民主主義はどうあるべきか

2011年1月27日

私は11年前に「インターネットによる直接民主主義」を提案したが、この制度の対象は法案の可否を問うレファレンダムに限定されていた。立法、行政、司法全体に直接民主主義を適用することは不可能であり、国政全体を民主化するには、直接民主主義と間接民主主義の長所を取り入れたハイブリッド民主主義を考案する必要がある。また日本人の選択の自由をさらに増やすには、地方分権が必要である。ハイブリッド民主主義と地方分権が、現行の間接民主主義が抱えている多くの問題をどのように解決するか説明しよう。

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スイスで行われている直接民主主義。有権者の数が増えるにしたがって、このような直接的な形での政治は困難になる。"Landsgemeinde Glarus, 2009" by Marc Schlumpf. Licensed under CC-BY-SA

1. ハイブリッド民主主義はなぜ必要か

現在の日本の政治システムは、例外的なケースはあるものの、原則として間接民主主義を採用している。間接民主主義は、喩えてみるならば、一般の個人に許可されているのは投資信託の購入や銀行預金といった間接金融だけで、株や債券の直接購入といった直接金融は禁止されている金融マーケットのようなものである。これに対して、直接民主主義は、一般の個人には間接金融のオプションがなくて、直接金融しか投融資の方法がない金融マーケットに喩えることができる。直接金融と間接金融を選択することができる金融マーケットが一般の個人資産家にとって理想的であるように、直接民主主義と間接民主主義を選択することができる政治マーケットが一般の個人有権者にとって理想的である。

個人の有権者が、自分の能力や興味に応じて、直接民主主義的な意思決定プロセスへの参与と間接民主主義的な意思決定プロセスへの参与とを自由に選択することができる民主主義政治システムをハイブリッド民主主義と名付けることにしたい。「ハイブリッド民主主義(Hybrid Democracy)」という用語は、「完全に間接的でも完全に直接的でもなく、両者の複合体である民主主義的なシステム(a democratic system that is neither wholly representative nor wholly direct, but a complex combination of both)」[Elizabeth Garrett (2005) Crypto-Initiatives in Hybrid Democracy]という意味ですでに使われているが、本稿では、「ハイブリッド民主主義」という言葉を、私が本稿で提案している民主主義的政治システムの意味で用い、それ以外の「ハイブリッド民主主義」を含まない意味で用いることにする。

間接民主主義も直接民主主義も一長一短があって、どちらも理想的な民主主義の形態ではない。間接民主主義と直接民主主義には、それぞれ以下のようなデメリットがある。

1.1. 間接民主主義のデメリット

  1. 有権者は人を選ぶことはできても、政策や法を選ぶことはできない。議員や首長は、公約を掲げて立候補するが、公約は必ずしも守られないし、また選挙前に公約していなかった政策を実行することもある。その結果、有権者は選挙に関心を失い、投票率は下がり、民主主義は形骸化する。
  2. 他方で、公約を愚直に守ることも、常に正しいとはかぎらない。選挙のときに必要で有益だった政策が、環境の変化によって不必要ないし有害になることがある。これは、選挙が数年に一度しか行われない間接民主主義では民意をリアルタイムで反映することができないことによる弊害である。
  3. 議員や大臣や首長の権力が大きいので、彼らと特定集団との癒着が起きて、特定集団への利益還元を目的とした政治、権力の私物化が行われやすくなる。換言するならば、政治家と個人的なコネがないサイレント・マジョリティが政治から疎外され、国民全体の利益を重視した公平な政治が行われにくい。
  4. 権力を掌握するには過半数の議席が必要なため、政権交代を可能にするには、二大政党制が最適である。二大政党は、幅広い支持を得ようとするあまり、八方美人的になり、政策的な違いがなくなる。政権交代を可能にし、有権者の選択の自由を増やすはずの二大政党制が、逆に有権者の選択の自由を奪ってしまう。
  5. 間接民主主義では、権力が民意から離れて独裁的になることを防ぐために、国政では二院制、地方自治では二元代表制が採用されているが、両者の間で勢力のねじれが生じると、政治が決定能力を失って、機能不全に陥る。他方で、両者が同じ勢力に支配されると、二つある意味がなくなる。

1.2. 直接民主主義のデメリット

  1. 有権者全員に、すべての法案を審議する能力があるとはかぎらない。日本人の場合、識字率はほぼ100%であるが、全員が政治や経済に精通しているわけではない。少なくとも、判断能力には差がある。判断能力がある人間にもそうでない人間にも平等に同じ一票を与えると、全体の判断力が低下する。
  2. 議論は、参加者の数が増えるほど困難になる。すべての有権者が立法に従事すると、法案が乱発され、すべてを審議することが、それどころか読むことすら不可能になる。審議に値しないような法案が大量に作られる一方、重要な法案が日の目を見ないまま埋もれてしまう可能性がある。
  3. 間接民主主義では議員の数が少ないので、議員たちは豊富な政治資金を集めて政治活動に専念できる。直接民主主義では、一人当たりの政治資金の配分がほぼゼロとなり、政治活動はボランティアになる。有権者が政治活動に割くことができる時間はわずかになるので、政治が素人的になってしまう。
  4. 直接民主主義では、間接民主主義よりも意見の集約が困難であるため、政策が一貫性を欠く可能性がある。リアルタイムに民意が反映されることは長所でもあるのだが、それは同時に、政策が時間とともに不安定に変動したり、矛盾する政策が同時に実行されたりするリスクを増やす。
  5. 間接民主主義では、政治家は、自分の選挙区あるいは国民全体の利益を考えて政治を行うが、直接民主主義では、有権者たちが利己的な動機で投票することが多いので、多数派の利益は守られやすい反面、少数派の利益は無視されやすくなる。つまり、数の暴力が横行する。

直接民主主義と間接民主主義には、それぞれメリットとデメリットがある。ハイブリッド民主主義は、それぞれのメリットを取り入れつつ、両者のデメリットをできるだけ克服するように設計されなければいけない。以下、私が考案するハイブリッド民主主義を概説したい。

2. 直接投票制と投票委託制の並存

インターネットの普及は、情報産業におけるプロとアマの境界線をあいまいにした。一方では専業的な職業作家がいて、他方では公共的な場で一切情報発信しない人がいるという事実は変わらないが、両者の中間、すなわちネット上で一定の発言力を持つセミプロが増えた。政治の世界では、相変わらずプロとアマの間には越えられない一線があるのだが、ネットが普及した今、職業的政治家と一般市民を峻別し続けることは時代錯誤である。

日本の政界は人材難で、議員には世襲が多いが、その理由の一つとして、議員になるためのコストが高いことを挙げることができる。例えば、衆議院小選挙区と参議院選挙区に立候補するための供託金は一人当たり300万円で、比例代表の方は一人当たり600万円である(2010年現在)。終身雇用制が根強い日本では、議員になるリスクは大きい。そして、この高いリスクとコストが政界への新規参入の妨げとなっている。政治にコミットする層を厚くするには、この参入障壁を低くしなければいけない。

私が提案するハイブリッド民主主義では、どの成人有権者でも、コストゼロで議員になることができる。兼業も可能であるから、生活を犠牲にするリスクもない。これにより、多様な人材が政治にかかわることができるようになる。但し、たんに議員登録をしただけでは、一般の有権者とたいしてかわらない。名実共に議員であるためには、一般有権者から棄権時の投票委託登録を集めなければいけないようにする。

この制度について、詳しく解説しよう。まず、一般有権者に、棄権時に投票を委託する中央および地方の議員を決めて、それを予め登録しておく義務を課す。ハイブリッド民主主義においては、すべての成人の有権者は、インターネットを通じてあらゆる議決で投票する権利を持っているが、自分の判断に自信がなかったり、法案を吟味する時間的余裕がない場合は、棄権することができる。しかし、ハイブリッド民主主義においては、議員が棄権した人の分まで投票するから、直接民主主義とは異なり、棄権が民主主義を機能不全にすることはない。投票委託登録は一度行えば、無期限に有効であるが、委託する議員を変更することは、いつでもネット上で可能である。ハイブリッド民主主義においては、現行のような公的選挙は行われないが、見方によっては常時選挙が行われていると言うこともできる。

現行制度では、未成年者は有権者ではないが、投票委託登録制度を拡張することにより、判断力のない国民も有権者にすることが可能である。すなわち、未成年者も日本国民であれば、成人の有権者と同様に1票の投票権を持つが、自分ではその権利を行使することはできず、親権者に投票を強制委託させる。成年後見人も同様に扱う。その結果、例えば、三人の子供を持つ夫婦は、それぞれ、自分の票と子供の票を合わせて1+3/2=2.5票の権利を持つ。これに対して、議員が持つ棄権時投票委託登録数は、常にその数だけの票を投じることができるわけではないので、潜在的保有票と名付け、実効投票数と区別することにしよう。

議員が棄権したときは、議員の実効投票数は、所属する政党の執行部の議決に使われる。政党と言っても、公職選挙法で規定された要件の厳しい政党ではなくて、内閣を組閣するだけの人数の議員が所属している政治団体は、すべて政党としての要件を満たすものとする。政党は、所属議員に対して党議拘束をかけることはできないものとする。多種多様な政党が存在することができるので、議員と政党とのミスマッチは今よりも起きにくくなるが、個人の意見が集団の意見と完全に一致することはないので、議員には造反の自由が与えられるべきである。そもそも、議員が政党執行部と同じ判断しかできないのであれば、議員は不要で、政党に同数の票を与えればよいということになってしまう。直接民主主義であれ、間接民主主義であれ、党議拘束というのはナンセンスなのである。

以上の投票委託制度を図示すると、以下のようになる。

ハイブリッド民主主義

話が抽象的になったので、具体例で説明しよう。A政党に属するB氏が議員登録をし、6人がB議員に棄権時投票委託登録をしたとしよう。6人のうちC氏とD氏は独身で、1票ずつ持ち、残りは親権者や成年後見人で、E氏が1.5票、F氏とG氏が2票、H氏が2.5票持っているとする。この場合、B議員の潜在的保有票は、自分の票を含めて、11票になる。もしも、実際の投票でD氏とF氏が棄権したならば、B議員の投票は、4票としてカウントされる。また、もしもB議員が棄権したならば、その4票は、A政党の執行部(最終的には党首)の投票に使われる。

議員報酬は、支持されている度合いに比例して与えるのが理想的だが、小遣い稼ぎのために議員登録する者が現れないようにするためにも、一定の閾値を設ける必要がある。すなわち、議員は、潜在的保有票が閾値を超えると、その数に応じて、政府から政治資金が分配され、その政治資金を使って、政治活動ができるようにする。また、政党助成金も、所属する議員の潜在的保有票に応じて分配される。このように、ハイブリッド民主主義では、議員は、その支持の度合いに応じて報酬を得ることができる。

3. ハイブリッド民主主義における立法と行政と司法

日本国憲法は、国家権力の集中を防ぐために、三権分立制を採っているが、三権分立と国民主権によるチェック・アンド・バランスは形骸化している。ハイブリッド民主主義では、個人分権の度合いが強く、有権者、議員、政党間のチェック・アンド・バランスが機能するので、形式的な三権分立を無視しても、権力の集中による弊害は起きない。本節では、ハイブリッド民主主義の導入により、立法、行政、司法の制度がどのように現行の制度から変更されるかを説明したい。

まず立法についてであるが、ハイブリッド民主主義においては、その敷居の低さゆえに、議員の数が膨大となるため、議員全員を一つの議場に集めることは、物理的に不可能である。そこで、ネット上にバーチャルな議場を代わりに作る。このサイトでは、一般の匿名有権者は閲覧しかできないが、議員や政党は法案を提出することができる。各法案には、フォーラムが併設されていて、議員同士で議論できるようになっている。議員と政党の数が多いので、法案の数は膨大になるが、そのすべてを読む必要はない。各法案は、それに賛同する議員の潜在的保有票の合計によってランク付けされ、ランクの高い法案ほど注目されるようソートされている。だからと言って、ランクの低い法案が全く日の目を見ないということにはならない。各法案は、その内容によりスクリーニングすることが可能であり、関心のある議員が発見することは容易である。当初ランクが低かった法案も、内容がよくて賛同者が増えれば、ランクが上がり、注目度も上がる。ランクが一定水準に達したら、議決にかけられる。

行政に関しては、中央政府で採用されている議院内閣制を踏襲する。政党の政治的影響力は、所属する議員の潜在的保有票の合計によって計算され、合計が最も高い政党が、組閣して、行政を担う(地方にも中央と同様の制度を導入する)。内閣の任期は1年で、単年度の予算の作成と執行を担当する。潜在的保有票の合計の通年平均順位がトップのままならば、同じ政党が翌年も行政を担うことになる。現行制度におけるように、与党になるために過半数を取る必要はないので、連立を組む必要もないし、八方美人的であいまいな政策を採る必要もなく、政党は独自性を発揮しやすくなる。間接民主主義では、少数によってしか支持されない政党が政権を担うことは危険であるが、ハイブリッド民主主義では、政権与党は民意を離れた政策を行うことができないので、それは問題にはならない。この点では、地方自治体で採用されている議会と首長の二元代表制度に近く、地方自治体でそうなっているように、一院制で十分である。

司法に直接民主主義を導入することは、訴訟当事者のプライバシーを侵害することになるので、不可能である。直接民主主義に近い制度として裁判員制度があるが、一般国民に大きな負担を強いる割には、成果が上がっていない。だからと言って、日本の司法は現状のままでよいわけではない。日本の裁判官の人事権は最高裁判所に、そして最高裁判事の任命権は内閣にある。このため、裁判官は、出世するために、行政訴訟等で国に有利な判決を出す傾向にある。また、日本の裁判官は行政に属する検察の判断に従順で、その結果、日本の刑事裁判における有罪率は99%にものぼる。裁判官が行政のロボットと化している現状を変えるには、裁判官公選制を導入しなければならない。裁判官を選ぶ手掛かりはないと思うかもしれないが、判決が難しい架空のケースで候補者の法曹に判決文を書かせるなどの方法で、選別することができる。もちろん、一般の有権者の棄権率は高くなるだろうが、その場合でも、投票委託登録した議員が代わりに投票してくれるから、最高裁判所裁判官国民審査制度のように形骸化することはない。

ハイブリッド民主主義は、直接民主主義がかかえる問題の多くを解決するが、5番目に掲げた直接民主主義のデメリットの克服は容易ではない。有権者が、利己的で、近視眼的で、無責任な選択をしないようにするには、制度的な工夫が必要である。未成年者にも票を与え、親権者に未来の世代の利害まで代表させるのも一つだし、歳出の変更を歳入の変更とパッケージにして提案させるなどのルールを作ることも一つだろう。しかし、多数決の原理では、少数派が不利益を被るという事実には変わりがない。この問題を根本的に解決する方法は、地方分権である。

4. 地方分権はなぜ必要か

地方分権は、最近では地域主権と呼ばれることも多いが、地域主権の提唱者たちは、地方を独立国にすることを提唱しているわけではないので、ここでは地方主権という従来通りの名称を使うことにしよう。地方分権は、多くの政治家によって支持されているにもかかわらず、地方分権が必要である理由が明確に語られることはめったにない。地方分権が必要である理由はいくつかあるが、日本で切実であるのは、日本語が通じる国が日本以外に事実上存在せず、そのため日本人には政府を選ぶ自由が制限されているという事情による。日本人の多くは、観光や老後のロングステイならともかく、海外で働くだけの自信はない。だから、日本に不満があるからといって、海外にというわけにはなかなかいかない。

日本は先進国の中で最も自殺率の高い国であるが、その理由の一つとして、日本には、他の先進国と比べて、選択の自由が乏しいという点を挙げることができる。語学力が苦手な人が多いので、日本で生まれたら、一生日本で生活しなければならない。転職の自由が制限されているので、一度入社したら、定年までそこにしがみつかなければならない。転校の自由も制限されていて、いじめがあるからといって、簡単に逃げ出すことはできない。日本人は、現状に不満がある時には他所に逃げるという発想に乏しい。自分で解決しようとするよりも、運命に身を委ねる人が多い。そして、どうしても我慢できない時には、あの世という究極の脱出口に救いを求める。こうした日本の傾向を変え、自殺率を下げるためにも、選択の自由をもっと増やすべきなのだ。

転職の自由に関しては「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」で、転校の自由に関しては「教育改革はどうあるべきか」で論じたので、ここでは話を政府選択の自由に限定しよう。ハイブリッド民主主義は、現行制度よりも直接民主主義に近いので、多数派が少数派よりも有利になる。少数派は、たとえ多数派の判断が間違っていると思っていても、それに従わざるをえない。この理不尽さを解消するためには、少数派に、自分が多数派になりうる政府を選択し、そこへ移動する自由を与えなければいけない。そこで、日本を、内政を自由に決めることができる、独立性の高い地方政府から成る連邦制国家にすることを提案したい。

企業と住民が、自分が理想的と考える地方政府を選択し、そこに足で移動することは、「足による投票(voting with their feet)」[Charles Tiebout (1956) A Pure Theory of Local Expenditures, The Journal of Political Economy, Vol. 64, No. 5]を行うことであり、それは、自分の意志を手で書いて票を投じる「手による投票」とともに、有権者の政治的満足度を高めるために必要な投票制度である。すなわち、有権者は、政治に不満があるときは「手による投票」で政治を変えようとし、それができない時には、「足による投票」で、政治に対する不満を解消することができる。こうすれば、少数派が多数派の犠牲になるという多数決原理に付き物の弊害を減らすことができる。また、移動の結果、同じ考えを持つ住民が集まるので、各地方は独自色を強めることになり、それがさらに選択肢を多様にする。

市場原理が機能している経済では、集団意思決定に際して、この二種類の投票をすることができる。株主は、株主総会で議決権を行使することができるが、もし取締役会が自分の意にそぐわない経営を続けていると感じるのであれば、株式を売却して、他の株式会社の株を買うことができる。マンションの住民は、管理組合の総会で議決権を行使することができるが、もし理事長が自分の意にそぐわない経営を続けていると感じるのであれば、マンションを売却して、他の物件を買うことができる。これと同じことがなぜ政府に対してできないのか。政府は、行政サービスの対価として税金を要求する経済主体でもあり、政府を市場経済の原理に従わせることは可能なのである。

地方分権のもう一つのメリットは、有権者の自己責任原則が明確になることである。日本は大きな国家であるので、財政赤字が膨らんでもなかなか財政破綻しない。その結果、ある世代の負担を次の世代が負担しなければならないといった受益と負担の不一致が起き易くなる。だが、もし日本をいくつかの小さな地方政府に分割するならば、それらは日本国よりも信用が低いので、比較的容易に破綻する。日本国が“too big to fail"であるのに対して、地方政府は“small enough to fail"である。その結果、放漫財政の災いは、その世代にすぐに降りかかってくる。

もしも有権者が地方政府間を自由に移動できるのであれば、「地方政府が破綻しても、他の地方に行けばよいのだから、地方政府に公債を乱発させて、補助金や行政サービスを受けるだけ受けて、破綻後逃げよう」と考える有権者も出てくるだろう。これを防ぐには、公債発行に対する拒否権の票(veto)を、その地方に不動産を持つ地権者に、評価額に応じて与えればよい。地方政府が財政破綻をすれば、その地方の不動産価格は下がる。だから、放漫財政の尻拭いのための安易な公債発行は拒否されるようになる。他方で、不動産価格の上昇をもたらす事業への投資のための建設的な公債ならば、発行が拒否されないかもしれない。

政府が“small enough to fail"な地方政府となり、企業と人の移動が容易になると、受益者負担の原則を逸脱する政策は採用されにくくなる。例えば、左翼ポピュリストの政党がある地方政府で支配的になり、企業や富裕層に重税を課し、貧困層のための福祉に力を入れだしたとしよう。そうすると、その地方からは企業と富裕層が逃げ出し、代わりに手厚い福祉を求めて貧困層が他の地方から流入してくる。その結果、受益者が増える一方、負担者は減り、その地方政府は、たちまち財政的に行き詰る。各地方政府はこの事態を避けようとするから、地方分権には、福祉切捨て競争を促進させるという効果が期待できる。

5. 自由主義的地方分権と社会主義的地方分権

前節で述べた地方分権は、多くの人のイメージとは異なるかもしれない。日本の政界では、自由主義者も社会主義者も地方分権に賛成であるが、これは全く異なる地方分権を同じ言葉で表現することによる同床異夢といったところだ。池上岳彦は、「新自由主義的分権論」と「分権的福祉政府論」を区別し、後者を支持している。

日本における税負担の軽さに合わせた「もつと小さな政府」をつくるために地方歳出削減を最優先する「新自由主義的分権」の立場からは、国庫補助負担金の削減を「事業のスリム化」に結びつける主張がなされる。この場合、「分権化」とは、「権限を自治体に与えるから、財源は受益者負担と課税自主権でまかなうべきだという意味に解される。

それに対して、地方分権を支える税財源を確保する「分権的福祉政府」の立場からみれば、社会の「助け合い」を支える教育、保育、介護、保健。医療、環境衛生といった広義の対人社会サービス水準の維持及び発展を見すえて、国庫補助負担金の削減を基幹税を中心とする税源移譲と地方交付税の改善に結びつけることが必要である。すなわち、地方財政の「分権化」とは「権限を自治体に与え、その標準的財源を保障する」ことである。

[池上 岳彦: 分権化と地方財政,p.219]

わかりやすく言うと、中央政府が地方政府に対して「金を出す代わりに口も出す」のが従来の中央集権制度、「口を出さない代わりに金も出さない」のが自由主義的地方分権、「口を出さずに金を出す」のが社会主義的地方分権である。2009年に政権与党となった民主党は、マニフェストに「地域主権」を掲げ、「地方が自由に使えるお金を増やし、自治体が地域のニーズに適切に応えられるようにする」[民主党の政権政策Manifesto2009]方針を示した。2011年1月現在、菅直人首相は、統一地方選挙対策として、ひも付き補助金の一括交付金化を図っているが、このことも、民主党が目指している「地域主権」が社会主義的地方分権であることを物語っている。

地方の首長が声高に叫ぶ「地方分権」あるいは「地域主権」の大半は、自分たちの利権を増やす社会主義的地方分権である。この点、大阪府の橋下徹知事は、例外的だ。

大阪府の橋下徹知事は16日、消費税引き上げなどを国に求める緊急声明をまとめて閉幕した全国知事会について「自分で金を稼がないといけないという根幹を抜きに分権と言っている。仕送りをもらう大学生が親に自由にさせてくれって言っている生ぬるい感じ」と酷評した。

橋下氏は全国知事会議で、国に一方的に増税を求めるのは無責任で地方も地方税引き上げなどを検討すべきだとする持論を展開したが、十分な賛同は得られなかった。この結果に「国がリスクを取って消費税を上げても、地方にはびた一文回ってこないし回す必要もない」と述べた。

社会主義的地方分権の擁護者たちは、地方は子供と高齢者が多いため、教育、医療、福祉のコストが高くつくが、都市は働き盛りの若者が多くて、税収が豊富だから、後者から前者に再分配が行われて当然だと反論するかもしれない。池上も「対人社会サービス水準の維持及び発展」を大義名分に掲げている。だが、そういう人たちは、教育や医療や福祉といった対人社会サービスを政府の仕事と考えている社会主義的前提を考え直さなければいけない。対人サービスは、民間企業が行えばよいのであり、そのサービス水準のナショナル・ミニマムは、連邦レベルの社会保険で保障すればよい。

国庫支出金や地方交付税交付金といった都市から地方への再分配がなければ、都市への人口集中と地方の過疎化が深刻化すると危惧する人もいるかもしれない。しかし過疎化すればするほど、地価は下がるのだから、それだけ企業を誘致しやすくなる。だから、再分配をしなければ、地方経済が崩壊するというのは正しくない。もとより、地方政府があまりにも小さいと、経済的自立が難しい場合もあるだろう。民主党は「人口30万人程度以上の基礎自治体」に権限を委譲し、「自主財源だけで運営できる基礎自治体の割合が、全体の2分の1を超えること」[民主党政策INDEX2005]を目標としているが、これは逆に言えば、半分近くの基礎自治体が「仕送りをもらうわがままな大学生」になるということである。自由主義的地方分権を目指すのであれば、分権の単位となる地方政府は、都市とその周辺を含んだ、ある程度広域的な行政区画を持つ必要がある。

6. 結論

民主主義の本質は、個人に選択の自由を与えることである。ハイブリッド民主主義は手による投票により政府内選択の自由を、地方分権は足による投票により政府間選択の自由を個人に与える。もとより、個人が正しい判断をするとは限らない。人間は、神ではないのだから、間違うこともある。それにもかかわらず、民主主義政治が選択の自由を認めない政治よりも優れているのは、それが、人間の判断の不完全さの弊害を最も小さくしてくれる政治形態だからである。

政府内選択と政府間選択という二重の選択構造は、政府という選択主体のみならず、個人、政党、地方政府、中央政府のすべての選択主体に見られる。個人は、様々な選択肢から、自分が最も良いと考えるものを選択するが、それが本当に良いとは限らず、間違った選択をして、市場で淘汰されるかもしれない。同じことは、政党という集合人格についても当てはまる。自分たちが最善と考える政策が、選挙において淘汰されるかもしれない。こうした地平内選択と地平間選択という二重の選択による淘汰は、地方政府や国家の選択にもフラクタルに繰り返され、それがそれぞれのレベルでの選択の間違いを是正する。

民主主義の弊害を指摘する人は、好んでアドルフ・ヒトラーの例を挙げる。たしかに、ヒトラー率いる ナチ党は、民主主義的選挙により合法的に権力を掌握した。ナチ党はユダヤ人を迫害し、その結果、ユダヤ人科学者が米国に亡命し、ドイツは核兵器の開発ができなくなった。ドイツ国民の選択は間違っていたが、その間違いは、第二次世界大戦で是正されることになった。中央政府という選択主体のレベルにおいては、政府内選択と政府間選択という二重の淘汰メカニズムがあり、民主主義国家が独裁国家となって政府内選択が機能しなくなっても、その間違った選択は政府間選択によって淘汰されるのである。

現在、世界には200以上の独立国があり、世界全体を支配する政府というものは存在しない。だから、地球規模では、ほぼ完全に地方分権(この場合は、正確には、地域主権)が実現している。だから、日本がこれからするべきことは、地方分権を進め、地方政府と中央政府の両方において、ハイブリッド民主主義の制度を導入することである。それによって、冒頭列挙した、間接民主主義と直接民主主義のデメリットを克服することができる。

6.1. 間接民主主義のデメリットの克服

  1. 有権者は人を選ぶことはできても、政策や法を選ぶことはできない。議員や首長は、公約を掲げて立候補するが、公約は必ずしも守られないし、また選挙前に公約していなかった政策を実行することもある。その結果、有権者は選挙に関心を失い、投票率は下がり、民主主義は形骸化する。→誰でも直接投票することができるので、有権者がこのような不満を持つことはない。
  2. 他方で、公約を愚直に守ることも、常に正しいとはかぎらない。選挙のときに必要で有益だった政策が、環境の変化によって不必要ないし有害になることがある。これは、選挙が数年に一度しか行われない間接民主主義では民意をリアルタイムで反映することができないことによる弊害である。→投票および投票委託登録の変更により、民意が政治にリアルタイムで反映される。
  3. 議員や大臣や首長の権力が大きいので、彼らと特定集団との癒着が起きて、特定集団への利益還元を目的とした政治、権力の私物化が行われやすくなる。換言するならば、政治家と個人的なコネがないサイレント・マジョリティが政治から疎外され、国民全体の利益を重視した公平な政治が行われにくい。→特定集団が議員や大臣や首長と癒着しても、彼らに最終的な決定権があるわけではないので、権力の私物化は起き難くなる。
  4. 権力を掌握するには過半数の議席が必要なため、政権交代を可能にするには、二大政党制が最適である。二大政党は、幅広い支持を得ようとするあまり、八方美人的になり、政策的な違いがなくなる。政権交代を可能にし、有権者の選択の自由を増やすはずの二大政党制が、逆に有権者の選択の自由を奪ってしまう。→政党は、政権を担当するために過半数の勢力となる必要はなく、たんに第一党になればよいので、独自性のある純度の高い政党が多数現われ、その結果、有権者の選択の自由が確保される。
  5. 間接民主主義では、権力が民意から離れて独裁的になることを防ぐために、国政では二院制、地方自治では二元代表制が採用されているが、両者の間で勢力のねじれが生じると、政治が決定能力を失って、機能不全に陥る。他方で、両者が同じ勢力に支配されると、二つある意味がなくなる。→議決は一回の投票で決まるので、二つの決定が対立して政治が停滞するということはない。

6.2. 直接民主主義のデメリットの克服

  1. 有権者全員に、すべての法案を審議する能力があるとはかぎらない。日本人の場合、識字率はほぼ100%であるが、全員が政治や経済に精通しているわけではない。少なくとも、判断能力には差がある。判断能力がある人間にもそうでない人間にも平等に同じ一票を与えると、全体の判断力が低下する。→判断力があると周囲から評価される議員ほど多くの票を投じるので、全体の判断力が低下するとはかぎらない。もちろん、間接民主主義の場合と同様に、間違った判断が可決されることもあるが、間違いはメタレベルの選択により淘汰される。
  2. 議論は、参加者の数が増えるほど困難になる。すべての有権者が立法に従事すると、法案が乱発され、すべてを審議することが、それどころか読むことすら不可能になる。審議に値しないような法案が大量に作られる一方、重要な法案が日の目を見ないまま埋もれてしまう可能性がある。→討論はネットを通じて行われる。法案の重要度は、賛同する議員の潜在的保有票の合計によって計算され、明示されるので、重要な法案ほど注目を集めるようになる。
  3. 間接民主主義では議員の数が少ないので、議員たちは豊富な政治資金を集めて政治活動に専念できる。直接民主主義では、一人当たりの政治資金の配分がほぼゼロとなり、政治活動はボランティアになる。有権者が政治活動に割くことができる時間はわずかになるので、政治が素人的になってしまう。→政治資金も潜在的保有票に応じて配分されるので、判断力があると周囲から評価される議員ほど、多くの時間を政治活動に費やすことができる。
  4. 直接民主主義では、間接民主主義よりも意見の集約が困難であるため、政策が一貫性を欠く可能性がある。リアルタイムに民意が反映されることは長所でもあるのだが、それは同時に、政策が時間とともに不安定に変動したり、矛盾する政策が同時に実行されたりするリスクを増やす。→同じ政党が最低一年間行政を担当するので、政策はある程度の一貫性を持つことができる。既存の法体系や政策との矛盾は、法案の審議の際に指摘されることであり、矛盾の発見自体が集合知に委ねられなければならない。
  5. 間接民主主義では、政治家は、自分の選挙区あるいは国民全体の利益を考えて政治を行うが、直接民主主義では、有権者たちが利己的な動機で投票することが多いので、多数派の利益は守られやすい反面、少数派の利益は無視されやすくなる。つまり、数の暴力が横行する。→地方分権/地域主権が行われていれば、少数派は、自分が多数派になることができる国/自治体へと移動できる。

最後にハイブリッド民主主義を実現するにはどうすればよいのかを考えてみたい。この制度をいきなり国政レベルで採用することはリスクが高いし、それだけに実現も難しい。だから、地方自治体で試験的に導入してみることから始めててみるべきだろう。直接民主主義は、議員の特権を完全に否定するので、その点でも実現は困難であるが、ハイブリッド民主主義はそうではないので、既存の議員を説得しやすい。もしもハイブリッド民主主義の導入が議会改革や行政改革に成果を上げるならば、他の自治体も採用するようになり、国政でも導入しようという機運が熟するようになるだろう。本稿で提案したハイブリッド民主主義を採用している国は存在しないが、日本のように、ネット普及率が高く、優れたリーダーが少ない反面、有権者全体の質が平均的に高い国は、世界に先駆けて、ハイブリッド民主主義を採用するべきだ。

付録

関連トピックとして、フォーラムから“民主主義はどうあるべきか”を転載します。

民主主義はどうあるべきか

投稿者:奥山光.投稿日時:2013年5月21日(火) 18:36.

投票による選考、いわゆる多数決と呼ぶ方式は、いくつもの矛盾と不完全性を有していることは当然ご存じだと思いますが、貴方の最近の論評には一つもこの点に触れずに提案をなさっているよう思われます。・・・と申しても私に良い代案や選りすぐれた方式が提案できるわけではないのですが・・・この様な選考方式が基本的なところで欠点を抱えている点に関しどのようにお考えなのでしょうか。

もっと詳しく書いてください

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年5月22日(水) 08:56.

「この様な選考方式が基本的なところで欠点を抱えている」とありますが、奥山さんは「欠点」でもって具体的にどのような弊害を念頭に置いているのでしょうか。もう少し詳しく書いてくれないと、答えようがありません。

Re: 民主主義はどうあるべきか

投稿者:奥山光.投稿日時:2013年5月30日(木) 09:30.

先生にご説明するのは烏滸がましいですが、例えばコンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)やボルダ(Jean-Charles, chevalier de Borda)のパラドックスとかアロー(Kenneth Joseph Arrow)の定理。

民主主義と呼ぶ方式は手続き論ですから、合意が有れば良いって考え方もあるのでしょうが、多数決と呼ばれる方式には無理があるわけですよね。単に手続き論だけを取り上げてしまえば、ナチだって民主的(正しい手続きにより選択された政治形態)であったわけですし・・・

具体的って一寸難しくなりますが、だれも好まない人が選択されたり、方法論や制度論で恣意的に選択を操作できるってことが可能だったり、選択が循環して決定できなかったりするわけですから・・・・

と言っても・・・繰り返しますが良い代案があるわけではありません・・・

コンドルセのパラドックスとアローの不可能性定理

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年5月30日(木) 13:36.

知らない読者も多いと思うので、まずはそのコンドルセのパラドックスの概略から始めましょう。

コンドルセのパラドックスとは、個々の投票者にははっきりとした選好順序があるにもかかわらず、投票者全体では選好順序が決まらないという投票の逆理のことです。簡単な例で説明しましょう。今、A, B, C という三人の投票者がいて、選択肢(議員候補でも法案でも何でもよい)には、X, Y, Z の三つがあり、これに対する三人の選好順位は以下のようなものであるとしましょう。

投票者/選択肢 選択肢 X 選択肢 Y 選択肢 Z
投票者 A 1番目 2番目 3番目
投票者 B 3番目 1番目 2番目
投票者 C 2番目 3番目 1番目

このとき、X を Y より選好している人が二人、Y を Z より選好している人が二人、Z を X より選好している人が二人いて、最も選好されている選択肢を一つだけ決めるということができません。世に所謂ボルダのパラドックスも同じような問題だと思えばよいでしょう。

こうした問題は、選好を順序としてしか表すことができないことで起きます。現在行われている投票では、どのようなタイプの投票であれ、投票者はせいぜい自分の選好順序しか表すことができません。一番一般的な投票では、一番目の選好しか表現できません。このような従来の選挙は、序数型投票と名付けることができます。私はこれに対して、基数型投票を提案したいと思います。つまり、どれが一番目で、どれが二番目といった序数で自分の評価を表すのではなくて、各選択肢に対する自分の評価の度合いを基数で表現するのです。例えば、投票者の各選択肢に対する評価が、-1 から +1 まで 0.1 単位で行えるとして、その結果が、以下のようになるとしましょう。

投票者/選択肢 選択肢 X 選択肢 Y 選択肢 Z
投票者 A 1.0 0.6 0.3
投票者 B -1.0 0 -0.7
投票者 C 0.8 -1.0 1.0

この場合、X が 0.8 で1番目、Z が 0.6 で2番目、Y が -0.4 で3番目となります。個別の選好順位は序数型投票の時と同じですが、基数型投票では全体の選好順序も決まります。もちろん、基数型投票でも、上位が同じ評価となることは理論的にはありえますが、投票者数が多い時には、そうなる確率は限りなくゼロに近いので、心配する必要はありません。万一、そうなった場合は、投票に参加していない議長が自分の判断で決めればよいことです。

アローの不可能性定理は複雑なので、ここで簡単に解説するというわけにはいきませんが、アローも序数型投票しか考えていないという点でコンドルセやボルダと同じです。 現代の経済学は、序数的効用を認めても、基数的効用は認めません。「効用を測ることはできるか」で問題提起したことですが、これは現代経済学の欠陥でしょう。要するに、経済学者が多数決の欠陥とか民主主義の欠陥とか言っているものの本質は、経済学者たちが前提としている序数的効用論の欠陥であり、この欠陥を直さずに多数決原理や民主主義を否定するのは本質を見誤った議論だと思います。