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至上原理としての市場原理

1999年10月22日

市場原理に対する論壇の評価は、89年に東欧で、91年にソ連で社会主義体制が崩壊した時に頂点に達したが、その後、97年にアジア経済危機が、98年にロシア経済危機が始まると、グローバル市場経済に対する懐疑的な見方が広がった。それにもかかわらず、経済・政治の原理として、市場原理以上の原理がないという意味で、市場原理は至上原理である。[1]

skeezeによるPixabayからの画像
ニューヨーク証券取引所。

1. なぜ今小さな政府か

一般に、大きな政府が望ましいか小さな政府が望ましいかは、市場が数量調節的であるか価格調節的であるかによって決まる。アダム・スミスのような古典派経済学者が、自由放任でも神の見えざる手が働くと考えた頃、ヨーロッパの市場に出回っていた商品の大半は農作物だった。農作物は普通保存がきかないから、売り手は、売れなければ値段を下げてでも売り尽くそうとする。また当時は労働組合などなかったから、資本家は賃金を自由に決めることができた。このように価格伸縮性に富む市場では、国家が余計なことをしなくても、過剰在庫や失業は自動的に解消される。

工業化が進み、長期保存が可能な商品が増えると、生産者は価格を下げることによってではなく、生産量を縮小することによって不況に対応しようとする。また労働組合は労働者の生活を保証するために最低賃金を守らせようとする。このような価格硬直的な経済では、在庫調整のために生産が縮小すれば、失業者の数が増加し、有効需要が減少し、不況がさらに深刻化するという悪循環になる。この悪循環を断ち切るためには、政府が公共投資を増大させるなどの財政政策を行う必要がある。

しかし近年、工業社会的な価格硬直的経済に変化が生じている。具体的にはここ30年ほどの間に次のような現象が現れてきている。

  1. 71年にブレトンウッズ体制が崩壊し、73年から為替レートが変動相場制になった。そのため輸入品の物価は、自国通貨で換算すると分単位で変動するようになる。
  2. 年功序列が崩れ、給与に占める能力給のウェートが増えつつある。派遣社員などよりフレキシブルな賃金体系の職種も増え、全体として労働商品の価格も伸縮的となってきている。
  3. 流通革命によって価格破壊が進み、スーパーや通販では希望小売価格以下での販売が当たり前となった。メーカーの中にはオープン価格で販売するところも出てきた。
  4. モデルチェンジの周期が短くなり、新発売から時間がたった家電製品は、生鮮野菜のように値段を下げるようになった。例えばパソコンは半年で値段が半分になる。
  5. 将来オンライン上でデジタルコンテンツ商品がダウンロードできるようになると、消費者が複製をするわけであるから、生産者側からすれば、もはや数量調節という概念自体が意味をなさなくなる。

これらの現象の背後にあるのは、情報革命である。工業革命(産業革命)以来、量的拡大再生産を続けてきた資本集約的工業社会は、70年代に「成長の限界」に突き当たって、知識集約的情報社会への転換を余儀なくされた。

多くの人は、情報革命をインターネットの普及に代表されるような情報技術革新と認識している。しかし情報革命をもっと根本的に定義するなら、それは、産業の目標が量的拡大から質的向上に変わることである。卑俗な例を挙げると、人は空腹の時には一枚のパンより二枚のパンを望むが、量的拡大が限界に達すると、今度はおいしいパンを食べたいというように質を求めるようになる。モデルチェンジの周期が短くなるのは、消費者が質にこだわるからだ。質を重視するなら、選択の自由を広げなければならない。以前は近くの商店街にしか行かなかった人が、自分にあった商品を探すために、自動車で郊外のスーパーまで出かけたり、通販で商品を購入したりする。欲望が多様化すれば、生産者側も商品の差別化を行わなければならない。労働商品も差別化される。生産者が得意分野に特化すると、グローバルな分業が進む。グローバリゼイションが広がると国境を超えるマネーの量が増大し、中央銀行は為替相場を固定することができなくなる。だから為替相場は変動制にならざるを得ない。

公式的に言うと、市場経済が農業社会的段階にあるときには小さな政府が、工業社会的段階では大きな政府が、情報社会的段階では小さな政府が有効である。サッチャー革命は決して19世紀の夜警国家に後退する「復古的」な保守主義ではなく、情報革命がもたらす新しい時代を先取りする革新だったのである。

2. 誤解されている市場原理

市場原理を嫌う人の多くは、市場原理を正しく認識していない。市場原理とは、全ての選択主体に決定権があるにもかかわらず、否それゆえに、全ての選択主体に究極的な決定権がない相互選択・相互評価の原理であり、経済のみならず、政治や文化など、近代の民主主義社会全般を特徴付ける原理である。この定義に基づいて、我が国の論壇で散見されるステレオタイプ化した市場原理批判が前提している代表的な誤解を取り上げ、正していきたい。

2.1. 競争原理イコール市場原理という誤解

市場原理とは、複数の供給と複数の需要が自由に相互選択することにより評価が決定される複雑系の原理である。市場原理にとって、競争は必要条件だが、十分条件ではない。競争には、市場競争以外に、次のような競争があるからだ。

  1. 例えば、戦国大名が領土を奪い合う競争は、企業が市場のシェアを奪い合う競争とよく似ているが、前者は後者と違って、相互選択による決定メカニズムがないので市場競争ではない。もしも、ちょうど消費者が商品を選択する自由があるように、係争地の住民が投票で領土の帰属を決めることできるのなら、市場原理が機能していると言えるが、戦国大名にとって百姓は家畜同然の存在であって、勝負はたんなる力と力のぶつかり合いによって決まる。暴力的競争と市場競争は同じでない。市場原理を導入すると日本はアメリカのような暴力社会になると扇動している人たちはこの点がわかっていない。
  2. また茶坊主たちが揉み手をしながら出世を競い合い、一人の主人の一存で勝負が決まる競争も、市場原理に基づく競争ではない。一人の人間の意思で全体をコントロールできないところに市場の特徴がある。銀行のMOF担が、少しでも有利な取り計らいに与かろうと先を争って大蔵官僚に接待攻勢をかける競争は、ビッグバンで求められる競争とは種類が異なる。

市場原理を導入すると、平和な無競争社会が競争社会になると考えることは間違いである。人間の社会が競争社会でなかったことはこれまで一度もなかった。市場原理を導入する効果は、戦国大名の競争や茶坊主の競争などの不健全な競争を健全な競争にするところにある。経済戦略会議は、「健全で創造的な競争社会」を提言したが、「健全で創造的な」という修飾語句はだてに付いているわけでない。

2.2. 市場原理は民主主義を破壊するという誤解

すべてを市場原理に委ねると貧富の格差が広がるので、市場経済は民主主義の敵だと考えている人が少なくない。だが、経済的平等は民主主義の必要条件でもなければ十分条件でもない。共産主義的独裁者が、独裁的権力で反対者を抹殺して経済的に平等な社会を作っても、それは民主主義社会とは言えない。逆に経済的不平等が公正な競争の結果であると民主主義的手続きで是認されている社会の政治形態は、独裁的ではない。民主主義の必要十分条件は、政治的平等であって、経済的平等ではない。

市場原理は、民主主義の敵どころか民主主義そのものだ。市場経済では、人気商品は、消費者の購入という投票で決まる。このメカニズムは、権力者が規制や補助金を使って特定商品を消費者に押し付ける場合よりも民主主義的である。

そもそも歴史的経過からすれば、近代民主主義は、市場原理を政治の領域に応用することによって誕生した。市民革命以前の権力者は強盗と同じであり、武力で農民を脅して税を巻き上げるだけで、税をどう使うかは権力者の勝手だった。ところが市場経済が発達してくると、財だけでなく、土地や労働力そして国家までが商品化されてくる。複数の候補者から有権者が行政サービス提供者を選び、選んだ行政サービスへの対価として税金を払うというのはまさに国家の商品化である。実際、近代議会が成立した当初は、高額納税者にしか選挙権はなかった。

民主主義社会では、直接政治活動をする市民団体も中にはあるが、多くの市民は、時間がないか知識がないかのどちらかの理由で、自分たちの政治的インタレスト(利害)を代議士に委託して、間接的に政治に参加している。金融市場でも、直接株や債権に投資する人も中にはいるが、多くの資産保有者は、時間がないか知識がないかのどちらかの理由で、自分たちの経済的インタレスト(利子)をファンドマネージャーに委託して、間接的に金融に参加している。民主主義政治と市場経済は構造的に同一である。市場の力を暴力的と感じる人々は、国民の声を雑音としか感じない官僚と同様、反民主主義的である。

市場原理至上主義は、市場経済至上主義ではない。市場経済の欠点は政府によって補わなければならない。しかしその政府は民主主義という別の市場原理によって支配されている。したがって、現代社会を究極的に支配している原理は市場原理なのである。

2.3. 万能ではないから至上原理ではないという誤解

民主主義政治に衆愚政治になる危険があるように、市場経済には衆愚経済になる危険がある。市場経済はこれまで過大評価や過小評価によって判断を誤り、経済を混乱させてきた。市場原理は万能ではない。市場の判断は、政治家や官僚の判断と同様に、人間が判断するのだからしばしば誤る。にもかかわらず二つの点で市場主導の意思決定メカニズムは、政治家や官僚などのエリート主導の意思決定メカニズムよりも優れている。

第一の長所は、市場は自分たちの判断の過ちを早く素直に認め、機動性に富む対応をすることができるところにある。市場は、分単位のスピードで評価を変える。政治家や官僚などのエリートは、責任ある立場にあり、しかもプライドが高いので、たとえ自分の過ちに気が付いても、容易には認めようとせず、既定路線をそのまま走りがちだ。ソ連経済が崩壊したのも、日本経済が低迷しているのも、行政機構が硬直化していて、環境の変化に素早く対応して構造改革をする能力がないからである。

第二の長所は、エリートが独占的な権力を握っている場合、特定の利益団体と癒着する危険性があるが、市場主導の意思決定メカニズムには、その心配がほとんどないところにある。エリートも大衆もエゴイズムに基づいて行動している点では同じだが、権力が分散した方が意思決定メカニズムの利権色は薄まる。

民主政治も市場経済も欠陥に満ちた制度だが、人類はそれより優れた制度を知らない。それ以上良いものがないという意味で市場原理は、万能の原理ではないが、至上の原理である。

2.4. 市場原理至上主義は拝金主義であるという誤解

福祉ビジネスに市場原理を導入しようとすると、効率性だけが重視されて、心温かいサービスが切り捨てられるので、福祉に市場原理はなじまないといった反論が出てくる。こうした誤解は、市場競争をたんなる価格競争と捉えることから出てくる。実際には価格だけでなく、サービスの内容も競争の対象になるのだから、消費者が、低価格よりもサービスの質の充実を望むのなら、市場原理はその要求に答えることができる。逆に、客の満足度とは別にスタッフの給与が固定され、保証されている公営の福祉施設では、顧客のニーズに合ったサービスは期待できない。

市場原理は民主主義的な開かれた評価の方法で、貨幣以外の手段での評価にも用いることができる。例えば学者の知のマーケットでは、金銭の代りに名誉が評価の手段として使われる。大学院生の運命が一人の指導教官の判断で決まる閉鎖的な研究室では、市場原理は機能していない。学者の評価が、学閥の論理を超えて、不特定多数の知識人の自由な評価で決まるなら、市場原理が機能していると言える。貨幣をメディアとしない文化システムでも、市場原理は資源の最適配分の原理でありうる。

すべての市場原理至上主義者が拝金主義者とは限らないし、すべての拝金主義者が市場原理至上主義者とも限らない。贈収賄は「金さえあれば、何でもできる」という拝金主義の典型であるが、反市場原理的な互酬性原理に基づく。もし代議士たちが斡旋サービスの料金表を事務所の前に堂々と掲げ、業者がその情報に基づいて費用対効果を計算し、贈賄先を選ぶのなら、市場原理が働いていると言える。しかしそのような情報公開して行うことができるのなら、それはもはや贈収賄とは言えない。実際には、収賄サービスは「明朗会計」ではないし、市場原理に基づいていない。

2.5. 自由競争は地域間の不公平を増やすという誤解

郵便事業の民営化を提案すると、全国均一料金制では過疎地で採算が取れないので、ユニバーサル・サービスが保証されないという反対意見が必ず出る。確かに、公的な補助がなければ、過疎地の通信コストは高くなるであろう。しかしその分だけ過疎地の地価、すなわち住宅コストは安くなる。もし郵便民営化反対論者が言うように、生活基礎サービスを全国均一料金のユニバーサル・サービスにしなければならないとしたならば、衣食住の一つである住の料金も全国均一にしなければならない。住居コストは過疎地の方が安いのに、通信コストだけは全国均一にするのは、かえって不公平だ。

政府はこれまで、「国土の均衡ある発展」のために、都会で吸い取った税金を地方交付税や譲与税や国庫支出金などの形で地方にばら撒いてきたが、そうした余計なことをしなくても、地価の不均衡が、地域間不均衡を自動的に是正してくれるのである。市場原理を無視して地方に過大な投資をした結果、経済企画庁が発表する「豊かさ指数」の都道府県別総合順位を見てもわかるように、都市よりも農村の方が豊かになってしまった。経済企画庁は、九九年からこのランキングをやめたが、それは、農村が都市を搾取している事実から国民の目をそらすためではないだろうか。

2.6. 投機は市場を不安定にするという誤解

金融市場にギャンブル的性格があることを指摘して、市場原理を批判する人もよく見かける。金融市場での投資がギャンブルだというのは誤解で、ギャンブルが娯楽であるのに対して、投資は労働である。ギャンブルではリターンの期待値がマイナスで、その差額は楽しむための費用である。他方、投資ではリターンの期待値がプラスで、その差額は評価という労働に対する対価である。

中には、投資家と投機家を区別して、投機は不健全で、市場の不安定要因だと考えている人もいる。だが、もしも市場参加者が、すべてファンダメンタルズの判断だけで投資する「健全な投資家」だけならば、市場はかえって不安定になる。テクニカルな理由から、投資家が売る時に押し目買いを入れ、投資家が買うときに利食い売りする投機家がいるおかげで、市場は安定するのである。

アジア経済危機をきっかけに、大きな政府を支持する人たちが「政府が市場に介入しないと、ヘッジファンドなどの餌食になる」と主張するのをよく耳にするようになったが、これはまったく逆で、実際には、政府が市場に介入しようとするからヘッジファンドの餌食になるのである。ヨーロッパ通貨危機やアジア通貨危機は、政府が為替相場を固定しようとしたことが原因だった。九二年のポンド危機の時、ポンドがマルクに対して割安になっていたが、イギリスの通貨当局は、EMS(ヨーロッパ通貨制度)に基づいてポンドの価値を吊り上げるために、ソロスが大量にカラ売りを浴びせたポンドを高値で買うはめとなった。おかげで通貨当局は大損となり、ソロスは大儲けした。タイもドルペッグ制を維持しようとするから、ソロスにつけこまれたのである。

ソロスが次に目をつけたのはロシアで、ロシア市場が暴落しても、G7が買い支えるとにらんでいたが、実際には国際金融当局による市場への介入は行われず、そのためにロシアの電話持株会社の株を購入したソロスは大損害を被った。そこで彼は『グローバル資本主義の危機』という本を書いて、「政府よ、もっと市場に介入せよ」と言い出した。レッセフェールでは彼の商売が成り立たないからだ。日本政府が行った年度末のPKOや、G7による重債務国の債務免除などの市場への政府の介入も、ヘッジファンドを喜ばせるだけなのである。

3. 市場原理導入を阻む諸問題の解決

以上のような、市場原理に対する誤解を正すならば、「市場の失敗」と言われている弊害の多くが政府の失敗であることに気がつく。

3.1. 弱者保護の問題

市場原理の導入に対する一番ありふれた反論は、それが弱者の切り捨てになるというものである。だが、私たちが弱者と呼んでいる人々の多くは、特定の価値基準から見て弱者なのであって、別の基準から見ればそうではない。特定の価値基準に合わない異端を勝手に弱者と決め付け、補助金で自立を妨げることをするべきではない。

例えば、私たちは身体障害者を弱者と考えがちである。しかし身体障害者は自立できないから補助金で援助しなければならないという同情論は、裏返しの差別意識に基づいている。障害者が求めているのは、施し物ではなくて、同じ市民として生きることの誇りである。コンピュータースキルを磨いて、自宅でのSOHOに成功した、足の不自由な障害者もいれば、左脳の一部が欠けているが、その分右脳が発達していて、すばらしい作品を生み出している芸術家もいる。こうした障害者は、補助金を受け取るどころか逆に所得税を払っている。

産業の場合も同じことが言える。日本の農政は農業の中でも稲作を特に優遇してきた。その結果、どの農家も稲を植えるようになり、稲作不適切地である中山間地には、補助金が出されてきた。しかし一切補助金を受け取ることなく、山間地の冷涼な気候を利用して、季節はずれの新鮮なレタスを近くの都市に出荷し、大きな収益を上げている農家もある。土地の個性を生かして知恵を絞れば、補助などなくても自立できるのである。

日本は、他の多くの先進国と同様に、世界恐慌以後、大きな政府の道を歩んだ。官僚主導の生産様式の画一化と弱者救済のための支出が増大することは表裏一体の現象である。競争は、勝敗がある以上は、必然的に弱者を作り出すと一般には考えられている。しかしそれは一つの基準で判断した場合のことであって、基準を複数化することによって、すべての社会のメンバーが落ちこぼれにならないということは、少なくとも論理的には可能である。情報革命により基準が多様化する中、市場原理による資源の最適配分化が必要だ。

このことは、政府がセーフティネットを張る必要がないということを意味しない。セーフティネットは、民間の保険会社でも提供できるが、保険会社が破綻した時の保険や、保険金すら払えないほど困窮している人のために保険は、政府が提供する他はない。

どんな市場原理至上主義者でも、「貧乏人は飢えて死ね」と主張する人はいない。餓死するぐらいなら、強盗して金を奪った方が合理的で、捕まって刑務所に投獄されても、その方が少なくとも寿命を延ばすことができる。治安が悪化すると資産家は警備に金をかけなければならないが、それよりも、強盗の原因である貧困を取り除くことに金を使った方が生産的だ。だから政府がセーフティネットを構築することは、人道的理由で正当化しなくても、経済合理性を持っている。

公的セーフティネットは、本来一番下に完全な一枚があればいいのだが、現在の社会保障制度では、中間に不完全で穴だらけのセーフティネットが何重にも張り巡らされている状況である。社会保障制度は、もともと民間レベルで救済できない一部の弱者を救済することから始まった。福祉国家はそれをすべての国民を包摂する制度にまで肥大化させたが、この普遍主義が国家財政を危うくしている。

社会保障として必要な制度は、外部経済に属する公衆衛生を除けば、生活保護だけである。生活保護を、消費税を掛け金とする「生活保険」とすれば、現行の社会保険の機能はすべて民間の保険会社に委託することができる。現在の生活保護に支給している一兆五千億円は、消費税率で換算すると一%分に満たない。社会保障制度はそこまで縮小できる。

現行の生活保護には、改善するべき点は多数ある。まず、受給者の自立へのインセンティヴを高めるために、所得が増えた場合、その分を差し引くのではなく、支給金額を減らしつつ、トータルでは収入が増えるようにしなければならない。こうすれば、生活保険受給者に、勤労意欲がわくので、モラルハザードにならない。

またこれまで生活保護の必要性は、個人単位ではなく世帯単位で考えられ、親族による扶養が優先されてきた。しかし昭和二五に制定された生活保護法のこの考えは今では古くなった。もっと個人単位の保険として考え直すべきだ。

世帯は住所によってアイデンティファイされるので、従来ホームレスは生活保護を受けられなかった。しかし、住民票コードで個人を直接アイデンティファイできるようになれば、生活保険をホームレスに適用できる。また住民票コードによる個人情報のデーターベース化で、ミーンズテストも迅速に行えるようになる。国会では、「弱者の味方」を自称する政党が、住民票コードの導入は、国民総背番号制につながると強く反対しているが、現行の住所総背番号制では、ホームレスの人権を守ることができないことを認識するべきだ。

3.2. 総合の誤謬の問題

節約のパラドックスに象徴されるように、個人レベルで合理的な行為が、全体として非合理な結果をもたらすことがある。総合の誤謬による悪循環を回避するために、政府が市場に介入するべきだとケインズ以来考えられてきた。しかし介入の方法は、大きな政府と小さな政府では異なる。九二年以来の百兆円を超える財政出動が日本経済を再生させるどころか、政府の不良債権を増やすことによって、日本経済をいっそう脆弱にしていったことからわかるように、工業社会で有効だった大きな政府の方法が情報社会では有効ではなくなっている。今求められているのは、小さな政府が市場をコントロールする方法である。

小さな政府は無政府ではない。だから大きいか小さいかは程度の差になってしまうのだが、小さな政府を大きな政府から区別する基準は、生産活動に直接コミットしないという点にある。バブル崩壊後に日本政府が行った、公共投資の増額や金融機関への公的資金の投入は、大きな政府が行う市場への直接介入である。これに対して小さな政府に求められる市場への間接的介入は、法人税・事業税減税と調整インフレである。

バブル崩壊後、不動産や株などの価格が下落する資産デフレにより含み損が発生し、含み益を担保にした融資が滞ってマネーサプライの伸び率が鈍化し、設備投資と生産が萎縮し、雇用と賃金水準の低下と消費の減退を惹き起こしている。価格伸縮経済は、数量調節的ではないので、在庫調整による通常の不況に対しては自律的に適応できるが、価格伸縮的であるがゆえに、デフレスパイラルからの自律的脱却は難しい。デフレスパイラルが進行すると、金利はマイナスにすることができないので、たとえ名目金利がゼロでも、実質金利は上昇していく。

デフレスパイラルから脱却するためには、ゼロ金利政策だけでは不十分であって、日銀は買い切りオペレーションを行うべきである。もちろんハイパーインフレーションは望ましくないから、買い切りオペの上限をあらかじめ決めておいた方が良い。

景気対策として公共投資を増やし、金利上昇によって民間投資をクラウドアウトすることはするべきではないが、公共財の提供自体は、小さな政府の仕事の一つであって、否定されるべきではない。ただその場合でも、政府は、民間企業によって提供される公共サービスに対して住民が対価として税金を払う公共財市場における透明な媒体としての役割に徹するべきである。

政府与党は、公共事業に占める民間の役割を拡大するために、PFI事業推進法案を成立させようとしている。この法案によれば、政府が事業に出資したり、無利子で貸し付けたり、債務保証をすることができるほか、国有財産の無償使用や税制面での支援まで用意してある。日本版PFIは、第三セクターと同じ過ちを繰り返す懸念がある。たんに建設や管理・運営を民間企業に委託するだけでなく、融資やボンド制による融資のリスクヘッジなども民間企業の参入によって、アウトソーシング化するべきである。

3.3. 独占・寡占の問題

独占や寡占は市場の失敗の典型と考えられているが、実は政府の失敗によるものだ。弱肉強食の競争を自由放任していると独占や寡占が自動的に成立し、競争が消滅するという考えは、一八七八年以来寡占化が進んだドイツの市場をモデルにしていたのだが、当時のドイツの独占資本主義はドイツ帝国による上からの産業の組織化と統制の産物で、自然発生的なものではなかった。戦前の日本の財閥や戦後の韓国の財閥もそうだ。

政府の後押しがないときには、たとえ表面上独占・寡占が保たれていても、常に新規参入の可能性に脅かされている以上、安易な価格の吊り上げはできない。また情報革命は、独占資本主義を困難にするという側面がある。一般に資本集約的工業社会では大企業のほうが有利だが、知識集約的な情報社会ではアウトソーシングによるネットワークでつながっている中小企業のほうが有利だ。

もっともアウトソーシングによるネットワーク化は、デファクトスタンダードの獲得による新たなタイプの独占を惹き起こす。しかし技術革新が続く限り、デファクトスタンダードの覇権は長続きしない。かつてVHSが、ビデオテープの規格をめぐる戦いでベータに勝ったが、DVDの登場で規格争いが再開されている。もちろんウィンドウズOSの場合のように、デファクトスタンダードの支配期間が長いと、一社が不当に大きな利益を手に入れるとか、技術革新が阻害されるなどの弊害が出てくる。こうした問題を解決するためには、デファクトスタンダードの知的所有権の有効期限を短くすれば良い。開発者が利益を回収した後で、デファクトスタンダードは公共財になる。小さな政府という観点からは、ウィンドウズにネットスケープナビゲーターをプレインストールさせるとか、マイクロソフトを分割するといった公権力による民間企業の経営への直接介入は望ましくない。

独占・寡占の一番悪質な形態は、公的権力を背景にした独占である。例えば農協は、業者からリベートをもらって高値に吊り上げた農薬や農機具や日用品を組合員である農家に売りつけ、農協の支配から自立しようとする農家に対しては政府の補助金の支給を停止するなどいやがらせをする。似たような公的権力に基づく独占の構図が医療にもある。公的権力を背景とした医療保険が、国際的な競争力のない医療と医療関連産業を保護しているのである。海外の医者は日本で開業できないし、日本人が海外で手術を受けても保険がきかない。医者と業者の癒着により、医療費が割高になるのだが、保険があるおかげで患者にはコスト意識がなく、医療費の急増に歯止めがかからない。建設業が公共工事受注に際して談合を行っている事実はいまさら指摘するまでもない。

こうした保護産業に見られる独占・寡占の弊害は、国民全体の利益という観点から排除されなければならないのだが、農協や医師会やゼネコンが集票マシーンとして代議士の当選に貢献しているために、長い間聖域視され、改革のメスが入ることはない。この現状を踏まえるならば、独占・寡占の問題を解決するために必要なことは、市場原理を規制することではなくて、市場原理を導入することであると結論付けられる。

3.4. 情報の非対称性の問題

消費者が生産者と比べて情報劣位にあるため、消費者が正しい判断を行えず、市場競争が必ずしも優勝劣敗をもたらさないことも市場の失敗の一つとされている。そこで政府が消費者にとって好ましくない商品を事前に市場に参入させないように規制することが正当化されるが、この規制は、しばしば政府と結びつきのある特定生産者の既得権益を守る役割を持つことがある。政府が安全基準を作って、予防的にチェックすることは、小さな政府の立場からも認められることだが、その際審査機能と生産機能が癒着しないようにすることが重要だ。

安部英帝京大学教授の引き起こした薬害エイズ事件や日高弘義名古屋大学教授が引き起こした汚職事件などでは、あたかも産学協同自体が悪であるかのように思われがちだが、現行の新薬承認制度が抱える最大の問題は、企業が直接医師に委託研究費を払って臨床試験(治験)を依頼するところにある。製薬会社は治験を厚生省に依頼し、厚生省が適任の医師に試験を依頼するというように厚生省が両者の間に入るべきだ。そうすれば、製薬会社はどの医師が治験をするのかわからないし、医師もどの製薬会社の薬を治験しているのかわからないから、製薬会社が、依頼先の医師に不正に便宜を図る事件が起きないようになる。

物の商品の審査について当てはまることは、人の商品の審査にも当てはまる。公教育機関が、教育機関として機能不全に陥っている最大の原因は、卒業認定や学位の授与などの審査機能と教育という生産機能がいっしょになっているため、教育が殿様商売化している点にある。公教育の形骸化は、私教育の発達を促し、フォーマルで中身のない教育とインフォーマルで中身のある教育への二重投資という無駄が生じる。この無駄を解消するには、教育は民が行い、試験は官がするという官民の役割分担が必要である。単位の認定は文部省の資格試験を通じて行い、学位論文の審査は、学会が行い、年齢や通学の有無とは関係なくチャレンジできるようにするべきだ。

3.5. 外部不経済の問題

環境破壊や資源枯渇などの外部不経済も、市場の失敗の典型とされる。ここから、小さな政府よりも大きな政府のほうが地球にやさしいと考える人が多いが、実際はまったく逆だ。政府が生産者の環境破壊をチェックしようとするならば、政府自体は生産活動に従事していけないからだ。政府が経済で果たす役割は、スポーツ試合の審判に喩えられる。審判が監督やプレーヤーの役割を担うと、審判の役割に期待される公平さが失われてしまう。だから審判は審判の役に徹しなければならない。

大きな政府の典型であるソ連は、生産効率を無視し、各企業に生産力の量的増大のノルマを課して重化学工業の発展に力を入れたので、環境保全は後回しにされた。天然資源は国有であるため、価格は低く抑えられ、そのため西側と違って石油危機以後も省エネのための技術革新が起こらなかった。またソ連のような開発独裁体制の下では基本的人権の思想が弱く、環境保護のための市民運動も起こりにくい。実際、ソ連の環境破壊は西側諸国よりひどかった。

現在日本では、環境保護は政府の役割との認識があり、政府が様々な環境ビジネスに着手しているが、その中には眉唾物の事業が多い。例えば、各自治体は牛乳パックの回収を熱心に行っているが、両側にラミレートされたポリエチレンをはがすために処理場で大量の石油と化学薬品を使えば、リサイクル自体が環境破壊になってしまう。しかも再生紙は質が低く、経済的にも採算が取れない。「市民のボランティア活動」と称する搾取労働を動員しつつ、補助金をつぎ込んで環境破壊を促進し、市場原理のもとで採算が取れていた従来の民間の古紙回収業者を駆逐するということが全国で行われている。

通産省と新エネルギー機関は太陽光発電施設に費用の半額を補助することにしているが、太陽電池は製造と廃棄の工程で膨大な石油が必要で、その石油を火力発電に使って得られる電気が、太陽光発電で回収できるかどうかは極めて怪しい。しかし業者は、省エネ度を検証することなく、補助金目当てで太陽電池を量産し、表面的なクリーンイメージを武器に普及を喧伝している。

これらはほんの一例だが、政府が補助金を支給したり、税制上の優遇措置をとったりすることによって、民間企業のコスト感覚と省エネ感覚が麻痺し、首をかしげたくなるようなエコビジネスが続々と出てきている。政府は電気自動車を低公害車と称してその普及に財政的支援を行おうとしているが、いくら電気自動車が直接二酸化炭素を出さなくなっても、発電を車体の外部で石油を燃焼して行っていては、最終的には環境破壊の促進になってしまい、自動車の燃費もかえって高くなってしまう。燃費の良い自動車は、政府の支援がなくても市場原理に基づいてよく売れるのであって、政府は、環境を重視すると経営がダメージを受けるから、補助金で補償しなければならないという固定観念から脱却しなければならない。

政府の役割は、環境に良い事業を遂行することではなく、環境に悪い事業を規制することである。例えば、塩化ビニールのようにダイオキシンの原因になる素材に対して高い環境税を課せば、企業はコストを削減するために酢酸ビニールなどの代替物を開発するようになる。ごみを燃やすことができるようになれば、政府からの補助金がなくても、廃棄物発電が民間の営利企業によって行われるようになる。ポジティブに生産活動にコミットするのではなく、ネガティブにルール違反にペナルティを科すことが小さな政府の役割である。

大きな政府の理想は、政府が公共性という観点から生産活動にコミットすることである。しかし実際に起きていることは、一部の生産者による公権力の私物化である。そうした私物化は、決して偶然に起きる倫理欠如のレベルの出来事ではなく、普遍的な公権力の担い手が、個別的な利害を持った個人であることから必然的に帰結する堕落なのである。

大きな政府が表向きには公共性を掲げながら、実際にはその逆の結果をもたらすのに対して、小さな政府は、個人の利己心を否定せず、むしろ肯定することによって、逆に利己性を公共性に昇華させる。市場の失敗と思われた公共性欠如の問題が実は政府の失敗であるという逆転は、こうした表と裏の逆転から説明できる。

4. 日本経済再生の鍵としての市場原理の導入

財政再建を旗印に掲げた橋本内閣は、消費税率を引き上げ、特別減税を打ち切り、医療費の直接負担を増やしたが、これが九七年から始まる橋龍不況の原因だと言われている。しかし橋本内閣の財政再建策が失敗したのは、それが《行政改革による財政再建》ではなく、《行政改革なき財政再建》だったからだ。小さな政府による財政再建の理念は、歳出を減らすことによって財政赤字を減らすことであって、橋本内閣のように歳入を増やして財政赤字を減らそうとすることは大きな政府のすることだ。

ところが、行政改革(構造改革)と財政再建との区別がつかない人々の間で、構造改革は景気回復に悪影響だから、景気が回復するまで構造改革は先延ばしにするべきだというコンセンサスが生まれている。小渕内閣も、大きな政府の弊害をなくすことによってではなく、大きな政府の手法で不況を乗り切ろうとしている。大きな政府のもとで、アンシャンレジームの寄生虫の延命を図るのならば、日本の国際競争力はますます落ちていくことになるであろう。市場原理を大胆に導入し、構造改革を推進し、日本の生産性を向上させなければ、日本経済を活性化させることは不可能である。

5. 追記:市場原理主義について

最近は、市場原理主義(market fundamentalism)という言葉がはやっている。この言葉をはやらせたのは、ジョージ・ソロスの著作『グローバル資本主義の危機』である。ソロスは、現在、市場のマジックを信奉している人はフランス語を話さないという理由から、レッセフェールというフランス語よりも、この言葉のほうが適切だと言っている[2]。この言葉は、自爆テロを繰り返すイスラム原理主義者を連想させるので、市場経済の危険さを訴える社会主義者たちによって、好んで使われるが、「市場原理」主義ではなくて、「市場」原理主義であり、市場経済至上主義と同義であるから、私の立場を示す言葉としては使わないことにしたい。

6. 関連著作

7. 参照情報

  1. このテーマの詳細に関しては、拙著『市場原理は至上原理か』を参照されたい。
  2. The Crisis of Global Capitalism: Open Society Endangered (author) George Soros (page) xx