限界革命はどこが革命なのか
1870年代に、メンガー、ジェボンズ、ワルラスの三人が、独立に限界原理を提唱した。彼らの仕事は、当初は異端として無視されたが、その後、経済学の主流となる近代経済学の出発点として位置付けられ、限界革命と呼ばれている。では、限界革命は、どこが革命的だったのか。
1. 限界革命とは何か
経済学における「限界 marginal」という形容詞は、哲学における「超越論的」という形容詞と同様に、難解な合成語を作る元凶と一般に思われているが、限界原理は、それほど難しい概念ではない。限界値とは、消費量をもう少し増やした時に得られる追加的な効用や資本をもう少し増やした時に得られる追加的な生産物などを表すのに用いられる。限界原理によれば、消費量や生産量はこうした限界値によって決定される。
ジェボンズは、「限界効用」という言葉は使わず、「最終的効用度 final degree of utility」という言葉を使っていた。しかし、後世の経済学者たちは、「最終」ではなく、「限界」なる語を使うようになった。その理由は不明だが、「限界」という言葉の方が微分学と親和性が高いことを理由として挙げることができるのではないだろうか。ドイツ語では、「限界効用」は"Grenznutzen"、「極限値」は"Grenzwert"というように、同じ"Grenze"という語を用いる。微分学における極限値とは、"関数の変化量/変数の変化量"で表される変化率が、変数の変化量が限りなくゼロになる時に、限りなく近づく値のことで、微分係数とも言われる。限界値は、代数学的に言えば微分係数であり、幾何学的に言えば曲線の傾きである。
限界革命により、経済分析に微積分が使われるようになり、経済学は、少なくとも外見上は、科学的になった。現在の職業的経済学者たちは、高等数学を駆使することにより、自分たちの仕事が科学的であるという印象を周囲に与え、政府から補助金をもらうことに成功している。彼らが、自分たちの飯の種を作ってくれた変革に敬意を表して、限界革命を「革命」と呼びたくなる気持ちはよくわかる。しかし、たんに既に自然科学で使われていた微積分を導入したというだけなら、それは一種の技術革新であって、革命とは言えない。限界革命には、思想的なパラダイム転換としての側面はなかったのだろうか。
2. 地平的有限性の経済学
英語圏では、"限界効用 marginal utility"と"極限値 limiting value"とでは、別の語が使われている。これと関係があるのか、「限界」という言葉は、かならずしも微分学的に解釈されていない。例えば、古典派経済学に限界原理を導入しようとしたマーシャルは、次のように限界効用を説明している。
説得されてやっと購入する商品を限界購入物と呼んでよいかもしれない。なぜなら、購入者は、それを手に入れることが支出に値するかどうかと戸惑う限界的状況にあるからだ。そして、限界購入物の効用は、購入者にとってそれの限界効用と呼んでよいだろう。[1]
引用文中にある"margin of doubt"の"of"は、同格の"of"である。信念が無知と接する縁(限界)が迷いなのだ。この限界は、私が「地平線と境界線の違いは何か」で定義した地平と同様に、選択を不確定にする。限界原理の限界が、なぜ能力の限界をも意味するのかは、後で説明することにしよう。
限界効用分析は、価値を客観的概念から主観的概念に変えた。この転換は、カントのコペルニクス的転換になぞらえることができる。カントは、それ以前の哲学者が、物自体という超越的理念を認識しようとしたのに対して、人間の認識能力の限界を指摘し、客観的実在と思われていた意識の対象が主観的であると主張した。「超越論的認識とは何か」で既に論じたように、超越論的哲学とは、このように、限界(地平)を超越することが不可能であることを論じる哲学である。しかし超越論的哲学は不可知論を帰結しない。むしろカントは、主観の認識能力の限界を分析することにより、主観的(subjektiv 実体的)真理を客観的に認識することができた。
同じことが限界効用分析についても言える。だから、限界革命が生み出した近代経済学を超越論的経済学と呼ぶことができる。限界革命以前の経済学者たちは、価値を客観的に把捉しようとする超越的経済学を志向した。しかし、限界原理によれば、価値を決めるのは希少性、それも客観的な希少性ではなく、主観的な認識の地平内での希少性である。そして、この価値という主観的概念は、その主観性を自覚しない限り、決して客観的に認識できない。メンガー、ジェボンズ、ワルラスがカントを読んでいたかどうかわからないが、当時、哲学界でも、新カント学派が限界革命と同時に誕生していたという思想史上の事実を指摘しておこう。近代経済学とマルクス経済学との間には、カントとヘーゲルの違いがあるのだ。
3. 鳥の視点と虫の視点
超越的経済学と超越論的経済学の違いを鳥と虫の比喩を使って説明しよう。鳥と虫はともにできるだけ高い地点に到着することを目指しているとしよう。鳥には、認識の地平がなく、山全体を「鳥瞰」し、最も高い山の頂点(ユートピア)を目指して飛んでいくことができる。これに対して、虫は地を這って、限られた認識の地平の内部で、地形の傾きを微分し、少しでも高い方を選びながら、少しずつ歩いていく。もし、地形が単調増加なら、虫は最終的に一つしかない頂上にたどり着くことができるだろう。だが、もしも山に複数の頂点があるのなら、虫は比較的低い頂点に到達し、そこで満足してしまうかもしれない。
限界効用学派の立場は、一種の功利主義だが、限界革命前の功利主義は、快と苦を量的に合計することにより客観的に価値を計算することができると考えていた。だから、彼らは「最大多数の最大幸福」を理念とした。しかし、限界革命後、経済学者たちは効用の最大値ではなく、極大値を目指すようになった。もちろん、変数が少ない簡単な関数なら、微分することにより最大値を求めることができる。しかし、実際の経済がそうであるように、変数の数が極めて多く、しかも可逆的に何度でも実験が行えるわけではない複雑系の場合、効用関数の最大値を求めることは人間の認識の限界を超えている。
ベターな極大値で満足し、ベストである最大値を求めないという方針は、ワルラスの後継者であるパレートの原理に観て取ることができる。パレート最適、すなわち、資源の使い方をどのように変えても、他の誰かの効用を下げずに誰かの効用を高めることはできない状態が、最も理想的な資源の使い方である保証はない。他方、効用が極大となっている現在の均衡状態を捨てるというリスクに満ちた実験をしても、効用の最大値に到着できる保証もない。どちらを選ぶかは、まさに"margin of doubt"の上にある。
もしも、一人でもよいから、鳥のような地平超越的な認識能力を持つ人がいるのなら、その人にユートピアの建設を完全に任せる計画経済の方が、それぞれ狭い地平の内部で私的利益を極大化しようとする虫たちを自由放任にしている市場経済よりも優れていることは言うまでもない。しかしながら、スターリンにせよ毛沢東にせよ、計画経済の指導者もまた、私たちと同じ有限な人間でしかなかった。虫ほどの能力しかない人が鳥のような能力があるとうぬぼれることほど危険なことはない。鳥を自称する一匹の虫の後を全ての虫がぞろぞろとついていくよりも、たくさんの虫が、それぞれ自由に極大を目指して登山する方が、リスクが少ないし、到着地点の平均的な高さも高くなる。超越的経済学であるマルクス主義経済学が超越論的経済学である近代経済学によって淘汰された所以である。
4. 参照情報
- ↑“That part of the thing which he is only just induced to purchase may be called his marginal purchase, because he is on the margin of doubt whether it is worth his while to incur the outlay required to obtain it. And the utility of his marginal purchase may be called the marginal utility of the thing to him.” Alfred Marshall. Principles of Economics. Prometheus Books; Revised版 (1997/5/1). 3.3.
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