至上原理としての市場原理
市場原理に対する論壇の評価は、89年に東欧で、91年にソ連で社会主義体制が崩壊した時に頂点に達したが、その後、97年にアジア経済危機が、98年にロシア経済危機が始まると、グローバル市場経済に対する懐疑的な見方が広がった。それにもかかわらず、経済・政治の原理として、市場原理以上の原理がないという意味で、市場原理は至上原理である。[1]

1. なぜ今小さな政府か
1.1. 価格調節的市場と数量調節的市場
一般に、大きな政府が望ましいか小さな政府が望ましいかは、市場が数量調節的であるか価格調節的であるかによって決まる。大雑把に言って、18世紀半ばから19世紀半ばにかけて起こった第一次工業革命(Industrial Revolution 産業革命)の時代には市場は価格調節的で、小さな政府で対応できたが、19世紀半ばから1970年代にかけて起こった第二次工業革命の時代に数量調節的となり、小さな政府では不況から抜け出せなくなったために、大きな政府による積極的な市場介入が行われるようになった。1970年代から始まった情報革命の時代になると、大きな政府の弊害が顕著となり、再び小さな政府が好ましいと考えられるようになった。以下、この歴史的変遷を確認しよう。
1.2. 工業革命がもたらした変化
価格調節的市場の典型は、農作物の市場である。レッセフェール(laissez-faire)を最初に主張した経済学者が、18世紀後半のフランスの重農主義者であったことは偶然ではない。レッセフェール思想の影響を受けたアダム・スミス(Adam Smith;1723年 – 1790年)が、自由放任でも神の見えざる手が働くと考えた頃、工業革命はまだ始まったばかりで、ヨーロッパの市場に出回っていた商品の大半は依然として農作物だった。農作物は普通保存がきかないから、売り手は、売れなければ値段を下げてでも売り尽くそうとする。また当時は本格的な労働組合はなく、資本家は賃金を自由に決めることができた。このように価格伸縮性に富む市場では、国家が余計なことをしなくても、過剰在庫や失業は自動的に解消される。
19世紀後半になって、工業化が社会の様々な分野に進み、長期保存が可能な商品が増えると、生産者は価格を下げることによってではなく、生産量を縮小することによって不況に対応しようとする。また19世紀後半になると、労働組合が各国で誕生し[2]、労働者の生活を保証するために最低賃金を守らせようとした。このような価格硬直的な経済では、不況になると、在庫調整のために生産が縮小され、失業者の数が増加し、有効需要が減少し、その結果、不況がさらに深刻化するという悪循環になる。この悪循環を断ち切るためには、政府が公共投資を増大させるなどの財政政策を行う必要がある。
1.3. 情報革命がもたらした変化
しかし1970年代以降、工業社会的な価格硬直的経済に変化が生じている。具体的にはここ30年ほどの間に次のような現象が現れてきている。
- 71年にブレトンウッズ体制が崩壊し、73年から為替レートが変動相場制になった。そのため輸入品の物価は、自国通貨で換算すると短期間で変動するようになる。
- 年功序列が崩れ、給与に占める能力給のウェートが増えつつある。派遣社員などよりフレキシブルな賃金体系の職種も増え、全体として労働商品の価格も伸縮的となってきている。
- 流通革命によって価格破壊が進み、スーパーや通販では希望小売価格以下での販売が当たり前となった。メーカーの中にはオープン価格で販売するところも出てきた。
- モデルチェンジの周期が短くなり、新発売から時間がたった家電製品は、生鮮野菜のように値段を下げるようになった。例えばパソコンは半年で値段が半分になる。
- 将来オンライン上でデジタルコンテンツ商品がダウンロードできるようになると、消費者が複製をするわけであるから、生産者側からすれば、もはや数量調節という概念自体が意味をなさなくなる。
これらの現象の背後にあるのは、情報革命である。工業革命以来、量的拡大再生産を続けてきた資本集約的工業社会は、70年代に「成長の限界」に突き当たって、知識集約的情報社会への転換を余儀なくされた。
多くの人は、情報革命をインターネットの普及に代表されるような情報技術革新と認識している。しかし情報革命をもっと根本的に定義するなら、それは、産業の目標が量的拡大から質的向上に変わることである。卑俗な例を挙げると、人は空腹の時には一枚のパンより二枚のパンを望むが、量的拡大が限界に達すると、今度はおいしいパンを食べたいというように質を求めるようになる。モデルチェンジの周期が短くなるのは、消費者が質にこだわるからだ。質を重視するなら、選択の自由を広げなければならない。以前は近くの商店街にしか行かなかった人が、自分にあった商品を探すために、自動車で郊外のスーパーまで出かけたり、通販で商品を購入したりする。欲望が多様化すれば、生産者側も商品の差別化を行わなければならない。労働商品も差別化される。生産者が得意分野に特化すると、グローバルな分業が進む。グローバリゼイションが広がると国境を超えるマネーの量が増大し、中央銀行は為替相場を固定することができなくなる。だから為替相場は変動制にならざるを得ない。
1980年代になって、サッチャー・レーガン・中曽根といった政治家が登場し、当時「新保守主義」と呼ばれた。しかし、これらの政治家が行ったことは、19世紀の夜警国家に後退する「復古的」な保守主義ではなく、情報革命がもたらす新しい時代を先取りする革新だったのである。
2. 誤解されている市場原理
市場原理を嫌う人の多くは、市場原理を正しく認識していない。市場原理とは、全ての選択主体に決定権があるにもかかわらず、否それゆえに、全ての選択主体に究極的な決定権がない自由な相互選択・相互評価の原理であり、経済のみならず、政治や文化など、近代の民主主義社会全般を特徴付ける原理である。この定義に基づいて、我が国の論壇で散見されるステレオタイプ化した市場原理批判に見られる代表的な誤解を取り上げ、正していきたい。
2.1. 成果主義イコール市場原理という誤解
社会主義は悪平等だから、社会主義体制下では労働者は怠け者になると一般に思われているが、現実に存在した社会主義国家はそうではなかった。日本語になった「ノルマ」が、ロシア語の"Норма"に由来する[3]ことからもわかるとおり、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は労働者にノルマを課す信賞必罰の成果主義を採用していた。ソ連は、平等な社会ではなく、ヒエラルキー構造を持った社会であり、そこで出世するには、成果を上げて、競争に打ち勝つ必要があった。
2.2. 競争原理イコール市場原理という誤解
市場原理とは、複数の供給と複数の需要が自由に相互選択することにより評価が決定される複雑系の原理である。市場原理にとって、競争は必要条件だが、十分条件ではない。競争には、市場競争以外に、次のような競争があるからだ。
- 全体主義国家での競争:すでに述べたように、社会主義国家に競争がないということはない。クレムリンでは、熾烈な権力闘争が行われていた。また、社会主義国家以外でも、茶坊主たちが揉み手をしながら出世を競い合い、一人の主人の一存で勝負が決まる競争も、市場原理に基づく競争ではない。一人の人間の意思で全体をコントロールできないところに市場の特徴がある。銀行のMOF担が、少しでも有利な取り計らいに与かろうと先を争って大蔵官僚に接待攻勢をかける競争は、ビッグバンで求められる競争とは種類が異なる。
- 無政府状態ので競争:例えば、戦国大名が領土を奪い合う競争は、企業が市場のシェアを奪い合う競争とよく似ているが、前者は後者と違って、相互選択による決定メカニズムがないので市場競争ではない。もしも、ちょうど消費者が商品を選択する自由があるように、係争地の住民が投票で領土の帰属を決めることできるのなら、市場原理が機能していると言えるが、戦国大名にとって百姓は家畜同然の存在であって、勝負はたんなる力と力のぶつかり合いによって決まる。暴力的競争と市場競争は同じでない。市場原理を導入すると日本はアメリカのような暴力社会になると扇動している人たちはこの点がわかっていない。
市場原理を導入すると、平和な無競争社会が競争社会になると考えることは間違いである。人間の社会が競争社会でなかったことはこれまで一度もなかった。市場原理を導入する効果は、戦国大名の競争や茶坊主の競争などの不健全な競争を健全な競争にするところにある。経済戦略会議は、「健全で創造的な競争社会」を提言したが、「健全で創造的な」という修飾語句はだてに付いているわけでない。
2.3. 民間委託イコール市場原理という誤解
民間委託とは、国や地方自治体が、本来公的に行う事業を民間業者に委託して行うことで、小さな政府への一方策とされている。しかし、随意契約で業者を選定するなら、市場原理が機能していないことになる。新自由主義批判をする人たちは、公的権力が特定の営利企業と癒着していることを非難するが、そうした癒着の弊害は、公的権力が公営企業に特権を与える弊害と同じだから、むしろ「大きな政府」の弊害とみるべきである。
日本は、人口当たりの公務員数が少ないことから、小さな政府と言われることがある。しかし、たとえ狭義の公的セクターが小さくても、官でも民でもない第三セクター、特殊法人、公益法人、あるいは時の権力と癒着した政商など、市場原理が機能しない特権的なセクターの占める割合が大きければ、日本で小さな政府が実現できているとは言えない。民営化則改革と思い込んでいる政治家や有権者が多いが、所有者、設置者、運営者が官か民かということよりも、消費者、利用者に選択の自由があるかどうかの方が小さな政府を実現する改革にとって重要である。
2.4. 規制緩和イコール市場原理という誤解
民営化と並んで規制緩和も小さな政府のモットーとしてよく使われる。たしかに、市場原理を機能させるには、不当な参入規制を撤廃する必要がある。しかし、規制がすべて参入規制ということはない。独占禁止法のように、むしろ市場原理を機能させるためには必要な規制もある。したがって、すべての規制を敵視する必要はない。
規制緩和(deregulation 正確には規制撤廃)をすればするほど良いという考えは、小さな政府を目指す市場原理至上主義というよりもむしろ無政府主義である。なぜなら、規制が全くない状態は、無政府状態であるからだ。戦国大名が領土を奪い合う競争が市場原理に基づく競争ではないことからもわかるとおり、市場原理は無政府状態では成り立たない。
2.5. 市場原理は民主主義を破壊するという誤解
すべてを市場原理に委ねると貧富の格差が広がるので、市場経済は民主主義の敵だと考えている人が少なくない。だが、経済的平等は民主主義の必要条件でもなければ十分条件でもない。共産主義的独裁者が、独裁的権力で反対者を抹殺して経済的に平等な社会を作っても、それは民主主義社会とは言えない。逆に経済的不平等が公正な競争の結果であると民主主義的手続きで是認されている社会の政治形態は、独裁的ではない。民主主義の必要十分条件は、政治的平等であって、経済的平等ではない。
市場原理は、民主主義の敵どころか民主主義そのものだ。市場経済では、人気商品は、消費者の購入という投票で決まる。このメカニズムは、権力者が規制や補助金を使って特定商品を消費者に押し付ける場合よりも民主主義的である。
そもそも歴史的経過からすれば、近代民主主義は、市場原理を政治の領域に応用することによって誕生した。市民革命以前の権力者は強盗と同じであり、武力で農民を脅して税を巻き上げるだけで、税をどう使うかは権力者の勝手だった。ところが市場経済が発達してくると、財だけでなく、土地や労働力そして国家までが商品化されてくる。複数の候補者から有権者が行政サービス提供者を選び、選んだ行政サービスへの対価として税金を払うというのはまさに国家の商品化である。実際、近代議会が成立した当初は、高額納税者にしか選挙権はなかった。
民主主義社会では、直接政治活動をする市民団体も中にはあるが、多くの市民は、時間がないか知識がないかのどちらかの理由で、自分たちの政治的インタレスト(利害)を代議士に委託して、間接的に政治に参加している。金融市場でも、直接株や債権に投資する人も中にはいるが、多くの資産保有者は、時間がないか知識がないかのどちらかの理由で、自分たちの経済的インタレスト(利子)をファンドマネージャーに委託して、間接的に金融に参加している。民主主義政治と市場経済は構造的に同一である。市場の力を暴力的と感じる人々は、国民の声を雑音としか感じない官僚と同様、反民主主義的である。
市場原理至上主義[4]は、市場経済至上主義ではない。市場経済の欠点は政府によって補わなければならない。しかしその政府は民主主義という別の市場原理によって支配されている。したがって、現代社会を究極的に支配している原理は市場原理なのである。
2.6. 万能ではないから至上原理ではないという誤解
民主主義政治に衆愚政治になる危険があるように、市場経済には衆愚経済になる危険がある。市場経済はこれまで過大評価や過小評価によって判断を誤り、経済を混乱させてきた。市場原理は万能ではない。市場の判断は、政治家や官僚の判断と同様に、人間が判断するのだからしばしば誤る。それにもかかわらず、以下の三つの点で市場主導の意思決定メカニズムは、政治家や官僚などのエリート主導の意思決定メカニズムよりも優れている。
第一の長所は、視点の多様性である。より多くの人が意思決定に参加することで、より多様な視点から選択が行われることになる。エリートは、エリートの選別方法が画一的であるほど、視点が偏り、柔軟性を失う。
第二の長所は、市場は自分たちの判断の過ちを早く素直に認め、機動性に富む対応をすることができるところにある。市場は、分単位、秒単位のスピードで評価を変える。政治家や官僚などのエリートは、責任ある立場にあり、しかもプライドが高いので、たとえ自分の過ちに気が付いても、容易には認めようとせず、既定路線をそのまま走りがちだ。ソ連経済が崩壊したのも、日本経済が低迷しているのも、行政機構が無謬性の原則に固執し、環境の変化に素早く対応して構造改革をする能力がないからである。
第三の長所は、エリートが独占的な権力を握っている場合、特定の利益団体と癒着する危険性があるのに対して、市場主導の意思決定メカニズムには、その心配がほとんどないところにある。エリートも大衆もエゴイズムに基づいて行動している点では同じだが、権力が分散した方が意思決定メカニズムの利権色は薄まる。
民主政治も市場経済も欠陥に満ちた制度だが、人類はそれより優れた制度を知らない。かつてウィンストン・チャーチル(Winston Churchill;1874年11月30日 – 1965年1月24日)は演説の中で次のような名文句を吐いた。
これまで多くの政治形態が試みられてきたし、またこれからも罪と悲しみに満ちたこの世界で試みられていくでしょう。民主主義が全知全能であると見せかけることは誰にもできません。実際、民主主義は最悪の政治形態と言われてきました。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばの話ですが。[5]
同様に、市場経済は最悪の経済形態と言われているが、これまでに試みられてきたどの経済形態よりもましである。それ以上良いものがないという意味で市場原理は、万能の原理ではないが、至上の原理であるということである。
2.7. 市場原理至上主義は拝金主義であるという誤解
福祉ビジネスに市場原理を導入しようとすると、効率性だけが重視されて、心温かいサービスが切り捨てられるので、福祉に市場原理はなじまないといった反論が出てくる。こうした誤解は、市場競争をたんなる価格競争と捉えることから出てくる。実際には価格だけでなく、サービスの内容も競争の対象になるのだから、消費者が、低価格よりもサービスの質の充実を望むのなら、市場原理はその要求に答えることができる。逆に、客の満足度とは別にスタッフの給与が固定され、保証されている公営の福祉施設では、顧客のニーズに合ったサービスは期待できない。
市場原理は民主主義的な開かれた評価の方法で、貨幣以外の手段での評価にも用いることができる。例えば学者の知のマーケットでは、金銭の代りに名誉が評価の手段として使われる。大学院生の運命が一人の指導教官の判断で決まる閉鎖的な研究室では、市場原理は機能していない。学者の評価が、学閥の論理を超えて、不特定多数の知識人の自由な評価で決まるなら、市場原理が機能していると言える。貨幣をメディアとしない文化システムでも、市場原理は資源の最適配分の原理でありうる。
すべての市場原理至上主義者が拝金主義者とは限らないし、すべての拝金主義者が市場原理至上主義者とも限らない。贈収賄は「金さえあれば、何でもできる」という拝金主義の典型であるが、反市場原理的な互酬性原理に基づく。もし代議士たちが斡旋サービスの料金表を事務所の前に堂々と掲げ、業者がその情報に基づいて費用対効果を計算し、贈賄先を選ぶのなら、市場原理が働いていると言える。しかしそのような情報公開して行うことができるのなら、それはもはや贈収賄とは言えない。実際には、収賄サービスは「明朗会計」ではないし、市場原理に基づいていない。
2.8. 自由競争は地域間の不公平を増やすという誤解
郵便事業の民営化を提案すると、全国均一料金制では過疎地で採算が取れないので、ユニバーサル・サービスが保証されないという反対意見が必ず出る。確かに、公的な補助がなければ、過疎地の通信コストは高くなるであろう。しかしその分だけ過疎地の地価、すなわち住宅コストは安くなる。もし郵便民営化反対論者が言うように、生活基礎サービスを全国均一料金のユニバーサル・サービスにしなければならないとしたならば、衣食住の一つである住の料金も全国均一にしなければならない。住居コストは過疎地の方が安いのに、通信コストだけは全国均一にするのは、かえって不公平だ。
政府はこれまで、「国土の均衡ある発展」のために、都会で吸い取った税金を地方交付税や譲与税や国庫支出金などの形で地方にばら撒いてきたが、そうした余計なことをしなくても、地価の不均衡が、地域間不均衡を自動的に是正してくれるのである。市場原理を無視して地方に過大な投資をした結果、経済企画庁が発表する「豊かさ指数」の都道府県別総合順位を見てもわかるように、都市よりも農村の方が豊かになってしまった。経済企画庁は、九九年からこのランキングをやめたが、それは、農村が都市を搾取している事実から国民の目をそらすためではないだろうか。
2.9. 投機は市場を不安定にするという誤解
金融市場にギャンブル的性格があることを指摘して、市場原理を批判する人もよく見かける。金融市場での投資がギャンブルだというのは誤解で、ギャンブルが娯楽であるのに対して、投資は労働である。ギャンブルではリターンの期待値がマイナスで、その差額は楽しむための費用である。他方、投資ではリターンの期待値がプラスで、その差額は評価という労働に対する対価である。
中には、投資家と投機家を区別して、投機は不健全で、市場の不安定要因だと考えている人もいる。だが、もしも市場参加者が、すべてファンダメンタルズの判断だけで投資する「健全な投資家」だけならば、市場はかえって不安定になる。テクニカルな理由から、投資家が売る時に押し目買いを入れ、投資家が買うときに利食い売りする投機家がいるおかげで、市場は安定するのである。
アジア経済危機をきっかけに、大きな政府を支持する人たちが「政府が市場に介入しないと、ヘッジファンドなどの餌食になる」と主張するのをよく耳にするようになったが、これはまったく逆で、実際には、政府が市場に介入しようとするからヘッジファンドの餌食になるのである。ヨーロッパ通貨危機やアジア通貨危機は、政府が為替相場を固定しようとしたことが原因だった。九二年のポンド危機の時、ポンドがマルクに対して割安になっていたが、イギリスの通貨当局は、EMS(ヨーロッパ通貨制度)に基づいてポンドの価値を吊り上げるために、ソロスが大量にカラ売りを浴びせたポンドを高値で買うはめとなった。おかげで通貨当局は大損となり、ソロスは大儲けした。タイもドルペッグ制を維持しようとするから、ソロスにつけこまれたのである。
ソロスが次に目をつけたのはロシアで、ロシア市場が暴落しても、G7が買い支えるとにらんでいたが、実際には国際金融当局による市場への介入は行われず、そのためにロシアの電話持株会社の株を購入したソロスは大損害を被った。そこで彼は『グローバル資本主義の危機』という本を書いて、「政府よ、もっと市場に介入せよ」と言い出した。レッセフェールでは彼の商売が成り立たないからだ。日本政府が行った年度末のPKOや、G7による重債務国の債務免除などの市場への政府の介入も、ヘッジファンドを喜ばせるだけなのである。
3. 市場原理導入を阻む諸問題の解決
以上のような、市場原理に対する誤解を正すならば、「市場の失敗」と言われている弊害の多くが政府の失敗であることに気がつく。
3.1. 弱者保護の問題
市場原理の導入に対する一番ありふれた反論は、それが弱者の切り捨てになるというものである。だが、私たちが弱者と呼んでいる人々の多くは、特定の価値基準から見て弱者なのであって、別の基準から見ればそうではない。特定の価値基準に合わない異端を勝手に弱者と決め付け、補助金で自立を妨げることをするべきではない。
例えば、私たちは身体障害者を弱者と考えがちである。しかし身体障害者は自立できないから補助金で援助しなければならないという同情論は、裏返しの差別意識に基づいている。障害者が求めているのは、施し物ではなくて、同じ市民として生きることの誇りである。コンピュータースキルを磨いて、自宅でのSOHOに成功した、足の不自由な障害者もいれば、左脳の一部が欠けているが、その分右脳が発達していて、すばらしい作品を生み出している芸術家もいる。こうした障害者は、補助金を受け取るどころか逆に所得税を払っている。
産業の場合も同じことが言える。日本の農政は農業の中でも稲作を特に優遇してきた。その結果、どの農家も稲を植えるようになり、稲作不適切地である中山間地には、補助金が出されてきた。しかし一切補助金を受け取ることなく、山間地の冷涼な気候を利用して、季節はずれの新鮮なレタスを近くの都市に出荷し、大きな収益を上げている農家もある。土地の個性を生かして知恵を絞れば、補助などなくても自立できるのである。
日本は、他の多くの先進国と同様に、世界恐慌以後、大きな政府の道を歩んだ。官僚主導の生産様式の画一化と弱者救済のための支出が増大することは表裏一体の現象である。競争は、勝敗がある以上は、必然的に弱者を作り出すと一般には考えられている。しかしそれは一つの基準で判断した場合のことであって、基準を複数化することによって、すべての社会のメンバーが落ちこぼれにならないということは、少なくとも論理的には可能である。情報革命により基準が多様化する中、市場原理による資源の最適配分化が必要だ。
もとより、このことは、政府がセーフティネットを張る必要がないということを意味しない。セーフティネットは、民間の保険会社でも提供できるが、保険会社が破綻した時の保険や、保険金すら払えないほど困窮している人のために保険は、政府が提供する他はない。
どんな市場原理至上主義者でも、「貧乏人は飢えて死ね」と主張する人はいない。餓死するぐらいなら、強盗して金を奪った方が合理的で、捕まって刑務所に投獄されても、その方が少なくとも寿命を延ばすことができる。治安が悪化すると資産家は警備に金をかけなければならないが、それよりも、強盗の原因である貧困を取り除くことに金を使った方が生産的だ。だから政府がセーフティネットを構築することは、人道的理由で正当化しなくても、経済合理性を持っている。
公的セーフティネットは、本来一番下に完全な一枚があればいいのだが、現在の日本の社会保障制度では、それがなくて、代わりに中間に不完全で穴だらけのセーフティネットが何重にも張り巡らされている状況である。これでは、安全性の保障として不十分なだけでなく、プレーの自由を阻害するという点でも有害である。社会保障制度は、もともと民間レベルで救済できない一部の弱者を救済することから始まった。福祉国家はそれをすべての国民を包摂する制度にまで肥大化させたが、この普遍主義が国家財政を危うくしている。
社会保障として必要な制度は、外部経済に属する公衆衛生を除けば、生活保護だけである。生活保護を、消費税を掛け金とする「生活保険」とすれば、現行の社会保険の機能はすべて民間の保険会社に委託することができる。現在の生活保護に支給している一兆五千億円は、消費税率で換算すると一%分に満たない。社会保障制度はそこまで縮小できる。
現行の生活保護には、改善するべき点は多数ある。まず、受給者の自立へのインセンティヴを高めるために、所得が増えた場合、その分を差し引くのではなく、支給金額を減らしつつ、トータルでは収入が増えるようにしなければならない。こうすれば、生活保険受給者に、勤労意欲がわくので、モラルハザードにならない。
またこれまで生活保護の必要性は、個人単位ではなく世帯単位で考えられ、親族による扶養が優先されてきた。しかし昭和二五に制定された生活保護法のこの考えは今では古くなった。もっと個人単位の保険として考え直すべきだ。
世帯は住所によってアイデンティファイされるので、従来ホームレスは生活保護を受けられなかった。しかし、住民票コードで個人を直接アイデンティファイできるようになれば、生活保険をホームレスに適用できる。また住民票コードによる個人情報のデーターベース化で、ミーンズテストも迅速に行えるようになる。国会では、「弱者の味方」を自称する政党が、住民票コードの導入は、国民総背番号制につながると強く反対しているが、現行の住所総背番号制では、ホームレスの人権を守ることができないことを認識するべきだ。
3.2. 総合の誤謬の問題
節約のパラドックスに象徴されるように、個人レベルで合理的な行為が、全体として非合理な結果をもたらすことがある。総合の誤謬による悪循環を回避するために、政府が市場に介入するべきだとケインズ以来考えられてきた。しかし介入の方法は、大きな政府と小さな政府では異なる。九二年以来の百兆円を超える財政出動が日本経済を再生させるどころか、政府の不良債権を増やすことによって、日本経済をいっそう脆弱にしていったことからわかるように、工業社会で有効だった大きな政府の方法が情報社会では有効ではなくなっている。今求められているのは、小さな政府が市場をコントロールする方法である。
既に述べたように、小さな政府は無政府ではない。だから大きいか小さいかは程度の差になってしまうのだが、小さな政府を大きな政府から区別する基準は、生産活動に直接コミットしないという点にある。バブル崩壊後に日本政府が行った、公共投資の増額や金融機関への公的資金の投入は、大きな政府が行う市場への直接介入である。これに対して小さな政府に求められる市場への間接的介入は、法人税・事業税減税と調整インフレである。
バブル崩壊後、不動産や株などの価格が下落する資産デフレにより含み損が発生し、含み益を担保にした融資が滞ってマネーサプライの伸び率が鈍化し、設備投資と生産が萎縮し、雇用と賃金水準の低下と消費の減退を惹き起こしている。価格伸縮経済は、数量調節的ではないので、在庫調整による通常の不況に対しては自律的に適応できるが、価格伸縮的であるがゆえに、デフレスパイラルからの自律的脱却は難しい。デフレスパイラルが進行すると、金利はマイナスにすることができないので、たとえ名目金利がゼロでも、実質金利は上昇していく。
デフレスパイラルから脱却するためには、ゼロ金利政策だけでは不十分であって、日銀は買い切りオペレーションを行うべきである。もちろんハイパーインフレーションは望ましくないから、買い切りオペの上限をあらかじめ決めておいた方が良い。
景気対策として公共投資を増やし、金利上昇によって民間投資をクラウドアウトすることはするべきではないが、公共財の提供自体は、小さな政府の仕事の一つであって、否定されるべきではない。ただその場合でも、政府は、民間企業によって提供される公共サービスに対して住民が対価として税金を払う公共財市場における透明な媒体としての役割に徹するべきである。
政府与党は、公共事業に占める民間の役割を拡大するために、PFI事業推進法案を成立させようとしている。この法案によれば、政府が事業に出資したり、無利子で貸し付けたり、債務保証をすることができるほか、国有財産の無償使用や税制面での支援まで用意してある。日本版PFIは、第三セクターと同じ過ちを繰り返す懸念がある。たんに建設や管理・運営を民間企業に委託するだけでなく、融資やボンド制による融資のリスクヘッジなども民間企業の参入によって、アウトソーシング化するべきである。
3.3. 独占・寡占の問題
独占や寡占は市場の失敗の典型と考えられているが、実は政府の失敗によるものだ。弱肉強食の競争を自由放任していると独占や寡占が自動的に成立し、競争が消滅するという考えは、一八七八年以来寡占化が進んだドイツの市場をモデルにしていたのだが、当時のドイツの独占資本主義はドイツ帝国による上からの産業の組織化と統制の産物で、自然発生的なものではなかった。戦前の日本の財閥や戦後の韓国の財閥もそうだ。
政府の後押しがないときには、たとえ表面上独占・寡占が保たれていても、常に新規参入の可能性に脅かされている以上、安易な価格の吊り上げはできない。また情報革命は、独占資本主義を困難にするという側面がある。一般に資本集約的工業社会では大企業のほうが有利だが、知識集約的な情報社会ではアウトソーシングによるネットワークでつながっている中小企業のほうが有利だ。
もっともアウトソーシングによるネットワーク化は、デ・ファクト・スタンダードの獲得による新たなタイプの独占を惹き起こす。しかし技術革新が続く限り、デ・ファクト・スタンダードの覇権は長続きしない。かつてVHSが、ビデオテープの規格をめぐる戦いでベータに勝ったが、DVDの登場で規格争いが再開されている。もちろんウィンドウズOSの場合のように、デ・ファクト・スタンダードの支配期間が長いと、一社が不当に大きな利益を手に入れるとか、技術革新が阻害されるなどの弊害が出てくる。こうした問題を解決するためには、デ・ファクト・スタンダードの知的所有権の有効期限を短くすれば良い。開発者が利益を回収した後で、デ・ファクト・スタンダードは公共財になる。小さな政府という観点からは、ウィンドウズにネットスケープナビゲーターをプレインストールさせるとか、マイクロソフトを分割するといった公権力による民間企業の経営への直接介入は望ましくない。
独占・寡占の一番悪質な形態は、公的権力を背景にした独占である。例えば農協は、業者からリベートをもらって高値に吊り上げた農薬や農機具や日用品を組合員である農家に売りつけ、農協の支配から自立しようとする農家に対しては政府の補助金の支給を停止するなどいやがらせをする。似たような公的権力に基づく独占の構図が医療にもある。公的権力を背景とした医療保険が、国際的な競争力のない医療と医療関連産業を保護しているのである。海外の医者は日本で開業できないし、日本人が海外で手術を受けても保険がきかない。医者と業者の癒着により、医療費が割高になるのだが、保険があるおかげで患者にはコスト意識がなく、医療費の急増に歯止めがかからない。建設業が公共工事受注に際して談合を行っている事実はいまさら指摘するまでもない。
こうした保護産業に見られる独占・寡占の弊害は、国民全体の利益という観点から排除されなければならないのだが、農協や医師会やゼネコンが集票マシーンとして代議士の当選に貢献しているために、長い間聖域視され、改革のメスが入ることはない。この現状を踏まえるならば、独占・寡占の問題を解決するために必要なことは、市場原理を規制することではなくて、市場原理を導入することであると結論付けられる。
3.4. 情報の非対称性の問題
消費者が生産者と比べて情報劣位にあるため、消費者が正しい判断を行えず、市場競争が必ずしも優勝劣敗をもたらさないことも市場の失敗の一つとされている。そこで政府が消費者にとって好ましくない商品を事前に市場に参入させないように規制することが正当化されるが、この規制は、しばしば政府と結びつきのある特定生産者の既得権益を守る役割を持つことがある。政府が安全基準を作って、予防的にチェックすることは、小さな政府の立場からも認められることだが、その際審査機能と生産機能が癒着しないようにすることが重要だ。
安部英帝京大学教授の引き起こした薬害エイズ事件や日高弘義名古屋大学教授が引き起こした汚職事件などでは、あたかも産学協同自体が悪であるかのように思われがちだが、現行の新薬承認制度が抱える最大の問題は、企業が直接医師に委託研究費を払って臨床試験(治験)を依頼するところにある。製薬会社は治験を厚生省に依頼し、厚生省が適任の医師に試験を依頼するというように厚生省が両者の間に入るべきだ。そうすれば、製薬会社はどの医師が治験をするのかわからないし、医師もどの製薬会社の薬を治験しているのかわからないから、製薬会社が、依頼先の医師に不正に便宜を図る事件が起きないようになる。
物の商品の審査について当てはまることは、人の商品の審査にも当てはまる。公教育機関が、教育機関として機能不全に陥っている最大の原因は、卒業認定や学位の授与などの審査機能と教育という生産機能がいっしょになっているため、教育が殿様商売化している点にある。公教育の形骸化は、私教育の発達を促し、フォーマルで中身のない教育とインフォーマルで中身のある教育への二重投資という無駄が生じる。この無駄を解消するには、教育は民が行い、試験は官がするという官民の役割分担が必要である。単位の認定は文部省の資格試験を通じて行い、学位論文の審査は、学会が行い、年齢や通学の有無とは関係なくチャレンジできるようにするべきだ。
3.5. 外部不経済の問題
環境破壊や資源枯渇などの外部不経済も、市場の失敗の典型とされる。ここから、小さな政府よりも大きな政府のほうが地球にやさしいと考える人が多いが、実際はまったく逆だ。政府が生産者の環境破壊をチェックしようとするならば、政府自体は生産活動に従事していけないからだ。政府が経済で果たす役割は、スポーツ試合の審判に喩えられる。審判が監督やプレーヤーの役割を担うと、審判の役割に期待される公平さが失われてしまう。だから審判は審判の役に徹しなければならない。
大きな政府の典型であるソ連は、生産効率を無視し、各企業に生産力の量的増大のノルマを課して重化学工業の発展に力を入れたので、環境保全は後回しにされた。天然資源は国有であるため、価格は低く抑えられ、そのため西側と違って石油危機以後も省エネのための技術革新が起こらなかった。またソ連のような開発独裁体制の下では基本的人権の思想が弱く、環境保護のための市民運動も起こりにくい。実際、アラル海の干上がりなど、ソ連による環境破壊は西側諸国よりひどかった。
現在日本では、環境保護は政府の役割との認識があり、政府が様々な環境ビジネスに着手しているが、その中には眉唾物の事業が多い。例えば、各自治体は牛乳パックの回収を熱心に行っているが、両側にラミレートされたポリエチレンをはがすために処理場で大量の石油と化学薬品を使えば、リサイクル自体が環境破壊になってしまう。しかも再生紙は質が低く、経済的にも採算が取れない。「市民のボランティア活動」と称する搾取労働を動員しつつ、補助金をつぎ込んで環境破壊を促進し、市場原理のもとで採算が取れていた従来の民間の古紙回収業者を駆逐するということが全国で行われている。
通産省と新エネルギー機関は太陽光発電施設に費用の半額を補助することにしているが、太陽電池は製造と廃棄の工程で膨大な石油が必要で、その石油を火力発電に使って得られる電気が、太陽光発電で回収できるかどうかは極めて怪しい。しかし業者は、省エネ度を検証することなく、補助金目当てで太陽電池を量産し、表面的なクリーンイメージを武器に普及を喧伝している。
これらはほんの一例だが、政府が補助金を支給したり、税制上の優遇措置をとったりすることによって、民間企業のコスト感覚と省エネ感覚が麻痺し、首をかしげたくなるようなエコビジネスが続々と出てきている。政府は電気自動車を低公害車と称してその普及に財政的支援を行おうとしているが、いくら電気自動車が直接二酸化炭素を出さなくなっても、発電を車体の外部で石油を燃焼して行っていては、最終的には環境破壊の促進になってしまい、自動車の燃費もかえって高くなってしまう。燃費の良い自動車は、政府の支援がなくても市場原理に基づいてよく売れるのであって、政府は、環境を重視すると経営がダメージを受けるから、補助金で補償しなければならないという固定観念から脱却しなければならない。
政府の役割は、環境に良い事業を遂行することではなく、環境に悪い事業を規制することである。例えば、塩化ビニールのようにダイオキシンの原因になる素材に対して高い環境税を課せば、企業はコストを削減するために酢酸ビニールなどの代替物を開発するようになる。ごみを燃やすことができるようになれば、政府からの補助金がなくても、廃棄物発電が民間の営利企業によって行われるようになる。ポジティブに生産活動にコミットするのではなく、ネガティブにルール違反にペナルティを科すことが小さな政府の役割である。
大きな政府の理想は、政府が公共性という観点から生産活動にコミットすることである。しかし実際に起きていることは、一部の生産者による公権力の私物化である。そうした私物化は、決して偶然に起きる倫理欠如のレベルの出来事ではなく、普遍的な公権力の担い手が、個別的な利害を持った個人であることから必然的に帰結する堕落なのである。
大きな政府が表向きには公共性を掲げながら、実際にはその逆の結果をもたらすのに対して、小さな政府は、個人の利己心を否定せず、むしろ肯定することによって、逆に利己性を公共性に昇華させる。市場の失敗と思われた公共性欠如の問題が実は政府の失敗であるという逆転は、こうした表と裏の逆転から説明できる。
4. 日本経済再生の鍵としての市場原理の導入
財政再建を旗印に掲げた橋本内閣は、消費税率を引き上げ、特別減税を打ち切り、医療費の直接負担を増やしたが、これが九七年から始まる橋龍不況の原因だと言われている。しかし橋本内閣の財政再建策が失敗したのは、それが《行政改革による財政再建》ではなく、《行政改革なき財政再建》だったからだ。小さな政府による財政再建の理念は、歳出を減らすことによって財政赤字を減らすことであって、橋本内閣のように歳入を増やして財政赤字を減らそうとすることは大きな政府のすることだ。
ところが、行政改革(構造改革)と財政再建との区別がつかない人々の間で、構造改革は景気回復に悪影響だから、景気が回復するまで構造改革は先延ばしにするべきだというコンセンサスが生まれている。小渕内閣も、大きな政府の弊害をなくすことによってではなく、大きな政府の手法で不況を乗り切ろうとしている。大きな政府のもとで、アンシャンレジームの寄生虫の延命を図るのならば、日本の国際競争力はますます落ちていくことになるであろう。市場原理を大胆に導入し、構造改革を推進し、日本の生産性を向上させなければ、日本経済を活性化させることは不可能である。
5. 参照情報
- ↑このテーマの詳細に関しては、拙著『市場原理は至上原理か』を参照されたい。本稿は、この本の要約でもある。なお、本稿は、1999年に最初に公開したが、その後若干の加筆を行っている。
- ↑1872年に、英国で労働組合が合法化され、1881年に、米国で、後のAFLの前身となる労働組合の発足し、1884年に、フランスが労働組合を合法化し、1897年に、ドイツ自由労働組合連合が設立されるなど、19世紀に組合活動の合法化と全国組織の設立が相次いだ。
- ↑さらに起源を遡ると、フレデリック・テイラーが20世紀初頭に提唱した科学的管理法に行きつく。レーニンは、科学的管理法を当初批判していたが、後にその課業管理を採用し、ノルマ設定を行った。第二次世界大戦後シベリアで抑留され、ノルマを課せられて働いていた日本人が、帰国後日本でこのロシア語を流行させたという次第である。
- ↑私が謂う所の「市場原理至上主義」に対応する英語表現として"libertarianism"がある。但し、この呼称は、しばしば無政府主義(市場経済至上主義)と同じ意味で取られるので要注意である。かつては自由主義を意味したリベラリズムやリバタリアニズムに関しては、拙稿「リベラリズムとリバタリアニズム」を参照されたい。
- ↑“Many forms of Government have been tried and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time." Winston Churchill, speech in the House of Commons (November 11, 1947); in Robert Rhodes James, ed., Winston S. Churchill: His Complete Speeches, 1897–1963. Chelsea House Publishers / R.R. Bowker Company (1974), vol. 7, p. 7566.
ディスカッション
コメント一覧
あなたのサイト全体を検索していないので、どこかで言及があるかもしれないが、市場主義に関するページを眺めて、ぱっと気づく問題を挙げます。
それは、フリーライダー問題などの正の外部性関連の話題です。外部不経済の話で、負の外部性ばかり議論しているのがどうもよくわからん。あなたのようにいろいろ勉強しているような人が、正の外部性に関する議論を「知らなかった」というわけはないだろう。今、確かに民主党などが主張するように、市場を利用したルール型規制はわかりやすいけど、所有権を適切に定義しなおせば、あとは取引によって利益がでるような財しか適用できませんよ。例えば、外部経済の大きな知的財は物によってはパブリックドメインが最適でしょ?ほかにも、防衛とか地域づくりとか(誤解しないでくださいね。地域づくりとはコミュニティーのクラブ財供給関連のことを言っています)。
関連して、「公共財」という言葉の使い方(正しくつかっているところもありますが)に問題を感じます。少なくとも、排除費用がそれほど大きくなく、PFI とかで料金収入を主体に運営できるような施設は経済学的には公共財ではありません。
外部不経済の問題を取り上げたのは、それを理由に市場原理至上主義を批判する人がいるからです。外部経済は、経済主体にとって有利な効果ですから、それを理由に批判をすることはできません。なお、「外部経済」という言葉自体は、本文にも一箇所で、使われています。
非市場経済の外部経済を強調して、市場経済の限界を主張する人がいますが、そうした議論は、市場経済批判になりえても、市場原理批判にはなりえません。「市場原理至上主義」と「市場経済至上主義」の違いについては、「2.2. 市場原理は民主主義を破壊するという誤解」をご覧ください。
本文で、「公共財」という言葉を二回使いましたが、どちらも、消費の非競合性と消費の排除不可能性を兼ね備えた財という意味で使っています。また、PFIは、本来、無料道路や公園のような、消費者から直接料金を徴収しない施設の建設や運営に導入される手法です。
まず、人間としての誠実さを示すために、先に謝罪しましょう。
こちらは、「民間企業によって提供される公共サービスに対して住民が対価として税金を払う公共財市場における透明な媒体としての役割に徹するべきである」のセンテンスを誤解していました。すみません。また、PFIは、本来、無料道路や公園のような、消費者から直接料金を徴収しない施設の建設や運営に導入される手法です。これは、おっしゃるとおり。こちらも、全くすみません。
このほかは、あなたの答えは答えになっていません。
これは違いますね。まず、当然ながら、なんで「外部」かというと、当該経済主体にとって、外部経済が経済的に価値を持たないからです。せいの外部経済効果は、「他の」経済主体にとって有利になる。外部不経済だって同様に、本人にとっては被害はありません。(というか、より正確に言うと、もちろん本人も社会の一員なので、外部経済の種類によっては本人も一人分の影響は受けます)
次に、まさに正の外部経済をもたらす財の過小供給が、政府の積極的役割のレトリックの一つとして使われてきたはず。つまり、正の外部経済が大きいのに、コスト負担と利益が所有者のみに関係し、市民の効用関数が財などの豊かさのみによるような意味での、狭い意味での市場社会は明らかに失敗です。私のメールで例をあげたでしょう?経済学の本にも、正の外部性の過小供給の議論なんてどこでもあるじゃないですか?これを無視するのは何故か?というのが質問だったのです。
で、この辺の「定量的な」ニュアンスは、「市場」という言葉の使い方、および外部性の程度に応じて大いに変わってきます。で、言葉の定義のほうについて言うと、少なくとも私の感覚では、あなたの「市場」という言葉の使い方は、英米系の分析哲学的ではない。端的にわかりにくいです。だから、もし、あなたが、そもそも質の良い政府のような公共意思決定を全て民主的=市場(?)と呼ぶのであれば、ある意味問題はほとんどトートロジー的に解決しているので、ほとんど突込みはできない。でも、このことは、後で突っ込みを入れます。
ほとんど意味ない形で使われています。
読みましたよ。でも、一言で言えば、民主政治が市場の一種という主張でしょう?まあ、私の質問の答えとしてのニュアンスが感じられるのは、市場経済の外部性は全部民主主義で逃げちゃえということですが、こうした論調は問題ですね。民主主義の内容がしっかり定義されない限り。この辺、突っ込めば、そもそも、民主主義を市場原理の一種だという人なんてそんなにいないんじゃ?というか、もし、そんな広い言い方をするんだったら、おっしゃる市場の定義の「市場原理とは、複数の供給と複数の需要が自由に相互選択することにより評価が決定される複雑系の原理である」の「自由に」というところの内容をしっかり詰めてほしいですね。
例えば、多数派の圧制のどこが「自由な」相互作用なんですか?最初に民主制度を認める社会契約が自由だから、後はどういう判断を民主主義がしても、全ては自由な相互作用なんですか?意図せず生まれてきてもろもろの義務を負う日本人は?通常の使い方の市場は、「個別の取引契約」が関係者が自由意思でサインしない限り効力を持たないという意味で自由ですよ。このほか、論じればきりがありません。もし、興味があれば、考え方や文献などを紹介してもいいですよ。
あと、仮に、単独ではその論理を認めたとしても、負の外部性に関する対処の「具体的」な仕方は書いてあるのに、正の外部性への対処の「具体的な」仕方は書いていないのは、バランスとしてどうなんですかね、とでもいえますか。
最後に、もしよろしければ、あなたの言論のスタンスを教えてください。もしくは、どこかにそれが書いてあれば、教えてください。つまり、はっきり言って、市場原理のエッセーは読み物としては面白いけれど、理論的にはかなり甘い。一般人の啓蒙が目的ですかね?あなたは、いわゆるプロの「ライター」の一人ですか?あなたの言論の学問的価値と別に、あなた固有の才能は大変尊敬していますので、誤解のないように。
御批判の前半の部分がいまひとつ明確でないので、確認の質問をしますが、「正の外部経済が大きいのに、コスト負担と利益が所有者のみに関係し、市民の効用関数が財などの豊かさのみによるような意味での、狭い意味での市場社会は明らかに失敗です」という主張は、市場経済は、非経済的な効用をも含めた外部経済が、政府サービスと比べて小さいから、社会全体の効用を増大させる上で、限界があるということを言っているのですか。
なにか、微妙に違う気がします。というのは、私は少なくとも「非経済的」効用という言葉を使わないからです。少なくとも、一部の分野を除くと、ミクロ経済学では非経済的効用なる概念はあまり聞いたことがありませんね。で、おっしゃるニュアンスを汲み取って、誤解だと想像するものを解いておくと、最近(というかノーベル経済学賞のセンなんかははるか昔から取り組んでいますが)の話題の一つとしては、 interpersonal utility というのがあります。つまり他者に対して慈悲の心、もしくは逆に憎しみなどを持つ効用というのは独自の数理的な問題を抱えます。で、こうした他者との共感というのは、なにか非経済的というイメージもあるかもしれない。
しかし、正の外部性というのは、効用的には一人一人が単独で感じえるものです。これは、公共財、もしくはそこまで極端でなくても借景など、いずれにしても財が持つ性質ですね。で、そうした正の外部性を持つ財が市場経済では過小供給される、という極当たり前に経済学の教科書に載っている内容が主張です。ごめんなさい、読みにくい日本語で。もっとも、簡単な例は、あなたのエッセーにもありました公共財の過小供給です。
で、確かに、あなたのエッセーでは簡単に説明されています。PFI 、あと暗黙のうちに説明に入っている(実施の仕方は良くわからない)リンダールメカニズムで万事オーケーという感じですかね。これについて触れなかったことは、これもまた私の落ち度でしょう。まあ、しかし、エクスキューズとしては、分量が負の外部性に比べてはるかに少ないことを鑑みてお許しを。もっとも、あなたのサイトをブラウズしたら、公共財供給の少なくとも特定の側面については、インタビュー形式のものに詳しく書かれていたので、「サイトをしっかり見てから批判しろ」とおっしゃられると痛いです。結局、こう考えると、私の批判は全て、「あなたが、かなり広い曖昧な意味で市場原理と言う言葉を運用している」ということに尽きるのかもしれません。大変申し訳ありませんでした。
なお、先のメールで文献や考え方を紹介するといいました。せっかく、あのようなちょっと失礼かもと思う投稿に返事をいただけたので、簡単に補足すれば、経済学者は、「市場」を参加者が合意するスポット契約による取引という意思決定方式で財の配分を決定する 方式であると定義するでしょう。
あなたは、なにか市場経済でなければ民主主義というニュアンスで語られているように感じましたが、むしろ民主主義については、少なくとも投票関連は意思決定コストや利害調整(アローの問題なども含めて)などあまりに性能が悪いので、極力それを使わないように、どうしてもやむをえない場合のみ使っているといっても、実は過言ではありません。例えば、株主総会は確かに民主的に見えますが、それ以下の技術的経営意思決定のかなりの部分はトップダウンと分業でしょう?で、この辺の最適な意思決定方式を模索するべく、例えば企業の経済学があったりするのです。そこでは、例えば取引コストが小さくシナジーが小さい場合などは、部門をスピンオフさせたりして、まさに市場(経済)をソリューションとして利用するのが良いとか、実質のある議論ができるわけです。
「非経済的な効用」という言葉は、「財などの豊かさのみによるような意味」の「のみ」に対する私なりの解釈でした。国立大学の民営化をめぐる議論などでは、「経済的価値ばかりを追求すると、文化的価値が疎かになる」とか言って反対する人がいるので、それと同類の批判かと思いました。
公共財供給の方法は、交渉(リンダール・メカニズム)よりも、投票による方法のほうが望ましいでしょう。ただし、御指摘のような多数派のエゴの問題が顕在化しないようにするためには、そして投票の負担を減らすためにも、投票による決定事項は、一般的なルールあるいは基準の決定にのみ限定するべきです。
市場経済と民主政治は、経済と政治が異なるという意味でなら異なりますが、市場原理と民主主義は同じであると私は考えています。それは、政治・経済・文化といったジャンルの違いを問わず、各個人に最大限選択の自由を認める社会システムのあり方です。民主主義の語源は、「大衆による支配」ですから、「話し合い」や「交渉」は、必ずしも必要ありません。
民主政治が市場経済と異なるところは、税金を払うことで買いたいと思った商品(行政サービスのこと)を必ずしも買うことができないということです。ですから、公共財の範囲はできるだけ小さくすることが望ましいのです。外部経済は、たまたまその恩恵に浴することができた人にとっては望ましいとしても、受益者負担の原則を歪めるという点では、好ましくありません。
はっきり言って、話がかみ合っていないので、この投稿を続けてどの程度生産性があるかわかりません。まず、、先の投稿に書きました独りよがりの宣言どおり、返事がいただけたので、あなたのエッセーのテクスト分析を行っておきます。参考になれば幸いですが、たぶんならないでしょうね。
あなたの市場原理擁護(誤解(?)への反駁)の構造は、大まかに言うと、3種類に分類できます。
1) 普通の経済学者が行うような、通常の意味での市場経済擁護。いわゆる厚生経済学の基本定理、情報処理の分散、価格メカニズムのその他の性能などの紹介。負の外部性の対処として、なるべく外部性を内部化するように処理しましょうみたいなものがこれ。
2) 通常は、明らかに混合経済、つまりは市場の失敗をなんらかの形で補完するという文脈で語られる解決策を、市場の問題ではないとして、著者の知識(でも、この知識のかなりの部分は、結局混合経済の視点で営まれた経済学などの成果なんですけどね)の範囲内で解決策を提示。(保険ではなく)治安維持目的の極貧への再分配、金融政策などがこれ。
3) 2)で具体的に解決策が書かれていない問題については、暗黙、明示的ともに民主主義で解決することを示唆。もちろん、一番の典型は 2.2。次に、念のため自己紹介しておきますと、私はかなりミクロ経済学周辺は専門に近い博士課程の学生で、その辺の素人評論家とは違うつもりです。まあ、逆に「書く」という作業については素人かもしれませんがね。あなたは、逆に明らかに書くプロですが理論の(相当優秀な)素人ですね、すくなくとも民主主義と市場の分野については。
私のほうは、一応ミクロ経済学(世界の正統派の学会の流れ)周辺の「市場」の意味ある学問的な利用法についてご紹介申し上げることで、返事をいただけたお礼にあなたにも一応の知的付加価値を感じていただけたら、と思いましたが、どうも全くご興味がないようなのでやめにします。独りよがりで申し訳ありませんでした。私のほうについても、同様に、あなたから最後に戴いた「具体的な」テーマに関する返事で、知的に新たな情報として得られるものは残念ながら一つもありませんでした。
特に私の学問的視点からの批判、具体的には「自由なスポット契約が意思決定メカニズムであるのが市場であるというという言葉使い方に対して、民主主義を市場であるというとき、あなたは一体なにを想定されるのか?」ということに全く「対話」することなく、独自の視点から相変わらず曖昧に民主主義と市場が同一であると「主張」され、「論証」されていないのが、あなたご自身がご自分のことを哲学者だとおっしゃっているのに残念でなりません。民主主義が最大限自由を認める「どういうありかた」なんですか?投票ですか?あまりにブラックボックスですね。それとも、どこかに民主主義についてもお書きになって、市場経済レベルに正確に輪郭を説明されているんでしょうか?
せっかくなので、単純な用語のミスを修正しておきます。リンダール・メカニズムとは、交渉ではありません。あなたのエッセーの中にあるのと似ている「市民が自分の公共財に対する効用を支払いで表すという形で、直接市場のように公共財を供給する仕方」です。あなたの場合は、政府が「支払い意思を汲み取る」ということでしたが、これが正確にできるんだったら、上述の直接支払いと数理的には同じ供給が可能です。でも、正直に市民が自分の効用を言わないのが問題です(フリーライダー)。
次に、外部経済「効果」についてわたしは語っていて、(もしおっしゃっている用語が市場の外で営まれる経済活動という意味ならば)外部経済が望ましいなんて一言も言っていません。もともと正の外部経済効果を持っている財が市場で過小供給されると言っているんです。そのまま、市場(経済)だけで経済運営して、正の外部経済効果を与えてくれる財を供給しなくても良いんですか?という問題。通じないですかね、この日本語。なお、もちろん、市場(経済)は一つの(決して常に至上ではないですよ)性能が良いメカニズムなので、外部経済効果を内部化するというのは外部経済効果に対処する有力な方法です。でも、紹介した企業の経済学と関連しますが、例えば企業が他の企業を買収したりするのは、市場取引では生かされない情報や技術の共有などのシナジーを、むしろ市場の外の「組織」というメカニズムを使って引き出そうというのがねらいです。なんか、経済学用語を非経済学的に使われると混乱しますね。
これまでの投稿内容をもう一度よく読みなおして、私なりに論点を三つに整理して、私の見解を述べることにします。
1.民主主義は本当に自由な選択を可能にするのかという問題
「私たちには、究極的な自由があるのか」という哲学的な問いに対しては、否と答えなければなりません。私たちは、どこに生まれるかを選ぶ自由を持っていません。また、私たちが自由と呼んでいるのは、欲望を満たす手段の選択にのみかかわり、欲望それ自体の選択にまで及びません。しかし、あなたが問題にしているのは、こうした、どのようなシステムを選択しても越えられることができない、人間的自由の絶対的限界ではないはずです。
こう前置きした上で、市場原理=民主主義は、自由の幅を最大限広げるシステムのあり方だと言うことができます。たしかに、個別の取引契約で購入する商品とは異なり、公共財の場合、「税金を払うことで買いたいと思った商品を必ずしも買うことができない」わけですが、だからといって、社会契約が有名無実というわけではありません。もし自分の国の政治に満足できないならば、自分が理想とする国へと国籍を変えるという選択肢があります。そしてこれは、古い社会契約の解除と新しい社会契約の設定を意味します。
現在、多くの国は、国籍変更と移住の自由を厳しく制限していますが、これは市場原理に反しています。もしも国籍と居住地を自由に選択できるようになれば、政治でも個別的契約が可能となります。自分が、多数決原理で不利になる少数派であることに不満があるならば、自分が多数派の一員になる国を選べばよいのです。もちろん、自分が理想とする国が世界にないということもありえますが、それは市場経済での商品の選択でもあることです。
2.市場経済では正の外部性を持つ財が過小供給されるという問題
まずは言葉の定義から。『有斐閣経済辞典』(第3版)は、「外部経済」の一つの意味として、「外部効果のうち、経済主体にとって有利な効果のこと」を挙げています。私は、この言葉をそういう意味で使っているのであって、「市場の外で営まれる経済活動」という意味では使っていません。
「過小供給」という言葉は、「望ましい水準よりも少ない供給」ということを含意しているので、あなたは、「外部経済は望ましい」と考えていることになります。しかし、私は外部経済も外部不経済も望ましいとは考えていません。内部/外部の効用の総和が変わらないのならば、正負を問わず外部性を内部化した方が、経済活動のモチベーションを高めることになります。
あなたは、「市場(経済)だけで経済運営して、正の外部経済効果を与えてくれる財を供給しなくても良いんですか」と問うていますが、私は無政府主義者ではありませんから、公共財は不要だとは主張していません。
3.公共財供給の意思決定はいかになされるべきであるかという問題
リンダール・メカニズムとは、消費者と社会的意思決定者が、公共財の費用負担の割合を「交渉」によって決定するメカニズムのことですね。これだと、虚偽の申告によって公共財の利益を得るフリーライダーが出てくるので、可能的な受益者に、投票で意思決定させたほうが良いと言ったわけです。ところで、「あなたのエッセーの中にあるのと似ている」とありますが、具体的にどのページのどの箇所のことを言っているのですか。
最後に、一番どうでもよいことですが、私の著作のスタンスについてお答えいたしますと、私は、いわゆる「啓蒙」のために書いているわけではなく、自分の見解を世に問うために書いているのです。
スタンスを教えていただいてありがとうございました。世に問うことが目的ならばなおさらあなたは「対話」するべきではないですか?ご自身が自分のことを形容される哲学者の基本も対話であるはずです。
あまりに通じないので、最初に一番重要な問いを書きます。私の質問はこれで3回目以上になると思いますが、民主主義とは具体的にどのような意思決定手法のことを言っているのですか?「市場原理=民主主義は、自由の幅を最大限広げるシステムのあり方だと言うことができます」というのが具体的だとおっしゃるのですか?
以下は、それ以外の論点。
1.まず、「自由」について。おっしゃるように、私は、「究極的」自由なんて一言も言っていません。私は、端的に「自由取引」が市場経済の本質で、その意味で市場経済が自由だといいました。逆に言えば、取引が成立しない限り、当然所有権は民法で守られ、他者に侵害されません。逆に言うと、あなたは他者の所有権を侵害する自由はありません。つまり、市場経済というのは、McKenzie の言葉を借りれば、bound to be free です。
「市場原理=民主主義は、自由の幅を最大限広げるシステムのあり方だと言うことができます。」とありますが、私は、民主主義の中身を聞いて、それで「本当に最大限広げるシステムなのかどうか評価したい」という感じです。なんで、あなたは、民主主義をブラックボックスのまま論じられるのですか?それとも、あなたのエッセーにちりばめられている言葉の使い方から、パターン認識的に学べというんですかね?それとも、「自由の幅を最大限広げる」というのが、あたかも公理のように作用し、具体的な中身は定理のように指定できるんですか?例えば、交渉理論のナッシュ交渉解がいくつかの公理を満たす唯一の解であるように。もし、そうならば、私程度の読者にはわかるように定理の中身を議論していただけるとうれしいですね。
2.国籍の自由移動については、普通の言葉でいえば市場経済です。だから、これは私も条件付で同意しますし、昔から経済学関係の文献で、それこそ「政治=民主主義」の失敗を防ぐ有力な市場の利用と考えられています。私の知っている中では、そうした発想で作られているものはアメリカ合衆国が一番古いかな。国籍の自由移動もあなたにとっては民主主義ですかね?
しかも、そもそも国籍移動が不自由なのは、むしろ普通はより自由主義・民主主義的と言われる豊かな先進国の入国制限によります。貧乏国からはみんな先進国に移動したいわけ。
さらに言うと、単なる誤解かもしれないが、国籍移動を規制するのも、我々が普通民主主義と呼ぶようなシステム、すなわち国連とか、国家なわけですが、この辺はどうコメントされますか?
まあ、現実には、国籍移動を制限することは、仮にあなたが市場原理に反するとおっしゃっても、ある意味市場経済を守るために必要ですね。というのは、貧乏人は、福祉などで存在自体が負の外部性をもたらすからです。あと、当然国土は公共財であり、人口集中は過密という負の外部性をもたらしますね。また、もっと素朴に、国家というインフラをクラブ財とみなせば、会員資格に高い障壁をもうけるのは、少なくとも通常の市場という言葉の使い方においては、当該クラブ(もしくはそれこそ所有者の民主的意思決定)の自由ですね。で、このようなことからもわかるように、言葉の定義はましてや哲学においては基本中の基本だと思うのですが。
3.外部経済効果についての議論は、もうやめます。そのごく一部の議論として公共財供給は適切なレベル(これが市場経済では過小なレベルになるといっているわけ。経済学者どころか、経済学のまともな学部生なら誰でも通じる言葉遣いなんですがねえ…)でするべきだということで意見を一致させましょう。わたしは、あなたが公共財不要論を唱えているなんて一言も言っていない。ただ、これは通常、経済学では「市場(経済)の失敗」の一つとされます。市場が使えなかったりするので、その供給の「具体的な」仕方にいろいろ仕組みを考えるのに苦労しているわけです。
リンダール・メカニズムが「交渉によります」か?何処の文献?また、先の辞典ですか?まあ、人のことを信用なさらずに、ご自身の素人のソースで経済学用語をお使いになるんでしたら、どうぞご自由に。まあ、おそらく「世に問う」なかに経済学会は含まれないので、問題はないのかもしれません…。先の外部経済の定義だって、意味がわかって使っていなかったら、不正確になりますよ(つまり、辞書の日本語の説明には理論的背景がつまっているんで、文字だけとっても仕方ないです)。ちなみに、似ているのは、「公共サービスに対して住民が対価として税金を払う公共財市場における透明な媒体」の部分です。「対価」を決めるのは各住民。もし、おっしゃっているのが、aggregate された消費者余剰としての対価ならば、似てません。
で、投票が良いとおっしゃいますが、少なくとも投票に関する数理的性質は、市場経済と全く異なって、それこそ「至上」原理なんてとんでもないことはご存知のはず。だから、いろいろ状況によって、集団意思決定の方法を模索するのです。で、あなたのように、ぽんぽんとそれほど厳密な検証もせず「投票がよい」、とか「国籍の自由移動で解決」などとおっしゃらずに、いろいろ条件指定して一生懸命、市場(経済)、官僚組織、投票など各種の仕組みの性能を探っているのが経済学なわけです。
あなたの市場という言葉の使い方では、例えば、楽団の間の議論で演奏を決めるオルフェウス管弦楽団と通常の優秀な独裁者である指揮者を置くオーケストラが両方市場原理で片付けられそうですね。
あなたは、言葉の用法に対する許容度が低い方のようなので、「言葉の定義」は「哲学においては基本中の基本」ですが、そもそも定義とは何かという話からしなければなりません。
言葉の意味とは、将棋盤上の駒と同じで、全体における位置によってその値が決まるのであって、言葉それ自体に固定的な意味があるわけではありません。言葉の意味は、その言葉を使っている人の理論体系と分かちがたく結びついています。だから、私が使っている言葉も、私の「理論的背景がつまっているんで、文字だけとっても仕方ないです」。
経済学の用語を学界の標準的な意味で使えということは、学界の標準的な見解に従えというのと同じことです。言葉の定義は一つであるべきだという考えは、異端的な理論は存在してはいけないという考えと同じです。
もちろん、例えば、「犬」という意味で「猫」という言葉を使ったりすれば、コミュニケーションは成り立ちません。辞書的な、常識的な用法を著しく逸脱することは許されません。しかし、通常とは違う独自のニュアンスをこめることなら許されます。
定義、すなわち理論が全く異なるなら、コミュニケーションは不可能です。逆に、定義、すなわち理論が全く同じなら、コミュニケーションは不必要です。だから、もしも対話を望むのであれば、言葉の定義が違うことにいらだってはいけません。
私が使っている「市場原理/民主主義」という言葉も、私の理論体系の中でしか意味を持ちません。抽象的な定義でよければ、いくらでもしますが、具体的には何かと問われれば、私の具体的な議論を読んでもらうしかありません。