確率の認識と認識の確率
自分の認識の不確実性を認識しても、その不確実性の認識の不確実性は意識の地平に現れない。だから、地平内在的な確率と地平超越的な確率を区別する必要がある。そしてこの区別に基づいて、所謂「嘘つきのパラドクス」を解消することができる。
1. あるパラドックス
今、二人のエコノミストAとBが、日経平均株価の今後の動向をめぐって議論を戦わせているとしよう。
A:日経平均株価は今年9000円を割ると思う。その可能性は、私の計算では、80%だ。
B:それは悲観的すぎる。私の計算では、70%だ。
Aは、今年日経平均株価が9000円を割る可能性は80%だと言っているが、このことは、「今年日経平均株価が9000円を割る」という命題が真である確率は0.8であると言うことと同じである。そして、Bは、「今年日経平均株価が9000円を割る」という命題が真である確率を0.7としている。
では、彼らの予想が的中して、今年日経平均株価が9000円を割る確率はどれぐらいなのだろうか。そして、Aの認識が真である確率は0.7で、Bの認識が真である確率は0.8であるとしよう。Aの場合、「『今年日経平均株価が9000円を割る』確率は0.8」である確率は0.7であるので、
(1)0.8×0.7=0.56
となり、Bの場合、「『今年日経平均株価が9000円を割る』確率は0.7」である確率は0.8であるので、
(2)0.7×0.8=0.56
となり、どちらでも同じになってしまう。
次に、「今年日経平均株価が9000円を割らない」という予想が外れて、株価が9000円を下回る場合を考えてみよう。Aは、「今年日経平均株価が9000円を割る」確率は0.8であると言っているが、これは「今年日経平均株価が9000円を割らない」確率は0.2であるという命題と等価である。Aの認識が偽である確率は、1-0.7=0.3であるから、「今年日経平均株価が9000円を割らない」というAの予想が外れて、株価が9000円を下回る確率は、
(3)0.2×0.3=0.06
である。同様の計算を行うと、「今年日経平均株価が9000円を割らない」というBの予想が外れて、株価が9000円を下回る確率は、
(4)0.3×0.2=0.06
となり、(3)と同じになる。結局、日経平均株価が9000円を割り込む確率は、Aの場合でも、Bの場合でも、
(1)+(3)=(2)+(4)=0.62
というように、同じになってしまう。では、AとBは、なぜ認識の違いをめぐって論争しなければならないのだろうか。
2. パラドックスの解決
このパラドクスを回避するためには、地平内在的確率と地平超越的確率を区別しなければならない。Aが「今年日経平均株価が9000円を割る可能性は80%だ」と言う時の確率0.8は、意識の地平に現れるので、地平内在的確率である。これに対して、地平それ自体の確率は、地平を超えなければ認識できないので、地平超越的確率と名付けることができる。
地平超越的確率を地平内在化することはできるだろうか。もしAが「私は、今年日経平均株価が9000円を割る確率を0.8と計算しているが、私の計算が正しい確率は0.7だから、私の予想が当たる確率は、0.8×0.7+(1-0.8)×(1-0.7)=0.62だ」と地平超越的確率を地平内在化しても、この認識それ自体の地平超越的確率までも計算すると、0.56×0.7+(1-0.56)×(1-0.7)=0.524 となり、結局、地平内在的確率と地平超越的確率は一致しなくなる。
3. 自己言及がもたらすパラドックス
一般的に言って、自己言及的に自己を否定すると、パラドクスが生じると考えられている。例えば、ある紙に「この裏に書かれている命題は正しい」と書かれていて、裏には「この裏に書かれている命題は間違っている」と書かれているとしよう。もし、「この裏に書かれている命題は正しい」が正しいのなら、その裏に書かれている「この裏に書かれている命題は間違っている」は正しいことになり、最初の命題「この裏に書かれている命題は正しい」は間違っていることになる。もし、「この裏に書かれている命題は正しい」が間違っているのなら、その裏に書かれている「この裏に書かれている命題は間違っている」は間違っていることになり、最初の命題「この裏に書かれている命題は正しい」は正しいことになる。
このパラドクスも、地平超越的確率を地平内在化することから生まれる。「この裏に書かれている命題は正しい」と書いた人の地平超越的確率が1である保証はどこにもない。むしろ、この人の地平超越的確率は0.5とみなした方がよい。そうすれば、「この裏に書かれている命題は正しい」も「この裏に書かれている命題は間違っている」も、真である確率=0.5、すなわち偽である確率=0.5となり、何の矛盾も生じなくなる。
「私が今語っていることは嘘だ」という自己言及的自己否定がパラドクスをもたらすのに対して、「私が今語っていることは本当だ」はそうでないと考えられている。しかし、自己言及的自己肯定命題においても、地平内在的確率と地平超越的確率を区別する必要があることに変わりはない。「この商品を買って後悔する事は絶対にないと私が保証します」と熱っぽく語るセールスマンや「私は絶対に公約を守ります」と拡声器でがなる政治家達を私たちはそのまま信じない。たとえ本人が、騙す意図を持たず、自分が言っていることを確信していたとしても、それは地平内在的確率が1であることしか意味せず、地平超越的確率が1であることを帰結しない。
4. 経験的確率論から超越論的確率論へ
私は、Aの認識が真である確率は0.7で、Bの認識が真である確率は0.8であるとした。これはパラドクスを導くための仮定であって、実際には誰も地平超越的確率を正確に認識することはできない。もちろん、近似値を出すことはできる。エコノミストAとBのこれまでの経済予測が当たったかどうかを調べれば、彼の発言の信憑性を数値化できる。しかし、それは過去の統計であるし、当たったかどうかの判定に関しても不確定性が残る。地平および地平超越的確率は、その存在を想定することはできても、その内容を正確に認識することはできない。しかし、私たちは、認識できないということを認識できる。それは、カント的な意味で、超越論的確率論と言うことができる。
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