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総合学習はなぜ失敗したのか

2012年1月12日

「生きる力」が、私たちが獲得しなければならない最も重要な力であることは、言うまでもない。しかし、だからといって、学校教育において、体験学習を通じた「生きる力」の育成にもっと時間を割くべきだという結論にはならない。そうした考えは、人は学校以外で学習することはないという間違った前提に基づいている。[1]

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1. 問題提起

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2012年1月12日(木) 07:58.

総合的な学習の時間、通称、総合学習とは、「一つの教科等の枠に収まらない課題に取り組む学習活動を通して,各教科・科目等で身に付けた知識や技能等を相互に関連付け,学習や生活に生かし,それらが生徒の中で総合的に働くようにすること[2]」を狙った、ゆとり教育の目玉となるカリキュラムであった。しかし、内容が明確でないまま導入されたために、教育現場に混乱をもたらし、結局、ゆとり教育の見直しに伴って、平成23年度以降の新課程より、時間数が大幅に削減されることになった。

総合学習は、教育の理念としては間違っていない。私自身、伝統的な学問の垣根を取り払ったシステム論という学問を構築し、システムの改革という実践的な課題に応えようとしているのだから、総合学習が重要であるという点に関しては何の異論もない。問題は、総合学習を提唱している文部科学省、教師を育成している大学、そして総合学習が実践される公教育が、総合教育の理念からは程遠い官僚組織で、そういうところがいくら総合教育の理念を高唱しても、掛け声倒れに終わってしまうというところにある。

官僚組織は、縦割り行政と上意下達の権威主義を特徴とするピラミッド型組織で、個人が、セクション横断的に自由に考え、行動することが最も困難なシステムである。だから、本当に総合学習を実現しようとするならば、既存の官僚的なシステムを解体するところから始めなければならない。それをせずに、お題目だけの総合学習を旧態依然たる教科に接ぎ木しても、結実することなく枯れるだけである。

具体的に問題を指摘しよう。現行の高校のカリキュラムでは、文系・理系を問わず、数学で微積分を教えているにもかかわらず、物理では微積分を使ってはいけないことになっている。これはおかしなことではないか。物理では微積分を使わなければ、基本的な公式の証明すらできないのである。物理を学び始めた段階で、まだ微積分を習っていないというのであれば、物理の授業で微積分を基礎から教えたらよい。また、数学の授業では、微積分の応用として物理を教えれば、生徒は応用力を身につけることができる。

これ以外にも、歴史の授業において、史料を読むことで英語、古文、漢文などの語学の勉強をするとか、逆に、国語や英語の授業で歴史の勉強をするなど、既存の教科・科目で総合学習を実践することができる。そういうことをせずに、既存の教科・科目をタコツボ学問のままにして、総合的な学習の時間なる授業時間を新設しても、もう一つのタコツボ学問が新たに加わるだけである。このようなことで、総合学習の理念が実現するはずがない。

ゆとり教育における総合的な学習の時間が目指していることは、そうした教科・科目の学際的関連付けではなくて、体験学習を通じて、「生きる力」を育むことだと反論する人もいるだろう。これまで、高校の話をしてきたが、小中学校では、総合的な学習の時間は、体験学習の時間として活用されていることが多い。

しかし、この活用方法にも問題がある。従来、体験学習は、理科の実験・観察や社会見学というように、既存の教科における学習内容への肉付けとして行われてきたが、総合的な学習の時間の場合、裏付けとなる理論がないから、体験学習というよりも単なる体験に終始してしまう傾向があるからだ。

私たちが、体験学習を通じて「生きる力」を育んでいるのは事実である。そして「生きる力」こそ、私たちが獲得しなければならない最も重要な力であることは、言うまでもない。しかし、だからといって、学校教育において、体験学習を通じた「生きる力」の育成にもっと時間を割くべきだという結論にはならない。そうした考えは、人は学校以外で学習することはないという間違った前提に基づいている。

私たちは、一生を通じて、日常生活での成功や失敗から「生きる」力を身につける体験学習を行っている。それをわざわざ学校でする必要はない。小学校から大学までに受ける授業時間の合計が、生まれてから80歳までの覚醒時間の合計に占める割合はたったの2.5%程度にすぎない。97.5%の時間で学ぶことができることを2.5%の時間を消費して行うのはもったいないことである。2.5%の時間しか割り当てられない学校の授業では、学校でしかできないこと、すなわち体系的理論の修得を行うべきなのだ。体系的理論の個別的出来事への応用をする時間は、学校を卒業した後にたっぷりあるのだから、焦ることはない。

総合的な学習の時間は、カリキュラムをカスタマイズするためのゆとりの時間として使われることもある。小学校での英語教育や高校での受験対策としての小論文講座は、目標がはっきりしているし、学習効果も客観的に測定できる。だが、こうしたオプションのためのゆとりということであるならば、正課として必須化せずに、課外活動扱いでよいのではないだろうか。総合的な学習の時間であれ、クラブ活動であれ、素人に兼業で担当させるといったことは、教師サイドでは人材の浪費、生徒サイドでは時間の浪費をもたらすので、避けるべきである。

総合的な学習の時間は、内容があいまいなまま導入されたため、各学校での活用方法はばらばらであるが、いずれの場合でも、必要とは思えない。学校自由化という文脈で肯定的にとらえる人もいるが、自由化するのであれば、こうした中途半端なやり方ではなくて、もっと抜本的な方法、すなわち公教育の廃止という形で行うべきである。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年5月30日(木) 01:02.

大学のゼミで使ったものですがよろしければ。

0.はじめに

自己教育という概念は、教育学上、古くから多様な概念規定、理論として存在している。その上で、1965年、ユネスコ「成人教育推進国際委員会」において、「生涯教育」という概念が唱えられ、自己教育という概念の捉え直しが図られるようになった。私の問題意識は、自己教育において、方法・技術論としての「学び方学習」は重要なファクターであるのに、日本の教育現場、総合的な学習の時間の中で実践されることがほとんどないということである。そこで本稿は生涯教育の現代的位相を確認しながら、自己教育概念の再把握に努め、その根本的原因を考察していきたい。

1.生涯学習の潮流

アメリカの教育課程研究者であるタイラーは「知識爆発に対応する教育」と題する論文において、ユネスコに先立って「生涯学習」という言葉を使用している。この論文は、教科の構造、基本的概念の理解、探求の学習方法の重要性を説いており、ブルーナー革命を支持する教育内容の現代化の先駆けとも言える。

ユネスコ成人教育局成人教育課長であったラングランは、「全生涯にとって十分事足りる知識及び技術のひと荷物といった考え方は、消滅しつつある」とし、(1)人間存在を、全生涯を通じて、教育訓練を継続するのを助ける構造と方法を整えやすくすること、(2)各人を、彼が、いろいろな形態の自己教育によって、最大限に自己開発の固有の主体となり固有の手段となるよう装備させること、という2つの課題を掲示した。

ラングランを継承したジェルピは、「生涯教育の目的の一つは、すべての人々に人格の発達と社会での積極的な参加をうながす知識を与えることといえようが、他方、文化的・教育的促進活動の第一の目的は、各人に自己の位置の批判的な意識化をもたらすことであり、コミュニティの一員としての人格の発展のための諸手段を授けることである」として、「自己決定学習」の概念を提唱した。

これら二つの提起は、第三世界の社会実現構想に立脚するフレイレの「解放の教育学」や、現代社会における人間疎外を学校の教育の独占化にみるイリッチの「脱学校社会論」の流れを汲むものであり、社会変動の適応の手段としてではなく、教育の理想的な形態としている。さらにハッチンスらは「すべての人が、自分の要求に応じて、人生のあらゆる段階において、学習する機会をもてるように設計された社会」を目指す「学習社会論」を展開し、近代学校制度が前提としてきたフロント・エンド型教育システムからの脱却、垂直的統合を要請している。

また、生涯学習への変革期においては様々な教育論が展開されている。学校論においては、「職業や生活に直ちに役立つような知識や技能は人間を拘束するため、訓練による人的能力の開発ではなく、知性による人間性の教育を行うべき」としたハッチンス、「初等・中等学校を通じる一般教育の内容と方法の充実・発展を図るべき」とするエリオット、「学校教育後の学習習慣の形成を促し、一般的で、自由で、人間的な教育を行うべき」とするアドラーなどがいる。学校外教育においては、OECDのリカレント教育、「教育的事物等のための参考業務、技能交換、仲間選び、広い意味での教育者のための参考業務、の四つを相互連関させ、学習をネットワーク化すべき」とするイリッチ、「オープン・ユニバーシティは中央集権化する恐れがあるため、個人が学習の目標・内容・方法を設定できる権利を有するローカル・ネットワークを構想すべき」とするフレッセなどがいる。学校外教育に対しては、「エリート主義的で、能力格差を助長する」と批判するドーアや、「教育システムの変革には、社会システムそのものの変革が必要である」と主張するフレイレなどがおり、生涯学習における論争は慎重が期される。

2.生涯学習概念の把捉

本節では日本における生涯学習概念の把握のされ方を検討したい。「生涯教育」「生涯学習」「社会教育」は概念として混同される節がある。1986年臨教審において、「生涯学習体系化への移行」が宣揚されたことにより、「学校教育体系化」に代わって、「生涯教育(教育)-生涯学習(学習)」という対抗理念から「生涯学習(公共政策)-社会教育(学習権)」という対抗理念の意味変容がなされ、概念の整理が必要となっている。そこで、社会教育学界における典型的な議論を見ていきたい。

宮坂広作は「ニーズの多様化に合わせて、個人の生涯学習活動に対する援助は個人のニーズの充足に努めるべきである。生活課題と小集団学習は疎外が深化している現代において重要である」とする解放の生涯学習論的立場、市川昭午は「意図的・目的志向的な学習は体系化が可能だが、自然発生的・日常生活的な学習は体系化できない。体系化はフォーマル、ノンフォーマルな教育活動の内で行われるべきであって、インフォーマルな教育活動は含まない」とする限定された生涯学習体系化の立場、小川利夫は「公共政策不在の生涯学習論・社会教育論にはリアリティがない。教育と学習の矛盾点を究明する必要がある」とする社会問題学習推進の立場、である。

以上三つの見地から推測されるのは、社会教育学においては生涯学習が成人教育的視点で強く認識されているということである。そのため「生涯学習体系化」が「生涯管理社会」を招来するものとして危惧されている。これらの誤解が生じた理由として、政府が、①「自発性・心の豊かさ・生きがい」を強調したこと、②学校教育分野よりも社会教育分野を重視したこと、③社会教育局を生涯学習局に改組したように、意図的に社会教育を生涯教育として呼びかけてきたこと、が挙げられる。

それらに対して、佐藤晴雄ら「生涯学習体系化推進派」は、社会教育が現実から乖離しているとして、「個人的学習」に対する学習権保障を強調する。しかし、山田一隆は、教育の私事化を加担し、「学びの楽しみ」や「学び方」への配慮の弱さ、既存の社会教育行政の解体、が指摘できるとして、社会教育の現代的あり方を「まちづくり」をキーワードとする鈴木敏正の「主体形成の社会教育学」に求めている。

3.自己教育概念の系譜

第二節から分かるように、日本においては生涯学習の学校教育分野の捉え方が非常に弱い。昭和50年文部省教育白書では、整備されてきた学校教育外での青少年教育・成人向きの社会教育と学校との相互関連を生涯学習の観点からとらえ直そうとする動きがあり、昭和56年中教審『生涯教育』の答申では、国民の個人差、学習の目的・動機の多様さに対する、学校外での教育機能の社会的拡散を「学校教育解放の促進」によって防ごうとする一定の前進がある。そして、学校教育の役割については、「学習意欲の芽を育むことを主眼とし、一人一人が自主的に学び、活動する力を養う」としている。しかし、佐藤三郎は、「学校教育の質的転換としては、学校教育の解放だけでなく、小中高校の教育の内容と方法に関して根本的な再編成が求められる必要がある」と指摘する。学校教育分野の認識が浅かった原因として、私は、生涯学習概念の捉え方の問題よりもむしろ、日本における自己教育概念の歴史性に問題があるのではないかと考えている。そこで次に自己教育概念の変遷を見ていく。

自己教育概念の捉え方は多岐にわたるが、代表的な論を概括していく。堀尾輝久は、近代教育組織が「支配階級の自己教育」、「支配階級による労働者大衆の教化の組織」、「労働者の階級的自覚を前提とする労働者の自己教育」の三重構造からなっているとし、公教育政策の背景にある労働者階級の自己教育活動に注目した。堀尾によると、「労働者の自己教育」とは、「ブルジョワジーの治安対策的教育理念に対する教育内容・政策への批判、自らの手による教育の主体的実践」である。サイモンにあたっては、堀尾と論を類するが、こちらは「慈恵としての教育に反発し、自らを無知から解放すべく活動する運動」と規定する。このことから「自己教育」は、教育内容における真実性の探求活動と、自らの教育を自然権として追及することの正当性を主張して学習を重ねる労働者階級の活動、という二重の意味を含んでいることがわかる。岩本俊一はこれらの論を踏まえ、今日的問題に関わって被教育者における意志の発動の重要性を説いている。

次に日本での捉えられ方の変化をみていく。大槻宏樹は自己教育の歴史的展開を、戦前では「画一化された近代教育制度に対する自己決定能力の回復と創造」として、戦後では「資本主義主義社会に対する民衆や農民の共同自治的学習活動」として規定している。そして戦後において自己教育の意味が拡張していった理由を、中俣保志は「生活」のキーワードに見出している。戦前ではその関連を土田杏村が「生活環境を自律的学習活動により変革・再編成すること」として結び付け、戦後では持田栄一が「自己と国家・疎外された生活圏における教育の公共性」の問題として論じている。藤岡貞彦はそれらの論を踏まえたうえで、「民衆(自己)とは、地域開発・地域教育の問題を自身の生存権と住民自治を守り通すことで開発政策の方向性を修正させていく自治の主体であり、一方では自身の地域の教育計画にまで関わる教育の主体でもある」とし、集団的な自己教育論を説いている。そして以上のような「生活」と「自己」を結び付ける自己教育論は、鈴木によって、資本主義社会における「疎外・物象化」の展開を踏まえた相互教育論として把握されていく。中俣は現代的な課題として、自己が「成り行きまかせの客体」に陥らざるをえない状況を危惧し、公共性論を超えた自己の捉えなおしの必要性を指摘している。

4.自己教育と学び方学習

以上から、生涯学習と自己教育を連関させて教育学を俯瞰した場合、自己教育は社会教育学的把捉が強いという、第三節における問題提起に戻ることができる。その背景からか、生涯学習論争における「自己教育力」は、「生きる力」と拡大解釈され、具体的な方向性を失っているのではないだろうか。岩本敏郎は「自己教育が人間の教育理念としての全面発達に関係づけられていないのは奇異である」と指摘するが、それはもとより、私は有田和正が主張する「学習技能」習得の側面を重視したい。全面的な発達に関しては、教師の自己教育といった存在論的アプローチや、メジローの変容的学習論、ショーンの省察的学習論、フレイレの意識化の理論などによって発展を遂げている。問題はアリエスやフーコーなどの現代教育思想によって、学校教育や教育学が危惧に瀕している今、変動の最中にある教育の現場に対して何ができるかということである。理想と現実の乖離を結ぶものとしての教育・学習の理論が必要とされる。

その一つの方法が「学び方学習」である。学び方学習は現在、総合的な学習の中に組み込まれているが、全く機能していないのが実情である。それはなぜだろうか。学び方学習は生涯学習の起こりとともに、「学校は卒業後の学習法を教えよ」という理念のもと提起された。しかしこの理念は「自己教育」という曖昧な共通認識の中に集約され、日本ではそれまでの自己教育概念の捉えられ方から、社会教育的側面が強調されて吸収された。そして、学校教育的側面においても、デューイの経験主義的体験学習や、「生活」に基づいた問題解決学習の流れを継承してしまったのである。つまり、学習方法論として認識されるべきだった「学び方学習」は、「自己教育」のもと、「生活・集団・自律的・自発的」だけが捉えられてしまったのである。一方、アメリカでは科学教育の現代化に伴い、認知心理学分野のメタ認知の概念が導入され、学び方学習が具体的な方策となっていきている。ちなみにイギリスの大学近くの本屋には、「学び方学習のガイドブック」なるものが目立って陳列されているとのことである。

日本で学び方学習の必要性が指摘されたのは1996年の教育課程審議会においてである。そこでは「これからの学校教育においてはこれまでの知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育から、自ら学び自ら考える教育へと、その基調の転換を図り、子どもたちの個性を生かしながら、学び方や問題解決などの能力の育成を重視するとともに、実生活との関連を図った体験的な学習や、問題解決的な学習にじっくりとゆとりをもって取り組むことが重要である」とし、総合的な学習の時間の創設に至ったのである。総合的な学習の形骸化に対して、柴田義松は「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考える」という理念だけでは不十分であると指摘し、「前提として各教科の基礎的・基本的内容に関するより基礎的な学び方の指導が必要」と学習方法・技術論の必要性を説いている。

6.おわりに

以上、生涯学習、自己教育概念の日本における把握のされ方を頼りに、総合的な学習、学び方学習の機能不全の原因を論じてきた。総合的な学習の時間は、現場の教員から不評であり、否定的な意見が飛び交っている。しかし、「自己教育力」の要請は重要であり、クリティカルな抗弁はなされてこなかったのではないだろうか。本稿はその意味で、総合学習廃止論への加担ではなく、誤解を解き、新しい方向性の啓示を若干ながら行えたのではないかと思う。

さて、今回は生涯学習と自己教育から論じるに至ったが、問題性が認識されづらい背景として、「教育」と「学習」の分離をあげたい。「教育」=「学校教育」からの脱構築を目指す教育学において、近代的な教育方法論は近代市民社会の形成という役目を終え、目的を失ってしまった。「教授」に関しては、もはや技術論は必要ないのである。そこで私は、教育と学習の統合を提案したい。NPO学習学協会が提起している「学習学」という分野がある。学習方法の体系化を図ろうとする学問分野である。協会は教育学における学習者視点に立った技術論の不足を指摘している。教育心理学が受け持っている学習科学の成果を、実践レベルに引き落とす教育学分野が存在しないのである。多くの生徒が抱える「勉強の仕方がわからない」という重大な課題に全く対応できていないのが今の教育学なのである。「学習学」などはもっと古くから提起されていてもおかしくないと思うのだが、学習学としての先行研究は存在しない。学び方学習が日本に根付かない理由がこの点からも指摘できる。

このような事態に陥っているのは「教育」という言葉に対する潜在的先入観によるものだろう。一刻も早く「脱教育学」を目指し、教育と学習を統合した概念を創出すべきである。

「生きる力を育む」新学習指導要領の問題点
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年5月30日(木) 23:23.

例えば、英語の学び方は英語の授業で教えられるし、数学の学び方は数学の授業で教えられます。学び方一般を総合的な学習の時間で教えたとしても、話が抽象的になって、身につかないでしょう。そもそも、誰にでもどんな分野でも最適な学習方法というものはないと思います。図書館の使い方とか、インターネットでの調べ方とか、初歩的な内容なら万人共通と言えるでしょうが、そうした初歩的な内容なら、1時間もあれば話が終わるでしょう。

生涯学習という観点からすると、自ら学ぶことは重要ですが、学校を卒業してから自ら学ぼうとしない人は、学び方がわからないから学ばないのではなくて、学ぶ必要性を感じないから学ばないというのが現状です。裁判に巻き込まれるとか、失業して転職を試みるとか、必要に迫られれば、人は自ら学ぼうとするものです。学び方も、その都度その分野に適用できる自分に合った方法を試せばよいのであって、学校教育で学び方一般を教える必要はないと思います。本屋に行けば「××のしかた」といったハウツー本は、いくらでもあります。

ところで、本題の「総合的な学習の時間」ですが、学習指導要領の改訂に伴って、「総合的な学習の時間のねらいとして、各教科、道徳及び特別活動で身に付けた知識や技能等を相互に関連付け、学習や生活において生かし、それらが総合的に働くようにすることを加えて、規定した」とか、「学校図書館の活用、他の学校との連携、各種社会教育施設や社会教育関係団体等との連携、地域の教材や学習環境の積極的な活用などについて工夫する必要があることを明確にした」とかいった変更があった[3]ものの、文科省の位置付けは相変わらず曖昧なままです。

文科省は、ゆとりの教育の理念は放棄したものの、「生きる力を育む」という理念は放棄していません。文科省の新学習指導要領のページには、以下のようなメッセージが掲げられています。

新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。

これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。

次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。そのような思いで、新しい学習指導要領を定めました。

「生きる力」を育むためには、学校だけではなく、ご家庭や地域など社会全体で子どもたちの教育に取り組むことが大切です。[4]

新学習指導要領には、「生きる力」を重視した結果と思われる改訂が実際に加えられています。例えば、高校の数学では、それまで選択分野で、かつほとんど誰も履修しなかった統計が、基礎的部分に限定されるとはいえ、必須分野になりました。『統計学が最強の学問である』というベストセラーとなった本のタイトルにあるように、少なくとも、数学の中では、統計学は最も多くの人にとって役に立つ分野であるということができるでしょう。

しかし私は、現在の旧態依然たる教育制度のもとで統計を重視する新学習指導要領の方針には賛成できません。コンピュータおよびRのような統計プログラミング言語を用いて統計学的なデータ分析を行うことができるようになれば、それは確かに「生きる力」になりますが、多くの高校でやっているように、紙と鉛筆、黒板とチョークを用いて統計学を教えても、畳水練にしかならないからです。もしも本当に高校生に生きる力として統計学を身につけさせたいのであれば、大学入試でタブレットパソコンを配布し、与えらえた統計分析の課題がこなせるかどうかを試す試験を課すべきです。そうしたことをせずに、紙と鉛筆でレベルの低い統計を教えたところで、「生きる力を育む」ことにはならないでしょう。

Re: 「生きる力を育む」新学習指導要領の問題点
投稿者:kkk.投稿日時:2013年5月31日(金) 00:16.

永井俊哉 さんが書きました:

例えば、英語の学び方は英語の授業で教えられるし、数学の学び方は数学の授業で教えられます。学び方一般を総合的な学習の時間で教えたとしても、話が抽象的になって、身につかないでしょう。そもそも、誰にでもどんな分野でも最適な学習方法というものはないと思います。図書館の使い方とか、インターネットでの調べ方とか、初歩的な内容なら万人共通と言えるでしょうが、そうした初歩的な内容なら、1時間もあれば話が終わるでしょう。

教えられますが、教えられないのです。カリキュラム規定外であり、授業に組み込めません。その点を柴田義松は強く批判しています。また、確かに万人にとって最適な学習方法というものはありませんが、受験指導特化の教育体制のもとでは「記憶の効率性」が非常に重要なポイントであり、躓いた場合、学習意欲の低下という悪循環に陥ります。永井さんのように、初めから学問に対して主体性を備えている方は稀であり、文化的再生産の壁は厚いと言わざるをえません。

永井俊哉 さんが書きました:

生涯学習という観点からすると、自ら学ぶことは重要ですが、学校を卒業してから自ら学ぼうとしない人は、学び方がわからないから学ばないのではなくて、学ぶ必要性を感じないから学ばないというのが現状です。裁判に巻き込まれるとか、失業して転職を試みるとか、必要に迫られれば、人は自ら学ぼうとするものです。学び方も、その都度その分野に適用できる自分に合った方法を試せばよいのであって、学校教育で学び方一般を教える必要はないと思います。本屋に行けば「××のしかた」といったハウツー本は、いくらでもあります。

上記のように、一度でも躓いた場合、学問に対してアレルギー体質を持ってしまうのが今の学校教育であり、ハウツー本の類さえ応用する能力を育めないというのが現状です。学問に対して意欲があったとしても、試験では別の能力が要されるため、生徒は混迷してしまいます。

永井俊哉 さんが書きました:

新学習指導要領には、「生きる力」を重視した結果と思われる改訂が実際に加えられています。

加えられていますが、前述を読んでもらった通り、「生きる力」は日本では曖昧な理念として導入されてしまったのです。プラグマティズム的な解釈はその中の一つでしかありません。「生きる力」が生涯学習と同時に語られるのは、先進国におけるニヒリズムの問題が強いと私は踏んでいます。

「自主的」学習方法を自主的でない方法で教育するべきなのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年5月31日(金) 16:52.

kkk さんが書きました:

教えられますが、教えられないのです。カリキュラム規定外であり、授業に組み込めません。

現場の教師は、文科省が作成したカリキュラムに必ずしも束縛されません。カリキュラムに入っていようが、いまいが、それとは無関係に、現場の教師は、学び方を教えたり、教えなかったりします。ちなみに、新学習指導要領には、「生きる力を育む」というキャッチフレーズを意識した内容が盛り込まれています。例えば、新学習指導要領は、中学校の理科の目標を以下のように定めています(太字は引用者)。

自然の事物・現象に進んでかかわり,目的意識をもって観察,実験などを行い,科学的に探究する能力の基礎と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を深め,科学的な見方や考え方を養う。[5]

高等学校学習指導要領」でも、「…に関する探究活動を行い,学習内容の理解を深めるとともに,物理学的(化学的、生物学的…)に探究する能力を高めること」といった文言が各分野ごとに記されています。だから文科省は、生徒がたんに受動的に知識を学ぶだけでなく、自ら主体的に探究する能力を高めるカリキュラムを作っているということができます。

では、新学習指導要領がこうした方針を打ち出したことで、教育の現場が大きく変わるかと言えば、ほとんど何も変わらないだろうと予想されます。どういう授業をするかは現場の教師の裁量に任せられており、ほとんどの教師は、昔ながらの授業をやっています。

これは私の個人的な体験ですが、私が教わった学校の先生は、授業で勉強の方法に関してそれなりにアドバイスをしていました。でも、学校の先生が推奨する勉強方法は、古典的で、建前論的であまり役には立ちませんでした。むしろ民間で流布している方法の方が、学力を向上させるのに効果がありました(もちろん、効果があるからこそ、金を払ってまで本を買う人がいるのでしょう)。

kkk さんが書きました:

一度でも躓いた場合、学問に対してアレルギー体質を持ってしまうのが今の学校教育であり、ハウツー本の類さえ応用する能力を育めないというのが現状です。

市中に出回っているハウツー本の大半は、小学校レベルの知性があれば理解し、実践できるような内容です。海外でよくみられるように、文盲が少ならからず存在するような社会では、そのような情報にすらアクセスできないので、学習能力の格差が拡大するという問題が深刻化しますが、文盲がほとんどいない日本では、そういうことはありません。

繰り返しになりますが、日本で自主的に学習しない人がいるのは、能力の問題ではなくて必要の問題です。能力が高くても、現状で満足しているような人は、趣味的な研究を除けば、自ら学ぼうとはしないし、能力が低くても、勉強の必要性を感じる人は、自分の能力に合った方法で、勉強するものです。だから、学校教育で、目的意識の希薄な生徒に対して、一般的な「自主的」学習方法を自主的でない方法で教育するという提案には賛成しかねます。

Re: 「自主的」学習方法を自主的でない方法で教育するべきなのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年5月31日(金) 19:27.

永井俊哉 さんが書きました:

繰り返しになりますが、日本で自主的に学習しない人がいるのは、能力の問題ではなくて必要の問題です。能力が高くても、現状で満足しているような人は、趣味的な研究を除けば、自ら学ぼうとはしないし、能力が低くても、勉強の必要性を感じる人は、自分の能力に合った方法で、勉強するものです。だから、学校教育で、目的意識の希薄な生徒に対して、一般的な「自主的」学習方法を自主的でない方法で教育するという提案には賛成しかねます。

「能力の問題ではなく必要の問題」という主張に同意しかねます。例えばセンター試験で高得点が「必要」ならば、それなりの効率的方法が求められます。しかし、一切指導なしの独学だけではなかなか難しいでしょう。「学問」と「勉強」が乖離している教育体制の下では、「自主的」学習は迂遠な方法となり、必要の問題以前に能力の問題が立ち塞がるのです。

私教育での創意工夫と学習者の自由選択
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月01日(土) 10:50.

kkk さんが書きました:

「能力の問題ではなく必要の問題」という主張に同意しかねます。例えばセンター試験で高得点が「必要」ならば、それなりの効率的方法が求められます。しかし、一切指導なしの独学だけではなかなか難しいでしょう。

ええ、だからこそ、塾とか予備校とかでは、センター試験で高得点を取るための効率的方法が教えられています。また書店でも、そうした類のハウツー本が多数売られています。津田秀樹の『センター試験マル秘裏ワザ大全』のような、私には邪道に思える際どい指南本もありますが、どれが良いと思うかは人それぞれでしょう。最適な勉強方法は人それぞれだから、公教育で画一的な勉強方法を押し付けるよりも、私教育での創意工夫と学習者の自由選択に任せた方がよいのではないですか。

Re: 私教育での創意工夫と学習者の自由選択
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月01日(土) 10:59.

永井俊哉 さんが書きました:

ええ、だからこそ、塾とか予備校とかでは、センター試験で高得点を取るための効率的方法が教えられています。また書店でも、そうした類のハウツー本が多数売られています。津田秀樹の『センター試験マル秘裏ワザ大全』のような、私には邪道に思える際どい指南本もありますが、どれが良いと思うかは人それぞれでしょう。最適な勉強方法は人それぞれだから、公教育で画一的な勉強方法を押し付けるよりも、私教育での創意工夫と学習者の自由選択に任せた方がよいのではないですか。

それは文化的再生産の問題を無視するということでしょうか。塾や予備校が必要とされるアジア諸国の教育制度は、世界的に見て異質なのです。また、「学び方学習」は公教育外での創意工夫力を育むことを目的としているため、「画一的」という指摘は納得できません。

公教育の限界
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月01日(土) 17:21.

kkk さんが書きました:

それは文化的再生産の問題を無視するということでしょうか。

「文化的再生産の問題」というのは、たぶん「文化的格差の再生産の問題」のことだろうと推測されますが、これに関しては「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法」の第4節「均質的平等に対する根源的批判」をご覧ください。

kkk さんが書きました:

塾や予備校が必要とされるアジア諸国の教育制度は、世界的に見て異質なのです。

異質だから是正するべきだということですか。日本の教育水準は世界的には高いのだから、日本の良さを生かし、世界一を目指して、どの国も採用していないような教育制度にチャレンジするべきではないでしょうか。

kkk さんが書きました:

「学び方学習」は公教育外での創意工夫力を育むことを目的としているため、「画一的」という指摘は納得できません。

公教育外で自発的に学ぶ方法を公教育で非自発的・強制的に教える、画一的ではない学習方法を画一的に提供するということですか。矛盾とは言いませんが、かなり無理があると思います。教育における公と私の役割分担についてもっと抜本的に考え直してみてはいかがでしょうか。私は、学習方法の教育のみならず、教育一般を政府が提供するべきではないと考えています。それらは民間の創意工夫に委ねるべきであり、政府の役割は、学習の目標の設定とその評価に限定されるべきだと考えています。これに関しては、「教育改革はどうあるべきか」や「公教育は必要か」などを参照してください。

Re: 公教育の限界
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月01日(土) 21:18.

「均質的平等に対する根源的批判」に関して言えば、私は刈谷の意見に賛成です。学習方法の良し悪しは、ある程度普遍・効率的方法があるでしょう。試験で要される能力は、テクニック的要素が非常に強いからです。よって、選択の自由から社会の多様性を確保しようとする永井さんの主張は成り立ちません。永井さんの主張は、恵まれた立場からの主観的私見にしか思えません。現場の状況をどのくらい把握してらっしゃるのかは分かりませんが。

教育指数はリテラシー換算なのであまり意味があるとは思えません。「世界一」とは何を目指し、誰が望んでいることなのでしょうか。また、現在の教育哲学が行き詰っている状況はご存知でしょうか。

「教育改革はどうあるべきか」「公教育は必要か」を拝見しましたが、やはり教育の方向性が定まっていないように思います。永井さんの人間観である「多様性」が反映された意見だと存じますが、「多様性」自体の価値判断が妥当だと思えません。個人的にドゥルーズの差異概念と同質な気がしますが、私は賛同できません。

市場原理は至上原理である
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月02日(日) 12:32.

kkk さんが書きました:

私は刈谷の意見に賛成です。学習方法の良し悪しは、ある程度普遍・効率的方法があるでしょう。

普遍・効率的方法があると思っているのなら、なぜ刈谷さんの意見に賛成するのですか。もしも普遍・効率的方法があるなら、みんながそれを真似するようになるがゆえに、それはありきたりの方法となり、正しい学習方法を見つける特別な識別能力が不要となります。

親の学力格差が子に受け継がれるという一般的な傾向は、たしかにありますが、それは、親が特殊な勉強方法を知っていて、それをわが子にだけ伝授するからというよりも、むしろ親から子に受け継がれる遺伝子のおかげではないでしょうか。「才能は遺伝するのか、本当に後天的な努力だけが結果を決めるのか、だとしたらその努力もまた才能では無いのか」でも話題となったことですが、理解力や暗記力といった知力のみならず、継続的な学習を続けるのに必要な集中力、真面目さ、頑固さといった性格まで、ある程度の確率で遺伝します。だから、総合的な学習の時間で一般的な勉強方法を教えたからといって、文化的格差の再生産がなくなることはありません。

文化的格差の再生産がなくなることがないからといって、悲観することはありません。重要なことは、格差をうまく利用することです。学力はないけれども商才があって成功する商売人もいれば、博士課程まで進学してホームレスになる人もいることからもわかるように、学力だけで社会的な成功が決まることはありません。

kkk さんが書きました:

「世界一」とは何を目指し、誰が望んでいることなのでしょうか。

教育の役割は、夢をかなえる手段を提供することであり、それを望まないというのは概念の自己矛盾です。そして、世界一を目指すというのは、自由に選べる手段の提供力を世界一にするということです。

kkk さんが書きました:

現在の教育哲学が行き詰っている状況はご存知でしょうか。

公教育を前提とした現在の教育哲学が行き詰っている状況は承知していますし、だからこそ公教育の廃止を訴えているのです。

kkk さんが書きました:

教育の方向性が定まっていないように思います。

その通り。私が提案している教育への市場原理の導入は、特定の教育方法を推奨するものではありません。従来の教育学の間違いは、特定の教育方法を絶対視し、それを公教育という枠組みで画一的に実施しようとしたところにあるのではないでしょうか。教育市場をフリーマーケットにすれば、間違った学習方法は淘汰されます。そして、それが有限な認識能力しか持たない人間が作ることができる最も理想的なシステムだと思います。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:あきかぜ.投稿日時:2013年6月02日(日) 17:45.

kkkさんの主張はわかりにくいです。

こどもの将来よりも教育ムラの将来を憂いているように見える。

私は企業の現場で働き、家ではこどもの教育問題に直面しているものです。

そうした私が拝読させていただくと、kkkさんの話は、やや世間知らずの、教育学と教育業界の内側からの視点と主張に感じられます。
こうした方が日本の教育を部分的にせよリードしている可能性を思うと、心配になります。

教育現場に御自分がおられ、そこでの情報が豊富であることは、kkkさんの主張には、なんら貢献していません。
むしろ狭い教育ムラのタコツボ発想と利権にとらわれ、一般社会の情報や視点が足りない人なのではないか、という印象を持ちます。

永井さんは学者ですから、その成果はその理論であり、そこで評価されるべきだと思います。そして素晴らしい成果だと思います。
しかしkkkさんが教育者であるなら、その成果は、教育を受けた人間の満足で評価されるべきでしょう。

そこで思うのですが、kkkさんは、そんなに教育者としてご自分の主張を世間に聞いてほしいのならば、
教育についてネット上で熱く語ったり論文を発表する前に、
個人でも企業人としてでもいいから、市場に、世間に、顧客に直面して働いてみてはいかがですか。
教育の結果、生徒や学習者の大部分は、そうして生きていくわけですから。

すべての教育者にそこまで求めるのは現実的ではないかもしれませんが、kkkさんのように現状の教育を変えようとしている人には求めたい。

そうして評価され成功すれば、多くの人がkkkさんの話に期待し、耳を傾けるでしょう。
むしろ、どうすればそんなに成功できるのか教えてくれと、頼まれるようになるでしょう。論文も引っ張りだこになるでしょう。

本来、先生というのは、そういう人だと思います。
つまり理想的には、先生とは、生徒や学習者が将来なりたい姿をすでに実現した、あこがれの人です。

生徒の学習能力をどうこう言う前に、まず、
生徒からみて、kkkさんはあこがれの人ですか?
つまりkkkさんの能力実績は大丈夫ですか?

企業内教育(いわゆる企業内研修)では、高い成果を出して実務家として成功した人間だけが、研修講師としても成功します。
というよりも、実務での実績があって、部分的にせよあこがれのプロでなければ、受講生が集まらない。
人気が無ければ、講師としてはクビです。
この厳しさを、学校の先生がどの程度持っているか疑問です。

kkkさんは海で泳いだことのない、畳の上での水泳指導の論客に見えてしまうのです。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:あきかぜ.投稿日時:2013年6月02日(日) 18:00.

書き忘れました。

kkkさん自身が実務家として成功していなくても、
kkkさんの教え子が、どんどん成功すれば、同様に多くの人がkkkさんの話に耳を傾けることになるでしょう。

どちらにしても、まずkkkさんが成功しないと、自分のこどもを教えてもらいたいとはあまり思わないし、kkkさんの教育理論にも興味を持ちにくいですね。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月02日(日) 23:47.

まず、あきかぜさんの私に対する意見ですが、的外れです。確かに教育の分野では理論と実践のバランスが求められますが、ここでの議論の論点はその点ではありません。私が何かしら公の場で証明してから提議しなければならないのなら、ネット上での議論など無意味です。そんなことは目的としていません。そして、私が主張していることは私独自の意見ではなく、前述で示した通り、社会教育学者や教授学者の意見をまとめたものです。さらに人格批判的になりますが、あきかぜさんは正直、非常に現代人的で生活世界に埋没してるように思います。「ある程度快適な生活を送り、適当に死ぬ」というプラグマティズム的な死生観で満足ならば私は何も言いません。「成功」してどうするのでしょうか。どうせ死んでしまいます。現代的ニヒリズムに関して多少なりとも疑問を感じたことがないのなら、私の言ってることは理解していただけるとは思いませんが。現場の教師などははっきり言ってハイデガー的な世人に頽落している方が多いと思いますね。「尊敬される教師」というのは現在の教育体制の下では受験指導が上手い方だと思いますが、私は感心しません。結局は人生観の問題ですが、私が危惧していることは学問が目的的になり下がり、自己存在に関して何の疑問も持たず一生を終えてしまう大衆社会が繁栄することです。

次に永井さんの私に対する意見ですが、「独学だけでは限界がある」と私は前述しました。正しい学習方法を見つける特別な識別能力は不要ではありません。例えば塾でしか配布されない問題集であったり。文化的再生産の問題というのは真似ができないから存在するのですよね。そして、私は社会的成功に価値を置く考え方は矮小な人間観だと思います。
永井さんの仰る「夢」というのは、ニーチェ的な「力」に読み替えてよろしいのでしょうか。それならば能動的ニヒリズムの受容を前提とすることになりますが、中島義道が指摘するようにそれは自己欺瞞でしかありません。「衣食住が満たされた上で何を成すべきか」が先進国のニヒリズムの問題であり、「夢を持ってそれに向かって努力をすればよい」というのは、過度に楽観的な死生観だと思います。
また、公教育を廃止するのならば受験システム自体を変革しなければ意味がありません。外面上、教育を自由市場に解放しても教育のベクトルが受験システムに集約されるため、画一的な性質は変わらないだろうと思います。そして日本の受験システムは歴史的経緯の特殊性から、改革は現実的に不可能であり、不動です。

人生の究極目的は何か
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月03日(月) 14:02.

あきかぜ さんが書きました:

教育現場に御自分がおられ、そこでの情報が豊富であることは、kkkさんの主張には、なんら貢献していません。

あまりプライベートなことを聞くことは良くないとは思いますが、kkk さんは、どういう立ち位置の方なのでしょうか。私は、どこかの大学の教育学部に所属する大学生もしくは大学院生で、ゼミで提出したレポートをここに投稿し、一般から意見を募ったと理解していたのですが、そういう理解でよろしいでしょうか。

kkk さんが書きました:

「独学だけでは限界がある」と私は前述しました。正しい学習方法を見つける特別な識別能力は不要ではありません。例えば塾でしか配布されない問題集であったり。文化的再生産の問題というのは真似ができないから存在するのですよね。

「もしも普遍・効率的方法があるなら、みんながそれを真似するようになるがゆえに、それはありきたりの方法となり、正しい学習方法を見つける特別な識別能力が不要となります」というのは、背理法で、正しい学習方法を見つける特別な識別能力が必要なら、「普遍・効率的方法がある」という前提が棄却されます。また、私は公教育の廃止を提案しているのであって、独学を推奨しているのではありません。独学で目的を達成できる自信があるなら別ですが、そうでないなら、自分が最適と考える私教育を受けたらよいでしょう。

kkk さんが書きました:

私は社会的成功に価値を置く考え方は矮小な人間観だと思います。

「教育の役割は、夢をかなえる手段を提供すること」と書きましたが、「夢」というのは任意の目的であり、社会的成功といった特定の目的にを念頭に置いたものではありません。私たちは、多様な目的を目指して生きていますが、そうした目的は、実は高次の目的の手段であり、手段から目的を探っていくと、究極の目的、すなわち生命の保存にたどり着きます。個人が死んでも人類という種は生き続けるし、人類という種が消滅しても、地球の生命は何らかの形で生き続けるでしょう。個人が利己的に振る舞うのも、実は生命全体が存続するための手段です。教育をこの究極目的で基礎付けるなら、それは kkk さんが指摘するようなニヒリズムを帰結しません。

kkk さんが書きました:

外面上、教育を自由市場に解放しても教育のベクトルが受験システムに集約されるため、画一的な性質は変わらないだろうと思います。そして日本の受験システムは歴史的経緯の特殊性から、改革は現実的に不可能であり、不動です。

私の提案では、教育の成果を確認する試験やコンテストの種類が現在よりも豊富になり、かつその成果を上げるための手段提供の種類も今よりも豊富になるので、その意味では現状よりも多様性を肯定しているし、画一的ではありません。kkk さんが受験システムを批判する理由がはっきりしないのですが、教育の成果を第三者が評価することは不要だと言いたいのでしょうか。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月03日(月) 16:43.

私の立場としては議論の参考になるかと思い、資料を投稿したまでです。積極的に議論に参加するつもりはありませんでしたが、資料の意図が伝わらないようなので提言致しました。

永井俊哉 さんが書きました:

「もしも普遍・効率的方法があるなら、みんながそれを真似するようになるがゆえに、それはありきたりの方法となり、正しい学習方法を見つける特別な識別能力が不要となります」

すみません。これは私の理解が足りませんでした。しかし、私が言いたいことは「公教育を廃止して、私教育に開放しても無駄」ということです。また、高度な私教育を受けれない子供は、独学でやらざるを得ない状況になりますよね。そのことに対する指摘です。

「人生の究極目的」などは有限的存在が知ることができるとは思いませんが、生命保存はエントロピー増加に貢献しているだけでしょう。地球や宇宙の消滅を前提とするなら、構造的に捉えた上でそれを人間が目的化するのは滑稽です。ただ混沌と暴走しているだけなのかも知れませんし、私の意見としては安易に肯定することへの警告です。ニーチェ以降の思想は肯定的傾向が強いですが、それはショーペンハウアー、ニーチェの仏教理解の誤謬から来ているような気がします。私は個人的にエックハルトの「離脱」や、ブッダの「解脱」を神秘主義として排さず、哲学的に捉えなおそうと試みています。

永井俊哉 さんが書きました:

教育の成果を第三者が評価することは不要だと言いたいのでしょうか。

その通りです。解答が予め与えられている形式は、学問に対して何の寄与もありません。ただ便宜的に選考が必要だから設けられているだけであり、目的的化することは本末転倒だと思います。それは日本が教育の目的を労働者育成に焦点を当ててきた結果ですが、私はくだらないと思っています。

生命の維持と教育が果たす役割
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月04日(火) 19:11.

kkk さんが書きました:

高度な私教育を受けれない子供は、独学でやらざるを得ない状況になりますよね。

私教育は、その多様性ゆえに、より多様な生徒に対応できます。授業が高度で難しすぎるなら、もっと易しく教えてくれるところを探せばよいのです。カリキュラムも年齢により固定されていないので、得意な分野は早く進み、苦手な分野はじっくり時間をかけて消化するということもできます。長期の入院で、学校に行けないという場合でも、私教育なら、家庭教師を派遣するなどして対応することができるでしょう。これに対して、公教育は、画一的かつ硬直的で、これに適応できない生徒は、税金が投入された教育機会から排除されます。

小・中学校における、不登校児童生徒数は約11万7千人で、不登校児童生徒の割合は1.12%です。高等学校における、不登校生徒数は約5万6千人で、不登校生徒の割合は1.68%、中途退学者数は約5万4千人で、中途退学者の割合は1.6%です[6]。こうした数字となって表れてきませんが、授業についていけないけれども、世間体を気にして、意味もなく登校している生徒も数多く存在します。「独学でやらざるを得ない状況」は、むしろ公教育のみの場合において発生しやすいのです。

kkk さんが書きました:

「人生の究極目的」などは有限的存在が知ることができるとは思いませんが、生命保存はエントロピー増加に貢献しているだけでしょう。

生命を維持するということは、生命システムのエントロピーを低く抑えるということです。

kkk さんが書きました:

地球や宇宙の消滅を前提とするなら、構造的に捉えた上でそれを人間が目的化するのは滑稽です。

地球に生命が住むことができなくなるのは10億年以上後のことで、それまでに地球の生命体は他の惑星に移住するでしょう。宇宙の最後については諸説があって、何が真理かまだ分かりません。少し前までは、ビッグクランチで終わると言われ、最近では、ビッグリップが起きると言われています。これからもいろいろな説が出てくることでしょうから、そういうことを心配するだけ杞憂というものです。

kkk さんが書きました:

ただ混沌と暴走しているだけなのかも知れませんし、私の意見としては安易に肯定することへの警告です。

環境が混沌と暴走しているからこそ、システムのエントロピーを低く維持しなければならないのです。

kkk さんが書きました:

ニーチェ以降の思想は肯定的傾向が強いですが、それはショーペンハウアー、ニーチェの仏教理解の誤謬から来ているような気がします。私は個人的にエックハルトの「離脱」や、ブッダの「解脱」を神秘主義として排さず、哲学的に捉えなおそうと試みています。

仏教の本来の意味での「解脱」は社会の構成員全員には実践できません。なぜなら、もしもみんなが解脱し、出家するなら、お布施を提供してくれる人がいなくなるからです。

kkk さんが書きました:

永井俊哉 さんが書きました:

教育の成果を第三者が評価することは不要だと言いたいのでしょうか。

その通りです。解答が予め与えられている形式は、学問に対して何の寄与もありません。ただ便宜的に選考が必要だから設けられているだけであり、目的的化することは本末転倒だと思います。それは日本が教育の目的を労働者育成に焦点を当ててきた結果ですが、私はくだらないと思っています。

例えば、現代の大学入試における小論文のように、解答が予め与えられていない形式の試験もあるのですが、そのような場合でも、小論文教育の成果を第三者が評価することは可能です。それでも第三者による教育の成果の評価は不要だということでしょうか。政府は、国と地方合わせて20兆円近い教育関連の支出を行っています[7]。巨額の税金がつぎ込まれているのだから、この金が有効に使われているかどうかをチェックすることが必要です。そうは考えず、ちょうど仏教信者が御利益の成果をチェックすることなく盲信的にお寺にお布施を渡すように、国民は公教育の成果をチェックすることなく盲信的に税金を納めればよいということでしょうか。労働者育成がくだらないと言いますが、労働者を育成しないで「解脱の哲学」を教えていると税収が減るから、公教育も成り立たなくなるという仏教と同じジレンマに陥ると思いませんか。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月04日(火) 20:17.

公教育は確かに問題点が多いのですが、集団生活の媒介となる“何か”が必要だという意見があるのも事実です。完全に私教育性に移行した場合、地域社会がそれを担えるのかというと難しいのではないでしょうか。また、フリースクールのようなものが一般化した場合、管理・管轄の問題が絡んでくるため、公教育と大差なくなると予想されます。適応できない生徒のサポートを充実化するほうが現実的です。そして何度も申しあげているように、受験システム自体が問題を抱えているため、画一的な性格は変わらないでしょう。

生命はネゲントロピーにより生体を維持しますが、存在自体が差異としてエントロピーを増加させるという意味です。ポストモダンでは熱力学的な意味でなく、現象面から拡張させて用いられるので、それに倣いました。そのためシステムのエントロピーを低くするのも、実在界に還元すると増加になります。

地球や宇宙の消滅を杞憂とするなら、哲学は不要でしょう。そしてあまりに人間中心主義的だと思います。人間が繁栄することは本当に重要なのでしょうか。歴史的に見ても悲観的な思想家のほうが圧倒的に多いですが、永井さんがなぜそこまで楽観的な姿勢を固持するのか分かりません。私の個人的心理状態としては、トルストイが人類発展を信じている作家仲間に疑念を抱いていたのと同じようなものですね。

「解脱」に関しては個人的な例を言ったまでで、そこから楽観的な人類発展観を批判的に捉えられるならば十分です。

「小論文に解答がない」という判断が誤っています。能力が対策力に還元されるならば何も変わりません。仏教のジレンマに関しては上述の通りです。私は労働者の育成をくだらないと言っているのではなく、画一的試験によって選別しようとするのがくだらないと言っているのです。

自分の頭で徹底的に考えることが哲学だ
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月05日(水) 13:06.

kkk さんが書きました:

公教育は確かに問題点が多いのですが、集団生活の媒介となる“何か”が必要だという意見があるのも事実です。

もし集団生活が教育に果たす役割が大きいと考えるなら、それを重視する私教育を選べばよいのです。今の教育では、集団生活と言っても九時から三時ぐらいまでですが、合宿制度を取り入れ、生活指導や道徳教育を含めてトータルに教育するという私教育のオプションも出てくるでしょう。

kkk さんが書きました:

完全に私教育性に移行した場合、地域社会がそれを担えるのかというと難しいのではないでしょうか。

私教育の担い手は企業であって、地域社会ではありません。

kkk さんが書きました:

フリースクールのようなものが一般化した場合、管理・管轄の問題が絡んでくるため、公教育と大差なくなると予想されます。

管理・管轄の問題とは何ですか。あるいは、管理・管轄自体が悪だと思っているのですか。

kkk さんが書きました:

受験システム自体が問題を抱えているため、画一的な性格は変わらないでしょう。

受験システムの問題とは何ですか。公教育は多くの問題を抱えているにもかかわらず、受験システムの機能だけは世間で高く評価されてきました。ある経営者が「我々は東大の教育は信用していないが、東大の入試は信用している」というようなことを言っていましたが、これが世間の評価なのです。一流企業が一流大学の学生を採用しようとするのは、一流大学に一流の教授がいて、優れた教育を行っているからではありません。大学入試という全国で画一的に実施されるスクリーニングが、人的資源の選別で有効と判断しているから、人事採用者はそれを利用しているのです。入試による選抜が唯一の評価されている機能であるのなら、評価機能だけを公的セクタに残し、それ以外の教育機能は私的セクタに委ねればよいというのが私の公教育廃止論の考えです。そして、それが《公の画一性》と《私の多様性》のベストミックスだと思います。

kkk さんが書きました:

「小論文に解答がない」という判断が誤っています。能力が対策力に還元されるならば何も変わりません。仏教のジレンマに関しては上述の通りです。私は労働者の育成をくだらないと言っているのではなく、画一的試験によって選別しようとするのがくだらないと言っているのです。

対策力としての能力が無意味だと言いたいのですか。私たちは、生きていく上で、様々な問題に直面し、それに対する対策を立てて、問題を解決していかなければなりません。生きる力とは対策力だと言ってもおかしくないでしょう。そして、義務教育は、対策力の基礎となる普遍的な学力を身につけさせることを目指しています。特に基本的な言語力と計算力は、どのような職業に就くにしても必要であり、規格化された普遍的な学習内容を身につけさせることが必要です。但し、どのような教育方法で、どのようなペースで身につけさせるかに関しては多様性があってよいと思います。

kkk さんが書きました:

ポストモダンでは熱力学的な意味でなく、現象面から拡張させて用いられるので、それに倣いました。

ポストモダンの思想家がそう言っているから、模倣するというのですか。

kkk さんが書きました:

歴史的に見ても悲観的な思想家のほうが圧倒的に多いですが、永井さんがなぜそこまで楽観的な姿勢を固持するのか分かりません。

kkk さんにとって、思想というのは、流行しているから模倣するファッションのようなものなのですか。日本には、有名な哲学者の名前を挙げ、権威に訴えて自分の主張を正当化しようとする人が多いけれども、私はそうしたことが哲学的だとは全く思いません。権威や流行に盲従することなく、自分の頭で徹底的に考えることこそが本当の哲学だと考えています。

kkk さんが書きました:

「解脱」に関しては個人的な例を言ったまでで、そこから楽観的な人類発展観を批判的に捉えられるならば十分です。

批判するのは結構ですが、代替案を提示できないなら、説得力がありません。

kkk さんが書きました:

地球や宇宙の消滅を杞憂とするなら、哲学は不要でしょう。そしてあまりに人間中心主義的だと思います。人間が繁栄することは本当に重要なのでしょうか。

私は「人間」という言葉は使わずに、「地球の生命体」という言葉を使いました。それは、十億年以上もたてば、人間という種は別の種に進化し、存在しなくなるだろうからということもあるのですが、人間以外の生命体も、人間ほどではないにしても、尊重されるべきであると考えているからです。

kkk さんは、「生き続けようと努力することは無意味だ。人類は皆死ねばよい」とでも考えているのでしょうか。そういう主張自体は矛盾をはらんでいませんが、kkk さんは、生きることを選んでいるのだから、もしそういう主張をするなら自らの生き方に矛盾します。そこで質問ですが、kkk さんはなぜ自殺せずに生き続けているのでしょうか。生きることを選んでいる以上、何か理由があるはずです。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月05日(水) 16:29.

企業に教育を全面的に任せるというのは、まさに脱コード化社会の加速を意味すると思います。それ自体の価値判断は難しいところですが、私見としてはこれ以上混乱状態になってほしくありません。

管理・管轄が悪とは言っていません。公教育と大差がなくなると予想されるなら意味があるのか、ということです。

受験システムの評価が高いというのは、聞いたことがないです。参考資料があるならば是非教えてください。私の持ち合わせてる資料では批判的な意見が圧倒的ですが。
よって「入試による選抜が唯一の評価されている機能であるのなら」というのは、永井さんの主観でしかないのではないでしょうか。

対策力は完全に無意味ではありませんが、非効率です。「生きる力」で重要視されていることは、誰も答えを知らないものに対応する能力であって、小論文がそれを担っているとはとても思えません。私の手持ちの本から批判部分を引用すると

大学入試の終焉―高大接続テストによる再生 (author) 佐々木 隆生 さんが書きました:

論理的思考力・判断力・表現力など今の大学入試センター試験や大学入試で容易に把握できない学力について、「論文式の試験をやるべきだ」という人がいます。しかし、そうした人が論文式の試験の特殊性に通じているかというと必ずしもそうでない場合が多いようです。典型的な問題としては、成績が正規分布の形をとるにしても、相当の工夫をしないとたいてい分散が極めて小さくなり、大半の回答が中央値近傍に集まってしまうことが指摘されます。一定の学力がある場合には論点を整理することは大半の受験者ができます。しかし、そこを超えて独自の考察を行える者は5-10%に留まり、優秀な回答者を選抜しようとすると定員の10倍以上の受験者が必要となるのです。

エントロピーに関しては断りを入れなかった私に非がありました。ニュアンスが伝わっていれば結構です。

私が思想をファッションのように扱っていると感じられたのなら、それは誤解だと言っておきます。自分で思考した結果、悲観的にならざるをえないのです。確かに権威付けに頼るのは哲学する者の態度ではありませんが、過去の思想家の成果を無視し、独りよがりの意見を貫くことにもまた批判的であるべきです。私が「悲観的な思想家のほうが圧倒的に多い」と言ったのは、永井さんの主張にはそれらを覆すほどの威力がないという指摘です。

代替案というのは「慎重であるべき」では足りないのでしょうか。

私は生きることを選択しているわけではありません。自分でこの世に生まれることを望んだわけではないのですから。本能が理性に勝っているだけであり、矛盾しているとは思いません。誰かが言ってましたが、「死ねないから生きている」人が多いのも事実ではないでしょうか。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:あきかぜ.投稿日時:2013年6月05日(水) 22:54.

kkkさんの思想は大いに結構。それはあなたの自由です。
と同時に、私の考えも、kkkさんに否定される所以はありません。

論点は、教育サービスの消費者である私や私のこどもたちが、納得できる教育を選択できるようにするにはどうすればいいか、ということです。外食サービスの消費者としての私や私のこどもが、自分の判断に沿って、嫌なお店に入らずに好きなお店を選べるように、です。

そしてこの論点の結論は、公教育は廃止すべき、です。

kkkさんは現実社会や日常生活を軽くみているようですが、食べなければ本も読めません。そして教育サービスも、現実の日常生活のなかで選択され消費される財やサービスの一つにすぎません。

私は一人の学習者として、kkkさんの教育サービスを買いたくない。説明が下手で長くてわかりにくいし、自己顕示的で学習者をないがしろにしそうな印象だから。サービス精神やホスピタリティがなさそうだから。

同様に、学習者としてのkkkさんがあり得るなら、そのときは私(あきかぜ)からの教育は受けない選択が担保されていることが望ましいのです。

なお、私(あきかぜ)は、世俗的な権威や尊敬を手放し、ひたすら真理を追求しようとしている永井さんに畏怖と敬意を感じています。
その学識の深さと潔さに感服しています。

kkkさんには、あまりそうしたものを感じません。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月05日(水) 23:24.

あきかぜさんは私に人格批判されたことを根に持っているのでしょうか。私はどう思われても構いませんが、あきかぜさんが常識だと思っている考え方自体が既に既存社会の影響を受けているものだという事だけ忠告しておきます。

正直、私にはオルテガが危惧したように、権利だけを主張する大衆が現代日本において跋扈していることを強く感じます。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月05日(水) 23:38.

さらに言うと、自営業主である永井さんが読者を引き離すこと主張するとは思いません。結局、大衆に迎合するしかできないことが、資本主義社会の問題であり、矛盾ですね。永井さんもそこには同意する部分があるのではないでしょうか。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:あきかぜ.投稿日時:2013年6月06日(木) 08:09.

オルテガだか虎だかジャイアンだか知りませんが、そんな名前には何の説得力もないです。

教育現場に近いことであるとか、ちょっと難しい本を読んだぐらいで、相手を納得させ現実を動かせるわけがないのです。

kkkさん自身のアタマで考えた、kkkさんの主張が聞きたいです。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月06日(木) 10:35.

ちゃんと読んでいらっしゃるのでしょうか。オルテガを無視しても、私の主張は十分理解できると思います。永井さんと同じように批判してみたということだと思いますが、上記に関しては的外れです。

分かりやすく説明するならば、あきかぜさんは事勿れ主義の議論が苦手な日本人タイプだと推測されるので、恥をかきたくなければ書き込まない方がいいですよ、ということ。。そして、永井さんの紳士的態度から、永井さんの意見を批判的に捉えられず、鵜呑みしてしまうのは操作されやすい大衆の典型だということです。

ゆとり教育はどこが間違っていたのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月06日(木) 14:35.

kkk さんが書きました:

企業に教育を全面的に任せるというのは、まさに脱コード化社会の加速を意味すると思います。それ自体の価値判断は難しいところですが、私見としてはこれ以上混乱状態になってほしくありません。

管理・管轄が悪とは言っていません。公教育と大差がなくなると予想されるなら意味があるのか、ということです。

一方で、公教育を廃止しても「管理・管轄の問題が絡んでくるため、公教育と大差なくなる」と言いつつ、他方で脱コード化社会が加速するとか、混乱状態になるとかと言うのは矛盾していないでしょうか。公教育を廃止しても、管理社会であることには変わりがないから、秩序が維持されると言いたいのか、秩序が維持されないと言いたいのかどちらでしょうか。

ちなみに、生産手段をすべて国有化する共産主義経済でも、民間企業に委ねる市場経済でも、管理しているのが官僚か経営者かという違いはあるにしても、管理社会であることには変わりがありません。だからと言って、市場経済が共産主義経済と大差がないとは言えません。

kkk さんが書きました:

受験システムの評価が高いというのは、聞いたことがないです。参考資料があるならば是非教えてください。私の持ち合わせてる資料では批判的な意見が圧倒的ですが。よって「入試による選抜が唯一の評価されている機能であるのなら」というのは、永井さんの主観でしかないのではないでしょうか。

私は「世間の評価」と書きましたが、「教育学者の評価」とは書いていません。そして、世間の評価を知るには、職業的な教育学者たちが書いた文献を読むよりも、企業の人事採用担当者の本音を聞く方が手っ取り早い。教育学者の評価と世間の評価との間には大きなギャップがあるのです。

教育学者や知識人たちの大半が受験システムに批判的であることは承知しています。受験戦争に対する批判は、70年代から80年代にかけてピークに達し、そうした声に押されて、ゆとり教育が推進され、内申を重視したり、AO・推薦入試が導入されたりして、受験戦争が大幅に緩和されました。しかし、それと同時に学力崩壊も起きました。

実際、ゆとり教育が推進されるにつれて、国際学習到達度調査(PISA)における日本の順位が低下しました。最近は、脱ゆとり教育の成果により順位が上昇しましたが、これは皮肉な現象です。PISA は、ゆとり教育が育成を目指した「新しい学力」を試すテストなのにもかかわらず、その成績が下がってしまったのです。結局のところ、ゆとり教育はゆるみ教育にすぎず、従来型学力はもちろんのこと、新しい学力まで低下させることになりました。

ゆとり教育だけでなく、AO・推薦入試も見直す動きが出ています。早慶をはじめとする名門私大は、高偏差値を維持するために、一般入試の定員を減らし、他方で、偏差値という形で外部には出ないAO・推薦入試の枠を増やしました。その結果、同じ大学の学部でありながら、学力に差がある学生が混在し、大学ブランドが従来のようなシグナルの機能を発揮しなくなりました。今後、人事担当採用者の中には、一般入試で合格したのかどうかで、求職者を区別する動きが出てくるかもしれません。

ゆとり教育はあまりにも評判が悪くなったので、文科省ももう提唱しなくなりました。しかし、ここでゆとり教育はなぜ失敗したのかという点を考え直さなければなりません。ゆとり教育のシンボル的存在だった寺脇研は、中曽根内閣の民活路線や小泉の構造改革路線がゆとり教育を生み出したと言っています。以下、寺脇研が、kkk さんと同じようなことを言っているので、引用しましょう。

「ゆとり教育」へと進む方向は、明らかに時代の要請であり流れです。そもそも、こうした流れは、一九八四年に中曽根首相の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で確立されました。いまの「錦の御旗」は臨教審なのです。そこで「生涯学習」という理念が決まりました。学校中心主義からの転換、教師による「教育」から生徒中心の「学習」への転換です。この理念の延長にいまの教育改革がある。ですから「ゆとり教育」の枝葉については否定できても、その根本理念を否定できる人はいないはずです。

そして、臨教審のそのまた根っこにあるのが、八一年にできた臨時行政調査会(土光臨調)です。土光臨調に日本の霞が関はいわばほぼ全面降伏した。事務局に出向していてその場に立ち会った私には、強烈な印象です。国鉄がなくなって、JRになる。電電公社がNTTになる。それまでの常識では考えられないことが起こったのです。予算はこれ以上増やさず、シーリングをかけて厳しくやっていく。公務員の権力はどんどん抑える・・・。

それからの二〇年、小泉改革にいたる世の中の流れというのは、一貫して、“官から民へ”。中央集権から地方分権へ、大きな政府から小さな政府へ、という流れでやってきています。「ゆとり教育」もまた、これに沿った政策のひとつなのです。国レベルの制約をゆるめて地方や学校現場での裁量を広げる、という意味で。[8]

実際には、ゆとり教育を提唱して、推進したのは、日教組をはじめとするリベラル系の人たちで、リベラリズムとリバタリアニズムは、名前は似ているけれども、思想的な方向は逆で、ゆとり教育がリバタリアニズムの結果という寺脇の主張には無理があります。たぶん、自分たちの失敗を自分たちが敵視している勢力に責任転換することで一石二鳥を狙っているのでしょう。

臨教審では、たしかに香山健一委員が学習塾を私立学校として認可するなど、リバタリアン的に見える提言があったのは、事実です。もっとも、これは私教育の公教育化であって、公教育の私教育化とは方向が逆で、リバタリアニズムとは言い難いのですが、いずれにせよ、香山の提言は受け入れられず、「個性の重視・育成」という抽象的な結論で決着してしまいました。教育基本法改正が行われなかったことからもわかるように、臨教審は、中曽根の思惑とは逆に、リベラル勢力の成功に終わってしまったのです。

ゆとり教育は、受験戦争から子供を救うためという大義名分で行われたのですが、実際には、そもそも日教組が教職員の週休二日制とともに実現しようとしたことに端を発していることからもわかるように、教職員の待遇改善のために行われたというのが真相でしょう。それも、たんに労働時間が短くなるだけではありません。内申重視で教員の裁量権が強化され、到達度の目標水準の切り下げや入試の多様化で教育成果の評価が甘くなり、公教育の不毛さを隠蔽する結果となりました。

私は、教育機能と評価機能を分離し、後者は政府が画一的に行い、前者は民間での自由選択と多様性に任せることを提案しているのですが、ゆとり教育はこれとは逆の改革で、公教育利権を温存したまま、その成果を評価する公的機能を「自由化」や「多様化」といったリバタリアンに見える理念のもと弱体化させてしまいました。要するに、ゆとり教育は、公的教育という変えるべきところを改善せずに、公的評価という変えてはいけないところを改悪してしまったのです。

公教育に関わる人たちが、自分たちの産業に、その成果が客観的に評価されることなく、自動的に税金が流れ込む利権を守ろうとするのは当然のことですが、生産者の独占利益を守ることは消費者の利益にはなりません。世間の評価と教育学者(その大半は大学教授)の評価が逆になるのはこのためです。最近では、ゆとり教育が見直され、大学の研究者にも任期制が取り入れられるなど、公教育もかつてのような殿様商売ではなくなりつつあります。そうした流れに危機感を覚える大学の研究者たちは、自由競争や画一的客観的評価を批判するでしょうが、生産者の主張を聞く前に、消費者の要望に耳を傾けるべきでしょう。

kkk さんが書きました:

対策力は完全に無意味ではありませんが、非効率です。「生きる力」で重要視されていることは、誰も答えを知らないものに対応する能力であって、小論文がそれを担っているとはとても思えません。

私は「対策力」という言葉でもって「誰も答えを知らないものに対応する能力」も含めて考えていたのですが、kkk さんはそうではないということですね。小論文が受験生の独創性を試す機能を果たすかどうかは、出題者の姿勢によるので、一概にはどうと言うことはできません。試験以外にも、コンテストという形で教育成果を評価する方法もあります。

kkk さんが書きました:

過去の思想家の成果を無視し、独りよがりの意見を貫くことにもまた批判的であるべきです。

私は「権威や流行に盲従することなく」と書きましたが、「権威や流行を無視して」とは書いておりません。私も過去の思想家の成果を取り入れていますが、それは批判的に吟味したうえでのことです。kkk さんも自分の頭で考えているということですが、それならば、ひとつ「誰々がこう言った」というような方法を止めてみてはどうでしょうか。そういう議論の仕方は、その思想家の信者以外には説得力を持たないのですから。

kkk さんが書きました:

代替案というのは「慎重であるべき」では足りないのでしょうか。

私は生きることを選択しているわけではありません。自分でこの世に生まれることを望んだわけではないのですから。本能が理性に勝っているだけであり、矛盾しているとは思いません。誰かが言ってましたが、「死ねないから生きている」人が多いのも事実ではないでしょうか。

これは、包含的論理和か排他的論理和かという問題ですが、後者の場合、自殺できるのに自殺しないなら、生きることを選んだということになるし、改革案に対して「慎重であるべき」と言えば、現状維持を選好したということになります。

kkk さんが書きました:

自営業主である永井さんが読者を引き離すこと主張するとは思いません。結局、大衆に迎合するしかできないことが、資本主義社会の問題であり、矛盾ですね。永井さんもそこには同意する部分があるのではないでしょうか。

矛盾とは「AかつAでない」という形式の命題のことを言うのですが、そういう意味での矛盾した発言を私がしているというのでしょうか。

あるいは、私が公教育利権を批判しながら、自分に有利な自営業利権を主張しているのではないかということでしょうか。読者の中にもそう思っている人がいるかもしれませんので、ここで反論しておきましょう。

インターネットのような公共の空間で、公共政策を提案する時、その案が受け入れられるためには、普遍化可能であることが最低限の条件となります。エゴイズムは言語の普遍性により破棄されます。つまり提案される政策は、提唱者がどのようなポジションにいたとしても支持できるような内容でなければいけないということです。

教育機能と評価機能の分離と公教育の廃止という私の提案は、私が自営業者であろうが、大学教授であろうが、官僚であろうが、それとは無関係に私が支持する提案です。もっと一般化して言うと、私が市場原理至上主義者なのは、私が自営業者であるからではなくて、それが社会全体に最も大きな利益をもたらすからです。市場原理は格差をもたらしますが、社会全体の資源が増えるのなら、それを再配分することもできます。だから、市場原理はポジションとは無関係に支持できるのです。

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年6月06日(木) 20:14.

ひとつ質問があるのでいいでしょうか?

永井俊哉 さんが書きました:

公的教育という変えるべきところを改善せずに、公的評価という変えてはいけないところを改悪してしまったのです。

といいますが、なぜ教育は変えた方が良く、公的評価は変えてはいけないのかがいまいち良く分かりません。
ちょうど大学入試改革というニュースが流れてきたのですが

政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は6日、大学入試改革の議論を始めた。高校在学中に複数回受験でき、最高点を志願大学に提出して合否判断の材料とする「到達度テスト」の導入や現行の大学入試センター試験を到達度テストと統合するかどうかを検討する方向だ。大学生の学力低下対策や高校生の学習意欲維持を目指すが、定着している入試制度の急激な変更には高校や大学の抵抗感も大きく、曲折も予想される。

「到達度テスト」は年2、3回実施し、飛び級も想定して高校2年生から受験可能とする案が浮上している。受験生は最高点を出願時に提出し、各大学の判断で2次試験を課せるようにする。類似制度は、年間7回実施され、何度でも受験可能なアメリカの進学適性テスト「SAT」などがある。

文部科学相の諮問機関「中央教育審議会」は4月に答申した今後5年間の教育施策を示した「第2期教育振興基本計画」で、到達度テスト導入の検討を明記。先月出された自民党の教育再生実行本部の提言でも、複数回の到達度テストの実施が示されている。センター試験については、マークシート式による画一的な学力評価の問題など、見直しの必要性が指摘されていた。

しかし、実現には課題も多い。高校生の大学受験に対する負担感が軽減されるかどうかや複数回実施のための試験場運営、作問コストなどの多大な負担もある。また、センター試験以外にも、高校卒業程度認定試験(旧大検)など重複する現行制度との整理・統合も必要で、文科省内には「そこまでして新しいテストを始める意義は薄い」との意見もある。現在の入試制度をベースに各大学で多様化を図る方が現実的との見方も多い。[9]

と、公的評価を多様化する動きも現にあるようです。

はたから見ると公教育は全て廃止し、評価は全て国に任せっぱなしというのはどうも極端な理論に見えます。
そのあたりを支える理由があるのならば書いて頂けませんか?

Re: 総合学習はなぜ失敗したのか
投稿者:kkk.投稿日時:2013年6月07日(金) 00:57.

永井俊哉 さんが書きました:

一方で、公教育を廃止しても「管理・管轄の問題が絡んでくるため、公教育と大差なくなる」と言いつつ、他方で脱コード化社会が加速するとか、混乱状態になるとかと言うのは矛盾していないでしょうか。

その通りです。どちらも問題を抱えており、難しいということです。秩序が維持されるか否かは予想ができません。ただ、公教育の廃止に現実性が見出せないだけです。

永井俊哉 さんが書きました:

私は「世間の評価」と書きましたが、「教育学者の評価」とは書いていません。そして、世間の評価を知るには、職業的な教育学者たちが書いた文献を読むよりも、企業の人事採用担当者の本音を聞く方が手っ取り早い。教育学者の評価と世間の評価との間には大きなギャップがあるのです。

それは分かりますが、世間は企業の都合に合わせざるを得ないのであり、教育者サイドが経団連に迎合してしまうことは避けるべきです。それこそ学問が労働への橋渡しとしてしか機能しなくなるのではないでしょうか。

永井俊哉 さんが書きました:

世間の評価と教育学者(その大半は大学教授)の評価が逆になるのはこのためです。(中略)そうした流れに危機感を覚える大学の研究者たちは、自由競争や画一的客観的評価を批判するでしょうが、生産者の主張を聞く前に、消費者の要望に耳を傾けるべきでしょう。

日教組の利権の話は確かに重要ですが、教育学者が提言しているのは試験の内容です。消費者は試験の内容の評価まで頭が回っていないというのが現状です。

永井俊哉 さんが書きました:

私は「対策力」という言葉でもって「誰も答えを知らないものに対応する能力」も含めて考えていたのですが、kkk さんはそうではないということですね。

そうです。含めるならば「対応力」と言った方が適切だと思います。また、コンテストも第三者評価でしかないでしょう。

永井俊哉 さんが書きました:

kkk さんも自分の頭で考えているということですが、それならば、ひとつ「誰々がこう言った」というような方法を止めてみてはどうでしょうか。そういう議論の仕方は、その思想家の信者以外には説得力を持たないのですから。

説得力を持たせようとした意図ではなく、引用を省き、議論の結論を早めるために用いました。私は特に一般の方の意見は募ってませんので、永井さんの教養ベースを推測した上で発言しています。永井さんはホームページ上でご自身の思想を紹介されてますが、この議論において私は自分の思想を一から紹介するスペースがないので、比較的類似した思想家の名を借りて「私がどのように考えているのか」を手っ取り早く伝えようとしたまでです。

永井俊哉 さんが書きました:

これは、包含的論理和か排他的論理和かという問題ですが、後者の場合、自殺できるのに自殺しないなら、生きることを選んだということになるし、改革案に対して「慎重であるべき」と言えば、現状維持を選好したということになります。

「私は生まれることを自分で望んだわけではない」という問題が絡むと、条件文で単純に処理できないと思います。「自殺できるの」は理性による判断ですが、「自殺しない」は本能による判断です。

永井俊哉 さんが書きました:

矛盾とは「AかつAでない」という形式の命題のことを言うのですが、そういう意味での矛盾した発言を私がしているというのでしょうか。

いえ、これは資本主義システムを批判しただけです。

自民党による到達度テストの導入は、教育機能と評価機能を分離するための第一歩となりうる
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月07日(金) 17:40.

秋刀魚刺身 さんが書きました:

公的評価を多様化する動きも現にあるようです。

もしもセンター試験と高卒認定試験(高認)を統合するのであれば、それは、多様化というよりも画一化です。センター試験とは異なり、高認は、満16歳以上ならだれでも年に2回受験可能です。だから、統合というよりも、センター試験の高認化というところでしょう。「自民党の教育再生本部が大学入試への TOEFL の導入を検討」で取り上げたテーマですが、到達度テスト(日本版バカロレア)は自民党の公約なので、実現する可能性があります。そして、自民党がそこまで意識しているかどうかは別として、これは教育機能と評価機能の分離に向けての重要な一歩だと思います。kkk さんは「公教育の廃止に現実性が見出せない」と言っていますが、以下のような段階を経て、少しずつ私が提案するシステムに近づいていくことは可能です。

  1. 高校生向けの到達度テストの創設→高校に行かなくても、高卒と同じ資格が得られる。(高認により既に実現済み)
  2. 大学生向けの到達度テストの創設→大学に入学しなくても、単位を取って、大学生と同じ学力があることを証明できるようになる。
  3. 学位授与機構が、論文審査だけで学位を授与するようになる。→大学や大学院に行かなくても、単位を取って、学位が授与されるようになる。
  4. 小学生・中学生向けの到達度テストの創設→教育機能と評価機能の分離の完成。
  5. 公教育の廃止→公教育に使われていた税金は、テストの合格者、学位授与者に対する報奨金として使われるようになる。

kkk さんが書きました:

世間は企業の都合に合わせざるを得ないのであり、教育者サイドが経団連に迎合してしまうことは避けるべきです。それこそ学問が労働への橋渡しとしてしか機能しなくなるのではないでしょうか。

ここで、教育は何のために必要なのか、なぜ政府が教育のために支出しなければならないのかを考えましょう。

  1. 民主主義政治の担い手の育成:有権者に判断力がないと民主主義政治が成り立たない。だから全国民には最低限の学力がなければならない。
  2. 科学者の育成。科学の成果には知的財産権がないので、少なくとも基礎研究は政府が投資しなければならない。研究者の育成に関しても同様である。
  3. 職業人の育成。人的資源が豊かでなければ国民経済は発展しないし、税収も増えない。

1番目と2番目は、政府が行うしかないが、3番目に関しては企業も受益者なので、雇用者の質と量に応じた負担枠を決めて、独自の報奨金付き試験・コンテスト制度に参加させるべきです。どういう人材が欲しいかは企業が一番よく知っているはずだし、かけていると思われる能力を延ばす評価事業を行う裁量を負担額に応じて与えるとよいでしょう。

kkk さんが書きました:

教育学者が提言しているのは試験の内容です。消費者は試験の内容の評価まで頭が回っていないというのが現状です。

言語、数学、自然科学の基礎などは、学習内容が規格化されており、評価が客観的にできるため、政府が画一的に行う試験だけでよいでしょう。1番目と2番目の目的の教育はこれでカバーできます。評価に主観性が入る場合は、多様性と自由選択が必要ですが、それは、この分野に企業を参画させることで実現されます。

kkk さんが書きました:

コンテストも第三者評価でしかないでしょう。

ああ、そうでしたね。kkk さんは第三者による評価を全般的に否定していたのですね。巨額の税金がつぎ込まれているのに、公教育の成果が外部によって評価されず、好き勝手にできるというのは、教師にとっては理想的なのでしょうが、納税者や公教育のサービスを受ける側からすれば「金を出せ!口を出すな!」というのは受け入れられないのです。

kkk さんが書きました:

私は特に一般の方の意見は募ってませんので、永井さんの教養ベースを推測した上で発言しています。永井さんはホームページ上でご自身の思想を紹介されてますが、この議論において私は自分の思想を一から紹介するスペースがないので、比較的類似した思想家の名を借りて「私がどのように考えているのか」を手っ取り早く伝えようとしたまでです。

たしかに、著名な思想家の名前を挙げることによって、あなたが何を考えているかはわかりますが、なぜそう考えるかはわかりません。いくらでも他にいる思想家のうちなぜこの思想家を支持するのか、理由があるはずなのに、その理由を語ることがないことを問題視しているのです。

kkk さんが書きました:

これは資本主義システムを批判しただけです。

例えば、この場合でも、なぜ資本主義だから批判するのか、その理由が示されていません。「なぜそうなのか」を常に問い続けることは、哲学というよりも学問一般において重要な姿勢だと思います。

kkk さんが書きました:

「自殺できるの」は理性による判断ですが、「自殺しない」は本能による判断です。

つまり、たんに本能に従って生きているだけで、「なぜ自分は生きているのか」という問いに対して答えを見出していないということですね。

Re: 自民党による到達度テストの導入は、教育機能と評価機能を分離するための第一歩となりうる
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年6月07日(金) 20:37.

永井俊哉 さんが書きました:

もしもセンター試験と高卒認定試験(高認)を統合するのであれば、それは、多様化というよりも画一化です。センター試験とは異なり、高認は、満16歳以上ならだれでも年に2回受験可能です。だから、統合というよりも、センター試験の高認化というところでしょう。「自民党の教育再生本部が大学入試への TOEFL の導入を検討」で取り上げたテーマですが、到達度テスト(日本版バカロレア)は自民党の公約なので、実現する可能性があります。そして、自民党がそこまで意識しているかどうかは別として、これは教育機能と評価機能の分離に向けての重要な一歩だと思います。kkk さんは「公教育の廃止に現実性が見出せない」と言っていますが、以下のような段階を経て、少しずつ私が提案するシステムに近づいていくことは可能です。

  1. 高校生向けの到達度テストの創設→高校に行かなくても、高卒と同じ資格が得られる。(高認により既に実現済み)
  2. 大学生向けの到達度テストの創設→大学に入学しなくても、単位を取って、大学生と同じ学力があることを証明できるようになる。
  3. 学位授与機構が、論文審査だけで学位を授与するようになる。→大学や大学院に行かなくても、単位を取って、学位が授与されるようになる。
  4. 小学生・中学生向けの到達度テストの創設→教育機能と評価機能の分離の完成。
  5. 公教育の廃止→公教育に使われていた税金は、テストの合格者、学位授与者に対する報奨金として使われるようになる。

公教育は全て廃止し、評価は全て国に任せっぱなしというのはどうも極端な理論に見えます。というのが質問の要旨なのですが、それに対する答えは特に書かれないのですね。

教育機能と評価機能の分離は賛成です。私は成果主義なので、学業では例えばテストなどの成果のみによってその人を評価するべきであり、教育という過程事態はあまり重んじません。なので現在のように両者を混在させることで、成果主義的な判断が鈍るのをよしとしないからです。成果主義的な判断はその人のレベルを測定するようなもので、ひとりひとりのレベルに合わせた教育がなされるのが合理的ですし。

それで問題の公教育を廃止し、評価は国がするという理論ですが。
公教育を廃止するというアイデア自体はいいものだと思います。しかし程度によります。永井さんの文を読んでいると、公教育は全て廃止するべきだという印象を受けたので、実際にはどの程度公教育を廃止するのか確認するためにも質問をしたのですが。特に触れなかったので公教育は全て廃止すべきだと思っているということでいいのですかね?

私はそこまでする必要性が無いと思います。やるなら公教育の廃止ではなく縮減でしょう。なぜなら、教育現場に市場原理を持ち出すのならば、当然従来の公教育のような勉強を受けたいという需要も存在するはずだからです。需要があるなら残したほうが良いでしょう。こういうことを言うと永井さんは需要があるのならば民間がそういった学校を作るだろうと言うと思いますが、新たに学校を作るのは大変なので、既存の公教育の空いた学校を再利用するという方針になると思います。でもそうだとすると、「公教育の廃止」という語のイメージと離れるように感じます。廃止ではなく「教育の公から民への転換」とでも名乗ったほうがいいのではないでしょうか。

そしてこれが一番疑問なのですが、なぜ評価機能は国が担うべきなのでしょうか。評価機能に民間が参入して、なにか悪いことが起こるのでしょうか。永井さんは市場原理至上原理主義者では無かったのですか?

官と民の役割分担
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年6月08日(土) 10:35.

秋刀魚刺身 さんが書きました:

公教育は全て廃止し、評価は全て国に任せっぱなしというのはどうも極端な理論に見えます。というのが質問の要旨なのですが、それに対する答えは特に書かれないのですね。

いいえ、書かれています。「1番目と2番目は、政府が行うしかないが、3番目に関しては企業も受益者なので、雇用者の質と量に応じた負担枠を決めて、独自の報奨金付き試験・コンテスト制度に参加させるべきです。どういう人材が欲しいかは企業が一番よく知っているはずだし、欠けていると思われる能力を延ばす評価事業を行う裁量を負担額に応じて与えるとよいでしょう」や「言語、数学、自然科学の基礎などは、学習内容が規格化されており、評価が客観的にできるため、政府が画一的に行う試験だけでよいでしょう。1番目と2番目の目的の教育はこれでカバーできます。評価に主観性が入る場合は、多様性と自由選択が必要ですが、それは、この分野に企業を参画させることで実現されます」の部分がそうです。

具体的なイメージを持ってもらうために、詳述すると、教科を、言語と数学といった基礎教科からなる第一類、それ以外の通常教科を第二類、企業が参加できる第三類に類別し、課程修了に必要な単位も三つの類に分け、第一類の単位は第一類の教科のみから、第二類の単位は第一類と第二類の教科から、第三類の単位はすべての類の教科から選ぶようにします。企業が行う試験・コンテストは、第一類と第二類の教科とは異なる内容でなければいけません。こうすることで、三つの教育の目的が実現されるということです。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

新たに学校を作るのは大変なので、既存の公教育の空いた学校を再利用するという方針になると思います。でもそうだとすると、「公教育の廃止」という語のイメージと離れるように感じます。廃止ではなく「教育の公から民への転換」とでも名乗ったほうがいいのではないでしょうか。

「公教育の廃止」と「教育の公から民への転換」は同じことです。「公教育の廃止」とは、政府が直接教育サービスを提供する制度の廃止であって、その制度を担っている学校をすべて廃校にするということではありません。幼稚園から大学まで国や自治体が所有している学校を民間に売却もしくは株式を公開すれば、巨額の収入が得られるので、それを公的債務の返済に回せばよいでしょう。膨れ上がった公的債務の圧縮は、公教育廃止の副次的なメリットです。なお、現在学校を他の用途に転用することに関して規制がありますが、そうした規制は撤廃して、どのような用途でも使えるようにするべきです。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

そしてこれが一番疑問なのですが、なぜ評価機能は国が担うべきなのでしょうか。評価機能に民間が参入して、なにか悪いことが起こるのでしょうか。永井さんは市場原理至上原理主義者では無かったのですか?

例えば、同じ中等教育数学一級に相当する単位を取る場合、A社の試験でも、B社の試験でも、単位も報奨金も同じなら、受験者はより簡単で取りやすいところから取ろうとするでしょう。そうすると、より多くの受験生を集めようとする試験業者の間で、取りやすさを競う基準切り下げ競争が起きて、評価機能を果たさなくなります。

なお、私が言っている市場原理至上主義は、無政府主義ではないので、政府の役割を否定しません。審判がいないとスポーツ・ゲームが成り立たないように、政府が存在しないと市場原理は機能しないのです。生産活動は民間に任せ、政府はレフェリー役に専念するというのが理想的な役割分担です。もちろん審判が不正を行わないかどうかの監視も必要で、政府の場合、それは民主主義によって果たされています。公的評価も、内容の良し悪しは投票で逆評価されるべきでしょう。

Re: 官と民の役割分担
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年6月08日(土) 15:14.

永井俊哉 さんが書きました:

いいえ、書かれています。

すいません、kkkさんへ向けて書かれた部分だと思ってあまりよく読んでいませんでした。

永井俊哉 さんが書きました:

「公教育の廃止」とは、政府が直接教育サービスを提供する制度の廃止であって、その制度を担っている学校をすべて廃校にするということではありません。

これも勘違いだったようですね、しかし学校という建物はなんというか教育の象徴のようなもので、公教育の廃止と聞くと廃校にするのかと思ってしまいます、少なくとも私にとっては。他の人がどうだかは分かりませんが・・・。

ともあれ、疑問点が解消されて良かったです。ありがとうございました。

2. 付録:AO/推薦による入試制度の多様化は望ましいか

以下の議論は、システム論フォーラムの「AO/推薦による入試制度の多様化は望ましいか」からの転載です。

AO/推薦による入試制度の多様化は望ましいか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年10月21日(月) 15:32.

学科試験を受験生に一律に課して志願者を選抜する従来型の入試制度を改め、AO(アドミッションズ・オフィス)入試や推薦入試を導入することで入試制度を多様化する傾向が続いているが、その是非をめぐっては様々な意見がある。止める大学が続出している一方で、政府の中には入試選抜は人物重視で行うべきだという声もある。本トピックでは、AO/推薦入試の影響を調査した統計データを精査しつつ、AO/推薦入試、さらには入試一般のあり方を考えたい。

AO/推薦による入学者は労働市場で評価されているのか

AO/推薦入試の導入は、大学教育を改善したのだろうか。入学後の成績を追跡調査し、学力試験を課さずに入学した学生の方が、学力試験を課さずに入学した学生よりも成績が良好であるという結果を出した大学もあるが、大学教員が自分の担当授業で付けている評点は主観的で基準がまちまちであるから、あまり参考にはならない。また、AO/推薦入試を擁護する者の中には、非学力的な観点から選抜された学生は、たとえ学科試験で選抜された学生よりも学力が低くても、意欲や人物という点で優れているので、より優れた労働者になりうると主張する者もいることだろう。

経済産業研究所の論文「大学入試制度の多様化に関する比較分析-労働市場における評価- 」は、そうした擁護論を検証するべく、学力試験で選抜された学生とAO/推薦で選ばれた学生の卒業後の平均所得(単位:万円)を比較し、どちらが労働市場において評価されているかを調査した。結果は以下のとおりである。

画像
出身大学・学部別,学力考査の有無別平均所得のグラフ[10]

45歳以下にサンプルが限定されているのは、大学入試制度の多様化が始まった1980年代半ばに大学入学年齢(18歳)に達した者が、この調査の時点(2011年)で45歳前後に達しているからである。このグラフから明らかなように、国立か私立か、理系か文系かという違いで作った四つのセグメント内で、学力考査によって選抜された入学者の方が、AO/推薦入試で入学したものよりも平均所得が高くなっている。この論文はこの結果から、「学力考査を課さない入試制度で入学した学生は,大学での学びに苦労し,卒業後も労働市場で高く評価されているとはいいにくい状況がうかがえる」という結論を出しているが、実は話はそう単純ではない。

以下の表は、各セグメントの平均年齢を示している。これをみると、学力考査によって選抜された者は、そうでない者よりも平均年齢が高いことがわかる。

画像
出身大学・学部別,学力考査の有無別平均所得の表[11]

入試制度が本格的に多様化したのは最近の現象であるから、AO/推薦入試で入学した大卒者の平均年齢が低いことは当然のことである。だから、平均所得の違いは、大学入学時の選抜方法の違いによってもたらされているというよりも、むしろ年齢の違いに起因しているのではないかという疑問が生じる。実際、この表からもわかるように、平均年齢に差があるほど、平均所得にも差がある。

この疑問を解消するために、表3 を検討してみよう。この表は、所得を被説明変数とし、年齢、男性ダミー(男性=1,女性=0)、国公立大学ダミー(国公立大学=1,私立大学=0)、学力考査ありダミー(学力考査を課す入試制度=1,学力考査を課さない入試制度=0)、理系ダミー(理系=1,文系=0)を説明変数として重回帰分析をした推定結果である。

画像
重回帰分析による推定結果[12]

この表の t 値に注目されたい。この値の絶対値は、説明変数の影響が強いほど大きくなる。t 値が最も大きいのは、男性ダミーであり、次に年齢、次にかなり低くなるが、理系ダミー、次にそれとほぼ同じの国公立大学ダミーとなっている。学力考査ありダミーはこの中では最も小さい。

男性の平均所得が女性の平均所得よりも高いのは周知のとおりである。また日本では、まだまだ年功序列のところが多いから、年齢が高いほど所得が高くなるのも常識の範囲内である。理系が文系よりも高いのは、修士課程修了で研究職に就く理系大学院の出身者が、同年齢の就業者よりも所得が高いためと推定される。国公立/私立の学力格差は、バブル崩壊後大きくなる傾向にあり、特に今日、私大の半数近くが定員割れという現状から判断すれば、こうした差が生まれるのは理解できる。こうした要因と比べると、学力考査の有無は大きな要因となっていない。表3 にあるとおり、このモデルだけが有意確率がゼロではない。つまり、学力考査の有無が平均年収に全く影響していない可能性が、1.2% あるということである。十分小さいと思うかもしれないが、次節で提起するような問題があるから、AO/推薦入試を企業が評価していないと判断するのは早計である。

経済産業研究所のこの論文のような手法は、能力差を賃金差として露骨に反映させる米国のような実力社会では意味があるが、日本のような入り口でしかチェックをしない横並び社会ではあまり意味がない。企業は新卒採用の選抜において大学のブランドを参考にするものの、入学時に学力考査があったかどうかは履歴書を見てもわからないから、一般入試で選抜された学生もAO/推薦入試で入学した学生も同じ扱いを受ける。国公立/私立の差が、学力考査の有無よりも大きなファクタとなるのはこのためであろう。そしていったん入社した後は、賃金は横並びで一律となり、仮に学力差が能力差となって出たとしても、能力差が賃金差として露骨に反映されることは稀である。この論文は、日本社会のこうした特質に対して無頓着ではないだろうか。

原因は入試形態の違いなのか、それとも大学のランクの違いなのか

2014年卒業予定の大学生等を対象に今年の8月に行ったマイナビの調査[13]によると、就活内定率は、一般入試で選抜された場合は、60.1%、センター試験利用入試で選抜された場合は、55.5%、推薦入試で選抜された場合は、53.8%、AO 入試で選抜された場合は、45.9%となっている。こちらの調査結果は年齢差がほとんど影響していないから、経済産業研究所の論文よりも明確に学力考査の有無が就職に影響を与えていると結論付けることができると思うかもしれないが、そもそもAO/推薦入試は、国公立よりも私立に、あるいは難関大学よりもFランク大学に多いので、AO/推薦入試で入学したから内定率が低いのか、それとももともと内定率が悪い低ランクの大学がAO/推薦入試を多く採用しているだけなのか判然としない。

2011年にベネッセコーポレーション大学事業部が行った「大学生基礎力調査Ⅰ」によると、大学一年生全体8万9015人を対象に、基礎学力総合、英語運用、日本語理解、判断推理に関する基礎的な試験を実施したところ、いずれの試験においても、一般入試(36,052人)あるいはセンター試験利用入試(7,775人)による入学者の偏差値が、推薦入試(34,421人)あるいはAO入試(6,693人)による入学者の偏差値を上回った。だから、大学全体では、学力試験で選抜された入学者の方が、AO/推薦入試で入学した学生よりも基礎的な学力はあると言えるだろうが、ここでも、その学力差が入試形態によるものなのか大学のランクによるものか判然としない。

結局のところ、AO/推薦入試が有害かどうかを判断するためには、同じ教育を受け、同じ学歴として扱われる同じ大学の同じ学部(場合によっては同じ学科)で、学力試験で選抜された学生とそうではない学生の学力を比較し、かつ卒業後の就職率や収入にどのような差があるかを調べなければならない。こうした調査は大変かもしれないが、日本の若者の将来を左右する問題であることを考えるなら、一度大規模な調査をした方がよい。下村博文文部科学相は、国公立大入試の二次試験を廃止し、人物評価を重視した面接による選抜でそれを代替するという大学入試改革案を表明したが、学力試験による選抜を軽視することの弊害の有無を検証することなく、思い付きで制度を変更することはしてほしくないものである。

政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。

同会議のメンバーである下村博文文部科学相が、毎日新聞の単独インタビューで明らかにした。

同会議は「知識偏重」と批判される現在の入試を見直し、センター試験を衣替えした複数回受験可能な新しい大学入学試験と、高校在学中に基礎学力を測る到達度試験の二つの新テストを創設し、大規模な教育改革を進めようとしている。11日の会合から、本格的な議論に入る。

下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調。さらに、大学ごとに実施する2次試験について「大学の判断だが(同会議では)2回もペーパーテストをしないで済むよう考えたい」「暗記・記憶中心の入試を2回も課す必要はない」と述べた。

私立大も新テストを活用するのであれば、同様の対応を求める方針だ。

同会議の改革原案では、各大学がアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)に基づき多面的・総合的に判断する入試を行うよう求めている。だが、面接や論文、課外活動の評価を重視する新しい2次試験では、従来のペーパー試験に比べ、人手など膨大なコストが発生する。下村文科相は「改革を進める大学には、補助金などでバックアップしたい」と述べ、国が費用面で支援する考えを示した。[14]

結論

AO/推薦入試の是非を巡る問題は、結局のところ、大学を教育機関とみなすか評価機関とみなすかという問題になる。大学側は、自分たちを教育機関とみなしているから、様々な人材に教育の機会を与えるために、入試制度を多様化しようとするのに対して、企業側は大学内部の教育や成績を信用せず、入学試験による選抜が持つ評価機能を学歴に期待している。学力試験なしで志願者の入学を許可することは、教育機関としては問題ではないが、評価機関としては問題がある。一般入試の厳しい競争を勝ち抜いた学生と学力試験も受けずに面接だけで入学した学生が同じ大学・学部のブランドだと、採用する企業側が困ってしまう。そこで最近では、面接時に人事担当者が、AO/推薦入試で入学したかどうかを遠回しに尋ねたり、出身高校をも調べたりといったことが行われているそうだ。

この問題を別のたとえで説明しよう。内閣府に設置された食品安全委員会は、安全性と有効性が科学的に認められる健康食品に「特定保健用食品(トクホ)」の表示を認めている。消費者の中には、このブランドを参考にして購入を決めている人も多い。もしも食品安全委員会が、特定保健用食品を多様化するためという大義名分の下、企業が自己推薦する商品に検証することなくトクホの表示を許可したら、トクホはブランドとして機能しなくなる。ブランドが評価機能を持つためには、内部に多様性を持ってはいけないのであり、消費者の選択の自由に資する多様性はブランド間の多様性として確保されなければならない。

もしも私がかねがね主張しているように、官が評価機能を担い、民が教育機能を担うというように官と民で役割分担をするなら、直接税金が投入されることのない民間の教育機関である大学がどのように入学志願者を選抜しようが、誰も文句は言わない。おそらく現在の私塾の大半がそうしているように、入学希望者を全員受け入れるようになるだろう。現在のように、低学力の学習者がレベルの高い学校に無理をして入学するということもなくなる。他方で、雇用者側はより精度の高い情報で採用を決めることができるようになる。だが、もしもこうした抜本的改革を行うことなく、教育機関である大学に評価機能を持たせ続けたいのであるならば、一般入試とAO/推薦入試とを併用することはやめた方がよい。AO/推薦入試の効用は不明だが、選抜方法を単一化することで、少なくとも評価機能を守ることができるからである。評価機能を守るもう一つの方法は、卒業要件を厳しくすることである。入学者の大半が脱落するぐらい卒業要件を厳しくすれば、卒業に価値が出てくるが、退学や留年だと敗者が復活する上での無駄な重複が多く、再チャレンジが制度的に困難になるという欠点がある。

AO入試とは
投稿者:ペンペン.投稿日時:2013年10月21日(月) 22:58.

アホでもオッケー入試

アホでもオッケー、上等だぜ
投稿者:ペンペン.投稿日時:2013年10月27日(日) 20:13.

政府、大学入試に「簿記」「語学検定」などの資格試験を活用 提言

どうせ やるなら、とことんやれ。簿記だけでなく、行政書士、宅建、土地家屋調査士、司法書士、不動産鑑定士、税理士、公認会計士も追加してやれ。

教育を受けるために必要な能力と教育によって獲得されるべき能力
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年10月29日(火) 10:54.

ペンペン さんが書きました:

簿記だけでなく、行政書士、宅建、土地家屋調査士、司法書士、不動産鑑定士、税理士、公認会計士も追加してやれ。

たしかにそうすれば、教育機能と評価機能を分離することができるのですが、そういう資格は、より上位の資格を取るための要件でもない限り、本来就職のための資格であって、入学のための資格ではありません。教育を受けるために必要な能力と教育によって獲得されるべき能力は区別されるべきでしょう。

STAP 細胞騒動と AO 入試
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2014年4月04日(金) 17:43.

STAP 細胞作製の発表当時、発表者の小保方が AO で大学に合格していたことから、AO を評価する声が上がった。

小保方さんが「AO入試組」という点も多くの関心を集めている。小保方さんは当時行われていた人物的に優れている生徒を入学させる「創生入試」というAO入試の一種を受験。応用化学科では、レポートや質疑応答で合否を決めていたという。実際に試験監督をした常田教授は小保方さんが手際よく実験をしていた姿や、近くにいた先生に「大学院の博士課程に行ったらどうなるんですか」と口にしていたことなどが印象に残っているという。

多様な人材を入学させる機会として各大学が採用している「AO入試」だが、一芸に秀でてはいるものの授業についていく学力のない人物が「もぐりこむ」仕組みだとして批判的な見方もある。実際に小保方さんのような数少ない「とがった人材」を見抜くのは難しく、常田教授も制度が十分に成果を出しているかについては疑問が残ると慎重だ。

それでも小保方さんの「合格」が創生入試の成果であることには変わりなく、早稲田のネット掲示板では「この天才をAOで発見した早稲田のスタッフは立派だ」「早稲田のAOは宝探しだ。光り輝く宝石を発見した早稲田、おめでとう」「受験マシーンが無双する受験方式の弊害役が証明された」と評価する声が上がる。[15]

こうした声は、捏造疑惑が浮上してからすっかり沈静してしまった。ここに書かれている称賛の声も今読み直すと皮肉な感じがする。

もちろん、たった一つの事例をもって AO 入試の良し悪しを言うことはできない。しかし、小保方の件を別にしても、一般的に言って、「人物本位」の選抜を行えば行うほど、実力のない見かけ倒しの人物が、一流企業に就職し、高い年収を手にするリスクが増えるということが言えるのではないだろうか。経済産業研究所の論文は、AO で入学する側のリスクを示しているが、採用する側のリスクも考えておく必要がある。

3. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. ここでの議論は、システム論フォーラムの「総合学習はなぜ失敗したのか」からの転載です。
  2. 文部科学省「高等学校学習指導要領解説(総合的な学習の時間編)」2009年7月.
  3. 文部科学省「小学校、中学校、高等学校等の学習指導要領の一部改正等について(通知)」平成15年12月26日.
  4. 文部科学省初等中等教育局教育課程課「新学習指導要領・生きる力」2008年4月25日.
  5. 文部科学省「中学校学習指導要領」Accessed. 21 Apr 2008.
  6. 文部科学省「平成23年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果について」平成24年9月11日. 文部科学省初等中等教育局児童生徒課.
  7. 文部科学省「教育 投資の現状」平成20年2月8日.
  8. 寺脇研「私はこう考える【教育問題について】」『中央公論』2004年2月号.
  9. 福田隆「大学入試改革:高校在学中「到達テスト」センター試験、統合も ― 政府検討」『毎日新聞』2013年06月06日. 東京夕刊.
  10. 浦坂純子, 西村和雄, 平田純一, 八木匡「大学入試制度の多様化に関する比較分析-労働市場における評価-」経済産業研究所. 2013年3月. p. 7.
  11. 浦坂純子, 西村和雄, 平田純一, 八木匡「大学入試制度の多様化に関する比較分析-労働市場における評価-」経済産業研究所. 2013年3月. p. 6.
  12. 浦坂純子, 西村和雄, 平田純一, 八木匡「大学入試制度の多様化に関する比較分析-労働市場における評価-」経済産業研究所. 2013年3月. p. 8.
  13. OFFICE-SANGA.「就活内定率が高いのは、AO入試より一般入試経験者 – 学科試験がカギか」『マイナビニュース』2013/10/12.
  14. 「2次の学力試験廃止 人物評価重視に」『毎日新聞』2013年10月11日.
  15. 「万能細胞」小保方晴子さんは早稲田大理工卒 出身者は「私大初のノーベル賞だ」「慶応に一矢報いた」大はしゃぎ" 『 J-CAST』2014/1/30.