ガリレオの力学はどこまで独創的だったのか

2018年2月1日

ガリレオは、アリストテレスの解釈ばかりをしていた中世のスコラ学者とは異なり、実験と観察を行うことで、古典力学の基礎となる力学法則を独自に発見したとかつて思われていた。たしかに、ガリレオは、自分をそのように見せようとしていたのだが、実際には、ガリレオによる落体の法則の発見は、14世紀のスコラ学者であるマートン学派が発見したマートン規則やオレームによるこの規則の応用によって御膳立てされていた。彼らはガリレオとは異なり、たんに思想実験をしただけで実証実験を行ったわけではなかったが、そもそも、ガリレオから始まるとされる十七世紀科学革命とは、力学と天文学の分野におけるアリストテレス=トマス・パラダイムからプラトン=アルキメデス・パラダイムへの転換であり、プラトン=アルキメデス・パラダイムのイデア先行的な考えからすれば、たんに数学的な思考実験しかしなかったからといって、マートン学派やオレームがこのパラダイム転換の先駆者ではなかったとは言えない。

1 : 十七世紀科学革命は中世との断絶から起きたのか

ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei; 1564 – 1642)は、コペルニクス(Nicolaus Copernicus; 1473 – 1543)、ケプラー(Johannes Kepler; 1571 – 1630)、ニュートン(Isaac Newton; 1642 – 1727)とともに、十七世紀に物理学と天文学の分野で起きた科学革命の主要な担い手として認知されている。啓蒙主義の時代以降、十七世紀科学革命は、中世の知的停滞から突然変異的に起きたと考えられてきた。すなわち、これらの科学者たちは、過去の伝統や理論的先入観に縛られることなく、実験と観察によって発見された事実をありのままに受け取ることで、科学に革命的な変化をもたらしたと一般に信じられてきた。

1.1 : マッハ説対デュエム説

例えば、オーストリアの物理学者で、科学史家でもあるエルンスト・マッハ(Ernst Waldfried Joseph Wenzel Mach; 1838 – 1916)は、1883年に出版した『力学史』で、ガリレオは、斜面に球を転がす実験により、時間二乗則を発見したと主張した。マッハは実証主義者で、ガリレオは、落下運動の理論といったものを持ち出すことなく、むしろ何の先入見も持たずに落下運動の事実をありのままに研究し、確かめた[1]と書いている。要するに、何ら理論的な予見もなく、ただ実験により事実だけを発見し、それを記述したというのである。

時間二乗則とは、自由落下する物体の変位は時間の二乗に比例するという法則で、重力加速度を g (m/s2)、時間を T (s) とすると、鉛直方向の変位 S は、0.5gT2 であるから、S∝T2 は、力学の法則として正しい。問題は、ガリレオがこれを実験と観察から独自に発見したのかどうかである。マッハはそう認識していたのだが、フランスの物理学者にして科学史家のピエール・デュエム(Pierre Maurice Marie Duhem; 1861 – 1916)は、1913年に出版した『レオナルド・ダ・ビンチ研究』の第三巻『ガリレオのパリにおける先駆者たち』で、14世紀のパリのスコラ学者、ニコル・オレーム(Nicole Oresme; ca. 1323 – 1382)をガリレオの、否それどころか十七世紀科学革命の先駆者として位置付けた。

ニコル・オレームは、アリストテレス学派的な自然学に反して、地球の自転の可能性を支持するという点においてコペルニクスを先取りしただけでなく、二次元または三次元の直交座標で幾何学的な表象を行い、直線を定式化したという点においてデカルトを先取りしただけでなく、さらに通常はガリレオに帰せられるある発見を行った。すなわち、一様に変化する運動を行う運動体が走破する距離が時間とともに増えていくときに従うあの法則を発見したのである。[2]

コペルニクスの地動説とデカルト座標については、それぞれ別ページで取り上げているので、ここでは「一様に変化する運動を行う運動体が走破する距離が時間とともに増えていくときに従うあの法則」、すなわち、平均速度定理(Mean Speed Theorem)について取り上げよう。

1.2 : マートン学派とオレーム

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Fig.01. オレーム(左図)とガリレオ(右図)[3]

平均速度定理は、マートン学派が発見した規則ということで、マートン規則(Merton rule)とも呼ばれている。マートン学派(the Merton School)とは、トーマス・ブラドワディーン(Thomas Bradwardine; ca. 1290 – 1349)、ウィリアム・ヘイティスベリ(William Heytesbury; ca. 1313 – 1372/1373)、ジョン・ダンブルトン(John Dumbleton; ca.1310 – ca. 1349)、リチャード・スワインズヘッド(Richard Swineshead; fl. c. 1340 – 1354)といった十四世紀の前半にオックスフォード大学のマートン・カレッジ(Merton College)に所属した数学者たちで、オックスフォードの計算家たち(Oxford Calculators)と呼ばれていた。マートン規則は、1335年頃のウィリアム・ヘイティスベリの著作『難問解決の諸規則 (Regulae solvendi sophismata)』において初めて登場する。

オレームは、マートン学派の分類を受け継ぎ、運動の性質を「一様な性質 (qualitas uniformis)」、「一様に非一様な性質 (qualitas uniformiter difformis)」、「非一様に非一様な性質 (qualitas difformiter difformis)」の三つに分類した。現在の用語を用いるなら、一番目は等速度運動、二番目は等加速度運動、三番目はそれ以外の運動に相当する。そして、マートン規則に従うのは、一様に非一様な運動、すなわち等加速度運動である。

オックスフォードの計算家たちが運動を算術的に計算していただけであったのに対して、オレームは、それを直交座標に近いダイアグラムとして幾何学的に視覚化した。すなわち、オレームは性質を外延と内包に区別し、外延量(extensio)を横軸(longitudo)に、内包量(intensio)を縦軸(latitudo)にとり、外延の各地点におけるそれぞれの内包の度合いを高さで示す図形化 (configuratio 布置)を考案した。その図形の横軸を時間、縦軸を速度、面積を距離と解釈するなら、それは今日の力学においても採用されている解析幾何学的な方法である。以下の図(Fig.02)は、オレームの著作の1ページのコピーであるが、様々な性質を図形化したダイアグラムが描かれていることがわかる。

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Fig.02. オレームの著書に描かれた、様々な性質を図形化したダイアグラム。[4]

1.3 : オレームによるマートン規則の解釈

オレームは、1350年頃に書かれたと推定される著作『性質と運動の布置に関する論考』において、平均速度定理をすべての性質は、もしもそれが一様に非一様であるならば、それと同一あるいは等しい基体の中点の度合いにおいて一様である基体の性質と同じ量である[5]と定式化しているが、これだけでは何のことかよくわからないので、これを以下のオレーム式のダイアグラム(Fig.03)で説明しよう。

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Fig.03. 平均速度定理を説明するオレーム式ダイアグラム

このダイアグラムの横軸を時間、縦軸を速度(速さと言ってもここでは同じ)と解釈すると、直線 OB は、初速がゼロの等加速度運動の時間と速度の関係を表していることになる。時点 A における距離(時間×速度)は、三角形 OAB の面積に等しく、そしてその面積は、青色の四角形 OACD の面積に等しい。つまり時間 OA において、等加速度運動で走破した距離は、速度 MN で等速度運動した時に走破する距離に等しい。速度 MN は、中間(mean)時点 M における速度であると同時に、平均(mean)速度でもあり、よってこの定理は、平均速度定理と呼ばれるのである。

速さが時間に比例するという事実から、距離が速さの二乗に比例するという時間二乗則を容易に導出することができる。オレームはまた、「一様に非一様な質」の増分が奇数列をなすという奇数列則をも証明した[6]。時間二乗則と時間二乗則から導かれる奇数列則は、後にガリレオによって再発見されるのだが、果たしてオレームはその再発見にどの程度貢献したのだろうか。

2 : ガリレオはオレームの理論を知っていたのか

ガリレオといえば、物体が落下するのに要する時間が物体の質量によらないことを示すために、ピサの斜塔の頂上から重い球と軽い球を同時に落とし、両者が同時に着地するところを見せる実験を行ったという逸話が、通俗的な伝記の類で定番のように取り上げられるが、ガリレオがこうした実験を行ったことを示す証拠は何もない。重いものほど速く落下するというアリストテレスの理論の否定は、紀元前の文献[7] に既にみられ、実験による実証は、1586年にシモン・ステヴィン(Simon Stevin; 1548 – 1620)によって最初に公刊されており[8]、仮にガリレオがそのような実験を行っていたとしても、ガリレオにはプライオリティはない。

一般的に言って、学問的業績は、ビッグネームの学者に集中的に帰せられて後世に伝えられることが多い。学者は、有名な学者の有名な文献なら、権威づけのために好んで引用するものだが、学者や文献が無名であればあるほど、たとえそこから影響を受けていたとしても、その出典を明記しないという傾向がある。一般の読者は、通常、有名な学者の有名な文献しか読まず、出典が明記されていない場合、そこに書かれていることはすべてその学者の独創によると思い込む。その結果、独創性の名誉が、無名学者から著名学者へと集約されるという現象が起きる。平均速度定理に関しても、ガリレオへの集約化現象の一つと言えないかどうかが本稿の主題である。

2.1 : ガリレオにおけるマートン規則

ガリレオは、1638年に出版した『新科学対話』で、平均速度定理と同じような定理を述べている。

ある距離が、静止からの一様加速運動により、運動体によって通過される時間は、同じ運動体によってその同じ距離が、その速さの度合いが先の一様加速運動の最大かつ最終の速さの度合いの半分であるような均等運動で通過される時間に等しい。[9]

同じように見えるが、違いもある。マートン学派やオレームでは中点の速度での等速度運動が、ガリレオでは最終速度の半分の等速度運動が使われていた。オレーム式ダイアグラム(Fig.03)で説明するなら、三角形 OAB の面積は、「最大かつ最終の速さ」に相当する OA の半分を高さとする長方形の面積 OACD と等しいというという内容になる。ガリレオが定式化した定理は、初速がゼロで、加速度が正でなければ成り立たないが、マートン学派やオレームが定式化した定理は、初速がゼロでなくても、加速度が負でも使えるのだから、普遍性という点で優れている。だが、ガリレオが定式化した定理には、実験によって検証が可能であるというメリットがある。中間時点での速度は、当時の技術水準では計測不可能であるが、最終速度は、等速直線運動への変換により測定可能である。

1632年に出版した『天文対話』では、これよりもさらに実験によって検証可能な倍距離則という形で定式化されている。倍距離則とは、もしもボールが斜面を転がり下りた後、平面上で転がり続けるなら、すなわちもしボールが加速も減速もせずに同じ度合いで一様に動き続けるならば、斜面に沿ってやって来たのと同じだけの時間に、それは斜面の二倍の長さを通過するだろう[10]というものである。オレーム式ダイアグラム(Fig.MR)で説明するなら、OA を高さとする長方形の面積 OABE は三角形 OAB の面積の倍となるという内容になる。ガリレオの時代には、ストップ・ウォッチはなかったが、水時計を使って時間を測定することができた。ボールが斜面を転がり落ちるまでに流れ出る水の量と斜面の距離の二倍ある平面を走破する間に流れ出る水の量が同じであることが確認されれば、倍距離則は実証されることになる。

2.2 : オリジナリティに固執したガリレオ

では、ガリレオは、マートン学派やオレームのことは知らずに、実験によって自力で倍距離則を発見したのだろうか。これに関しては、歴史家の間で意見が分かれており、今なお論争の的となっている。日本の科学史家、高橋憲一は、1604年にガリレオがヴェネティアの神学者、パオロ・サルピ(Fra Paolo Sarpi; 1552 – 1623)に宛てた手紙を根拠に、その影響を否定する。ガリレオは、この手紙の中で、以下のように述べている。

私によって観察された運動に関する事柄の諸性質を論証するために、公理として置くことができるような全く疑いえない原理が私には欠けていましたが、熟考の結果、きわめて自然で明白な命題に私は導かれました。そしてこの命題を仮定することによって他のことを、すなわち自然運動によって通過される距離の比は時間の二倍比になることや、その結果等しい時間のうちに通過される距離の比は単位から始まる奇数の比に等しいことなどを私は証明しました。そしてその原理とは、自然運動をする運動体はその運動の出発点から移動した距離の比に従って速さを増し続けるというものです。[11]

ここに出てくる「時間の二倍比 (proporzione doppia dei tempi)」とは、現代で謂う所の時間の二乗比(S∝T2)のことである。ガリレオは、自由落下における時間二乗則を論証するため、距離が速さに比例する(v∝S)という命題を提案している。もしこの命題が正しいなら、v∝S∝T2 より、速さは時間の二乗に比例することになり、一様に非一様な運動において速さが時間に比例すると考えたオレームの説に反することになる。高橋は、それを根拠に、この手紙を書いた時点でガリレオがマートン規則やオレームの説を知っていた可能性はゼロに近いと言う。

オレームは「一様に非一様な運動」として (v∝T) を取り上げていたから、「マートン規則」を使えば、 (S∝T2) がすぐ得られることになる。ガリレオがサルピ宛て書簡で誤った原理 (v∝S) に捉われていたこと、およびそこから脱却するのに苦闘したことが、全く無用で不可解なこととなってしまう[12]

この高橋の議論には、飛躍がある。人は、正しい説に接したからといって、必ずしもそれを受け入れるとは限らないからだ。ガリレオは、惑星が楕円運動するというケプラーの説を知ったが、その受け入れを拒否し、すべての天体は完全な円運動をするという伝統的な謬説を信じ続けた。潮汐を地動説の根拠とするガリレオの説が間違いであることは、当時から指摘されていたが、ガリレオはそうした批判を受け入れようとはしなかった。マートン規則やオレームの説を知りながら、その受け入れを拒否し、距離が速さに比例するという自分のオリジナルな謬見に固執したということは十分ありうることなのである。

ガリレオがマートン規則やオレームの説を知っていたことを示す文献上の証拠がある。ガリレオ全集の編集者ファーヴァロ(Favaro)が『青年時代の著作[13]』と名付けた遺稿には、ヘイティスベリの名前、オックスフォードの計算家たち、平均速度定理への言及があり、「一様に非一様な (uniformiter difformis)」性質や「パリの博士たち (Doctores Parisienses)」といった表現も見出される。その内容から判断して「パリの博士たち」の中には、今日の物理学における慣性に近いインペトゥス(impetus)の理論を展開したジャン・ビュリダン(Jean Buridan; 1295 – 1358)のみならず、その弟子のオレームが入っていたことは確実である。ビュリダンやオレームの説は、その後、アルベルトゥス・デ・サクソニア Albert of Saxony(Albertus de Saxonia; ca. 1320 – 1390)やドミンゴ・デ・ソト(Domingo de Soto; 1494 – 1560)などによって広められていたのだから、ガリレオがそれらを知っていたとしてもなんら不自然ではない。

但し、この遺稿は、ガリレオの手によって書かれたとはいえ、ピサ大学在学中の 1584 年にフランチェスコ・ボナミチ(Francesco Buonamici)が行った講義をそのまま写したものと推定されており、ガリレオが納得して書いたものではないという点に注意しなければならない。このころ、ガリレオは、大学で教えられていたスコラ学に飽き足らず、タルターリア(Niccolò Tartaglia; 1500‐57)がイタリア語に翻訳したエウクレイデス(Εὐκλείδης; ユークリッド)の『原論』やアルキメデス(Ἀρχιμήδης; c. 287 BC – c. 212 BC)の著作を大学の外で学び、それに傾倒し始め、1585年には、ピサ大学を退学している。その後のガリレオの著作を見れば、彼がアリストテレス学派のスコラ学者を軽蔑し、敵対視していたことは明らかであり、だからこそ、大学で習った「パリの博士たち」の説も全面的に受け入れる気にならなかったのだろう。そして、このスコラ学者に対する軽蔑と敵対視が、落体の法則をめぐるガリレオの謎を解く鍵となる。

ここで、もう一度、サルピ宛て書簡を読み直してみよう。時間二乗則、すなわち「自然運動によって通過される距離の比は時間の二倍比になること」と奇数列則、すなわち「等しい時間のうちに通過される距離の比は単位から始まる奇数の比に等しいこと」は既知の事実として前提されている。ガリレオは、これらを「私によって観察された運動に関する事柄の諸性質」と言っているが、ガリレオはこれらを検証するための実験を行ったことが手稿 107v[14] からわかっている。この手稿は、サルピ宛て書簡よりも前に書かれたと推測されるが、その際、ガリレオはプライオリティ確保のためにその成果を速報する手紙や論文を書いていない。これは、時間二乗則も奇数列則も、オリジナリティを主張できるような発見ではなかったことをガリレオが自覚していたことを示している。

サルピ宛て書簡を読めば分かるように、ガリレオがオリジナリティを主張していたのは、速さが距離に比例する (v∝S) という原理から時間二乗則と奇数列則を論証することである。時間二乗則(S∝T2)を前提とするなら、このガリレオの原理(v∝S)は、オレームの原理(v∝T⇔v2∝S)に明白に反する。だから、もしもサルピ宛て書簡で表明した試みに成功するなら、ガリレオはオレームを乗り越えた運動論を樹立したことになる。そこで、サルピ宛て書簡が書かれた1604年以降、ガリレオは運動論の研究に力を入れ始める。

2.3 : 間違いの発見から訂正へ

ガリレオが、自分の原理(v∝S)の間違いに気が付き始めたのは、以下の手稿 116v を書いた時期と推定される 1609年の初期の頃である。

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Fig.04. v∝S と v2∝S のどちらが正しいかを決定する実験に関する1609年初期の頃のガリレオの手稿(一部)。テーブルから放物線を描いて落下するボールの軌跡が複数描かれている。[15]

この手稿において、ガリレオは、v∝S と v2∝S のどちらが正しいかを決定する実験を行っている。すなわち、斜面の高さを変えることで、テーブルから水平方向に飛び出す球の速さを変え、それに応じて、テーブルからどれだけ遠くに着地したかを測定した。その結果、v∝S よりも v2∝S で計算した方が、実験結果との差が小さかった。自分の仮説よりも200年以上前のスコラ学者の仮説の方が正しいというこの屈辱的な結果は、ガリレオには受け入れがたいものであったに違いない。測定結果に誤差が含まれていると考えたのか、測定値を微修正することで、v∝S に合致させようと工作している跡がこの手稿に残っているのだが、それはうまくいかなかった。

たぶんこの行き詰まりで、ガリレオは運動論の研究に嫌気がさしたのだろう。ガリレオは、1609年頃を境に、運動論研究を中断し、天文学研究に転向した。ガリレオは、1609年から望遠鏡を製作し、天体観測を行った。その成果は実り多いものだった。ガリレオは木星の衛星を発見するなど、多くの天文学的な発見を成し遂げ、その成果は、『星界の報告』として、1610年に出版された。この本は大変な評判となり、その年、ガリレオは、ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命された。ガリレオは、しかしながら、この時点では、まだオリジナルな原理(v∝S)に基づくオリジナルな運動論研究の完成を断念していなかった。トスカーナ大公に自分を売り込むために 1610年に書いた手紙の中で、たくさんの研究計画の中の一つとして、新しい第一原理に基づく新しい運動論研究を挙げている[16] からである。

順調だったガリレオの天文学研究もやがて挫折する。と言っても、今度は学問的な挫折ではなくて、宗教的弾圧による挫折である。1616年に、ガリレオは一回目となる異端審問を受け、ローマ教皇庁検邪聖省から、地動説を唱えないように注意を受けた。その結果、ガリレオは、天文学的研究を中断し、短期的に運動論研究に戻ることとなった。ガリレオは、1616年頃から、パドヴァ時代の運動論の手稿をアリゲッティ (Niccolò Arrighetti) とグィドゥッチ (Mario Guiducci) という二人の助手に依頼して整理させ、1618年に清書原稿を仕上げさせた。ところが、1618年にさそり座に三つの彗星が出現し、天文学への関心が再び生じ、それとともに天文学の論争に再び巻き込まれていく。

1632年に、ガリレオが『天文対話(プトレマイオス及びコペルニクスの世界二大体系に関する対話)』を出版した背景にはこうした事情があった。この本は、タイトルが示すように、主題は天文学なのだが、運動論研究の成果もついでに披露されている。オレームの正しい原理(v∝T)により倍距離則を証明したのも、この著作が初めてである。ガリレオが、なぜオリジナルな原理(v∝S)を放棄することを決心したのか不明であるが、この本の主題は倍距離則ではなく、倍距離則の証明で独創性を示せなくても、他の分野、例えば、相対性原理などで独創性を示せるようになるなど、独創性のストックに余裕が出てきたことが最大のきっかけではないだろうか。

1638年に出版した『新科学対話』では、さらに余裕が感じられる。ガリレオは、この本の中で、中間速度定理をオレームの定式に近い形で提示し、オレームが証明した奇数列則を、オレーム的な幾何学的説明で証明している。奇数列則とは、自由落下する物体の一定時間ごとの落下距離は、奇数比をなすという法則で、これは今の数学なら、時間二乗則から代数学的に簡単に導くことができる。

kn^{2}=k\sum_{x=1}^{n}(2x-1)=k+3k+5k+...+k(2n-1)

だが、ガリレオは、以下のような図を描いて、幾何学的に奇数列則を証明している。

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Fig.05. ガリレオによる奇数列則の証明[17]

この図のうち、『新科学対話』に掲載されているのは (1) であるのだが、これだけではよくわからないので、(1) を (2) と (3) に分解してみた。(2) において、時間が A から O に向かって流れ、各時点における速さが水平方向の長さで表されるとするなら、自由落下では、v∝T であるから、両者の関係は (2) のような三角形 APO になる。合同な三角形 ABC、三角形 BFG、三角形 FPQ にオレーム式の等積変形を行うと、(3) のように、面積比が 1:3:5… と奇数比の数列になる。

こうした証明方法にオレームの影響を明確に見て取れるのだが、ガリレオは、アルキメデスの名を最大の賛辞とともに挙げることはあっても、オレームの名を出すことは一度もなかった。ガリレオとしては、アリストテレス派のスコラ学者の功績を認めるようなことはしたくなかったのだろう。オレームは時間軸を右向きに、速さの軸を上向きにとった。この軸の取り方は自然であり、現代の物理学もこれを踏襲しているが、ガリレオは、時間軸を下向きに、速さの軸を左向きにとった。こうした不自然な軸の選び方にも、あえてオレームとの違いを出そうとしたガリレオの工夫を見て取ることができる。高橋憲一は、ガリレオとオレームでは軸の取り方が異なっていることを、オレームから影響を受けていないことの根拠の一つとして挙げている[18]が、そういう解釈をすれば、ガリレオの思う壺にはまったことになる。いずれにせよ、この違いは影響関係を否定するほど本質的な違いではない。

オレームは、アリストテレス派のスコラ学者と一般に思われている。たしかに、オレームはアリストテレスの解釈も行ったし、ガリレオのようにスコラ学に対して批判的でなかったから、そうした認識は必ずしも間違いではないが、クラーゲットが指摘するように、オレームは、1269年にムールベクのウィレム(Willem van Moerbeke)がギリシャ語からラテン語に翻訳したアルキメデス著作集から大きな影響を受けていた[19]。実際、物理現象を幾何学的・定量的に分析しようとする姿勢や無限級数による求積計算などは、アルキメデスからの影響としか説明ができない。この点においても、オレームは、ガリレオの、さらに言えば、十七世紀科学革命の先駆者であった。

3 : オレームはたんに知的遊戯をしたにすぎないのか

オレームの公式とガリレオの公式が等値であることを認めた上で、オレームを物理学者として認めようとしない人もいる。例えば、日本の科学史家、山本義隆は、ガリレオとオレームの違いを以下のように説明する。

ガリレオが先行するパリのスコラ学者たちと決定的に異なっているのは、その公式そのものでもなければその導き方でもなく、ちがいは彼がその公式に与えた身分であった。すなわちガリレオがその公式を現実の物体の運動を表すもの、それゆえ実験的に検証可能でかつ実験と測定で検証されるべきものと理解していたのにたいして、スコラ学者のものは現実の自然とは無関係な仮想の議論、つまり知的なエクササイズでしかなかった。オレーム自身、質の強度を表す直線が想像上のものだとはっきり断っている。そしてスコラ学者は実験はもとより何らかの測定すらおこなっていない。[20]

たしかに、オレームは「想像に基づいて (secundum imaginationem)」議論を行っていたにすぎない。オレームは、『Le Livre du ciel et du monde (天と地の書)』において、地球の日周運動(自転)を否定することができない論拠を延々と述べた後で、地球の自転を事実としては否定し、自転説を擁護したのは気晴らしとして[21]であると言っている。山本は、これを根拠に、オレームの自然学に関する議論はたんなる知的なエクササイズにすぎないと評しているのである。

3.1 : オレームが置かれていた宗教的環境

だが、当時オレームがいたパリの宗教的環境を考慮に入れるならば、オレームのそうした表現を字義通りに受け取るべきではないということに気が付くはずだ。1270年に、パリの司教、エティエンヌ・タンピエ(Etienne Tempier)は、世俗的哲学の13の命題を断罪し、さらに、1277年には、パリ大学出身だったヨハネス21世(Ioannes XXI; 1215 – 1277)の要請を受けて、世俗的哲学の219の命題を断罪し、どれ一つに違反しても破門にするという決議を行った。この断罪決議は、パリの地域を超えて、14世紀まで強い影響力を持った。後にカトリック教会公認の理論となるトマス・アクイナスの哲学まで、彼の死後、異端の嫌疑を掛けられた。結局、師のアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus; ca. 1193 – 1280)がパリにまで来てトマスの弁護をしたことで、破門を免れることができたものの、このエピソードは、この時代のパリがいかに宗教的寛容に欠けていたかを物語っている。

オレームは、『Le Livre du ciel et du monde (天と地の書)』の内容から判断すると、地球が実際に自転していると考えていたと推定できるが、そうした『聖書』に反する異端的な説を唱えることは危険なことであった。だからこそ、オレームは結論において地動説を否定し、地動説を支持する議論は「気晴らしとして」行ったにすぎないと保身のため書かざるを得なかったのである。平均速度定理についても同じであり、実在する自然の定理として主張すると、異端の疑いをかけられるからこそ、想像上の話ということにしてあるのである。ガリレオも、異端の疑いをかけられることを避けるために、地動説をたんに可能なだけの仮説にすぎないように見せかけるカムフラージュを行っていたのだから、この点でも、オレームとガリレオの差はそれほど大きくはないのである。

3.2 : 思考実験は科学において無価値なのか

マートン学派やオレームが、実験や観察を行うことなく、思考実験だけで理論を作ったのに対し、ガリレオは、スコラ学的な机上の空論を排し、実験や観察を行ったからこそ、そうしたスコラ学者たちとは異なって、十七世紀科学革命の先駆者の名に値すると思っている人は今でも多いが、こうした経験主義的な認識は、十七世紀科学革命の本質に対する誤解に基づいている。アレクサンドル・コイレ(Alexandre Koyré; 1892 – 1964)が、1939年に出版した『Etudes galiléennes (ガリレオ研究)』で提示した解釈には行き過ぎがあるにしても、ガリレオには、プラトン主義者として側面が強いことは確かである。コペルニクスが地動説を唱えたのも、ネオプラトニズムの影響であった。アリストテレスが経験主義的であったのに対して、プラトン、エウクレイデス、アルキメデスといったギリシャの思想的系譜は、イデア先行の合理主義的傾向が強い。そして、十七世紀科学革命が、中世において支配的であったアリストテレス=トマス・パラダイムからプラトン=アルキメデス・パラダイムへのパラダイム転換であることを理解するなら、思考実験だけで理論を作ったことを理由に、マートン学派やオレームが十七世紀科学革命の先駆者であることを否定することはできないということがわかるであろう。

ガリレオは、『新科学対話』で、サルヴィアーティの口を通して、その原因を通して獲得された一つの結果についての知識は、実験を繰り返すことなく他の諸結果の理解と確証へと導いてくれるのです[22]と言っている。砲弾の射程を最大にするには仰角を半直角にするべきであり、その原因がわかっている者は、半直角から等しい角だけ超過もしくは不足しても、同じだけ射程が短くなるといったことを、実際に撃って実験し、観察するまでもなく、論証できるというのである。たしかに、初速を v0、半直角からの偏角を θ とすると、射程 S は、現代の表記法を用いるなら、

S=\frac{v_{0}^{2}}{g} cos2\theta

となり、θ=0 の時に射程 S が最大となることがわかるだけでなく、θ が正でも負でも射程 S が同じであることがわかる。実験でこれを確かめようとしても、空気抵抗や様々な攪乱要因のせいで精確な測定結果が得られるとは限らない。また、θ に無限に多くの数値を代入して実験することもできない。さらに根本的な問題として、ガリレオが言う通り、実験して観察するだけで、その結果の理論的必然性がわかっていないなら、それ以上の応用ができないという欠陥が経験主義的な方法にはある。

3.3 : 十七世紀科学革命の本質

今でもそうだが、科学者は、ランダムに実験と観察を繰り返しながら、帰納法的に法則を抽出するという手法を取らない。まずは数学などの理念的な方法で理論を組み立て、実験と観察はその理論を検証するという事後的な役割しか果たさない。だから、オレームが思考実験で作った理論的仮説を後にガリレオが実験で検証したという順番は、決して不自然ではないのである。

科学においては、数学的なモデルが予想する値と実験結果との間にわずかな違いがあっても、それは実験に伴う誤差とみなされ、数学的モデルの完全性を損なうものとはみなされない。こうした科学者の態度の背景にあるのは、自然は数学的な秩序に支配されているという確信である。その確信は、ガリレオの『贋金鑑識官』にある以下の有名な件に表明されている。

哲学は、眼の前に絶えず開かれているこの最も巨大な書物(すなわち、宇宙)の中に書かれている。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばない限り、その書物を理解することができない。その書物は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学的図形であって、これらの手段がなければ、人間の力では、その言葉を理解できない。それなしには、暗い迷宮を虚しくさまようだけである。[23]

ここに出てくる「哲学 (la filosofia)」は、今日の自然科学に相当する。この文章は、近代的な科学観を表明した名言として、よく引用されるのだが、ガリレオのこの考えは、西洋の思想において初めて出てきたものではなく、その起源は、世界を数学的とみなしたピタゴラス学派にまで遡る。ピタゴラス学派による数学重視の哲学は、イデア界の実在性を説くプラトンに影響を与え、プラトンの影響下でエウクレイデスの『原論』が成立し、『原論』に代表されるギリシャ幾何学を発展させ、それを静力学に応用したのがアルキメデスであった。アルキメデスの著作は、オレームとガリレオに影響を与え、ギリシャ幾何学が動力学に応用された。十七世紀科学革命の最終的な到達地点である、ニュートンの『プリンキピア』の幾何学的な微積分学は、アルキメデスの幾何学的な解析と求積の継承とみなすことができる。だから、十七世紀科学革命は、力学と天文学の分野におけるアリストテレス=トマス・パラダイムからプラトン=アルキメデス・パラダイムへの転換であり、啓蒙主義の時代以降忘れられたとはいえ、マートン学派やオレームはそのパラダイム転換の先駆けであったと評することができるのである。

4 : 参照

  1. “Galilei nicht etwa eine Theorie der Fallbewegung gegeben, sondern vielmehr das Thatsächliche der Fallbewegung vorurtheilslos untersucht und constatirt hat” Die Mechanik in ihrer Entwickelung: historisch-kritisch dargestellt (author) Ernst Mach (page) 128
  2. “Non seulement Nicole Oresme a devancé Copernic en soutenant contre la Physique péripatéticienne la possibilité du mouvement diurne de la Terre; non seulement il a précédé Descartes en faisant usage de représentations géométriques obtenues a l’aide de coordonnées rectangulaires à deux ou à trois dimensions, et en établissant l’équation de la ligne droite; il a encore fait une découverte que l’on attribue communément à Galilée: il a reconnu la loi suivant laquelle croît, avec le temps, la longueur parcourue par un mobile qu’entraîne un mouvement uniformément varié” Les précurseurs parisiens de Galilée, Études sur Léonard de Vinci, Troisième série (author) Pierre Duhem (page) 388-389
  3. Miniature of Nicole Oresmes (media) Traité de l’espere, Bibliothèque Nationale, Paris, France, fonds français 565, fol. 1r.; Portrait of Galileo Galilei (author) Justus Sustermans.
  4. Tractatus de latitudinibus formarum.
  5. “Omnis qualitas, si fueri uniformiter difformis, ipsa est tanta quanta foret qualitas eiusdem subiecti vel equalis uniformis secundum gradum puncti medii eiusdem subiecti” Tractatus de configurationibus qualitatum et motuum (author) Nicole Oresme (media) Nicole Oresme and the Medieval Geometry of Qualities and Motions (editor) Marshall Clagett (page) 408
  6. Quaestiones super geometriam Euclidis (author) Nicole Oresme (media) Nicole Oresme and the Medieval Geometry of Qualities and Motions (editor) Marshall Clagett (page) 560
  7. De Rerum Natura, Liber Secundus, line 225 – 229 (author) Titus Lucretius Carus
  8. De Beghinselen des Waterwichts, Anhang (author) Simon Stevin
  9. “Tempus in quo aliquod spatium a mobili conficitur latione ex quiete uniformiter accelerata, est aequale tempori in quo idem spatium conficeretur ab eodem mobili motu aequabili delato, cuius velocitatis gradus subduplus sit ad summum et ultimum gradum velocitatis prioris motus uniformiter accelerati.” Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attinenti alla mecanica ed i movimenti locali (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 8 (page) 208
  10. “che quando ella continuasse di muoversi con questo medesimo grado uniformemente, cioè senza accelerarsi o ritardarsi, in altrettanto tempo in quanto è venuta per il piano inclinato passerebbe uno spazio lungo il doppio del piano inclinato” Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo tolemaico e copernicano (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 7 (page) 52
  11. “Ripensando circa le cose del moto, nelle quali, per dimostrare li accidenti da me osservati, mi mancava principio totalmente indubitabile da poter porlo per assioma, mi son ridotto ad una proposizione la quale ha molto del naturale et dell’evidente; et questa supposta, dimostro poi il resto, cioè gli spazii passati dal moto naturale esser in proporzione doppia dei tempi, et per conseguenza gli spazii passati in tempi eguali esser come i numeri impari ab unitate, et le altre cose. Et il principio è questo: che il mobile naturale vadia crescendo di velocità con quella proporzione che si discosta dal principio del suo moto” La lettera di Galileo a Paolo Sarpi del 16 ottobre 1604 (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 10 (page) 115
  12. ガリレオの迷宮 (page) 86 (author) 高橋憲一
  13. Iuvenilia (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 1 (page) 7-177
  14. Electronic representation of Galilei’s notes on motion, folio 107v (media) Max-Planck-Institut für Wissenschaftsgeschichte
  15. Electronic representation of Galilei’s notes on motion, folio 116v (media) Max-Planck-Institut für Wissenschaftsgeschichte.
  16. La lettera di Galileo a Belisario Vinta in Firenze del 7 maggio 1610 (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 10 (page) 350-351
  17. Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno à due nuove scienze attinenti alla mecanica ed i movimenti locali.” Two New Sciences.
  18. ガリレオの迷宮 (page) 312 (author) 高橋憲一
  19. Archimedes in the Middle Ages: The Fate of the Medieval Archimedes (part) 3 (author) Marshall Clagett
  20. 一六世紀文化革命 2 (page) 700-701 (author) 山本義隆
  21. “par esbatement” The Compatibility of the Earth’s Diurnal Rotation with Astronomical Phenomena and Terrestrial Physics (author) Nicole Oresme (media) A Sourcebook in Medieval Science (page) 504, 510 (editor) Edward Grant
  22. “la cognizione d’un solo effetto acquistata per le sue cause ci apre l’intelletto a ‘ntendere ed assicurarci d’altri effetti senza bisogno di ricorrere alle esperienze” Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attinenti alla mecanica ed i movimenti locali (media) Le opere di Galileo Galilei Vol. 8 (page) 296
  23. “La filosofia è scritta in questo grandissimo libro che continuamente ci sta aperto innanzi a gli occhi (io dico l’universo), ma non si può intendere se prima non s’impara a intender la lingua, e conoscer i caratteri, ne’ quali è scritto. Egli è scritto in lingua matematica, e i caratteri son triangoli, cerchi, ed altre figure geometriche, senza i quali mezi è impossibile a intenderne umanamente parola; senza questi è un aggirarsi vanamente per un oscuro laberinto.” Il Saggiatore (section) 6 (author) Galileo Galilei