3月 112001
 

自給自足の経済を想像することができるように、他者の力を借りずに自分だけで情報収集や創作をする文化も想像可能である。だが、実際には、私たちは貨幣を通じて商品交換をするし、言語を通じて意見交換をする。

1. コミュニケーションメディアとしての貨幣と言語

貨幣が、交換の相手が、自分が望む商品を所有しているかどうかという不確定性と自分が所有している商品を望んでいるかどうかという不確定性からなるダブルコンティンジェンシーを縮減するがゆえに、コミュニケーションメディアであるのと同様に、言語は、自分の表現を相手が理解するかどうかという不確定性と相手の表現を自分が理解しているかどうかという不確定性からなるダブルコンティンジェンシーを縮減するがゆえに、コミュニケーションメディアである。

現在世界には、約6000の言語があるが、世界の人々とコミュニケーションするために、6000の言語を習得することは、物々交換と同様、多くの困難を伴う。英語を世界共通語として利用すれば、習得しなければならない言語は、多くとも二つですむ。それは、分業化された貨幣経済で商品交換をするために必要な資産は、自分の労働の産物と貨幣の二つですむことと類比的ある。

2. 貨幣と言語による価値の測定と交換

話者にしか理解できない言語を私的言語という。言語一般と私的言語の関係は、英語とローカル言語の関係と同じである。私的言語など存在しないと思うかもしれない。しかし記号的象徴化が経験的多様性を抽象(捨象)する時、選択は常に他のようにも可能であり、そしてこの可能性の他者性が他者性の可能性であるのだから、個人レベルにおいても、自己の選択を他者が誤って選択する可能性と自己が他者の選択を誤って選択する可能性がある。

言語による選択には、1.無意味から意味を区別する選択、2.誤謬から真理を区別する選択、3.無価値から価値を区別する選択の三つのレベルがある。どのレベルでも、選択はネゲントロピーであるから、価値を生む。英語の"value"は、数"値"や音"価"といったように、1や2のレベルでも使われる。しかし言語市場で人々の欲望の的となるのは、3番目の最も洗練された、狭義の価値である。

貨幣が商品の価値を代表(represent)しているように、言語は意味と真理を表象(represent)しているとは言えない。知的活動の産物である文化的作品を労働の産物である経済的商品と比べてみるならば、意味があるか否かは存在するかどうかと、真であるか否かは有用であるかどうかと同じである。商品の場合、有用性があっても、希少性がないと価値があるとは言えない。同様に誰もが知っている真理には情報としての価値がない。評価されるには、ニュースには意外性が、学説には独創性が要求されるのである。

ある商品の価値の総額は、何人の買い手が、その商品と引き換えにどれだけの犠牲を払おうとするかで決まる。空気や日光のように有用だが希少性がない財は、その獲得と引き換えに何も犠牲にする必要がないがゆえに、価格はゼロである。言語表現の理解においても、新たな知識を受け入れるということは、その知識と矛盾する過去の認識を犠牲にすることを伴う。既に知っている知識は、その獲得と引き換えに何も犠牲にする必要がないがゆえに、価値はゼロである。新しい知識は、それがより多くの人のより多くの過去の知識を否定すればするほど、より多くの価値を持つ。

image
今では、ソーシャル・メディアが、コンテンツのインパクトを示す指標を提示している。

通貨は経済的商品の価格を消費者が提供する貨幣の数によって表現するが、記号は文化的作品の値打ちを消費者の賞賛を意味する記号の数によって表現する。賞賛は言語で表現されるとは限らない。拍手のような象徴的記号で表現することもできる。

3. 貨幣と言語による価値の貯蔵

貨幣には、価値を測定し、交換する機能以外に価値を貯蔵する機能もある。言語にも、交換と測定の二つの機能以外に、知識を貯蔵する機能がある。

貨幣と言語の流通を決めるのは、それが代表象する価値と知識のストックとフローである。エスペラント語のように、いくら言語として合理的でも、ストックが乏しいと普及しないし、逆にギリシャ語やラテン語は、フローがなくてもストックが豊かであるから、今でも学ぶ人がいる。電子マネーも、そのICカードがいくら利便性に優れていても、発行者のストックが他の貨幣発行者と比べて十分でなければ、普及しない。

読書案内
書名話すということ―言語的交換のエコノミー
媒体単行本
著者ピエール・ブルデュー 他
出版社と出版時期藤原書店, 1993/01
付録

関連トピックとして、フォーラムから“貨幣と言語の類似性 感想”を転載します。

貨幣と言語の類似性 感想

投稿者:koya.投稿日時:2013年4月27日(土) 01:33.

貨幣と言語の類似性

詳しい意見はすべてここに書いてあります。

要約すると、
通貨は言語の一種類である。
言語のうち、価値尺度・価値貯蔵・価値流通機能を持つものをいう。
貨幣とは、通貨をあらわすものである。
というのが私の考えです。

なぜお金のほうが相手に伝わるかというと、純粋な記述言語により近いからです。
今現在私たちが認識しているもっとも純粋な言語は数学的表現になります。

間違っている箇所は、

永井俊哉 さんが書きました:

新しい知識は、それがより多くの人のより多くの過去の知識を否定すればするほど、より多くの価値を持つ。

ここで、他人の認識に関係なく、むしろ知っている人が少ないほうが儲かる金融への知識があります。

永井俊哉 さんが書きました:

通貨は経済的商品の価格を消費者が提供する貨幣の数によって表現するが、記号は文化的作品の値打ちを消費者の賞賛を意味する記号の数によって表現する。賞賛は言語で表現されるとは限らない。拍手のような象徴的記号で表現することもできる。

いいたいのは、どれだけ純粋な表現かどうかということだろうけれども、通貨にも単位という数学的表現よりは不純な部分があります。だから、通貨も消費者の賞賛を意味する記号の数です。

永井俊哉 さんが書きました:

貨幣と言語の流通を決めるのは、それが代表象する価値と知識のストックとフローである。

これも間違いで、その言語の使いやすさによって大きく変わります。表象する価値が低かったとしても、使いやすければ普及します。具体例は今はやりのBitcoin と現行のニューギニアの貝殻貨幣です。

あと言語には、使って楽しいか?という基準で普及する言語があります。難解プログラミング言語がそうです。

少し背伸びをして頭がよくなってみたい人をひきつける文章だとおもいます。

価値を代表象する記号としての貨幣と言語

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年4月27日(土) 12:07.

koya さんが書きました:

他人の認識に関係なく、むしろ知っている人が少ないほうが儲かる金融への知識があります。

相場の格言に「人の行く裏に道あり花の山」というものがあります。例えば、他の人が間違って将来を悲観している時に買えば、株で儲けることができます。また、他の人がその将来性を見損なっている事業に高利で金を貸せば、融資で金を儲けることができます。そういう意味で「新しい知識は、それがより多くの人のより多くの過去の知識を否定すればするほど、より多くの価値を持つ」という私の主張は、金融に関しても間違っていないと思います。

koya さんが書きました:

いいたいのは、どれだけ純粋な表現かどうかということだろうけれども、通貨にも単位という数学的表現よりは不純な部分があります。だから、通貨も消費者の賞賛を意味する記号の数です。

これは、何が言いたいのかよくわかりません。私は、単位の付かない無次元数(比)は純粋で、単位が付くと不純といった話はしていません。たぶん、「通貨は経済的商品の価格を消費者が提供する貨幣の数によって表現するが、記号は文化的作品の値打ちを消費者の賞賛を意味する記号の数によって表現する」という文における「が」を逆接の接続詞と解釈して、間違いと言っているのではないかと推測されます。「が」という接続助詞には、以下のような意味があり、私は(1)の意味でこれを使っています。

(media) 大辞林 さんが書きました:

(1)前置き・補足的説明などを後に結びつける。
「次に予算の件です―、重要なので今日中に決めてください」「御存じのことと思います―、一応説明します」
(2)二つの事柄を並べあげる場合、時間的前後・共存など、それらの時間的関係を表す。
「驚いて外に飛び出した―、何事もなかった」「しばらく見ていた―、ふっといなくなった」
(3)対比的な関係にある二つの事柄を結びつけ、既定の逆接条件を表す。けれども。
「学校へ行った―、授業はなかった」「君の好意はうれしい―、今回は辞退する」
(4)どんな事柄でもかまわない、の意を表す。「…うが」「…まいが」の形をとる。
「どうなろう―知ったことではない」「行こう―行くまい―、君の勝手だ」

だから、私は「通貨も消費者の賞賛を意味する記号の数」であることを否定しているのではありません。むしろ、内容をよく読めば分かる通り、それを肯定しているのです。

koya さんが書きました:

これも間違いで、その言語の使いやすさによって大きく変わります。表象する価値が低かったとしても、使いやすければ普及します。具体例は今はやりのBitcoin と現行のニューギニアの貝殻貨幣です。

例えば、エスペラント語は、自然言語よりも合理的で、使いやすさは抜群ですが、普及していません。それは、エスペラント語で書かれた文献の文化的価値(ストック)、エスペラント語を話している、あるいは将来はなすであろう人の価値の合計(フロー)が小さいからです。ビットコインは、楽天ポイントなどと同じで、アンケートに答えるとか、アフィリエイト・プログラムを通じて商品の購入に貢献するとか、通常の貨幣でその報酬が支払われるような価値ある労働に対して支払われる民間の信用通貨で、それが代表象するとユーザたちが思念する価値のおかげで流通します。ニューギニアの貝殻貨幣は、かつて世界のどこにでも存在した商品貨幣の一種で、金と同様に、それ自体に商品価値があると思われているから流通します。もちろん、腐りやすかったり、運搬が困難であったりすると、貨幣としては不適切だから、それ自体に経済的価値があるということは、ある商品が貨幣として使われるための必要条件であっても、十分条件ではないと言うことはできます。

koya さんが書きました:

あと言語には、使って楽しいか?という基準で普及する言語があります。難解プログラミング言語がそうです。

たしかに、例えば流行語や顔文字は、ユーザが面白いと思って使うことで普及します。しかし、面白いということは、文化的価値が高いということですから、価値に基づく流通の一つの例とみなすことができます。この場合、表象されている内容が面白いのか、それとも表象する記号が面白いのかというあいまいさが残りますが、この両義性は、自分自身の価値と代表象する対象の価値という商品貨幣の価値の両義性と同じと考えることができます。

Re: 貨幣と言語の類似性 感想

投稿者:koya.投稿日時:2013年4月27日(土) 14:22.

相場の格言に「人の行く裏に道あり花の山」というものがあります。例えば、他の人が間違って将来を悲観している時に買えば、株で儲けることができます。また、他の人がその将来性を見損なっている事業に高利で金を貸せば、融資で金を儲けることができます。そういう意味で「新しい知識は、それがより多くの人のより多くの過去の知識を否定すればするほど、より多くの価値を持つ」という私の主張は、金融に関しても間違っていないと思います。

この反論が適切でない点
行動が他人と違うときに、人の人間が持っている知識すべてを他人と比較すると違う場合があると思います。例外は、知識が同じでも解釈する理性が違う場合です。

Aさんが持っている知識の集合Bを含むより多くの知識の集合CをDさんが持っていて、互いに知識を並列化しようとしたとき、DさんはAさんの知識を否定していないと僕は捉えました。

もし、このような状態が知識の否定であると定義するなら、相手の知識の否定という言葉と相手の知識と齟齬があるという2つの言葉がある必要がないので、表現が不適切です。

知識の並列化とは
攻殻機動隊を見ればよく理解出来ますが、平たく言えば、お喋りをして互いに思っていることが同じようになるようにすることです。

、「通貨は経済的商品の価格を消費者が提供する貨幣の数によって表現するが、記号は文化的作品の値打ちを消費者の賞賛を意味する記号の数によって表現する」という文における「が」を逆接の接続詞と解釈して、間違いと言っているのではないかと推測されます。「が」という接続助詞には、以下のような意味があり、私は(1)の意味でこれを使っています。

この意味で捉えた場合も
通貨は貨幣の数によって表現する

通貨は貨幣の数によってのみ表現する
の意味でいったとしたら間違いです。
これはどちらの意味で使っているのか判断できないです。

貨幣と言語の流通を決めるのは、それが代表象する価値と知識のストックとフローである。

これも絶対的に表象する価値のみが流通を決めると限定してないという反論がないので、限定していると考えます。

根拠は、

たしかに、例えば流行語や顔文字は、ユーザが面白いと思って使うことで普及します。しかし、面白いということは、文化的価値が高いということですから、価値に基づく流通の一つの例とみなすことができます。この場合、表象されている内容が面白いのか、それとも表象する記号が面白いのかというあいまいさが残りますが、この両義性は、自分自身の価値と代表象する対象の価値という商品貨幣の価値の両義性と同じと考えることができます。

表されたものに価値がなく、使うことが自体が面白いと流通する例をあげたときに、流行語と絵文字という表されたものに価値がある例を挙げて反論しているからです。

表象されている内容が面白いのか、それとも表象する記号が面白いのかというあいまいさ

が発生する場面にあえて持ち込んだということは、比較する対象を変化させなければ反論が不可能だと思ったからだと判断しました。

話をするときは、話している対象をできるだけ変化させないで話さないと結論が出ないので、変化させたということは不都合が有ったと判断し、その原因は上記にあると考えました。

価値は低エントロピーである

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年4月28日(日) 13:13.

koya さんが書きました:

行動が他人と違うときに、人の人間が持っている知識すべてを他人と比較すると違う場合があると思います。例外は、知識が同じでも解釈する理性が違う場合です。Aさんが持っている知識の集合Bを含むより多くの知識の集合CをDさんが持っていて、互いに知識を並列化しようとしたとき、DさんはAさんの知識を否定していないと僕は捉えました。もし、このような状態が知識の否定であると定義するなら、相手の知識の否定という言葉と相手の知識と齟齬があるという2つの言葉がある必要がないので、表現が不適切です。

この問題を考える時、まず、そもそも「価値とは何か」という根源的な問題を考えなければなりません。リンク先で詳しく述べたことですが、「価値は低エントロピーである」というのが私の考えです。そして、価値を作り出す行為、すなわち労働とは、エントロピーを縮減する行為であり、他のようでもありうる諸可能性を否定する行為であります。文化的な価値を作る労働に関して同じことが言えるということです。

koya さんが書きました:

通貨は貨幣の数によってのみ表現するの意味でいったとしたら間違いです。これはどちらの意味で使っているのか判断できないです。

「通貨は経済的商品の価格を消費者が提供する貨幣の数によって表現する」という文の意味は、書いてある通りの意味です。

koya さんが書きました:

根拠は、

たしかに、例えば流行語や顔文字は、ユーザが面白いと思って使うことで普及します。しかし、面白いということは、文化的価値が高いということですから、価値に基づく流通の一つの例とみなすことができます。この場合、表象されている内容が面白いのか、それとも表象する記号が面白いのかというあいまいさが残りますが、この両義性は、自分自身の価値と代表象する対象の価値という商品貨幣の価値の両義性と同じと考えることができます。

表されたものに価値がなく、使うことが自体が面白いと流通する例をあげたときに、流行語と絵文字という表されたものに価値がある例を挙げて反論しているからです。

表象されている内容が面白いのか、それとも表象する記号が面白いのかというあいまいさ

が発生する場面にあえて持ち込んだということは、比較する対象を変化させなければ反論が不可能だと思ったからだと判断しました。

私は好意的に解釈したつもりだったのですけれども、お気に召さないということですか。もしあなたの主張が「表されたものに価値がなく、使うことが自体が面白いと流通する」というものであるなら、反論は簡単です。流行語や顔文字は、コミュニケーションの手段であって、それを使うことが面白いとユーザが感じたとしても、その楽しみは副次的で派生的なものです。使うこと自体が面白く、それが自己目的化し、犬とか猫とか、理解できない相手に対してまで流行語や顔文字を使うようになったなら、それはもはやコミュニケーションとは言えなくなります。それは、せいぜいコミュニケーションごっこであって、それをコミュニケーションと呼ぶことは、ままごと遊びを主婦労働と呼ぶのと同じぐらい不適切です。ままごとをする女の子は、その遊び自体が面白いからやっているだけで、その家事もどきには価値がないから、誰もそれを主婦労働とは言いません。貨幣についても同じことが言えます。貨幣は、価値の測定、交換、貯蔵のための手段であって、貨幣を使うことが面白いと感じたとしても、その楽しみは副次的で派生的なものにすぎません。もしも本来の機能はどうでもよくて、貨幣を使うこと自体が面白くなり、そうしたマニアどうしで経済活動もどきをしても、それは通貨流通ごっこであって、本来の通貨の流通とは異なります。

Re: 貨幣と言語の類似性 感想

投稿者:koya.投稿日時:2013年4月29日(月) 01:14.

まず、反論ができていない原因は
例えに、再び

表されたものに価値がなく、使うことが自体が面白いと流通する例をあげたときに、流行語と絵文字という表されたものに価値がある例を挙げて反論しているからです。

私が、難解プログラミング言語を例に出したのは、
言語によって表されてその意味を相手が理解できるが、わざわざその言語を使って表現しなくても同じ事を表現できて、なおかつその言語によって表されていること(大抵はあいうえおとか1から100まで足すとかくだらない事)が使っていて面白いので流通している。

貨幣と言語の流通を決めるのは、それが代表象する価値と知識のストックとフローである。

言語には、単語の組み合わせによる表現の妙(文法・修辞学)がありますが、通貨の表象する価値と述べた場合、私が提唱している捉え方以外では、通貨を使用するときの組み合わせの妙は含まれませんので、組み合わせに関しては代表象する価値と知識のストックとフローに含まないと理解しました。

この場合、表象されている内容が面白いのか、それとも表象する記号が面白いのかというあいまいさが残りますが、この両義性は、自分自身の価値と代表象する対象の価値という商品貨幣の価値の両義性と同じと考えることができます。

こうも書いていることから、貨幣自分自身の価値=内容=紙幣を刷るコスト で、その組み合わせによって価値が上下すると書いておらず、商品貨幣の価値=記号=紙幣で表されている価値 も組み合わせによって変化しないので、組み合わせによる価値の上下は通貨にないと認識しているとここからも推測しました。

それを使うことが面白いとユーザが感じたとしても、その楽しみは副次的で派生的なものです。使うこと自体が面白く、それが自己目的化し、犬とか猫とか、理解できない相手に対してまで流行語や顔文字を使うようになったなら、それはもはやコミュニケーションとは言えなくなります。

難解プログラミング言語は全く同じ事をもっと楽に表現できるのに、使う面白さだけで普及しました。あなたは、言語を使う面白さが副次的だと言いましたが、一般的に普及している言語でも使う楽しさによって普及した言語は幾つもあって、言っていることが数学的レベルで同一であっても記述する方法が面白いかどうかで普及するかがどうかに影響が出ています。表す価値も表された知識のストックも生み出すのは使っている人です。だから使う動機は言語全体の価値からみて副次的なものではありません。

通貨も使用するとき管理するときの組み合わせの妙をインターネットを使って表現する方法があり、それで使う楽しさそのもの、使って楽しいという快感をつくりだす事ができるので、私にとって通貨の価値とは、使って楽しいかを含みそれは副次的ではありません。通貨が表す価値をつくる原動力です。

全く同じ事を表現できる2つの通貨があったとして、現在一方の通貨の表現しているものが大きかったとして、もう一方は表現しているものは小さくて、面白かったとして時に、後者の方に面白いという理由で人が集まる可能性もあるわけです。
したがって、この点からも、通貨の使う面白さは通貨全体から考えて現在表す価値と並ぶ主要な価値であるとかんがえます。

通貨を使う事自体が自己目的化した場合のも、それによっても周りの状況を整理して把握することに使う言語として捉えることができます。よって使う人間が一人しかなくても経済活動に寄与します。

したがって、

そうしたマニアどうしで経済活動もどきをしても、それは通貨流通ごっこであって、本来の通貨の流通とは異なります。

というのは間違いです。

言語が完璧に理解できる間の話しか出していないので、それ以外の例を出すとうまく反論ができない原因になりますので、うまく反論したいなら相手の例の特徴のひとつである、言語を使って意思疎通ができているという要件を外さないで反論したほうがいいと思います。

評価する記号と評価される対象の区別

投稿者:永井俊哉.投稿日時:2013年4月29日(月) 13:14.

koya さんが書きました:

私が、難解プログラミング言語を例に出したのは、言語によって表されてその意味を相手が理解できるが、わざわざその言語を使って表現しなくても同じ事を表現できて、なおかつその言語によって表されていること(大抵はあいうえおとか1から100まで足すとかくだらない事)が使っていて面白いので流通している。

難解プログラミング言語は、「表されたものに価値がなく、使うことが自体が面白いと流通する例」には該当しないと思います。「あいうえお」の表示は、データのバイナリ文字列へのパックであり、1から100まで足すという演算は、等差数列の和の関数の適用であり、どちらの場合でも、それでコンピュータが動作するなら、「表されたものに価値がある」と評するべきでしょう。わざわざその言語を使って表現しなくても同じ事を表現できるというのは、《表されたものの価値》ではなくて、《表す言語の価値》に関する話だから、論点がずれています。

では、プログラミング言語において、表されたものに価値がないのはどのような場合でしょうか。プログラミング言語とは、コンピュータに動作を指示する言語ですから、コンピュータが動かないあるいは誤作動するような内容なら、それには価値がないと言うことができます。それにもかかわらず「使うことが自体が面白い」からとって、言語いじりをするマニアが増えたとしても、それでもって、そのプログラミング言語が流通しているとは言えません。なぜなら、それはせいぜいプログラミングごっこであり、プログラミングであるとは言えないからです。

koya さんが書きました:

言語には、単語の組み合わせによる表現の妙(文法・修辞学)がありますが、通貨の表象する価値と述べた場合、私が提唱している捉え方以外では、通貨を使用するときの組み合わせの妙は含まれませんので、組み合わせに関しては代表象する価値と知識のストックとフローに含まないと理解しました。

koya さんの議論では、《評価する記号》と《評価される対象》が混同されているという印象を受けます。著名な俳句も駄作の俳句も、同じ日本語を使っているにもかかわらず、前者が後者よりも高く評価されるのは、十七文字の配列が優れているからです。しかし、言語と貨幣をパラレルに対応させようとするなら、俳句のような文学作品は《評価する記号》ではなくて、《評価される対象》とみなさなければなりません。貨幣は、《評価する記号》であり、組み合わせの妙は《評価される対象》にあてはまることです。《評価する記号》としての貨幣は、例えばパソコンの価格の表示に使われます。パソコンの部品は近年規格化されており、それらの部品の組み合わせの妙がパソコンの価格や評価を決める上で大きな役割を果たしているということができます。このように、言語的な作品の文化的価値であれ、商品の経済的価値であれ、組み合わせの妙が求められるのは、《評価される対象》の方であることに留意してください。

koya さんが書きました:

こうも書いていることから、貨幣自分自身の価値=内容=紙幣を刷るコスト で、その組み合わせによって価値が上下すると書いておらず、商品貨幣の価値=記号=紙幣で表されている価値 も組み合わせによって変化しないので、組み合わせによる価値の上下は通貨にないと認識しているとここからも推測しました。

koya さんは、「商品貨幣」という言葉を誤解しているのではないですか。まずは、辞書でこの言葉の意味を確認してください。

商品貨幣とは 意味 (media) 証券投資用語辞典 さんが書きました:

商品貨幣(commodity money)とは、商品としての実体的な価値をもつ貨幣のこと。貨幣が、交換手段、価値尺度、価値保蔵という機能を果たすためには、だれでも受け取ってくれる一般受容性ないし受領性(general acceptability)を備えていなければならない。

たとえば、歴史上多くの国で貨幣として用いられてきた金属、穀物、貝などは、それ自体が商品としての価値をもつため、多くの人に広く受け入れられていた。

このように、商品価値により一般受容性のある貨幣を商品貨幣といい、そのうち金、銀などの金属の場合を金属貨幣とよぶ。

それに対して、商品としての価値は低いが、高い価値をもつものとして受容され交換手段等に使われる貨幣を信用貨幣とよび、紙幣がその典型である。

ここで書かれているように、紙幣は商品貨幣ではありません。

koya さんが書きました:

全く同じ事を表現できる2つの通貨があったとして、現在一方の通貨の表現しているものが大きかったとして、もう一方は表現しているものは小さくて、面白かったとして時に、後者の方に面白いという理由で人が集まる可能性もあるわけです。

koya さんは、「表されたものに価値がなく、使うことが自体が面白いと流通する」と言ったのであって、「表されたものの価値が小さくても、使うことが面白いと流通する」と言ったのではありませんでした。表されたものに価値があるだけでなく、使う楽しさが副次的、派生的に伴うという私の好意的な(?)解釈を否定した以上、勝手に主張内容を変えてはいけません。そう断ったうえで、表されたものに価値はないが、使うこと自体が面白いので流通する貨幣があるのかということを考えてみましょう。今、貨幣を使うこと自体が好きな倒錯した人がいて、世間的には価値のない独自紙幣を作り、ただでもらえる物をもらう時に、贈与者にその紙幣を手渡したとしましょう。この時その人は貨幣を使ったと言えるでしょうか。たんに貨幣流通ごっこをしただけで、貨幣を使ったとは言えないというのが普通の認識ではないでしょうか。

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