自由は平等と両立するのか

2000年10月7日

一般に自由と平等は対立すると考えられている。もし人々に選択の自由を与えるならば、選ばれる人と選ばれない人が出てきて、社会が不平等になるというわけだ。だから平等を望む人は、自由競争には否定的な人が多い。だが、本当に自由は平等と対立するのだろうか。

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一部の日本の学校で行われている運動会のように、全員が手をつなぐといった規制でもしなければ、競走の結果は平等ではなくなる。

1. 自由と平等は両立する

自由競争の理念は、優秀な人あるいは組織を選抜することである。競争条件が平等でないと、誰が優秀であるかわからない。だから自由競争は、条件の平等を前提条件にしている。自由と対立するのは、結果の平等であって、機会の平等ではない。

もっとも競争を通して、いつも優秀な人が生き残るとは限らない。卑怯な汚い手段を使って勝利を手にする人もいる。しかしフェアな競争をさせないシステムで権力を握っても、そのシステム自体が長持ちしない。このことは、競争方法自体が競争によって進化しなければならないことを意味している。

競争を通して優秀な人が選ばれると仮定しても、競争は必然的に敗者を作る。必然的に不幸な人々を作る社会が理想的な社会であるはずがないと平等主義者は反論するで。競争が敗者を作ることは確かだが、競争は常に一つの基準(価値観)で勝敗を決めることに気をつけなければいけない。基準(価値観)を複数化することにより、すべての人が勝者となることは理論的には可能である。例えば、ある社会に三人のメンバーしかいないと仮定しよう。一人は数学が一番でき、もう一人は最も音楽の才能があり、もう一人は走るのが一番速いとするならば、すべての人が競争で勝者になることができる。

もちろん、すべてが勝者となれる社会が理論的に可能だとしても、実際にはそうなっていない。そして、いかなる観点から見ても優秀でない落ちこぼれが生きていくことができない社会は、野蛮で非人間的だと言う人は少なくない。しかしそうした人たちは、優秀という言葉の意味を誤解している。多くの場合、優秀な人は、優秀でない人でも生きていける社会を作ることができるから、優秀と言われる。知識人を抹殺したポルポト政権は短期間で瓦解したが、このことは、ルサンチマンからエリートを排除しようとすると、非エリートまでが不利益を被ることを示している。

2. 努力するとはどういうことか

理論的にはすべての人が勝者となることができるにもかかわらず、実際はそうでないのは、単に本人の努力が足りないからである。こういうと、平等主義者は、「努力したから競争に勝てるとは限らない。人は生まれながらにして平等ではない。そもそも努力できるかどうか自体が生まれつきの才能である」と反論する。

私たちが生まれながらにして多様であるのは、人類全体が単一原因で死滅するリスクを減らすための遺伝子戦略であり、それ自体は肯定すべきことである。競争に勝つための努力とは、単一の価値観に合わせるために多様性を画一化する努力ではなくて、多様性をそのまま生かせる多様な価値観をそれぞれが見出す努力である。

成功するための努力には、次の三つのレベルがある。

  1. 物理的なエネルギーを注ぎ込むたんなる努力
  2. 方法を工夫してみようする努力
  3. 自分の個性を生かせる評価基準を見つけようとする努力

よく使われる比喩だけれども、ハエが外に出ようとして窓ガラスに体当たりしているとしよう。こうしたAのレベルの努力は、この場合いくら反復しても報われない。ハエが、視野を広げて、開いている窓を見つけて外に出ることができる時、Bのレベルの努力が実ったことになる。どうしても外に出ることができない時、「人家の中にいないとできないことをしよう」と努力目標を変え、デメリットをメリットにすることもできる。これはCのレベルの努力である。

こうした努力ができるかどうかすらも生まれつき決まっているという人もいるが、そうすると私たちには、全く自由がないということになる。しかし自由がなければ、意識もないはずだから、これは事実に反する。自分が与えられた既存の価値尺度に合わないからといって嘆くのは愚かである。自分の短所を長所に変えてくれる新しい価値観と新しい環境を求めて努力することは、競争社会を生き抜く上で、誰にでもできる努力である。

3. ポスト工業社会の理念

自由か平等かという理念の対立は、かつての自由主義と社会主義とのイデオロギー的対立の政治哲学的基盤となっていた。すべての国民が同じ人民服を着て同じ毛語録を読む画一的平等社会もすべての人が受験戦争や出世競争に奔走する画一的競争社会も、画一的製品を大量生産する工業社会のパラダイムの内部にとどまっている。工業社会から情報社会へと移行する今、こうした工業社会のパラダイムそのものを乗り越えなくてはいけない。