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冒険はなぜ楽しいのか

2001年7月21日

《すべての生物は自己保存の欲望を持つ》という生物学の仮説にとって、冒険という快楽は説明しにくい現象である。実用的な目的のある冒険で、《身を危険に晒すにもかかわらず快楽を感じる》現象なら簡単に説明できる。では、実用的な目的の全くない冒険で、《身を危険に晒すがゆえに快楽を感じる》現象はどうだろうか。

Image by Web Donut + jongmin lee from Pixabay + Photo by Oliver Sjöström on Unsplash modified by me

1. 冒険は実益とは無関係に楽しい

ハイリスク・ハイリターンのギャンブルを行うことは典型的な冒険である。ギャンブルで身を滅ぼす人は後を絶たない。ギャンブルが好きな人は、一攫千金という実用的な目的があるからこそ、身を危険に晒すにもかかわらず快楽を感じるのだろうか。そうではない。実用的観点からすれば、ギャンブルは割の合わない投資なのだ。

ギャンブルの一つの例である宝くじを取り上げてみよう。もし宝くじの売り上げ合計が賞金の合計よりも大きくないならば、宝くじは事業として成り立たない。だから、宝くじの期待値は必ず宝くじの単価より小さくなる。したがって、宝くじを買うことは、利殖目的の投資労働ではなくて、娯楽である。ちょうどジェットコースターに乗る人が、お金を払ってスリルを買うように、宝くじを買う人は、お金を出して、わくわくする夢を買っているのである。

その証拠に、賭け金に対する期待値のレートがどんなに良くても、賞金の最高金額が30円の宝くじを買う人はいない。賭け金に対する期待値のレートが悪くても、賞金の最高金額が3億円なら、買う人はたくさんいる。安全性だけがとりえのジェットコースターに誰も乗らないように、還元率が高いだけの宝くじを誰も買わない。もし安全性だけを求めるならば、最初からジェットコースターに乗らなければ良いのであり、また賭け金に対する期待値のレートを最高の1にするには、宝くじを買わなければ良い。

2. 周縁におけるエントロピーの増大

遺伝子分析によると、日本人にはアメリカ人よりもリスクを嫌う人が多いとのことである。大組織での安住を捨て、冒険的な独立を求める日本人は少ない。しかし、リスクが嫌いな平均的日本人でも、毎日ルーティーンな仕事をしていると、休日には非日常的な冒険をしたくなるものだ。社会内部的にも個人内部的にも、秩序と安定を求める欲望を中心としつつも、その周縁に無秩序と変化を求める欲望が存在する。

個人であれ、社会であれ、システムはエントロピー(不確定性)を否定する秩序である。おのれをハイリスクな危険に晒すということは、システムのエントロピーを増大させることになるので、システムにとっては一見すると自殺行為のように見える。しかし実はそうした自殺行為的冒険は、システムが自己を維持するために必要な行為である。そのパラドックスは、エントロピーを減少させるには、エントロピーを増大させなければならないというエントロピーの法則そのもののパラドックスである。

前回の「環境適応か変化適応か」で、システムは環境適応と変化適応のジレンマに直面するといったが、システムが秩序を求めるのは環境適応のためであり、無秩序を求めるのは変化適応のためだと考えることができる。一切の冒険を拒む保守的なシステムほど、時代の変化についていけない。自己保存の確率を高くするには、自己保存の確率が低い冒険もしなければならないわけである。

3. 革命は周縁から起こる

システムとは選択であり、環境が安定している時、システムの中心は従来どおりの選択を繰り返せばよい。周縁において、他の選択の可能性を探ることは割の合わないギャンブルでしかない。しかし環境が大きく変化して、従来どおりの選択がシステムの自己維持を約束しなくなると、周縁における実験と冒険の割合が増えてくる。

そして中心と周縁の地位が逆転する時、革命が起きる。周縁は、失うものが何もないがゆえに、大胆な冒険をすることができる。政治革命であれ、経済革命であれ、科学革命であれ、革命は既得権益にしがみつく中心からではなく、周縁の異端児が惹き起こすものだ。私もそうなることを願って『縦横無尽の知的冒険』のタイトルを決めた。

《身を危険に晒すがゆえの快楽》は、《すべての生物は自己保存の欲望を持つ》という仮説を否定しない。冒険という快楽は、周縁的なリスクの追求がリスクを分散させて、全体のリスクを減らすという逆説的なあり方で、種保存に役立っているのである。