用的コースが人気化した半面、地味でアカデミックなコースは不人気になり、それが米国人の知的水準を落としたという批判もあります。すぐに役に立たなくても、長期的観点からすれば役に立つ基礎的な学力の育成を国家としては目指すべきでしょう。

「公共の利益」という言葉は公的セクタを肥大化させる大義名目としてよく使われますが、公共の利益という目的を実現するための手段は必ずしも生産手段の国営化/公営化ではない、むしろ、市場原理のもとでの私益の追及の方がかえって公共の利益になるという点を理解していれば、それほど有害な概念ではないと思います。

関連著作

参照情報

  1. US Department of Education U.S. Department of Education. “Advanced Placement Incentive Program Grants” accessed on 2010/01/16.
  2. 永井俊哉「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法 」2010年4月16日.
  3. ここでの議論は、システム論フォーラムの「公教育は必要か」からの転載です。