自由は平等と両立するのか
一般に自由と平等は対立すると考えられている。もし人々に選択の自由を与えるならば、選ばれる人と選ばれない人が出てきて、社会が不平等になるというわけだ。だから平等を望む人は、自由競争には否定的な人が多い。だが、本当に自由は平等と対立するのだろうか。[1]
1. 自由と平等は両立する
自由競争の理念は、優秀な人あるいは組織を選抜することである。競争条件が平等でないと、誰が優秀であるかわからない。だから自由競争は、条件の平等を前提条件にしている。自由と対立するのは、結果の平等であって、機会の平等ではない。
もっとも競争を通して、いつも優秀な人が生き残るとは限らない。卑怯な汚い手段を使って勝利を手にする人もいる。しかしフェアな競争をさせないシステムで権力を握っても、そのシステム自体が長持ちしない。このことは、競争方法自体が競争によって進化しなければならないことを意味している。
競争を通して優秀な人が選ばれると仮定しても、競争は必然的に敗者を作る。必然的に不幸な人々を作る社会が理想的な社会であるはずがないと平等主義者は反論するであろう。競争が敗者を作ることは確かだが、競争は常に一つの基準(価値観)で勝敗を決めることに気をつけなければいけない。基準(価値観)を複数化することにより、すべての人が勝者となることは理論的には可能である。例えば、ある社会に三人のメンバーしかいないと仮定しよう。一人は数学が一番でき、もう一人は最も音楽の才能があり、もう一人は走るのが一番速いとするならば、すべての人が競争で勝者になることができる。
もちろん、すべてが勝者となれる社会が理論的に可能だとしても、実際にはそうなっていない。そして、いかなる観点から見ても優秀でない落ちこぼれが生きていくことができない社会は、野蛮で非人間的だと言う人は少なくない。しかしそうした人たちは、優秀という言葉の意味を誤解している。多くの場合、優秀な人は、優秀でない人でも生きていける社会を作ることができるから、優秀と言われる。知識人を抹殺したポルポト政権は短期間で瓦解したが、このことは、ルサンチマンからエリートを排除しようとすると、非エリートまでが不利益を被ることを示している。
2. 努力するとはどういうことか
理論的にはすべての人が勝者となることができるにもかかわらず、実際はそうでないのは、単に本人の努力が足りないからである。こういうと、平等主義者は、「努力したから競争に勝てるとは限らない。人は生まれながらにして平等ではない。そもそも努力できるかどうか自体が生まれつきの才能である」と反論する。
私たちが生まれながらにして多様であるのは、人類全体が単一原因で死滅するリスクを減らすための遺伝子戦略であり、それ自体は肯定すべきことである。競争に勝つための努力とは、単一の価値観に合わせるために多様性を画一化する努力ではなくて、多様性をそのまま生かせる多様な価値観をそれぞれが見出す努力である。
成功するための努力には、次の三つのレベルがある。
- 物理的なエネルギーを注ぎ込むたんなる努力
- 方法を工夫してみようする努力
- 自分の個性を生かせる評価基準を見つけようとする努力
よく使われる比喩だけれども、ハエが外に出ようとして窓ガラスに体当たりしているとしよう。こうしたAのレベルの努力は、この場合いくら反復しても報われない。ハエが、視野を広げて、開いている窓を見つけて外に出ることができる時、Bのレベルの努力が実ったことになる。どうしても外に出ることができない時、「人家の中にいないとできないことをしよう」と努力目標を変え、デメリットをメリットにすることもできる。これはCのレベルの努力である。
こうした努力ができるかどうかすらも生まれつき決まっているという人もいるが、そうすると私たちには、全く自由がないということになる。しかし自由がなければ、意識もないはずだから、これは事実に反する。自分が与えられた既存の価値尺度に合わないからといって嘆くのは愚かである。自分の短所を長所に変えてくれる新しい価値観と新しい環境を求めて努力することは、競争社会を生き抜く上で、誰にでもできる努力である。
3. ポスト工業社会の理念
自由か平等かという理念の対立は、かつての自由主義と社会主義とのイデオロギー的対立の政治哲学的基盤となっていた。すべての国民が同じ人民服を着て同じ毛語録を読む画一的平等社会もすべての人が受験戦争や出世競争に奔走する画一的競争社会も、画一的製品を大量生産する工業社会のパラダイムの内部にとどまっている。工業社会から情報社会へと移行する今、こうした工業社会のパラダイムそのものを乗り越えなくてはいけない。
4. 追記(2013年)自由競争はフェアか
集中力、真面目さ、頑固といった属性は、遺伝するが、そうした属性の持ち主が人生において成功するという必然性はなく、むしろ、これとは逆の一発大儲けの冒険を好むタイプの人間が運よく人生で成功することもある。デメリットと世間で思われている属性をメリットに変えるならば、もって生まれた属性を恨む必要もなくなる。[2]
今日こんな記事を読みました。遺伝と努力や才能、その他もろもろに関する話です。これによると
「週現スペシャル 大研究 遺伝するもの、しないもの 【第1部】一覧表でまるわかり 遺伝する才能、しない才能、微妙なもの」『現代ビジネス』2013年5月4日号.
日本人には「勉強は努力、芸術は才能」というステレオタイプも根強い。だが専門家たちの意見を総合すると、どうやらこれは正反対—「勉強は才能、芸術は努力」と言ったほうが、遺伝的には実情に近いようである。
だそうです。詳しくはリンク先を読んでください。
この慶應義塾大学文学部教授で、遺伝と環境の関係を専門とする安藤寿康氏という人の信憑性ですが、今年の『Newton』5月号(副題・新・ゲノム革命: 社会と暮らしはこう変わる)でも安藤寿康氏の書籍、遺伝マインドを元にした遺伝についてのグラフがp46,p47に挙げられており、『Newton』も一応の科学雑誌ですから、それに載るということはある程度きちんとした研究に基づいたもののようです。
その方法は、Newton5月号を引用しますと、遺伝と環境の寄与の度合いは、一卵双生児と二卵双生児とで、それぞれどのくらい似ているかを調べたうえで、導き出される(双生児法)。一般に、一卵性双生児も二卵性双生児も、生活環境を共有する度合いは同じくらいだ。しかし、一卵性双生児間では原則的にゲノムが完全に一致しており、ちがいはないのに対し、二卵性双生児では通常の兄弟姉妹間と同じ程度にゲノムがちがう。そのちがいの度合いは、集団中の他人(非血縁者)間のゲノムの違いの半分である。ということで、この双生児法という方法によると、やはり努力という後天的特質だけでなく、遺伝という先天的特質も無視できないようです。
永井さんは本文で
こうした努力ができるかどうかすらも生まれつき決まっているという人もいるが、そうすると私たちには、全く自由がないということになる。しかし自由がなければ、意識もないはずだから、これは事実に反する。
と、努力の優位性を説いていますが、やはり遺伝、DNAによりある程度は決められてしまうというのは避けられないのではないでしょうか。
蛇足:安藤寿康で検索すると、いくつかインタビュー?が出てきますので、参考になるかもしれません。私は読んでませんが。
御質問は、この一文で要約されていると思います。
「週現スペシャル 大研究 遺伝するもの、しないもの 【第1部】一覧表でまるわかり 遺伝する才能、しない才能、微妙なもの」『現代ビジネス』2013年5月4日号.
たとえ知能そのものが完璧に遺伝するわけではないにしても、「辛抱強く勉強する才能」まで遺伝で決まってしまうのだとしたら—結局のところ、それすら持たない凡人には、逆転の余地はないのだろうか。
問題は「努力」をどこまで広く解釈するかにかかっています。引用された箇所の直前で、私は次のように書きました。
自由は平等と両立するのか (date) 2000年10月7日.
成功するための努力には、次の三つのレベルがある。
- 物理的なエネルギーを注ぎ込むたんなる努力
- 方法を工夫してみようする努力
- 自分の個性を生かせる評価基準を見つけようとする努力
よく使われる比喩だけれども、ハエが外に出ようとして窓ガラスに体当たりしているとしよう。こうしたAのレベルの努力は、この場合いくら反復しても報われない。ハエが、視野を広げて、開いている窓を見つけて外に出ることができる時、Bのレベルの努力が実ったことになる。どうしても外に出ることができない時、「人家の中にいないとできないことをしよう」と努力目標を変え、デメリットをメリットにすることもできる。これはCのレベルの努力である。
現代ビジネスが言っている「努力」は、辛抱強く一つのことに集中して真面目に取り組むことだから、A のレベルの努力であり、この一覧表にある集中力、真面目さ、頑固といった属性は、遺伝することでしょう。しかし、集中力、真面目さ、頑固といった属性の持ち主が人生において成功するという必然性はありません。むしろ、これとは逆に、集中力がなく、移り気で、一発大儲けの冒険を好むタイプの人間が運よく人生で成功することもあるでしょう。デメリットと世間で思われている属性をメリットに変える C のレベルの努力を行うならば、もって生まれた属性を恨む必要もなくなるということです。この考えに関しては、「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法 」も御覧ください。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
やはり遺伝、DNAによりある程度は決められてしまうというのは避けられないのではないでしょうか。
「遺伝、DNAによりある程度は決められてしまう」というのは、たしかにその通りで、私も否定していませんが、あくまでも「ある程度は」の話であって、「完全に」ではありません。引用された文は「そうすると私たちには、全く自由がないということになる」とあることからもわかるように、遺伝によって完全にその人の人生が決まると考える遺伝子決定論を批判しているだけのことです。
「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法」おもしろく読ませて頂きました。
確かに一つの価値基準では人を計れなく、短所を長所にというのは同意するところです。
それが必ずしも上手くいくわけでもないと思いますが、しかし今現在常識として定着している
視野の狭い考え方に比べればとても良いと思います。
ところでひとつ気になったことがあったのですが。
ゆとりの教育のおかげで、かつては高かった日本の大学生の知的水準も大きく低下してしまった。
という箇所です。
というのも、大学の学力低下は少子化が進んだ、つまり競争相手が減ったことにより、今まで競争に勝てなかった学力の者たちも、大学に進学できるようになったために起こった。大学の学力の平均は低下したが実は高校卒業生の学力は低下していないというのを聞いたことがあるからです。
探したらありました。書評を読むだけで満足してしまって、実際に著書を読んだ訳ではありませんが。
ゆとり世代はとにかく頭が悪いというのは、メディアが煽りすぎた結果、誇張されたイメージが定着したものではないでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
大学の学力低下は少子化が進んだ、つまり競争相手が減ったことにより、今まで競争に勝てなかった学力の者たちも、大学に進学できるようになったために起こった。大学の学力の平均は低下したが実は高校卒業生の学力は低下していないというのを聞いたことがあるからです。
PISA や TIMSS での日本の小学生、中学生、高校生の順位の低下は、サンプル調査ですから、少子化では説明できません。『調査報告「学力低下」の実態』によると、89年と01年の同一問題との比較で、小学生の国語と算数、中学生の国語と数学の正答率が大幅に減っているとのことです。82年と02年とで関東地方の小学生を比較をした「学業達成の構造と変容」でも同じような結論が出ています[3]。だから、学力が低下したのは大学生だけとは言えません。
5. 参照情報
- 大竹文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット (中公新書)』中央公論新社 (2010/3/25).
- 松岡亮二『教育格差 ― 階層・地域・学歴』筑摩書房 (2019/7/10).
- リチャード ウィルキンソン, ケイト ピケット『格差は心を壊す ― 比較という呪縛』東洋経済新報社 (2020/4/3).
- ↑本稿の初出は、2000年10月7日に発行したメールマガジンの記事「自由と平等」です。
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「才能は遺伝するのか、本当に後天的な努力だけが結果を決めるのか、だとしたらその努力もまた才能では無いのか」からの転載です。
- ↑耳塚寛明, 金子真理子, 山田哲也, and 諸田裕子. “学業達成の構造と変容(I プロジェクト研究会) : 関東調査にみる階層・学校・学習指導,” March 2003.
ディスカッション
コメント一覧
30歳・男性です。興味深く拝見させて頂いております。以下は私の現実の経験則を踏まえて感じたことを記したものです。乱文をお許し下さい。
項目1
引用文「こうした努力ができるかどうかすらも生まれつき決まっているという人もいるが、そうすると私たちには、全く自由がないということになる。しかし自由がなければ、意識もないはずだから、これは事実に反する」について
人にはもちろん意識はあります。だから自由もあります。しかし、人には各々努力できる範囲があると思います。人はその範囲でしか、範疇でしか、意識できないと思うのです。したがって「全く自由がない」とは言えないと思うのです。
項目2
確かに、引用文「理論的には人はすべての人が勝者となることができる」かもしれませんが、勝者となるまでの努力ができるかは先天的な影響があると思います。また、勝者となれる個性を見つける努力の結果が、勝者になるその日まで続けられるかも、先天的な影響があると思います。
心理学では、性格の範疇で、「素質の部分」は先天性が強いという。
もちろん、自分の努力レベルに限界があったとしても、努力は必要だと思います。しかし、それと競争に勝てるかどうかは現実的に別問題であると思うのです。
項目3
引用文「自分の短所を長所に変えてくれる新しい価値観と新しい環境を求めて努力することは、競争社会を生き抜く上で、誰にでもできる努力である。」かもしれないのですが、それで、競争の勝者となれるかどうかも厳しい現実の前では疑問に感じてしまうのです。「誰にでもできる努力である」ではあるけれど、限界があると思うのです。
最終的には、自分がどこで納得するかだと思います。もちろん自分にできる努力をしなければ納得感はあまり得られないだろうから、努力はしたほうがいいし、努力したくもなると思います、少なくとも私自身は。
項目4
永井さんのお考えとしては、「工業社会のパラダイム」を乗り越えることが課題だと問題提起されていらっしゃると思いますが(間違っていたらすいません)、多様な価値観が存在する社会に人は付いていけるのかと考えてしまいます。
それができれば自由と平等の両立につながると思うのですが、私自身、多様な価値観を受け入れていけるのか自信がありません。どうしても既存の価値にしがみがちです。永井さんのおっしゃる通り乗り越えなくてはならないのでしょうが。
ご意見頂ければと存じます。
人生における敗者とは、周囲の価値観に自分を合致させることができない人ではなくて、自分に合致する価値観を周囲に置くことができない人だと思います。あまり安易にこういうことをすると、自分の潜在的な能力を見落としてしまうことになるし、「負け惜しみだ」とか「開き直りだ」とか非難されますから、「どうしても既存の価値にしがみがちです」というスーさんの考えは理解できます。
しかし、私たちは、「周囲」を、以前と比べると、自由に変えることができる時代に生きています。例えば、インターネットには、物理的な意味での「周囲」はありません。だから、サイトのコンテンツを作る時、周囲におもねる必要はありません。自分が好きなことをしていれば、自分と同じ関心を持っている人が自然と集まってきます。リアルな世界での人生も、バーチャルな世界と同じように生きればよいのです。
ありがとう御座います。「自分に合致する価値観を周囲に置くことができない人」という部分、感銘を受けました。
さて、前回の私の質問は各論的でしたが、恐縮ながらこの度、総論的な質問をさせて頂ければと存じます。
質問:はたして、自由と平等は両立できるのか。
(世の中には「平等だけの世界」はありますが、そもそも「自由だけの世界」というのは存在するのでしょうか。勉強不足ですいません。)
永井さんは、論評の中で「だから自由競争は、条件の平等を前提条件にしている。自由と対立するのは、結果の平等であって、機会の平等ではない。」とおっしゃっています。
ここから私は次のように解釈しました。「条件の平等」という部分が底辺にあり、その上部に、「機会の平等:その結果については本人の自由にどうぞ。努力しても良いし、しなくても良いですよ」があると。
しかし、これは現在の日本もこのシステムです。でも私は思うのです。これで良いのか。もっと良い両立の仕方はないのか、と。
私は「自由」も「平等」も好きです。しかし、自由は弱者が付いていけない。そこで、「自由」の中に弱者を守るシステムを強化してはいけないのかと考えてしまいます。もちろん、弱者が堕落しない範囲で。こういうことを言うと、日本にあっては「社会主義者」と思われがちで、嫌になります。純粋な気持ちなのですが。。こういう考えは偽善なんですかね。
もしかしたら、この質問自体も「工業社会のパラダイム」の内部にとどまっているのでしょうか。
私は「弱者の保護」という言葉が好きではありません。弱者の保護が弱者をさらに弱者にしているという現実があるからです。所謂「弱者の保護」のために必要なことは、社会福祉ではなくて、保険です。これについては、また、改めて投稿します。なお、私は、「条件の平等」は「機会の平等」と同じ意味で使っています。
ご意見ありがとう御座います。なるほど、保険ですか。考えも及びませんでした。私は今まで福祉のことしか考えていなかったです。目から鱗です。保険に関する投稿、楽しみにしております。
※前回の私の投稿文に誤った記述がありました。そのことで永井さんにも『「条件の平等」は「機会の平等」と同じ意味で使っています。』と、誤解を招いてしまったようですので、訂正致します。
「誤」
「機会の平等:その結果については・・・」
「訂正」
「結果の平等:その結果については・・・」
表題「自由と平等は両立するか」は、私にとっては非常に関心の高いタイトルなのですが、いやはや私には中々解釈が難しいです。
「自由の中には平等が存在している」或いは「自由と平等は共存している」という解釈をしたのですが、現在の日本においてこういう解釈をしても良いものなのでしょうか。民主主義社会・資本主義社会においては「平等」という概念をちらつかせる事は良くないのでしょうか。テレビによく出演している評論家は「平等」という言葉を使った相手に「社記主義者」というレッテルを貼る傾向があります。たとえ「思想の自由」があるにしても、例えばアメリカは社会主義的な思想は許さないみたいですから。
自由と平等の関係
自由とは
自由は、平等の時にだけ現出する概念であり、定義としては、何物にも拘束されることなく、自分のやりたいことができる状態を指します。
平等は、機会の平等のことであり、自由に結果の平等を含めることは、適当ではないと思います。
機会平等
機会の平等を具体的に説明するならば、社会に参加する機会が平等であるという意味。つまり、差別されないことです。
差別とは、特定の個人の存在を否定することで、分かりやすく言うと仲間外れにすることです。自由と差別が対をなすことが分かりますね。
自由度
差別が少ないほど自由が大きくなると感じますから、仮に「自由度」と表現したいと思います。
差別が多ければ、自由度が低くなるという反比例の関係にあるといったらわかりやすいかもしれません。
殺人は差別の典型
最大の差別は、殺人だと思います。完全に個人の生きる機会を奪ってしまうからです。つまり、社会に生きて参加する機会の平等を奪う行為だからです。よって、死刑制度は自由に反するということになり、昨今の国連決議に表れているところです。
結果平等は、差別に至る
さて、結果の平等をどう考えるかですが、分かりやすい例が、今はなくなってしまったソ連に、大変よく当てはまると考えます。
私もその昔、社会科の授業で、ソフォーズ、コルホーズなどの集団農場があり、前者が国営農場のことだと教わった覚えがあります。
そこで働いている人の報酬は、誰でも皆同じであるということでした。一生懸命働いている人も、本気で働かない人も、同じ給料では、本気でやる人がいなくなるのがあたりまえですよね。
日本の自由度
戦後、アメリカより一応「自由憲法」を与えられました。「一応」には、言わずもがなの天皇制が邪魔しているからです。誰でも天皇に立候補できるというのなら、誰にでも天皇になれる可能性(機会平等)があると思うからです。(天皇様ごめんなさい。制度を否定しているだけですので、悪しからず。)
それでも、私たちの法律は、すべて自由に基づいて出来ているわけでして、つまるところ差別を排除するべく作られています。昨今の事件や事故の多発を見るにつけ、それらのすべてが差別の結果だなあと思いました。
命をかけて守る自由
「自由は、命をかけて守る価値がある。」と子供のころから教えるアメリカ。もらった「自由」が、どれほどの値打ちのあるものか分からずに、12歳と言われて蔑まれた先輩方。蔑むのも差別ですから、かくいうアメリカもまだまだ自由度は、高くないと言えましょうか。
自由への戦いに加わる勇気
リンカーンやケネディ、キング牧師たちが、自由を求めて戦い続けていたことは、よく知るところです。私たちが自由のある明るい未来を手に入れるための前哨戦、いや本番を引き継ぐ勇気が問われていると思います。
死刑も殺人だから、差別なのでしょうか。殺人犯を死刑にすることを考えてみてください。他の人間を殺した人間を殺さないほうが、差別ではないのですか。
コメントをいただき有難うございます。
死刑の執行は、法務大臣が最終的な許可を出すと聞いたことがあります。人を殺すのが嫌で、判を押さなかった法務大臣もいたようです。
それは、ハンを押すことで、ある人を殺すという事実が目の前にあるからです。つまり、何もしていないはずの法務大臣が、殺人犯となる瞬間といえるでしょう。誰だって嫌に決まっていますよね。
人を殺す行為は、その人の存在を否定する行為ですから、差別ということになり、自由に反する行為に分けられると思います。
昔は、仇打ちが認められていた超がつくほどの差別社会でした。
今の電気椅子の場合、誰がボタンを押すのでしょうか。仮にあなたが係りでしたらどう思いますか。また、逆にあなたが万が一冤罪なのに刑を執行されるとしたら・・・と考えてみてください。きっと身の毛がよだつはずです。
私は、自由がほしいだけです。差別のない明るく楽しい社会を希求します。
市民がしっかりと武装をして、機会の平等を守りあうアメリカ社会が自由であるのは、アメリカ自身の歴史によるものです。差別から自由に向かって進んでいるアメリカが世界の平和のけん引力になっていることは、当然の帰結といえましょう。
一口にアメリカといっても、州が国家でありその集合体がUSAである事実は、アメリカ一国が国連のようなものと考えるべきと思います。
国連でアメリカが一票きりでは、アメリカ国民が納得しないのもうなずけるではありませんか。モナコも一票では、不平等もいいとこですよね。是正する必要があると思いますね。だから国連改革が叫ばれているのも当たり前の話ということです。
日本が60年ほど前にパールハーバー(真珠港)でアメリカ人を殺した事実があります。人を殺すことが差別であれば、当然自由の国アメリカが差別に対して立ち上がるのは、火を見るよりも明らかです。
日本はアメリカとだけ戦って負けました。対するアメリカは、ヨーロッパ戦線でもヒトラーと戦い、勝利を収めている事実に、アメリカの・・・言い換えると自由の強さが如実に表れているといえるでしょう。
現在の日本の軍事力を比較してみても、アメリカ依存でしかないことがわかると思います。60年もたっていて、しかも大国のはずの日本が、原子力空母1隻も持っていない事実が何を意味するのか。
なぜ日本はアメリカに負けたのか・・・という議論がいかに空虚なものかも平等=機会の平等が理解できれば、おのずと思い当たるかと思います。
鋭いご指摘に、一瞬たじろぎましたが、答えになっているでしょうか心配です。
どうも「差別」という言葉の意味が、普通の意味とは異なるようです。きっと「抑圧」という意味で使っているのではないかと忖度します。
>松本 栄司様
>>何もしていないはずの法務大臣が、殺人犯となる
死刑の許可で法務大臣が殺人犯になっているなら、逮捕されているのでは。
どうも「死刑=殺人」の論法には納得しかねます。
行為としての死刑の責任はその刑罰を法的に認めている有権者にあり、行為としての殺人の責任は加害者にあります。
有権者と加害者は個別(互いに無関係)の理由で立脚している存在なのですが、その二者の責任を混同されているのでは。
何と言うか、「差別という言葉」で思考停止してる様に見えてます。
拝見させていただきました。
早速で申し訳ないのですがご教授お願いします。
世間では平等が何たるかをはき違えているように思えてきました。世間と一概にしているのは自分の浅識と対話経験の少なさによる偏見であることは自覚しています。よって偏見も含め、私の主観的思考及びこれから述べることの間違いを指摘していただきたいです。
永井さんの論説からも不平等であることを前提に述べているかと思われますが、世間では不平等という状態は平等でない状態と思われがちに感じています。ただ闇雲に平等であることだけを謳い、何が平等であるべきかがすっぽ抜けている状況です。小学校の運動会での徒競走は二人三脚が如く一緒にゴールし、大人社会ではジェンダー論を無視した男女平等論者。合理的差別も知らないのかと。本文にある才能による能力差・競争によって生じる勝者と敗者これを不平等であると感じるまでは良いと思います。ただし、平等にしようとする必要はないと考えます。なぜなら、この時点では平等に不平等であり、既に平等だからです。この時点の不平等な平等こそが最も自然に近い状態であり、限りなくクリーンな状態だからです。平等に不平等な世界に平等に平等を敷こうとすると資本主義も何もかも破綻してしまいます。これらから上記で述べた平等な不平等は同じ機会・条件を提供することだけを行い、誰も優遇しないことで保たれると思います。なぜなら、これによって生じた結果やその差も平等な不平等に含まれ、結果的に不平等でも、平等が生んだ不平等だから問題であるとは考えられず、同時に努力の価値を認めることにも繋がると考えます。
なぜ長年にわたり平等・不平等で諍いが起きているのか。これは、平等とは存在するものではなく力関係で生じるもの、作られるものであり、それを感じる主体が存在することで初めて成り立つものだからと考えます。元々平等も不平等も存在しない世界であっても、人間の誰かと比べたりできる思考やそれを批評できる価値観、そしてそれを表現できる言葉があれば平等とも不平等とも言えます。私が日本を平和でないという傍らで平和ボケしていると言える人がいたりするように個人の価値観や思考に依存してしまうのだと思います。だからこそ定義できず、解決の兆しが一向に見えなくなってしまうのかなと…。
といったことを知り合いに話したら煙たがられました。理由はそんなこと考えなくても生きていけるからだそうです。哲学とも論とも言えない文章ですが、惰性で生きれる世界では本当に煙たがれるだけかもしれないですね(笑)一種の客観的平和なのでしょうか?
御指摘の通り、機会均等と結果の平等は同じではなく、公平と平等はこの観点から区別されるべきなのですが、最近は公平と平等を逆に定義しようとする人がいるようです。例えば、このページの絵をご覧ください。Equality(平等)とEquity(公平)が競争条件の平等と競争結果の平等という意味で使われています。
こんにちは 「はぁや」です
興味深く拝見させていただいてます
さて自由と平等の両立のお話ですが、自由にはいろんな意味というか状態がありますよね 簡単にいうと「誰がどのような自由をもっているのか?」ということです これを明確にしないと議論自体ができない
でこのなかの「どのような自由」というのはわりと今まで哲学の世界で、話題になってて、積極的自由だとか消極的自由だとか、決定論と自由意志の関係だとかいろいろ議論されている
でも「誰がその自由をもっている」のかはあまり議論にならない
でもこれはおかしなことで、例えば日本人である自分と、北朝鮮の下々の人とではあらゆる面で自由度が違う
一般的にお金や権力を持っている人の方がもってない人より基本的に自由であるし(例外はあるだろうけど)
いや、そんな巨視的な視点だけではなく、例えば、自分の部屋は自由に使えるけど、他人の部屋は使えない それは逆もしかり
自由の領域は平等でも同質でもない 当たり前の話
で、自由競争のお話
機会の平等とかいうけどどうやって自由を平等にするのか?誰がお膳立てするのか疑問が出てくるし、そもそも競争をしたくない人からしたら自由競争は、ちっとも自由ではない 機会の平等を前提とした自由競争は幻想だとおもいます
私が機会の均等でもって念頭に置いているのは、国家や自治体が市場経済に不当に介入しないことで生まれる消極的自由で、これは、国家や自治体が平等を作り出そうと市場経済に介入することで生まれる積極的自由とは異なります。
世の中には自由競争が嫌いな人もいるでしょう。自由な社会では、世捨て人となり、無人島で自給自足の生活をする自由もありますから、自由な社会だから自由競争をしなければならないという必然性はありません。
コメントありがとうございます
いろいろご質問がありますのでよろしくおねがいします
1今回のいう自由競争とは、市場経済に限ったことでしょうか
2永井さんがいう「国家や自治体が不当に介入しないことでうまれる消極的自由」は、理想として、「その社会の全ての構成員一人一人が他者から行動や思考を強制されない状態」ということでしょうか?それならば国家や自治体が不当に介入しないだけで、可能なのでしゅうか?何も他者が他者を強制するのは国家や自治体だけではないでしょう 非合法を含む、さまざまな団体、あるいは、迷惑なお隣さんや子供にとっての毒親までいろいろあるでしょう そういうときは、国家が介入するという解釈でいいのでしょうか?
3本文を読んで 機会の平等 と 条件の平等 が何を指してるのかよくわかりません 「個人同士の多様性や差異を利用して、自分が得意な分野で競争しろ 一本道の競争ではなく沢山の道での競争」というのは合理的でなんらかな平等性があるのはわかるのですが
4.でその 機会の平等 と 条件の平等 をどうやって整備していくのか 自由競争自身がそれを見つけていくという解釈でいいですか?
5結局 消極的自由と自由競争と機会の平等、条件の平等は両立できる ということを端的に事実としていってるのか そういう社会にしたほうがいいと推奨してるのかどちらですか?
6 あと余談ですが私の「自由をめぐる哲学の歴史は 自由とは何か?ばかりをとりあげ「誰が自由なのか、誰の自由なのか」を蔑ろにしている」という私見についてどう思われますか?
反論
1自由競争が嫌いな人が世捨て人となり無人島でという話がありましたが、国民国家で私有財産制のわが国では島は国のものか自治体のものか私有地なので長期的にできるんですか 前テレビにそんな方が出てましたけど、島からおいだされた話を聞きました
2自由か平等かのイデオロギー対立はかつての資本主義と社会主義の
とありますが自由か平等かはおもてむきじゃないですか?
当時の社会主義国はノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級もいましたし、しもじもも自由ではなかったでしょう
長文失礼しました 返信くださると嬉しいです
競争自体は非市場経済にもありますが、通常自由競争と言えば、民主主義政治と市場経済が機能している社会での競争を意味します。
私が「私が機会の均等でもって念頭に置いているのは、国家や自治体が市場経済に不当に介入しないことで生まれる消極的自由で、これは、国家や自治体が平等を作り出そうと市場経済に介入することで生まれる積極的自由とは異なります」と言ったのは、リバタリアニズム(英国的なリベラリズム)と米国的なリベラリズムを区別するためです。誰かが「お膳立て」しないと存在しないような自由は、米国的なリベラリズムを念頭に置いているのではないかと思って、注意を喚起しておきました。
リバタリアニズムといってもいろいろな種類があるのですが、私は無政府主義的なリバタリアニズムを支持しているわけではありません。したがって、政府が市場経済に全く何も介入しないということではありません。例えば、独占禁止法のような法律に基づいて、独占を排除するような「介入」も必要になってきます。
政府が特定の個人、企業、業界との癒着を減らすことで、官製不平等を減らすことができると思います。他方で、私はすべてスタートラインを同じにするべきだとは考えていません。これについては、「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法」を参照してください。
自由かつ機会均等な社会は、そうでない社会よりも破壊的イノベーションが起きやすく、イノベーションによる成長と繁栄が期待できるという点で望ましい社会であると思います。
意識ある存在者はすべて自由な存在です。
誰かが所有権を持っているなら、その所有者から買えばよい。現在、日本の地方の不動産は、離島に限らず、二束三文で買うことができます。無料でお譲りしますという庭付き一戸建てもたくさんあります。
私は「自由か平等かという理念の対立は、かつての自由主義と社会主義とのイデオロギー的対立の政治哲学的基盤となっていた」と書きました。ここからもわかるとおり、あくまでも理念やイデオロギーの問題であって、現実の社会主義国家がどうなのかはまた別の問題です。
いろいろと質問に対する回答ありがとうございました
永井さんの思想がなんとなくわかってきました
一つだけわからないのが「意識ある存在者は全て自由な存在です」が意味が全くわかりません しかし大変興味深くもあります
是非その意味を教えていただきたいです
「意識とは何か」をお読みください。選択する自由がなければ意識はないし、意識があるなら選択の自由はあるということです。
返信ありがとうございます
「意識とは何か」大変興味深く拝見させて頂きました
ただ私がいいたいのは、意識あるものが誰でももっている「自由意志」の話ではなく「人から強制されない自由=消極的自由」や「やりたいことができる=積極的自由」が人によってどのくらいもっているか違う、つまり「自由の不平等、不均質」の話題を哲学や政治思想がないがしろにしてるような気がするという話です
これに関しての永井さんのご意見をいただきたく思います
(ちなみに私は自由の不平等を解消しろだとか、自由の不平等があるので市場原理はダメだといった左翼的な意見を主張しているのではないので誤解のないようお願いします)
自由や機会均等は個人の人権の問題として一般に認識されていますが、これらの重要性は個人の利益よりも社会の利益、生物学的な用語をあえて使うなら、個体の利益よりも種の利益という観点からの方が容易に理解できます。またその観点から、完全に平等に与えられた自由や機会均等が不要であることが正当化されえます。
社会システムが自己保存を続けるためには、一方で環境適応力を、他方で変化適応力を持たなければなりません。環境適応力を高めるためには、優勝劣敗型の資本の再配分を行う必要があり、その結果、格差が生じます。権力(政治的資本だけでなく、経済的資本や文化的資本を含めた広い意味での資本が持つ力)を得た者が、自分の権力を守るために権力を行使する時、権力のオートポイエーシスにより、格差が固定されます。格差が固定されると変化適応力が低下します。
優勝劣敗といっても、所詮はその時の環境下でのことです。偶然的な非対称性の自発的破れによって勝者と敗者の格差が生まれ、固定されるということもありえます。しかし環境(自然環境だけでなく、ライバルも含めた広い意味での環境)は時に激変することがあり、いつまでも過去の栄光にしがみついていると、変化に適応できなくなって、没落します。
システムが環境の変化に適応するには、システム自らが変化しなければなりません。といっても、どう変化すればよいかは自明ではなく、様々な試行錯誤が必要になります。私たちの社会では、各個人は能力も様々、境遇も様々、自由の度合いも様々ですが、こうした多様性があるおかげで、ありとあらゆる可能性が試され、非常に多くの候補から最適解が競争を勝ち抜いて選ばれます。
もしも左翼が理想視するように、社会システムにおけるすべての人々完全に平等で、金太郎あめのように同じであると仮定しましょう。その場合、同じような人たちが同じようなことを考え、同じような試みを行い、同じような結果にたどり着きます。候補が少なければ、選ばれる最適解も貧弱となり、環境の変化に対応できません。それゆえ、階級の固定化のみならず、均質的な個体の平等もまた、社会システムの環境適応能力を低下させるという点で好ましくないということになります。
本当の自由や本当の機会均等は存在しないから、自由主義(リバタリアニズム)の理念は偽善的で非現実的だと批判する人たちは、自由や機会均等を自己目的的な理念と勘違いしています。それらが究極目的なら、その完全性を追求することに意味がありますが、私たちの究極目的はシステムの自己保存であり、それに貢献する限りで自由と機会均等は価値を持つのだから、自由や機会均等が各個人に完全に平等に与えられていなくても(むしろ与えられていない方が)よいのです。
もとより、権力のオートポイエーシスで作動するポジティブ・フィードバックは強力で、これを抑制するためには、消極的自由だけでは不十分で、社会保障の仕組みを通じた富の再配分も必要になることまでは否定しません。敗者が死ぬなら、多様性が失われ、失敗の経験を次のチャレンジで生かすことができなくなるからです。そうはいっても、完全な平等を目指すべきではありません。
以上を要するに、社会システムが、一方で環境適応力を、他方で変化適応力を持つには、《格差の固定》でも《格差の否定》でもなく、《格差の流動化》が肯定されなければなりません。それなのに、多くの人は、権力者の既得権益を守る保守主義とそれを否定して平等を目指すリベラル(左翼の婉曲表現)の二つの立場しか政治には存在しないと思っていて、自由主義(リバタリアニズム)という第三の立場を見逃しています。これは残念なことです。
人類の存続は有限である考えるのが妥当ですが、つまり流動化エントロピーの安定点までの時間は人類にとって永遠と同等であり、一人の人間からみれば一生涯この流動化に晒されるということを覚悟して生きてゆかねばならないということでしょうか。また、これに気付いた人間だけが真の自由を獲得することができるのではと考えるのですがいかがでしょう。
生物学的に定義されたホモ・サピエンスなら、他の生物の種と同様に、その存続は有限ですが、だからといって、私たちの存続も有限ということにはなりません。どうすれば私たちが宇宙の終わりを超えて永遠に存続することができるのかに関して、また別の機会に詳しく述べたいと思います。
永遠に存続する?オカルティックで興味深いです。
例えばビデオ通話のような技術でできることは、千年前の人類にとってはオカルトでしたが、今ではそうではありません。同様に、今ではオカルト的に思えることでも、将来は、科学技術の進歩により合理的に実現可能になりえるのです。