地方分権は望ましいのか
1970年代に中央集権的な工業社会が環境問題と資源問題で限界に達して以来、前近代的な地域社会への復帰を目指すエコロジーの運動が小さな政府を求める運動と結びついて、地方分権論が台頭するようになった。だが脱工業化は情報革命による量から質への構造転換によってなされるべきだし、行政改革は中央から地方への分権によってではなくて、官から民への、そして組織から個人への分権によってなされるべきである。世界経済は今、開発独裁による資本集約的工業社会から、かつての地方分権による労働集約的農業社会へ逆戻りするのではなく、市場民主主義による知識集約的情報社会へと進化しつつある。それにともなって個人がより大きな選択の自由を求めるようになる。したがって現在必要なのは、地方分権ではなくて個人分権である。[1]

1. 今なぜ個人分権なのか
2000年4月から機関委任事務を廃止して国と地方の対等な関係を目指す地方分権一括法が施行される。石原慎太郎東京都知事や北川正恭三重県知事の決断がマスコミをにぎわせる中、「これからは地方分権の時代だ」という人が増えている。政治家も評論家も、地方分権に賛成している人が多いが、本当に地方分権は望ましいことなのだろうか。今日はこのテーマを考えたい。

「地方の時代」という言葉が流行するようになったのは、1970年代の石油危機によって高度経済成長に終止符が打たれるようになってからである。地方分権推進委員会も『中間報告』の中で、「明治期以来の中央集権型行政システムは、限られた資源を中央に集中し、これを部門間・地域間に重点的に配分して効率的に活用することに適合した側面をもち、これが当時はまだ後発国であったわが国の急速な近代化と経済発展に寄与し、比較的に短期間のうちに先進諸国の水準に追いつくことに大きく貢献してきた事実」を認めた上で、「急速な近代化と経済発展」を終えた石油危機以降の低成長時代の「今日では中央集権型行政システムが新たな時代の状況と課題に適合しないものとなって、その弊害面を目立たせることになった」と主張している[2]。
1970年代という時期は、工業革命以来の工業社会に終止符を打つ時期である。工業革命以来、人類は人と物の量的拡大再生産を続けてきたが、人口規模と経済規模の爆発的拡大は、地球は有限だから永遠には続かない。一方で低エントロピーの減少という資源問題が、他方で高エントロピーの増大という環境問題が人類文明の存続を脅かす問題となるということはこれまでも何度も述べてきた。
資源・環境問題の解決方法には、技術的改良と構造的改革の二種類がある。前者は、有毒物質を出さないようにするとか、エネルギー効率を良くするといった方法で、重要ではあるが本質的な解決にはならない。資源・環境問題を本質的に解決するためには、工業社会から情報社会への構造的改革が必要である。
情報社会では、労働商品の場合を含めて、いかに同じ商品を安く大量に生産するかではなく、いかに質の高い商品を作るかが問題となる。だから情報社会でもっとも重要な投資対象は、教育と研究と技術革新である。農業社会の産業が労働集約的、工業社会の産業が資本集約的であったのに対して、情報社会の産業は知識集約的で、そこでは高学歴化に伴う両親の晩婚化と子供の教育コストの増大により少子化が必然的に進む。総人口を減少させ、総生産量(総消費量)を減少させつつも、一人当たりの生産性(所得)を増大させていくことこそ、資源問題や環境問題の克服と両立する最善の進歩の目標である。
情報革命とは反対の方向を取るのが、エコロジストたちが企てる「革命」である。エコロジストたちは、近代工業社会による生態系破壊を糾弾しつつ、人類が自然環境と調和を保っていた前近代的な農村社会への復帰を主張する。70年代に提唱された「地方の時代」は、プレモダンな地域共同体を復活させようとするエコロジカルな運動を反映したキャッチフレーズであった。
人類の総エネルギー消費量は、人口と平均エネルギー消費量との積によって表わされるが、エコロジストたちは、後者を減らすことでエントロピー増大問題を解決しようとする。だがそのようなことは可能であろうか。前近代的な労働集約的農業では、十五億人程度の人口しか養えないから、残りの三十億人は餓死せざるをえない。生活水準低下の不満を押さえようとするならば、強力な国家権力による恐怖政治が必要であるから、エコロジストたちの予想とは逆に、決して地方分権は実現しない。実際、都会から農村への復帰を目指した中国の文化大革命やカンボジアのポルポト派政権がもたらした悲惨な帰結は、そのことを実証している。環境問題と資源問題を解決しようとするならば、近代から前近代へと後退するのではなくて、近代からポスト近代へと前進しなければならない。
ポスト近代への移行に伴って、産業が知識集約化され、平均所得が増大すると、次のような、個人が自由を求める現象が起きる。
- 生産者および消費者としての個人が選択の自由と個性を要求する。
- 競争主体が国民国家や企業組織ではなく、個人となる。
- 個人の所属するコミュニティが脱地縁化し、多次元化する。
これらを詳しく説明しよう。
- 工業社会では不熟練労働が多かったが、情報社会では知的で専門的な職業が増える。ロボットやコンピュータが人間から単純労働を奪うので、人間には人間にしか従事することのできない職業しか残されない。そのような職業には、研究者や芸術家の職業と同様、高度な独創性が要求される。その結果雇用形態の主流は、ジェネラリストの終身雇用からスペシャリストのアウトソーシングへと変化する。つまり労働者から見ると、選択肢は細分化され多様化していくことになる。一方、一人当たりの所得も増大するので、消費者は、基礎的画一的欲求を満たそうとするだけではなく、多様な選択の幅を生産者に要求するようになる。この消費者の多様な選択が、生産者の専門化と多様化をもたらす。
- 資本集約的産業では、個人の果たす役割は小さく、その結果競争が個人単位ではなく、組織単位で行われる。特に独占資本主義段階の工業社会になると、帝国内の競争が減少する分だけ、帝国間の経済戦争および政治戦争が激化する。この意味で、英独間の古典的帝国主義戦争から、米ソ間の新たな帝国主義戦争にいたるまで、近代主権国家は大きな役割を果たした。ところが、1970年代以降、福祉国家であれ、社会主義であれ、大きな政府による統制経済はうまく機能しなくなり、小さな政府による市場経済の活性化を目指す新保守主義(新自由主義)が台頭する。企業組織内では、日本ではやや遅れているが、終身雇用や組織への忠誠や年功序列といった工業社会で有効だった慣行が崩壊し、個人の実力が問われるようになる。企業どうしの競争よりも企業内の個人の競争が激しくなってくる。
- 交通手段と通信手段の発達により、住民にとって地域コミュニティの存在はますます薄いものになっていく。一方インターネット上では、趣味や職業を通じた新しい脱地域化されたコミュニティが生まれつつある。隣に住んでいる人の名前すら知らない人が、地球の裏側の人と毎日コミュニケーションするなどということもある時代なのである。地域コミュニティと脱地域化されたコミュニティとの違いは、後者は前者よりも、所属する個人にとって選択の自由があるということである。
以上からわかることは、情報社会の時代は個人が選択の自由を求める時代であるということである。では地方分権は個人の時代にふさわしい改革なのだろうか。
2. 地方分権論の批判的検討
地方分権論者が、地方分権が望ましいとする理由には、次のようなものがある。即ち地方分権制の方が、中央集権制よりも、
- 個性豊かな地域文化を形成することができる
- 地域の特殊なニーズに合った行政ができる
- さまざまな行政の実験と革新ができる
- 中央への一極集中を是正することができる
- 災害やテロの対策に効果がある
- 民主主義的な政治が実現する
- 行政改革に貢献できる
というわけである。以下、これらに順次反論したい。
2.1. 個性豊かな地域文化を形成することができる
前近代社会にあった地域色は、消滅する傾向にある。地方分権論者の中には、地方文化の消滅を嘆く人が多い。地方分権委員会の『中間報告』も、中央集権化が「地域ごとの個性ある生活文化を衰微させ」たと言う。しかし、個人の個性を尊重しなければならないのと同様に、地方の個性も尊重しなければならないといったアナロジーに基づく主張は、非論理的である。地方が個性を持つためには、その地方を構成している諸個人は、画一的に当の地方の個性によって統一されていなければならない。逆に、個人がそれぞれ個性を持ち始めると、全体の個性は消滅する。メンバーが個性的であることが、その集団の個性という場合も考えられるが、それは、他の集団ではそうでないことによって可能である。だから集団の個性と個人の個性は鋭く対立する。現代が個人の時代である以上は、地方の個性の消滅はやむをえないのである。
2.2. 地域の特殊なニーズに合った行政ができる
『中間報告』によれば、「中央集権型行政システムの下で全国画一の統一性と公平性が過度に重視され、地域社会の諸条件の多様性が軽視されてきた」が、「ナショナル・ミニマムが概ね達成されたことによって、行政サービスに対する国民のニーズは多種多様になってきた。こうした国民の多様化した価値観に対して全国画一の統一性と公平性の価値基準を押し付けようとすることは、もはや時代錯誤になってきている」。
この見解には、「国民の多様化した価値観」を地域単位で考えている点に根本的な問題があるのだが、それに加えて普遍的と画一的とを混同する論理的無理解がある。中央政府の立法と行政は普遍的である。普遍的な法や規則は、例外事項を含むなど適用基準が複雑なら、画一的ではないが、固有名詞を含まない限り普遍的で、個別的な命令とは区別される。
普遍的な法や規則は、決して適用対象の特殊性に対応できないわけではない。例えば、国の機関委任事務である生活保護は、必ずしも画一的に実施されているわけではなく、生活保護世帯においてルームエアコンなどの保有が認められるか否かは、当該地域の世帯における普及率が一定水準に達していること等を考慮の上決めることができるなど、地域や個人の実情に応じて、保護の内容を決定できるようになっている。周囲が海に囲まれ、寒暖の差があまりなく、エアコンは不要といった地域の特殊性は、法や規則が適用される現実の特殊性であって、法や規則そのものが特殊になる必要はない。特殊を変数として取り込んでも、関数的関係の普遍性は損なわれない。個物の特殊性を止揚した普遍性である具体的普遍は、融通のきかない画一的な抽象的普遍や普遍的基準がなくて不公平な個別的特殊とは異なり、行政の理想的な姿である。
もちろん地方政府の方が中央政府よりも地域の実情には詳しいことは確かである。だから、中央政府は普遍的な法と政策を決め、地方政府は個別地域への適用と運用に従事すればよい。これは地方分権ではなくて地方分担である。そして私は地方分担には異論がない。ところが地方分権論者は普遍的な法と政策の決定権(の一部)まで地方に委譲することを求める。これが問題なのである。
地方分権がもたらす不公平さの問題は次の項に譲って、この項では最後に、地方政府を構成している住民の数が少なくなるほど、その政府が特殊な政治勢力によって左右されるリスクが大きくなるという問題を取り上げよう。例えばオウム真理教のような宗教団体が人口の少ない自治体に信者を多数集結させて、議会で多数派を形成し、行政を乗っ取ったりするならば、その自治体の政治は宗教色の強いものとなるであろう。その時オウムの信者ではない住民の人権はどうなるのか。もちろん中央政治においても、少数派が、多数決に際して反対していた法に服さなければならない場合がある。だが有権者の数が多ければ多いほど民主主義政治は普遍的になる。オウム真理教が国政選挙に出馬し、彼らの野望が選挙では実現しなかったのも、日本が地方分権的ではなかったおかげである。
2.3. さまざまな行政の実験と革新ができる
地方分権化は、「公共財やサービスの生産におけるさまざまな実験や革新を可能にする[3]」と期待する人もいるであろう。確かに、政府規模が大きくなればなるほど、実験や革新はリスクが大きくなって、実行しにくくなる。いきなり全国規模で行うことに懸念がある場合には、まず最適地を選んでそこで実験し、その効果と弊害を検証した上で正式に実行すればよい。これまでにも、公立の中高一貫校を、まず宮城県に実験的に作って様子を見てから全国へ導入するなどこの手法は用いられている。
もちろん官僚は対応が遅いし変化を好まないので、より対応が速くて柔軟で、地団法人とは違って選択の自由がある、逆に言えば競争原理が機能しやすい公的サービス提供者が必要なことは確かである。この役割を担いつつあるのが、NPO(非営利活動法人)である。1998年3月に公布された特定非営利活動促進法により、法人格の認証が可能となったが、これだけでは不十分である。そこで次のような提案をしたい。
まず公益法人に認められている収益事業の軽減税率制度を廃止して利権色を薄め、現在の許可制を認可制にし、非営利活動法人の公益法人化を促す。次に相続税を廃止し、同率の負担を、遺言を通して自分が発展を希望する公益法人へ寄付するという形で負わせる。そうすれば、市場原理が機能して、健全な活動をしている公益法人には寄付が多数集まり、主務官庁の天下りOBが行う事業の節税手段として利用されていたところは、寄付が集まらなくなるから、公益法人のメリットがなくなる。政府にとっては、相続税収を失うことになるが、法人税収は増えるし、行政のスリム化につながるので、財政を圧迫しない。
2.4. 中央への一極集中を是正することができる
『中間報告』は、地方分権によって「東京一極集中現象に歯止めをかけ、地域の産業・行政・文化を支える人材を地方圏で育て、地域社会の活力を取り戻させる必要がある」と主張する。そのためには、地方が強い権限を持たなければならないのだが、そのためには、現在のような三割自治ではだめなのであって、より多くの自主財源を持たなければならない。地方分権推進委員会も、「地方税については、基本的に、地方における歳出規模と地方税収入との乖離をできるだけ縮小するという観点に立って、課税自主権を尊重しつつ、その充実確保を図っていくべきである[4]」と言っている。
自主財源制の一つの問題点は、地方税の負担者と地方行政の受益者が必ずしも一致しない点にある。昼間大都市で行政サービスを受けている通勤者が、税金は自分が住んでいる郊外の別の地方公共団体に納めているなどはその一例である。このような昼間流入者に消費税を課すと、予算配分の意志決定に参加できない納税者が増えるという別の問題が出てくる。そこで地方公共団体の広域化が必要になってくるのだが、広域化を推し進めていけば、地方分権は成り立たなくなる。
もっと根本的な問題は、地方税の割合を増やして地方分権を推進すると、地方分散とは逆の効果をもたらすという問題である。現在47ある都道府県のうち、租税(国税および地方税)の負担が受益(地方交付税、譲与税、国庫支出金)を上回っているのは、三大都市圏にある11(茨城・栃木・埼玉・千葉・東京・神奈川・静岡・愛知・京都・大阪・兵庫)だけで、あとの36は負担より受益が多い[5]。もし課税自主権を徹底するならば、弱小県は税率を引き上げるかインフラの整備を遅らせるかの選択を迫られるが、どちらにしても、それは税率が低くインフラが整備された大都市部への企業や住民の流出をもたらす。その結果、過密過疎問題はかえって深刻になる。
だから地方分権は、欧米列強による植民地独立政策とよく似ている。植民地被支配民族に人権意識が広まってくると、彼らを満足させるためには、本国国民と同じ政治的権利を与えるか、独立させるかどちらかを選ばなければならない。もし被支配民族にも平等な基本的人権を保障したりすると、本国の富が“地方”に流出するかもしれない。そこで列強たちは、植民地を政治的に独立させ、経済的搾取だけは続ける方法を選んだわけである。実際独立は旧植民地地域を豊かにすることはなかったのである。
もちろん中には地域間格差を容認してでも自助自立を説く人もいるだろう。実際『中間報告』は次のように言っている。「ナショナル・ミニマムを超える行政サービスは、地域住民のニーズを反映した地域住民の自主的な選択に委ねるべきものである。その結果として地域差が生ずるとしても、それは解消されるべき地域間格差ではなく、尊厳なる個性差と認識すべきである。」「 地方公共団体の意欲と力量の発揮によって作り出された相違はむしろ『地域の個性』と考え、その点での魅力をこそ地方公共団体は競い合っていくべきではないか。」
このような格差容認には賛成できない。多様性は選択の自由があって初めて意味があるのだが、住所移転という形で好ましい自治体を選択することはコストが高くつくため、選択の自由は不完全であるからだ。相手が民間企業の場合、消費者は住所を変えなくてもサービスの選択をすることができる。ここに官と民の違いがある。過密に悩む大都市部の地方政府は、委譲された権限を使って、移入民制限をするかもしれない。そうなれば選択の自由はなくなる。
選択の自由が不完全であることは、特に子供に対する義務教育サービスの場合深刻である(私は以前のメルマガで、公教育を廃止するべきだと書いたが、義務教育を廃止せよとまでは書いていない)。子供にはどの地方公共団体のもとに産まれるのかを選ぶ自由はない。たまたま自主財源豊富で教育熱心な自治体に生まれた子供は、そうではない子供よりも有利なスタートを切ることになる。このような不公平を「尊厳なる個性差」だの「地域の個性」だのと称して美化することはできない。
この問題は、連邦制のアメリカ合衆国で実際に起きている。レーガン大統領は、自分が州知事出身だったためか、在任中地方分権を推し進めたが、彼の地方分権とは、「州の自立性を高めるという大義名分のもと、中央が予算を自由に使うために、弱小州への財政的責務を放棄すること[6]」であった。アメリカでは、州の下にある地方学区が教育財源の半分近くを負担するのだが、その学校税のほとんどが固定資産税に依存しているので、学区の財政基盤の違いが学校格差となって現れる。その結果生徒一人当たりにかける費用の格差が学区間比で数倍の開きとなり、教育の機会均等に反するから違憲という判決をいくつかの州最高裁判所が出している。教育の機会均等を守ろうとすれば、州は貧困学区への、そして連邦政府は貧困州への財政トランスファーを余儀なくさせられるが、これは自主財源に基づく地方分権の破綻を意味する。
この問題は、連邦制のアメリカ合衆国で実際に起きている。アメリカでは、州の下にある地方学区が教育財源の半分近くを負担するのだが、その学校税のほとんどが固定資産税に依存しているので、学区の財政基盤の違いが学校格差となって現れる。その結果生徒一人当たりにかける費用の格差が学区間比で数倍の開きとなり、教育の機会均等に反するから違憲という判決をいくつかの州最高裁判所が出している。教育の機会均等を守ろうとすれば、州は貧困学区への、そして連邦政府は貧困州への財政トランスファーを余儀なくさせられるが、これは自主財源に基づく地方分権の破綻を意味する。
2.5. 災害やテロの対策に効果がある
東京一極集中への批判は、たんに過疎過密問題だけでなく、危機管理問題という点からもなされうる。『中間報告』も「東京圏における超過密の弊害は住民の生活環境のあらゆる側面に及んでいるとともに、この巨大都市圏は地震等の大規模災害に対してきわめて脆弱になってしまっている」点を指摘している。中央集権制では、中央政府が地震・津波・テロなどによって被害を受けた時、政治全体が麻痺状態になってしまうので、リスクを分散するためにも地方分権は必要だというわけである。
リスクを分散するためには、まずアメリカにおけるワシントンとニューヨークのように、政治的首都と経済的中心を分離することが必要である。だが、それ以上に重要なのは、行政をインテリジェント化・ネットワーク化することである。現在の日本の官庁では相変わらず書類による業務処理が多いが、情報をすべてデジタル化し、全国の行政機関をネットワークでつなげ、そして、第二、第三の予備の首都を作っておいて、中央政府の情報をそれらのミラーサイトにバックアップし、短期間に情報更新をすればよい。このような事は現在のインターネットの技術でなら、低コストで簡単にできる。周知のように、インターネットはもともとアメリカの国防省によって危機管理目的で作られたものであるから、災害には強い。接続されているコンピュータが一箇所壊れても、また通信回線が一個所切断されても、ネットワーク全体には影響がない。だから首都が壊滅した時には、予備の首都を臨時首都にして、ミラーサイトから全国に情報発信することができる。
大臣や官僚が多数同時に死亡したならば、復旧は遅れるだろうが、現代の政治は、法の支配であって人の支配ではないから、代替にはそれほど大きな混乱はない。また光ファイバー網が普及すれば、中央政府はもはや地理的に一個所に集結している必要はなくなる。官僚たちは、テレビ会議システムを用いて遠隔地の同僚と会議ができるからだ。行政をインテリジェント化・ネットワーク化しなければ、地方に分権したところで災害対策にはならない。むしろ、阪神大震災のような大規模災害の場合、自衛隊の出動や世界の協力が必要になるのだから、地方政府だけの方が対応が困難になる。だから災害・テロ対策は、地方分権の口実にはならない。
2.6. 民主主義的な政治が実現する
『中間報告』によれば、地方分権によって、「知事・市町村長が、『国の機関』たる立場から解放され、『地域住民の代表』であり『自治体の首長』であるという本来の立場に徹しきることができるようになるので、知事・市町村長はこれまで以上に地域住民の意向に鋭敏に応答するようになる。地方議会にとっても、その権能が強化され、知事・市町村長に対する監視・牽制・批判機能の重要性が増す。そしてこのことは、地域住民による各種の新しい運動の展開を促し、自治への住民参画を促すことになるはずである。すなわち、民主主義の徹底である。」《中央政府→地方政府→住民》といった上意下達の官主主義から《住民→地方政府→中央政府》といったボトムアップの民主主義への変革が必要だというわけである。
地方自治は民主主義の学校とよく言われる。確かに地方には、首長の直接選挙や住民投票など、中央よりも民主主義的な制度がある。だが、もし大統領制やレファレンダムが民主主義的で望ましいのなら、それを中央政府でも採用すればよいのである。これまで中央レベルで国民投票が行われなかったのは、それが技術的費用的に困難であったからで、将来電子投票が可能になれば、こうした難点は解消される。望ましい国民投票はいかにあるべきかについては「インターネットによる直接民主主義」で論じたので、ここでは深入りしないが、地方分権しなくても、《住民→中央政府→地方政府→住民》という形での民主主義は可能なのである。
地方分権推進委員会は、「納税者の視点に立った地方分権」「生活者の視点に立った地方分権」の推進を提唱する。しかし納税者であり生活者である住民にとって重要なことは、自分が直面する行政的問題を解決することであって、それを解決する権限を持つ官公署がどこにあるかはどうでも良い問題なのである。今後住民が議員や行政機関のウェブサイトに電子メールで苦情や政策提案をしたり、電子メールで返事を受け取ったりすることが普及するであろうが、そうなれば、地元か中央かといった地理的な遠近はまったくイレレヴァントになる。むしろ住民の声が無視されないシステムを作ることの方が重要であって、そのためには、大統領制(首相公選制)だけでは不十分で、大臣や次官などの行政のトップに、現在最高裁判所裁判官に付しているような国民審査を受けさせて、前向きの対応を示さない省庁の責任者を罷免できるようにするべきである。
なお、『中間報告』は、「国と地方公共団体の関係を現行の上下・主従の関係から新しい対等・協力の関係へと改めなければならない」と言っているが、もしこれを民主主義的と考えているのならば、それは偽善である。いくら国と地方公共団体が対等の関係になったとしても、地方公共団体が首長を頂点とするピラミッド型の組織であるからだ。地方分権を民主主義的とする主張には何の根拠もない。民主主義に必要なのは個人分権なのである。
2.7. 行政改革に貢献できる
『中間報告』は、地方分権によって「これまで国・都道府県・市町村の間で行われていた報告・協議・申請・許認可・承認等の事務が大幅に簡素化され、この種の『官官折衝』のために浪費されてきた多大の時間・人手・コストを節約し、これを行政サービスの質・量の改善に充てることができる」と主張する。「現実に百万円の補助金を得るために陳情や人件費、出張旅費を含めて二百五十万円のコストがかかっているという実態すらある[7]」。このような無駄を無くすためには、納税者が納めた税金の三割が、税務署→国の予算→各省庁の国庫補助金→国の出先機関→都道府県→市町村という迂遠な回路をまわる現在のシステムを改めなければならないというわけである[8]。
官官折衝の浪費問題を解決するために必要なことは、規則を細かく決めることによって、恣意的な行政裁量の余地を無くすことである。業務が機械的に行われないからこそ、地方の代表は、毎年暮れになると霞ヶ関に集結して陳情合戦をするのである。地方に分権しても、判断基準に主観的曖昧さが残るのなら、市町村は都道府県に、そして民間業者は地方政府の官僚に接待攻勢をかけることになるであろう。
地方分権によって、例えばこれまで中央に一人いればよかった専門家を各地方政府がそれぞれ揃えなければならないなどの新たな無駄が生じる点も指摘しなければならない。『中間報告』は、「地方分権によって増員を要する行政部門も生じ得るが、他方には地方分権の推進に伴う事務の簡素合理化によって減員が確実に可能になる行政部門が生じるので、双方の帳尻は十分に合うものと確信している」のだが、プラスマイナスゼロでは行政改革にならない。
いずれにせよ、無駄を省くことは財政再建には貢献するかもしれないが、行政改革の名に値するかどうかはきわめて疑問である。行政改革とは、社会の変化に対応した行政の構造改革である。脱工業化社会における政府の期待される役割は、公共事業の企画・実行から民間事業の監視・調節へと変化する。市場への直接介入を避け、収益性のある公的セクターを民営化し、自由競争を阻害する規制を撤廃するなどして政府の仕事を減らし、小さな政府を作ること、これが行政改革である。そのために必要なことは、官から民への権力委譲であって、中央政府から地方政府への権力委譲ではない。中央から地方に分権したところで、官の権限は少しも減少しない。地方分権は小さな政府を可能にするなどという議論は、行政改革の骨抜きであり、論点のすり替えである。
地方分権論者が行政改革を理解していない証拠は、彼らが好んで口にする競争を通じての多様性や自発的な個性の創造といったキャッチフレーズにある。競争を通じての多様性と自発的な個性の創造は、NPOを含めた民が担うべき仕事であって、官が民に権力を委譲するならば、官には無個性な仕事しか残らないはずである。無色透明な業務以上のものを行政に期待する地方分権論者は、民が果たすべき役割までも官が果たすべきだと考えていることになるのである。
地方分権推進委員会は、さらに現在の中央官庁には縦割り行政の弊害があることを指摘し、地方の総合行政の優位を主張しているが、縦割り行政に問題があるのなら、各省庁の上に置かれる内閣府に超領域的な問題の対処に当たらせばよいのである。
行政改革で必要なことは、中央政府だけでなく、地方政府も小さくすることである。中央政府が小さくなった分、地方政府が大きくなるということがないようにしなければならない。
3. 追記(2012年11月26日)
12年前に書いた文章だが、今読み直しても大半は肯定できる内容である。日本の地方分権論の主流は、教育や福祉といった対人サービスが政府の役割であることを前提にし、住民により身近な存在である地方政府にそれらの権限を大幅に与えよというものだが、こういった地方分権論では地方政府はいつまでたっても自立できない。日本では、地方で教育を受け、就職は大都市で行い、定年退職後はまた地方に戻るというパターンが多い。その結果、地方ではこれらの公的サービスの受益者が負担者よりも多く、大都市ではその逆になる。だから、ナショナル・ミニマムを実現しようとすると、大都市から地方への財政トランスファーが必要になり、その仲介役として中央政府が大きな役割を果たさなければならなくなる。
だから中央政府から地方政府に権限を移す前に、まずは教育や福祉といった対人サービスの主体を政府から民間(営利企業であれ非営利団体であれ)へと移転しなければならない。そして、ナショナル・ミニマムの保証は、ナショナルなのだから、中央政府が社会保険を通じて行えばよい。地方政府は、教育や福祉に関して何もする必要がない。地方政府がするべきことは、管轄する地方のインフラの整備である。
地方政府の役割をこのように限定しても、地方は都市よりも財源が乏しいので、依然として財政トランスファーが必要と思う人がいるかもしれない。しかし、地方は都市よりも地価が安いのだから、これをセールス・ポイントにすれば、企業を誘致することができる。企業への課税を財源にインフラの開発を行えば、利便性が増すために、土地の値段がそれだけ上がったとしても、さらに企業を誘致することができる。地方政府は、その役割をインフラの整備に限定することで、財政的に自立することができるのである。
2000年に書いたこのメルマガでは、政府それ自体に市場原理を適用するという発想がなく、地方分権の完全否定という結論になってしまった。しかし、各地方政府に企業誘致合戦をさせるには、限定された役割に関する完全な権限を地方政府に与えるべきである。地方分権に関する2012年現在の私の考えは、「民主主義はどうあるべきか」にまとめられているので、それを参照されたい。
4. 参照情報
- 市川宏雄『東京一極集中が日本を救う』ディスカヴァー・トゥエンティワン (2015/10/22).
- 久繁哲之介『地域再生の罠 ― なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』筑摩書房 (2010/7/5).
- 曽我謙悟『日本の地方政府 ― 1700自治体の実態と課題』中央公論新社 (2019/4/25).
- ↑本稿の初出は、2000年3月4日発行のメルマガ記事「地方分権は望ましいのか」である。当時の原文を確認したい方は、リンク先を参照されたい。
- ↑地方分権推進委員会「中間報告」平成8年3月29日.
- ↑田辺国昭「地方分権と再分配政策のダイナミックス」『年報行政研究』第三十一巻. 日本行政学会. 1996. p. 98.
- ↑地方分権推進委員会『国庫補助負担金・税財源に関する中間とりまとめ』平成八年十二月二十日.
- ↑林宜嗣『地方分権の経済学』日本評論社 (1995/3/1). p. 150.
- ↑Thomas Hueglin. “Legitimacy, Democracy and Federalism." In: Federalism and the Role of the State. edited by H.Bakvis and W.M.Chandler, University of Toronto Press 1987. p. 45.
- ↑佐々木信夫『新しい地方政府』芦書房 (1994/6/1). p. 63.
- ↑坂田期雄『動き出した地方分権』新日本法規出版 (1997/11/1). p. 62.
ディスカッション
コメント一覧
保科正之公は「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであり、守りには必要ない」として江戸城天守閣の再建を認めなかった。某名古屋市長は木造の名古屋城天守閣を再建するそうな。誰かヤツを止めろ。