人はどのような知を求めるのか
私たちは、必ずしも役に立つ知だけを求めているのではない。一見すると何の役にも立たない知を求めることもある。しかし、これは人類の生存にとって不利には働かない。なぜなら、種の存続には、環境適応のみならず、変化適応も必要だからだ。「よく遊びよく学べ」とはよく言ったもので、前者は変化適応力を、後者は環境適応力を高めよという教えとして解釈することができる。環境適応にばかり力を入れてると、環境が変化した時、それに適応できなくなるから、バランスが必要だ。
1. 読者による問題提起:知識と知性とは何か
知識とは情報である。まずこれは理解頂けると思う。では、情報の中でどのような情報を特に知識と指すのかと言われれば、単に有用な情報であると言うのが私の定義である。ここまでは理解して頂きたい。では何に対して有用な情報かというと、生存に対して有用なものを知識としておく。理由は簡単である。例え生存以外に対して有用な知識があったとしても、その知識が生存に役に立たなかった場合、それを伝えるべき個体が死滅する可能性は、生存に対して有用な知識を持った個体よりも高いからである。要は、生存に対して必要な知識が最も残りやすいということである。正確には生存に対して必要な知識を持っていない個体が死に易いということであるが。
何が有用かは個体ごとに異なる。あるものは生存に必要な実利的なものを有用だと捉え、あるものは生存に必要では無い芸術的な何かを有用なものだと捉えるかもしれない。しかし、その個体ごとに何が有用かが異なるのでは、定義がひとつに定まらない。個々人にとって有用な情報が知識だ、と言ってしまえば、それはまるで役に立たない定義である。なにせ、「個々人にとって有用な情報」という表面上の定義が同じであっても、「個々人にとって」という時点で、人それぞれ定義は異なってしまうからだ。これでは何も定義していないのとさして変わらない。「個々人にとって有用な情報」という定義は、まるで変数Xの様である。変数Xは「変数X」という表面上の字面だけを見れば同じだが、その実その値は変数ゆえに定まっていない。個々人ごとに定義が変わる単語など、一体どれほどの意味があるのだろうか、なにしろ、その単語を使うにはまず相手にあなたにとって有用な情報はなんですかと聞かなければならない。言葉とはコミュニケーションの道具であり、そしてその道具は他の道具に漏れず使い勝手が良ければ良いほど良い。相手に相手が有用だと思っている情報をまず聞きださなければ使えない単語など、使い勝手が悪いにも程がある。
で、あるならば、知識とは「個々人にとって有用な情報」では無く、「誰にとっても有用な情報」であるべきだ。そして「誰にとっても有用な情報」とはすなわち、生きるもの全てにとって有用な情報である生存に対して必要な情報ということになる。生存に対して必要な情報を不要だと思うものはいない。生存に対して必要な情報を不要だと思うものは、生存に対して必要な情報を持っていないが故に早々に死ぬからだ。もちろん、生存に対して必要な情報を持っていないにも関わらず、運が良くて生きている者もいるかもしれないが、そういった少人数のものは、近年特に興隆している科学などにとっては誤差として切り捨てていい存在であるので、それに倣って特に考えないものとする。
さて、ではこの生存に対して有用な情報を知識とする、という定義を既存の知識という単語として定義すると、混乱が起こることになると思うので、とりあえずこの定義の知識を生知識と呼ぶことにする。そのまんまである。
では次に、知性とは何か。知性とは生知識を作り出す能力だとする。これを生知性と呼ぶことにする。この文章を読んでいる人の中には生知性に生知識を活用する能力という定義を加えなくていいのかと思う人もいるかもしれない。知識を活用するのはまさしく知性であろう。しかし、生知識の定義は(生存に対して有用な情報)である。何が言いたいかというと、そういった知識を活用して行動するのも実のところ、脳内の情報の演算の末に導き出されるものであるのだから、(生存に対して有用な情報)の定義の範囲内である。もちろん、実は生知性さえも生知識の定義の範囲内である。生知識の中で新しく生知識を作り出すことが出来る能力を特に生知性と呼ぶことにしたのである。これも定義が混乱するといけないので知性ではなく生知性という名前にしておいた。新しく生知識を作り出すことが出来る能力であるのだから、生知識生成能力とでも言い換えた方が良いかもしれない。長いが。
で、この生知識生成能力だが、なぜ生知識を生成することにのみ限定しているのかと言えば、この考えの元になった考えのひとつの現象をモデルにしているからである。モデルとしたのは「進化」である。生知識を新しく生み出し、より生存に有用な情報を手にするということは、その生物が進化して力を付けたのと遜色ないほどの偉業である。なぜなら、知性の無い本能に従う動物にとって、その動物の進歩は通常の進化しかありえなく、生まれた時点でその生涯の能力は格別変化することは無いからである。もちろん、大人になって筋力が強化されるだとかそういうことはあるだろうが、知の進化に比べればそれは微々たるものである。百獣の王ライオンだって、銃さえあれば子供でさえ殺すことが可能だろう。それだけ生知識を生成することは進化にも値する活動なのである。
科学はどこから来てどこへ行くのか、科学の起源と科学の最終目的について
において
秋刀魚刺身 さんが書きました:
生物ではこの有用な情報を手に入れるのに、まず突然変異で有用な情報の候補が手に入れられ、次に自然淘汰で選別されることにより有用な情報が進化という結果を残して維持されます。
と書いたが、生知識生成能力とはこの突然変異と自然淘汰を組み合わせた能力であると私は考えている。要は、進化そのものである。
つまり、生知識生成能力とは既存の生知識(突然変異する前の遺伝子に相当)を突然変異(既存の生知識を多少変異させる)て、その中で自然淘汰(生存率を上げる情報か否か)によって淘汰されて残ったものを新しい生知識として生成するという能力である。もちろん、これはまったくもって我々の実感している知性とは違うものである。この生知識生成能力の説明は、実際に脳内で起こっている思考や意識をなぞったものでは無く、結果だけを取り出したものであるからだ。要は、この結果を発生させる過程を丸きり省いて、結果のみからその過程の目的を推論したものであるからだ。実際には、突然変異は単純に時間によって思考が移ろい行くことに相当するだろうし、生存率を上げる情報か否かなどはその人の目的(どの目的も生存していなければ達成出来ないので、必然的に生存も目的となる)や、本能による判断、今までの経験から今後役に立ちそうかどうか、その他様々なことが複雑に重なって判断することになるのだろう。そういった判断の中にはしばしば生存率からは逸脱した判断も含まれることになるが、それは全体に比べれば小数である。なぜなら、それが大多数であるならばその人は生きてはいないからだ。
で、なぜ進化をモデルにしたのかというと、科学はどこから来てどこへ行くのか、科学の起源と科学の最終目的についてを呼んでもらえれば分かると思うが、私は知識、知性とは生存を求める生物がそのために力を求めることによって進化により顕現した力であると考えており、生物の進化と知識、知性の進化は連続したものとなっており、言うなれば生物の遺伝子による一般的な意味での進化がさらに進化したものが知識、知性の進化だと考えたからだ。故に、その進化の仕組み自体は既存の生物の進化とあまり違わないのではと考えたのだ。具体的には突然変異と自然淘汰だ。
既存の遺伝子の進化の仕組みは簡単である。まず、初めに既存の遺伝子がある。それが少し変異する。変異したもののうちより生存に対し有用な遺伝子が残る。この少し変異するというのが肝心なところである。もし、全て変異してしまったのならば、元の遺伝子を一切使用していないのと同じであり、一からの遺伝子作成となってしまう。これでは効率が悪い。次に、全く変化しないのであればそもそも進化したことにならない。それは複製である。故に、少しの変化なのだ。実際にどのくらいの割合で変化すればいいのかは分からないが、その率は少なくとも1未満0より上であろう。
ここで、私はひとつの提案をする。それは、上記の進化の仕組みから考えだされたものだ。そう、正直言って上記の仕組みはあてずっぽうである。既存の情報(遺伝子)を少しだけ変化させるという制限だけがあるが、言ってしまえばそれだけである。あとは、ただ突然変異するだけのあてずっぽうで、たまたま出来た高性能なものが自然淘汰によって選別されるというだけである。私は、知、それ自体も、本質的にはこの進化の仕組みと同じで、単なるあてずっぽうに過ぎないと考えたのだ。
ただ、私たちは自分の知性を通常ただのあてずっぽうだとは考えない。しかし、なぜ我々がそう思っていられるのかというと、過去培われた生知識のおかげである。生知識の定義は「生存に対して有用な情報」であるから、当然遺伝子もそれに含まれる。例えば、なんらかの本能でもってして危険を回避した人が居たとしよう。その人は、自らの本能に従って行動しただけであるが、けしてあてずっぽうの行動をしたとは考えないだろう。自らは、あてずっぽうではなく本能によって危険を察知してそれを回避したのだと考えるだろう。しかし、その本能自体があてずっぽうな進化によって生まれた遺伝子によって作り出されたものである。この様に、あてずっぽうに行動していないと考えている根拠となるもの自体が、そもそもあてずっぽうに作られたものである。先人から毒のあるキノコの見分け方を教わって、あてずっぽうにキノコを食べて死なないようにしている人が居たとしても、どうしてそのキノコに毒があるのか分かったかと言えば、先人がキノコをあてずっぽうに食べたからに他ならない。あてずっぽうにキノコを食べて調べるのではなく、化学の知識をもってしてそのキノコに毒があることを見抜いたのだとしたらどうだと思われるかもしれない。しかし、それは化学の知識をもってしてキノコに対して対処しているだけであって、その化学の知識は先人が時間と金を掛けて莫大な実験をあてずっぽうにし続けたからあるに過ぎない。では、とんでもない天才が居て、先人の知識に頼らずに正しい行動を取ったらどうかと思うかもしれない。しかし、知識というのは降って沸いてくる訳では無い、先人の知識に頼らずに正しい行動をとれるだけのその知恵の源泉はどこにあるのか探したとしたら、天才の名のとおり天賦の才、つまり生まれついてのものであるのだから、その生まれついての情報源というのは遺伝子しか無い。その天才は遺伝子によってプログラミングされた脳によって行動しているだけであり、だから、その天才もまたあてずっぽうの産物ということになる。
では、知性とはなんなのか。ただ、情報を変異させるだけならば大して労力は掛からないはずである。ここで、生知性の仕組みをまた見て見よう。
「既存の生知識(突然変異する前の遺伝子に相当)を突然変異(既存の生知識を多少変異させる)て、その中で自然淘汰(生存率を上げる情報か否か)」
つまり、既存の知識を呼び出し、それを類似するパターンへと変化させ、それを個人にとっての判断基準(個人にとってはバラバラだが、人類全体でみれば大体生存率を上げる情報か否かで判断することになる)によって選別することになる。ここで労力を必要とするのは判断する箇所であろう。
実のところ、この仕組みは少し実際とは違っている。話を単純化させるために変異のあと選別としたが、実際には変異させる前に無意識のうちに明らかに駄目なパターンは排除されて多少は役立ちそうな理論だけが意識に昇ることになるだろう。でなければ途方も無いほどのパターンに意識は押しつぶされてしまうだろう。
それで、この判断だが、この判断こそが生知性の行使する偉大な力である。先に言ったとおり、この判断は自然界の一般的な進化でいうならば自然淘汰に相当する。何が言いたいかというと、実際に行動を起こすことで自然淘汰を受けて選別するのではなく、脳内によって自然淘汰を代替するということだ。これはとても大きい長所である。なんでも、人の脳のエネルギー消費は電力にすれば数十W、人全体のエネルギーの20%ほどらしい。たったこれだけのエネルギー消費で、人は本来環境というとてつもない情報量の中で行われる自然淘汰の代替を行うことができる。もちろん、完璧では無い。科学が実験結果のあたりを付けてから、実際に実験して試す必要があるように、脳の自然淘汰代替はある程度の能力はあるが、完璧では無い。しかし、それで十分である。ほんのわずかでも自然淘汰を代替するだけでも、それは実際に自然淘汰を起こすことに比べれば一体どれほどの省エネであろうか。
突然変異と自然淘汰が進化を達成したとするならば、これを脳内で劣化といえども再現に成功したのが人間である。つまり、人は進化という力を他の生物より多く持っていることになる。通常の自然淘汰を、人間の外部環境が起こすことから外部環境進化と名づけるとしよう。そして、脳内で行われる進化は内部環境進化と呼ぶことにする。内部環境進化により進化するのは脳内で処理できるもの、すなわち情報である。内部環境進化が進化させるのは知識である。情報はその情報が保持さえされていれば多くのエネルギーを必要としない。ただ情報が識別さえできれば、情報としての役割は果たすのである。HDDが低電力で莫大な情報を保存でき、しかもそれは年々上昇していることから分かるように、小さいエネルギーで情報を扱う技術さえあれば、情報は処理できる。人の脳がそれより余程莫大な存在である自然淘汰を劣化といえど再現することが出来るのも、こういった情報の特性ゆえである。
言ってしまえば、内部環境進化とは外部環境進化から発生した進化の新しいパラダイムである。それは情報処理によって外部環境進化より余程少ないエネルギーで進化を達成することが出来る。知性とは進化そのものである。
また、総当りであることを簡単に説明する証明方法もある。仮に、知性が総当りで無いのだとしたら、その知性は一体どこから発生したものだ?ということである。総当りでなく、何か別の方法で新しい知識を見つけ出すことが出来るのだとしたら、ではなぜその知識を見つけ出すことが出来るのか?ということである。既存の知識を元に少しずつ新しい知識を見つけていくのなら納得は出来る。事実、そうして生命はここまで進化することが出来たのだから。だが、そうでは無く、それ以外の方法で、どうやって新しい知識を見つけ出すことが出来るのか。もし、ただ知性とやらだけで知識が無からさえ発生できるというのなら、それは最早たんなる超常現象では無いか。もちろん、既存の知識だって実は無から有が生まれたものである。そもそも生存に有用な最初の情報である遺伝子は生命の誕生という偶然によって生まれ、生命が誕生する前に生命は居なかったのだから、生命誕生は無から有の誕生である。そもそも宇宙誕生自体が無から有が生まれたものだという説もある。しかし、無からいきなり人間が生まれたりはしなかった。まず生命が生まれて、そこから大体40億年もの年月、進化を繰り返してようやく生まれたのである。理由は・・・そうでなければ確率的にありえないからである。これについて説明するのは私には少し難しいが、誰か先人の言葉で困難は分割せよというのがあった気がする。この言葉を借りるならば、いきなり人間を生み出すのは難易度が高すぎるのである。そういった困難は分割せねばならない。具体的には、生命の誕生から幾度もの断続的な進化を繰り返して、ようやく到達できるのである。ただ知性とやらだけで知識を無から発生させるというのは、そういう離れ業であり、確率を超越した超常現象なのである。
結論をまとめると。
知識とは生知識(生存に有用な情報)のことであり
知性とは生知性(生知識を産み出す生知識)であり
生知性の肝心な仕組みは進化の擬似再現であり
進化の擬似再現故に生知性は進化と同じくあてずっぽうなものであり
消費エネルギーの小ささゆえに生知性=内部環境進化は通常の進化=外部環境進化より効率が良く、進化の新しいパラダイムであり
その強大な進化の力こそが進化によって顕現した知の力である。
少々長くなりすぎたので文章に変なところがあるかもしれませんが、その時はお申し付け下さい。
以前フジテレビで「トリビアの泉〜素晴らしきムダ知識〜」という番組が放送されていました。番組冒頭に、アイザック・アシモフからの引用として掲げられていた「人間は無用な知識が増えることで快感を覚えることができる唯一の動物である」あるいは「この地球で“トリビア”を増やすことに喜びを感ずるのは人間のみである」は、実際にはアイザック・アシモフの発言ではないらしいが、それはともかくとして、ムダ知識しか紹介しない番組がなぜ視聴率20%を超える人気番組になったのでしょうか。
私たちは、知識を求める時、必ずしもそれが役にたつかどうかだけを基準とはしていません。役には立たないけれども面白い知識を求めることがあります。小説を読んだり、漫才を聞いたり、ドラマを見たりする人たちは、そこから得られる知識が生存の役に立つと思っているわけではありません。「西から昇ったお日様が東へ沈む」というアニメソングでおなじみの「天才バカボン」とか、役に立たないどころか、見ているだけで頭が悪くなりそうですが、たいへんな人気を博していました。
人々が役には立たないけれども面白い情報を求めているという事実をどう扱うかに関して、二つの方向があります。
- 生存には役には立たないと思える情報も、実際には役に立っているというように現状を追認する方向。
- そういう情報を求める事実があるからこそ、生存に役立つ情報を求めるべきだと当為命題にする方向。
どちらの方向を選びますか。
永井俊哉 さんが書きました:
- 生存には役には立たないと思える情報も、実際には役に立っているというように現状を追認する方向。
- そういう情報を求める事実があるからこそ、生存に役立つ情報を求めるべきだと当為命題にする方向。
どちらの方向を選びますか。
生存には役には立たないと思える情報も、実際には役に立っているというということもあるでしょうが、効率が悪いというのが私の感想です。私は効率がものごころ付いた時から大好きなので、あくまで生存を求めるだけならば後者の方に同意します。
が、私は安楽死についてで書いたように、そもそも生存単体に対して意味を見出していません。私は生存して、かつ幸福のときにのみ価値を見出すのであって、ただ生きているだけなら価値を見出せないのです。例えば、意識がなければ私にはゾウリムシだろうが脳死した人であろうが道端の石と同じ価値しかありません。葬式の概念が良く分からない子供でした。既に当人は死んでいるのに、弔っても意味など無いだろうという考えを持って、不思議に思いました。もちろん、道端の石ころよりもその精緻な構造から人体には生物学的な価値が発生しているのですが、それもまた「生」そのものの価値ではありません。
本文で、全ての生き物は生き物故に生存に対して有用な情報に価値を見出す。見出さないものは死ぬからのようなことを書きましたが、私は幸福に価値を見出しているから、その幸福の発生条件のひとつである生にも仕方なく価値を見出しているのであって、私個人は生存に対して格別思いを抱いているわけでもないのです。本文で、知識を生知識、つまり生存に有用な知識と限定しましたが、それも私の思想的な何かがあったのでは無く、知識というのは恐らく有用な情報を指し、万人にとって有用な情報といったら生存に関することしか無いかなと思ったから書いたのであって、そこに私の思想的なものは現れていません。幸福を万人にとって有用な情報かと考えもしましたが、そうなるとドラッグが今現在の様に必要以上に制限されていることに納得が生きません。ですから、生存としました。
というわけで、生存に幸福よりも価値を見出す一般的な価値観ならば後者を、幸福に価値を見出すものならば前者を選択すべきです。しかし、自然淘汰的に言って、生存に価値を見出したほうが生き残り易いので、必然的に多数派となります。そういった意味で、幸福派は不利でしょう。生存派は生存さえしていればいいので、不幸でも生き残ろうとします。が、幸福派は早々に自殺するでしょう。生存派よりも幸福派は生物的に弱いです。というか、だからこそ痛みといったものがあるのでしょう。痛みを持つのは不幸なことですが、不幸故に我々は生きているのです。最も、実は自殺というのは生物的に長所であるのかとも最近は思っていますが。自殺をするのは人間だけらしいとどこかで聞いたので、人間は他の生物よりそこそこ発達していますから、何かメリットがあっても不思議じゃありません。不幸というのは痛みと同じく、本来信号です。ストレスというのは危険を察知し、そして生活環境が自分にはそぐわないことを知らせ、そのそぐわない生活環境から逃避させることで生存率を高めるものです。しかし、人が世界のどこにも自分が逃避する場所が無いと思ったとき、死へと逃避することになります。しかし、遺伝子的に見ればこれは好ましいことです。環境に適応出来なかった生物的に劣等な遺伝子を子孫に残す前に本人が死んでくれるのですから。
また、幸福派でも、簡単に目の前の幸福のみに貪りつくのは将来性の無いことで娯楽は忌避すべきだという考えもできます。生存に必要の薄い知識に対して幸福を見出すのは生物学的にはバグです。それはバグ故にそれほど突飛なものは含まれて居ません。なぜなら、重大なバグを持つプログラムは自壊するからです。だから、バグは皆大なり小なりそれほど強烈な感情を呼び起こすことが出来るとは思いません。トリビアの泉の様に、何人も動員して番組を作りそのバグを突くことでようやく娯楽として成り立っているのです。バグを突くには限界があります。だから、単に幸福を目指すのなら強制的に脳内の物理状態を幸福に変えてしまう装置なりを作り、それを保全、発展させるための知の進歩はとっとと高性能な人工知能にでも譲り渡した方が効率的ですし、未来がそうなったらいいなと思っています。しかし、私のこういった考え方は基本的に世間から同意を得られないので、実現は薄いと考えています。まあ生存に価値を見出す多くの人が、通常の生から大きく離れたこういったことに同意できないのは自然な成り行きかもしれません。少し話しがそれますが、私はそれゆえに科学の発展とそれによる社会のさらなる発展を願っています。理由は簡単です。多くの人はドラッグなどの安直な快楽に価値を見出せませんが、社会と関わって複雑な手順で幸福を得ることには価値を見出しているようです。しかも、今の人は最早社会に関わらなければ生きていけません。人ならば誰でも社会に関わります。ならば、社会そのものを幸福を最大化させるシステムにすればいいと考えたのです。脳内の物理状態を幸福へと変化させる機械より酷く間接的ですが、社会自体が幸せなものとなれば人々も幸せになるでしょう。私は功利主義者です。
で、最後に結論ですが、私は功利主義者なので、幸福のことを何よりも第一に考えています。その幸福は現在から未来までの幸福を指しています。ということで、私は未来の幸福を阻害する(浪費によって身を滅ぼす、娯楽にかまけて勉強をしなく低い賃金を得る、など)ことが無い娯楽ならばそれを肯定し、将来の幸福を脅かすものがあれば、将来の幸福と今の幸福を天秤にかけて大きい方をとります。ということで、結論はケースバイケースとしか言えません。また、現在の幸福と未来の幸福の大小の差が付けられない場合は、感情にまかせて適当に決めればいいのではないでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
生存に必要の薄い知識に対して幸福を見出すのは生物学的にはバグです。
もしもそれがバグだとするなら、なぜ人類は、バグがあるにもかかわらず、生存に必要な行為だけを本能に基づいて行っている他のもっと完璧そうに見える生物種よりも繁栄しているのでしょうか。ムダ知識を聞いて「へぇ~」と言って喜ぶ特異な種が、淘汰されるどころか急激にその数を増やしているのはなぜなのでしょうか。
人類は、生存と直接関係のない娯楽に多くの資源を費やしている種で、そのため、オランダの歴史家ホイジンガは、通常「英知あるヒト(Homo sapiens)」と規定されている現生人類を「遊ぶヒト(Homo ludens)」と規定したぐらいです。人類の遊び好きは、しかしながら、人類を破滅に導くどころか、むしろ生存競争における人類の優位をもたらしたと私は考えています。
ここで、遊ぶことにより人はどのような能力を獲得しているのかを考えてみましょう。私たちは、スポーツをしたり、異国の土地を観光に訪れたり、小説、漫画、ドラマ等のフィクションで空想の世界を楽しんだりして遊びます。こうした遊びに特徴的なことは、仕事とは異なる世界を体験することです。つまり、人は、遊ぶことで、現状とは他のようでありうる可能性を作り出す能力を獲得するのです。
そして、この能力こそが、イノベーションという人類に特徴的な能力の基礎となっていると考えることができます。現状とは他のようでありうる諸可能性を想像する能力のない人は、新しいものを作ることはできません。秋刀魚刺身さんが大きな価値を見出している科学技術の進歩も、科学者や技術者に遊び心があってこそ初めて可能なのです。
一般的に言って、システムが存続し続けるためには、環境適応力と変化適応力という相反する二つの能力が必要です。「よく遊びよく学べ」とはよく言ったもので、前者は変化適応力を、後者は環境適応力を高めよという教えとして解釈することができます。環境適応にばかり力を入れてると、環境が変化した時、それに適応できなくなるから、バランスが必要ということです。
結局のところ、有限な認識能力しかない私たちは、どの知識が役にたつのか、それとも役にたたないのかを事前に確定することはできないので、さしあたり役に立ちそうにない知識にも好奇心を持つことには、二つの適応力を涵養するという点で合理性があります。初めから、役に立つことしかしないというように視野を狭く限定すると、これまで役に立っていたシステムがうまくいかなくなった時、困ってしまいます。普段から、遊びを通じて様々な可能性をシミュレーションをしている人の方が、そうした困難を克服しやすいのです。
『荘子(内篇)』の人間世に「無用の用」という言葉があります。一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていることで、遊びにも「無用の用」があると言うことができるでしょう。
これは「生存に必要の薄い知識」の定義の問題ですね。私は「生存に直接的に必要な知識」とは言っていません。よって、「生存に間接的に必要な知識」も、「生存に必要な知識」に入ります。
生物が存続し続けるために、環境適応力と変化適応力が必要ならば、前者は「生存に直接的に必要な知識」、後者は「生存に間接的に必要な知識」となるでしょう。この間接的に必要な知識が遊びだというのならば、確かに遊びは必要だということになります。
しかし、環境適応力は今の環境に適応すれば益が得られると確実性が高いのに対し、変化適応能力は来るかも分からない、来たとしてもどのように変化するのか分からないと、不確実性の高い投資です。そして、その不確実性を縮減するためには、知識をもってして未来を予想しなければなりません。正確な予想は無理でしょうが、ある程度は未来を予想することはできます。そして、この知識というのは遊びで得られるものではありません。遊び・・・変化適応能力を効率よくするためにも環境適応能力から派生した知識が必要なのです。
遊びも知識の一種だと言うことは出来ますが、それは古い知識の習得の仕方です。年々知識は効率的なものとなっていきますが、遊びは恐らく最古の知識習得の仕方で、確かに必要な場面もあるでしょうが、あまり重要視すべきものでも無いというのが私の考えです。
最も、これは私個人の考え方であって、他者に特に押し付けるものでもありません。人それぞれ違いがあるのですから。他者から見れば遊びに見えても、本人にとっては必要なものという想定は可能です。また、遊びは古い知識の習得方法ゆえに、人間に負担の少ない学習方法です。今の学習方法は、効率を追い求めるあまり原初の学習方法からかけ離れてきているため、ストレスが発生します。だから、それほど精神力の無い子供などはよく遊ばせた方がいいでしょう。
また、あまり重要視すべきでないと言ったのは他にも理由があります。簡単にいえば、遊びは楽しく、労働は辛いのが一般的なので、そもそも重要視しなくても多くの人は勝手に遊び始めるでしょう。わざわざ遊びは必要だと言わなくても、遊びは楽しいことなのですから勝手にやりはじめます。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
生存には役には立たないと思える情報も、実際には役に立っているというということもあるでしょうが、効率が悪いというのが私の感想です。
秋刀魚刺身さんが言おうとしていることは、この一文に集約されています。そして、そういう効率重視には大きな落とし穴があるというのが私の指摘なのです。ムダは無い方がよいに決まっていますが、問題は、何がムダで何が役にたつのかは事前にはわからず、事前にムダを省こうとすると、システムはイノベーションの能力を失って、発展しなくなるというところにあります。
市場経済が社会主義的統制経済よりも優位にあるのはなぜなのか、その理由を考えてください。市場経済は、よく効率重視と言われるけれども、それは局所最適化という点でそうなのであって、社会全体で見れば、同じものを複数の企業が投機的に競争しながら作っているのだから、同じものを一つの企業が計画的に作る社会主義的統制経済よりもその点では非効率で、売れ残った在庫を大量に処分しなければなくなるなど、ムダの多い経済です。でも、そうしたムダの許容がイノベーションを可能にしているのであり、逆に必要最小限のことしかしない社会主義的統制経済はなかなか発展しないものなのです。
科学者の後日談とかを読むと、予想外の失敗や研究室の外での偶然的な体験をヒントに画期的な発見やアイデアが得られるということが多いようです。もっともそういう発見や体験からもたらされるインスピレーションは、偶然の賜物ですから、万人向けに方法論として確立するということは困難です。画期的だった発見方法も、いったん方法として確立してしまうと、ルーティン化して、何も新しいものを生み出さなくなるものです。強いて陳腐化しない発見の方法というものがあるとするなら、それは、失敗やムダを恐れず、既存の因習にとらわれることなく、新しいことにチャレンジしろといった方法論というよりもむしろ精神論とでも言うべきものぐらいでしょう。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
正確な予想は無理でしょうが、ある程度は未来を予想することはできます。そして、この知識というのは遊びで得られるものではありません。遊び・・・変化適応能力を効率よくするためにも環境適応能力から派生した知識が必要なのです。
事前に予想されている変化への適応は環境適応の一種であって、変化適応とは異なります。私が言っている変化適応の能力とは、予想外の事態に適応する能力のことです。決定論は現代の物理学によって否定されており、未来を確実に予測することは原理的に不可能です。だから変化適応力は、すべての生命システムにとって必要な能力なのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
遊びは楽しく、労働は辛いのが一般的なので、そもそも重要視しなくても多くの人は勝手に遊び始めるでしょう。わざわざ遊びは必要だと言わなくても、遊びは楽しいことなのですから勝手にやりはじめます。
遊びにどのような意義があるかがわかるなら、「遊びをできるだけ減らせ」という当為が否定されるし、遊びを選ぶときにも、新しいわくわくするような体験ができる遊びを選ぼうとするようになるでしょうから、遊びの意義を知ることは無意味ではないのです。
永井俊哉 さんが書きました:
市場経済が社会主義的統制経済よりも優位にあるのはなぜなのか、その理由を考えてください。市場経済は、よく効率重視と言われるけれども、それは局所最適化という点でそうなのであって、社会全体で見れば、同じものを複数の企業が投機的に競争しながら作っているのだから、同じものを一つの企業が計画的に作る社会主義的統制経済よりもその点では非効率で、売れ残った在庫を大量に処分しなければなくなるなど、ムダの多い経済です。でも、そうしたムダの許容がイノベーションを可能にしているのであり、逆に必要最小限のことしかしない社会主義的統制経済はなかなか発展しないものなのです。
私はそうは思いません。社会主義的統制経済よりも市場経済が優位にあるのは認めますが、その優位性はムダから生ずるイノベーションでは無く、その仕組み自体が人の思考を集約させるものであるからだと考えています。社会主義的統制経済は統制の名の通り一部のものが経済を決定するものです。大して、市場経済では経済を決定するのもは全ての個人です。なぜ需要と供給の法則があるのか考えて見てください。需要と供給の法則は、自然界にもともと存在した物理法則のような絶対的な法則ではありません。それは人々が自由な売買の中で価格が決定されるものに法則を名づけているに過ぎません。「法則」が需要と供給の均衡点で価格を決定させるのではなく、利益を求めた「個人」が需要と供給の均衡点に価格を決定させるのです。この時、売買に関わる全ての人が自らの利益のために自らの頭を使って判断しています。この頭を使うというのは本来それ自体に価値を付けなければならないほど貴重なものなのです。経済は全ての個人と密接に関わっています。経済から離れて自給自足で生活している人などかなりの小人数でしょう。つまり、全国民を知らず知らずのうちに自らの利益のために知的労働につかせており、しかもそれを不快に感じさせないのが市場経済なのです。対して人口のうち政治に携わる人がどのくらいの割合なのか知りませんが、その人数は人口に比べてかなり少ないでしょう。そんな少人数で全国民の判断能力に適うわけがないのです。思考を知らず知らずのうちに集約するのが市場経済の最大の強みであって、イノベーションもあるかもしれませんが最大の要因はそれでは無いというのが一ヶ月前くらいに私が出したものです。
永井俊哉 さんが書きました:
科学者の後日談とかを読むと、予想外の失敗や研究室の外での偶然的な体験をヒントに画期的な発見やアイデアが得られるということが多いようです。もっともそういう発見や体験からもたらされるインスピレーションは、偶然の賜物ですから、万人向けに方法論として確立するということは困難です。画期的だった発見方法も、いったん方法として確立してしまうと、ルーティン化して、何も新しいものを生み出さなくなるものです。強いて陳腐化しない発見の方法というものがあるとするなら、それは、失敗やムダを恐れず、既存の因習にとらわれることなく、新しいことにチャレンジしろといった方法論というよりもむしろ精神論とでも言うべきものぐらいでしょう。
それは誰もが出来ることなのですか。偶然的な体験をヒントに画期的な発見やアイデアが得られるのならば、その機会は誰にでもあるはずです。しかし、誰もがそうではなく、限られた人しか出来ないからその科学者は称えられているのではないですか。だとしたら、それは本当に偶発的な体験だけが原因でしょうか。単に、結果を出せる科学者は勤務時間以外にも四六時中研究のことを考えているから、生活の中での偶発的な体験をヒントにすることが出来ただけという可能性はないのでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
事前に予想されている変化への適応は環境適応の一種であって、変化適応とは異なります。私が言っている変化適応の能力とは、予想外の事態に適応する能力のことです。決定論は現代の物理学によって否定されており、未来を確実に予測することは原理的に不可能です。だから変化適応力は、すべての生命システムにとって必要な能力なのです。
予想外の事態というのは予想外の名前通りあまり発生しないでしょう。そこまで気を使うべきでしょうか。というのも、今現在人類は70億人居ます。少人数ならともかく、これだけ人数が多いと気を使わなくても多様性はかなりあります。遊ぶことで、現状とは他のようでありうる可能性を探さなくても、その可能性は既に他人が持っているのでは無いですか。また、決定論が否定されているというのは確かミクロの世界での話で、マクロの世界でも決定論が否定されたとは覚えていないのですがどうでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
遊びにどのような意義があるかがわかるなら、「遊びをできるだけ減らせ」という当為が否定されるし、遊びを選ぶときにも、新しいわくわくするような体験ができる遊びを選ぼうとするようになるでしょうから、遊びの意義を知ることは無意味ではないのです。
「遊びをできるだけ減らせ」という当為があるからと言って、人々がそれに従うとは限りません。法律は破るなと言ったところで、犯罪者が居なくならないのと同じです。私は人の精神力が無限であるとは考えていません。昔は人は物理的には無限の力を出すことは出来ないが、精神的には無限の力を出すことが出来る。精神的に無限の力が出せないのは、精神的に無限の力が出せることに疑いを持っているからだと思っていましたが、結果としては精神は無限ではありませんでした。書くと長文になるので遠慮しますが、私は周囲の人にこのままでは殺されると思って冬山に篭った経験があります。正確にはこのままではストレスが掛かりすぎて私は早々に自殺してしまうことを考えたときにその原因となった周囲の人々に対してもしかして周囲に人々は私に対して少しずつストレスを掛けることで私を自殺させようとしているのかという妄想が悪化してでした。明らかに精神に不調をきたしていました。精神力は無限ではなかったのです。冬山で殺される殺されると頭の中で反芻され続けました。まあしばらくしたら落ち着いて戻ったのですが、すぐに精神科に掛かって薬を処方してもらいました。薬の効果を実感しながら、結局のところ精神だって物理状態じゃないか、薬で戻るというのは脳細胞に対して化学的アプローチをしているに過ぎず、化学は突き詰めれば物理学じゃないか、精神は物理的じゃないから無限だと考えていたけど、よく考えたら精神も物理現象でした。それからは人の精神力に特に私は期待していないのです。つまり何が言いたいかというと、わざわざ遊びのすばらしさを説いたところで、彼らはそもそも遊びなしで生きていけるほど高尚な精神など持っているものは少ないということです。それなのに遊びを推奨してどうするのでしょうか、私の予想では恐らく自堕落になって目先の利益しか考えなくなり今より状態が悪化します。人々は意識に勤労は善と考えていた方がが社会的には望ましいのです。わくわくするような体験だって遊びが好きな人なら勝手にし始めます。まあ問題としては極まれにいる凄く精神力の高い人が必要以上に肉体と精神を酷使し続ける可能性が無きにしもあらずなのですが、まあ少数派なのでしょうがないと言えばしょうがないでしょう。それに、精神は無限では無いので肉体的な限界を先に迎えない限り、その人は精神の限界に直面するはずです。そしたら私のように精神は無限だなどど驕ることをやめてほどほどに手を抜いて人生を楽しみはじめるでしょう。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
社会主義的統制経済よりも市場経済が優位にあるのは認めますが、その優位性はムダから生ずるイノベーションでは無く、その仕組み自体が人の思考を集約させるものであるからだと考えています。
たんに既存の需要を満たすだけなら、社会主義的な配給経済でもできます。消費者にアンケートを実施し、予約注文に応じれば、「人の思考を集約させた」ということになるでしょう。しかし、こうした経済システムでは目覚ましい発展は望めません。既存の需要を満たすだけの配給経済に対して、市場経済は、消費者が期待する以上の新商品や新サービスを提供し、新たな需要を掘り起こそうとします。既存の需要を満たすだけの場合よりもリスクが大きい、つまり失敗してムダが生じる可能性が高いのですが、それは冒すに値する危険なのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
それは誰もが出来ることなのですか。偶然的な体験をヒントに画期的な発見やアイデアが得られるのならば、その機会は誰にでもあるはずです。しかし、誰もがそうではなく、限られた人しか出来ないからその科学者は称えられているのではないですか。だとしたら、それは本当に偶発的な体験だけが原因でしょうか。単に、結果を出せる科学者は勤務時間以外にも四六時中研究のことを考えているから、生活の中での偶発的な体験をヒントにすることが出来ただけという可能性はないのでしょうか。
受験勉強のように、既存の知識を覚えるだけなら、勉強時間に比例した成果が得られるかもしれませんが、学問の世界で独創的な仕事をしようとするなら、基礎学力以上の能力が要求されるということです。「その機会は誰にでもあるはず」とありますが、機会があってもそれを生かす能力がなければいけません。そして、その能力は、専門的な研究だけをやっていて養われるものではありません。むしろ専門外の世界を遊ぶことで、想像力=創造力が養われるものだと思います。
ここのトピックは、「知識と知性とは何か」ですが、私は以前「知性とは何か」という記事を書いたことがありますので、その結論部分を引用しておきましょう。
ボスザルならぬボス教授が専制支配する閉鎖的な研究室で、狭い専門の殻に篭って研究を続けていても、新しい知のパラダイムは生まれない。アカデミズムの人たちは、「地道な研究をこつこつ続けていれば、必ず成果が現れる」とよく言うが、ネアンデルタール人や北朝鮮の人々がいくら重労働に励んでも、飢餓から抜け出すことができなかったように、視野が狭ければ、研究者は知的飢餓状態から抜け出すことはできない。私が、意図的に様々な領域の学問を取り上げ、知の新しいネットワーク化を目指しているのは、知性とはネットワークを創発させる能力だと認識しているからである。[2]
地道な研究をこつこつ続けることも大切ですが、それだけでは不十分ということです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
予想外の事態というのは予想外の名前通りあまり発生しないでしょう。そこまで気を使うべきでしょうか。というのも、今現在人類は70億人居ます。少人数ならともかく、これだけ人数が多いと気を使わなくても多様性はかなりあります。遊ぶことで、現状とは他のようでありうる可能性を探さなくても、その可能性は既に他人が持っているのでは無いですか。
「自分が死んでも他の誰かが生き延びるならそれでよい」と達観している人がどれぐらいいるのでしょうか。予想外のことが起きても、自分は生き延びたいと思うのが普通でしょう。だから、個人レベルでの変化適応力が必要なのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
決定論が否定されているというのは確かミクロの世界での話で、マクロの世界でも決定論が否定されたとは覚えていないのですがどうでしょうか。
マクロでも、決定論的に解を求めることができるのは、二体問題のような限定されたケースだけです。決定論的な規則に従いながらも、ミクロの不確定性をマクロの不確定性にしてしまうバタフライ効果というものもあります。だから、未来の確定的な予測はほとんどのケースで無理なのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
わざわざ遊びのすばらしさを説いたところで、彼らはそもそも遊びなしで生きていけるほど高尚な精神など持っているものは少ないということです。それなのに遊びを推奨してどうするのでしょうか、私の予想では恐らく自堕落になって目先の利益しか考えなくなり今より状態が悪化します。
ちょうど、仕事に有意義な仕事と無意味な仕事があるように、遊びにも有意義な遊びと無意味な遊びがあります。仕事の場合判定基準がはっきりしていますが、遊びの場合はそうではありません。だから、遊びの意義がどこにあるのかを知ることは重要なのです。
永井俊哉 さんが書きました:
「自分が死んでも他の誰かが生き延びるならそれでよい」と達観している人がどれぐらいいるのでしょうか。予想外のことが起きても、自分は生き延びたいと思うのが普通でしょう。だから、個人レベルでの変化適応力が必要なのです。
その発想は無かったです。指摘してくれてありがとうございました。確かに一番可愛いのは自分だけと良く言いますからね。まだ本能の割合が多かった子供のときはそういう思考をしていたと思うのですが、理性が発達してくると自分と他人の幸福になにか違いがあるのかと思い始めて、そういった思考は失くしていました。仮に自分が特別な存在だとしても、相手も自分が特別な存在だと思っている。だったら両者いたら打ち消しあって特に何も特別な存在じゃなくなってしまうんですよね。でもそれはあくまで「普通」な価値基準であって、正しいこととは限らないと思うんですよね。人間は各人が何かに特化することで、効率性を上げていますから、人それぞれがありようを探すより既にそのありようになっている他人を探した方が効率がいいです。それに、特化すればするほど自分ひとりでは無く、社会と関わらないと生きていけないから結果的には全員が協力的にならざるを得なくて良いことだと思うんですけどね。今、いきなりひとりで無人島に放り出されて生きていけるかと言われたら、大抵の人はすぐに死ぬでしょう。既に、人々は社会に関わらないと生きていけないのです。これは特化すればするほど顕著になります。個人個人が個性的になり、それだけで見れば他人と隔絶した存在になればなるほど、他人を頼らずには生きていけなくなって、結果的には手を取り合って生きていくことになるのですが。自分にメリットがある以上、他人を害するものは少なくなっていきますし。戦争を防ぐには、戦争となる可能性のある相手と経済的に繋がりをもつのが一番なんですよね。そういう意味でも特化することはいいことだと思うのですが。
永井俊哉 さんが書きました:
ちょうど、仕事に有意義な仕事と無意味な仕事があるように、遊びにも有意義な遊びと無意味な遊びがあります。仕事の場合判定基準がはっきりしていますが、遊びの場合はそうではありません。だから、遊びの意義がどこにあるのかを知ることは重要なのです。
意義のある遊びは楽しい仕事と同じではないのですか。遊びと仕事を分ける境目はなんでしょう。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
人間は各人が何かに特化することで、効率性を上げていますから、人それぞれがありようを探すより既にそのありようになっている他人を探した方が効率がいいです。それに、特化すればするほど自分ひとりでは無く、社会と関わらないと生きていけないから結果的には全員が協力的にならざるを得なくて良いことだと思うんですけどね。
個人が変化適応力を持たなければならないという主張は、社会的分業を否定することには全くなりません。時代の変化に伴って、それまで必要だった専門職の需要が減るあるいはまったくなくなるということがありえるのですから、専門的分業が今後ますます強まると仮定しても、各個人がつぶしがきくようにしておくという対応は必要なのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
意義のある遊びは楽しい仕事と同じではないのですか。遊びと仕事を分ける境目はなんでしょう。
仕事は、特定の目的を達成したかどうかによってその意義が評価されます。予定通り、あるいは予定以上に目的を達成するなら、それを楽しいと感じることもあるでしょう。これに対して、遊びは、それが今後どのような形で生存に役立つかということは考慮に入れることなく、新鮮でエキサイティングな体験ができたかどうかで評価されます。
2. 付録:科学の起源と科学の最終目的について
付録として、同じ秋刀魚刺身さんによる投稿「科学はどこから来てどこへ行くのか、科学の起源と科学の最終目的について」をめぐる私との議論を掲載します。
結論から申しますと、科学の起源は生命の起源と同一であり、科学の最終目的は全ての自然界の理解及び支配であると私は考えます。逐次説明します。
まず科学とは何であるか、ここでいう科学の定義とは全ての自然界の理解と支配を達成する情報、及びその一部であると考えている。私には前から科学の最終目的とは全ての自然界の理解と支配であると考えている。
なぜ全ての自然界の理解と支配が科学の最終目的なのか。実はこの最終目的には二つの側面がある。ひとつは純粋に知的好奇心としての最終目的としての側面、これが全ての自然界の理解である。そしてもうひとつは力を求めての側面。これが全ての自然界の支配である。科学はひとりによって生み出されるものではない。私は好奇心が強いほうであるから、前者の側面としての科学、つまり全ての自然界の理解を望んでいるが、科学に携わるのはもっと実用的なものを望むものも多い。であるから、後者の全ての自然界の支配というものも科学の最終目的として入れなければならない。と、考える。
では次に、なぜ科学の起源が生命の起源と同一であるのか。これは正式には後者の力を求めての側面における起源となる。生命は自然淘汰に抗える最初の生命が生まれてから、自然淘汰と突然変異を繰り返すというシミュレーションを経て、進化という結果を残しながら少しずつ力を伸ばしてきた。この、力というのがまさしく科学に他ならない。
科学は力を持つ。それは自然界を理解したことによる、知の力。知ることによる支配の力である。知ることによりそれを利用し、自然界を操作する力を持つ。自然界とは世界であるから、自然界を操作する力とは世界を操作する力である。科学は恐らく行使できる力の中で最も強い力である。これは近代科学文明の恩恵を受けている現代社会人にとっては今更説明する必要も無いと思われるが、純粋に力という観点で例を挙げれば、水爆あたりが妥当であろうか、水爆に立ち向かえる何かがあるだろうか。もちろん、いくら水爆であっても惑星を破壊するとかはできない。水爆に出来るのは表土を破壊するくらいである。しかし問題にしているのは行使できる力の中でもっとも強い力であるかどうかであるから、何者かが行使した力ではない惑星を破壊できなくても問題は無い。行使できない力に意味など無いのだから、それを考慮する必要は無いと言える。
科学が行使できる力の中で最も強い力であると仮定しよう。力とは目的を達成できる能力であるとする。生物は主に生存を目的として力を求める。そしてこの力は突然変異よって与えられ、自然淘汰によって選別される。しかし、行使できる力の中で最も強い力があるのならば、その力の方向に、進化の方向性は決定し、その力に向かって進化は進むはずである。結果として生物は科学を発展させる方向へと進化を進めることになる。その結果生まれたのが人間である。
一般に、人間が科学を生み出したとされる。だから科学の起源は普通に考えれば人間である。しかし、そもそもなぜ科学というものを生み出そうかということになったのか、その原因となったのは何かというと、力を求める生物たちである。最も、力を求めてそうなったのではないだろう。力を求めたのではなく、突然変異によって力があるものと無いものが生まれ、その内力があるものだけが自然淘汰によって生き残っただけであるのだから。
この文章を読んでいる人の中には、科学の起源を生命の起源にまで遡っておいて、そこまで遡るならばなぜ地球の起源だとか宇宙の起源にまで遡らないのかという疑問を持つものもいるかもしれない。正確には、科学の起源は生命の起源ではないからだ。前文の通り、生物は力を求めたのではなく、突然変異によって力があるものと無いものが生まれ、その内力があるものだけが自然淘汰によって生き残っただけであるのだから。つまり、科学を生み出す原因となったのは、生命ではなく、突然変異と自然淘汰だ。ただ、突然変異と自然淘汰は生命が生まれないと発生しない。自然淘汰に抗える最初の生命が生まれて、ようやく自然淘汰が発生し、そして自然淘汰が発生したことにより、突然変異が発生する。自然淘汰により突然変異が発生したというのはどういうことかというと、単純に、突然変異を起せない個体は進化を行えないから、進化の過程で淘汰されるということだ。DNAが完全に安定しきった物質ではなく、かといって完全に不安定な物質でもない微妙な性質を保っているのは、それ自身が自然淘汰により選別されたからに過ぎない。だから、科学の起源を辿ればそれは自然淘汰なのだ。そしてその自然淘汰が発生する条件が生命の誕生であるので、生命の起源が科学の起源ということになる。
こういう主張をするのであれば、「科学」という言葉は使わずに、「知」という言葉を使った方が適切であろうかと思います。「科学」という言葉は、語源的には「科目ごとの学」という意味であり、“science”の訳というよりも“discipline”あるいは“subject”の訳にふさわしい言葉です。そして、専門分化した学としての科学は、人類史においてすら近代になって初めて本格的に登場した特殊な知の形態でであって、生命全体に話を広げるのであるなら、使うのは不適切です。
これに対して、英語の“science”は、今日では、自然科学という狭い意味で使われるようになったものの、語源的には、ラテン語で「知る」を意味する“scire”に由来し、本来「知」と訳されるべき広い意味を持つ概念です。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
科学は力を持つ。それは自然界を理解したことによる、知の力。知ることによる支配の力である。知ることによりそれを利用し、自然界を操作する力を持つ。自然界とは世界であるから、自然界を操作する力とは世界を操作する力である。科学は恐らく行使できる力の中で最も強い力である。これは近代科学文明の恩恵を受けている現代社会人にとっては今更説明する必要も無いと思われるが、純粋に力という観点で例を挙げれば、水爆あたりが妥当であろうか、水爆に立ち向かえる何かがあるだろうか。
これは、フランシス・ベーコンと同じ考えですね。
Scientia et potentia humana in idem coincidunt, quia ignoratio causae destituit effectum.(人間の知と力は一致する。なぜなら、原因を知らなければ、結果を生み出すことができないからだ)[4]
フランシス・ベーコンは、16-17世紀の人物なので、“Scientia”は科学とは訳されません。「知は力なり」が定訳になっています。日本語の「知る」にも、「知事」という言葉にその痕跡が残っていることからわかるように、「支配する」という意味がかつて存在しました。技術は知を前提としており、両者の間には密接な関係があるとはいえ、知と技術は、テオリア(理論)とプラクシス(実践)の関係にあり、両者は概念的には区別するべきでしょう。
どのような生物も環境の変化に対応しようとするメカニズムを持つとはいえ、すべての生物に知と技術があるとは言えません。もちろん、これは言葉の定義にもよりますが、生得的な行動しかしない生物には意識がないでしょうから、そういう生物に知と技術があるというのは、慣例とは異なる言葉の使い方だと思います。
永井俊哉 さんが書きました:
こういう主張をするのであれば、「科学」という言葉は使わずに、「知」という言葉を使った方が適切であろうかと思います。
それは重々承知しているのですが、知の中でも今一番力を持っているのが科学であるので、科学を知の代表としようと思ったのです。まあこういうことをしようと思ったのは、これを投稿するにあたって、適切なフォーラムが特に見つからなかったので、(哲学は伝統的な認識論と存在論および哲学史に関する話題と注釈が付けられていたので、ここに投稿するのはちょっと場違いかなと思いました)既存の他のフォーラムの中に話題をねじこもうとして、無理やり科学関係の枠にはめこもうとした結果ですので、まあ不適切だというのなら知に変更します。
永井俊哉 さんが書きました:
どのような生物も環境の変化に対応しようとするメカニズムを持つとはいえ、すべての生物に知と技術があるとは言えません。もちろん、これは言葉の定義にもよりますが、生得的な行動しかしない生物には意識がないでしょうから、そういう生物に知と技術があるというのは、慣例とは異なる言葉の使い方だと思います
そのような生物にも、確かに意識は無いでしょうが、知に相当するものとして遺伝子が存在します。意識は知の必要条件ではありません。少し話しが飛びますが、私はコンピューターに意識が芽生えるとは思っていません。というか、芽生えさせてはいけないというのが正直なところですが・・・。おっと話がそれました。なにが言いたいかというと、私はコンピューターに意識を芽生えさせなくても、コンピューターが知的な活動をすることは可能だと考えています。強いAIの必要条件として、意識が芽生えることが条件にされますが、この意識が芽生えるというのは、正直言っていらないと思います。知というのは単に有用な情報のことであり、それを手に入れるのに特別意識が必要だとは思いません。知的な活動には意識が必要だという思い込みは、知的な存在であると思っている人間自身が意識を持っているから、おごり高ぶって他の知的存在にも意識が必要だと勝手に思っているだけではないでしょうか。生物ではこの有用な情報を手に入れるのに、まず突然変異で有用な情報の候補が手に入れられ、次に自然淘汰で選別されることにより有用な情報が進化という結果を残して維持されます。このように、有用な情報を手に入れるだけであるのならば、特別そこに意識が必要ではありません。言うなれば、突然変異が無知の海を手当たり次第に探索し、そのなかで知のみが自然淘汰により生き残ります。探索の道筋は進化の系譜に相当します。最も、知に対して有用な情報以外の何かを求めるのならば話は違ってくるのですが、有用な情報である以外に何か定義が必要でしょうか?
「知」という言葉をどう定義するかは、使用者の自由ですから、そういうように広い意味で使うことに特に異議をはさむつもりはありません。ただ「慣例とは異なる言葉の使い方」であるというだけのことですから。
知が世界をありのままに反映させた模写ではなくて、実践的な動機と関心によって規定されているということは、現代の認識論では、常識のようになっています。科学を知の代表とするのであれば、知の専門分業が知の本来の目的を果たす上での肯定的な面と否定的な面を見定める必要があるでしょう。
3. 参照情報
- W.ジェイムズ『プラグマティズム』岩波書店 (1957/5/25).
- 伊藤邦武『プラグマティズム入門』筑摩書房 (2016/1/10).
- 小川仁志『アメリカを動かす思想 ― プラグマティズム入門』講談社 (2012/10/20).
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「知識と知性とは何か」からの転載です。
- ↑永井俊哉「知性とは何か」2002年12月1日.
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「科学はどこから来てどこへ行くのか、科学の起源と科学の最終目的について」からの転載です。
- ↑Francis Bacon. “Novum Organum." Liber Primus 1620. Aphorism III.
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