4月 132011
 

18世紀のスコットランドの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性や道徳命題の妥当性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果、「である」と「するべき」は異質で、その結合は主観的であるがゆえに不確定であるという懐疑論は本末転倒である。むしろ、不確定であるからこそ、その不確定性を縮減するために、主観は、原因と結果、事実と価値を分割しなければならないというのが真実である。

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David Hume painted by Allan Ramsay.

1 : 因果結合の客観性に対するヒュームの懐疑論

因果律が成り立つための必要十分条件は何であろうか。ヒュームによれば、ある対象 C が他の対象 E の原因であるためには、C が、時間・空間的に E と近接していること、E に時間的に先行していること、そして最も重要な条件として、C の後には必ず E が現われること、すなわち近接性と継続性と必然性が不可欠である[1]

ヒュームは、因果関係は客観的に実在せず、心の中の観念にあると考えた。実際、原因と結果に相当する対象は知覚できるが、原因と結果を結びつけている因果関係自体を直接知覚することはできない。近接性と継続性は、直接知覚できないにしても、知覚した対象から比較的容易に認知することができる。問題は必然性である。ヒュームは、ある原因の後にある結果が頻繁に現れるために、心が習慣的に二つの観念を結合させることで、原因と結果の間にある必然性の関係が形成されると考えた。

頻繁な反復の後、心は、一方の対象が現われるとすぐにいつもの付随物を習慣により思い起こし、その付随物を、最初の対象との関係ゆえに、より強い光ものもとに配慮するように決定されてしまう。そこで、私が必然性という観念を持つことができるのは、この印象あるいは決定であるということになる。[2]

因果関係が主観的な結合だとするならば、その必然性は客観的ではなく、したがって、ある原因に対して、いつもとは異なる他の結果が生じるということも想像可能である。

例えば、ビリヤードのボールが真直ぐ他のボールに向かっていくのを見る時、たとえ接触ないし衝突の結果として第二のボールの運動がたまたま私に示唆されたとしても、その原因から異なる百の出来事が同様に帰結したかもしれないと考えていけないだろうか。二つのボールが完全に静止するということはあってはならないのか。最初のボールが真直ぐ戻ってきたり、二番目のボールから、任意の方向・方角へ飛び離れたりしてはいけないのか。これらの想定はすべて無矛盾で不可能ではない。私たちのアプリオリな推論は、この採択に対していかなる根拠をも私たちに示すことはできないだろう。[3]

因果結合は主観的だから、必然性はないとするヒュームのこの見解は正しいだろうか。私は、結合が必然的であることは、因果関係であるための必要条件ではなくて、因果関係ではなくなるための十分条件であると考えている。原因と結果の結合は、主観的であるがゆえにその必然性が疑われるのではなくて、その必然性が疑わしいからこそ、主観は、出来事を原因と結果に分割するのであって、原因と結果の結びつきが必然的になると、原因と結果は、原因と結果ではなくて、一つの出来事とみなされてしまう。

例を挙げて説明しよう。リモコンのボタンを押すと、それが原因となってテレビ放送の開始という結果をもたらす。しかし、通常、私たちは、この因果連鎖を「テレビをつける」という単一の行為として記述する。では、どのような時にこの行為を二つに分割し、「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果関係として記述するのだろうか。

それは、リモコンのボタンを押しても、テレビがつかず、「リモコンのボタンを押す」という出来事と「テレビがつく」という出来事の結合が、必然的ではない時である。すなわち、私たちが「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果的表現を用いるのは、リモコンにまだ慣れていない時やリモコンの故障を修理した後など、不確定性の楔が、出来事を二つに分割している間だけである。

分割が二つでは不十分な場合もある。ヒュームによれば、原因と結果は近接的でなければならないので、原因と結果が離れている時には、因果関係を細かい連鎖に分割しなければならない。

離れた対象の一方が他方を生み出すように見えることも時々あるかもしれないが、よく吟味してみると、それらは、通常、相互に、そして当の離れた対象に近接する諸原因の連鎖によってつながれていることがわかる。この結合が発見できない特殊な場合でも、依然として、私たちはそうした関係があるものと推定する。[4]

もしそうならば、最小の因果関係の単位は、どのぐらい近接的であればよいのだろうか。原子レベルか、それともクォークレベルまでなのか。こうしたスコラ学的な迷路に入らないようにするには、原因と結果の分割は、そもそも何を動機としているかという原点に立ち返らなければならない。原因と結果の分割が、不確定性の縮減を動機としている以上、分割は、その不確定性が縮減されるまで行えばよいということになる。

リモコンの例に戻ろう。リモコンのボタンを押しても、テレビがつかず、テレビを意のままに操作できなくなることは、ユーザーにとって不確定性の増大であり、

リモコンのボタンを押す→テレビがつく

という因果連鎖を

リモコンのボタンを押す→半導体に電気が流れる→発光ダイオードが信号を発信する→テレビが信号を受ける→ICが信号を処理する→テレビがつく

というように、さらに細かな因果連鎖に分解するのは、ちょうど伝染病が発生すると、当局が感染者を見つけて隔離し、感染の拡大を防ごうとするように、因果連鎖を細かく分割し、不確定性を閉じ込め、全体の不確定性を縮減するためである。

不確定性とは、「予期とは他のようでありうること」である。知性と呼ばれる私たちの情報システムは、この増大した不確定性を縮減するために、「予期とは他のようになった」出来事を、細かく因果連鎖へと分解し、各因果結合が「他のようではない」ことを確認しつつ、「他のようになる」結合を見出し、「他のようではありえない」ようにしようとする。例えば、ダイオードが断線していることに気が付けば、ダイオードを取り替えることで、リモコンの機能を正常に戻すことができる。そして、「予期とは他のようではありえない」ようになれば、因果連鎖はアコーディオンのように収縮し、「テレビをつける」という自明な単一性が復活する。

2 : 道徳命題の妥当性に対するヒュームの懐疑論

ヒュームは、事実命題から当為命題を導くことに懐疑的であったことでも知られている。以下の『人間本性論』からの引用は、事実と価値を峻別し、“is”から“ought”は導けないとする、20世紀の英語圏で支配的になったメタ倫理学の主張を先取りする洞察と言われている有名な箇所である。

私がこれまで出会ってきたどの道徳システムにおいても、いつも気付くことがある。それは、著者がしばらく通常の推論を進めて神の存在を確立したり、人間社会の営みに関する観察をしたりしているうちに、突然、通常の「である」と「でない」によって述語付けられる命題の代わりに、もっぱら「べき」や「べきでない」によって述語付けられる命題に出くわすようになって驚いたということである。この変化は見過ごされがちだが、きわめて重要である。というのも、この「べき」や「べきでない」は新しい関係や断定を表現していて、観察され、説明されることが必要であり、同時に、この新しい関係が全く異なる他の関係からどのように演繹されることができるのか、という全くもって不可解に思われることに対して理由が与えられることが必要であるからだ。しかし、著者たちが通常この用心をしないので、差し出がましくも私が読者にその用心をすることをお勧めしたい。そして、この少しばかりの注意が、通俗的なすべての道徳システムを転覆させるであろうことを、すなわち、美徳と悪徳の違いはたんに対象の関係に基づいているのでもなければ、理性によって知覚されるのでもないということを私は確信している。[5]

事実から当為を必然的に導こうとする従来の道徳哲学に対するヒュームの懐疑は、原因から結果を必然的に導こうとする従来の自然哲学に対するヒュームの懐疑とよく似ているし、同じような転倒を見て取ることができる。すなわち、ヒュームは、事実と当為(価値)が全く異なるもので、両者の結合が主観的な結び付きであるから、客観的な必然性はないと考えたが、むしろ逆に、その必然性が疑われるからこそ、主観は事実と当為(価値)とを切り離し、再結合させなければいけないのであって、必然的であるならば、事実と当為(価値)は直観的な一体性を保つはずだ。

具体例で説明しよう。普通の人にとって、殺人は、改めて考え直すまでもなく悪である。人間を殺すという行為は、腕の震えや心痛なしにはできないことで、この場合、殺人という事実と悪という価値あるいは「するべきでない」という当為は直観的に一体となっている。「よく考えてみると、殺人は良くないことだ」などと言う人は普通の人ではない。しかし、戦場という特殊な状況では、敵を殺すことを躊躇すれば、自分を含めた味方が殺されるのだから、この直観的一体性は崩壊する。

かくして、殺人という事実と悪という価値あるいは「するべきでない」という当為はいったん切り離されるが、それだけでは「殺人が悪の時もあれば、そうでないときもある」という状態だから、不確定性が無制限に増大してしまう。この不確定性を減らすために、事実の側を細かく分割し、どこが当初の想定とは他のようでありうるのかを確定しなければいけない。その結果、例えば「人を殺してはいけないが、そうしなければ自分たちの生命が脅かされる場合は除く」というように事実と当為(価値)が再結合されれば、不確定性は縮減される。

3 : 不確定性は要素の分割に先立つ

原因と結果の結合は、確定性ではなくて、不確定性から意識されるのであり、そして原因と結果への分割自体は、不確定性の縮減を目指している。事実と義務の結合も、確定性ではなくて、不確定性から意識されるのであり、そして事実と義務への分割自体は、不確定性の縮減を目指している。一般的に言って、自明さゆえの単一的全体は、不確定性の増大によって、複数の要素に分解されるのであり、そして要素への分解を通して、システムは当の不確定性を縮減しようとするのだが、いったん分解をしてしまうと、最初にまず要素があって、この要素の結合によって複雑性(不確定性)が生まれるという認識が生じる。

原因と結果の関係は、道徳哲学においては手段と目的の関係に対応し、事実と価値の関係は、自然哲学においては事実と真理の関係に対応する。だから、ヒュームによる因果結合の客観性に対する懐疑論と当為命題の妥当性に対する懐疑論は厳密には対応しない。しかし、要素への分割とその結合の不確定性へと議論を一般化するならば、そうした違いは重要ではなくなる。

ヒュームに見られる転倒は、従来のシステム論による複雑性の説明においても見られる。システム論研究者たちは、伝統的に、不確定性を複雑性(要素の組み合わせの数)によって説明しようとする。しかし、こうした要素から出発するシステム論の伝統的説明は根源的なアルケーの忘却から生まれる。すなわち、要素が増えるから、複雑性が増大し、システムはその複雑性を縮減しなければならなくなるのではなくて、増大した複雑性を縮減することを余儀なくされるからこそ、システムは複雑な全体を多数の要素へと分割しなければならないのである。

かつて、中世ヨーロッパでは錬金術が流行した。錬金術師は、硫黄と水銀と塩の合成から金を作ろうとした。もちろん、実際にはそのような反応は起きないわけだが、魔術で起きるかもしれないと信じている人にとって、世界の不確定性はきわめて大きい。この不確定性を縮減したのが、近代化学である。近代化学は、化合物を元素(element 要素)に分解し、錬金術師が行っている錬金作業では、元素の組み合わせが変わっても、元素自体は変化せず、したがって、金を含まない物質から金が生じることはないという結論を下した。この認識が定着するにつれて、錬金術は衰退していった。物質を元素へと分割することで、私たちは、化学反応を予測する不確定性を縮減することができるようになった。

要素の数と種類が増えるにつれて、複雑性が増大することは事実であるが、その複雑性は、縮減された不確定性であり、要素が決まらない時よりも小さいな不確定性しか持たない。それは、システム成立以前の複雑性ではなくて、システム成立以後の複雑性である。不確定性を複雑性と認識した段階で、最初の不確定性は大部分縮減されてしまっている。この意味でも、システム論にとってのアルケーは、要素ではなくて、不確定性なのである。

4 : References

  1. A Treatise of Human Nature, Book1. Part3. Section2 (author) David Hume
  2. “For after a frequent repetition, I find, that upon the appearance of one of the objects, the mind is determin’d by custom to consider its usual attendant, and to consider it in a stronger light upon account of its relation to the first object. ‘Tis this impression, then, or determination, which affords me the idea of necessity.” A Treatise of Human Nature, Book1. Part3. Section14 (author) David Hume
  3. “When I see, for instance, a billiard-ball moving in a straight line towards another; even suppose motion in the second ball should by accident be suggested to me, as the result of their contact or impulse; may I not conceive, that a hundred different events might as well follow from that cause? May not both these balls remain at absolute rest? May not the first ball return in a straight line, or leap off from the second in any line or direction? All these suppositions are consistent and conceivable. Why then should we give the preference to one, which is no more consistent or conceivable than the rest? All our reasonings a priori will never be able to show us any foundation for this preference.” An Enquiry Concerning Human Understanding, Section4. Part1 (author) David Hume
  4. “Tho’ distant objects may sometimes seem productive of each other, they are commonly found upon examination to be link’d by a chain of causes, which are contiguous among themselves, and to the distant objects; and when in any particular instance we cannot discover this connexion, we still presume it to exist.” A Treatise of Human Nature, Book1. Part3. Section2 (author) David Hume
  5. “In every system of morality, which I have hitherto met with, I have always remark’d, that the author proceeds for some time in the ordinary ways of reasoning, and establishes the being of a God, or makes observations concerning human affairs; when all of a sudden I am surpriz’d to find, that instead of the usual copulations of propositions, is, and is not, I meet with no proposition that is not connected with an ought, or an ought not. This change is imperceptible; but is however, of the last consequence. For as this ought, or ought not, expresses some new relation or affirmation, ‘tis necessary that it shou’d be observ’d and explain’d; and at the same time that a reason should be given; for what seems altogether inconceivable, how this new relation can be a deduction from others, which are entirely different from it. But as authors do not commonly use this precaution, I shall presume to recommend it to the readers; and am persuaded, that this small attention wou’d subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason.” A Treatise of Human Nature, Book3. Part1. Section1 (author) David Hume
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  2 コメント

  1. いつも素晴らしい記事ばかりで、たのしく勉強させていただいております。
    今回、この部分について質問があります。

    >私は、結合が必然的であることは、因果関係であるための必要条件ではなくて、因果関係ではなくなるための十分条件であると考えている。

    この部分は「二つの事象が必然的であった場合、それは一括りの事象であり、因果関係ではなくなる」ということですよね?

    なるほど。「ある事象(テレビがつく)と、それに内包される他の事象(電源がつく)が、必然的な結合である場合は、もう一括りの事象にしちゃおうよ!」という考え方は、まぁ人の勝手ですし、すごく面白いです。

    しかし、今回の質問の余地はここにあります。
    すなわち、必然的な結合であっても、内包されない事象もあるのではないでしょうか?
    そして、内包できなければ、一括りにもできず、別の事象であり、よって「結合が必然的であることは、因果関係ではなくなるための十分条件である」ということにもならないように思います。いかがでしょうか?

    たしかに、「テレビがつく」の場合は「電源がつく」を内包しますから、一括りにしちゃっても問題ないです。が、たとえば、「卵を落とす」は「卵が割れる」を内包しませんよね。これらは全く別の事象であって、しかし、必然的な事象です。
    (地面がふにゃふにゃなら必ずしも割れないから必然じゃないじゃん。というのであれば、地面も固いし、重力もあるし、のようにとにかく必ず割れる前提をします。)
    このように、必然的な結合だけど内包しないというケースを考えれば、「必然的な結合が因果関係をなくす」ということはないように思うのですが、いかがでしょうか?

  2. たとえば、「卵を落とす」は「卵が割れる」を内包しませんよね。これらは全く別の事象であって、しかし、必然的な事象です。(地面がふにゃふにゃなら必ずしも割れないから必然じゃないじゃん。というのであれば、地面も固いし、重力もあるし、のようにとにかく必ず割れる前提をします。)

    卵を水中に落としても、よほどの高さからでない限り、割れません。条件付きでなら、必ず割れる場合を想定することもできますが、条件付きなら、その条件以外では、落としても落ちない場合があるということであり、それなら、二つの出来事を概念的に区別し、両者を因果関係で結び付けることは有意味であるということになります。

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