宇宙は一つしか存在しないのか
教育ママが、子供の勉強部屋のドアを開けたところ、子供は、机に向かって勉強していたとしよう。猜疑心の強いママなら、「もしかすると、うちの子は、私が見張りに来た時だけ勉強するふりをして、ドアが閉められると、遊んだり怠けたりしているのではないかしら」と心配するかもしれないが、「ドアが閉められると、うちの子は、勉強していて、かつ勉強していないという矛盾した存在になる」と空想するママはいない。物理学者には、そうした想像をする人々がいる。もっとも、自分の子供に関してではない。目に見えない小さな粒子についてであるが。
1. コペンハーゲン解釈
量子力学によれば、ミクロの粒子は、複数の可能的状態が重なった波動関数としてしか記述できない。例えば、電子は、太陽の周りを廻る地球のように原子核の周りを廻っている確定的存在ではなく、雲のような不確定的存在として原子核を取り巻いている。この不確定な重ね合わせの状態を直接観測することはできない。観測しようと光を当てると、波動関数が収縮し(つまり複雑性が縮減され)、電子は一つの粒子としてその位置が確定されてしまう。
量子力学以前の科学や哲学は、不確定性は認識主観の能力不足から生まれるのであって、客観的世界は確定的であるはずだとしてきた。量子力学のコペンハーゲン解釈は、こうした《客観的=確定的》対《主観的=不確定的》という関係を逆転させ、客観的には不確定で主観的には確定的という新しい存在論を提唱した。
2. シュレディンガーの猫
コペンハーゲン解釈のパラドキシカルな性格を指摘したのが、有名な「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験である。箱の中に、確率1/2で崩壊する微量の放射性原子核の入ったガイガー計数管と生きた猫を入れ、ガイガー計数管が放射性崩壊を感知すると、一連の装置が作動して、ハンマーが青酸ガス入りのビンを割るようにしておくならば、箱の中には、中を覗いて確認するまでは、生きた猫と死んだ猫が重ね合わさって存在するのかというわけである。
同じ猫が生きていると同時に死んでいるという重ね合わせは、誰にでも分かる明白な矛盾である。しかしミクロな粒子が波束であるということもそれと同じぐらい矛盾しているのである。もし矛盾律を否定するなら、いかなる判断も許されるから、矛盾律だけは守らなければならない。記号論理学的な用語を使うならば、矛盾を解消するには、条件法導入という手法がある。すなわち、生きた猫を観測した認識者と死んだ猫を観測した認識者を別の世界へと割り振れば、矛盾を解消することができる。
3. 多世界解釈
こうして登場した、コペンハーゲン解釈の有力な代替案が、多世界解釈である。コペンハーゲン解釈が一つの世界に複数の状態を重ね合わせるのに対して、多世界解釈は複数の世界のそれぞれを一つの状態にする。私達は、認識という複雑性の縮減を通じて、絶えず分岐する複数の世界の一つを選び取って、そこで生きている。今こうしてウェブページを読んでいるあなたも、別の世界では恋人とデートしているかもしれないし、また別の世界では、イスラム特攻隊として自爆テロを決行しているかもしれないのである。
多世界解釈は、しばしばSF的だと言われるが、その主張は決して荒唐無稽なものではない。多世界解釈をメタファーで説明しよう。例えば、今あなたは電光掲示板を見ているとする。電光掲示板では、固定された各表示素子である発光ダイオードが点滅しているだけなのだが、あたかも電光掲示板上を文字や絵が動いているように見える。各表示素子は、光以外にも超音波で別の情報を発信しているとしよう。するとこうもりのような生き物は、光の情報は受信できないが、超音波の情報は受信できるので、同じ電光掲示板から、超音波を受信することができない人間とはまったく違う認識を得ていることになる。二つの相反する認識のどちらか一方が真理というわけではない。人間とこうもりは、別の世界を生きているのである。
日本人はもともと、黒澤映画の『羅生門』に描かれているような《ストーリーの数だけヒストリーがある》という多元的世界観に抵抗を示さないのかもしれない。近代西洋哲学では、一つしかない世界に複数の認識があることが神ならぬ人間の認識の有限性であるとされてきたが、多世界解釈に従うならば、世界が複数存在するにもかかわらず、世界は一つしかないと考えている、あるいはそう考えなければ生きていけないことこそ人間の有限性だということになる。量子力学の多世界解釈は、定説になったとはまだいいがたいが、物理学の枠を超えた、哲学的に興味ある仮説である。
4. 関連著作
- 須藤靖『不自然な宇宙 ― 宇宙はひとつだけなのか?』講談社ブルーバックス (2019/1/17).
- 和田純夫『量子力学が語る世界像 ― 重なり合う複数の過去と未来』講談社ブルーバックス (1994/4/20).
- 松浦壮『量子とはなんだろう ― 宇宙を支配する究極のしくみ』講談社ブルーバックス (2020/6/18).
- 佐藤勝彦『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』PHP研究所 (2000/3/31).
- 吉田伸夫『量子論はなぜわかりにくいのか ―「粒子と波動の二重性」の謎を解く』技術評論社 (2017/4/13).
ディスカッション
コメント一覧
シュレディンガーの猫のパラドックスについては、様々な書物で面白おかしく紹介されているため、一般の方にも有名な話題になっているようですが、実はこれはパラドックスでも何でもありません。
多くの方が見逃しているのが、誰かが箱の中を覗くまで観測は行われていないのかということです。その部分を貴兄の文章の中から引用してみましょう
「ガイガー計数管が放射性崩壊を感知すると」
もうお分かりと思いますが、ガイガー計数管が放射性崩壊を感知した時点で「観測」が行われているため、波動関数はこの時点で収束しています。実験者がその事実を知っているかどうかは意味がありません。たとえば、ガイガー計数管の信号を外部で検出できるように事前に配線しておけば、実験者はその事実を知ることができたはずですから。
波動関数が収束している以上、放射性崩壊が起きたか起きていないかはこの時点で確定しており、猫の生死も確定しています。この話は、もう20年近く前、私が学生だったころに読んだ教科書に記述されているような話ですが、なぜか一般には知られていないようです。
量子力学はミクロの世界の学問であり、猫のようなマクロの存在者には直接に適用できません。猫の話は、量子力学のパラドックスを一般の人にわかりやすく説明するための比喩のようなものです。だから、私も「同じ猫が生きていると同時に死んでいるという重ね合わせは、誰にでも分かる明白な矛盾である。しかしミクロな粒子が波束であるということもそれと同じぐらい矛盾しているのである」というような書き方をしたわけです。比喩をまじめに批判しても意味がありません。
MOSさんが問題にしていることは、観測が成立した時点は、ガイガー計数管が放射性崩壊を感知した時点なのか、猫が青酸ガスを感知した時点なのか、猫の死体の光学的刺激が人間の網膜に映った時点なのか、それともその情報が脳に到達した時点なのかというようなことだと思いますが、これは、量子力学のパラドックスを理解する上で重要ではありません。重要なことは、観測が行われる以前には、複数の可能性が等しい実在性を持って存在するということであり、それは、「現実は一つしか存在せず、他の可能性は、人間が勝手に作り上げた空想の産物に過ぎない」と信じている多くの人にとって、パラドックスなのです。
おっしゃている部分に同意できない部分はほかにもありますが、とりあえずひとつだけ申し上げるにとどめます。「ミクロな粒子が波束である」ことが矛盾しているかどうかという議論には意味がありません。量子は「量子」という”あるもの”でしかなく、それを、既知の概念で説明しようとしたら、波が適当であるため、科学者たちが便宜的に、波束という概念で説明しているだけにすぎません。
では、こういう議論は成り立つでしょうか。「同じ物が存在し、かつ存在しない」という命題は、古代ギリシャ以来、矛盾ということになっていますが、その矛盾は見せかけだけのものであり、実際には、不確定的存在という一つのモノが存在するだけである云々。
最後にもう一度だけ言いますね。 手段とか方便と、本質をごっちゃにしないでくださいね。大変失礼ながら、これ以上の議論には意義を見出せないので これを私からの最後の投稿とさせていただきます。
アセロラ観測により、波束が収縮するというのがMOSさんの意見ですが、観測により波束が収縮するというのはあくまで、実験事実を説明するための解釈の一つであり、まだ確かめられているわけではないことであって、それをすでに確定した事実かのように扱うのは間違っていると思うのですが、どうでしょうか?
少なくとも、現在の量子力学ではどの時点で、そしてどのような理由で波束が収縮するかは記述できていません。例えば、光子1個を観測するにしても、光電効果により発生した電子を光電子増倍管で増幅することで、我々に観測できる電気信号とするわけです。ところが、観測により、波束が収縮するといった場合、いったい電子がいくつになったら、そしてどういう理由で波束が収縮するか、量子力学では何も説明できていないわけです。
一方、量子力学をバカ正直に適応すると、マクロな系もまたミクロな系の集まりである以上、最終的にはマクロな系も重ね合わせ状態になってしまうはずです(つまり「猫の生死の重ね合わせ」)。従って、正直に量子力学を適応した時の解釈が、多世界解釈だと思います。どう思われますか?
私もアセロラさんと同じ考えなのですが、ただ、マクロはミクロの集まりだから、ミクロが不確定なら、マクロも不確定のはずだという議論に対しては、慎重でなければならないと思います。古典力学的な例なので、あくまでも比喩でしかありませんが、例えば、さいころを6万回振った時、n(1≦n≦60000)回目に何が出るかは全く不確定ですが、1の目が何回出るかに関してはかなり確定的に予測できますし、気体分子の個々の運動は全くでたらめですが、系全体の状態については確定的な法則が成り立ちます。ですから、106号でやったように、多世界解釈を日常的な世界にまで適用してよいものかどうかに関しては自信がありません。
「解釈」が何に対する解釈か?という点において、永井さんの考えと、私の考えにズレがあるように思えたため、ここで確認させていただきます。まず、解釈問題というものはそもそも、波束の収縮に対する解釈という意味ですよね。
例えば、ダブルスリットの実験で、電子一個をダブルスリットに入射すると、干渉縞が現れる。つまり、電子は両方のスリットを同時に通過しているはず。にも関わらず、スリットの部分で電子を測定すると必ずそのどちらかにしか電子が観測されない。実験の方法によって、電子の存在のしかたが異なっているように見える、そんなバカな・・どう解釈するべきか・・ということですよね。
で、多世界解釈というのは、電子をスリットの部分で観測すると、あるスリットで電子を測定した自分と、もう一方のスリットで電子を測定した自分に分かれるため、上記のような結果になるという解釈ですよね。つまり、「多世界解釈」から、マクロな重ね合わせ状態を除いてしまったら、それは一般に言う「多世界解釈」とは言えないと思うのですが、どうでしょうか?
「多世界」の「多」は、観測される対象ではなくて、観測する側の多数性のことということでしょうか。「マクロな系もまたミクロな系の集まりである以上、最終的にはマクロな系も重ね合わせ状態になってしまうはずです(つまり「猫の生死の重ね合わせ」)」という説明を読んで、私はてっきり、アセロラさんは、前者のことを念頭においているのかと思いました。
猫は、観測者であると同時に、私たちからすれば、観測される対象でもあるので、微妙ですが、認識能力のないマクロな対象に関しても、多世界でありうるのでしょうか。マクロな対象なら、どちらか一方のスリットしか通過できません。ミクロな観測対象だけでなく、マクロの観測対象までが多世界的でありうるかどうか、そこが問題です。
「多世界」の「多」は観測される対象、観測する側、どちらであるとも言えます。観測される対象を、観測者が観測した瞬間に、観測者は、観測される対象の世界に飲み込まれるのだと思います。つまり「多世界解釈」では、重ね合わせ状態と相互作用したすべてのものが、その世界に飲み込まれるものと考えます。
図で具体的に書くと下のようになります。縦の線は相互作用がないことを表します。
原子が崩壊 | | |
+ |猫(生)| 人(猫をまだ見ていない)|
原子が未崩壊 | | |
↓ガイガー計数管が原子を測定
原子が崩壊 猫(生)| |
+ | 人(猫をまだ見ていない)|
原子が未崩壊 猫(死)| |
↓人が猫を見る
原子が崩壊 猫(死) 人(死んだ猫を見た) |
+ |
原子が未崩壊 猫(生) 人(生きた猫を見た) |
このように、最初原子の重ね合わせ状態でしかなかったものが最終的には猫、さらに人をも含めた重ね合わせ状態にまで広がっています。
以前、言いましたように、「多世界解釈」は、量子力学が正しいとして、系に適応すると自然にでてくる解釈だと思います。もちろん、永井さんのおっしゃるように、マクロな重ね合わせ状態というものは存在しない可能性も否定できません(マクロに行く過程で重ね合わせ状態が壊れるといったことによって)。但し、そのような理論はまだ確立されていません。
後、「マクロな対象では、どちらか一方のスリットしか通過できない」と言うわけではありません。原理的には、その対象のド・ブロイ波長以下のスリットを作ることができれば、対象は両方のスリットを同時に通過し、干渉縞を作ります。ただし、実験的には、非常に難しいですが・・ダブルスリットの実験を、できるだけ大きな対象で行おうとする実験は盛んに行われていて、最近最も大きいものでは、フラーレンでの実験がなされています。次は、ウィルスで行おうと頑張っている研究室もあります。