フロイトの精神分析入門講義
なぜ、私たちの心はしばしば病むのか。フロイトの『精神分析入門講義』を読みながら、考えよう。この本は、一般向けに書かれた入門書で、内容は深くないが、フロイトの理論全体を概観するには都合の良い本である。この本を読めば、神経症の本質がよく理解できる。

1. フロイトの無意識論
デカルト以来、近代のヨーロッパの学問は自己意識を重視してきた。しかし、フロイトによれば、無意識の欲望を無視して、すべてを意識で説明しようとする限り、神経症や精神病の本当の原因はわからない。

フロイトは無意識に語り掛けるため、患者との対面は避け、患者をソファーに横たわらせて、その傍らで分析を行った。
1.1. 心が病むとはどういうことか
心の病気には、器質性のものもあれば、心因性のものもある。フロイトによれば、彼が精神分析学の対象にしている後者の病気は、願望を意識的・現実的に実現しようとするのではなくて、無意識的・象徴的に実現しようとすることから発症する。
願望の無意識的・象徴的実現の最もありふれていて軽微なものとして、錯誤行為と夢を挙げることができる。『精神分析入門講義』は、冒頭でこの二つの日常的現象を扱っている。これらは、超自我による統制が緩んだ時に、無意識が成せる業である。錯誤行為や夢と神経症との間には程度の差しかない。フロイトは、精神分析学者が夢を研究する意義について、こう言っている。
夢の研究は、神経症の研究にとって最良の準備というだけではない。夢それ自身がまた神経症的な症状であり、しかもその症状は、すべての健常者においても表れるという点で、私たちにとって、測り知れない利点を持っている。[2]
神経症と精神病は同じではない。一般に、神経症は、異常な症状ではあるが、自分の異常性に気がついており、自分の異常性に気がつかない精神病とは異なるとされている。神経症者は、自分で医者に行くが、精神病患者はそうではない。
神経症は原抑圧(象徴的去勢)の不完全性から起き、精神病は、原抑圧の解除から起きる。神経症に悩む患者が、反乱軍の鎮圧に手を焼く国王だとするならば、精神病患者は、反乱軍に乗っ取られた国と言うことができる。
ラカン的な表現を使うなら、象徴的去勢(castration symbolique)によって想像的対象に向かう欲望は断ち切られ、その対象はシニフィアンにすり替えられてしまう。原抑圧(Urverdrängung, refoulement originaire)の解除、すなわち象徴的去勢(castration symbolique)の失敗により排除されたものの回帰が起こり、この回帰が精神病の諸症状を形作る。
この世で叶わぬ願望をあの世で実現させようとして、あるいは自分で実現させることができない願望を超越的な他者に実現してもらおうとする宗教の信者は、精神病患者と同じということになる。本人は、自分が異常とは感じておらず、むしろ、無神論者のほうが異常で、病的と信じている。
そもそも病気とは何だろうか。病気とは、放置すれば、生きていくことが不可能もしくは困難になる心身の状態のことであると私は考えている。願望を持ち、それを実現しようとすることは、病気どころか、生きていくうえで必要な、つまり健康な行為である。願望が実現できないなら、実現できる代替物を探すことが健康な選択である。願望を夢の中で実現し、そして夢と現実の区別がつかなくなると、生きていくことが不可能もしくは困難になるから、それを病気と呼ぶのである。
精神病患者とは、組織で譬えると、社長がイエスマンに囲まれていて、悪い情報がトップに上がってこない会社のようなもので、社長は、経営が順風満帆であることに満足しているが、知らないうちに、会社は破滅に向かっていく。
こうした精神病の例からも明らかなように、健康とは、快を感じることで、病気とは苦を感じることであるという区別は成り立たない。麻薬を吸って、一時的に快を感じたとしても、それは長期的に見れば、私たちの生存を脅かすから、健康的とは逆の状態なのである。
1.2. 神経症はなぜ起きるのか
フロイトは、生前から、何でも性で説明しすぎていると非難されていたが、彼自身は、次のように、自説が汎性欲論でないと弁明している。
精神分析は、性的でない欲動が存在することを決して忘れたことがない。精神分析は、自我欲動と性的欲動との区別に基づいていて、あらゆる反論に抗して、神経症は、性から生まれるのではなくて、その起源を自我と性の葛藤に負っていると主張してきた。[3]
フロイトは、性欲と食欲が生物の二大欲求であると考えているので、「性的でない欲動」とは食欲のことであると解釈できる。フロイトの用語リビドー(Libido)も、飢え(Hunger)に対応する概念として案出された。
試験勉強をするために、恋人とのデートを断るかどうか悩むなら、それは自我欲動と性的欲動の葛藤と言うことができるだろう。しかし、性的欲求不満が、常に自我欲動を優先するために起きるとは限らない。仮に、私たちが食べる必要のない、食欲がない存在だとしても、容姿が悪くて、性的欲望を満たせない人が存在しうることは容易に想像できる。
欲望充足の断念は、常に他の欲望の優先が原因である。しかし、欲望を満たせないことは、必ずしも他の欲望の優先が原因ではない。だから、神経症の原因は、欲望を満たせないことではなくて、欲望充足の断念だとフロイトは言いたいのかもしれない。もしも、性欲以外の欲望がないのなら、性欲充足を断念することはない。他にすることがなくなるからだ。他にすることがあるからこそ、性欲を断念しなければならない場合がでてくる。そして性欲を現実に満たす代わりに、空想で満たそうとするわけだ。
1.3. 自我は三人の暴君に仕えているのか
『精神分析学入門』は、1915~17年にウィーン大学で行われた講義であるが、その後1932年に、続編が書かれた。続編には、有名な三人の暴君の話が出てくる。
同時に二君に仕えることなかれという諺がある。哀れな自我はもっと大変である。三人の厳しい主人に仕え、彼らの注文と要求を調和させることの骨を折っている。これらの注文はばらばらで、しばしばまとめることが不可能であるように見える。自我がしばしばその課題をこなすことに失敗したとしても、驚くに値しない。三人の暴君とは、外界、超自我、エスのことである。[4]
エスとは、無意識の欲望のことである。性欲だけでなく、食欲も含まれる。なぜなら、フロイトの時代のドイツ語では、「私は空腹だ」は“Es hungert mich.”というように、Esを主語にするからだ[5]。ただ、性欲とは異なって、その欲望の言明があまり検閲されることがないというだけである。
外界、超自我、エスの三つを、自我が仕えるべき暴君として同列に扱うのは、適切ではない。外界を物理的環境とするならば、社会的環境への適応を司るのが超自我だということができる。三人の暴君に仕えるということは、自我たちが自分たちのエスと他者のエスの要求をどのように外界で実現するかで苦労しているということである。
フロイトは、神経症が、性欲とそれ以外の欲望との葛藤から生まれると考えていたが、「三人の暴君」説では、自我のエスどうしの葛藤よりも、他我のエスとの葛藤や外界での実現困難さが取り上げられている。こちらの方が、神経症の説明として適切なのではないか。
超自我は、男根期での去勢不安を契機に、父を模範に形成されるので、次に、去勢について考えてみよう。
2. フロイトの去勢論
去勢とは、男性の場合、睾丸を摘出して、生殖不能な状態とすることであるが、精神分析では、これとは異なる意味で使われる。それは、象徴的に陰茎を切断することで、母子相姦を禁止することである。
2.1. 去勢は何のために行われるのか
フロイトによると、自分のペニスをいじくっている男の子は、父親から「そんなことをしていると、おちんちんを切っちゃうぞ」と脅かされ、去勢不安に悩まされる。私たちの社会では、実際に去勢が行われることはないが、フロイトは、かつてこの習慣があったと想像していた。
太古の時代、人類の家族においては、嫉妬深く残酷な父親によって、成長した少年に実際に去勢が行われていたと私たちは推測する。未開人たちの間で、成人式の一環としてしばしば成される割礼は、去勢の名残をよくとどめている。[6]
割礼は、典型的な父権宗教であるユダヤ教の習慣である。フロイトは、ユダヤ人だから、そのことを知らないはずはない。もしかすると、フロイトは無神論者だから、宗教的なものはすべて未開だと思っているのかもしれない。しかし、同じ宗教でも、割礼を行う父権宗教とエロティシィズムを全面的に肯定する母権宗教は区別されるべきである。割礼は、地母神と人の間にあるへその緒を切断するきわめて父権的なイニシエーションである。
子供は、胎内にいるとき、へその緒(臍帯)で母とつながっている。このへその緒が切れることで、子供ははじめて産まれるわけだが、膣から長く伸びたへその緒は、さながら母に生えたペニスのようだ。私は、去勢とは、本来、ペニスの生えた母(ファリック・マザー)の去勢であると考えている。それは、それによっていつまでも子が母に栄養を依存しているところのへその緒を切断することであり、母にとってのペニスである子を母から引き離し、自立させることである。去勢によって、子は母なるものへの依存という過去と決別することができる。
2.2. ペニスは胎内回帰のための橋である
フロイトは、Sandor Ferencz の説[7]に従って、橋を、両親の体をつなぐペニスの象徴であると考える。
そもそも男が羊水から世界に出てくることができるのが、ペニスのおかげである以上、橋は、あの世(まだ生まれていない存在、母胎)からこの世(生)への移行ということになる。人は死を母胎(羊水)への回帰として思い浮かべるので、橋は死への運搬という意味をも得る。[8]
日本語の「橋」は、「柱」と同様に、「走る」に由来する。柱(下に走る)は、さながら勃起したペニスのようである。父なる天から母なる大地に落ちる(下に走る)稲妻が、ペニスとしての柱のイメージである。これに対して、水平に海に流れ込む川は柱のイメージに近い。川は、母なる海に生えたペニスであり、ファリック・マザーの象徴である。父権宗教が川の神である蛇や竜を切断して退治するのは、ファリック・マザーを去勢するためである。
川の流れに身を任せると母なる海に回帰する。橋を渡ると、此岸から彼岸へと移行することができる。去勢の目的は、母のペニスである子供を母から切り離し、母に戻ることができないようにするところにある。すなわち「ニスの喪失は、母またはその代替物との再合一を不可能にするという結果をもたらす[9]」のである。
2.3. ヤクザはなぜ指を詰めるのか
指はしばしばペニスの代用となる。形が似ているし、ペニスの代わりに指が膣に突っ込まれることがある。指はペニスと同様に、胎内回帰のための橋である。だから、指を切り落とすことは、ペニスを切り落とすことと同様に、去勢であり、母胎との緒へその緒のつながり、過去のしがらみを切断することを意味する。
日本のヤクザが指を詰める習慣はよく知られている。法律では、指詰めが次のように説明されている。
暴力団員が、その所属する暴力団の統制に反する行為をしたことに対する謝罪又はその所属する暴力団からの脱退が容認されることの代償としてその他これらに類する趣旨で、その手指の全部又は一部を自ら切り落とすことをいう。[10]
ヤクザは、指のことを「えんこ」、指詰めのことを「えんこづめ」と呼ぶ。「えんこ」は「縁故」のことであろう。暴力団(母胎)との縁故を切るとき、過去の不祥事を反省し、過去のしがらみから自由になるとき、その決断の強さを示すために、やくざは指を切り落とす。
指詰めの習慣は、韓国にもある。以下は「ストレイツ・タイムズ」(2001年08月14日4面)からの引用である。
昨日20人の韓国の男性が、靖国神社に参拝するという日本の小泉純一郎首相の決定に対する公開の抗議で、小指の先を切り離した。[…]雨でびしょ漏れになりながら立ち、黒の服を着ていた男性たちは彼らの指の先を断ち切った。何人かは痛みでしかめつらをした。そして、彼らは、医師の助けでそれらの傷跡に包帯するのに韓国の国旗を使用した。[11]
竹島の日が制定された時にも、指を切る抗議活動が行われた。
二人は武術家団体会長の妻と息子で、同団体の約十人とともに大使館前で抗議活動をしていた。当初、その全員が「日本は独島を自分の領土だと主張する歴史ねつ造の妄動を続けている。小指を切って小泉純一郎首相に送る」と宣言して指を切ろうとしたが、警官隊が阻止。しかし、二人はすきを突いて調理包丁で指を切り、病院に運ばれた。[12]
指を切ることは、日韓国交断絶の要求を意味する。日韓の架け橋を切ってしまえということである。かつて韓国は、日本の一部だったわけだから、韓国にとって日本は、母なる国である。彼らは、その母なる日本へ回帰する道を絶とうとしていると解釈できる。
指詰めの起源がどこにあるのかわからない。太平洋諸島の原住民の間にも、日本のヤクザの指詰めとそっくりの習慣があるので、太平洋諸島が起源かもしれない。指詰め自体は特異な習慣かもしれないが、それが象徴していることは人類にとって普遍的な現象、すなわち去勢である。
3. リビドーの発達段階
性感帯は、口唇→肛門→性器と移動する。原始的な生物では、性器と肛門、さらには肛門と口唇の区別が曖昧であり、口唇や肛門で性的な快感を覚えるのは、原始的な段階の名残である。
3.1. 口唇期のリビドー
生後1年余りの、口が支配的な性感帯である時期。性行為の一環としてキスが行われるのは口唇期の名残である。口唇期は、前期と後期に下位区分される。前期では吸うことに、後期では噛むことに快を感じるようになる。これは、生後5ヶ月ぐらいで、乳児の摂食機能が、乳汁を吸うことから、食物をかみつぶして飲み込むことへと発達することに対応している。後期の口唇サディズム的段階は、次の肛門サディズム的段階へと引き継がれる。生後6ヶ月ぐらいから18ヶ月ぐらいまでに鏡像段階が始まる。
3.2. 肛門期のリビドー
生後2-3年の、排尿と排便に快を感じる時期。前期では、サディズム的で破壊的傾向が強く、後期では、対象を確保し、所有しようとする傾向が強い。特に自分の糞尿を、母への贈り物として意識する。かくして、母との鏡像関係において、贈り物と取引の経験始まる。
3.3. 男根期のリビドー
生後3-5年の、ペニスとクリトリスに関心が向かう時期。エディプス期始まる。男の子は去勢不安により、女の子はペニスコンプレックスにより、母から切り離される。
3.4. 潜伏期のリビドー
6~12歳ごろの学童期。日本では、小学校の時期に相当する。性的活動が沈静化し、男女とも、同性の友達と遊ぶことが多い。以前の記憶が失われるため、多くの人は、子供には、性欲がないと思ってしまう。
3.5. 性器期のリビドー
13歳以上の思春期。通常の性愛が始まる。健康な自我形成がなされていないと神経症になる。口唇期に欲求が不満なら、乳離れのできない甘えた性格になる。肛門期に欲求が不満なら、吝嗇で執念深い性格になり、男根期に去勢が十分成されていないと、パラノイア的な鏡像関係から抜け出せなくなる。
リビドーの諸段階は、完全に克服され、消滅することはない。人は、しばしば、以前の段階へ後退することで、神経症となる。神経症の患者は、満たされなかった欲望を象徴的に満たそうとして、奇妙な行為をする。そういう時は、原点に立ち返って、自分が本当は何を欲望しているのかを見つめ直さなければならない。心の病は、知ることによって治る病なのだから。
4. 参照情報
4.1. 関連著作
『精神分析入門講義』は、岩波書店版の全集では、第15巻に正編が、第21巻に続編が収められています。フィッシャー版ドイツ語全集では、それぞれ、第11巻と第15巻です。
- ジークムント・フロイト『精神分析入門講義』フロイト全集 第15巻. 岩波書店 (2012/5/30).
- ジークムント・フロイト『続・精神分析入門講義』フロイト全集 第21巻. 岩波書店 (2011/2/26).
『精神分析学入門』(正続)を安く手に入れたいなら、新潮文庫版がお薦めです。以下は、Kindle版の合本です。
- ジークムント・フロイト『精神分析入門』全2巻. 新潮社 (1977/2/1).
4.2. 注釈一覧
- ↑ROBERT HUFFSTUTTER. “A MOST FAMOUS SOFA: SIGMUND FREUD’S SOFA.” Taken on April 1, 2012. Licensed under CC-BY. Freud Museum.
- ↑“das Studium des Traumes ist nicht nur die beste Vorbereitung für das der Neurosen, der Traum selbst ist auch ein neurotisches Symptom, und zwar eines, das den für uns unschätsbaren Vorteil hat, bei allen Gesunden vorzukommen.” Sigmund Freud. “Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.11. p.79.
- ↑“Die Psychoanalyse hat nie vergessen, daß es auch nicht sexuelle Triebe gibt, sie hat sich auf der scharfen Sonderung der sexuellen Triebe von den Ich-trieben aufgebaut und vor jedem Einspruch behauptet, nicht daß die Neurosen aus der Sexualität hervorgehen, sondern daß sie dem Konflikt zwischen Ich und Sexualität ihren Ursprung danken.” Sigmund Freud. “Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.11. p.364.
- ↑“Ein Sprichwort warnt davor, gleichzeitig zwei Herren zu dienen. Das arme Ich hat es noch schwerer, es dient drei gestrengen Herren, ist bemüt, deren Ansprüche und Forderungen in Einklang miteinander zu bringen. Diese Ansprüche gehen immer auseinander, scheinen oft unvereinbar zu sein; kein Wunder, wenn das Ich so oft an seiner Aufgabe scheitert. Die drei Zwingherren sind die Außenwelt, das Über-Ich und das Es.” Sigmund Freud. “Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.15. p.84.
- ↑この表現は古風で、今日では“Ich habe Hunger.”あるいは“Ich bin hungrig.”という表現が用いられる。
- ↑“Wir vermuten, in den Urzieten der menschlichen Familie wurde die Kastration vom eifersüchtigen und grausamen Vater wirklich an den heranwachsen Knaben vollzogen, und die Beschneidung, die bei den Primitiven so häufig ein Bestandteil des Mannbarkeitsrituals ist, sei ein gut kenntlicher Rest von ihr.” Sigmund Freud. “Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.15. p.93.
- ↑Ferenczi, Sandor. “The symbolism of the bridge." International Journal of Psycho-Analysis 3 (1922): 163-168.
- ↑“Insoferne es dem mänlichen Glied zu verdanken ist, daß man überhaupt aus dem Geburtswasser zur Welt kann, wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterlieb (ins Wasser) vorstellt, bekommt die Brücke auch die Bedeutung einer Befördung in den Tod” Sigmund Freud. “Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.15. p.25.
- ↑“der Verlust des männlichen Gliedes hat ja die Unmöglichkeit einer Wiedervereinigung mit der Mutter oder dem Ersatz für sie im Sexualakt zur Folge.” Sigmund Freud. “Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse.” in Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.15. p.94.
- ↑『暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律』. 第二十条. 平成二六年六月二五日法律第七九号.
- ↑“Pinky cut in Korea”. 2001年8月14日.「ストレイツ・タイムズ」4面. AFP 電.
- ↑“「竹島」に抗議 小指切断 韓国の母と息子「小泉首相に送る」”. ソウル14日. 原田正隆. 『西日本新聞』. 2005.03.15.
ディスカッション
コメント一覧
去勢する必要性がわかりませんでした。
去勢とは、一つ上の次元へ上昇するための通過儀礼と捉えていいのでしょうか?
神話的な側面で蛇や竜を退治するという話に沿って教えてほしいです。(興味がある分野なので)
例えば、去勢という伝説的または英雄的行いによって、内外の安定した統治を達成する。
だから去勢が必要だ、という論理は分かるのです。
ですが、それをやったところですべての人が救われるとは限らないのでは、と苦心しています。
神話や伝説は人々の安定した統治を、物語は人々に正しいあり方の一端を提示します。
統治は軋轢や自由への渇望を生みますし、異端者も出てくると思います。
でもそれは、統治を達成するための去勢が、新たな母への退行を招いているとも見て取れます。
この循環がはがゆく感じてなりません。
去勢を続けた先が、ニーチェの言う「超人」なのでしょうか。去勢を続けた先にこの循環を抜け出す手がかりがあるのでしょうか。
去勢は役割を果たすための準備で、大小あれどすべての人が経験し、より大きな役割を果たすには去勢を続け純粋な人間への昇華を目指す。自分の役割がすべて理解できるところまで到達したなら、たとえすべての人達が問題を抱えてても、自分にできることはやり尽くしたから憂うことも悔いることもない。だから、去勢は必要なんだ。
去勢する必要性はこういうものと捉えていいのでしょうか?
蛇や竜は、その男根に似た形状からファリック・マザーのペニスとして表象されます。それは、あの世とこの世をつなぐ橋(柱)であり、胎内回帰願望(死への欲動)のよりどころであります。それを退治するということは、ペニスの切断ですから、去勢であり、胎内回帰願望(死への欲動)の断念なのです。「去勢が、新たな母への退行を招いている」ということはありません。
キリスト教による救済を考えてみてください。キリスト教自体は父権宗教ですが、その成立過程は母権宗教から父権宗教への移行を促すロジックになっています。詳しくは、「三位一体とは何か」をご覧ください。イエス・キリストというあの世とこの世をつなぐ橋が、イエスの処刑という形で切断される形で、三位一体による魂の救済が行われるのです。
ニーチェは、キリスト教の批判者で、キリスト教的な去勢を乗り越えようとしました。といっても去勢以前の母権宗教への退行を説いたのではありません。人の一生に喩えるなら、男根期以前に戻るのでもなく、去勢以降の学童期のように父に服従するのでもなく、父母から自立する思春期の青年のような自立を説いた哲学がニーチェの哲学です。ニーチェはキリスト教的な神を殺し、自ら神になろうとしたということです。