11月 232005
 

イスラム教徒はなぜラマダンの月に断食をするのか。なぜ日没後は飲食をしてもかまわないのか。イスラム教の聖典である『コーランクルアーン)』の中に、その手掛かりを見出そう。

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金で書かれたコーランのテキスト[1]

1 : イスラム教における男尊女卑

イスラム教は、ユダヤ教・キリスト教の流れをくむ父権宗教であり、男尊女卑的である。例えば、『コーラン』には、次のような件がある。

[4.34]アッラーはもともと男と女との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男のほうが女の上に立つべきもの。[2]

貧乏な孤児だったムハンマドが、裕福になることができたのは、ひとえに雇用主で、かつ後に妻となったハディージャが大金持ちの女社長であったからであるにもかかわらず、イスラム教が男尊女卑的であるのは、イスラム教が、ユダヤ教やキリスト教と同様に、父権的な宗教だからである。

[16.57]彼らは、アッラーに娘があるなどと言っている。なんともったいないことだ。自分では好き勝手なもの[男児]を欲しがったりしているくせに。現に、彼らの誰でも、女のお子さんですと言われるとたちまち、さっと顔色を黒くして、胸は恨みに煮えかえり、あまりのいやな知らせに、仲間から身を隠してしまう。さて、屈辱をしのんでこれをこのまま生かしておこうか、それとも土の中に埋めてしまおうか ―― まったく、なんといういやな考え方をすることか。[3]

当時アラビアは、女児の生き埋めが行われるぐらい男尊女卑的だったのである。父権宗教が広まる下地は既にあった。

2 : コーランに描かれている天国と地獄

イスラム教は、他の父権宗教と同様に、信仰心の厚い善人は天国に赴き、そうでない悪人は地獄に落ちると説く。『コーラン』には、天国と地獄についての詳しい記述がたくさんあるので、そのうちの一つを紹介しよう。

第56章「恐ろしい出来事」によると、最後の審判の時、人間は、先頭、右側、左側の三つの組に分かれる。イスラムの信者の中でもっとも立派な人たちは、先頭組に属する。先頭組は次のような最高の楽園に入る。

[56.15]金糸まばゆい臥牀の上に、

[56.16]向かい合わせでゆったりと手足伸ばせば、

[56.17]永遠の若さを受けた(お小姓たち)がお酌に廻る、

[56.18]手に手に高杯、水差し、汲みたての杯ささげて。

[56.19]この(酒は)いくら飲んでも頭が痛んだり、よって性根を失くしたりせぬ。

[56.20]そのうえ果物は好みにまかせ。

[56.21]鳥の肉なぞ望み次第。

[56.22]まなこ涼しい処女妻は、

[56.23]そっと隠れた真珠さながら。[4]

アラブでは「右」は縁起が良い側とされており、イスラム教の信者は、右組に属する。右組も天国に行くことができる。

[56.28]刺なしの潅木と

[56.29]下から上までぎっしり実のなったタルフの木の間に(住んで)、

[56.30]長々と伸びた木陰に、

[56.31]流れてやまぬ水の間に、

[56.32]豊富な果物が

[56.33]絶えることなく、取り放題。

[56.34]一段高い臥牀があって

[56.35]われら[アッラー]が特に新しく創っておいたもの、この女たちは

[56.36]特に作った処女ばかり。

[56.37]愛情こまやかに、年齢も頃合い。

[56.38]右組の連中の相手方となる。[5]

酒のサービスはないけれども、先頭組と同様に、フールと呼ばれる特製処女によるセックス・サービス付きだから、至れり尽くせりである。ここでも、イスラム教が女性信者のことを考えていないことがよくわかる。

アッラーを信じない者は、左組に属し、地獄に落ちる。そこでの「おもてなし」は以下の通り。

[56.42]熱風と熱湯を浴び、

[56.43]黒煙濛々と頭上を覆う、

[56.44]が、(木陰ではないから)涼しくもなく、気持ちよくもない。

[…]

[56.52]ザックームの木の実を喰らい、

[56.53]腹がはちきれそうになったところへ、

[56.54]今度はぐらぐら煮えた熱湯を飲まされる。

[56.55]渇き病にとりつかれた駱駝さながらに飲むであろうよ。

[56.56]これが審きの日の彼ら相応のおもてなし。[6]

アラビア語では、天国は「ジャンナ」と呼ばれ、地獄は「ジャハンナム」と呼ばれるが、それぞれどこにあるかは『コーラン』には明記されていない。ただ、「[69.22]高い高い(天上の)楽園」 あるいは「[28.81]大地の底に落ち込ませる」といった表現から、ジャンナは天の上にあり、ジャハンナムは地の底にあると考えてよいだろう。

ジャハンナムが地の底にあるということは、イスラム教は地母神の胎内への回帰を否定的に解釈しているということである。

最後の審判の日に、現世で行ってきた善事の重さが秤にかけられる。

[101.8]秤が軽くはねたものには

[101.9]底なしの穴が母となろう。

[101.10]が、さて、底なしの穴とはそも何ぞやとなんで知る。

[101.11]炎々と燃えさかる火(の穴)の謂い。[7]

地獄は、ギリシャ語で「ゲヘナ」と言う。「ゲヘナ」は、アラマイ語(イエス・キリストが使っていた言葉)の「ゲヒンノム」、すなわち「ヒノムの谷 」に由来する。ヒノムの谷はエルサレムの南方にあって、かつて、ここでは、自分の子供をモレクやタンムズ に捧げるために焼き殺したと伝えられている。ユダヤ人は、ヒノムの谷を「地獄の口」と呼んでいた。「なぜ出産には火のイメージがあるのか」 [古事記] で説明したように、女陰には火のイメージがある。だから、地獄とは、地母神の胎内のことなのである。

3 : イスラム教徒はなぜ断食をするのか

ラマダーン月の断食(サウム)がイスラーム教徒の義務の一つであることはよく知られている。断食と言っても、それは日中だけであり、日没後は、飲食が許される。許されるのは、それだけではない。

[2.187]断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らはまた彼女らの着物。アッラーは汝らが無理しているのを御承知になって、思い返して、許したもうたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)彼女らと交わるがよい、そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかしその時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ。[8]

食べ放題、飲み放題、セックスやり放題ということであれば、これはまるで、『コーラン』が描く天国での生活のようではないか。 してみると、断食とその解禁は、信仰を守ったがゆえに、その御褒美として天国に行けるという一生単位の出来事を、一日単位で繰り返すフラクタルなシミュレーションということになる。

それにしても、なぜ断食することが信仰を守ることになるのか。近代人たちは、欲望をコントロールするためだとか、貧者の気持ちを理解するためだとか、はたまた健康のためだとか、近代合理主義的な理由を挙げて断食を説明しようとするのだが、私は、むしろ当時の宗教の象徴的意味に準拠して説明を試みたい。

父権宗教が登場する以前から、食べるという行為には、神話的な意味があった。アニメ映画『千と千尋の神隠し』に、千尋の両親が、異界の食べ物を口にしたために、この世に戻れなくなってしまうというくだりがあるが、黄泉国の竃で煮炊きしたものを日本神話では黄泉戸喫(よもつへぐい)と言い、イザナミがそうであったように、これを食べると黄泉の国から戻れなくなってしまう。同じような話は、ギリシアのペルセフォネの神話など、世界各地の神話に見られ、その起源は、古代メソポタミア神話にまで遡ることができる。

では、なぜあの世の食べ物を口にすると、この世に戻ることができなくなるのか。ここで、胃袋と子宮、唇と女陰の類似性に着目しよう。食べ物は、胃の中に入ると、もう戻ってくることができない。それは、地母神の子宮である地下の異界から戻ってくることができないことの象徴的反復なのである。

もちろん、胃の中の物を口から吐き出すことはできなくはない。千尋の両親はこの世に戻ることができたし、イザナミも、イザナギの嘆願を受けて、この世に戻るべく神々と相談しようとした。 しかし、それには大きな困難が伴う。

話を『コーラン』に戻そう。 昼と夜という二項対立は、天と地と同様に、父権宗教と母権宗教という二項対立に重ねられる。ラマダンという信仰が試される月の昼において、信者たちは、胎内回帰を拒否し、父なる神の去勢に耐える。夜の快楽は、去勢に対する代償である。

夜に、飲み放題、食べ放題、セックスやり放題では、母権宗教的なオルギーと変わらないのではないかと読者は思うかもしれない。しかし、断食終了後の饗宴にしても、最後の審判終了後の天国での歓楽生活にしても、官能的で快楽主義的であるとはいえ、それは父権を媒介にしている点で、去勢を経ない、後退的な胎内回帰とは明確に区別される。

家庭での話に対応させるならば、父親は、現在のこの家庭における母子相姦を禁止するが、息子が去勢体験を経て独立し、来るべき次の家庭で妻を娶ることは禁止しないし、否むしろ普通は奨励する。この世での禁欲とあの世での享楽は、こうした家庭的モデルに対応している。

ラマダンという特別な宗教的な期間では、この世とあの世の関係が、この世で擬似的に繰り返される。それは、模擬的で、予行演習という色彩が強い。最後の審判を覆すことはできないないので、地獄に落ちた者は永遠に苦しむしかないが、ラマダンで、断食するべき人が断食しなかったとしても、喜捨をすれば、その罪を贖うことができる。断食は、修正がきく信仰の練習のようなものである。

4 : なぜ昼と夜は交代するのか

『コーラン』には、前後の脈絡がはっきりしない箇所がところどころにある。たとえば、「巡礼」の第60節と第61節がそうである。

[22.60]誰でも、自分の受けた損害だけの報復をしたのに、またまた不当な仕打ちをされた場合には、アッラーが必ずその人の味方をしてくださろう。だが、元来アッラーは、まことに気のやさしいお方、どんな(罪を犯して)もよく許し給う。

[22.61]それというのも、もともとアッラーが夜を昼の中に割り込ませ、また昼を夜の中に割り込ませていらっしゃるからであって、これもみなアッラーが耳聡く目聡くおわしますからのこと。[9]

訳者の井筒俊彦は、「これは前の文章とは直接つながらない別の断片である」 という割注をつけている。確かに二つの節には何の関係もないように見えるが、61節の「それというのも」は、本当に無意味なのだろうか。

ここで、“昼→夜→昼→夜”を“試練→救済→試練→救済”で置き換えてみよう。そうすれば、二つの節の関係が理解できる。不当な仕打ちは試練である。しかし、その試練に耐えれば、神が代わりに報復してくれる。そして、不当な仕打ちをしたものも、罰を受ければ、罪は贖われる。

アッラーが天罰を与えることで、創業時の秩序は回復される。アッラーが「[25.62]夜と昼とを交代にして、(創業の業を)反省したい人や感謝の心を抱きたい人のためのよすがとなし給うた[10]」というわけである。

5 : イスラム教とキリスト教の違い

『コーラン』は、キリスト教の三位一体の教義を批判する。

[4.171]よく聞け、メシア、イーサー[イエス]、マルヤム[マリア]の息子はただのアッラーの使徒であるにすぎぬ。また(アッラーが)マルヤムに託されたロゴスであり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ。されば、汝ら、アッラーとその(遣わし給もうた)使徒たちを信ぜよ。決して「三」などと言うてはならぬぞ。[11]

「三位一体とは何か」で説明したように、三位一体の教義は、個物が特殊を媒介にして普遍と一体となるための弁証法的論理である。イスラム教では、信者はアッラーの奴隷であり、神に服従(イスラム)するしかない。しかし、キリスト教には、人が神の高みに近づく論理がある。これは、なぜ近代化が、イスラム教の国ではなくて、キリスト教の国から始まったのかを考える上で、重要な手掛かりの一つになる。

6 : 読書案内

中田考監修の『クルアーン』は本格的な訳書だが、井筒俊彦訳の岩波文庫版の方が読みやすい。

本稿を書くにあたって、以下の井筒俊彦訳を参照した。

書名
コーラン 上
媒体文庫
著者井筒俊彦(訳)
出版社と出版時期岩波書店, 1957/11
書名
コーラン 中
媒体文庫
著者井筒俊彦(訳)
出版社と出版時期岩波書店, 1964/01
書名
コーラン 下
媒体文庫
著者井筒俊彦(訳)
出版社と出版時期岩波書店, 1958/06

7 : 参照情報

  1. The David Collection. “Double parchment leaf from a Koran written in Kufi.” Licensed under CC-0.
  2. コーラン 上』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1957/11/25). p.115. 以下『コーラン』からの引用にあたっては、章番号とカイロ版の節番号を、引用節の冒頭の[]内に記す.
  3. コーラン 中』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1964/1/1). p.81.
  4. コーラン 下』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1958/6/25). p.168.
  5. コーラン 下』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1958/6/25). p.169.
  6. コーラン 下』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1958/6/25). p.169-170.
  7. コーラン 下』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1958/6/25). p.300.
  8. コーラン 上』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1957/11/25). p.45-46.
  9. コーラン 中』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1964/1/1). p.175-176.
  10. コーラン 中』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1964/1/1). p.211.
  11. コーラン 上』. 井筒 俊彦 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1957/11/25). p.141.
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