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戦争に勝つということはどういうことか

1999年12月11日

英米は、第二次世界大戦で犯した過ちと同じ間違いをイラク戦争で繰り返している。二つの戦争に共通する構造を浮かび上がらせながら、戦争に勝つということはどういうことかを考えてみよう。

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戦争の三つのレベル

戦争に勝ったかどうかを判断する時、どのレベルで勝ったのかということを考えなければならない。戦争には、戦術(tactics)・戦略(strategy)・政治(politics)という三つのレベルがある。政治のために戦略があり、戦略のために戦術がある。優れた戦術があっても戦略がなければ戦闘に勝てない。また戦闘に勝っても、政治的外交的成果につながらなければ、意味がない。

戦術と戦略の区別は、マキャベリのそれに由来するといわれるが、クラウゼヴィッツは、「戦略」と「戦術」を次のように区別する。

諸々の戦闘からまったく種類を異にする二通りの活動が生じる。即ち第一は、この戦闘を按排し、指導する活動であり、また第二は、戦争の目的を達成するためにこれらの戦闘を結びつける活動である。そして、前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである。 […] 我々の区別によれば、戦術は、戦闘において戦闘力を使用する仕方を指定し、また戦略は、戦闘目的を達成するために戦闘を使用する仕方を指定する。[1]

どのような武器を使ってどのような攻撃ができるのかは、戦術レベルの問題である。例えば、湾岸戦争では、レーダーや赤外線の探知を避けるステルス戦闘機や命中精度の高い誘導システムを備えた巡航ミサイルトマホークなどが使われた。こうした武器を使った効果的な攻撃方法が戦術である。

多国籍軍は、こうしたハイテク兵器で、味方に人的被害をもたらすことなく、敵の牙を抜き、しかる後に地上軍を投入してクェートの領土を回復する作戦を立てた。この作戦は多国籍軍の戦略だ。戦略は、政治という目的と戦術という手段を結びつける戦争の設計図である。

イラクからクェートが撤退を始めた時、パウエル統合参謀本部議長がブッシュ・シニア大統領に「あと24時間あればイラクの戦車部隊を全滅させることができる」と追討の意見を具申したが、ブッシュ・シニアはそれを却下した。もしフセインの軍隊が壊滅したら、イラクに軍事的空白が生じ、イランが漁夫の利を得る可能性がある。「なぜブッシュ・シニアは、フセインの息の根を止めなかったのか」と人はよく首をかしげるが、アメリカにとっては、どちらも敵であるイランとイラクが対等に対峙してくれるのが、一番良いのである。イラク軍を完全につぶさなかったのは、まさに大統領の政治的判断による。実は多国籍軍の中核を担った英米は、第二次世界大戦での苦い失敗から教訓を得ていたのである。

第二次世界大戦の勝者は誰か

第二次世界大戦は、1939年9月にドイツのポーランド侵攻に対して英仏両国が対独宣戦したことによって始まった。この頃イギリスでは、次のようななぞなぞがはやっていた。

ムッソリーニ、

ヒットラー、

チェンバレン(当時のイギリス首相)、

ダラディエ(当時のフランス首相)

のうち、勝つのは誰か?

Mussolini,

Hitler,

Chamberlain,

Daladier,

Which

Wins?

答えは、各単語の3番目の文字を拾ってみれば分かる。Stalin(スターリン)である。このなぞなぞは冗談で作られたのかもしれないが、その答えは正解であった。

第二次世界大戦は、イギリスが相互援助条約を結んでいたポーランドを守ることを直接のきっかけとして起きる。ポーランド政府要人は、ドイツ軍の侵攻を受けて、ルーマニアに逃れ、そこからパリ在住の元上院議長ラシュウィッチを大統領の後継者に指名した。パリの亡命政権はその後ロンドンに移って英仏と共にドイツと戦う。

ところが、ナチスドイツが敗北した後もこの亡命政権が返り咲くことはなかった。1944年12月に、スターリンは、ソ連占領下ですでに誕生していたポーランド共和国臨時政府を認めるように英米に主張した。チャーチルはロンドン亡命政府の要人がポーランドに帰国後総選挙するよう強く主張したが、ソ連は反共産分子を大粛清した後で総選挙をしたので、ポーランドにはソ連の傀儡政権ができてしまった。

同じことはユーラシア大陸の反対側でも起きる。アメリカは日本から中国市場を手に入れるために、日本と戦うことになったわけだが、日本を打ち負かした結果、中国は、ソ連の影響下に入ってしまった。イギリスもアメリカも、戦闘には勝ったが、政治では負けたのである。

チャーチルとルーズベルトは、カサブランカ会議で「英米両国は、日本とドイツの無条件降伏を達成するまで戦争を容赦なく継続する決意だ」と声明した。日下公人も指摘するように、これは戦争のやり方としては下手なやり方である[2]。相手を丸ごと敵に回すことなく、敵国の反政府勢力においしい有条件を約束しながら、内部から崩して行く戦略が、味方の損害を最小にするためにも、またとんびに油揚げをさらわれないためにも必要なのである。

スターリンが勢力拡大に成功した背景には、連合軍の中核となったアメリカのルーズベルト大統領が、社会主義に好意的であったことがある。ルーズベルト大統領と言えば、今でもアメリカ国民の間で最も人気のある大統領だが、彼がアメリカの国益に本当に貢献したかどうかは、とても疑問である。

ルーズベルト大統領は、ニューディール政策で、アメリカ経済を世界恐慌から立ち直らせたということになっている。しかしその成果はヒットラーのケインズ政策よりはるかに見劣りがする。本題と関係がないので詳しく述べないが、近年の実証的研究から、ニューディール政策は失敗であったと言われている。

ルーズベルト大統領のもう一つの失敗は、ソ連が将来アメリカの敵になることを予測していなかったことである。彼はソ連と一緒に、日本が無条件降伏するまで時間をかけて日本と戦うつもりだった。もしルーズベルトが大統領職を続けていたら、日本はその後ドイツと同様に、分断されていたかもしれない。ところがルーズベルトは4月12日に死去した。新たに大統領となったトルーマンは、単独で日本を占領することに方針転換する。彼は日本に誕生した鈴木貫太郎内閣を降伏のための内閣と考え、「無条件降伏とは軍隊の降伏である」というやや譲歩した声明を発表する。日本の無条件降伏を日本軍の無条件降伏へと修正したわけだ。

当時鈴木内閣は、戦後米ソが対立するであろうことを認識していた。それならば、一刻も速くアメリカと和平を結び、ソ連の脅威に備えるべきだった。ところが鈴木貫太郎は、そうした政治戦略を持つことなく、ポツダム宣言を黙殺し、国民には本土決戦の首相談話を発表していた。もしも、あの時トルーマンの提案を受け入れていれば、原爆が落とされることはなかったし、北方領土問題も生じることがなかった。

イラク戦争の勝者は誰か

2003年3月、アメリカは、イギリスなどとともに、大量破壊兵器を保有するイラクの独裁者サダム・フセイン大統領とバアス党政権を排除するという大義名分の下、国連決議による許容もないまま、対イラク戦争を始めた。この戦争は、米英側に大きな損失がないまま、開戦1ヶ月半ほどで実質的に終了し、同年12月には、サダム・フセインが拘束され、戦術・戦略的には成功だった。にもかかわらず、この戦争が成功だったと評価する人はほとんどいない。

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湾岸戦争で行われた砂漠の嵐作戦[3]

ブッシュ・シニア大統領が、第二次世界大戦の教訓を生かして、フセイン政権のレジームチェンジにまで深入りしなかったのに対して、息子のブッシュ・ジュニア大統領は、ルーズベルト大統領と同じ過ちを繰り返してしまった。ルーズベルトが敵国に戦争を始めさせることで国際世論を味方につけたのに対して、ブッシュ・ジュニア大統領は国際世論に反して、自ら戦端を開いたという点で、ルーズベルト大統領以上に下手なやり方をしたと評することができる。

バブル崩壊後に生じたデフレ対策の戦争という意味で、ルーズベルト大統領の戦争とブッシュ・ジュニア大統領の戦争はよく似ているのだが、結果も似たようなものになりそうだ。ルーズベルト大統領が、ドイツの支配から東欧を、日本の支配から中国を奪い返し、アメリカの属国を拡大しようとしたところ、逆に敵国であるソ連の属国を拡大してしまったように、ブッシュ・ジュニア大統領は、フセインの支配からイラクを奪い返し、アメリカの属国を拡大しようとしたところ、逆に敵国であるイランの属国を拡大してしまうということにならないだろうか。

イラクが民主的国家として自立するための、2005年1月の選挙の結果、イスラム教シーア派が過半数を占めた。

イラク選管は17日、国民議会(定数275)選挙の確定結果を発表した。イスラム教シーア派の政党連合「統一イラク連合」が140議席を確保し、新議会の単独過半数を占めた。国民議会が近く招集され、シーア派主導の移行政府が誕生する見通しだ。[4]

第一次世界大戦後にイギリスがイラクを建国して以来、スンニ派がイラク政治を支配してきたが、今後は、シーア派がイラクを支配することになりそうだ。周知のとおり、イスラム教徒は、スンナ派とシーア派に大別され、シーア派のイスラム教徒は、スンナ派と比べて、原理主義的・反欧米的・反帝国主義的傾向が強い。英米にとって、スンナ派よりもシーア派の方が好ましくないことは言うまでもない。

第二次世界大戦終了後、東欧から中国にいたる巨大な共産主義ブロックが出来上がり、英米は、この共産主義ブロックの「封じ込め」と「巻き返し」に苦労するわけだが、同様に、今回のイラク戦争終了後、イランからイラクを経てシリアにいたる巨大なシーア派ブロックが出来上がり、英米は、このシーア派ブロックの「封じ込め」と「巻き返し」に苦労しなければならなくなる。

核開発疑惑やテロ支援問題で米国と対立するイランが、やはり米国からテロ支援国家と名指しされているシリアなど周辺アラブ諸国との関係強化に乗り出している。隣国イラクにイスラム教シーア派を中心とする政権が誕生するなど周辺環境が好転しており、米国の圧力に対抗できるとの自信を深めつつあるようだ。[…]イランはシーア派最大の国であり、イラクのシーア派最高権威のシスタニ師はイラン出身とされる。イラク新政府とイランの関係強化は確実だ。[5]

英米が、イラクの石油利権を確保するという当初の政治目的を達成するためには、本来どうすればよかったのか。その答えは、第二次世界大戦の考察から容易に見つけることができる。第二次世界大戦において、英米は、敵国にいる反体制派を味方にすることなく、無条件降伏を迫り、ドイツ人や日本人全体を敵に回し、ドイツと日本の軍事力を完全に崩壊させることで、ドイツと日本の占領地をソ連に明け渡す結果となった。これと逆のことをすれば成功したはずだ。

すなわち、英米は、イラク人全体を敵に回すことなく、スンナ派、特にサダムの生地であるティクリート出身のスンナ派の既得権益の維持を約束して、彼らを味方につけ、バース党や軍隊といったスンナ派がイラクを支配する権力機構をそのままにして、サダム・フセインだけを除去し、サダムが占めていた位置に乗れば、彼らの帝国主義的目的を達成できただろう。

スンナ派、特にティクリート出身のスンナ派が英米に協力するはずがないと思うかもしれない。しかし、彼らがフセインを支持したのは、フセイン個人が好きだからではない。フセインが特権を与えてくれたからだ。だから、もしも英米が、特権階級に、これまで以上の経済的特権(それは、経済封鎖を解くことによって可能である)を約束するならば、彼らは、英米に協力し、特権の見返りとして、石油利権の支配を認めたことだろう。

ところが、英米の占領軍は、スンナ派を、フセインとの結びつきが強いという理由で敵視し、シーア派ともイランとの結びつきが強いという理由で距離を置き、結局、イラク人のほとんどを敵に回してしまった。これでは、イラクの統治がうまくいかないのは、当たり前である。英米軍の占領政策は、分割統治(divide et impera)という政治力学のイロハを無視しているという点で稚拙であった。

結局のところ、ブッシュ・シニア大統領が一番恐れていた事態を息子が作り上げることとなった。ルーズベルト大統領の失敗も愚かだったが、その失敗から何も学ばなかったブッシュ・ジュニア大統領はもっと愚かである。

関連著作

参照情報

  1. “Daraus [Aus der Gefechte] entspringt nun die ganz verschiedene Tätigkeit, diese Gefechte in sich anzuordnen und zuführen und sie unter sich zum Zweck des Krieges zu verbinden. Das eine ist die Taktik, das andere die Strategie genannt worden. […] Es ist also nach unserer Einteilung die Taktik die Lehre vom Gebrauch der Streitkräfte im Gefecht, die Strategie die Lehre vom Gebrauch der Gefechte zum Zweck des Krieges.” Carl von Clausewitz. Vom Kriege Library of Alexandria (2012/12/27). 日本語訳:カール・フォン クラウゼヴィッツ『戦争論〈上〉』岩波書店 (1968/2/16).
  2. 日下公人.『人間はなぜ戦争をやめられないのか―平和を誤解している日本人のために』 祥伝社 (2004/4/1).
  3. US Air Force. “USAF aircraft of the 4th Fighter Wing” Licensed under CC-0.
  4. 『朝日新聞』2005/02/17.
  5. 『毎日新聞』2005/02/20.