このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

自由は平等と両立するのか

2000年10月7日

一般に自由と平等は対立すると考えられている。もし人々に選択の自由を与えるならば、選ばれる人と選ばれない人が出てきて、社会が不平等になるというわけだ。だから平等を望む人は、自由競争には否定的な人が多い。だが、本当に自由は平等と対立するのだろうか。[1]

Image by skeeze from Pixabay
一部の日本の学校で行われている運動会のように、全員が手をつなぐといった規制でもしなければ、競走の結果は平等ではなくなる。

1. 自由と平等は両立する

自由競争の理念は、優秀な人あるいは組織を選抜することである。競争条件が平等でないと、誰が優秀であるかわからない。だから自由競争は、条件の平等を前提条件にしている。自由と対立するのは、結果の平等であって、機会の平等ではない。

もっとも競争を通して、いつも優秀な人が生き残るとは限らない。卑怯な汚い手段を使って勝利を手にする人もいる。しかしフェアな競争をさせないシステムで権力を握っても、そのシステム自体が長持ちしない。このことは、競争方法自体が競争によって進化しなければならないことを意味している。

競争を通して優秀な人が選ばれると仮定しても、競争は必然的に敗者を作る。必然的に不幸な人々を作る社会が理想的な社会であるはずがないと平等主義者は反論するであろう。競争が敗者を作ることは確かだが、競争は常に一つの基準(価値観)で勝敗を決めることに気をつけなければいけない。基準(価値観)を複数化することにより、すべての人が勝者となることは理論的には可能である。例えば、ある社会に三人のメンバーしかいないと仮定しよう。一人は数学が一番でき、もう一人は最も音楽の才能があり、もう一人は走るのが一番速いとするならば、すべての人が競争で勝者になることができる。

もちろん、すべてが勝者となれる社会が理論的に可能だとしても、実際にはそうなっていない。そして、いかなる観点から見ても優秀でない落ちこぼれが生きていくことができない社会は、野蛮で非人間的だと言う人は少なくない。しかしそうした人たちは、優秀という言葉の意味を誤解している。多くの場合、優秀な人は、優秀でない人でも生きていける社会を作ることができるから、優秀と言われる。知識人を抹殺したポルポト政権は短期間で瓦解したが、このことは、ルサンチマンからエリートを排除しようとすると、非エリートまでが不利益を被ることを示している。

2. 努力するとはどういうことか

理論的にはすべての人が勝者となることができるにもかかわらず、実際はそうでないのは、単に本人の努力が足りないからである。こういうと、平等主義者は、「努力したから競争に勝てるとは限らない。人は生まれながらにして平等ではない。そもそも努力できるかどうか自体が生まれつきの才能である」と反論する。

私たちが生まれながらにして多様であるのは、人類全体が単一原因で死滅するリスクを減らすための遺伝子戦略であり、それ自体は肯定すべきことである。競争に勝つための努力とは、単一の価値観に合わせるために多様性を画一化する努力ではなくて、多様性をそのまま生かせる多様な価値観をそれぞれが見出す努力である。

成功するための努力には、次の三つのレベルがある。

  1. 物理的なエネルギーを注ぎ込むたんなる努力
  2. 方法を工夫してみようする努力
  3. 自分の個性を生かせる評価基準を見つけようとする努力

よく使われる比喩だけれども、ハエが外に出ようとして窓ガラスに体当たりしているとしよう。こうしたAのレベルの努力は、この場合いくら反復しても報われない。ハエが、視野を広げて、開いている窓を見つけて外に出ることができる時、Bのレベルの努力が実ったことになる。どうしても外に出ることができない時、「人家の中にいないとできないことをしよう」と努力目標を変え、デメリットをメリットにすることもできる。これはCのレベルの努力である。

こうした努力ができるかどうかすらも生まれつき決まっているという人もいるが、そうすると私たちには、全く自由がないということになる。しかし自由がなければ、意識もないはずだから、これは事実に反する。自分が与えられた既存の価値尺度に合わないからといって嘆くのは愚かである。自分の短所を長所に変えてくれる新しい価値観と新しい環境を求めて努力することは、競争社会を生き抜く上で、誰にでもできる努力である。

3. ポスト工業社会の理念

自由か平等かという理念の対立は、かつての自由主義と社会主義とのイデオロギー的対立の政治哲学的基盤となっていた。すべての国民が同じ人民服を着て同じ毛語録を読む画一的平等社会もすべての人が受験戦争や出世競争に奔走する画一的競争社会も、画一的製品を大量生産する工業社会のパラダイムの内部にとどまっている。工業社会から情報社会へと移行する今、こうした工業社会のパラダイムそのものを乗り越えなくてはいけない。

4. 追記(2013年)自由競争はフェアか

集中力、真面目さ、頑固といった属性は、遺伝するが、そうした属性の持ち主が人生において成功するという必然性はなく、むしろ、これとは逆の一発大儲けの冒険を好むタイプの人間が運よく人生で成功することもある。デメリットと世間で思われている属性をメリットに変えるならば、もって生まれた属性を恨む必要もなくなる。[2]

読者の問題提起
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年5月06日(月) 12:32.

今日こんな記事を読みました。遺伝と努力や才能、その他もろもろに関する話です。これによると

週現スペシャル 大研究 遺伝するもの、しないもの 【第1部】一覧表でまるわかり 遺伝する才能、しない才能、微妙なもの」『現代ビジネス』2013年5月4日号.

日本人には「勉強は努力、芸術は才能」というステレオタイプも根強い。だが専門家たちの意見を総合すると、どうやらこれは正反対—「勉強は才能、芸術は努力」と言ったほうが、遺伝的には実情に近いようである。

だそうです。詳しくはリンク先を読んでください。

画像の表示
週現スペシャル 大研究 遺伝するもの、しないもの 【第1部】一覧表でまるわかり 遺伝する才能、しない才能、微妙なもの」『現代ビジネス』2013年5月4日号より引用。表の続き(その2)を見る

この慶應義塾大学文学部教授で、遺伝と環境の関係を専門とする安藤寿康氏という人の信憑性ですが、今年の『Newton』5月号(副題・新・ゲノム革命: 社会と暮らしはこう変わる)でも安藤寿康氏の書籍、遺伝マインドを元にした遺伝についてのグラフがp46,p47に挙げられており、『Newton』も一応の科学雑誌ですから、それに載るということはある程度きちんとした研究に基づいたもののようです。

その方法は、Newton5月号を引用しますと、遺伝と環境の寄与の度合いは、一卵双生児と二卵双生児とで、それぞれどのくらい似ているかを調べたうえで、導き出される(双生児法)。一般に、一卵性双生児も二卵性双生児も、生活環境を共有する度合いは同じくらいだ。しかし、一卵性双生児間では原則的にゲノムが完全に一致しており、ちがいはないのに対し、二卵性双生児では通常の兄弟姉妹間と同じ程度にゲノムがちがう。そのちがいの度合いは、集団中の他人(非血縁者)間のゲノムの違いの半分である。ということで、この双生児法という方法によると、やはり努力という後天的特質だけでなく、遺伝という先天的特質も無視できないようです。

永井さんは本文で

こうした努力ができるかどうかすらも生まれつき決まっているという人もいるが、そうすると私たちには、全く自由がないということになる。しかし自由がなければ、意識もないはずだから、これは事実に反する。

と、努力の優位性を説いていますが、やはり遺伝、DNAによりある程度は決められてしまうというのは避けられないのではないでしょうか。

蛇足:安藤寿康で検索すると、いくつかインタビュー?が出てきますので、参考になるかもしれません。私は読んでませんが。

努力とは何か
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年5月06日(月) 16:06.

御質問は、この一文で要約されていると思います。

週現スペシャル 大研究 遺伝するもの、しないもの 【第1部】一覧表でまるわかり 遺伝する才能、しない才能、微妙なもの」『現代ビジネス』2013年5月4日号.

たとえ知能そのものが完璧に遺伝するわけではないにしても、「辛抱強く勉強する才能」まで遺伝で決まってしまうのだとしたら—結局のところ、それすら持たない凡人には、逆転の余地はないのだろうか。

問題は「努力」をどこまで広く解釈するかにかかっています。引用された箇所の直前で、私は次のように書きました。

自由は平等と両立するのか (date) 2000年10月7日.

成功するための努力には、次の三つのレベルがある。

  1. 物理的なエネルギーを注ぎ込むたんなる努力
  2. 方法を工夫してみようする努力
  3. 自分の個性を生かせる評価基準を見つけようとする努力

よく使われる比喩だけれども、ハエが外に出ようとして窓ガラスに体当たりしているとしよう。こうしたAのレベルの努力は、この場合いくら反復しても報われない。ハエが、視野を広げて、開いている窓を見つけて外に出ることができる時、Bのレベルの努力が実ったことになる。どうしても外に出ることができない時、「人家の中にいないとできないことをしよう」と努力目標を変え、デメリットをメリットにすることもできる。これはCのレベルの努力である。

現代ビジネスが言っている「努力」は、辛抱強く一つのことに集中して真面目に取り組むことだから、A のレベルの努力であり、この一覧表にある集中力、真面目さ、頑固といった属性は、遺伝することでしょう。しかし、集中力、真面目さ、頑固といった属性の持ち主が人生において成功するという必然性はありません。むしろ、これとは逆に、集中力がなく、移り気で、一発大儲けの冒険を好むタイプの人間が運よく人生で成功することもあるでしょう。デメリットと世間で思われている属性をメリットに変える C のレベルの努力を行うならば、もって生まれた属性を恨む必要もなくなるということです。この考えに関しては、「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法 」も御覧ください。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

やはり遺伝、DNAによりある程度は決められてしまうというのは避けられないのではないでしょうか。

「遺伝、DNAによりある程度は決められてしまう」というのは、たしかにその通りで、私も否定していませんが、あくまでも「ある程度は」の話であって、「完全に」ではありません。引用された文は「そうすると私たちには、全く自由がないということになる」とあることからもわかるように、遺伝によって完全にその人の人生が決まると考える遺伝子決定論を批判しているだけのことです。

ゆとりの教育
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年5月06日(月) 20:35.

「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法」おもしろく読ませて頂きました。
確かに一つの価値基準では人を計れなく、短所を長所にというのは同意するところです。
それが必ずしも上手くいくわけでもないと思いますが、しかし今現在常識として定着している
視野の狭い考え方に比べればとても良いと思います。

ところでひとつ気になったことがあったのですが。

ゆとりの教育のおかげで、かつては高かった日本の大学生の知的水準も大きく低下してしまった。

という箇所です。

というのも、大学の学力低下は少子化が進んだ、つまり競争相手が減ったことにより、今まで競争に勝てなかった学力の者たちも、大学に進学できるようになったために起こった。大学の学力の平均は低下したが実は高校卒業生の学力は低下していないというのを聞いたことがあるからです。

探したらありました。書評を読むだけで満足してしまって、実際に著書を読んだ訳ではありませんが。
ゆとり世代はとにかく頭が悪いというのは、メディアが煽りすぎた結果、誇張されたイメージが定着したものではないでしょうか。

学力が低下したのは大学生だけではない
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年5月06日(月) 23:22.

秋刀魚刺身 さんが書きました:

大学の学力低下は少子化が進んだ、つまり競争相手が減ったことにより、今まで競争に勝てなかった学力の者たちも、大学に進学できるようになったために起こった。大学の学力の平均は低下したが実は高校卒業生の学力は低下していないというのを聞いたことがあるからです。

PISA や TIMSS での日本の小学生、中学生、高校生の順位の低下は、サンプル調査ですから、少子化では説明できません。『調査報告「学力低下」の実態』によると、89年と01年の同一問題との比較で、小学生の国語と算数、中学生の国語と数学の正答率が大幅に減っているとのことです。82年と02年とで関東地方の小学生を比較をした「学業達成の構造と変容」でも同じような結論が出ています[3]。だから、学力が低下したのは大学生だけとは言えません。

5. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿の初出は、2000年10月7日に発行したメールマガジンの記事「自由と平等」です。
  2. ここでの議論は、システム論フォーラムの「才能は遺伝するのか、本当に後天的な努力だけが結果を決めるのか、だとしたらその努力もまた才能では無いのか」からの転載です。
  3. 耳塚寛明, 金子真理子, 山田哲也, and 諸田裕子. “学業達成の構造と変容(I プロジェクト研究会) : 関東調査にみる階層・学校・学習指導,” March 2003.