空間はなぜ三次元なのか
私たちは、自分たちが三次元の空間の中で生きていることを自明だと考えているが、しかし三次元の空間は、決して直接的に知覚されるわけではない。なぜ私たちは空間を三次元と解釈するのか。
1. 空間は本当に三次元か
私たちがもっとも頼りとしている感覚は、視覚である。しかし視覚は二次元であって、三次元ではない。例えば、立方体は、斜めから見ると、正六角形に見える。そして本来直角であるはずの角は、120゜や 60゜に見えてしまう。
このことは、三次元の物体が二次元の網膜視野へと射影されていることを意味している。では、私たちはどのようにして二次元的に与えられた網膜像を三次元的に知覚するのだろうか。
心理学者は、三次元的知覚の要因として、網膜像的要因と網膜像以外の要因を区別する。網膜像的要因とは、陰影、網膜像の大きさ(大きいと近いように見える)、きめの密度の勾配(密度が濃いと遠くに見える)、重なり合い(重ねられると後ろに見える)大気遠近法(遠くを薄く描く)、線遠近法などのことである。しかしこれらは、二次元の映像を三次元に見えるようにするためにアニメ産業が使っているテクニックであり、私たちの視覚が三次元であることの根拠にはならない非本質的な属性である。
では、網膜像以外の要因である、水晶体調節、両眼視差、輻輳はどうであろうか。眼が遠くを見るとき、水晶体はチン小帯に引かれて薄くなる。すると水晶体の屈折率が小さくなり、焦点距離が長くなる。だから単眼でも遠近を感じることができるのだが、私たちはさらに位置の異なる二つの目を持ち、左右でずれた網膜像を融合することにより、視覚を立体化しようとする。その際、輻輳角(凝視点で交叉する両視線のなす角)から対象の距離を判断することもできる。輻輳角を2θ、両眼感の距離を2dとすると、正視している対象までの距離はdcotθということになる。
もっとも私たちは、実際の空間知覚でこうした計算をしているわけでもないし、光学的な推論をしているわけでもない。私たちの空間知覚はもっと体得的である。そもそも私たちは、水晶体が薄くなったり、輻輳角が小さくなったりすると遠くを見ているということをどのようにして学習したのか。
2. 視覚と触覚の結合
視覚的体験だけでは不十分と考えた近代の哲学者たちは、三次元の知覚は触覚的体験との連合により可能になると考えた。開眼手術を受けた成人は、健常者と物理的に同じ網膜像を見るにもかかわらず、それを三次元空間内に位置付けて整理することができないのは、幼少期に視覚と触覚の連合が行われなかったためだというわけである。
では、視覚と触覚の有意味的な連合は、いかにして行われるのか。私は、この問題を考えるために、感覚を受動的感覚と能動的感覚に分類してみたい。能動的感覚とは、現象学のジャーゴンで言えば、キネステーゼのことである。キネステーゼとは、運動を意味するギリシア語キネーシスと、感覚を意味するギリシア語アイステーシスの合成語で、運動感覚と訳される。しかしここでは、対比をはっきりさせるために能動的感覚と呼ぶことにしよう。
読者の中には、「静止している車に時速30キロで手を当てても、時速30キロで走っている車が静止している手に当たっても、物理的刺激は同じであり、したがって感覚を受動的/能動的に分類することには意味がない」と反論する人がいるかもしれない。しかし能動的感覚は、自由意志に基づいているという点で、受動的感覚とは質的に異なっている。自由意志に基づいて、身体を運動させれば、仮説→検証(反証)→確認(修正)という実験のプロセスを通じて、感覚を有意味に連合させることができる。感覚が、外的・偶然的に現れるだけなら、有意味な連合は不可能である。
3. 能動的感覚が空間を三次元にする
二次元的に与えられた視覚の三次元性を確かめる一番原始的だけれどもそれだけに根源的な方法は、視覚平面に垂直に手を伸ばすことである。
手は自由意志に基づいて、前へと伸び、抵抗を受けて自由は阻止される。もし自由が抵抗を受けなければ、あるいは私が自由を持たないならば、私は奥行きを知覚できないであろう。手を伸ばす能動的感覚が、手に衝動を感じる受動的感覚を引き起こして、はじめて私は視覚対象との距離を知るのである。乳児は、目に入ったものを何でも手を伸ばしてつかもうとするが、あれは視覚の三次元性を確認する学習を行っているのだと解釈することもできる。
視覚における水晶体調節や両眼輻輳も一種の身体運動であり、能動的感覚と受動的感覚の議論は、視覚だけでも成り立つ。もちろん運動視差のような、眼以外の身体の運動が引き起こす視野の変化も空間構成に寄与していることは言うまでもない。
三次元性の知覚には、能動的感覚と受動的感覚の両方が必要である。私たちは、三次元に運動する身体の能動的感覚を、それによって変化する受動的感覚を媒介として逆照射的に知覚し、空間の三次元性を認知していくのである。
ディスカッション
コメント一覧
「能動的感覚は、自由意志に基づいている」について。
「意志」とははたして「感覚」であるかどうか。知性と感性(感覚)という分類からみるなら、「意志」は知性に分類したい。知性=意志、感性(感覚)=物質というのが伝統的な二分法からみた区別ではないかと思う。
「二次元的に与えられた視覚の三次元性を確かめる一番原始的だけれどもそれだけに根源的な方法は、視覚平面に垂直に手を伸ばすことである」について。
この表現で言われていることは感覚ではなく、思考や意志をもちいて行為している。感覚とはどこまでも、対象に即しての運動である。こちから手を伸ばすのは、感覚でなくて、確かめるという目的をもった実践的行動である。従ってこの行動は意志の問題である。だから、ここで言われていること(三次元性)は、すでに感覚の世界ではなくて、知性の、認識の、世界である。(この私の反論は不毛のものになりそうである。)
フッサールの用語はまだ、ある程度確定したものになっていないようですね。運動感覚(Bewegungsempfindung, Kinaesthese)をたまたま図書館から借りてきた、新田義弘編『フッサールを学ぶ人のために』(世界思想社)で調べてみると、論者によって解釈がまちまちで困りました。
「能動的感覚は、自由意志に基づいている」ということは、「能動的感覚は、自由意志である」ということを意味しません。つまり「手を動かしているという感覚」と「手を動かそうとする意志」は同じではありません。カントは、思惟の自発性(Spontaneitaet)と印象の受容性(Rezeptivitaet)を対比させましたが、私が言っている能動的/受動的という区別は、こうしたSpontaneitaet/Rezeptivitaetとは別の区別です。「手が見える」という受動的感覚においても、自発的な概念的把握が働いています。
知性=意志vs.感性(感覚)=物質という二元論は粗雑すぎます。意志には、知性以外にも欲望やその他あらゆる種類の認識の要素が前提されています。また前庭と半規管は傾きと回転方向を知覚しますが、こうした平衡感覚は物質といえるでしょうか。
「なぜ空間は3次元なのか」この問いは「駄々っ子の要求」となる。
この問いをするなら、次の問いも、する価値があるのか。
1.時間はなぜある 時間とはいかなるものか
2.空間はなぜ3次元 空間は何次元からなるか
3.なぜ長さがある。 長さとエネルギーの相互関係
4.なぜ宇宙がある 宇宙の構造と時間的最後と誕生
5.なぜ原子がある 原子の性質
6.なぜ光がある 光の性質
7.なぜエネルギーがある エネルギーとは
8.なぜ哲学をする 哲学の範囲と限界
9.なぜ素粒子がある 素粒子の種類と構造
我々はすでにあるもの存在理由を問うことは、いかなる意味をなすのか。
すでに、あるものへの問いは後列の内容が質問として意味を持つのである。
人間が創造した言語と論理学は、意味をなさない「構文」を創造する場合がある。
特に、哲学ではその傾向が強い。 子犬が自分のしっぽを追いかけるような様をよく見かける。 「神は存在する」 人間のみが創造した文脈である。
上の問いの答え「世界は一つしか存在しないのか」に投稿した存在論参照
1.時間:総合的存在に組み込まれた時間は個性的のため、人間が認識することはできない。 時間の単一的および複合てき認識は汎用的で、人間が認識する時間である。 実在の時間と人間が認識する時間は次元的にことなるため、そのように感ずるものである。
2.空間はなぜ3次元:3次元空間とは、実在する空間は総合的認識の範疇であるため、人間の認識外である。 しかし、空間のもつ複合的存在は人間にも認識できる。 2次元と3次元の認識には明らかに分別できるから、人間はまさしく3次元複合存在を認識していることになる。 2個の目で見た2次元の複合こそ、実在する3次元空間の複合的存在そのものである。
詳細はしりませんが、空間は三次元ではないことが証明されているはずです。もしくは三次元ではない可能性が高いことが証明されている。
簡単な例として、どの力[重力、クーロン力など]も[1/{(距離)の2乗}]に比例するので、空間は3次元ですが、最近は少なくとも重力に関してその法則が疑われており、[1/{(距離)の2.0000?乗}]比例することが実験で示され、つまり4次元です。もう一つの次元に相当する空間は非常に小さい[1μm~30万km]ことが予想されていたと思います。他の3個の次元は等しく200億光年です。小さすぎて、認知できないのだということです。
M理論によれば空間は十次元ですが、ここで問題にしていることは、空間が物理学的には何次元なのかではなくて、なぜ私たちは空間を三次元と解釈しているのかということです。