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ブライアン・グリーンと超ひも理論

2013年11月26日

世界中の物理学者が万物の理論が追い求めている。物理学の最先端は、素人には理解しがたいが、そんななか、ブライアン・グリーンが一般向けに分かりやすい本とドキュメンタリー・ビデオを出版している。このページでは、それらを参考に、超ひも(超弦)理論、時間と空間、量子跳躍、マルチバース、人間原理といった物理学のテーマについて考えてみたい。[1]

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バイオリンの絃の振動がメロディを生み出すように、超ひも(超弦)の振動が万物を生み出すのだろうか。

1. ブライアン・グリーンと超ひも理論

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月26日(火) 17:14.

ブライアン・グリーン(Brian Greene; 1963年2月9日 – )は、超ひも(超弦)理論を専攻する物理学者であると同時に、一般向けの著作を執筆するサイエンスライターでもある。超ひも理論をわかりやすく解説した彼の著作、特に『エレガントな宇宙』と『宇宙を織りなすもの 』は全米でベストセラーとなり、それぞれ同名のドキュメンタリ番組として映像化されてもいる(以下のリストを参照)。

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世界科学フェスティバルの記者会見場でのブライアン・グリーン。"Brian Greene at the World Science Festival launch press conference" by Markus Poessel. Licensed under CC-BY-SA

このトピックでは、これらの著作を読んで、あるいはドキュメンタリ番組を見て思いついたことを書き連ねたい。

(英語原文)

(日本語訳)

(ドキュメンタリ)

1.1. エレガントな宇宙

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月26日(火) 17:17.

相対性理論と量子論は両立しない理論であるにもかかわらず、前者はマクロな対象の理論、後者はミクロの対象の理論というように棲み分けることでこれまで問題を回避してきた。しかし、ブラックホールやビッグバンの時の宇宙など、量子論の対象となるほど小さくて、それでいて一般相対性理論を無視することができないぐらい大きな重力が働く対象を研究する場合、両者の両立不可能性は致命的な欠陥となる。両者を適用すると無限大の確率というナンセンスな解が出るのである。これは究極の要素を点とみなしているからであり、相対性理論と量子論の両立というアインシュタインの夢を実現するには、有限な大きさを持ったひも、あるいは、1995年以降支配的な理論であるM理論では、p次元の大きさを持ったpブレーンを究極の要素とみなさなければならない。

こうした問題意識と解決の方向は、素人が聞いても納得できるものだが、超ひも理論、あるいはより包括的にひも理論は、長らく科学界のエスタブリッシュメントから無視されてきた。その最大の理由は、ひも理論は、その正しさを実験によって検証することがきわめて困難な形而上学的な理論だからである。1986年に、ハーバードのノーベル物理学者であるシェルダン・グラショウは、同僚のポール・ギンスパークとともに、次のようにひも理論を貶していた。

Desperately Seeking Superstrings p. 7 (date) 25 Apr 1986 (author) Paul Ginsparg, Sheldon Glashow さんが書きました:

理論と実験を突き合わせるという伝統的な営みの代わりに、ひも理論研究者は内的調和を追求する。そこではエレガントであること、一意的であること、美しいということが真理を決定する。この理論の存在は、不思議な一致と奇跡的な消去、無関係に思われる(そして、おそらくまだ発見されていない)数学の分野どうしの関係にかかっている。こうした特性が、超ひも理論の実在を受け入れる理由なのだろうか。数学と美学がたんなる実験に取って代わり、それを凌駕するというのか。

In lieu of the traditional confrontation between theory and experiment, superstring theorists pursue an inner harmony where elegance, uniqueness and beauty define truth.The theory depends for its existence upon magical coincidences, miraculous cancellations and relations among seemingly unrelated (and possibly undiscovered) fields of mathematics. Are these properties reasons to accept the reality of superstrings? Do mathematics and aesthetics supplant and transcend mere experiment?

経験論的な哲学が支配的なアングロサクソンの科学界では、理論は実験と突き合わせることで形成されるのが近代科学の伝統だという認識が主流である。しかし、それは伝統というよりも神話に近い。実験物理学の元祖とみられているガリレオですら、純粋な数学的計算による理論形成を先行させ、実験による検証は後回しにしていた。科学の歴史を振り返ってみると、美意識や宗教的信念といったおおよそ科学的とは言えない動機で理論が創作され 、かなり後になってから別人が行った実験によりその正しさが実証されるというケースが少なからずある。

例えば、超ひも理論に先立って素粒子物理学における支配的パラダイムとなった標準理論もそうである。電子の反粒子の存在を予言し、標準理論の先駆者となったポール・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac; 1902年8月8日 – 1984年10月20日)は、「数学的な美を持つ理論は実験的データに適合する見苦しい理論よりももっと確からしい[2]」とまで言っていた。以来、素粒子物理学者は対称性という美しさの基準を手掛かりに、標準理論を構築しようとした。これに対して、南部陽一郎(1921年1月18日 – )は、自発的対称性の破れを提案し、CP 対称性の破れを理論化した小林誠や益川敏英とともに、2008年にノーベル物理学賞を受賞した。

2008年のノーベル物理学賞は、三人の日本人が一度に受賞したことで話題になった(もっとも南部の国籍は米国だが)。しかし、これは偶然ではない。自発的対称性の破れは日本人の伝統的な美意識を反映しているからである。欧米では、プラトンのイデア論以来、永遠不滅の秩序を美しいと感じる伝統がある。ところが、日本人は、桜の花のように、すぐに散ってしまうはかない存在に美を見出す。いくら見た目に美しくても、梅の花のように長持ちする花はだめなのである。それはおそらく日本人に顕著な胎内回帰願望(死への欲動)のゆえなのだろう。欧米の物理学者が、対称性という永続する秩序に美を見出したのに対して、南部はむしろ、自発的に散ってしまう桜の花のような対称性の破れに美を見出したと考えることはできないだろうか。

何に美を見出すかは別として、ブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』という表題には、宇宙はエレガントでなければならないという彼の美意識に基づく信念が表されている。シェルダン・グラショウとポール・ギンスパークが言うように、実験による実証ができない以上、ひも理論研究者の支えとなってくれるのは、数学的整合性がもたらす美的満足だけである。その点で、グリーンにとってひも理論は芸術と共有点を持つ仕事だということができる。彼は、父が音楽家であったこともあって、音楽が大好きで、the World Science Festival などで科学と音楽を融合することを試みている。これは、宇宙の秩序と音楽のハーモニーを同一視したピタゴラス学派以来の伝統とみることができるが、ひも理論とは、ひもの振動が奏でる音色の違いが様々な物質の違いをもたらしているという理論なのだから、ピタゴラス学派的な科学への音楽の持ち込みは不当ではないのかもしれない。

1.2. 宇宙を織りなすもの

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月27日(水) 13:09.

二番目の一般向け著作は、『宇宙を織りなすもの』である。“The Fabric of the Cosmos”は前作でも使われていたグリーンお気に入りの表現で、織物という言葉を使うのには、以下のような理由があると考えられる。

  • 織物は経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を交差させて作られている。宇宙を織りなすものとは時空体のことであり、経糸は時間で緯糸は空間とみなすことができる。相対性理論が説くように、時間と空間は独立しておらず、相互に絡み合って影響を与えており、しかも織物のように、伸びたり、縮んだり、歪んだりする。
  • このメタファーは相対性理論だけではなくて、ひも理論にとっても好都合である。ちょうど織物が糸(string)から作られているように、宇宙はひも(string)からできているというのがひも理論だからだ。超ひも理論によれば、高次元がひもにおいてコンパクト化されているので、毛織物のようなものを想像すればよいかもしれない。

PBS が制作したドキュメンタリー番組は、次のような四部構成となっている。

  1. What Is Space?
  2. The Illusion of Time
  3. Quantum Leap
  4. Universe or Multiverse?

以下この順に論評しよう。

1.3. 空間とは何か

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月27日(水) 15:01.

書籍の方の『宇宙を織りなすもの』では、ニュートンが提起したバケツの問題が取り上げられている。水の入ったバケツをロープでつるし、そのロープをねじりあげて、手を放すと、最初はバケツは回転するものの、水は静止している。それは、ニュートンによると、バケツは絶対空間に対して回転しているが、水は静止しているからだ。やがて摩擦により、水もバケツと同様に回転し始め、中央が窪み、周辺が盛り上がる。そしてバケツが回転を止めても水が回転を続け、中央が窪んでいるのは、水が絶対空間に対して運動しているからだというのがニュートンの説明である[3]

バケツの縁に蟻がいるとしよう。水がバケツとともに回転しているなら、蟻から見た水は静止しているということになる。もしも運動が観測システムに依拠した相対的なものにすぎないなら、バケツと水がともに静止している時と同じ光景が見えるはずである。しかし、前者においては後者とは異なり、加速度が働くので、周辺が盛り上がってしまう。これは相対主義者にとっては不都合な事実である。

動画では、バケツでは絵にならないからなのか、代わりに氷上でスピンするスケーターが例として出されているが、同じことだ。スタンドにいる観客から見れば、回転しているのはスケーターだが、スケーターの靴に乗っている蟻の視点から見ると、回転しているのはスケート場の方である。それだけならどっちでも同じなのだが、ニュートン物理学によると、回転しているのは、スケーターであって、スケート場ではない。その証拠に、スケーターが絶対空間に対して回転している時は、遠心力(向心力)が働いて、腕が外向きに持ちあがるのに対して、スケーターが絶対空間に対して静止し、スケート場が同じ角速度で回転している時には、蟻から見た光景は同じでも、腕が外向きに持ちあがるという現象が生じない。

もしもこの世に等速度運動しか存在しないなら、絶対空間を想定する必要はなく、ガリレオが発見した相対性原理に安住すればよい。しかし、この世には、回転運動もその一つだが、加速度運動が存在し、そしてニュートンが発見したように、加速度運動では力が働く。もしも絶対空間という基準が存在しないなら、加速度運動と静止を含めた等速度運動との区別がつかなくなり、力が働く場合とそうでない場合の区別が失われてしまう。これは不合理である。ゆえに絶対空間は存在するというわけだ。

ライプニッツは、ニュートンの絶対空間の考えを批判し、空間とは、たんに諸物体の位置関係を記号化するために便宜上作られた言葉にすぎないと考えた。このフォーラムでも「空間はけして観測できない。人が信じる空間というのは脳が発生させるイメージ(クオリア)である」というトピックを立てている人がいるが、こうした空間を虚構視する人は昔からいたのである。しかし、ライプニッツのような相対主義者は、ニュートンが提起したバケツの問題を解決できなかったので、支持されなかった。

事情が変わったのは、エルンスト・マッハが新しい相対主義を唱えてからである。ニュートンの物理学では、たとえ宇宙に他に何もないと仮定しても、回転するバケツやスケーターには遠心力が働くということになるはずなのだが、マッハはそうではないと主張する。マッハによれば、物体に力が働いて加速度運動が生じるのは、絶対空間に対してではなくて、宇宙に存在する物質の総体に対してであり、もしも宇宙に存在する物質が少なければ、物体に働く力はそれだけ弱くなり、他に何も存在しない空っぽの空間の中なら、回転体にはもはや何の遠心力も働かず、回転しているか静止しているかという区別は完全に意味を失うというのである。

アインシュタインは、当初、マッハの考えを重視していたが、やがてそれに幻滅し、後には完全にそれを捨て去った。アインシュタインと言えば、相対性理論で有名であり、マッハ的な相対主義と親近性がありそうである。アインシュタインの相対性理論では、たしかに時間と空間は相対的な概念であるが、四次元時空自体は絶対的な実体である。だから、本当は相対性理論という呼称は、あまり適切ではない。相対性理論という呼称は、アインシュタインが提唱したものでもなければ、アインシュタインが気に入っていたいものでもなかった。そこで、何人かの物理学者は、普遍性原理という呼称を提案したぐらいである[4]

何と呼ぶかは別として、アインシュタインの理論によれば、時空は運動の最終的な判定基準になることができる絶対的な実体であり、他に何もない宇宙でも、バケツやスケーターは回転することができるし、現在の宇宙と同様に回転体には遠心力が働く。その点では異なるのだが、アインシュタインの理論とマッハの理論には、ニュートンのように時空を重力から超越的な座標とはとらえていないという点で共通点がある。一般相対性理論が加速度の判定基準とする時空は、重力場であって、この点ではマッハの理論に近い。

私は、この箇所を読んで、廣松渉の『相対性理論の哲学』を想起せざるを得なかった。廣松は、実体概念から関係概念へのパラダイム転換を提唱していた哲学者で、相対主義的あるいは現象主義的な関心からマッハの科学哲学を研究していた。この本には、マッハの相対主義的な哲学がアインシュタインの一般相対性理論に貢献したとみなす1964年の論考とその解釈を再確認する1980年での「自家評釈」が収められている。アインシュタインがニュートンの絶対空間に挑戦しようとしたマッハからインスピレーションを受けたのは事実だろう。しかし、最終的には、アインシュタインの相対性理論は、マッハの物理学や哲学とは異なるものとなった。

廣松は、時空間を絶対的存在とみなしたアインシュタインの「合理論的実在論」を批判しているが、アインシュタインの「合理論的実在論」が抱えていた哲学的問題は、別のところにあると思う。それは、量子論がもたらした不確定性のパラダイムであり、アインシュタインも廣松もこの新しいパラダイムを受け入れることはできなかった。この話は、詳述し始めると長くなるので、別の機会に譲りたい。

1.4. 時間という幻想

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月27日(水) 17:36.

1回目が空間なら、2回目は時間である。時間の不可逆的な流れは、通常エントロピーの不可逆的な増大で説明される。ところが、グリーンは、エントロピーは時間の矢の問題を解決しないと主張する。グリーンは、物理法則には過去と未来の区別がないこと、すなわち、時間反転対称性(CPT対称性のうちのT対称性)があることから、エントロピー増大則(厳密に言えば、非減少則)は未来に対してのみならず、過去にも当てはまると言う。つまりエントロピーは時間とともに増えるだけでなく、過去に向かっても増えるというのである。

だが、これは明らかに現実とは異なる。プレビュー動画では、落下して割れるグラスの破片の速度ベクトルをグリーンが逆向きにすることで、逆の動きを再現するシーンがあるが、もちろんこのようなことは自然には起きない。エントロピーの法則が示す通り、宇宙の始まりであるビッグバンではエントロピーがきわめて低く、時間とともにエントロピーが増えていったというのが現実である。グリーンは、将来量子力学が、過去と未来を非対称に扱うことが明らかになれば、そして、エントロピーが過去に向かって減少していくことが示されれば、時間の矢の問題は解決すると言うのだが、本人はそうならないという見通しを立てているのだから、驚きである。

なお、グリーンは、『 宇宙を織りなすもの』の注(6-2)で、K 中間子の T 対称性の破れがCERN の CPLEAR 実験とフェルミ研究所の KTEV 実験により直接的に立証されたことに触れている。それでもグリーンは「これらは高エネルギー衝突が起こる一瞬に生み出されるエキゾチックな粒子であって、おなじみの物質を構成する粒子ではないから」という理由で、日常的な世界における時間の矢の謎の解明にはつながらないと言っている。

では日常的な世界における不可逆的な現象を考えよう。水槽に赤インクを落とすとインクの分子は拡散し、水槽はやがて薄いピンクとなるが、その逆の現象は起きない。これはエントロピー非減少則を示すおなじみの例である。インク分子のような微粒子が溶媒中に拡散する運動はブラウン運動と呼ばれ、ブラウン運動を駆動する揺動力(fluctuating force)は、ランジュバン方程式(Langevin equation)という確率微分方程式で記述されるのだが、この方程式は時間反転対称性を持たない不可逆な方程式である。だから、将来量子力学が過去と未来を非対称に扱うことを待つまでもなく、マクロな世界における不可逆性が数学的に示すことができる。

動画のタイトルは「時間という幻想(The Illusion of Time)」だが、グリーンは、「不可逆性という幻想」という意味でこのタイトルを付けたのかもしれない。しかしむしろ「不可逆性という幻想」こそが幻想ではないだろうか。もちろん、エントロピー非減少則に本当に例外がないのかどうかはわからない。有限な経験しかできない私たちに法則の絶対性を保証する能力はない。しかし、エントロピー非減少則には、いまのところ例外は見つかっていないのだから、孤立システムのエントロピーが過去に向かって増大するなどということはありえないと言うべきである。

1.5. 量子跳躍

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月27日(水) 19:48.

第三回目のテーマは量子力学である。波動力学の基礎方程式であるシュレーディンガー方程式における波動関数をどう解釈するかをめぐって1世紀にわたる論争が続いているが、様々な解釈の提案はあるものの、未だに決着していない。グリーンによれば、シュレディンガー方程式のみで解釈する立場とシュレディンガー方程式を変更もしくは補足して解釈する立場の二つに大別できるとのことである。

(1)シュレディンガー方程式のみで解釈する立場

  • ハイゼンベルクに遡るコペンハーゲン解釈。私たちの観測が、電子の波動関数を収縮させる。→宇宙が人間の知識に依存しすぎている。
  • エヴェレットによる多世界解釈。あらゆる可能性は、無数のパラレル宇宙で実現する。→宇宙の数が途方もなく増殖する。固有基底をどう選ぶかという問題がある。
  • マレイ・ゲルマンなどによる量子デコヒーレンス解釈。熱ゆらぎにより、異なる量子状態の間の干渉(コヒーレンス)が消失することで波動関数が収縮する。→どの可能性が選ばれるのかそのメカニズムがはっきりしない。

(2)シュレディンガー方程式を変更もしくは補足して解釈する立場

  • デービッド・ボームによる存在論的解釈。電子は確定した位置と速度を持ち、たんに隠れて見えないだけである。→波動関数が粒子に対して光速以上の速さで影響を与えることになる。また、シュレディンガー方程式とは別にその影響を示す方程式を決めなければならない。
  • ギラルディ、リミニ、ウェーバーによる解釈。一粒子の波動関数は10億年に一度の割合で自発的に収縮すると仮定。大きな物体を構成している粒子は、すべてエンタングルしているので、一つでも収縮すれば、ドミノ効果により、すべての波動関数が収縮する→シュレディンガー方程式を修正して、自発的収縮を正当化する実験的証拠はない。

グリーンは、『宇宙を織りなすもの』では、エヴェレットによる多世界解釈に対して否定的で、量子デコヒーレンス解釈に好意的だった。私は「宇宙は一つしか存在しないのか」で他世界解釈を有力仮説として扱ったので、この評価は意外だった。もっともグリーンは、『隠れていた宇宙(下) 』第八章では、多世界解釈を最も重点的に扱っている。だからこの間に考えの変化があったのかもしれない。

グリーンは、しかしながら、多世界解釈を受け入れることに躊躇している。彼は、どちらの本でも、波動関数における確率の違いが実在に与える影響が不明であることを問題視しているのだが、確率の違いは、実現される宇宙の数の違いとして現れるというのが素直な解釈である。宇宙は無数の選択の連言であるから、各選択ごとに、確率の比に応じて宇宙の数が決まるとしても、同じ宇宙が存在することにはならない。

動画の The Elegant Universe には「量子カフェ」、The Fabric of the Cosmos には「量子クラブ」と呼ばれる、量子的世界の摩訶不思議な現象を再現した奇妙な店が登場する(プレビュー動画にも少し出てくる)が、『エレガントな宇宙での呼称では、H バーということになっている。こちらの方がしゃれた名前だ。物理学でエイチバーと言えば、プランク定数 h を 円周率 π の 2 倍で割った値(ディラック定数)で、h に横線を引いた特殊な記号で表される。この記号はシュレディンガー方程式にも含まれており、量子的な現象が現れるバーの名称としてはうってつけである。

1.6. ユニバースかマルチバースか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月27日(水) 20:20.

四回目の“Universe or Multiverse”という原題はうまく日本語に訳すことができない。敢えて日本語にすると「宇宙は一つしか存在しないのか、それともたくさんあるのか」という所だ。“universe”は一つ(uni)の詩節(verse)という意味であり、“uni”を多数という意味の接頭語“multi”に変えることで、多数の詩節=多くの宇宙という語に仕立て上げているのである。多宇宙とは複数のストーリーが共存している黒沢明監督の映画『羅生門』の世界のようなものだと言えば日本人は親しめるかもしれない。

ところで、書籍の方の『宇宙を織りなすもの』では、多宇宙は扱っていない。だから、第四部は、このドキュメンタリーが制作されていた頃に執筆されていた『隠れていた宇宙 』の内容を滑り込ませた形になっている。

グリーンは、『隠れていた宇宙(下)』の表11・1でさまざまなバージョンの多宇宙論を以下のようにまとめている(訳はリンク先の日本語訳252ページのものを使っている)。

  • パッチワークキルト多宇宙:無限の宇宙内の状態は必然的に空間のあちらこちらで繰り返され、並行宇宙を生み出す。
  • インフレーション多宇宙:永遠の宇宙インフレーションが泡宇宙の巨大ネットワークを生み、私たちの宇宙はその一つである。
  • ブレーン多宇宙:ひも/M理論のブレーンワールドシナリオでは、私たちの宇宙が存在する3次元ブレーンは、ほかのブレーン-ほかの並行宇宙-も存在する可能性のある、より高次元の場所に浮かんでいる
  • サイクリック多宇宙:ブレーンワールド間の衝突がビッグバンのような始まりとして現れ、時間的に並行するいくつもの宇宙を生み出す。
  • ランドスケープ多宇宙:ひも理論の余剰次元のさまざまな形は、インフレーション宇宙論とひも理論を合体させることにより、さまざまな泡宇宙を生み出す。
  • 量子多宇宙:量子力学によると、確率波に具体化される可能性はすべて、巨大な並行宇宙集団のいずれかで実現する。
  • ホログラフィック多宇宙:ホログラフィック原理の前提によると、私たちの宇宙は遠くの境界面で起きている現象、すなわち物理的に並行宇宙に相当するものを、まさに映し出したものである。
  • シミュレーション多宇宙:技術の飛躍的発展は、宇宙のシミュレーションがいつか可能になるかもしれないと示唆している。
  • 究極の多宇宙:豊饒性の原理が主張するところによると、ありうる宇宙はすべて実在の宇宙であり、したがって、なぜ一つの可能性-私たちのもの-が特別なのかという疑問は回避される。これらの宇宙はありうる方程式すべての具体例である。

このリストの中には、多宇宙と呼ぶことがふさわしくないものが混ざっている。まず、最初のパッチワークキルト多宇宙がそうである。私たちが所属する宇宙は、ハッブル体積(宇宙膨張の後退速度が光速未満となる宇宙の体積)内の観測可能な宇宙で、インフレーション説によれば、宇宙は光速よりも大きな速度で膨張しているので、同一のビッグバンから生まれた領域内に、観測可能な宇宙以上の空間があるはずである。この宇宙とその外部は、物理的に干渉できないのだから、それを別の宇宙と呼ぶべきだというのがパッチワークキルト多宇宙論であるが、それなら、たんにパッチワークキルト多空間論と呼ぶべきではないのか。

パッチワークキルト多空間論という呼称ですらまだミスリーディングである。グリーンは宇宙を織物に喩えたから、この言葉を選んだのだろうが、パッチワークキルトとは、布をはぎ合わせて一枚の布にしたもので、各布との間の境界は絶対的に確定している。ところが、ハッブル体積は任意の観測点から設定される球体なので、その境界は観測点から独立しては確定しない。観測の地平(限界)によって設定される空間が、観測点ごとに生み出されるという意味で、観測地平多空間論という呼称が一番適切ではないのだろうか。

ホログラフィック多宇宙は、グリーンがかなりの確信を持っているホログラム説に基づいている。これは、ブラックホールのエントロピーは、その地平面の面積で決まるというベケンスタインとホーキングの発見から一般化された理論で、ある空間領域内に含まれる情報の量は常にその領域を囲む表面の面積より少ないということから、我々が三次元だと思っているこの宇宙は、二次元のホログラム(レーザーを使って立体画像を再生する二次元の感光材)の投影にすぎないという説が出てきた。

超ひも理論が4次元時空体を10次元時空体に、M理論が11次元時空体に次元を増やしているのに対して、ホログラム説は逆に減らそうとしているのだから面白い。しかし、仮にホログラム説が正しいとしても、これを多宇宙論の一つとしてカウントするのはどうかと思う。多宇宙論においては、各宇宙は独立していなければならず、私たちの宇宙があるホログラムの射影であるとしても、両者は一つの宇宙としてみなさなければならない。伝統的な哲学用語を用いるなら、両者は本質と現象、基体(subjectum)と客象(objectum)の関係にあり、独立した宇宙としては扱われない。

同じことは、シミュレーション多宇宙についても言える。映画『マトリックス』が描いて見せたように、私たちが生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実かもしれない。しかし、その場合でも、真の現実と仮想現実は別の宇宙として扱うべきではなくて、仮想現実は真の現実、真の宇宙に含まれると解釈されるべきである。実際、私たちはセカンドライフのようなコンピュータ上の仮想世界を独立した宇宙とはみなさずに、この宇宙の内部にある仮想世界とみなしている。

サイクリック多宇宙は、宇宙にビッグバンという始まりがあるという不都合を解消するために考え出されたアイデアだが、時間に始まりがあることは本当に不都合だろうか。ビッグバンは時空間の中で起きた出来事ではなくて、時空間自体を生み出す出来事だから、ビッグバンより以前の宇宙はどうなっていたかということは考える必要はないのではないか。サイクリック多宇宙を否定する論理的根拠はないが、サイクリック多宇宙を想定しなければならない必然性もない。

この他、究極の多宇宙は、哲学者ロバート・ノージック(Robert Nozick; 1938年11月16日 – 2002年1月23日)の豊饒性の原理(principle of fecundity)に基づいており、物理学的な根拠はない。ランドスケープ多宇宙は、インフレーション多宇宙とブレーン多宇宙の組み合わせだから除外しよう。そうすると、ありそうな多宇宙は、以下の三つに絞られる。

  • インフレーション多宇宙
  • ブレーン多宇宙
  • 量子多宇宙

これら三種類の多宇宙は、それぞれ別の多宇宙なのか、それとも相互に何らかの関係があるかといったことは、グリーンの本を読んでもわからないので、今後の調査課題としたい。

1.7. 隠れていた宇宙

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月28日(木) 10:42.
The Hidden Reality (media) Boston Museum of Science (date) March 2, 2011.

ボストン科学博物館が主催した『隠れていた宇宙』と同名の座談会。対話の相手は Amir D. Aczel (1950-) という数学者にして科学史家で、数学的に可能というだけで実在すると言えるのかという話がなされている。かつて、カトリック教会は、地動説をたんに数学的に可能なだけの仮説で、実在に関するものではないという立場をとり続けた 。多宇宙も今のところ数学的に可能な仮説にすぎないが、たんに数学的にその存在が予測されていただけのものにのちに対応する実在物が見つかるという形で科学が進歩してきたことを考えるなら、「たんに数学的に可能なだけの仮説」だからといって侮ってはいけない。もちろん、多宇宙は、観測の限界にあるはずのものだから、その実証が原理的に可能なのかどうかという問題はある。

1.8. なぜ私たちの宇宙は生命に最適なのか

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年11月28日(木) 10:56.
Why is our universe fine-tuned for life? (media) TED

「なぜ私たちの宇宙は生命に最適なのか?」というテーマのトークショー。もしもたまたま買った靴が自分の子供の足にぴったり合うなら、それは奇跡だが、たくさんあるサイズの靴の中から自分の子供に合うものを選んで買ったなら、それは奇跡でも何でもない。多宇宙論を肯定するなら、無限にある宇宙のうち、たまたま生命が誕生できる宇宙があっても不思議ではない。私も、2001年10月27日に書いた「人間原理とは何か」で同じような考えを表明した。

1.9. ヒッグス機構

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年12月19日(木) 00:10.

Hata Kazuya さんからコメントを頂きました。

Facebook (date) 2013年12月18日 (author) Hata Kazuya さんが書きました:

こういう視点で考えたことがなかったなぁ.ただ,対称性の破れ自体はたしかヒッグス機構が最初じゃないかな.南部氏は計算が天才的だったそうだけれど,日本が伝統的に素粒子物理が強いのは何か文化的理由があるのかもしれない.内山龍雄氏がゲージ理論の論文を早く発表していたら,日本は名実共に素粒子研究のメッカと呼ばれていた可能性もある.ちなみに,昔の日本の大学の雰囲気を聞いていると,なるほど貧しいけれどすばらしい理論研究ができる環境にあったのだろうなと思う.

ヒッグスがヒッグス機構(Higgs mechanism)を提唱したのが、1964年であるのに対して、南部が「自発的対称性の破れ」というアイデアを提唱したのは、1961年です。

  • Y. Nambu and G. Jona-Lasinio, “Dynamical model of elementary particles based on an analogy with superconductivity. I," Phys. Rev. 122, 345-358 (1961) doi:10.1103/PhysRev.122.345
  • Y. Nambu and G. Jona-Lasinio, “Dynamical model of elementary particles based on an analogy with superconductivity. II," Phys. Rev. 124, 246-254 (1961) doi:10.1103/PhysRev.124.246
  • P. W. Higgs, “Broken symmetries, massless particles and gauge fields”. Phys. Lett. 12: 132. (1964)

なお、今年ノーベル物理学賞を受賞するヒッグスは、受賞に先立って、南部に「ひらめきを与えてくれた」と感謝の意を表明しています。

ヒッグス氏「南部氏、ひらめきくれた」ノーベル賞受賞式前に会見 (date) 2013.12.7 (media) 産経新聞 さんが書きました:

物に重さを与えるヒッグス粒子の存在を予言し、ノーベル物理学賞に決まったピーター・ヒッグス英エディンバラ大名誉教授(84)が7日、理論の基を築いた南部陽一郎米シカゴ大名誉教授(92)=2008年同賞受賞=に感謝の意を表した。10日のストックホルムでの授賞式を前に記者会見し「ひらめきを与えてくれた」と述べた。

ヒッグス氏の共同受賞者のベルギー・ブリュッセル自由大のフランソワ・アングレール名誉教授(81)も「南部氏がわれわれを発見に導いた」とたたえた。

アングレール氏は「南部氏は最も偉大な物理学者の一人。通常、物理学者の友人たちはファーストネームで呼び合うが、彼は南部教授と呼ばざるを得ない」。ヒッグス氏は「全く同意する。南部氏の仕事を常に称賛している」と感慨深げに述べた。

Hata Kazuya さんからもう一つコメントを頂きました。

Facebook (date) 2013年12月18日 (author) Hata Kazuya さんが書きました:

すべて量子物理学に従う量子でできているはずの世界から,どうやって私たちの知るマクロな世界が出てくるかというのが,理論物理学にとって最大の問題の一つだと思う.量子力学においては時間は可逆のもののはずで,もし量子力学が最も基礎にある物理法則であるならば,一方方向に流れる時間というのがどうやって生成されるかが問題になる.量子力学は局所的な近似理論でしかなく,弦理論が完成すれば問題は解決するだろうという人もいるけれど,完成したとして局所的な変数で表現できないものになるのは確実なわけで,時間というものがなんなのかの定義すら難しい可能性がある.

これはその通りです。ただ、私は、マクロな世界での不可逆性までを原理的に否定するグリーンに反論したまでです。

1.10. ゲージ対称性の破れ

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年12月19日(木) 13:32.

Hata Kazuya さんから返答を頂きました。

Facebook (date) 2013年12月19日 (author) Hata Kazuya さんが書きました:

ご指摘ありがとうございます.私の記憶違いだったようです.となると,ヒッグス機構やトホーフトのゲージ理論の繰り込みが日本人によって最初に公表されなかったかのはいかにも残念ですね.南部氏は以下の1960年の論文で自発的対称性の破れと解釈できるアイデアについてすでに言及されているようです(詳細な解析は後で発表するとして上の1961年のBCSについての論文がそれのようですが).ゲージ不変性(対称性)が保たれる系が,どうやってそれが破られるかという問題意識からの解析はすでに以下の論文でなされていますね.

Nambu, Y (1960). Axial Vector Current Conservation in Weak Interactions. Physical Review Letters 4: 380-382.

Nambu, Y (1960). Quasi-Particles and Gauge Invariance in the Theory of Superconductivity. Physical Review 117: 648-663.

なるほど、1960年の時点で早くもそういうアイデアを出していたということですね。

2. 付録:空間は観測できないのか

以下の議論は、システム論フォーラムの"空間は決して観測できない。人が信じる空間というのは脳が発生させるイメージ(クオリア)である。" というスレッドからの転載です。

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ニュートン(左)が絶対空間の実在性を主張したのに対して、ライプニッツ(右)は相対論的、関係主義的な観点からこれを否定した。この論争は、ニュートンの「バケツ実験」をライプニッツが反駁できなかったことから、ニュートンに有利に終わったが、後にマッハによって蒸し返されることになる。以来、空間が実在するのか、それとも人間の思考の産物なのかをめぐって、物理学者や哲学者の間で論争が続いている。
空間は決して観測できない
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年7月17日(水) 19:14.

空間は決して観測できないものであり、誰ひとりとして真の純粋な空間というものを観測できた人は居ない。にもかかわらず人が空間というものを信じるのはそれが猿の時代、いやもっと前からかもしれない、進化し続けてきた脳が刻銘に見せるイメージ(クオリア)だからである。以下、それを説明する。

空間とは辞書を引くと(といってもインターネット辞書だが)

「くう‐かん【空間】」 の意味とは – Yahoo!辞書 さんが書きました:

1 物体が存在しないで空いている所。また、あらゆる方向への広がり。「―を利用する」「宇宙―」「生活―」

とある。この空間というのは実は誰ひとりとして観測したものは居ない。

「物体が存在しないで空いている所」という定義からして、真の純粋な空間にはありとあらゆる物体は含まれて居ない。つまり純粋な空間とは真空のことである。しかしながら、真空は決して観測できない、以下、その理由を説明する。

もっとも簡便な観測方法として、ある物を視覚で捕らえるというのを挙げたい。しかし、例えば真空の空間を視覚で捕らえたとしても、それは光子を目の網膜が捉えたわけだから、観測したのは光子のみである。従って光子の存在は観測されるが空間が観測されたわけでは無い。このうっかり笑ってしまいそうな論理をクオリアという概念を導入して、真面目に解説していこうと思う。

まず、この主張が通るとすると、ありとあらゆる目の前のものは観測されていないことになるのではないか、つまり例えば目の前に机があるが、机自体が観測されたわけではなく、部屋の蛍光灯から発せられる光が机に反射し、その光子を観測しただけで机自体は観測されなかったことになる、同様にしてありとあらゆるものが観測されないことになってしまうと反論されるかもしれない。

しかしこの反論は誤りである。なぜならば光が反射する対象があるからだ。目の前に机があることは机から目に向けて光子が発せられていることを意味する。それは例えばろうそくなどの光源ならば目の前には燃焼を起こす確かな物質が存在することが光子というものを媒介にして間接的に観測されるし、机ならば蛍光灯から発せられた光が反射して目に届いているわけだから反射という現象を起こすもの、つまり物質が存在することが観測されたことになるからだ。

対して、真空というのは文字通り何も無いわけだから、光子が反射することで観測できる対象を持たない。つまり、真空、すなわち純粋な空間を作りだしたとしても、それを決して観測することはできない。真空はただその真空の向こうの景色を映し出すのみである。つまり、空間を素通りして奥の物体を観測することしかできない。このように、純粋な空間というのはその構造上決して観測できない。

次にこの様な反論があるかもしれない、すなわち空間というのは物体の入れ物のようなものであり、真空を作った時点でそれは純粋な空間といえる。なぜならば真空には何も存在しないため、その中には真空の大きさ分だけ、物体を入れることができる。入れることができるということはそこには空間的な広がりが存在することが証明されるというものである。

しかし、この反論にも誤りがある。理由は単純である。この論理によれば空間の広がりを証明するにはそこに物体を入れるという動作が必要になる。つまり、空間の存在性が完全に物体に依存しているのだ。このことは空間が物体が動作できる可能性という意味の単なる概念であり、実際に実存している必要性が無いということだ。

すなわち物体が無ければ空間という概念は無い。また、動作には時間を要するので空間の本質は物体と時間ということになる。

この世界は三次元空間といわれるが、その本質は物体が時間を進めることにより、縦、横、高さの三方向に移動できることを意味しているに過ぎない。すなわち、世間一般に信じられている空間というのは実は実在する何かではなく、物体が移動できる可能性という概念に過ぎない。空間は実在するのではなく、人が作り上げた概念である。しかしこの概念はやや特殊で、どういうことかと言うと概念でありながら、正確には「人が作り上げた」とは言いがたいものであるからだ、なぜならば、この概念の発明者は人ではなく自然淘汰であり、人々は教えられることなく、先天的に空間という概念を持ち合わせているということである。

端的にどういうことか説明すると、三次元的な空間の感覚というのは、実在する空間を観測・認知した結果頭に思いうかぶものではなく、進化の過程で身に着けた先天的なクオリアであるということだ。クオリアとは日本語では感覚質と訳されるもので、端的にいえばある感覚の質ということである。ここでまず、三次元的な空間の感覚を実際に体験してもらいたい。簡単である。目をつむって右手を上げてみる。そうすると、自分は右手を目で見ていないにもかかわらず、右手が上がっていることを感覚的に体験できるだろう。自分で右手を上げたのだから右手が上がっているに決まっているだろ、という反論がしたい人は、自分ではなく、家族か誰かに目をつむったまま右手を上げさせてもらえばいい。自分の意思にかかわらず腕が上げられたのに、自分の右腕が上に上がっていることを感覚的に分かるはずだ。同様に上下、左右、前後に腕を動かしてもらっても、目で見ていないにもかかわらず、腕が三次元的にどの方向にあるのか感覚として分かる。この感覚こそがクオリアである。これはおそらく腕の曲げ具合、つまり腕の筋肉の状態から脳が勝手に処理をして見せている感覚であると言える。

人々が観測されていないにもかかわらず、空間が実存すると信じているのは、この脳が見せるクオリアに空間という名前を付けておりそしてこのクオリアは先天的に持ち、物心ついたときからこのクオリアを実感し続けているからである。ではなぜこのクオリアがあるかというと、単純である。猿が樹上を飛び回るときに、このように感覚として三次元の空間を知覚できなければ、極めて支障が生じるからである。感覚と論理では、明らかに感覚の方が処理速度が速いからだ。例えば猿は斜め上の方向に果物があったら、

「視覚情報によると右に50cm、高さ100cm、奥行き30cmの辺りにりんごがある、このりんごを取るには足の筋肉と腕の筋肉を・・・」

などと論理立てて考えたりしない、こんなことを考えていればとてつもなく時間が掛かってしまう。そこで猿は三次元的なクオリアを脳が自動発生させることで、論理ではなく感覚の域にこの問題を移行させ、問題を解決した。もっとも、猿よりもっと前の生物も三次元的なクオリアを発生させていると考えた方が妥当であるが。

結論をまとめると、人は三次元的な空間を実際に観測していないが、進化の過程で上記の概念的な空間にクオリアを発生させた。クオリアが発生しているため、多くの人は空間の存在に疑問を持たない、なぜならば感覚的にクオリアとしてその概念的な空間を認識しているからである。そしてその発生したクオリアにより、多くの人は概念の存在である空間を実存するものと信じてしまっているということだ。

またその証拠に人は四次元空間をうまくイメージすることが出来ない。いくら四次元空間の数学的な概念を理解しても頭の中に四次元で出来た物体をイメージすることは出来ない。しかし三次元空間ならばどんな子供でも頭の中にイメージを描くことができるだろう。これは進化の過程で四次元空間のクオリアを発生させることが出来なかったからであり、そして三次元空間のクオリアは新しく知ることや人間が発明したものではなく、先天的に備わっているということである。

というようなアイデアを最近思いついたのですが、どうも何か致命的な間違いを犯していないか不安です。論理におかしいところがあったら指摘して頂けると幸いです。

ご参考までに
投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月18日(木) 18:35.

初投稿です。興味深く読ませて頂きました。

「致命的な間違いを犯し」ているかどうかは分かりませんが、概ね私も同意見ですし、デカルトの「我思う故に我あり」で有名な『方法的懐疑』と似た思考実験だと思いました。

ただ同様に「温度は決して観測できない。クオリアである。」とか「音は決して観測できない。クオリアである。」などの命題も成立しませんか。

クオリア問題に関する意識のハード・プロブレムが、隣接した問題を提示していると思います。ご参考までに。

Re: 空間は決して観測できない。人が信じる空間というのは脳が発生させるイメージ(クオリア)である。
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年7月18日(木) 19:37.

本文での観測とは物理的な観測という意味で使いました。温度や音は物理的に観測できます。しかし、空間を物理的に観測することはその仕組み上不可能ではないか、なぜならば純粋な空間はそれ自体が何も含んでいないから、なにも含んでいないのに何かを観測できるのか、人々が信じている空間は実在性の無い概念ではないか、というのが要旨です。クオリアは物理的に観測されていないにもかかわらず、多くの人が空間というものを直感的に信じている理由として載せました。

質問と提案です
投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月18日(木) 22:48.

すみません。「物理的な観測という意味」がよくわかりません。
温度は温度計で計れるし、音もその三要素を騒音計や周波数測定器などで、物理的に計ることができます。
空間にいたっては、単純に定規を使うだけでその体積(容積)を物理的に計ることが可能です。
ただしこの場合、「観測」というよりは「測定」ということになるでしょう(定量を計っていますから)。

それに対して「観測」という言葉はふつう、対象の変化や現象を、人の知覚(クオリア)というより、数量的な概念として測る場合に使われるのではないでしょうか。

もし、本文で問われていた「致命的な間違い」があるとするならば、それは「空間」の定義をYahoo!辞書に頼ったところにあり、「人々が信じている空間は」とおっしゃるような曖昧な概念から、考えを進められたところにあるのかもしれません。
同じ「空間」の定義でも、

  1. 日常の語法で使われるような辞書的な定義
  2. 哲学で論じられるようなトポス的な定義
  3. ニュートン力学で定義される絶対空間
  4. アインシュタインによる時間や重力との相対関係で定義される空間

などその他、多数あげられます。
その「空間」の中身も自然哲学では「物」が占めていますし、物理学では古のエーテルから、量子力学ではエネルギーや電磁気の場となり、それにともない「真空」の定義も分化されます。

物理学的な意味なら「空間」は「観測(正確には測定)」可能です。
Yahoo!辞書の定義に依る「空間」に「物理的な観測」あるいは「物理学的な観測」は不可能でしょう。

ただ、そのような細かい定義にこだわらくても、秋刀魚刺身さんの思考実験は、「空間」を単なる我々の日常感覚での「空間」として捉えた上であっても、すなわち「温度」や「音」、果ては「時間」などへの我々の知覚と同様に、クオリアに関する思考実験として、興味深く読むことができました。

換言すれば、今回の本文は「空間の観測不可能性」よりも、対象が「音」であっても「温度」や「時間」であっても同様、我々の「クオリアの客観的数量化の不可能性」を語る上で有効なのではないかということです。

「空間は実在性の無い概念ではないか」「物理的に観測されていないにもかかわらず、多くの人が空間というものを直感的に信じている」という本文の趣旨の説明のされかたからしても、
それは「空間」の本質よりも、我々の知覚や認識(デカルトに始まるコギトから、現象学における間主観性、構造主義vs実存主義論争まで)、脳科学ならクオリア問題にまつわる「意識のハードプロブレム」などを語っているのではないかと提案したまでです。

Re: 質問と提案です
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年7月18日(木) 23:36.

こうもり さんが書きました:

空間にいたっては、単純に定規を使うだけでその体積(容積)を物理的に計ることが可能です。
ただしこの場合、「観測」というよりは「測定」ということになるでしょう(定量を計っていますから)。

もちろん測れますが、それは実在した空間を測ったのではないということです。定規で測ったのは本当に実在する空間ですか?定規を宙に浮かせて空間を測ったとします。しかし、そこに定規以外に「何」が実在し、「何」を測ったのですか?実存するものを測りましたか?あなたは概念を測ったのではないですか?

以上の文章を読んで、私の頭がおかしいと感じたのなら、私の問題点を羅列するか何かしてから(何もしなくてもいいです)あなたのブラウザかタブなりをそっと閉じたほうが、あなたにあなたがおかしいと思う人の思考が伝染しなくていいかもしれません。

こうもり さんが書きました:

それに対して「観測」という言葉はふつう、対象の変化や現象を、人の知覚(クオリア)というより、数量的な概念として測る場合に使われるのではないでしょうか。

もし、本文で問われていた「致命的な間違い」があるとするならば、それは「空間」の定義をYahoo!辞書に頼ったところにあり、「人々が信じている空間は」とおっしゃるような曖昧な概念から、考えを進められたところにあるのかもしれません。

辞書というのは基本的に多数の人が使っている、すなわち同意している意味が掲載されます。
辞書を冒頭に引いたのは多くの人が空間に対して持っているイメージを提示して、それが間違っている可能性があることを指摘するためです。

こうもり さんが書きました:

同じ「空間」の定義でも、

  1. 日常の語法で使われるような辞書的な定義
  2. 哲学で論じられるようなトポス的な定義
  3. ニュートン力学で定義される絶対空間
  4. アインシュタインによる時間や重力との相対関係で定義される空間

などその他、多数あげられます。

その「空間」の中身も自然哲学では「物」が占めていますし、物理学では古のエーテルから、量子力学ではエネルギーや電磁気の場となり、それにともない「真空」の定義も分化されます。

物理学におけるいわゆる場の概念などは、幾何学的な思考によって場という概念を創出したものだと私は見ています。例えば物理学に磁力線という概念がありますが、実際には線などは空間にはありません。場という概念があるのはそれが概念として受け入れやすく、かつ簡潔に力の関係を表せるからではないでしょうか。

こうもり さんが書きました:

物理学的な意味なら「空間」は「観測(正確には測定)」可能です。
Yahoo!辞書の定義に依る「空間」に「物理的な観測」あるいは「物理学的な観測」は不可能でしょう。

先述したように、辞書は多くの人が同意する意味が書かれています。そこに疑問を持ち、あまつさえ間違っているのではないかというアイデアを思いついたが、いまいち自信が無いので投稿したのです。

こうもり さんが書きました:

換言すれば、今回の本文は「空間の観測不可能性」よりも、対象が「音」であっても「温度」や「時間」であっても同様、我々の「クオリアの客観的数量化の不可能性」を語る上で有効なのではないかということです。

「空間は実在性の無い概念ではないか」「物理的に観測されていないにもかかわらず、多くの人が空間というものを直感的に信じている」という本文の趣旨の説明のされかたからしても、

それは「空間」の本質よりも、我々の知覚や認識(デカルトに始まるコギトから、現象学における間主観性、構造主義vs実存主義論争まで)、脳科学ならクオリア問題にまつわる「意識のハードプロブレム」などを語っているのではないかと提案したまでです。

少し考えて見ます。

Re: 空間は決して観測できない。人が信じる空間というのは脳が発生させるイメージ(クオリア)である。
投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月20日(土) 14:06.

私の質問が伝わりにくかったようで、再度質問いたします。

Q1. 秋刀魚刺身さんの使う「物理的な観測」の意味をお教えください。

秋刀魚刺身さん さんが書きました:

あなたは概念を測ったのではないですか?

おっしゃる通り私の考える「物理的な観測(測定)」とは概念を測るという行為です。より厳密に言えば、「測定」とは、対象物の定量を、なんらかの装置により、数量や図表を用いて概念化するもの。「観測」とは、対象物の変化や現象を、なんらかの装置により、数量や図表を用いて概念化するもの。——といった定義になります。具体的に言えば、「温度」は、温度計という装置により、摂氏や華氏などの概念に数値化され、「空間」はその広さを、定規という装置により、cm3などの単位で概念化され得る。

ただしそれは対象の一側面を概念化しているに過ぎず、同じ「空間」を座標により概念化したり、「音」であれば、音量や周波数などをdBやHzなどに分化して概念化することもできます。
実際に「空間の歪み」であれば、NASAの人工衛星GP-Bが2011年に観測し、アインシュタインの理論を実証しています。「空間」はその歪みであっても、観測可能なのです。

要は、私の「物理的な観測、測定」とは、秋刀魚刺身さんのおっしゃるとおりに「概念を測る」ということになります。よって「空間」ならば、その空間の中身が真空であっても、空気や物体に占有されていたとしても、定規でその体積(容積)を観測(測定)できます。ご質問に答える形でいいますと、「定規を宙に浮かせて空間を測ったとします。しかし、そこに定規以外に「何」が実在し、「何」を測ったのですか?」 それにはYahoo!辞書の定義に則っても「物が存在しないで空いている所(空間)を、あらゆる方向への広がり(幅、高さ、奥行)で計測し、体積(容積)へと数学的に概念化したもの」と簡潔に説明できます。

一方で私の考える「人の知覚(認識やクオリアといっても良いでしょう)」は、「温度」であれば、温点や冷点というレセプターにより知覚された刺激が神経を経由して脳によって「冷たい、熱い」という感覚質になり、「空間」であれば、秋刀魚刺身さんの説明にあるように視覚や腕を振り回すことにより知覚された情報が、脳により「広い、狭い」などの一定の「空間」として感覚質化されるもの。——と説明すれば良いでしょう。

人の知覚(クオリア)は当然進化により先天的に獲得された形質であり、それを測定、観測する数量、単位は文化的(後天的)に人類が創出した概念である。ならば「空間」だけを特別視することに意義はなく、「空間」も「温度」も「音」も「時間」もクオリアとして人類は先天的な感覚として知覚しているのであり、それらを「cm3」「℃」「dB」「秒・分」などの単位、数量 で観測、測定し概念化しているにすぎない。本文の方では「空間の観測不可能性」を主題とするよりも「クオリア」そのものについて考察された方が良いのではないか。——という提案です。

Q2. 本文の趣旨は「辞書の定義」を否定することではなく、人の空間に対する直感(クオリア)を自然淘汰による進化で説明するところにあるのではないですか?

秋刀魚刺身さん さんが書きました:

辞書というのは基本的に多数の人が使っている、すなわち同意している意味が掲載されます。辞書を冒頭に引いたのは多くの人が空間に対して持っているイメージを提示して、それが間違っている可能性があることを指摘するためです。

[…]

先述したように、辞書は多くの人が同意する意味が書かれています。そこに疑問を持ち、あまつさえ間違っているのではないかというアイデアを思いついたが、いまいち自信が無いので投稿したのです。

上記に書かれている通り「辞書により定義される空間の意味」=「多くの人が同意し、持っている空間のイメージ」であるとするならば、秋刀魚刺身さんの本文の趣旨は、「その定義やイメージが間違っているのではないか」ということですから、「空間とは、1 物体が存在しないで空いている所。また、あらゆる方向への広がり。 」というYahoo!辞書への背理法を展開するはずです。極論を言えば本文は「空間とは、1 物体が存在しないで空いている所ではなく。また、あらゆる方向への広がりではない。 」と帰結するべきです(あくまでも極論ですので、その通りにする必要はもちろんありませんが)。

対して、私の考え方は、「空間を辞書的にではなく、物理的な観測(測定)の対象と捉えれば、その体積(容積)や空間密度などは測定可能であり、概念化可能である。」となりますから、「空間」=「物体が存在しないで空いている所」=「真空」という本文のような論理展開にはなりません。この展開には、秋刀魚刺身さんがその間違いを指摘されたい「空間の辞書的定義」=「人々のイメージ」という曖昧で感覚的な「空間」から、物理学的・哲学的に論じるべき「真空」、「光子」、「時間」というアプローチへの論理的飛躍があります。前述したとおり、空間の定義を辞書に頼ったところに瑕疵があったのではないでしょうか。冒頭から「物理的な空間」か「自然哲学的な空間」に対象を絞るか、「物理」を持ち出さなかったほうが良かったかと存じます。

「物理的に」という立場をとられる以上、それは数量化された概念を抽出し得る対象を示すことになります。数学や科学(物理学・化学など)は、本来複雑系である森羅万象を、相対化し比較検討するために、その一面を取り出して数量化している概念にすぎません。その意味では、「空間」や「温度」や「音」や「時間」だけでなく、「光」や「磁力」や「重力」などの実体を持たないような現象(振動であったり波であったり)をも、人類の創出した概念で観測、測定は可能です。しかしそれらの「音」や「光」を知覚するクオリアという人の主観を相対的(客観的)に、数量化する概念を人類はまだ持ちません。「クオリア、つまり人の意識そのものは何であるのか、どのように発生するのか」を問うのが「意識のハードプロブレム」とよばれる問題です。そして秋刀魚刺身さんが「存在する」物質として例に挙げられている「机」なども、その机を知覚するクオリアとなれば、客観的証明法もなければ、そのクオリアを検証するための相対的概念(数量や図式)も人類は持ち得ていません。これは哲学の認識論ならば「方法論的懐疑」にまで現代でも遡ることができる問題ですし、フッサールやレヴィナスあたりの現象学の考察の方が上手く説明出来るかもしれません(自分と他者が認知する「机」の間主観性など)。

こういった私の考え方は、秋刀魚刺身さんも、

秋刀魚刺身さん さんが書きました:

物理学におけるいわゆる場の概念などは、幾何学的な思考によって場という概念を創出したものだと私は見ています。例えば物理学に磁力線という概念がありますが、実際には線などは空間にはありません。場という概念があるのはそれが概念として受け入れやすく、かつ簡潔に力の関係を表せるからではないでしょうか。

とおっしゃっておられますから、理解していただけるのではないでしょうか。これには、私もまったく同意見ですし、

秋刀魚刺身さん さんが書きました:

私の頭がおかしいと感じたのなら、私の問題点を羅列するか何かしてから(何もしなくてもいいです)あなたのブラウザかタブなりをそっと閉じたほうが、あなたにあなたがおかしいと思う人の思考が伝染しなくていいかもしれません。

「頭がおかしい」などとは露ほども思っておりません。本文にある、あれだけの思考実験を先達の哲学者や科学に頼らず、独力で構築できるのはすばらしく、また、お付き合い頂いてありがたく存じております。

Re: 空間は決して観測できない。人が信じる空間というのは脳が発生させるイメージ(クオリア)である。
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年7月20日(土) 21:22.

こうもり さんが書きました:

私の質問が伝わりにくかったようで、再度質問いたします。

Q1. 秋刀魚刺身さんの使う「物理的な観測」の意味をお教えください。

実存している(実際に存在している)ものを何らかの装置によって観測(そこにそれが存在すると証明すること)です。人間もひとつの装置と考えられますので、人が目でそれを見るのは物理的な観測ですし、またカメラが光を捕らえるのも物理的な観測と考えています。「実際に存在している」ということの定義ですが、これは定義が難しく、(特にクオリアをその定義に含ませるべきかなどを考えると難しいです)残念ながら今はその定義を自明なものとし、個々人の定義に任せています。しかしながら、実存しているものに影響を与えられるものは実存性を有する、という考え方は持っています。

こうもり さんが書きました:

秋刀魚刺身さん さんが書きました:

あなたは概念を測ったのではないですか?

おっしゃる通り私の考える「物理的な観測(測定)」とは概念を測るという行為です。より厳密に言えば、「測定」とは、対象物の定量を、なんらかの装置により、数量や図表を用いて概念化するもの。「観測」とは、対象物の変化や現象を、なんらかの装置により、数量や図表を用いて概念化するもの。——といった定義になります。具体的に言えば、「温度」は、温度計という装置により、摂氏や華氏などの概念に数値化され、「空間」はその広さを、定規という装置により、cm3などの単位で概念化され得る。

ただしそれは対象の一側面を概念化しているに過ぎず、同じ「空間」を座標により概念化したり、「音」であれば、音量や周波数などをdBやHzなどに分化して概念化することもできます。
実際に「空間の歪み」であれば、NASAの人工衛星GP-Bが2011年に観測し、アインシュタインの理論を実証しています。「空間」はその歪みであっても、観測可能なのです。

要は、私の「物理的な観測、測定」とは、秋刀魚刺身さんのおっしゃるとおりに「概念を測る」ということになります。よって「空間」ならば、その空間の中身が真空であっても、空気や物体に占有されていたとしても、定規でその体積(容積)を観測(測定)できます。ご質問に答える形でいいますと、「定規を宙に浮かせて空間を測ったとします。しかし、そこに定規以外に「何」が実在し、「何」を測ったのですか?」 それにはYahoo!辞書の定義に則っても「物が存在しないで空いている所(空間)を、あらゆる方向への広がり(幅、高さ、奥行)で計測し、体積(容積)へと数学的に概念化したもの」と簡潔に説明できます。

こうもりさんの考える物理的な観測とは概念を指すのですね。確かに概念を測るというのは間違ってないと思いますが、温度は実在性を有する概念であり、空間は実在性を有さない概念であると私は考えています。

温度というのは物質の振動エネルギーですが、確かにそれは概念といえるでしょう。しかし温度は他の実在性を有するものに影響を与えることができ、ゆえに実在性をもつものだと私は考えます。温度は熱伝導という形で物質という確かな実在性を持つものに影響を与えているからです。

対して空間は他の実存性あるものに影響を与えることができません。例えば、空間が無かったら物体は存在できない。物体が存在するのは空間があるおかげで、空間は影響を与えている。という反論があるかもしれませんが、「空間が無かったら物体は存在できない。」というのがそもそも人が作り上げた概念ではないでしょうか。前述の通り、生まれてからクオリアの空間のなかに実在性あるものを見てきた我々にとってそういった概念が発生するのは自然なことです。

「空間が無かったら物体は存在できない。」という仮定を「空間がなくても物体は存在できる。」という仮定に置き換えたとしても、特に何も問題が発生することはないでしょう。

そもそも、空間が実在性を持っているならば、その実在性ある空間の上にさらに実在性ある物質やエネルギーを重ねなければいけないというのはどうも不自然に感じます。物体それ自体が実在性をもつのですから、空間というものに実在性がなくても物体は物体として実在できるし、温度などのエネルギーもエネルギーとして実在できるでしょう。

物体それ自身に実在性がある時点で、空間に実在性を求める必要性はありません。「空間が無かったら物体は存在できない。」という仮定は、物体の実存性を空間に依存させた仮定です。しかし、物体そのものに実存性があるとすれば、物体の実存性を物体自身に依存させることができます。こちらのほうが余程自然ではないでしょうか。

こうもり さんが書きました:

Q2. 本文の趣旨は「辞書の定義」を否定することではなく、人の空間に対する直感(クオリア)を自然淘汰による進化で説明するところにあるのではないですか?

少なくとも私は辞書の定義を否定するだけの用途で人の空間に対する直感(クオリア)を自然淘汰による進化で説明しました。実際にはそのようなイメージを与えてしまったのなら私の書き方が悪かったようです。

こうもり さんが書きました:

上記に書かれている通り「辞書により定義される空間の意味」=「多くの人が同意し、持っている空間のイメージ」であるとするならば、秋刀魚刺身さんの本文の趣旨は、「その定義やイメージが間違っているのではないか」ということですから、「空間とは、1 物体が存在しないで空いている所。また、あらゆる方向への広がり。 」というYahoo!辞書への背理法を展開するはずです。極論を言えば本文は「空間とは、1 物体が存在しないで空いている所ではなく。また、あらゆる方向への広がりではない。 」と帰結するべきです(あくまでも極論ですので、その通りにする必要はもちろんありませんが)。

私は背理法というのをあまり快く思っていません。理由はなんとなく信用できないからです。最も、本当に信用ならないものなのかの判断はまだ出していないし、便利な方法だとは思うので信用できると判断したならば将来的には使っていきたいと考えています。

こうもり さんが書きました:

「頭がおかしい」などとは露ほども思っておりません。本文にある、あれだけの思考実験を先達の哲学者や科学に頼らず、独力で構築できるのはすばらしく、また、お付き合い頂いてありがたく存じております。

過去の偉人に頼らず、独力で構築しようと思ってしたのでは無く、そうせざるを得なかったというのが私の実情です。詳しく説明すると私がどういう人間であるかを長文で書かないといけなくなるので割愛しますが、私の知識レベルはほとんど中卒と変わりません。私は少なくとも学術的な議論をするにはとても無知ですが、無駄なことを考えるのは好きなので、ときおりこういうアイデアが閃くのです。だから好きなことをしていたら出てきたただの副産物で、あまり素晴らしいものだとは感じていなかったのですが。その素晴らしいというのはどういう意味で素晴らしいということでしょうか?

こうもり さんが書きました:

そして秋刀魚刺身さんが「存在する」物質として例に挙げられている「机」なども、その机を知覚するクオリアとなれば、客観的証明法もなければ、そのクオリアを検証するための相対的概念(数量や図式)も人類は持ち得ていません。これは哲学の認識論ならば「方法論的懐疑」にまで現代でも遡ることができる問題ですし、フッサールやレヴィナスあたりの現象学の考察の方が上手く説明出来るかもしれません(自分と他者が認知する「机」の間主観性など)。

こういった私の考え方は、秋刀魚刺身さんも、

秋刀魚刺身さん さんが書きました:

物理学におけるいわゆる場の概念などは、幾何学的な思考によって場という概念を創出したものだと私は見ています。例えば物理学に磁力線という概念がありますが、実際には線などは空間にはありません。場という概念があるのはそれが概念として受け入れやすく、かつ簡潔に力の関係を表せるからではないでしょうか。

とおっしゃっておられますから、理解していただけるのではないでしょうか。これには、私もまったく同意見ですし、

はい、理解できますし、考えたことのある問題です。しかし、私はこれは部分的にならいつか理解できるのでは無いかと考えています。というのも「そのクオリアを検証するための相対的概念(数量や図式)も人類は持ち得ていません。」とおっしゃいますが、クオリアを検証するのならばクオリアを用いればいいのではないでしょうか。私はクオリアには「結合し変質」できる性質があり、「結合しすぎるとクオリアとしての質を失ってしまう」という法則があると考えています。

まず結合ですが、これは語句のクオリアについて考えていたときに思いついたもので、どういうことかというと語句のクオリア、例えば赤いという語句のクオリアとは「akai という音+赤いという字面+赤いというクオリア」が結合し、変質して出来たものだと考えます。音はクオリアですし、字面は視覚というクオリアですし、赤は赤のクオリアです。しかし赤というクオリアを言語化するとき、クオリアそのままでは無く、そのクオリアに識別符号を付けなければなりません。人はクオリアをクオリア単体で伝えることができないのですから。ですので、人は言語によって赤のクオリアに「akai」という音のクオリアを付加することで意思の伝達を可能としました。

次に変質です。赤いという語句のクオリアは、上記のクオリアを足していったものだが、それは単純に足されたのではなく、足されて、圧縮されて変質した新たなクオリアであるということです。これは処理能力的にあまりに元のクオリアの数が大きすぎると人間が処理しきれないからです。ですから、情報量を圧縮し、その過程で変質してしまいます。頑張ってその要素ひとつひとつをあわせて処理しようとした人間もいたかもしれませんが、そういった人間はその処理に能力を費やしたあまり、コンピューターで言えば多くの処理を費やしてフリーズ状態になり、環境に適応できなかったのです。

例えば幸福という抽象的な、つまり元になったクオリアの要素が大きい語句が入った思考をするとき、クオリアの圧縮、変質を行わなかったヒトは、その処理の過程で、幸福のクオリア・・・家族、友人、娯楽、達成感などありとあらゆる要素を全て頭のなかに想起また処理しなくてはならなかったことでしょう。ありとあらゆる幸福というグループに入る要素ひとつひとつを全て頭が処理できるとはとても思えません。ですので、語句という形でクオリアを結合し、圧縮し、結果として変質するのです。これは他の語句全てに当てはまるとしていいでしょう。全ての語句で変質が起こり、純粋なクオリアを伝える術を持たなかったからこそ、クオリアという概念が物珍しく、人によっては思いつきもしなかった、理解できないものになっているのです。実際に3分の1の人がクオリアという概念をウィキペディアによれば理解できないそうです。

クオリア – Wikipedia さんが書きました:

ブロックによれば、大学初年度の学生に逆転クオリアの思考実験について説明すると、およそ3分の2の学生は「何を言ってるか分かる」と答えると言う。中には小さいころから自分でその問題を考えていた、という学生もいるという。しかし残りの3分の1の学生は「何の話をしているのか分からない」と答えると言う。

最後に「結合しすぎるとクオリアとしての質を失ってしまう」という法則ですが、これは圧縮の過程であまりに要素が大きすぎると、情報量削減のためにクオリアとしての質さえ消滅してしまうだろうということです。特に抽象的な語句において傾向が激しく、もっとも顕著なのは数字です。数字からはクオリアが完全に欠落していると言ってもいいでしょう。

数字というものを認知した最初期段階では、数字というのもまた単なる画像イメージだったはずです。例えば、獲物が1頭、2頭、3頭、4頭といる。これが数字であり、それを想起するため、数字を頭に描くとそれは単に獲物が1頭、2頭、3頭、4頭と居るだけの光景であり、画像イメージであり、 クオリアであった。しかし、石が1、2、3、4・・・人が1、2、3、4・・・木が1、2、3、4・・・とありとあらゆる要素に対して数字という単語を付けた時点で情報量を一定に保つため、数字というクオリアからは質感が欠落し、クオリアを無くし、単なる意味となったのでしょう。

上記のようなクオリアの性質を用いれば、部分的であれクオリア同士の関係が分かり、自分が今感じているクオリアがどのような変質の末発生しているのか・・・などは検証できるのではないでしょうか。そういう意味で検証と言ったのではないのならすいません。

ちなみに、以上のクオリアに関する考察のようなものは、前に別サイトの掲示板で書いたものを元にしてますので、興味があるのなら読んで下さい。最も過去ログですのでコメントはできませんが。無駄に長くなってしまい申し訳ありません。この文と乗せたサイトの過去ログ両方。思考は生まれながらにして備わっている「意味の最小単位」というクオリアによって発生している、という仮説。 – 論客コミュニティ過去ログ

空間とは脳が発生させるイメージにすぎないのか
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年7月21日(日) 23:20.

サーバの引っ越しで忙しくて、お返事が遅れました。遅まきながらコメントさせていただきます。

まずは本題の「空間は、決して観測することのできない、脳が発生させるイメージ(クオリア)である」というテーゼですが、これはかなり奇妙な印象を与える命題です。脳というのは解剖学的な概念で、人間の場合、それは頭蓋内腔に格納された臓器を指します。つまり、脳というのは空間的に位置付けられ、空間的に意味付けされた概念であり、空間の実在性を否定するなら、空間的に根拠づけられた脳の実在性をも否定することになります。否定される対象を否定の根拠にすることはできません。

カントは、時間と空間が物自体の属性であることを否定し、両者を直観形式と捉えましたが、脳が発生させるイメージといった議論はしていません。認識の制約条件の批判的吟味は超越論的な反省を通して行わなければならず、脳のような経験的概念で説明できるものではないからです。

あるいは、秋刀魚刺身さんがその実在を否定しているのは、厳密に何も存在しない場所という特殊な意味での空間であって、何かが存在している場所としての空間の実在までは否定していないのかもしれません。その場合、空間の実在の否定は脳の実在の否定にはつながらないということができます。

辞書が謂う所の「物体が存在しないで空いている所」には、実際には無数の窒素分子やら酸素分子やらが飛び交っているので、厳密に何も存在しない場所と言うことはできません。では、真空は、文字通り何もない場所なのかと言えばそうでもありません。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

真空の空間を視覚で捕らえたとしても、それは光子を目の網膜が捉えたわけだから、観測したのは光子のみである。従って光子の存在は観測されるが空間が観測されたわけでは無い。

光は波動であり、波動が真空中を伝播するということは、真空には媒体としての性質があるということです。だから、たとえ媒体を直接知覚することができなくとも、光の観測から、その媒体、すなわち真空の実在を認識することができるのです。

なお、現代の物理学(量子場理論)によれば、真空とは、粒子と反粒子が対生成と対消滅を繰り返す場であって、文字通り何もない場所ではありません。現代の物理学者は、何もない空っぽの容器という19世紀的な空間観を否定し、空間を量子場と同一視しています。何も存在しない真空の実在を否定するという秋刀魚刺身さんの結論は、現代物理学の常識と一致するので、その限りでは正しいと言えるでしょう。しかし、その結論に至るプロセスには問題があると思います。

こうもりさんも指摘しているように、直接知覚できないからその実在を否定するということをするなら、ほとんどの対象は実在しないという結論になってしまいます。光のような、五感の対象となるものすら、脳は直接認知しているのではありません。私たちは光を知覚することができますが、光が直接脳に届くことはありません。光は視細胞を興奮させ、その興奮は、神経を通して脳に電気信号として送られます。だから極論するなら、脳が直接認知しているのは、電気パルスだけということになってしまいます。脳は自分の実在性を直接認識できないので、脳は脳の実在性すら直接知覚できないということになってしまいます。

指摘です
投稿者:こうもり.投稿日時:2013年7月22日(月) 01:05.

ご返答いただいたおかげで、少しずつ私たちの相違点が浮き彫りになってきたように感じます。同時に秋刀魚刺身さんの説に、私から見たいくつかの難点が浮かんでまいりましたので、今回は「指摘」という形で列挙させて頂きます(「指摘」も「提案」も似たようなものではありますが)。

[指摘1] 本文の題、及び主旨は「空間は決して観測できない。(中略)クオリアである。」とするよりも「空間は実在しない。クオリアである。」とした方が論点がすっきりしますし、秋刀魚刺身さんの主張に妥当性が確保されるのではないか。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

実存している(実際に存在している)ものを何らかの装置によって観測(そこにそれが存在すると証明すること)です。
温度は実在性を有する概念であり、空間は実在性を有さない概念であると私は考えています。

上記に摘出したように、秋刀魚刺身さんは「観測可能性」を、その実在性に見出しているようです。でしたら、空間の観測可能性よりも空間の実在可能性を論点にしたほうが良いのではないですか。「観測」を論点とすると、以下の[指摘2]と[指摘3]のような難点が浮上します。

[指摘2]実際に空間の観測を否定することは困難である。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

こうもりさんの考える物理的な観測とは概念を指すのですね。確かに概念を測るというのは間違ってないと思いますが、

上記のように私の「概念」の観測を認めてしまうと、現在の秋刀魚刺身さんの正確な立場から本文のタイトルを再表記すると「空間は概念的には観測可能であるが、物理的な観測はできない」と複雑極まりないものになってしまいます。

ましてや、実際に空間の歪みを観測したNASAに対して「あなたがたは空間を観測していない」とは主張できないでしょう。

[指摘3]秋刀魚刺身さんにとっての「物理的な観測」に相対する観測、つまり「物理的ではない観測」というものが不明である。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

人間もひとつの装置と考えられますので、人が目でそれを見るのは物理的な観測ですし、またカメラが光を捕らえるのも物理的な観測と考えています。

私が「数量・図表的概念による観測を物理的な観測」と「五官による知覚をクオリア」とを区別しているのに対して、上記の秋刀魚刺身さんは両者ともに「物理的な観測」とされており、特にそれ以外の「観測」を想定されていません。私には、これら以外の観測は思いつきません(強いて挙げるなら第六感の霊感ぐらいです。冗談ですが)、「物理的な観測」に対して「○○的な観測」というものがあるのでしょうか。「物理的な観測」の定義とされている「実存している(実際に存在している)ものを何らかの装置によって観測(そこにそれが存在すると証明すること)」の対偶をとるのも困難かと思います。が、言葉とはその記号内容の差異を示さなければ存在価値を持ちません。よって前回のQ1「秋刀魚刺身さんの使う「物理的な観測」の意味をお教えください。」への、今回の解答が私の中でいまひとつ理解出来ておりません。

[指摘4]秋刀魚刺身さんの使用する「実在」の定義を明確にされた方が良い。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

しかしながら、実存しているものに影響を与えられるものは実存性を有する、という考え方は持っています。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

そもそも、空間が実在性を持っているならば、その実在性ある空間の上にさらに実在性ある物質やエネルギーを重ねなければいけないというのはどうも不自然に感じます。物体それ自体が実在性をもつのですから、空間というものに実在性がなくても物体は物体として実在できるし、温度などのエネルギーもエネルギーとして実在できるでしょう。

この2文だけでも自家撞着を起こしています。「熱」は実在性を有するわけですし、「物」に影響を与えるということは、秋刀魚刺身さんの指摘する「実在に実在を重ねる」という矛盾になります。「40度の水」や「180度のフライパン」など、ふつう熱は「実在に実在を重ねている」状態をとります。逆に「熱」は、他の「実在する物」の上に重ならなければ存在しません。「真空」では、振動する原子がありませんから熱伝導は起こりません。太陽からの輻射熱も、地球など何かの物体にぶつからなくては熱を発しません。「実在に実在を重ねる不可能性」や「実在とは他に影響を与えるもの」という秋刀魚刺身さんの定義には無理があるのではないですか。「空間」は他に影響を与えないとされていますが、相対性理論では重力や時間に影響を与えるとされています。

そして肝心の「実在」と「実存」の定義です。私もふだんはそれほど言葉の定義にこだわる質ではないのですが、このような場では、ご自分の説の精度を上げるためにも混用なさらない方が良いでしょう。ちなみに私は、
「実在」とは、実際に存在することであり、実在しない夢や創造の産物(河童など)と相対するもの。
「実存」とは今ではサルトル的な主体性を持つ存在であり、構造主義に相反するもの。
と区別していますが、このように定義している人が多いかと存じますし、少なくとも「実在とは他の実在に影響を与えるものである」という秋刀魚刺身さんの考えは少々突飛でしょう。というより今回の議論のためにアドホックに作られた概念と言う感が拭えないです。

[指摘5]「物理」という概念や考え方は導入されないほうが良いのでは。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

「空間がなくても物体は存在できる。」という仮定に置き換えたとしても、特に何も問題が発生することはないでしょう。

「空間がなくても物体は存在できる。」となればあらゆる数学も物理学も、その概念は根底から覆ってしまうでしょう。もちろん仮定として使われているのでしょうが、そう考えられる秋刀魚刺身さんの議論上で物理や数学を持ち出されても、読者は混乱するだけでしょう。

[指摘6]それほど「空間」の観測不可能性に拘られるなら、「時間」の実存性についても同様に考えられてみてはいかがですか。

私の少ない哲学の知識の限りでは、アリストテレスやデモクリトスの時代からせいぜいカントあたりまでが、エネルギーの実在性を、そして空間の実在性を検証していた時代にあったと思います。そしてほとんどの場合、「空間」は「時間」と同等に扱われます。秋刀魚刺身さんの今回の議論は、「時間」にもあてはまりそうですし、カントとは親和性も見られそうです。もちろん相対性理論以降は厳しいでしょうが、「時空の実在性」に異議を唱える哲学者は今でも探せば見つかるかもしれません。「物理」としてではなく、「辞書的定義」としてではなく、「哲学」としてならば、今回のテーマは面白く語り、思考実験をする余地もあるかもしれません。

[指摘7] クオリアこそ、まだその実在性は証明されていないはずです。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

「そのクオリアを検証するための相対的概念(数量や図式)も人類は持ち得ていません。」とおっしゃいますが、クオリアを検証するのならばクオリアを用いればいいのではないでしょうか。私はクオリアには「結合し変質」できる性質があり、「結合しすぎるとクオリアとしての質を失ってしまう」という法則があると考えています。

ここは、私と秋刀魚刺身さんの間で、おそらく一番大きく考え方が異なるところなので、納得していただけないかもしれませんが、私は「あるものを証明したり、比較、検討する際には、相対的な概念が必要である」と考えています。つまり人の主観と主観、脳と脳を映画「マトリックス」のように直接プラグでつなぐことが出来ない以上、人は他者の主観を認知しようがないのです。これこそがクオリアの抱える「他人の見ている赤は……」という問題ですね。

そして「空間」も「温度」も「時間」も、計測され、数量化された相対概念を有していますが、「クオリア」はその測定装置もなければ、数量化、図式化されてもおらず、それを表す単位もありません。秋刀魚刺身さんもご存知のとおり、クオリアを否定する研究者も複数存在し、その実在性こそ危ぶまれている、まだまだ架空の存在です。その「クオリアをクオリアを用いて検証する」というのは、下手な喩えでいえば、「幽霊の実在性をもうひとりの幽霊に証明させる」ようなものです。なので、以下の文章については、末尾のリンク先まで含めて読ませて頂きましたが、私には仮説としても受け入れることはできませんでした。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

上記のようなクオリアの性質を用いれば、部分的であれクオリア同士の関係が分かり、自分が今感じているクオリアがどのような変質の末発生しているのか・・・などは検証できるのではないでしょうか。そういう意味で検証と言ったのではないのならすいません。

なので、そうですね。私はそういう意味で「検証」と言ったのではありませんね。申し訳ありません。

[最後に]

秋刀魚刺身 さんが書きました:

私は少なくとも学術的な議論をするにはとても無知ですが、無駄なことを考えるのは好きなので、ときおりこういうアイデアが閃くのです。だから好きなことをしていたら出てきたただの副産物で、あまり素晴らしいものだとは感じていなかったのですが。その素晴らしいというのはどういう意味で素晴らしいということでしょうか?

今回、私たちの相違点が浮き彫りになり、不躾な指摘を多くさせていただきましたが、自分にとっても勉強になりました。「すばらしい」と申し上げましたのは、過去の学識に頼らず、少ない材料からこれだけの理論を構築される、秋刀魚刺身さんの創造力に対してです。

また、書き終えてただいま投稿しようとしたところ、先に永井さんの投稿がされていることに気付きました。内容として重複する箇所も(カントのあたり)、また永井さんと比べて私の稚拙さを露呈してしまっている箇所もありますが、そのまま投稿しようと思います。

Re: 空間とは脳が発生させるイメージにすぎないのか
投稿者:秋刀魚刺身.投稿日時:2013年7月22日(月) 01:49.

ええと、永井さんに対する返信を書いているときに、こうもりさんの返信が書かれたのですが、永井さんに対する返信からしたいと思います。

永井俊哉 さんが書きました:

カントは、時間と空間が物自体の属性であることを否定し、両者を直観形式と捉えましたが、脳が発生させるイメージといった議論はしていません。認識の制約条件の批判的吟味は超越論的な反省を通して行わなければならず、脳のような経験的概念で説明できるものではないからです。

私はそのカントの言うところの、「空間が物自体の属性」であるという考え方をしているのかもしれません。
「認識の制約条件の批判的吟味は超越論的な反省を通して行わなければならず、脳のような経験的概念で説明できるものではないからです。」を詳しく聞いてもいいですか?

永井俊哉 さんが書きました:

こうもりさんも指摘しているように、直接知覚できないからその実在を否定するということをするなら、ほとんどの対象は実在しないという結論になってしまいます。

私は直接知覚できないものの実在性を否定しているのではなく、観測ができないものの実在性を否定しています。それはこうもりさんの

Q1. 秋刀魚刺身さんの使う「物理的な観測」の意味をお教えください。
に対する回答を読んでいただければ分かります。

永井俊哉 さんが書きました:

光の観測から、その媒体、すなわち真空の実在を認識することができるのです。

これは致命的な誤りといえそうです。私の科学に対する知識が足りなかったようです。確かに光は波で波が動くには媒質が必要というのは妥当に感じます。

ということで、ようやく私が致命的と感じる文が出てきたのですが、こうもりさんも返信してくれたので、一応書いておこうと思います。

[指摘1]、これは最もですね。書き方が少し悪かったように感じます。
[指摘4]、これも私の書き方が少々悪かったようです。「熱」は実在性を有するわけですし、「物」に影響を与えるということは、秋刀魚刺身さんの指摘する「実在に実在を重ねる」という矛盾になります。といいますが、私はそもそも実在性の上に実在性を重ねることを矛盾とは感じていません。私が実在性ある空間の上にさらに実在性ある物質やエネルギーを重ねなければいけないというのはどうも不自然に感じます。と発言したのは、その後の文「物体それ自体が実在性をもつのですから、空間というものに実在性がなくても物体は物体として実在できるし、温度などのエネルギーもエネルギーとして実在できるでしょう。」につなげるだけの文で、削っても良かった文だったと思います。

こうもり さんが書きました:

「空間がなくても物体は存在できる。」となればあらゆる数学も物理学も、その概念は根底から覆ってしまうでしょう。もちろん仮定として使われているのでしょうが、そう考えられる秋刀魚刺身さんの議論上で物理や数学を持ち出されても、読者は混乱するだけでしょう。

概念は根底から覆りません。私は空間がなくても物体は存在できるというのが真だったとしても、空間という概念自体がもともと人間に備わったものだと考えているので、わざわざそれを捨て去って理論を構築するのは非生産的な行動と捕らえます。いわば数学で幾何学を一切使うなというのと同じです。せっかく空間という概念を人間が持っているのですから、それをうまくテクニックとして利用するのがいいと考えています。要するに、私は現在の科学には真実と計算を簡略化するためのテクニックが混ざっており、例え真実と思われるものが変化しても、簡易に自然法則を記述できるテクニックは残っていくことでしょう。ちょうど学者が必要に迫られない限り、特殊相対性理論などを考慮しないで、従来のニュートン力学のみで計算をするように。要は需要がある限りそれがすたれることはありません。廃れることがないので数学や物理学にそこまで甚大な被害を与えるとは思えません。

[指摘6]時間に対する私の認識ですが、厳密に考えるなら時間というものは存在しないと考えています。記憶はただの記録にすぎず、未来はまだ認知できていない。認知できるのが瞬間瞬間だけなら、厳密には時間は存在しないでしょうという考えを持っています。もっともこれはかなり厳密に考えた場合の話ですが。普通そこまで厳密な話をして議論をしようとは思いません。ここまで厳密にしすぎるとなんというか現実世界との剥離が酷すぎて、なんの役にも立たないようなものばかり脳内を思考が駆け巡って、日常生活さえ困難になってしまう経験があるからです。だから、普段はそんなことは考えないようにしています。

[最後に]創造力に対する賛辞でしたか、それならどうもありがとうございます。普段あまりほめられることは無いので、少し調子にのってしまいました。多分こうもりさんとのいくつかの齟齬も私が調子にのってあまり吟味していない言葉まで書いてしまったから生じたのだと思います。前にも一度こういう経験があったのですが、私はおだてられるとダメになってしまう人間のようで、色々なもののパフォーマンスが低下してしまうのです。議論に付き合って頂いてありがとうございました。

空間の物理的実在性
投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年7月22日(月) 20:10.

秋刀魚刺身 さんが書きました:

私はそのカントの言うところの、「空間が物自体の属性」であるという考え方をしているのかもしれません。

カントにとって、物自体とは、その存在を想定することはできても、その内容は全く認識できない対象ですから、「空間が物自体の属性」であるというのは自己矛盾的な命題ということになります。もしも秋刀魚刺身さんが「空間という概念自体がもともと人間に備わったものだと考えている」のなら、空間を直観の形式としているカントと近い主張になります。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

「認識の制約条件の批判的吟味は超越論的な反省を通して行わなければならず、脳のような経験的概念で説明できるものではないからです。」を詳しく聞いてもいいですか?

詳しくは、拙著『カントの超越論的哲学』を御覧ください。脳の存在や働きは、頭蓋を切開したり、脳生理学的な実験をしなければわからりません。それは経験的、アポステリオリに認識される存在であって、アプリオリに認識一般の基礎付けを行う時の出発点とすることはできません。それはちょうど、数学の証明において、証明される結論を証明の前提にしてはいけないのと同じことです。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

私は直接知覚できないものの実在性を否定しているのではなく、観測ができないものの実在性を否定しています。それはこうもりさんの「Q1. 秋刀魚刺身さんの使う「物理的な観測」の意味をお教えください」に対する回答を読んでいただければ分かります。

そこは既に読んでいますが、常識的に言って、観測と知覚は同じでしょう。観測装置が何らかの反応を示しても、反応結果を知覚しない限り観測したとは言えないのですから。

もっとも、他の箇所から推測するに、秋刀魚刺身さんが言いたかったことはそういうことではなくて、実在するとは、物理的に実在する物に物理的に影響を与えうるものということかもしれません。仮にそう定義するにしても、それは真空という意味での空間の物理的実在を否定することにはなりません。

秋刀魚刺身 さんが書きました:

温度は他の実在性を有するものに影響を与えることができ、ゆえに実在性をもつものだと私は考えます。温度は熱伝導という形で物質という確かな実在性を持つものに影響を与えているからです。対して空間は他の実存性あるものに影響を与えることができません。

熱に関しても光と同じ議論が可能です。真空は伝導や対流という形で熱を伝えることはできませんが、こうもりさんも指摘するように、輻射(radiation)という形でなら伝えることができます。輻射も波動ですから、媒体がなければ伝播しません。もしも真空が「真に空」な場所なら、輻射すら不可能でしょう。真空が熱に対して媒体として機能している以上、熱に何の影響も与えていないとは言えないでしょう。

秋刀魚刺身さんは、クオリア論についていろいろ言及していますが、それに対してコメントすると、話がどんどん脱線しそうな予感がします。ここのトピックは空間の実在性ですから、クオリア論一般を話題にしたいのであれば、別途トピックを立てた方が良いと思います。

3. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. ここでの議論は、システム論フォーラムの「ブライアン・グリーンと超ひも理論」からの転載です。
  2. Paul Adrien Maurice Dirac. “The Relation between Mathematics and Physics." Lecture delivered on presentation of the JAMES SCOTT prize, February 6, 1939.
    Published in: Proceedings of the Royal Society (Edinburgh) Vol. 59, 1938-39, Part II pp. 122-129.
  3. Newton, Sir Isaac. The Principia: The Authoritative Translation and Guide: Mathematical Principles of Natural Philosophy. University of California Press; 1st edition (February 5, 2016). p. 10.
  4. Albrecht Folsing. Albert Einstein: A Biography. Viking Adult; 1st edition (March 1, 1997). p. 208-210.