環境適応と変化適応
現在の環境に適応しようとすると、変化に適応しにくくなる一方で、変化に適応しようとするならば、現在の特殊な環境に適応しにくくなる。スペシャリストかジェネラリストかという選択を迫られる時、あなたならどちらを選ぶか。

1. 進化は進歩なのか
生命誕生以来、小さくて単純な生物から大きくて複合的な生物が進化してきた。私たちは、自身がそうした進化の産物であるがゆえに、進化を進歩と考えがちである。だが進化にこのような価値判断を持ち込むことは正しいのだろうか。原始的な生物は、「下等」で、私たちよりも価値が低い生物なのだろう。
価値判断の成否は、価値基準によるが、生存という基準で判断する限り、高度に進化した生物が原始的な生物よりも生存力が高いとは限らないので、こうした価値判断は必ずしも成り立たない。実際、環境が激減した時、後者よりも前者の方が絶滅しやすい。中生代において最も進化した、陸の王者ともいうべき生物は恐竜である。恐竜は、二心房二心室を持ち、すばやい運動をするなど、現代の哺乳類と比べても遜色ないぐらいに高度に進化していたが、中生代の末期に、鳥類を除いて絶滅した。他方で、恐竜と比べて進化が遅れていたワニやトカゲなどの原始的な爬虫類の方は、今に至るまで生き延びている。
従来の自然淘汰説は、環境の安定を前提に、その環境に最も適合した種が生き残ると主張してきた。しかし環境が激変する局面においては、むしろ環境に適合すべく高度に進化した種の方が、絶滅する傾向にある。現在は、人間を中心とする哺乳類の全盛期であるが、人間は高度に進化しすぎた結果、環境の激変を生き延びるだけのたくましさを失ってしまった。人間よりも「下等」な動物の方が、次の大量絶滅を生き延びる可能性が高い。
2. 適応の二律背反
話を一般化しよう。環境適応力と変化適応力は、二律背反の関係にある。環境に適応しないと、滅亡するか、あるいは周縁で冷や飯を食うことになる。他方で、特殊な環境に適応し、中心に近づけば近づくほど、環境の変化に対応することができずに、滅亡するリスクを抱えることになる。
例えば、ナチ占領下のフランスという環境のもとでは、フランス人は、レジスタンス運動を行ってナチに抵抗するか、それともナチに協力するかという選択肢を迫られる。与えられた環境のもとで保身を図るならば、ナチの忠実な犬となった方が有利である。しかしその場合、ナチのフランス支配が崩れ、フランス人の自治が回復した暁には、同国人から売国奴として訴えられるはめになる。このジレンマを避けるために、中間的な道を選ぶこともできる。しかし通常こうもりは一番嫌われる。二つの選択肢の欠点だけを抱え込むことになる。
3. スペシャリストかジェネラリストか
もっと身近な例を挙げよう。豊かで安定した生活を送るためには、個人で自立して開業するよりも、大企業の中で立身出世した方が良いとかつての日本人は考えた。しかし大企業の中に埋没すればするほど、その企業が倒産した時、その企業と運命をともにしなければならないリスクが増える。会社人間に徹し、中間管理職の地位を手に入れたサラリーマンも、倒産あるいはリストラで路頭に迷えば、ただの中年のおじさんで、再就職は難しい。
会社人間はもう古いと思うかもしれない。実際、若いサラリーマンは、会社の中でしか通用しないジェネラリストから会社の外でも通用するスペシャリストへと転身すべく、資格取得や特殊技能の修得に余念がない。企業自体、系列の中でしか通用しない下請けからグローバルマーケットで通用するオンリーワンカンパニーへ脱皮しようとしている。しかし得意分野に特化すればするほど、その専門と運命をともにしなければならないリスクが増える。例えば、レコードの針の製造に特化すると、レコードからCDへの技術革新の流れの中で淘汰される可能性が増える。
高学歴の人ほど就職は有利というのが世間の通念だが、日本の文系の大学院を出ると、かえって就職は難しくなる。大卒ならつぶしがきくが、大学院で専門を身に付けると、人材としては使いにくくなるからだ。理系でも、博士課程まで行ってしまうと、一般企業への就職は難しくなる。研究職を手に入れることができず、勤務していた予備校も少子化で倒産し、目下タクシードライバーとして糊口をしのいでいる博士号所有者はたくさんいる。そういう人たちは、自分の専門と一緒に心中してしまった人たちである。
4. 追記:メギンソンの進化論解釈
自民党が憲法改正の必要性を訴えるために制作した漫画「教えて!もやウィン 憲法改正ってなぁに?」に対して、日本人間行動進化学会がその内容を批判する声明を出している。2020年6月19日に自民党広報の公式Twitterアカウントで紹介された第1話で、「もやウィン」という架空のキャラクターが「ダーウィンの進化論ではこういわれておる」として「最も強い者が生き残るのではなく 最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは 変化できる者である」と言っている。朝日新聞[1]や東京新聞[2]といった憲法改正に批判的なメディアもこれを問題視してる。
しばしばダーウィンの言葉として引用されるこの命題を、ダーウイン自身が口にしたことはない。ダーウィン・コレスポンデンス・プロジェクトによると[3]、この誤引用を最初に行ったのは、レオン・C・メギンソン(Leon C. Megginson;1921年7月26日 ー 2010年2月22日)である。メギンソンは、この自己流解釈を様々な表現で述べているのだが、1963年の初出は以下のようなものであった。
According to Darwin’s Origin of Species, it is not the most intellectual of the species that survives; it is not the strongest that survives; but the species that survives is the one that is able best to adapt and adjust to the changing environment in which it finds itself.[4]
ダーウィンの『種の起源』によると、生き残るのは最も知的な種ではありません。最も強い種でもありません。生き残る種は、自分がその中にいるところの変化する環境に最もよく適応し、適合することができる種なのです。
生き残ることができるのは、変化できるものではなくて、変化する環境に適応できるものということだから、自民党の漫画は、ダーウィンの引用として間違っているだけでなく、メギンソンの引用としても正確でないということになる。もとより、引用として正しいかどうかという問題と、進化論の命題として正しいかどうかという問題は区別して考えなければならない。ダーウィンが言ったから正しいとは限らないし、ダーウィンが言わなかったから間違っているとは限らないからだ。
日本人間行動進化学会は、自民党の主張が、引用として間違っているだけでなく、主張内容自体が論理的間違いだと言っている。だが、その声明文の中には、首を傾げたくなるようなことが書かれている。
⽣物進化がどのように進むのかという事実の記述を踏まえて、「⼈間社会も同様の進み⽅をするべきである」もしくは「そのように進むのが望ましい」とする議論は「⾃然主義」と呼ばれてきました。これは「⾃然の状態」を、「あるべき状態だ」もしくは「望ましい状態だ」とする⾃然主義的誤謬と呼ばれる「間違い」です。論理的には成⽴しないはずの議論であるにもかかわらず、進化論と⾃然主義が結びつくことによって、肌の⾊、⺠族、性別、能⼒の有無などによる差別や抑圧が正当化されてきた歴史が厳然と存在します。そして現代においても、⾃然主義の⽴場から差別や暴⼒を正当化する⾔論は失われていないのです。科学という権威を利⽤して政治的な主張を展開しようとする中で、そもそもダーウィンが主張したことのない⾔説が編み出され流布されるような事態まで起きています。[5]
「⾃然主義的誤謬」は、G. E. ムーアが考案した用語である。世間では、事実から価値を導くことが⾃然主義的誤謬であると解釈されているが、拙著『言語行為と規範倫理学』第二章第一節で既に述べたように、これはムーアの解釈として間違っている。事実から価値を導く時に間違う可能性はあるものの、事実から価値を導くことそれ自体を間違いとはムーアは考えなかった。ムーアにとって、これは「論理」の問題ではなく、直観の問題で、それゆえ、ムーアのメタ倫理学は直観主義と呼ばれる。事実から価値を導くことを論理的誤謬と主張するメタ倫理学的な立場は情動主義と呼ばれる。両者は混同されるべきではない。どうでもよい話と思うかもしれないが、ダーウィンに対する誤解を糾弾する声明がムーアに対する誤解に基づいているのは、洒落にならない話だ。
メタ倫理学の話は措くとして、過去に進化論が優生学的に政治利用され、「肌の⾊、⺠族、性別、能⼒の有無などによる差別や抑圧が正当化されてきた歴史が厳然と存在」することは確かだ。しかし、自民党の今回の漫画を批判するために、こうした過去の事例を持ち出すことは不適切である。なぜなら、そうした優生学的に政治利用された進化論が、「最も強い者が生き残る」あるいは「最も賢い者が生き延びる」というテーゼに立脚して、有色人種に対する白人の優位等々を主張していたのに対して、自民党の今回の漫画はそれを否定しているからだ。共通点があるとするなら、「科学という権威を利⽤して政治的な主張を展開」することぐらいだが、⾃然主義的誤謬の誤解釈を信じない限り、科学的知見を政策決定に利用してはいけない理由はないのだから、批判する根拠にはならない。
進化論は変化できる者のみが⽣存できるとは主張していないのです。進化は「集団中の遺伝⼦頻度の変化」のことであり、個体の変容に関する⾔及ではありません。[5]
これは、「者」を個人と解釈した批判のようだ。進化論から導かれる結論が、種にのみ当てはまり、個人には当てはまらないとは限らないと私は考えているが、私見はともかく、自民党の主張においては、憲法を改正して変化する主体は、最終的には日本という集団であって、個人ではない。憲法改正の成否の鍵を握るのは国民投票であり、日本国民という集団内の賛成比率の変化で決まる。憲法改正の焦点となっている九条は、安全保障にかかわっており、生き残るかどうかが問題となるのは、日本という集団であって、個人ではない。メギンソンの主張も、英語原文を見ればわかるとおり、変化の主体は種(species)であって、個体ではない。ゆえにこの批判は的を得ていない。
ダーウィン的進化とはランダムに⽣じた変異の中から、環境に適さないものが淘汰されていくプロセスです。現代の⽣物学では、この進化というプロセスから、いかに⽣命の多様性が⽣み出されてきたのか研究され明らかになってきました。[5]
これがなぜ自民党批判になっているのだろうか。もしも生物が変化できないと仮定しよう。すると、多様性が生み出されないのだから、環境が変化するたびに淘汰されて数を減らし、最終的には生命は消滅してしまう。だから「唯一生き残ることが出来るのは 変化できる者である」という主張は、「ダーウィン的進化」の考えと矛盾しない。
おそらく、日本人間行動進化学会は「ランダム」を強調することで、自民党の間違いを指摘したかったのかもしれない。朝日新聞は、「このマンガのように事物をある方向に意図的に変更することは偶然の変異に基づく進化とは何の関係もない。マンガは読者の判断を誤らせるための悪しきフェイクだと言わざるをえない[1]」という三中信宏東京農業大客員教授のコメントを掲載している。しかし、本当に、変異がランダムでないなら、「ダーウィン的進化」とは言えないのか。
ダーウィンの進化論は、もともと人間が意図的に行ってきた品種改良をヒントにして着想されたもので、意図的変異を排除していない。ダーウィンは、自然選択説とは別に性選択説も採用している。メスが好みのオスを選ぶことは、意図的で、ランダムではない。当時はまだ遺伝子の存在は知られておらず、ダーウィンは、ラマルク同様、獲得形質の遺伝を支持していた。それゆえ、ダーウィンの自然選択説は、もともとはラマルクの用不用説と決定的な対立関係にはなかった。
その後、遺伝子が発見され、獲得形質の遺伝が否定されると、遺伝子突然変異と自然選択で進化を説明するネオダーウィニズムが成立した。日本人間行動進化学会が、変異のランダムさを強調する進化論は、ダーウィンの本来の進化論というよりもネオダーウィニズム的な進化論であろう。ネオダーウィニズムは、現在の進化論における支配的なパラダイムであるが、問題がないわけではない。近年、エピジェネティックスと呼ばれる遺伝子の後天的修飾のメカニズムが知られるようになり、ラマルキズムが部分的に復活してきた。発現形質レベルでの進化においてエピジェネティックスが果たす役割は小さくなく、その変異は完全にランダムではない。だから、ダーウィンの解釈を離れても、変異がランダムでなければ進化論ではないとは言えなくなってきている。
私たちはここで、特定の政治的意⾒を主張するものではありません。いかなる⽅向性・内容であっても、ダーウィンの進化論という科学的知識が、社会的影響⼒を持つ団体や個⼈によって(それが意図されたものであるかどうかにかかわらず)誤⽤されることについて、反対を表明するものです。[5]
日本人間行動進化学会はこう言って、政治的中立性を主張している。しかし、「科学という権威を利⽤して政治的な主張を展開しようとする」自民党を批判したこの権威ある学会の声明が、朝日新聞や東京新聞といった憲法改正に批判的な「社会的影響⼒を持つ団体」によって、まさに権威として政治利用されているのも事実である。
「科学という権威を利⽤して政治的な主張を展開しようとする」ことには、日本人間行動進化学会とは逆の理由で問題があると私は考えている。権威というものは保守的で、それでいて自分を絶対視して、素人を見下そうとする傾向がある。しかし、科学は絶えず進化しており、現在の権威ある定説を絶対視することはナンセンスである。長期的に見るなら、学問の世界でも、変化する環境に適応できなければ生き残れないのだから、権威にとらわれることなく、非正統的な仮説に対してもオープンな態度をとり、自己を相対化することが必要である。
5. 参照情報
- ↑ 1.01.1朝日新聞.「進化論の誤用、憲法改正に引用 自民のツイートに批判」2020年6月20日 22時38分.
- ↑東京新聞.「自民Twitter炎上で注目 「ダーウィンの進化論」とは」2020年6月26日 05時55分.
- ↑Darwin Correspondence Project. “The evolution of a misquotation." 2017. University of Cambridge.
- ↑Leon C. Megginson. “Lessons from Europe for American Business“. Southwestern Social Science Quarterly, Volume 44, Number 1. 1963 June. p. 4. Presidential address delivered at the Southwestern Social Science Association convention in San Antonio, Texas, April 12, 1963.
- ↑ 5.05.15.25.3日本人間行動進化学会会長および理事会.『「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明』日本人間行動進化学会. 2020年6月27日.
ディスカッション
コメント一覧
いつも楽しく拝見させて頂いております。
引用文:
<・・・実際、若いサラリーマンは、会社の中でしか通用しないジェネラリストから会社の外でも通用するスペシャリストへと転身すべく、資格取得や特殊技能の修得に余念がない。・・・。例えば、レコードの針の製造に特化すると、レコードからCDへの技術革新の流れの中で淘汰される可能性が増える>
について:
私は、「会社の中でしか通用しない」能力の持ち主は「スペシャリスト」だと思います。つまり、その会社の業務に関して「スペシャリスト」だということです。ある意味これらも高度に分業化されていると解釈しています。
例えば、同じ業務内容でも会社ごとに流れが違うということがよくあるということです。
次に「会社の外でも通用する」のが、どこに行っても通用するという意味から、ゼネラリストだと解釈しています。
やや極端な例を挙げますが、
どんな業務も平均点75点でこなせる能力が「ゼネラリスト」であり、
ある特化した業務に関しては100点だが、それ以外の業務については0点、という能力の持ち主が「スペシャリスト」だと解釈しています。
例えば、中学時代の主要5教科に関して、5教科全て「3.5~4」なのがジャネラリストであり、
例えば数学だけ「5」でその他4教科「1」という持ち主がスペシャリストだと考えます。
情報社会の時代になり、高度に分業化された時、例えば、社会システムが激変したとき生き残るのは、どんな分野にも「平均点75点」のジェネラリストが生き残るのと考えます。
実際、今、雇用体系の変化が起きてますが(終身雇用制の廃止など)、その時生き残れるのはジェネラリストだという立場です。3ヶ月ほど前に読んだ新聞(確か朝日新聞だったと思います)に、「山一證券の社員たちは今どうしているか」という内容の記事がありました。結論としては、同業種の会社に再就職しても、同業務内容であるにも関わらず、事務的な部分や営業のやり方が異なったり、その企業文化にいつまでもなじむことが出来ずに、転職ジプシーに陥ってしまっているとのことです。
例え、システムがどんどん複雑になっていっても、「0点」と「100点」であるスペシャリストではなく、どんな環境にも適応できる「平均点75点」の能力を持つジェネラリストが、特に激変に対しては生き残れるのではないでしょうか。
少なくても人間の能力システムの範疇においては、「複雑性の増大による複雑性の縮減」にはならないような気がしています。高度に分業化され、人々皆が、その中である部分に特化してしまうとシステムが変化したとき、そのシステムは崩壊するのではないでしょうか。人間はそこまで優秀ではないのと思うのです。脳科学の書籍を読んでみると、脳は、物事を分けては解釈しないそうです。
もちろん、芸術家や、芸人、音楽家などのスペシャリストは、個人的に魅力的なので、私はスペシャリストを否定しているわけではありません。むしろ、もっとスペシャリストが増えてほしいとも思っています。
私が言っている「スペシャリスト」とは、機能的スペシャリストであって、帰属的スペシャリストではありません。いろいろな部署に回されて、何の特技も身につけていない会社人間は、帰属的スペシャリストであっても、機能的スペシャリストではありません。
私の妹は、元山一證券の従業員で、現在は、某メーカーに勤めています。エクセルを用いた実務経験を買われて、転職できたそうです。異業種でも、業務内容が同じなら、やっていけるものですね。
分業化がより進んだ場合、「機能的スペシャリスト」でさえ存在できるでしょうか、特にビジネスの世界においては。いや、芸術やスポーツ選手など全てのスペシャリストもどうでしょうか。
例えば、プロ野球選手を例に挙げると、現役時代一流の活躍をしても、選手としての能力しかなければ、例えば、指導力が無ければコーチ業や監督業に抜擢されることはないですし、また、コメント力が無ければ、コメンテーター業にも抜擢されないでしょう。実際、コメント力が無い元選手は、一度は名前という現役時代のブランドで抜擢されるものの、長続きしていません。
同じ業務内容で、異業種への転職にうまくいく人というのは、その実務経験だけではなく、むしろ、他の能力もあったのだと思います。そういう意味で、例えば、同等の実力の「エクセル」のスペシャリストがいて、一人はエクセルだけのスペシャリストで、もう一人は、エクセル以外の能力を持ち合わせていたとします。そんな二人が同じ会社に同期転職したと仮定したとき、世の中を見てみると、やはり、後者のエクセル以外の能力も持ち合わせた人物の方がうまくやっていけるのではないでしょうか。
そういう意味で、前者がスペシャリストであり、後者がゼネラリストだと解釈しています。
「機能的」「帰属的」いづれにしても、技術を一つだけ、若しくは少数だけ持ち合わせた人物をスペシャリストと解釈しています。
そして、複数の技術を持ち合わせた能力の持ち主がゼネラリストだと解釈しています。
機能的であれ、帰属的であれ、一つだけ又は少数の技術だけでは、世の中の考え方や時代が変化したとき、(激変が起きたとき)、通用しなくなるのではないかと思っているのです。特に情報社会へと移行している現在の様な時代においては。。
どうせスペシャリストを目指すなら、特化しすぎたスペシャリストではなく、柔軟なスペシャリストを目指すべきだというのが、私の意見で御座います。私が上記で解釈した「ゼネラリスト」というのは、ここでいう「柔軟なスペシャリスト」と同等の意味です。
学校の部活動を有料化し、教員免許を持たなくても指導に当たれるようにすれば、スポーツ選手や芸術家のための大きな市場ができるでしょう。教師が、ジェネラリストとして、授業と部活動の両方を掛け持ちすることは、人的資源の浪費だと思います。何よりも、一流の指導者に恵まれないという意味で、生徒にとってマイナスです。
日本の社会でスペシャリストが生き残れるかどうかを考える前に、スペシャリストが生き残れない日本の社会がグローバル社会で生き残れるかどうかを考える必要があります。
グローバルに考えるなら、尚の事、能力が少なくてはやっていけないと思います。
まず最低限、英語能力は必要でしょう。スポーツ選手のような特殊な場合は、通訳をつけてもそれほど支障は無いのかもしれませんが、第一線のビジネスマンの場合なら、自分で喋れなければ始まらないでしょう。
科学的ではないかもしれませんが、「コミュニケーション能力」という技術が、自国にいる時より必要になってくると思います。その国の文化にも馴染んでいかなければなりません。
グローバルな社会において、一つの能力でもやっていけるのは、グローバルな規格が多く出来上がった社会の場合でしょう。でも、そうなると、ある意味自国にいるのと同じ状況です。
グローバル社会での競争とは、外国に行って働くということではなくて、地球上のすべての個人・法人と、単一市場で競争するということです。
トドのつまりはこういうことじゃないでしょうか?
結局のところ、個々の人間の強みというのは狭い分野に集中しているものであり、
それぞれが世界的な競争力を求められるような単一グローバル経済にあって
生き残れるのは、その強みに特化して十分活用している者、つまりスペシャリスト
だけであると。
無論、その強みを活かすには、昔の「読み書きそろばん」のように、
一定の基礎教養、技能は必要でしょう。
またそのスペシャリストのあり方も、昔の職人のように
一つの技能と仕事の仕方で一生食べていけるものではないでしょう。
変化する情勢の中で、目の前の仕事が即自分の専門、という狭い見方でなく、
色々な仕事の仕方を試す中で、最も自分の強い仕事の仕方を常に探して組み替えて行く
というような形になるのではないでしょうか?
しかし基本的には、上記のようにダビンチのような万能の天才人間は稀である事から
言って、ごく狭い強みにひたすら特化した仕事をできない限りは
生き残ることもできない、
得意でない所で勝負をかけるのはわざわざ負けに行くようなものだということ。
つまり、自らの強みに合った仕事のスペシャリストとして、それを個々の仕事の
プログラムに応じて、ある程度組み替えられる能力が必要だということです。
人は、年をとるにつれて、変化適応能力を失いますが、代わりに、何にでも交換できる貨幣を蓄積し、バランスをとります。人類という種も、生物的には、変化適応能力を失いつつありますが、その分、後天的に変化に適応できる技術力でバランスを取っています。
ポスドク問題というのがあるみたいですが、大体、学問を究めたいタイプの人というのは、ここでいう変化適応力よりも環境適応力のほうが発達した方です。しかし、高卒・大卒で新卒で就職した人よりも、ドクターにまでなって研究職につけなかった人は、いろいろな仕事を転々としてより変化適応力の必要な生き方をしなければならないというのは、皮肉なことですね。
また、ロシアでペレストロイカ後に男性の寿命が著しく短くなった(自殺やアル中などで)というのは、体制にたいしてより、環境適応力を発揮して対するのが男性だということなのでしょうか。言い換えれば、男気、一本気。男とは生命力の弱いものなのかな?という根拠のない疑問をずっと感じてきましたが、ここでいう二律背反の論理を拝見して、なるほどという納得を得ました。
例えば、中学時代の主要5教科に関して、5教科全て「3.5~4」なのがジャネラリストであり、
例えば数学だけ「5」でその他4教科「1」という持ち主がスペシャリストだと考えます。とありますが一教科だけ2で他は全て5も有り得るので反論になっていません