民主主義はどうあるべきか
私は11年前に「インターネットによる直接民主主義」を提案したが、この制度の対象は法案の可否を問うレファレンダムに限定されていた。立法、行政、司法全体に直接民主主義を適用することは不可能であり、国政全体を民主化するには、直接民主主義と間接民主主義の長所を取り入れたハイブリッド民主主義を考案する必要がある。また日本人の選択の自由をさらに増やすには、地方分権が必要である。ハイブリッド民主主義と地方分権が、現行の間接民主主義が抱えている多くの問題をどのように解決するか説明しよう。
目次
1. ハイブリッド民主主義はなぜ必要か
現在の日本の政治システムは、例外的なケースはあるものの、原則として間接民主主義を採用している。間接民主主義は、喩えてみるならば、一般の個人に許可されているのは投資信託の購入や銀行預金といった間接金融だけで、株や債券の直接購入といった直接金融は禁止されている金融マーケットのようなものである。これに対して、直接民主主義は、一般の個人には間接金融のオプションがなくて、直接金融しか投融資の方法がない金融マーケットに喩えることができる。直接金融と間接金融を選択することができる金融マーケットが一般の個人資産家にとって理想的であるように、直接民主主義と間接民主主義を選択することができる政治マーケットが一般の個人有権者にとって理想的である。
個人の有権者が、自分の能力や興味に応じて、直接民主主義的な意思決定プロセスへの参与と間接民主主義的な意思決定プロセスへの参与とを自由に選択することができる民主主義政治システムをハイブリッド民主主義と名付けることにしたい。「ハイブリッド民主主義(Hybrid Democracy)」という用語は、「完全に間接的でも完全に直接的でもなく、両者の複合体である民主主義的なシステム[1]」という意味ですでに使われているが、本稿では、「ハイブリッド民主主義」という言葉を、私が本稿で提案している民主主義的政治システムの意味で用い、それ以外の「ハイブリッド民主主義」を含まない意味で用いることにする。
間接民主主義も直接民主主義も一長一短があって、どちらも理想的な民主主義の形態ではない。間接民主主義と直接民主主義には、それぞれ以下のようなデメリットがある。
1.1. 間接民主主義のデメリット
- 有権者は人を選ぶことはできても、政策や法を選ぶことはできない。議員や首長は、公約を掲げて立候補するが、公約は必ずしも守られないし、また選挙前に公約していなかった政策を実行することもある。その結果、有権者は選挙に関心を失い、投票率は下がり、民主主義は形骸化する。
- 他方で、公約を愚直に守ることも、常に正しいとはかぎらない。選挙のときに必要で有益だった政策が、環境の変化によって不必要ないし有害になることがある。これは、選挙が数年に一度しか行われない間接民主主義では民意をリアルタイムで反映することができないことによる弊害である。
- 議員や大臣や首長の権力が大きいので、彼らと特定集団との癒着が起きて、特定集団への利益還元を目的とした政治、権力の私物化が行われやすくなる。換言するならば、政治家と個人的なコネがないサイレント・マジョリティが政治から疎外され、国民全体の利益を重視した公平な政治が行われにくい。
- 権力を掌握するには過半数の議席が必要なため、政権交代を可能にするには、二大政党制が最適である。二大政党は、幅広い支持を得ようとするあまり、八方美人的になり、政策的な違いがなくなる。政権交代を可能にし、有権者の選択の自由を増やすはずの二大政党制が、逆に有権者の選択の自由を奪ってしまう。
- 間接民主主義では、権力が民意から離れて独裁的になることを防ぐために、国政では二院制、地方自治では二元代表制が採用されているが、両者の間で勢力のねじれが生じると、政治が決定能力を失って、機能不全に陥る。他方で、両者が同じ勢力に支配されると、二つある意味がなくなる。
1.2. 直接民主主義のデメリット
- 有権者全員に、すべての法案を審議する能力があるとはかぎらない。日本人の場合、識字率はほぼ100%であるが、全員が政治や経済に精通しているわけではない。少なくとも、判断能力には差がある。判断能力がある人間にもそうでない人間にも平等に同じ一票を与えると、全体の判断力が低下する。
- 議論は、参加者の数が増えるほど困難になる。すべての有権者が立法に従事すると、法案が乱発され、すべてを審議することが、それどころか読むことすら不可能になる。審議に値しないような法案が大量に作られる一方、重要な法案が日の目を見ないまま埋もれてしまう可能性がある。
- 間接民主主義では議員の数が少ないので、議員たちは豊富な政治資金を集めて政治活動に専念できる。直接民主主義では、一人当たりの政治資金の配分がほぼゼロとなり、政治活動はボランティアになる。有権者が政治活動に割くことができる時間はわずかになるので、政治が素人的になってしまう。
- 直接民主主義では、間接民主主義よりも意見の集約が困難であるため、政策が一貫性を欠く可能性がある。リアルタイムに民意が反映されることは長所でもあるのだが、それは同時に、政策が時間とともに不安定に変動したり、矛盾する政策が同時に実行されたりするリスクを増やす。
- 間接民主主義では、政治家は、自分の選挙区あるいは国民全体の利益を考えて政治を行うが、直接民主主義では、有権者たちが利己的な動機で投票することが多いので、多数派の利益は守られやすい反面、少数派の利益は無視されやすくなる。つまり、数の暴力が横行する。
直接民主主義と間接民主主義には、それぞれメリットとデメリットがある。ハイブリッド民主主義は、それぞれのメリットを取り入れつつ、両者のデメリットをできるだけ克服するように設計されなければいけない。以下、私が提案するハイブリッド民主主義を概説したい。
2. 私が提案するハイブリッド民主主義
2.1. 直接投票制と投票委託制の並存
インターネットの普及は、情報産業におけるプロとアマの境界線をあいまいにした。一方では専業的な職業作家がいて、他方では公共的な場で一切情報発信しない人がいるという事実は変わらないが、両者の中間、すなわちネット上で一定の発言力を持つセミプロが増えた。政治の世界では、相変わらずプロとアマの間には越えられない一線があるのだが、ネットが普及した今、職業的政治家と一般市民を峻別し続けることは時代錯誤である。
日本の政界は人材難で、議員には世襲が多いが、その理由の一つとして、議員になるためのコストが高いことを挙げることができる。例えば、衆議院小選挙区と参議院選挙区に立候補するための供託金は一人当たり300万円で、比例代表の方は一人当たり600万円である(2010年現在)。終身雇用制が根強い日本では、議員になるリスクは大きい。そして、この高いリスクとコストが政界への新規参入の妨げとなっている。政治にコミットする層を厚くするには、この参入障壁を低くしなければいけない。
私が提案するハイブリッド民主主義では、どの成人有権者でも、コストゼロで議員になることができる。兼業も可能であるから、生活を犠牲にするリスクもない。これにより、多様な人材が政治にかかわることができるようになる。但し、たんに議員登録をしただけでは、一般の有権者とたいしてかわらない。名実共に議員であるためには、一般有権者から棄権時の投票委託登録を集めなければいけないようにする。
この制度について、詳しく解説しよう。まず、一般有権者に、棄権時に投票を委託する中央および地方の議員を決めて、それを予め登録しておく義務を課す。ハイブリッド民主主義においては、すべての成人の有権者は、インターネットを通じてあらゆる議決で投票する権利を持っているが、自分の判断に自信がなかったり、法案を吟味する時間的余裕がない場合は、棄権することができる。しかし、ハイブリッド民主主義においては、議員が棄権した人の分まで投票するから、直接民主主義とは異なり、棄権が民主主義を機能不全にすることはない。投票委託登録は一度行えば、無期限に有効であるが、委託する議員を変更することは、いつでもネット上で可能である。ハイブリッド民主主義においては、現行のような公的選挙は行われないが、見方によっては常時選挙が行われていると言うこともできる。
現行制度では、未成年者は有権者ではないが、投票委託登録制度を拡張することにより、判断力のない国民も有権者にすることが可能である。すなわち、未成年者も日本国民であれば、成人の有権者と同様に1票の投票権を持つが、自分ではその権利を行使することはできず、親権者に投票を強制委託させる。成年後見人も同様に扱う。その結果、例えば、三人の子供を持つ夫婦は、それぞれ、自分の票と子供の票を合わせて1+3/2=2.5票の権利を持つ。これに対して、議員が持つ棄権時投票委託登録数は、常にその数だけの票を投じることができるわけではないので、潜在的保有票と名付け、実効投票数と区別することにしよう。
議員が棄権したときは、議員の実効投票数は、所属する政党の執行部の議決に使われる。政党と言っても、公職選挙法で規定された要件の厳しい政党ではなくて、内閣を組閣するだけの人数の議員が所属している政治団体は、すべて政党としての要件を満たすものとする。政党は、所属議員に対して党議拘束をかけることはできないものとする。多種多様な政党が存在することができるので、議員と政党とのミスマッチは今よりも起きにくくなるが、個人の意見が集団の意見と完全に一致することはないので、議員には造反の自由が与えられるべきである。そもそも、議員が政党執行部と同じ判断しかできないのであれば、議員は不要で、政党に同数の票を与えればよいということになってしまう。直接民主主義であれ、間接民主主義であれ、党議拘束というのはナンセンスなのである。
以上の投票委託制度を図示すると、以下のようになる。
話が抽象的になったので、具体例で説明しよう。A政党に属するB氏が議員登録をし、6人がB議員に棄権時投票委託登録をしたとしよう。6人のうちC氏とD氏は独身で、1票ずつ持ち、残りは親権者や成年後見人で、E氏が1.5票、F氏とG氏が2票、H氏が2.5票持っているとする。この場合、B議員の潜在的保有票は、自分の票を含めて、11票になる。もしも、実際の投票でD氏とF氏が棄権したならば、B議員の投票は、4票としてカウントされる。また、もしもB議員が棄権したならば、その4票は、A政党の執行部(最終的には党首)の投票に使われる。
議員報酬は、支持されている度合いに比例して与えるのが理想的だが、小遣い稼ぎのために議員登録する者が現れないようにするためにも、一定の閾値を設ける必要がある。すなわち、議員は、潜在的保有票が閾値を超えると、その数に応じて、政府から政治資金が分配され、その政治資金を使って、政治活動ができるようにする。また、政党助成金も、所属する議員の潜在的保有票に応じて分配される。このように、ハイブリッド民主主義では、議員は、その支持の度合いに応じて報酬を得ることができる。
2.2. ハイブリッド民主主義における立法と行政と司法
日本国憲法は、国家権力の集中を防ぐために、三権分立制を採っているが、三権分立と国民主権によるチェック・アンド・バランスは形骸化している。ハイブリッド民主主義では、個人分権の度合いが強く、有権者、議員、政党間のチェック・アンド・バランスが機能するので、形式的な三権分立を無視しても、権力の集中による弊害は起きない。本節では、ハイブリッド民主主義の導入により、立法、行政、司法の制度がどのように現行の制度から変更されるかを説明したい。
まず立法についてであるが、ハイブリッド民主主義においては、その敷居の低さゆえに、議員の数が膨大となるため、議員全員を一つの議場に集めることは、物理的に不可能である。そこで、ネット上にバーチャルな議場を代わりに作る。このサイトでは、一般の匿名有権者は閲覧しかできないが、議員や政党は法案を提出することができる。各法案には、フォーラムが併設されていて、議員同士で議論できるようになっている。議員と政党の数が多いので、法案の数は膨大になるが、そのすべてを読む必要はない。各法案は、それに賛同する議員の潜在的保有票の合計によってランク付けされ、ランクの高い法案ほど注目されるようソートされている。だからと言って、ランクの低い法案が全く日の目を見ないということにはならない。各法案は、その内容によりスクリーニングすることが可能であり、関心のある議員が発見することは容易である。当初ランクが低かった法案も、内容がよくて賛同者が増えれば、ランクが上がり、注目度も上がる。ランクが一定水準に達したら、議決にかけられる。
行政に関しては、中央政府で採用されている議院内閣制を踏襲する。政党の政治的影響力は、所属する議員の潜在的保有票の合計によって計算され、合計が最も高い政党が、組閣して、行政を担う(地方にも中央と同様の制度を導入する)。内閣の任期は1年で、単年度の予算の作成と執行を担当する。潜在的保有票の合計の通年平均順位がトップのままならば、同じ政党が翌年も行政を担うことになる。現行制度におけるように、与党になるために過半数を取る必要はないので、連立を組む必要もないし、八方美人的であいまいな政策を採る必要もなく、政党は独自性を発揮しやすくなる。間接民主主義では、少数によってしか支持されない政党が政権を担うことは危険であるが、ハイブリッド民主主義では、政権与党は民意を離れた政策を行うことができないので、それは問題にはならない。この点では、地方自治体で採用されている議会と首長の二元代表制度に近く、地方自治体でそうなっているように、一院制で十分である。
司法に直接民主主義を導入することは、訴訟当事者のプライバシーを侵害することになるので、不可能である。直接民主主義に近い制度として裁判員制度があるが、一般国民に大きな負担を強いる割には、成果が上がっていない。だからと言って、日本の司法は現状のままでよいわけではない。日本の裁判官の人事権は最高裁判所に、そして最高裁判事の任命権は内閣にある。このため、裁判官は、出世するために、行政訴訟等で国に有利な判決を出す傾向にある。また、日本の裁判官は行政に属する検察の判断に従順で、その結果、日本の刑事裁判における有罪率は99%にものぼる。裁判官が行政のロボットと化している現状を変えるには、裁判官公選制を導入しなければならない。裁判官を選ぶ手掛かりはないと思うかもしれないが、判決が難しい架空のケースで候補者の法曹に判決文を書かせるなどの方法で、選別することができる。もちろん、一般の有権者の棄権率は高くなるだろうが、その場合でも、投票委託登録した議員が代わりに投票してくれるから、最高裁判所裁判官国民審査制度のように形骸化することはない。
ハイブリッド民主主義は、直接民主主義がかかえる問題の多くを解決するが、5番目に掲げた直接民主主義のデメリットの克服は容易ではない。有権者が、利己的で、近視眼的で、無責任な選択をしないようにするには、制度的な工夫が必要である。未成年者にも票を与え、親権者に未来の世代の利害まで代表させるのも一つだし、歳出の変更を歳入の変更とパッケージにして提案させるなどのルールを作ることも一つだろう。しかし、多数決の原理では、少数派が不利益を被るという事実には変わりがない。この問題を根本的に解決する方法は、地方分権である。
3. 衆愚政治を防ぐためのメタ投票
3.1. 地方分権はなぜ必要か
地方分権は、最近では地域主権と呼ばれることも多いが、地域主権の提唱者たちは、地方を独立国にすることを提唱しているわけではないので、ここでは地方主権という従来通りの名称を使うことにしよう。地方分権は、多くの政治家によって支持されているにもかかわらず、地方分権が必要である理由が明確に語られることはめったにない。地方分権が必要である理由はいくつかあるが、日本で切実であるのは、日本語が通じる国が日本以外に事実上存在せず、そのため日本人には政府を選ぶ自由が制限されているという事情による。日本人の多くは、観光や老後のロングステイならともかく、海外で働くだけの自信はない。だから、日本に不満があるからといって、海外にというわけにはなかなかいかない。
日本は先進国の中で最も自殺率の高い国であるが、その理由の一つとして、日本には、他の先進国と比べて、選択の自由が乏しいという点を挙げることができる。語学力が苦手な人が多いので、日本で生まれたら、一生日本で生活しなければならない。転職の自由が制限されているので、一度入社したら、定年までそこにしがみつかなければならない。転校の自由も制限されていて、いじめがあるからといって、簡単に逃げ出すことはできない。日本人は、現状に不満がある時には他所に逃げるという発想に乏しい。自分で解決しようとするよりも、運命に身を委ねる人が多い。そして、どうしても我慢できない時には、あの世という究極の脱出口に救いを求める。こうした日本の傾向を変え、自殺率を下げるためにも、選択の自由をもっと増やすべきなのだ。
転職の自由に関しては「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」で、転校の自由に関しては「教育改革はどうあるべきか 」で論じたので、ここでは話を政府選択の自由に限定しよう。ハイブリッド民主主義は、現行制度よりも直接民主主義に近いので、多数派が少数派よりも有利になる。少数派は、たとえ多数派の判断が間違っていると思っていても、それに従わざるをえない。この理不尽さを解消するためには、少数派に、自分が多数派になりうる政府を選択し、そこへ移動する自由を与えなければいけない。そこで、日本を、内政を自由に決めることができる、独立性の高い地方政府から成る連邦制国家にすることを提案したい。
企業と住民が、自分が理想的と考える地方政府を選択し、そこに足で移動することは、「足による投票(voting with their feet)[2]」を行うことであり、それは、自分の意志を手で書いて票を投じる「手による投票」とともに、有権者の政治的満足度を高めるために必要な投票制度である。すなわち、有権者は、政治に不満があるときは「手による投票」で政治を変えようとし、それができない時には、「足による投票」で、政治に対する不満を解消することができる。こうすれば、少数派が多数派の犠牲になるという多数決原理に付き物の弊害を減らすことができる。また、移動の結果、同じ考えを持つ住民が集まるので、各地方は独自色を強めることになり、それがさらに選択肢を多様にする。
市場原理が機能している経済では、集団意思決定に際して、この二種類の投票をすることができる。株主は、株主総会で議決権を行使することができるが、もし取締役会が自分の意にそぐわない経営を続けていると感じるのであれば、株式を売却して、他の株式会社の株を買うことができる。マンションの住民は、管理組合の総会で議決権を行使することができるが、もし理事長が自分の意にそぐわない経営を続けていると感じるのであれば、マンションを売却して、他の物件を買うことができる。これと同じことがなぜ政府に対してできないのか。政府は、行政サービスの対価として税金を要求する経済主体でもあり、政府を市場経済の原理に従わせることは可能なのである。
地方分権のもう一つのメリットは、有権者の自己責任原則が明確になることである。日本は大きな国家であるので、財政赤字が膨らんでもなかなか財政破綻しない。その結果、ある世代の負担を次の世代が負担しなければならないといった受益と負担の不一致が起き易くなる。だが、もし日本をいくつかの小さな地方政府に分割するならば、それらは日本国よりも信用が低いので、比較的容易に破綻する。日本国が“too big to fail”であるのに対して、地方政府は“small enough to fail”である。その結果、放漫財政の災いは、その世代にすぐに降りかかってくる。
もしも有権者が地方政府間を自由に移動できるのであれば、「地方政府が破綻しても、他の地方に行けばよいのだから、地方政府に公債を乱発させて、補助金や行政サービスを受けるだけ受けて、破綻後逃げよう」と考える有権者も出てくるだろう。これを防ぐには、公債発行に対する拒否権の票(veto)を、その地方に不動産を持つ地権者に、評価額に応じて与えればよい。地方政府が財政破綻をすれば、その地方の不動産価格は下がる。だから、放漫財政の尻拭いのための安易な公債発行は拒否されるようになる。他方で、不動産価格の上昇をもたらす事業への投資のための建設的な公債ならば、発行が拒否されないかもしれない。
政府が“small enough to fail”な地方政府となり、企業と人の移動が容易になると、受益者負担の原則を逸脱する政策は採用されにくくなる。例えば、左翼ポピュリストの政党がある地方政府で支配的になり、企業や富裕層に重税を課し、貧困層のための福祉に力を入れだしたとしよう。そうすると、その地方からは企業と富裕層が逃げ出し、代わりに手厚い福祉を求めて貧困層が他の地方から流入してくる。その結果、受益者が増える一方、負担者は減り、その地方政府は、たちまち財政的に行き詰る。各地方政府はこの事態を避けようとするから、地方分権には、福祉切捨て競争を促進させるという効果が期待できる。
3.2. 自由主義的地方分権と社会主義的地方分権
前節で述べた地方分権は、多くの人のイメージとは異なるかもしれない。日本の政界では、自由主義者も社会主義者も地方分権に賛成であるが、これは全く異なる地方分権を同じ言葉で表現することによる同床異夢といったところだ。池上岳彦は、「新自由主義的分権論」と「分権的福祉政府論」を区別し、後者を支持している。
日本における税負担の軽さに合わせた「もつと小さな政府」をつくるために地方歳出削減を最優先する「新自由主義的分権」の立場からは、国庫補助負担金の削減を「事業のスリム化」に結びつける主張がなされる。この場合、「分権化」とは、「権限を自治体に与えるから、財源は受益者負担と課税自主権でまかなうべきだという意味に解される。
それに対して、地方分権を支える税財源を確保する「分権的福祉政府」の立場からみれば、社会の「助け合い」を支える教育、保育、介護、保健。医療、環境衛生といった広義の対人社会サービス水準の維持及び発展を見すえて、国庫補助負担金の削減を基幹税を中心とする税源移譲と地方交付税の改善に結びつけることが必要である。すなわち、地方財政の「分権化」とは「権限を自治体に与え、その標準的財源を保障する」ことである。[3]
わかりやすく言うと、中央政府が地方政府に対して「金を出す代わりに口も出す」のが従来の中央集権制度、「口を出さない代わりに金も出さない」のが自由主義的地方分権、「口を出さずに金を出す」のが社会主義的地方分権である。2009年に政権与党となった民主党は、マニフェストに「地域主権」を掲げ、「地方が自由に使えるお金を増やし、自治体が地域のニーズに適切に応えられるようにする[4]」方針を示した。2011年1月現在、菅直人首相は、統一地方選挙対策として、ひも付き補助金の一括交付金化を図っているが、このことも、民主党が目指している「地域主権」が社会主義的地方分権であることを物語っている。
地方の首長が声高に叫ぶ「地方分権」あるいは「地域主権」の大半は、自分たちの利権を増やす社会主義的地方分権である。この点、大阪府の橋下徹知事は、例外的だ。
大阪府の橋下徹知事は16日、消費税引き上げなどを国に求める緊急声明をまとめて閉幕した全国知事会について「自分で金を稼がないといけないという根幹を抜きに分権と言っている。仕送りをもらう大学生が親に自由にさせてくれって言っている生ぬるい感じ」と酷評した。
橋下氏は全国知事会議で、国に一方的に増税を求めるのは無責任で地方も地方税引き上げなどを検討すべきだとする持論を展開したが、十分な賛同は得られなかった。この結果に「国がリスクを取って消費税を上げても、地方にはびた一文回ってこないし回す必要もない」と述べた。[5]
社会主義的地方分権の擁護者たちは、地方は子供と高齢者が多いため、教育、医療、福祉のコストが高くつくが、都市は働き盛りの若者が多くて、税収が豊富だから、後者から前者に再分配が行われて当然だと反論するかもしれない。池上も「対人社会サービス水準の維持及び発展」を大義名分に掲げている。だが、そういう人たちは、教育や医療や福祉といった対人社会サービスを政府の仕事と考えている社会主義的前提を考え直さなければいけない。対人サービスは、民間企業が行えばよいのであり、そのサービス水準のナショナル・ミニマムは、連邦レベルの社会保険で保障すればよい。
国庫支出金や地方交付税交付金といった都市から地方への再分配がなければ、都市への人口集中と地方の過疎化が深刻化すると危惧する人もいるかもしれない。しかし過疎化すればするほど、地価は下がるのだから、それだけ企業を誘致しやすくなる。だから、再分配をしなければ、地方経済が崩壊するというのは正しくない。もとより、地方政府があまりにも小さいと、経済的自立が難しい場合もあるだろう。民主党は「人口30万人程度以上の基礎自治体」に権限を委譲し、「自主財源だけで運営できる基礎自治体の割合が、全体の2分の1を超えること[6]」を目標としているが、これは逆に言えば、半分近くの基礎自治体が「仕送りをもらうわがままな大学生」になるということである。自由主義的地方分権を目指すのであれば、分権の単位となる地方政府は、都市とその周辺を含んだ、ある程度広域的な行政区画を持つ必要がある。
4. 結論:二つの民主主義のデメリットの克服
民主主義の本質は、個人に選択の自由を与えることである。ハイブリッド民主主義は手による投票により政府内選択の自由を、地方分権は足による投票により政府間選択の自由を個人に与える。もとより、個人が正しい判断をするとは限らない。人間は、神ではないのだから、間違うこともある。それにもかかわらず、民主主義政治が選択の自由を認めない政治よりも優れているのは、それが、人間の判断の不完全さの弊害を最も小さくしてくれる政治形態だからである。
政府内選択と政府間選択という二重の選択構造は、政府という選択主体のみならず、個人、政党、地方政府、中央政府のすべての選択主体に見られる。個人は、様々な選択肢から、自分が最も良いと考えるものを選択するが、それが本当に良いとは限らず、間違った選択をして、市場で淘汰されるかもしれない。同じことは、政党という集合人格についても当てはまる。自分たちが最善と考える政策が、選挙において淘汰されるかもしれない。こうした地平内選択と地平間選択という二重の選択による淘汰は、地方政府や国家の選択にもフラクタルに繰り返され、それがそれぞれのレベルでの選択の間違いを是正する。
民主主義の弊害を指摘する人は、好んでアドルフ・ヒトラーの例を挙げる。たしかに、ヒトラー率いる ナチ党は、民主主義的選挙により合法的に権力を掌握した。ナチ党はユダヤ人を迫害し、その結果、ユダヤ人科学者が米国に亡命し、ドイツは核兵器の開発ができなくなった。ドイツ国民の選択は間違っていたが、その間違いは、第二次世界大戦で是正されることになった。中央政府という選択主体のレベルにおいては、政府内選択と政府間選択という二重の淘汰メカニズムがあり、民主主義国家が独裁国家となって政府内選択が機能しなくなっても、その間違った選択は政府間選択によって淘汰されるのである。
現在、世界には200以上の独立国があり、世界全体を支配する政府というものは存在しない。だから、地球規模では、ほぼ完全に地方分権(この場合は、正確には、地域主権)が実現している。だから、日本がこれからするべきことは、地方分権を進め、地方政府と中央政府の両方において、ハイブリッド民主主義の制度を導入することである。それによって、冒頭列挙した、間接民主主義と直接民主主義のデメリットを克服することができる。
4.1. 間接民主主義のデメリットの克服
- 有権者は人を選ぶことはできても、政策や法を選ぶことはできない。議員や首長は、公約を掲げて立候補するが、公約は必ずしも守られないし、また選挙前に公約していなかった政策を実行することもある。その結果、有権者は選挙に関心を失い、投票率は下がり、民主主義は形骸化する。→誰でも直接投票することができるので、有権者がこのような不満を持つことはない。
- 他方で、公約を愚直に守ることも、常に正しいとはかぎらない。選挙のときに必要で有益だった政策が、環境の変化によって不必要ないし有害になることがある。これは、選挙が数年に一度しか行われない間接民主主義では民意をリアルタイムで反映することができないことによる弊害である。→投票および投票委託登録の変更により、民意が政治にリアルタイムで反映される。
- 議員や大臣や首長の権力が大きいので、彼らと特定集団との癒着が起きて、特定集団への利益還元を目的とした政治、権力の私物化が行われやすくなる。換言するならば、政治家と個人的なコネがないサイレント・マジョリティが政治から疎外され、国民全体の利益を重視した公平な政治が行われにくい。→特定集団が議員や大臣や首長と癒着しても、彼らに最終的な決定権があるわけではないので、権力の私物化は起き難くなる。
- 権力を掌握するには過半数の議席が必要なため、政権交代を可能にするには、二大政党制が最適である。二大政党は、幅広い支持を得ようとするあまり、八方美人的になり、政策的な違いがなくなる。政権交代を可能にし、有権者の選択の自由を増やすはずの二大政党制が、逆に有権者の選択の自由を奪ってしまう。→政党は、政権を担当するために過半数の勢力となる必要はなく、たんに第一党になればよいので、独自性のある純度の高い政党が多数現われ、その結果、有権者の選択の自由が確保される。
- 間接民主主義では、権力が民意から離れて独裁的になることを防ぐために、国政では二院制、地方自治では二元代表制が採用されているが、両者の間で勢力のねじれが生じると、政治が決定能力を失って、機能不全に陥る。他方で、両者が同じ勢力に支配されると、二つある意味がなくなる。→議決は一回の投票で決まるので、二つの決定が対立して政治が停滞するということはない。
4.2. 直接民主主義のデメリットの克服
- 有権者全員に、すべての法案を審議する能力があるとはかぎらない。日本人の場合、識字率はほぼ100%であるが、全員が政治や経済に精通しているわけではない。少なくとも、判断能力には差がある。判断能力がある人間にもそうでない人間にも平等に同じ一票を与えると、全体の判断力が低下する。→判断力があると周囲から評価される議員ほど多くの票を投じるので、全体の判断力が低下するとはかぎらない。もちろん、間接民主主義の場合と同様に、間違った判断が可決されることもあるが、間違いはメタレベルの選択により淘汰される。
- 議論は、参加者の数が増えるほど困難になる。すべての有権者が立法に従事すると、法案が乱発され、すべてを審議することが、それどころか読むことすら不可能になる。審議に値しないような法案が大量に作られる一方、重要な法案が日の目を見ないまま埋もれてしまう可能性がある。→討論はネットを通じて行われる。法案の重要度は、賛同する議員の潜在的保有票の合計によって計算され、明示されるので、重要な法案ほど注目を集めるようになる。
- 間接民主主義では議員の数が少ないので、議員たちは豊富な政治資金を集めて政治活動に専念できる。直接民主主義では、一人当たりの政治資金の配分がほぼゼロとなり、政治活動はボランティアになる。有権者が政治活動に割くことができる時間はわずかになるので、政治が素人的になってしまう。→政治資金も潜在的保有票に応じて配分されるので、判断力があると周囲から評価される議員ほど、多くの時間を政治活動に費やすことができる。
- 直接民主主義では、間接民主主義よりも意見の集約が困難であるため、政策が一貫性を欠く可能性がある。リアルタイムに民意が反映されることは長所でもあるのだが、それは同時に、政策が時間とともに不安定に変動したり、矛盾する政策が同時に実行されたりするリスクを増やす。→同じ政党が最低一年間行政を担当するので、政策はある程度の一貫性を持つことができる。既存の法体系や政策との矛盾は、法案の審議の際に指摘されることであり、矛盾の発見自体が集合知に委ねられなければならない。
- 間接民主主義では、政治家は、自分の選挙区あるいは国民全体の利益を考えて政治を行うが、直接民主主義では、有権者たちが利己的な動機で投票することが多いので、多数派の利益は守られやすい反面、少数派の利益は無視されやすくなる。つまり、数の暴力が横行する。→地方分権/地域主権が行われていれば、少数派は、自分が多数派になることができる国/自治体へと移動できる。
最後にハイブリッド民主主義を実現するにはどうすればよいのかを考えてみたい。この制度をいきなり国政レベルで採用することはリスクが高いし、それだけに実現も難しい。だから、地方自治体で試験的に導入してみることから始めててみるべきだろう。直接民主主義は、議員の特権を完全に否定するので、その点でも実現は困難であるが、ハイブリッド民主主義はそうではないので、既存の議員を説得しやすい。もしもハイブリッド民主主義の導入が議会改革や行政改革に成果を上げるならば、他の自治体も採用するようになり、国政でも導入しようという機運が熟するようになるだろう。本稿で提案したハイブリッド民主主義を採用している国は存在しないが、日本のように、ネット普及率が高く、優れたリーダーが少ない反面、有権者全体の質が平均的に高い国は、世界に先駆けて、ハイブリッド民主主義を採用するべきだ。
5. 付録:コンドルセのパラドックスとアローの不可能性定理
関連トピックとして、フォーラムから“民主主義はどうあるべきか”を転載します。
投票による選考、いわゆる多数決と呼ぶ方式は、いくつもの矛盾と不完全性を有していることは当然ご存じだと思いますが、貴方の最近の論評には一つもこの点に触れずに提案をなさっているよう思われます。・・・と申しても私に良い代案や選りすぐれた方式が提案できるわけではないのですが・・・この様な選考方式が基本的なところで欠点を抱えている点に関しどのようにお考えなのでしょうか。
「この様な選考方式が基本的なところで欠点を抱えている」とありますが、奥山さんは「欠点」でもって具体的にどのような弊害を念頭に置いているのでしょうか。もう少し詳しく書いてくれないと、答えようがありません。
先生にご説明するのは烏滸がましいですが、例えばコンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)やボルダ(Jean-Charles, chevalier de Borda)のパラドックスとかアロー(Kenneth Joseph Arrow)の定理。
民主主義と呼ぶ方式は手続き論ですから、合意が有れば良いって考え方もあるのでしょうが、多数決と呼ばれる方式には無理があるわけですよね。単に手続き論だけを取り上げてしまえば、ナチだって民主的(正しい手続きにより選択された政治形態)であったわけですし・・・
具体的って一寸難しくなりますが、だれも好まない人が選択されたり、方法論や制度論で恣意的に選択を操作できるってことが可能だったり、選択が循環して決定できなかったりするわけですから・・・・
と言っても・・・繰り返しますが良い代案があるわけではありません・・・
知らない読者も多いと思うので、まずはそのコンドルセのパラドックスの概略から始めましょう。
コンドルセのパラドックスとは、個々の投票者にははっきりとした選好順序があるにもかかわらず、投票者全体では選好順序が決まらないという投票の逆理のことです。簡単な例で説明しましょう。今、A, B, C という三人の投票者がいて、選択肢(議員候補でも法案でも何でもよい)には、X, Y, Z の三つがあり、これに対する三人の選好順位は以下のようなものであるとしましょう。
投票者/選択肢 | 選択肢 X | 選択肢 Y | 選択肢 Z |
---|---|---|---|
投票者 A | 1番目 | 2番目 | 3番目 |
投票者 B | 3番目 | 1番目 | 2番目 |
投票者 C | 2番目 | 3番目 | 1番目 |
このとき、X を Y より選好している人が二人、Y を Z より選好している人が二人、Z を X より選好している人が二人いて、最も選好されている選択肢を一つだけ決めるということができません。世に所謂ボルダのパラドックスも同じような問題だと思えばよいでしょう。
こうした問題は、選好を順序としてしか表すことができないことで起きます。現在行われている投票では、どのようなタイプの投票であれ、投票者はせいぜい自分の選好順序しか表すことができません。一番一般的な投票では、一番目の選好しか表現できません。このような従来の選挙は、序数型投票と名付けることができます。私はこれに対して、基数型投票を提案したいと思います。つまり、どれが一番目で、どれが二番目といった序数で自分の評価を表すのではなくて、各選択肢に対する自分の評価の度合いを基数で表現するのです。例えば、投票者の各選択肢に対する評価が、-1 から +1 まで 0.1 単位で行えるとして、その結果が、以下のようになるとしましょう。
投票者/選択肢 | 選択肢 X | 選択肢 Y | 選択肢 Z |
---|---|---|---|
投票者 A | 1.0 | 0.6 | 0.3 |
投票者 B | -1.0 | 0 | -0.7 |
投票者 C | 0.8 | -1.0 | 1.0 |
この場合、X が 0.8 で1番目、Z が 0.6 で2番目、Y が -0.4 で3番目となります。個別の選好順位は序数型投票の時と同じですが、基数型投票では全体の選好順序も決まります。もちろん、基数型投票でも、上位が同じ評価となることは理論的にはありえますが、投票者数が多い時には、そうなる確率は限りなくゼロに近いので、心配する必要はありません。万一、そうなった場合は、投票に参加していない議長が自分の判断で決めればよいことです。
アローの不可能性定理は複雑なので、ここで簡単に解説するというわけにはいきませんが、アローも序数型投票しか考えていないという点でコンドルセやボルダと同じです。 現代の経済学は、序数的効用を認めても、基数的効用は認めません。「効用を測ることはできるか」で問題提起したことですが、これは現代経済学の欠陥でしょう。要するに、経済学者が多数決の欠陥とか民主主義の欠陥とか言っているものの本質は、経済学者たちが前提としている序数的効用論の欠陥であり、この欠陥を直さずに多数決原理や民主主義を否定するのは本質を見誤った議論だと思います。
6. 参照情報
- ↑“a democratic system that is neither wholly representative nor wholly direct, but a complex combination of both." Elizabeth Garrett. “Crypto-Initiatives in Hybrid Democracy“. Southern California Law Review. Vol. 78:985. 2005.
- ↑Tiebout, Charles M. “A Pure Theory of Local Expenditures.” Journal of Political Economy 64, no. 5 (1956): 416–24.
- ↑池上 岳彦. 『分権化と地方財政』岩波書店 (2004/6/25). p. 219.
- ↑民主党の政権政策 Manifesto 2009.
- ↑産経新聞(2010/07/16)「仕送りもらう大学生だ」橋下氏が全国知事会を酷評
- ↑民主党政策 INDEX 2005.
ディスカッション
コメント一覧
永井さん、いつも読ませて頂いておりますが初めてコメントさせて頂きます。
本提案は非常に魅力的に思いますが、一点ご教授頂きたい点があります、それは、
地域自治体が「排除権」を持つべきかどうかに関する貴殿の考えです。
この「ハイブリッド民主主義」だと、特定の労働団体、宗教団体、利害団体などが一つの地域に集結してしまう危険性があります。 これは排除するべきなのかどうかです、永井さんの過去の論文から推察するに「生存のための柔軟性」を残すため排除権は禁止するお考えだと思いますが、これだとこのような集結地域自治体を国政でどのように扱うか一考の必要があるのではないでしょうか。
御指摘の問題は、地方政府の行政区画の広域化によって防ぐことができます。そしてそれは、人口30万人程度以上の基礎自治体に権限を委譲するという民主党型の地域主権に私が反対であるもう一つの理由です。本当は、それも書こうと思っていたのですが、この話を論じ始めると長くなりすぎるので、割愛しました。そこで、このコメントで、補足的にそれを書きましょう。
一般に、地方政府の規模が小さくなればなるほど、それが特殊な勢力によって乗っ取られるリスクが増大します。かつて上九一色村という小さな自治体がオウム真理教というカルト宗教教団の集結地となりましたから、宗教団体は要注意です。労働団体というのは、労働組合のことでしょうか。労働組合は、資本家に対して待遇改善を要求する組織ですから、組合員だけが集結してもしょうがないでしょう。
それ以上に警戒するべきは、外国から送られてくるかもしれない工作員です。もしも沖縄や対馬を半独立的な地方政府の行政区画にしてしまうと、中国人と韓国人がそれらをそれぞれ乗っ取って、独立運動を始めるという可能性があります。そしてそれを連邦政府が阻止しようと運動を抑圧すると、中国や韓国が、自民族の保護を口実に軍事介入してくるかもしれません。しかし、対馬や沖縄を九州という広域的な地方政府に組み込めば、こうした動きを阻止することができます。
ちなみに、米国の州の平均的な人口は600万人ですが、日本は人口密度が高いので、面積的なバランスも考えて、1200万人前後で一つの州でよいと思います。つまり、私が考えている地方分権は、日本を10程度の州に分割する広域的な地方分権です。九州(沖縄県を含む)の人口は、1400万人ですから、一つの州としてよいでしょう。
地方分権で分権するのは内政に関する権限で、安全保障や外交は中央政府/連邦政府の専管事項というのが、地方分権の基本的考えですが、問題は、日本という国家が安全保障や外交の分野で無力であるということです。この問題を解決する方法の一つとして日米併合があります。日本は、第二次世界大戦の敗戦国という負の遺産を継承しているために、安全保障や外交の分野で力を発揮することができません。しかし、日本を米国の州レベルの州に分割し、日米を併合し、太平洋合衆国を形成すれば、新しい合衆国で、人口の1/4を占める日本人は、外交と安全保障で、大きな発言力を持つことができるようになります。
実はこれは、日本と同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツがとった戦略でした。ドイツも、過去の負の遺産のおかげで、単独で安全保障や外交のリーダーを目指すことはできません。そこで、EUという政治的経済的統合体を作って、世界での発言力を高めようとしました。不祥事を起こして、ブランド力を失った雪印乳業が、日本ミルクコミュニティとともにメグミルクという新しいブランドで再出発するようなものです。
日米併合は、日米双方とも国内での反対が強いでしょうから、なかなか実現しないと思いますが、日米は共に中国の軍事的台頭という共通の脅威に直面しているのですから、歩み寄る環境はあると思います。
永井さん、ご説明ありがとうございました、納得致しました。
労働団体とは、ある大企業が特定の地域に生産を集約させた場合、従業員とその下請け企業従業員がその地域の多数派を占めてしまうのではないかという意味でしたが、州レベルの分権ならば理解できました。 私も民主主義は2000万人以下という意見に賛成です。
私は海外在住日本人ですが、言語などできるできないではなく、赤ん坊が100%日本語を喋り出すように「速いか遅いか」だけの問題だと思っていますので、英語を苦手として学習をしないという理屈は通らないと思っています、日本人は単一言語だけで暮らすべきではありません。 太平洋合衆国構想には賛成です、語学は一生続けるものです。
ただその場合、本部はシンガポールだとしてもインドネシアとの協調が難しそうですね、日本のエリートを送り込むのか日本が従属するのか。
次回論文がさらに拡大レベルの太平洋合衆国民主主義について論じて頂ける日を楽しみにお待ちしております。
つまり、自治体が企業城下町になってしまうことですね。もしも特定企業が地元政治家や地元メディアと癒着したら、問題になるでしょう。そして、この問題は、地方政府の規模を大きくしても、起きうる問題だと思います。何しろ、日本という大国家ですら、トヨタの企業城下町だという見方をする人すらいるのですから。
もとより世界全体を支配する企業などは存在せず、トヨタのような巨大企業といえども、市場原理に晒されており、不祥事があれば、淘汰されます。悪行は長くは続かないということです。
私が考えているのは、さしあたり日本と米国だけです。排他的になる必要はありませんが、シンガポールのような一党独裁の非民主主義国家やインドネシアのような一人当たりGDPが低い国と政治経済的統合はできません。
>>もしも沖縄や対馬を半独立的な地方政府の行政区画にしてしまうと、中国人と韓国人がそれらをそれぞれ乗っ取って、独立運動を始めるという可能性があります。そしてそれを連邦政府が阻止しようと運動を抑圧すると、中国や韓国が、自民族の保護を口実に軍事介入してくるかもしれません
逆に移民や他国民や日本の他の行政区画に本籍を置く日本国民(全て合わせて“違来者”?)が行政区画内において一定の割合以下の人数(例えば“1/自然対数”以下の人数?)を保っていれば有権者として認められるというのはどうでしょう。
自らの権利を保ち続けたいのであれば違来者自身が違来者の総数を制限するので逆に乗っ取られなくなるかと。
移民の大半は経済的な動機で来ているのだから、彼らが日本国籍を取得して政治的権利を行使することを不当に制限するべきではないでしょう。政治的な目的で工作員を動員することには、人数の上で限界があります。また、仮に可能だとしても、大規模だとプロジェクトが発覚しやすく、この計画に対して安全保障上の措置を予防的に取ることが可能です。
記事の記述では「内閣の期間」は原則1年とありますが、予算編成が最重要公務となりますね。1年ごとに総理大臣や閣僚が代わるとあらかじめわかっていれば、「内閣支持率の動向を無視して政策を遂行できる」と言う反面、「存在的得票数の増減で政権の命運が左右される」と言う諸刃の刃となりますね。既に「ショートリリーフ的」な内閣が繰り返されている現状の日本の政治ですが、記事の提言では「政治が安定するには3年以上の長期政権が必要である」と言う人の主張とは矛盾しないでしょうか?確かに短命政権の繰り返しによる弊害(これは自民党・民主党の派閥体制と党トップの決め方の弊害でもあります)が最近指摘されています。短命政権でも確実な政策実行と政権基盤を固められる手段が本文の記述だと感じます。
私が提案しているシステムでは、同じ総理、同じ閣僚が複数年度にわたって政権を担当し続けることが可能です。有能な内閣なら何年でも続くでしょうし、無能な内閣なら1年で終わりということです。
ざざっと読んでみて、よいですね、これ。ほんと、こっちから読むんだった(笑)
ムーブメントを起こすには、どうすりゃいいものか。名古屋の河村さんあたり、やってみようと思いませんかね?
太平洋合衆国構想、その前にまず自国の分析をしっかりやって欲しいと思っています。企業でいうところのSWOT分析をして、戦略を立て、その上で損得勘定して太平洋合衆国ってのもアリだと思いました。
ただですね、「インターネットによる直接民主主義」の方でコメントさせてもらいましたが、民主主義が組織の合理的意思決定に最適なのかという疑問もありまして。意思決定の過程に参加してるので、仮に最善の策じゃなかったとしても納得せざるを得ないというメリット?はあるんですが、選択の精度・質が低ければ、はて何のために労力を費やしたのかという話になってしまいます。それにより少ない労力で正しい選択ができるなら、それに越したことはないわけで。で、占い師の水晶玉・・・じゃなくてシミュレータで分析力、判断力のアシストをしたらいいんじゃないか ということを考えているんですけどね。
全体的にとても楽しく、いちいちうなづきながら読ませていただきました。どうやったら実現できるのか、是非とも討論を深めていきたいですね。
河村市長はアナログな人間で、インターネットを活用して市民参加型の政治を実現しようという意識があまりないようです。
シミュレーションは、シミュレーションする側の利害関係でどうとでもなるので、政策決定にあまり役立たないでしょう。例えば、TPP参加の是非をめぐる議論でも、同じ政府内部で全く逆の試算結果を出しています。
コメントありがとうございます。
河村さん、確かに自転車が似合い過ぎてて、ネット活用ってイメージはないですね(笑)。そういうことをやりそうな首長をその気にさせればコトは進みそうなんですけどね。
シミュレーション、マクロ経済学の教科書に出てくるような極度に抽象化された数式に基づく試算ではなくて、マルチエージェントなもの(複雑系?)をイメージしてます。TPPの影響を測るならば、農家や製造業者、輸入/輸出業者、飲食店とかのサービス業者、政府や自治体(国内も国外も)、家計、環境、そういう無数のエージェント達(家計もお家がたくさんあるようにエージョンともたくさん必要)がどういう振る舞いをするか。たとえば、ある家計は安さ重視で輸入物を買うけど、ある家計は安全性重視なんで多少高くても国産を中心に買う とか。その結果、自給率なり市場シェなりがどう動くのか、そういうモノを作れないだろうかと思います。インターネットでアンケートを収集すれば、より実態に近い判断基準をもったエージェント達を適切な比率で(シミュレータ内に)出現されることができるかもしれません。
各省庁は都合の良さそうな数式を見つけて、期待値をブチ込んでるような気が・・・正直思惑しか読み取れないです・・・
はじめまして
地方分権において公債の乱発を防ぐ仕組みを導入すれば地方政府を破綻させた後逃げることはできないとお考えのようですが果たしてそうでしょうか。
例えば大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給するということは可能なのではありませんか?
このようなことが起きれば企業は逃亡するだろうし財政的にも破綻した上で住民が半減するという結果になるのではないかと思います。
想定されているのは1200万人規模の州のようですが、投票委託登録という制度は、例えば一人の議員が600万の票を得ることも可能ということでしょう。
日本においてはここまで極端なことは起きないかもしれませんが、「いつでも移動できるという仕組みと内政におけるフリーハンド」という組み合わせは危険なのではないかと心配になります。転職の自由や転校の自由の場合にはこのような問題は起きません。
政府内選択と政府間選択という二重の選択構造はとても魅力的ですけれども、その運営にはかなり高い能力が必要とされるのではないかと思います。試行錯誤を繰り返していけばいずれ効率的に機能してくれるかもしれませんが、ノウハウが蓄積されるまでは危険なことも起きるのではないかと心配です。メリットの大きさは理解できますが、導入には慎重であるべきではないでしょうか。
これは誤読です。「これを防ぐには、公債発行に対する拒否権の票(veto)を、その地方に不動産を持つ地権者に、評価額に応じて与えればよい」における「これを防ぐ」は、「公債を乱発を防ぐ」という意味であって、「住民が破綻後逃げることを防ぐ」という意味ではありません。破綻後、住民がその地方政府外へ逃げることは可能です。
破綻によって、企業や住民が外部に流出すると、再建がよりいっそう困難になるのではないかと懸念する人もいるでしょう。これを防ぐには、地方政府ごとに独自の通貨を発行させ、納税はその通貨でないと受け付けないというようにすればよいでしょう。その政府の財政が破綻すれば、その政府の通貨は暴落しますが、それによってその地域の物価が安くなるので、逆に企業が進出しやすくなります。
この点、私たちが反面教師としなければならないのは、ユーロによる通貨統合です。2010年1月以降ギリシャの財政危機が表面化しましたが、ギリシャの財政再建は、その後一向に進んでいません。もしもギリシャが独自通貨を維持していたならば、通貨価値の下落により、外国人は安価にギリシャで観光旅行ができるようになるでしょう。そうなれば、観光客も増え、それを追い風に財政を再建させることができます。ところが、ギリシャはユーロという強い通貨を採用しているために、この方法が使えないのです。
”これは誤読です。「これを防ぐには、公債発行に対する拒否権の票(veto)を、その地方に不動産を持つ地権者に、評価額に応じて与えればよい」における「これを防ぐ」は、「公債を乱発を防ぐ」という意味であって、「住民が破綻後逃げることを防ぐ」という意味ではありません。破綻後、住民がその地方政府外へ逃げることは可能です。”
いや、そういう意味ではないのですが。
公債の乱発を防いだだけでは意味がないと言っているのです。同じことを別の方法でできるからです。
地域通貨の暴落を許容することで地方財政の破綻時の安全弁にするというのは良いアイディアだと思います。「独自通貨と内政の自由をセットにする」ことで自由に対する責任を取らせるということですね。これも市場原理主義による解決の一種ということになるでしょうか。
このような変動条件についてよく研究した上で慎重に導入するのであれば、反対する理由はありません。ただ、通貨と権力の関係とはどのようなものであるべきなのかはまだまだ試行錯誤で模索されているというのが現状でしょう。
ユーロによる通貨統合にデメリットがあることはわかりますが、だから地域通貨にしておけば良かったと言えるものなのかどうか。だったら最初から統合しなければ良かったのではないかという疑問が残ります。
個別には地域通貨が良い、統合通貨が良いということが言えるでしょうが、どのような組み合わせがベストなのかということはまだまだわかっていないということではないでしょうか。市場原理が働くような仕組みを作れば解決するという原則を認めたとしても、どうすれば市場原理が働くのかがわかっていなければ意味がありません。
原則的には「自由と責任をセットにする」ということになるでしょうが、これがどのようなものなのかを個別に適用しようとすると難しいというのが現状でしょう。
ハイブリッド民主主義についても、説明はわかりますけれども「原理原則に照らして妥当なのかどうかを検証する」のはなかなか大変な作業です。まあそのような作業を通じて実現可能な案になっていくのかもしれませんが。
それで「大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給する」という提案をしたのですか。文字通り行政サービスを全廃すると、治安が乱れ、殺人でも放火でもやりたい放題になりますから、犯罪組織以外はみんな逃げてしまいます。
地方選挙では投票率が極端に低くなる傾向があります。ひどい時は30%に届かないケースもあります。有権者の過半数(あるいは3分の2)が投票しない選挙が多いと「選挙不信」を招き、有権者の選挙嫌い(投票に行かない理由がかなりあいまい)が無投票当選の増加につながる事にもなります。「無投票の選挙区では信任投票を導入しては?」との意見もあります。近年の地方選挙における投票率の低迷が、国政選挙ほど懸念されないのはなぜでしょうか?
余談ですが、マスコミは「閉塞感」と言う表現を極力控えた方がいいと思います。
それは日本の地方自治体にはあまり権限がないからです。与野党相乗り現職対共産党推薦候補というような首長選挙の場合、結果がわかっているので、投票率は特に低くなります。
しばらく見れなかったんですが、返事して下さっていたのですね。
>それで「大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給する」という提案をしたのですか。文字通り行政サービスを全廃すると、治安が乱れ、殺人でも放火でもやりたい放題になりますから、犯罪組織以外はみんな逃げてしまいます。
だから取るだけ取って逃げる話ですよ。
他の住人に多大な迷惑を掛けた上で別の州に逃げることができます。
まあこれはそもそも地方分権の問題ではなくて、現在の仕組みでも実行可能なことですが。
その場合、日本でやりたい放題やってから外国に逃げることになります。
なるほど、「大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給するということは可能」は提案ではなくて懸念だったわけですね。それならば、たしかにそういう可能性の心配をする必要はないですね。
”それならば、たしかにそういう可能性の心配をする必要はないですね。”
民主主義というシステムを信頼されているからそのようなことを言われているのでしょうね。民主主義に批判的な人はそこまで楽観的ではないのではないかと思います。
徴税(脱税者の摘発と処罰を含む)や政府資産の売却(その資金の現金支給までの保管を含む)も行政サービスに相当します。だから、行政サービスを全廃すると、「大規模な増税」も「州有財産の売却」もできません。よって「大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給するということ」は、概念的に矛盾しており、民主主義に対して楽観的であるかどうかとは関係なく、理論的に不可能です。
“徴税(脱税者の摘発と処罰を含む)や政府資産の売却(その資金の現金支給までの保管を含む)も行政サービスに相当します。だから、行政サービスを全廃すると、「大規模な増税」も「州有財産の売却」もできません。”
簡単にできますよ。具体的には、徴税権と政府資産のオークションの開催を個人的な組織が政府から請け負えば済むことです。
政府資産のリストの作成も、個人的な組織の力で調査できますから政府の協力などいりません。正当性さえあれば、州の全ての権益を売り払うことが可能でしょう。
歴史的に見て新しいアイディアは含まれていないですよ。
その個人的な組織を選抜し、業務を委託すること自体が行政サービスだから、概念的に矛盾しているといっているのです。さらに、その組織の活動を監視し、違法行為があれば、それを摘発して、処罰するといった行政サービスがなければ、その個人的な組織は、集めた税金や資産の売却益をすべて私的に流用するでしょう。私的な目的のために集めた金は税金とは言いません。「税金」という概念自体、政府の存在を、したがって行政サービスの存在を前提としています。
”その個人的な組織を選抜し、業務を委託すること自体が行政サービスだから、概念的に矛盾しているといっているのです。”
もちろん選抜はできませんし、業務を委託することもできません。そんなことは必要ないと言っているのですよ。個人的な組織が全部やるからです。
”私的な目的のために集めた金は税金とは言いません。「税金」という概念自体、政府の存在を、したがって行政サービスの存在を前提としています。”
もちろん集めたお金は政府の元には入りません。徴税権のオークションで提示された金額が税金であり、政府が得るものです。
「徴税権のオークション」についてご存知ないのでしょうか。
集めたお金は徴税権をオークションで獲得した人・組織の懐に入るのです。
念のために確認しておきますが、「行政サービスの全廃」も行政サービスの一種だから矛盾しているなどとは言わないですよね?
「行政サービスを全廃してしまったら全廃するという決定もできないから行政サービスを全廃することはできない」などということはないと思いますが。
(1) もちろん選抜はできませんし、業務を委託することもできません。そんなことは必要ないと言っているのですよ。
(2) もちろん集めたお金は政府の元には入りません。徴税権のオークションで提示された金額が税金であり、政府が得るものです。
(1)と(2)は矛盾しています。オークションとは、一つの商品に対し、複数の購入希望者にそれぞれ購入希望金額を提示させ、その中から、最も高い金額をつけた購入希望者を「選抜」し、そこに売却することです。売り手である政府に買い手を選抜する権利がなかったなら、それはオークションとは言えないでしょう。
政府が、最も高い金額を提示したある個人的な組織に徴税権を売却したとしましょう。その場合、その個人的な組織が新政府ということになります。その新政府に「大規模な増税と行政サービスの全廃」ができるでしょうか。もしも増税ができるほどその地域が利益を出す土地ならば、外部から武装集団が侵入して、徴税権を横取りする可能性があります。せっかく買った徴税権を横取りされないようにするには、新政府は侵入してきた武装集団を武力を用いて撃退しなければいけません。これは、国防という立派な行政サービスです。だから、「大規模な増税と行政サービスの全廃」は無理です。
”売り手である政府に買い手を選抜する権利がなかったなら、それはオークションとは言えないでしょう。”
オークションの売り手は政府ではありません。個人的な組織です。行政サービスを全廃した時点で政府などというものは消失していますから以降はその存在について考える必要はありません。
“せっかく買った徴税権を横取りされないようにするには、新政府は侵入してきた武装集団を武力を用いて撃退しなければいけません。”
新政府ではなく「私的な暴力組織」が武装集団を撃退するのです。今でも地域によっては行われていることでしょう。
「行政サービスを全廃しようとしてもそこに住民がいる限り自主的に復活してしまう」と言いたいのでしょうか。
(1) 徴税権のオークションで提示された金額が税金であり、政府が得るものです。
(2) オークションの売り手は政府ではありません。個人的な組織です。
(1)では、政府が徴税権をオークションで売却し、その売却益を政府が税金として得ると書かれていますが、(2)ではそれが否定されており、矛盾しています。
(3) 徴税権と政府資産のオークションの開催を個人的な組織が政府から請け負えば済むことです。
(4) 行政サービスを全廃した時点で政府などというものは消失していますから以降はその存在について考える必要はありません。
(3)と(4)も矛盾していませんか。「請け負う」とは、
1 日限・報酬を取り決めた上で仕事を引き受ける。「建築工事を―・う」
2 責任を持って引き受ける。「対外折衝はいっさい私が―・う」
という意味です[デジタル大辞泉]。政府が消滅し、政府の存在について考える必要がないのなら、なぜ、個人的な組織は、政府から報酬をもらう取り決めを行ったり、政府に対して責任を持って仕事を引き受けたりするのですか。
矛盾しているように見えるのは見る立場を二つ認めてしまうからです。
立場を一つにすれば矛盾は生じません。
組織Aが政権を握る
組織Aが州の権益を全て売り飛ばす(徴税権と州有財産をオークションにかける)
行政サービスを全廃する。
組織Bが徴税権を獲得する。
組織Aと組織Bは同一でも問題ありません。
これが起きることです。
政府が存在しているのか、新政府が存在しているのか、無政府状態なのかということは考慮する必要はないのです。
もしも個人的な組織Aが政権を握ったならば、その組織Aが政府となります。もしも組織Aが組織Bに徴税権を売却しなたならば、その組織Bが政府となります。もしも政府が崩壊して、無政府状態になると想定するならば、その地域では誰も政権を握っていないし、徴税権の売買も不可能です。無政府状態の地域では、徴税権など買わなくても、武器で住民を脅して物品を奪うことができます。もちろん、住民も武装しているでしょうから、逆に殺されたり、強盗にあったりするリスクもあります。
実現可能性については認めて頂いたということでいいでしょうか。
政府か無政府かということは実現可能性とは無関係でしょう。
政府は存在しているかしていないかのどちらかです。
1.もしも政府が存在しているのなら、行政サービスの全廃は不可能です。
2.もしも政府が存在しないなら、増税も、徴税権の売却も不可能です。
よって、どちらの場合でも、実現可能性はありません。
政府が存在しているかどうかはどうでもいいことだと思いますけどね。
そこまでこだわるのであれば、行政サービスを全廃するのは諦めましょう。
増税と州有財産の売却、歳出の大幅カットということであれば実現可能ということでいいでしょうか。
政府が存在するのか、それとも無政府状態であるのかという違いは、住民にとっては命に関わるほど大きなものです。さて、政府が存続している状態で、財政危機を回避しようとするのであれば、政府資産の売却、行政サービスの水準の切り下げ、増税は、従来から用いられてきたありふれた方法です。しかし、政府資産の売却を除けば、財政再建策として必ずしも有効ではありません。
これは、企業の例で考えれば、よくわかります。赤字企業が経営を建て直そうとして、商品の質を下げて、料金を上げようとすると、どうなるでしょうか。生活必需品を独占的に販売する特権を与えられた企業は別ですが、市場原理が機能しているなら、客は別の企業を選ぶようになるから、かえって赤字幅は増えるでしょう。だから、赤字企業が経営再建のためにまず取り組まなければいけないことは、資産売却を除けば、新商品の開発といった競争力向上のための投資や経営の効率化などであり、値上げは最後の手段です。
政府の場合でも、納税者に移動の自由があるならば、つまり市場原理が機能するのであれば、行政サービスの水準の切り下げと増税という安易な手段に訴えることが難しくなります。政府もまた、企業と同様に、競争力の向上や経営の効率化を優先させ、増税は後回しにしなければいけません。私が提案した、独自通貨発行の制度は、財政危機にある地域の産業競争力を回復させることで財政再建に資することでしょう。
”政府が存在するのか、それとも無政府状態であるのかという違いは、住民にとっては命に関わるほど大きなものです。”
住民にとっては命に関わるほど大事なことであっても、州財産を売り飛ばす組織Aにとってはどうでもいいことだと言っているのですが。
”さて、政府が存続している状態で、財政危機を回避しようとするのであれば、政府資産の売却、行政サービスの水準の切り下げ、増税は、従来から用いられてきたありふれた方法です。しかし、政府資産の売却を除けば、財政再建策として必ずしも有効ではありません。”
財政再建ではなく、財政を破綻させるのが目的なのですよ。
州を潰して組織Aが利益を得ることが可能であるということをずっと言っているのですけどね。
まだらさんが言うところの「州財産を売り飛ばす組織A」にとっても、政府が存在するかどうかは重要な違いを成します。政府が存在するならば、政府資産は、政府の手によって債務の返済に充てられるので、何も残りません(残るなら、債務超過でないから破綻しないはず)。政府が存在しないなら、債権者かどうかとは無関係に、窃盗集団が入ってきて、所有者が政府だったか否かということとは無関係に、その地域内の金目のものを漁るでしょう。その場合、身の安全を守るためのコストとリスクが、それらを手に入れるための対価ということになります。また、まだらさんが以前固執していた徴税権も、政府がなくなれば消滅するのだから、この点でも重要な違いがあるといえます。
さて、まだらさんの最初の問題提起をもう一度取り上げましょう。
これは、多分、私の以下の提案に対する批判だと思います。
私のこの提案にはどのような問題があると言いたいのか、はっきりしないので、改めて解説してもらえないでしょうか。
「公債の乱発を防いだだけでは対策にならない」と言っているのです。
”「地方政府が破綻しても、他の地方に行けばよいのだから、地方政府に公債を乱発させて、補助金や行政サービスを受けるだけ受けて、破綻後逃げよう」”
他の方法でも財政を破綻させて利益を得ようとすることはできるからです。
チェック機能を考えるのであれば、財政全体に作用させるべきでしょう。
増税に対して富裕層に拒否権を与えることが現実的かどうかは疑問ではありますけれども。
「他の方法」とは、具体的にはどのような方法を念頭においているのでしょうか。
「富裕層に拒否権を与える」というのは正しくありません。富裕層でも、パーペチュアル・トラベラーのように、その地域に不動産を持っていないことがありますし、富裕層でなくても、その地域に不動産(特に、自宅)を持っている場合もあるからです。
他の方法=増税と州有財産の売却、歳出の大幅カット
ですが。
公債の発行と同じように歳入を増やして私腹を肥やすることが可能になります。
1.公債の乱発を防ぐ(債務超過になる公債は発行しない)
2.増税や政府資産の売却を行う
3.歳出を大幅に削減する
なぜこれらの政策を実施すると、財政が破綻するのですか。これらは、普通財政再建をする時に行う政策でしょう。また、特定集団が「私腹を肥やす」ことは、独裁制や間接民主制よりもハイブリッド民主制のもとでの方が困難なのだから、ハイブリッド民主主義に対する批判になっていません。
”また、特定集団が「私腹を肥やす」ことは、独裁制や間接民主制よりもハイブリッド民主制のもとでの方が困難なのだから、ハイブリッド民主主義に対する批判になっていません。”
もちろんそうです。
私が言及している範囲は、「公債の拒否権」についてだけです。正確には「公債のチェック機能だけしかない」ことに対するものです。
ハイブリッド民主主義に対する批判ではないですよ。
強いて言えば、「新しい制度を導入する際の危険性」についてです。
特定集団の利益に全て消えるからです。
「公債の乱発を防ぐ」は私の話ではないのでカットしました。
「私腹を肥やすだけ肥やして外へ逃げる」という話をしています。
増税が何故財政破綻につながるのかと言えば、企業をいくら倒産させても構わないという態度だからです。
政府資産の売却も、財政の健全性に関係があるでしょう。負債がそのままで資産がゼロになれば財政の悪化とみなすべきですから。
どのような制度変更にも、それどころか、同じ制度を維持し続けることにも、リスクがあります。私もそれは否定しませんが、まだらさんは、それ以上のことを主張しています。
でも、まだらさんは、こう書いていました。
ということは、公債の乱発を防いでも、それを無意味にするような財政破綻の方法があるということですね。それならば、この条件をカットしてはいけません。
増税や歳出の大幅削減によって景気が悪化し、その結果、税収が落ち込んで、財政も悪化する可能性があることはたしかですが、財政悪化と財政破綻は同じではありません。少なくとも、公債の乱発を防いでいるかぎり、財政破綻はないでしょう。債務がいくらかあっても、もしも増税、歳出の大幅削減、資産売却をするなら、それにより、返済が可能です。もっとも、日本の政治の現状を見ればわかるように、民主主義の制度下では、増税と歳出の大幅削減は政治的に極めて困難ですが。
まだらさんは、特定集団が私腹を肥やすだけ肥やして外へ逃げるというのですが、種類の如何を問わず、民主主義国家では公金横領は犯罪であり、違反者は、たとえ、外国への逃亡に成功したとしても、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配され、逮捕されます。もちろん、公金横領が発覚しないまま時効を迎えるということもあるでしょうが、時効まで発覚しないようなスケールの小さな公金横領なら、それが原因で財政破綻になることはないでしょう。
独裁国家なら、独裁者が堂々と公金で私腹を肥やすことは短期的に可能です。しかし、それが長引くと、民衆の不満が爆発し、革命が起きて、独裁者が失脚する可能性が高まります。失脚した独裁者は、権力を失っているのですから、新政府によって公金横領が裁かれることになります。
最近の事例を一つ紹介しましょう。2011年2月11日に辞任したエジプトの独裁者、ムバーラクの大統領の一家は、欧米に不動産や銀行口座を保有し、資産総額は約700億ドル(約5兆8400億円)と報道されていましたが、失脚当日に、スイス政府は、エジプト国家の資産が横領されることを防ぐため、一家の銀行口座と不動産を3年間を凍結し、これまでの資金の流れを確認する方針を発表しました[ムバラク一家、資産総額は5兆8400億円?(2011年2月13日)読売新聞]。
もとより、本ページのテーマは、間接民主主義と直接民主主義のハイブリッドですから、独裁政治の弊害を論じることは、本ページの趣旨から離れています。
“もとより、本ページのテーマは、間接民主主義と直接民主主義のハイブリッドですから、独裁政治の弊害を論じることは、本ページの趣旨から離れています。”
私の意見はハイブリッド民主主義とは無関係です。「公債の乱発を防いでも財政破綻はある」というのがその趣旨です。
”公債の乱発を防いでいるかぎり、財政破綻はないでしょう。”
公債の額が同じでも政府財産がゼロになれば財政が破綻することが考えられます。GDPが大幅に減少しても同じことです。公債の額だけが財政ではないのですから。
“まだらさんは、特定集団が私腹を肥やすだけ肥やして外へ逃げるというのですが、種類の如何を問わず、民主主義国家では公金横領は犯罪であり、違反者は、たとえ、外国への逃亡に成功したとしても、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配され、逮捕されます。もちろん、公金横領が発覚しないまま時効を迎えるということもあるでしょうが、時効まで発覚しないようなスケールの小さな公金横領なら、それが原因で財政破綻になることはないでしょう。”
公金横領が犯罪であるのは公債の乱発が起きた時でも同じことです。
合法的に公金横領することはできないということであれば、公債の乱発も気にする必要はないのではありませんか?
公債を乱発して私腹を肥やすことができるのであれば、他の方法でも私腹を肥やすことができます。
「公債を乱発しても特定集団が私腹を肥やすだけ肥やして外に逃げることはできない」と主張されるのであれば、反論する意図はありません。
「公債の乱発を防ぐ(債務超過になる公債は発行しない)」と書いたでしょう。債務超過でないなら、政府資産を売却して、それで債務をゼロにすることができるから、その場合、財政は破綻しません。GDPが減少しても、債務超過でない限り、破綻しません。また、仮に債務超過になったとしても、直ちに財政破綻ということにはなりません。債権者は、将来の税収を担保に貸し続けるのが普通です。
まだらさんは、以下のこれまでの発言からもわかるように、私が提案する市場原理に基づく民主主義に疑問を投げかけています。
“「いつでも移動できるという仕組みと内政におけるフリーハンド」という組み合わせは危険なのではないかと心配になります。転職の自由や転校の自由の場合にはこのような問題は起きません。
政府内選択と政府間選択という二重の選択構造はとても魅力的ですけれども、その運営にはかなり高い能力が必要とされるのではないかと思います。”
先のコメントにも書いたように、特定の個人や団体が私腹を肥やすために公金を横領する可能性が高いのは、市場原理が機能する民主主義よりも市場原理が機能しない独裁主義の方です。だから、私の提案に対する批判としては、的外れです。もちろん、民主主義政治においても、公金を使って私腹を肥やそうとする人はいるでしょう。けれども、民主主義化が進むにつれて、「特定個人や団体が私腹を肥やそうとした結果、財政が破綻する」というリスクは減少し、逆に、「全員の利益のためと思ってやったプロジェクトが失敗して、財政が破綻する」というリスクの方が大きくなります。民主化が進むにつれて心配しなければいけないのは、むしろ後者の方なのです。
特定個人や団体が私腹を肥やすために公債を乱発しようとすることは、特定個人や団体が私腹を肥やすための公金横領と同様に、民主主義政治では支持されません。しかし、全員ないしは大多数のための利益になるという大義名分があれば、公債が乱発される可能性があるので、これに対しては、別途警戒が必要なのです。
“特定個人や団体が私腹を肥やすために公債を乱発しようとすることは、特定個人や団体が私腹を肥やすための公金横領と同様に、民主主義政治では支持されません。しかし、全員ないしは大多数のための利益になるという大義名分があれば、公債が乱発される可能性があるので、これに対しては、別途警戒が必要なのです。”
全員ないしは大多数の利益になるという大義名分があれば、増税や政府資産の売却が支持されることでしょう。実例を出すまでもないと思いますけどね。公債だけを特別扱いする理由にはならないでしょう。
”「公債の乱発を防ぐ(債務超過になる公債は発行しない)」と書いたでしょう。債務超過でないなら、政府資産を売却して、それで債務をゼロにすることができるから、その場合、財政は破綻しません。”
政府資産がゼロになると書いたでしょう。新規公債が発行されなくても債務超過になります。
”GDPが減少しても、債務超過でない限り、破綻しません。また、仮に債務超過になったとしても、直ちに財政破綻ということにはなりません。債権者は、将来の税収を担保に貸し続けるのが普通です。”
新規公債の発行を抑制しただけでは債務超過を避けることはできませんよ。「政府資産がたくさんあればGDPが大幅に減少しても債務超過にならない」というのは間違っていませんが、政府資産がなくなるまでの猶予があるというだけのことです。それに公債を乱発したところで、政府資産が多いのであれば、財政破綻が起きません。
公債と増税と政府資産の売却を区別する理由などないですよ。公債も増税も政府資産の売却も、政府の歳入が増えるという点では同じです。有効に使えれば国力が増大し、浪費に使えば国力が減少するという点でも同じです。公債だけを特別視する理由はありません。
“まだらさんは、以下のこれまでの発言からもわかるように、私が提案する市場原理に基づく民主主義に疑問を投げかけています。”
市場原理を採用した民主主義の時にだけ起きる話というわけではありません。現状でも私腹を肥やした上で国外に脱出することは可能なんですからね。公債の乱発を抑制できたとしても十分ではないと言っているだけの話です。
現在の日本の民主主義で市場原理が働いていないというわけではないし、市場原理が働いていなければ警戒する必要がないというわけでもありません。市場原理と私の今回の批判とは無関係です。市場原理を批判するならば、もっと正面からやります。
”民主主義化が進むにつれて、「特定個人や団体が私腹を肥やそうとした結果、財政が破綻する」というリスクは減少し、逆に、「全員の利益のためと思ってやったプロジェクトが失敗して、財政が破綻する」というリスクの方が大きくなります。民主化が進むにつれて心配しなければいけないのは、むしろ後者の方なのです。”
これと公債の件は別の話だと言っているのですよ。
市場原理を批判するのであれば、「民主主義が進む」と「市場原理の範囲拡大」は同じではないと主張するべきでしょう。それにそこまで言うのであれば、代案を出さなければいけません。
私が市場原理に批判的な立場なのは事実ですが、公債の件では市場原理そのものは有効であるという前提で議論して下さい。
民主主義という言葉は、社会主義者が使う場合と自由主義者が使う場合では、意味が全然違います。社会主義者は、市場原理を民主主義の敵と考えていますが、私の考えは、その逆です。自由主義者にとっては、民主主義政治というのは、市場原理を適用した政治であり、大まかに言って、民主主義イコール市場原理と考えてもよいでしょう。1999年に書いた古い原稿ですが、詳しくは、「至上原理としての市場原理」をご覧ください。
民主主義が進めば進むほど、特定個人や団体が私腹を肥やすことが困難になるということがようやく認められたようですね。
同じことの繰り返しになりますが、債務超過でないなら、資産の売却により債務をゼロにすることができます(時価会計が採用されているものとする)。たとえ資産がゼロでも、債務がゼロで、新規公債を発行しなければ、債務超過にはならないということを言っているのです。
また、同じことの繰り返しになりますが、債務超過と財政破綻は異なる現象です。現在の世界では、債務超過だけれども財政は破綻していないという国の方がむしろ普通ではないでしょうか。
さて、まだらさんは、資産の売却益が債務の返済ではなくて、特定個人や団体が私腹を肥やすことに使われると主張したいのでしょうが、公金横領は法により禁止されているから、残る可能性は公益のために使われる場合で、それについては後述します。
同じことの繰り返しになりますが、「公債の乱発を防ぐ(債務超過になる公債は発行しない)」と書いたでしょう。括弧の中の「債務超過になる公債は発行しない」は「公債の乱発」という言葉の定義です。公債の残高がいかに大きくても、それが資産価値を下回っているのであれば、公債を乱発したことにはならないのです。
なお、新規に債券を発行することなく、代わりに資産を売却し、その売却益を債務返済以外の目的に使うことで債務超過になるという場合でも、資産価値を上回る額の債券を新規に発行する場合と同様に、公債の乱発に相当するので、当然のことながら、地権者による拒否権発動の対象となります。
ここで、まだらさんが批判している本文の箇所をもう一度引用しましょう。
この箇所をよく読めばわかるとおり、私は、公債だけを特別視し、公債の乱発さえ抑制すればよいと主張しているわけではありません。もしもそう考えているのであれば、このような提案はせずに、もっと単純に公債の発行を禁止することを提案したでしょう。
私は、債務超過となる公債の発行を絶対に阻止するべきだとは思っていないし、事実、私が提案したこの制度では、債務超過となる公債の発行は可能です。一時的に債務超過になっても、長期的にその国の経済発展をもたらすと大半の人が納得する提案なら、ハイブリッド民主主義において承認され、地権者も拒否しないでしょう。そして、その開発事業が失敗し、債務超過となり、さらには財政が破綻するということもありうることです。
しかし、だからといって、公債の発行を禁止するべきだとは思いません。リスクに対する警戒が必要であるにしても、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」であり、政府や地権者たちも。普通の民間企業と同様に、債務超過や経営破綻のリスクを冒してでも、攻めの投資をするべき時があるでしょう。
公債を新規発行せずに、資産を売却し、その売却益を債務の返済に充てずに、公共事業への投資に使って、失敗するというケースも考えられますが、これも同じ理由から防止する必要はありません。何が正しい投資かは誰も事前にはわからないのであって、真実は、政府内選択と政府間選択という二重の選択構造による淘汰に委ねるべきだというのが私の主張だからです。
要するに、私が提案した制度では、全体の利益になると判断された投資のためなら、一時的に債務超過となることも許容され、そのための資金捻出方法は、資産売却でも、公債の新規発行でもよいのであり、他方で、公金横領が目的なら、資産売却も公債の新規発行も拒否されるということです。だから、まだらさんの批判は、私の提案に対する批判としては的外れだと言っているのです。
私が批判しているのは、公債の乱発の危険性についてしか説明していないことです。
”地方政府が破綻しても、他の地方に行けばよいのだから”
「増税で企業がつぶれようが、政府財産を売り飛ばそうが、歳出を切り詰めて必要なサービスがなくなろうが気にする必要はないことになる」と言っているのです。
公債の乱発で私腹を肥やすことができるのであれば、他の方法で私腹を肥やすこともできます。
難しいことは何も言っていないのですけどね。
民主主義の危険は、公債の乱発だけだとは言っていません。他にもいろいろあるでしょうが、それをすべて列挙したらきりがないでしょう。
またまた同じことの繰り返しになりますが、民主主義が進むにつれて、いかなる手段を使うにせよ、一部の者が私腹を肥やすことが困難になるのだから、私に対する批判としては的外れです。
”民主主義の危険は、公債の乱発だけだとは言っていません。他にもいろいろあるでしょうが、それをすべて列挙したらきりがないでしょう。”
別にすべて列挙する必要はないですよ。
「私腹を肥やして逃げることを阻止することができるかどうか」です。
「公債の乱発を防いだだけではすべてを阻止することにならない」ということを認めてくれれば良いのです。
”私に対する批判としては的外れです。”
ハイブリッド民主主義への批判ではないと言っているでしょう。
部分的な表現への批判ですから、その部分について議論してもらえば良いのです。
ハイブリッド民主主義を採用すると私腹を肥やすことが困難になるということについてが言及していません。
「公債の乱発が問題になるような状況では他の方法も問題になる」といっているだけです。
本文を読めばわかるように、政府にとって公債の乱発だけが唯一の問題であるとか、公債の乱発を防げばすべての問題が解決されるというようなことは、最初から主張していません。
ただ「大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給する」などといった事態は心配する必要はないと言っただけです。そこから議論が延々と続いたわけですが、結論を簡単にまとめると、次のようになります。
1.「大規模な増税と行政サービスの全廃及び州有財産の売却を行った上で特定条件を満たしている州民に現金支給する」という事態が起きることが理論的に不可能であることは、まだらさんも認めた。
2.そこから「行政サービスの全廃」を削除すると、その事態が起きることは理論的には可能だが、「特定条件を満たしている州民に現金支給する」が「一部の者が私腹を肥やす」という意味であるならば、それは公金横領であるから、少なくとも民主主義国家では法的に禁止される。
3.公金横領も小規模なら発覚されずに時効を迎えることもありうるが、小規模ならば、たとえそれが複数重なったと仮定しても、それが原因で政府の財政が破綻する確率はきわめて小さい。
4.民主主義国家では、それが民主主義的であればあるほど、一部の者が私腹を肥やすことによる財政破綻の可能性よりも、公益になると信じられていた事業が失敗することによる財政破綻の可能性の方が大きくなる。
”本文を読めばわかるように、政府にとって公債の乱発だけが唯一の問題であるとか、公債の乱発を防げばすべての問題が解決されるというようなことは、最初から主張していません。”
「公債の乱発が起きて私腹を肥やした上で逃げる人が出る可能性がある」と言っているのは私ではありません。永井さんです。
私は「公債の乱発が起きて私腹を肥やした上で逃げる人が出る可能性がある」ならば他の方法でも私腹を肥やして逃げる人が出る可能性もあると言っています。
永井さんが、「公債の乱発が起きて私腹を肥やした上で逃げる人が出る可能性がある」ことを否定するのであればそれはそれで構いません。
公金の横領は犯罪なのだから実現の可能性は低いと何度も言っているくらいなのですから。
私はそのようなことを言っていません。もう一度読み直してください。
これ、具体的に年金制度で言うと、どんな感じになりますか?
ボクは若者なので、当然「年金なんて無くせ!老人は死ねばいいんだよ」って意見の人間です。
年金廃止の投票項目が表れたら、即賛成ボタンを押すと思います。
医療費補助はどうする?とかには0円だ!ってレスします。
いくらくらいが妥当かな?って項目にも、0円でいい!って書きます。
で、どうなるのですか?
若者の市と老人の市で、意見が通りやすい方に移住が進んで最後は分裂するんですかね?
生産力のない老人市は滅亡しそうですけど。
年金を廃止しても老人は死にません。なぜなら、生活保護など他の社会保障の制度があるからです。
自分が、自力で払いきれないほど高額の医療費がかかる病気になったなら死んでもよいと無党派層さんが思っているのなら、そうすればよいのでは。でも、そういう人は日本では少数派だから、多数決では否決されるでしょう。
日本では都市部に若者が多く過疎地には高齢者が多いから、そういう自治体間の「分裂」なら既に生じています。それで財政が豊かな都市部から過疎地への国を媒介にした財政トランスファーが必要となるのです。これを不公平と言う人もいますが、そもそも被保険者が地域間を移動しているのだから、地域単位で保険財政を自立させることが公平というのはおかしい。社会保障がどうあるべきかに関する私の見解は、「社会福祉は必要か」にまとめてあるので、そちらを参照してください。
そうならないために保険があるのです。なお、高齢者だから生産性がないとは限りません。高齢者には生産性がないという前提で年金制度が作られているのですが、むしろ年金制度を作ったおかげで、高齢者が働かなくなり、高齢者の生産力が下がっているという方が真実に近く、高齢者を働かせるためにも公的年金は廃止し、その代わり生存権を保証するセーフティネットをエイジレスに構築するべきだというのが私の主張です。これに関しては「公的年金制度は必要か」を御覧ください。
「民主主義」という言葉を使用するのは、もう やめましょう。デモクラシーとは、「民主制」「民主政治」と翻訳されるべきです。つまり、単なる「制度」「政治形態」なのです。この単語に、イデオロギーや価値判断という性質を持たせてはいけません。
「制度」や「政治形態」がイデオロギーや価値判断に基づいて作られる以上、それらを概念的に区別するために、民主制や民主政治とは別に、民主主義という言葉があってもよいでしょう。
「朝鮮民主主義人民共和国」っていうでしょ。イデオロギーを排除して、ニュートラルな意味の言葉にしておかないと、コミュニストに悪用されるんだよ。
社会主義的民主主義に対しては、資本主義的民主主義(capitalist democracy)とか市場に基づく民主主義(market-based democracy)といった表現で区別すればよい。ちなみに社会主義の国では、真の民主主義とはプロレタリア独裁のことで、共産主義者やマルクス=レーニン主義者は、資本家が豊富な資金を使ったプロパガンダで愚民を騙すことができる(と彼らが信じている)選挙を通して行われる議会制民主主義のことをブルジョア民主主義と呼んで、自分たちのプロレタリア民主主義と区別しています。
ニッポンの民主政治は、次の2点を改めることにより、多少 改善される。
1 内閣が法律案を国会に提出する現行制度は、日本国憲法第41条違反である。
2 衆議院の解散は、日本国憲法第69条の場合に限定すべきである。「内閣ないし内閣総理大臣が、任意に議会を解散することができる」なんて、クレージーだ。
考えれば考えるほど民主主義が分からなくなってきます。間違いによるリスクを最小限に抑えるために幾重にも渡り淘汰されるみたいですが、選挙後の淘汰は誰に権限があるのでしょうか?…任期任せ?多数決で勝ったからといって何をしても良いという訳でもない気がします。政治素人とインテリジェンスの一票の重さが変わらないのは聞こえがいいですが、実際恐ろしくも感じます。雲行きが怪しくなっても「選んだ人が悪い」「勝ったから多数派」「選ばれちゃったから仕方が無い」と他人事かつ捻じれ狂った解釈がされているように感じてしまいます。多数決=民主主義ではないはず…。無知ですみません。日本の民主主義って形骸化してませんか?
形骸化しているから、この提案をしているのです。
とても素晴らしいアイデアだと思い、少し前から読ませていただいていました。nhkから国民を守る党の主張によく馴染むのではないでしょうか?
本エントリーを土台に議論が展開されたらとても面白いと思いました!
立花孝志代表によると、契約者だけがNHK放送を見られるようにするスクランブル化を実現したら、NHKから国民を守る党を解党するとのことです。
本来、政党あるいは議員には、様々な政策課題全般に取り組むことが求められており、NHK放送のスクランブル化といった一つの政策だけに特化した政党や議員というのは、制度的に想定されていません。それにもかかわらず、2019年の統一地方選挙において47人の立候補者のうち26人が当選するなど、泡沫政党とは言い難い成果を出したのは、間接民主主義がうまくいっていない証拠ではないかと思います。
間接民主主義の趣旨に合わせようとするなら、「NHKから国民を守る党」などという特殊すぎる党名ではなくて、「上級国民から特権を剥奪する党」とか「選択の自由を求める消費者の党」とか、もう少し抽象度の高い党名にして、射程を広げるべきなのでしょうが、そうしないということは、立花代表は、たんにNHKの受信制度だけでなく、間接民主主義の制度までも「ぶっ壊す」対象としていることになります。実際、この動画では、直接民主主義を主張しています(社民党の看板を借りるというのは論外ですが)。
政治家は民意に敏感に反応するもので、もしもNHKから国民を守る党が議席を獲得するなら、NHK放送のスクランブル化を検討する政党も増えるでしょう(日本維新の会は、すでに公約に含めています)。他方で、NHK放送のスクランブル化にしか取り組まない議員が高い歳費をもらっていることが問題視されるかもしれません。その場合、「もっと低コストで国民が個別政策に対して意思表明できる仕組みを作れ」という世論が生まれることもありえます。つまり、NHKの受信制度だけでなく、間接民主主義の見直しにまでつながるポテンシャルがあるということです。
ご返信ありがとうございます!
「インターネット時代の新しい三権分立(2019/6/24)」や「6/29の党の総会の03:04:00辺りからの直接民主主義についてのやり取り」などをみてると、永井様がインターネットによる直接民主主義についてエントリーでやり取りされていた内容に近いことが議論されています。
まだきちんとした構想?がないともとれることをおっしゃっているので、このエントリー等を元に議論が広まれば面白いと思いました。
確かにnhkを争点に議席や票を稼ぎつつ、その他の政策の是非をインターネットで聞いていけば、自ずとハイブリットに近づいていくような気もしています。
僕個人としては、もう少し具体的な制度設計を明らかにしてほしいと思っています。
調べてみると、立花代表は「直接民主主義の実現がNHKから国民を守る党の政策です」という動画で、直接民主主義を採用することを宣言しているようです。直接民主主義といっても、この党の党員の意見を国政に反映させるという形になるでしょう。その際、ブロックチェーンを用いた投票で改竄を防ぐという手段があります。
昨年の米国の中間選挙では、海外在住の144人のウェストバージニア州有権者がブロックチェーン投票アプリを使って投票をしました。ウェストバージニア州は来年の大統領選挙にもブロックチェーン投票システムを導入するとのことです[West Virginia Will Use Blockchain Voting in the 2020 Presidential Election. Why?]。
日本でも、VOTE FOR というスタートアップ企業が、ブロックチェーンを用いたインターネット投票を採用してもらうように政府に働きかけているようです。
こうした新しいシステムをいきなり公職選挙に導入するのはリスクが高いので、党内の意思決定に使うとこから始めればよいと思います。