リベラリズムとリバタリアニズム
日本では、明治時代以来、英語の"liberalism"は、「自由主義」と訳されてきた。この訳は、英国の古典的なリベラリズムの訳としては適切である。しかし、今日米国で使われているリベラリズム(liberalism)は、自由主義とはかなり異なる意味を持っている。そこで、本来の自由主義を意味する言葉としてリバタリアニズム(Libertarianism)という用語が使われるようになった[1]。
1. リベラリズムの意味の歴史的変遷
「自由な」を意味するラテン語"liberalis"は、近代以前から使用されていたが、 リベラリズム(liberalism)の歴史は浅い。この語が英語で最初に用いられたのは、1815年のことである[2]。当時、リベラリズムは、宗教的偏見から自由な寛容の精神をも意味したが、18世紀後半以降の第一次産業革命時代の英国では古典派経済学がもてはやされていたので、自由放任的な経済を肯定する立場としても使われた。19世紀に英国で保守党に対抗して作られた政党、自由党(The Liberal Party)も、この意味でのリベラリズムを信奉していた。
19世紀も後半になると、第二次産業革命の時代となり、自由放任的な経済政策が疑問視されるようになった。そこで、1908年に首相になった自由党のハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith;1852年9月12日 – 1928年2月15日)は、従来のレッセ・フェール路線を軌道修正し、個人の自由を守るために政府が福祉に力を入れるなど、積極的に市場に介入する「新しいリベラリズム New Liberalism」を提唱した。思想的な起源は、トーマス・ヒル・グリーン(Thomas Hill Green;1836年4月7日 – 1882年3月15日)にあるとされている。今日、英国では、この新しいリベラリズムは、古典的自由主義とは区別して、社会的自由主義(social liberalism)と呼ばれている。
米国でも同じようなリベラリズムの変質が起きた。19世紀の米国では、民主党が古典的自由主義を支持したのに対して、共和党は関税の維持を主張していた。また、南北戦争以前、民主党が南部の利害を代弁して奴隷制を守ろうとしたのに対して、共和党は北部の利害を代弁して奴隷解放を主張し、そのため、黒人たちは共和党を支持していた。民主党と共和党のポジションが今とは逆であったのだ。
民主党の中には、レッセ・フェールに反対する人たちもいて、そうした反主流派は、古典的自由主義を信奉するブルジョワ的な主流派たちを「ブルボン民主党員 Bourbon Democrat」と呼んで非難していた。反主流派と妥協して、民主党の政策が変化したのは、「ニュー・フリーダム New Freedom[3]」をスローガンに掲げて1912年に大統領に当選したウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson;1856年12月28日 – 1924年2月3日)の時である。ウィルソン自身はブルボン民主党員であったが、時代の流れを受け入れ、特に大統領二期目には労働者保護の規制を強化するなど介入主義的な政策を打ち出した。
リベラルな民主党の左傾化は、世界恐慌を公共事業で克服しようとしたフランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt;1882年1月30日 – 1945年4月12日)の時に急速に進み、その結果、リベラリズムが社会主義に近い意味になってしまった。他方で、民主党の左傾化に対する反動として、共和党の保守化が進んだ。保守主義の対義語は進歩主義や革新主義で、英語では、"progressivism"がこれに相当する。それにもかかわらず、米国では、"liberalism"が、古典的自由主義と区別するための形容詞が付けられることもなく[4]、"progressivism"と同じ意味で使われ、今日に至っている。
2. 本来のリベラリズムを何と呼ぶべきか
英国をはじめとするヨーロッパでは、同じ自由主義でも、小さな政府を肯定する古典的自由主義と大きな政府を肯定する社会的自由主義が概念的に区別されている。ところが、米国では、リベラリズムと言えば後者のことで、前者の意味でのリベラリズムは忘れ去られてしまった。この違いは、ヨーロッパとアメリカの歴史の違いに起因しているものと思われる。
ヨーロッパでは、王侯貴族といった封建時代のエスタブリッシュメントから新興ブルジョワが経済的自由を獲得することが大きな社会的課題であったので、古典的自由主義は重要な政治的立場である。ところが新世界には封建的なエスタブリッシュメントは存在しない。米国にとって、それが問題になったのは、独立戦争の時ぐらいである。独立後の米国にとって重要になったのは、奴隷解放であった。20世紀になると、資本主義経済の奴隷ともいうべき労働者に社会的自由を与えることが重要な社会的課題となる。その結果、米国ではリベラリズムはもっぱら社会的自由主義を意味する言葉となった。
1970年代にスタグフレーションの弊害が顕在化すると、世界的に福祉国家の理念が疑問視されるようになった。それは、資本集約的経済が知識集約的経済へと移行する情報革命の時代の幕開けでもあった。1979年に英国首相になった保守党のマーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher;1925年10月13日 – 2013年4月8日)、1981年に米国大統領となった共和党のロナルド・レーガン(Ronald Reagan:1911年2月6日 – 2004年6月5日)、1982年に日本の首相になった自由民主党の中曽根康弘(1918年5月27日 – 2019年11月29日)の時代になると、福祉国家の理念が否定されるようになり、古典的自由主義が再評価されるようになった。しかし、同時に、その自由主義を何と呼ぶかが米国で問題となった。
古典的自由主義の復活に反対する人たちがよく使う用語に「新自由主義 Neoliberalism」がある。この言葉はもともとフランス語で、1844年に「政府による限定的な介入を許容する自由主義の形態[5]」という意味で"néolibéralisme"が使われた。つまり、当初は、後にアスキスが提唱した「新しいリベラリズム」と同様、社会的自由主義を意味したのである。
後の新自由主義に影響を与えた思想潮流としては、フライブルク大学のヴァルター・オイケン(Walter Eucken)などが提唱したオルド自由主義(Ordoliberalismus)の方が重要である。オルド(ordo)とはラテン語で秩序を意味し、英語の"order"の語源となっている。 日本語に訳すと、「秩序ある自由主義」といったところだ。自由放任だと、独占や寡占により市場原理が機能しなくなるので、市場原理が機能する「秩序」を維持するために政府が市場経済に介入するべきだという立場の自由主義である。その意味で、原則として市場経済に介入しない古典的自由主義とも市場原理が機能しなくなるほど介入する社会民主主義とも異なる第三の立場ということだ。フライブルク大学が中心となったことから、フライブルク学派とも呼ばれる。
1938年にフライブルク学派のアレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)やウィルヘルム・レプケ(Wilhelm Röpke)が、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig Heinrich Edler von Mises;1881年9月29日 – 1973年10月10日)、フリードリヒ・ハイエク( Friedrich August von Hayek;1899年5月8日 – 1992年3月23日)といった古典的自由主義に近い立場を採るオーストリア学派とともにリップマン・シンポジウムを開催し、自由主義を復活させるためのプロジェクトを立ち上げた。その結果、モンペルラン・ソサイエティーが結成され、それが今日のダボス会議にまでつながる。
英語圏で、新自由主義の代表とみなされるようになったのは、米国の経済学者、ミルトン・フリードマン(Milton Friedman;1912年7月31日 – 2006年11月16日)である。彼は、「新自由主義は、19世紀の自由主義者と同様に個人の基本的な重要性の強調を受け入れるが、このための手段として、レッセ・フェールという19世紀の目標を競争によって決定される秩序の目標に置き換える[6]」と述べて、新自由主義をオルド自由主義と同じ意味の言葉として使っている。
「新自由主義」という呼称が、反対派によって使われる蔑称になったのには、事情がある。アウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet;1915年11月25日 – 2006年12月10日)は、1973年にチリでクーデターを起こし、社会主義政権を倒して実権を掌握すると、一方で独裁的で抑圧的な政治を行いつつも、他方ではシカゴ大学でフリードマンのもと学んだチリ人経済学者(通称、シカゴ・ボーイ)たちを招いて、反ケインズ的な経済政策を打ち出した。反対派を拷問で圧迫するピノチェトの強権政治に政策面で加担したフリードマンは、国際的に非難され、それ以来、「ネオリベラリズム」は、反対派が自由主義の横暴さを強調するために使われる呼称となった。
「ネオリベラリズム」という用語は、1980年代の査読雑誌では、ほとんど使われることはなかったが、90年代以降、最初は南米のスペイン語圏で、後には英語圏で頻繁に使われるようになった。査読雑誌掲載論文で肯定的な意味で使われた事例が3%しかなかったのに対して、否定的な意味で使われた事例は45%もあった(残りは、中立的もしくは両論併記的な扱いであった)[7]。査読雑誌でこのありさまなのだから、一般向け媒体では言わずもがなだろう。
フリードマンによれば、経済的自由主義は政治的自由主義の必要条件ではあるが、十分条件ではない。
[第二次世界大戦以前の]ロシアや日本の例を見ればわかるとおり、経済的自由主義だけでは、政治的自由は保証されない。しかし、経済的自由主義は、政治的自由のための必須条件であると主張されている。歴史的に見ても、政治的自由を実質的に享受していた国で、経済的自由主義を実質的に実践していなかった国はない。[8]
戦前の日本に民主主義がなかったというのはどうかと思うが、チリのように独裁政治においても自由主義経済が実行されることがあるのだから、経済の自由化は政治の自由化よりも容易と言えるだろう。
日本では、新自由主義という言葉は、とりわけ小泉改革に対して使われる。しかし、小泉純一郎(1942年1月8日 – )は、ピノチェトとは異なり、クーデターで政権の座に就いたわけでも、反対派に肉体的な拷問を行ったわけでもない。ピノチェトと同じ扱いにすることは適切ではない。むしろピノチェトの新自由主義に近いのは、中国で鄧小平が行った改革開放路線である。実際、鄧小平は、フリードマンを北京に招待させて、講演させている。強権的独裁政治と自由主義経済の奇妙な組み合わせは、南米や中国で行われたが、民主主義国家である英国、米国、日本で行われたサッチャー、レーガン、中曽根の改革とそれらを同一視するべきではない[9]。
もとより、今日、政治が独裁的かどうかとは無関係に、新自由主義という呼称は、古典的自由主義と同じ意味の言葉として使われている。かくして、リベラリズムとネオリベラリズムは、相互に本来とは逆の思想を意味する言葉として使われるようになったわけだ。それにしても、旧自由主義(paleoliberalism=古典的自由主義)を新自由主義と呼ぶことはおかしくないだろうか。
新自由主義よりも侮蔑的な意味合いを持った呼称に「市場原理主義 market fundamentalism」というのがある。この言葉は、ジョージ・ソロスの著作『グローバル資本主義の危機』で有名になった。ソロスは、現在、市場のマジックを信奉している人はフランス語を話さないという理由から、レッセ・フェール(laissez-faire)というフランス語よりも、この言葉のほうが適切だと言っている[10]。この言葉は、自爆テロを繰り返すイスラム原理主義者を連想させるので、市場経済の危険さを訴えるソロスのような人たちによって好んで使われる。しかし、キリスト教原理主義やイスラム原理主義のように、絶対的な経典があるわけではないので、市場原理主義という宗教は成り立たない。
古典的自由主義を指す言葉として当事者たちが選んでいるのが、リバタリアニズム(libertarianism)である。この言葉は、もともと決定論に反対して自由意志の存在を唱える形而上学的立場を指す言葉として1789年に使われた[11]が、後にフランスの無政府主義者(libertaire)によって、政治的な立場を表す用語として使われるようになった。米国では、1955年に作家のディーン・ラッセルによって、古典的自由主義を意味する言葉として使うことが提唱された。
私たちの多くは自分を「リベラル」と呼んでいます。「リベラル」という言葉は、かつては個人を尊重し、大規模な強迫を恐れた人々を意味していたことは事実です。しかし、左派は今や、彼ら自身ならびに政府による財産の所有権と人々に対するより多くの統制という彼らのプログラムを同定するため、かつての誇らしげな言葉を堕落させてしまいました。結果として、自由を信じる私たちが、リベラルと呼ぶとき、私たちは堕落していない古典的な意味での自由主義者を意味することを説明しなければなりません。これは、控えめに言っても、ぶざまで、誤解を招きやすいものです。そこで提案があります。自由というトレードマークを愛し、私たち自身のためにそれを留保する人々に、「リバタリアン」という適切で立派な言葉を使わせてください。[12]
以後、「リバタリアニズム」と「リバタリアン」が、古典的自由主義とその信奉者を指す言葉として使われるようになった。1971年には「リバタリアン党 Libertarian Party」という政党までが設立された。共和党と政策が被るので、長らくほとんど票を獲得できない泡沫政党であったが、2016年の大統領選挙にでは、自由貿易を否定するドナルド・トランプ(Donald Trump;1946年6月14日 – )が共和党の大統領候補として指名されたため、差別化に成功して、3.27%の得票率を得た。
保守とも革新とも異なるリバタリアニズムの政治的位置を以下のチャートで確認しよう。
このチャートは、保守主義者/進歩(革新)主義者という左右の区別とは別に、リバタリアン/権威(全体)主義者という上下の区別を導入し、保守的リバタリアン、進歩的リバタリアン、保守的権威主義者、進歩的権威主義者という四つの領域を区分している。この四つの領域の極端な立場は、それぞれ、古典的自由主義、無政府共産主義、国家主義、マルクス主義的共産主義に相当する。
民主党は、穏健なタイプの進歩的権威主義であったが、バーナード・サンダース(Bernard Sanders;1941年9月8日 – )のように、より急進的な立場の政治家が党内で生まれつつある。これに対して、共和党は、かつては穏健なタイプの保守的リバタリアンであったが、トランプ大統領の時代に保守的権威主義の方向にポジションをやや変えた。つまり、全体として、リバタリアニズムの担い手が少なくなりつつあるということだ。
3. 日本ではどう呼称を使い分けるべきか
明治時代以来、「自由主義」が"liberalism"の定訳となっている日本で、"libertarianism"をどう訳せばよいだろうか。
「リバタリアニズム」という言葉は、日本ではほとんど知られていないだろう。決まった訳さえない。「自由至上主義」とか「完全自由主義」というところだろうか。[14]
方言周圏論で謂う所の辺境残存の原則にしたがって、日本では、「自由主義」の意味が古典的自由主義の意味のまま固定されて、変化していない。それなら"libertarianism"の訳も自由主義でよいのではないか。紛らわしい時だけ、「リバタリアニズム」とカタカナで表記すればよい。
むしろ訳を考え直さなければならないのは、社会的自由主義という意味での"liberalism"の方である。これを自由主義と訳すことは誤解を招く。一番良いのは、「リベラリズム」とカタカナで表記することだ。実際、日本の政界では、冷戦終結後、「リベラル」という言葉が、日本語に訳されることなく、左派の政治家の自称として使われている。
冷戦時代、左翼の政治家や知識人たちは、「革新」とか「進歩」といった表現を自分たちのアイデンティティを示す語として使っていた。彼らは、社会主義革命や共産主義革命で日本を「革新」することを目指していたし、資本主義社会から社会主義社会あるいは共産主義社会へと移行することが「進歩」だと思っていた。ところが、ソ連崩壊後、そう考える人はほとんどいなくなって、「革新」や「進歩」という言葉も使うことが憚れるようになった。
日本の左翼が、代わりに使い始めたのが「リベラル」という曖昧な呼称である。米国では、進歩主義者/革新主義者という意味で使われているから、彼らのアイデンティティを同定する呼称として間違っていないが、もとは「自由主義者」という意味であったから、ソフトな印象を受ける。日本のメディアも、ちょうど右翼の婉曲表現として「保守」という言葉を使うように、左翼の婉曲表現として「リベラル」という言葉を使っている。2017年に希望の党が結成された時、小池百合子代表(当時)が「リベラル派を排除する」と発言して、物議を醸したことがあった。ここで謂う所の「リベラル派」とは、古典的自由主義者ということではなくて、憲法改正に反対する左派の議員ということである。
私は、『市場原理は至上原理か』で、「市場原理至上主義」という呼称を使ったが、この呼称を英語に直訳することはできない。なにしろ「市場原理」自体、直訳できないのである。この点、"libertarianism"は、ミスリーディングではない簡潔な表現として使える。もとより、一口でリバタリアニズムといっても、実際にはいろいろな立場があるので、誤解を招かないようにするには「無政府主義的ではないリバタリアニズム」など、詳しい限定が必要である。
4. 付録:コミュニタリアニズムについて
米国にはリベラリズムともリバタリアニズムとも保守主義とも異なるコミュニタリアニズムと呼ばれる政治的立場がある。その位置づけについて読者から質問があったので、それに答えたい[15]
マイケル・サンデルに代表されるコミュニタリアニズムについての永井さんの考えを聞かせて下さい。
私はマイケル・サンデルには詳しくないし、彼の思想をコミュニタリアニズム(共同体主義)と呼ぶことが適切かどうかもわかりません。マイケル・サンデルもそう呼ばれることを好まないようですし、そもそも自分はコミュニタリアンだと公言している人自体少ないようです。マイケル・サンデルの話は措くとして、コミュニタリアニズムという政治的立場は以下のように位置付けられています。
日本語に訳すと、以下のようになります。
スペクトラム | 経済的共同体主義 | 経済的個人主義 |
---|---|---|
文化的共同体主義 | 共同体主義 | 右派 |
文化的個人主義 | 左派 | 個人主義 |
米国での右派と左派は、日本で謂う所の右翼と左翼とは少し異なります。右派は、愛国心や愛郷心といった共同体的な文化の価値を尊重する一方で、経済的な競争を奨励する立場で、米国では共和党などの保守層、日本では橋下徹がこの立場です。左派は経済的には共同体による支え合いを重視するものの、例えば妊娠中絶に関しては、伝統的キリスト教的価値観よりも女性個人の判断を重視する立場で、米国では民主党などのリベラル層がこの立場です。個人主義は、米国ではリバタリアンとも呼ばれ、私はこの立場に近いです。そして、共同体主義はそうした個人主義とは対極にある立場です。
日本には、「保守」を自認しながら、TPP や経済自由化に反対する人たちがたくさんいますが、彼らは共同体主義者といってよいかと思います。この立場を国家主義の方向へ先鋭化すると、国家社会主義になります。一般に共同体主義者は、自分たちがナチスや右翼のような全体主義と同一視されることを嫌い、愛国心よりも愛郷心や家族愛を強調することでソフトなイメージを演出していますが、たんに「共同体」の単位が小さいというだけで、イデオロギー的な方向は同じと言うことができます。
お返事ありがとうございます。
マイケルサンデルの日本での講義では、個人主義・市場原理に批判的な人が多いようにみえます。
そこで質問なのですが、なぜ日本人は個人主義や市場原理を嫌ったり、小泉の構造改革などに批判的な人が多いのでしょうか?
それは、日本が世界で最もフォーディズムで成功した国であり、それゆえ、多くの日本人がその成功体験の呪縛から未だに逃れることができないからでしょう。もっとも、小泉内閣の支持率が高かったこと、小泉が郵政民営化を争点とした総選挙で圧勝したことを考えると、そういう人たちが日本人の多数派を占めるとまでは言えないません。
5. 参照情報
- 渡辺靖『リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義』中央公論新社 (2019/1/25).
- 神島裕子『正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点』中央公論新社 (2018/9/25).
- 小林正弥『サンデルの政治哲学 ―〈正義〉とは何か』平凡社 (2013/7/22).
- ↑このページは、2005年4月9日に作られたが、2020年7月8日に全面的に書き換えられた。
- ↑Kirchner, Emil J. Liberal Parties in Western Europe. Cambridge University Press (November 25, 1988). p. 2-3.
- ↑Wilson, Woodrow. The New Freedom A Call For the Emancipation of the Generous Energies of a People. NEW YORK AND GARDEN CITY DOUBLEDAY, PAGE & COMPANY 1913.
- ↑米国では、古典的自由主義と敢えて区別する場合、"modern liberalism" と呼ばれることがある。
- ↑“Néolibéralisme ― Forme de libéralisme qui admet une intervention limitée de l’État." Rey-Debove, Josette. Le Nouveau Petit Robert 2007: Dictionnaire Alphabetique Et Analogique De La Langue Frantaise. Laurier Books Ltd (2006/7/1).
- ↑“Neo-liberalism would accept the nineteenth century liberal emphasis on the fundamental importance of the individual, but it would substitute for the nineteenth century goal of laissezfaire as a means to this end, the goal of the competitive order." Milton Friedman. “Neoliberalism and Its Prospects." February 17, 1951. Collected Works of Milton Friedman. Hoover Institution Archives, Stanford, CA.
- ↑Boas, Taylor C., and Jordan Gans-Morse. “Neoliberalism: From New Liberal Philosophy to Anti-Liberal Slogan.” Studies in Comparative International Development 44, no. 2 (June 1, 2009): 137–61.
- ↑“Economic liberalism alone does not guarantee political freedom—witness the examples of Russia and Japan cited earlier. But economic liberalism is, it is argued, an indispensable prerequisite for political freedom. Historically, there are no countries that enjoyed any substantial measure of political freedom that did not also practice a substantial measure of economic liberalism." Milton Friedman. “Liberalism, Old Style.” In: Milton Friedman on Freedom: Selections from The Collected Works of Milton Friedman. Hoover Institution Press; 1st edition (April 1, 2017). p. 4.
- ↑もとより、サッチャー、レーガン、中曽根は、政治的にはタカ派であり、伝統文化重視の価値観を持っていた。このため、新保守主義と呼ばれることがある。
- ↑George Soros. The Crisis Of Global Capitalism: Open Society Endangered. PublicAffairs; 1 edition (December 2, 1998). p. xx
- ↑William Belsham. Essays, Philosophical, Historical, and Literary 1789. ed. C. Dilly. p. 11.
- ↑《Many of us call ourselves “liberals.” And it is true that the word “liberal” once described persons who respected the individual and feared the use of mass compulsions. But the leftists have now corrupted that once-proud term to identify themselves and their program of more government ownership of property and more controls over persons. As a result, those of us who believe in freedom must explain that when we call ourselves liberals, we mean liberals in the uncorrupted classical sense. At best, this is awkward and subject to misunderstanding. Here is a suggestion: Let those of us who love liberty trade-mark and reserve for our own use the good and honorable word “libertarian.”》Russell, Dean. “Who Is A Libertarian?.” The Freeman. Foundation for Economic Education. 5 (5). May 1955.
- ↑“Political Chart – Moderate Libertarianism" by Jhaven. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑池田信夫「リバタリアニズム」2005-04-07.
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「コミュニタリアニズム」からの転載です。
- ↑Generic multi-axis political spectrum chart(media) Wikimedia Commons (author) Guðsþegn. Licensed under CC-BY-SA.
ディスカッション
コメント一覧
はじめて投稿します。リバタリアニズムを「市場原理至上主義」と訳すのですか?このことについては不案内なので、ご叱正を賜わるかもしれませんが、リバタリアニズムは元来意味するはずであったリベラリズムを、ロバート=ノージックが必死に死守しようとしたものであったように記憶しています。もちろん、研究者じゃないので読み違いはご愛嬌にて容赦して頂きたいのですが。よって、市場原理を至上のものとしてはいないような気もします。不案内ながら続けますと、確かに、無政府資本主義と呼ばれている学派ならこの呼称を歓迎するかもしれませんが、ここはやはり、自由尊重主義のほうが穏健な気もしますし、そもそもにて、訳して使うのもあまりいかがなものかという気もしないではありません。今現在でいうリベラルに近いリバタリアンもいるわけですし。それと、昨今の諸般につき、外来語を日本語に翻訳してなるべく用いるみたいなところが垣間見えますが、そもそも輸入語をしっくり翻訳しようなんてのは無理な気もします。誤解、無理解の点につきましては、遠慮無しにご批判下さい。
リバタリアニズムにせよ、リベラリズムにせよ、それは「自由な」を意味するラテン語の“liber”に由来しています。違いは、前者が国家からの自由を、後者が国家による自由を要求しているというところにあります。リバタリアニズムは、語源的には無政府主義をも含みますが、無政府主義にはアナーキズムという言葉があるのだから、私としては、無政府ではないが、大きな政府でもない、小さな政府を志向する立場という狭い意味に限定して使いたいと考えています。
大きな政府の立場を表す英語表現はたくさんあって、“socialism”、“communism”、“fascism”、“totalitarianism”というようにオプションが豊富です。この上さらに“liberalism”まで取り上げられてしまうと、小さな政府の立場を表す英語表現がなくなってしまいます。“capitalism”は大きな政府を排除しないし、“individualism”は、無政府主義を排除しません。だから、せめて“libertarianism”ぐらいは、小さな政府の立場を表す英語表現にしてほしいと思っています。
私の、拙い記憶を呼び覚ましてみると、リバタリアニズムは小さな政府と結びついてくるんですけど、それは、最小国家という意味ですか?それとも、<穏健に>、小さな政府という意味ですか?つまり、最低限の健康で文化的な生存権に実体性を見いだす意味でのそれですか?リバタリアンはかなりこの辺りを真剣に徹底して論じているはずですか。
小さな政府にするということは、たんに政府の仕事を量的に減らすということではなくて、政府の仕事を政府固有の仕事に限定するということです。日本では、民間がするべきことを政府がやっていたり、逆に、政府がするべきことを民間がやっているというケースを見かけます。
スポーツに喩えると、政府は、公平な審判の役割に徹するべきで、選手としてプレーしたり、監督やコーチとして特定チームに肩入れしてはいけません。だから、だから、政府は生産活動そのものから手を引くべきですが、生産活動の監視には介入するべきです。
特に、日本に必要なことは、生産者とその監視役が直接癒着しないように、政府が仲介者となることです。さもなければ、マンションの耐震強度偽装のような問題が、環境アセスメントや新薬の治験などで起きるでしょう。