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先住民族の聖絶としての初子奉納

2005年6月16日

ユダヤ人が1948年にイスラエルを建国して以来、中東では戦火とテロが絶えることがない。ユダヤ人は、なぜ平気でアラブ人から土地を奪うことができるのか。ヒントは、先住民族の聖絶を初子奉納として正当化する『旧約聖書』にある。このユダヤ教の正典を読みながら、ユダヤ人たちの選民思想を検討しよう。[1]

旧約聖書のテキスト画像の表示
旧約聖書はヘブライ語で書かれている。

1. ユダヤ人の聖絶願望

旧約聖書』は、キリスト教やイスラム教の源泉としても重要であるが、本来はユダヤ教の正典であることを忘れてはいけない。ユダヤ教の信者は世界に1400万人いるとされ、信者数で世界第六位である。まずは、ユダヤ教の特異な性格から見ていこう。

1.1. ユダヤ教の特徴は何か

ユダヤ教は、ユダヤ人[2]のための宗教である。ある民族が、自分たちだけのための宗教を持つこと自体は珍しいことではない。ヒンドゥー教は、インド人やネパール人のための民族宗教であるし、日本の神道も、日本人のための宗教である。ユダヤ教で特異な点は、土着的な民族宗教にありがちな、母権的・多神教的性格がなく、厳格に父権的な一神教であるということろにある。

ユダヤ教は、世界初の一神教といわれるが、それはユダヤ人の独創というわけではない。それより前に、新王国時代のファラオ、アメンホテプ4世(在位紀元前1350年前後)がアテンという太陽神のみを崇拝した。この新宗教は長く続かなかったが、光に象徴される唯一神の崇拝と偶像崇拝の否定という点で、ユダヤ教とよく似ており、ユダヤ教の成立に何らかの影響を与えたに違いない。

出エジプトの原因は、ファラオによる酷使だと言われている。しかし、なぜイスラエル人は、ラムセス2世に酷使された紀元前1250年代には、エジプトを去ったのに、トトメス3世に酷使されていた紀元前1440年頃には、エジプトに留まっていたのかを説明するには、他にも原因を考えなければならない。唯一神の信仰に目覚めたために、一神教を拒否する異教徒と共存ができなくなったということも考えられる。酷使から逃れるだけなら、逃亡先で他の民族を滅ぼす必要はないはずだ。

1.2. 『旧約聖書』が描くホロコースト

エジプトを脱出したイスラエル人は、約束の地、カナンに定住する。約束の地といっても、それは彼らが信奉する神に約束された地ということであって、彼らの侵入は、先住諸民族にとっては強盗行為以外の何物でもない。イスラエル人たちの神、ヤハゥエは次のように言っている。

あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。[3]

例えば、エリコ攻略では、次のような、イスラエル人によるジェノサイドの記述が見られる。

彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。[4]

「滅ぼし尽くす」ことは、ヘブライ語で「へーレム」と呼ばれ、岩波版の『旧約聖書〈4〉ヨシュア記 士師記』では、「聖絶」と訳されている。聖書研究者の中には、へーレムを文字通りの意味で解釈することを嫌い、象徴的で儀礼的な行為と好意的に解釈しようとする人が少なくない。岩波版では、「聖絶」が次のように解説されている。

戦いに敗れ捕虜となった者や家畜はそのすべての古い所有・所属の絆が切断され「神なきもの」となってしまい,穢れた存在となるが,聖絶はそれらを勝利をもたらした自国の守護神に儀礼的に献げ尽すことを意味する.勝利した神に献げ尽くされることで「神なきもの」が購われ,新たに神の所有へと移される.その儀礼的行為全体を聖絶と呼ぶ.物理的に絶滅させたことではない.[5]

しかし、こうした象徴的解釈を以下のアイやアマレクとの戦いの記述に当てはめることは困難である。

伏兵も町を出て彼らに向かったので、彼らはイスラエル軍の挟み撃ちに遭い、生き残った者も落ちのびた者も一人もいなくなるまで打ちのめされた。

アイの王は生け捕りにされ、ヨシュアのもとに引き出された。

イスラエルは、追って来たアイの全住民を野原や荒れ野で殺し、一人残らず剣にかけて倒した。全イスラエルはアイにとって返し、その町を剣にかけて撃った。

その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。

ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。[6]

アイの町を焼き尽くすヨシュア画像の表示
アイの町を焼き尽くすヨシュア[7]。19世紀の絵画。

行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。[8]

はっきりと「殺す」と書いているのだから、これは素直にそう解釈するしかないだろう。

1.3. 『旧約聖書』はなぜホロコーストを描いたのか

もっとも、考古学的な調査によると、『旧約聖書』に書かれているエリコやアイでのホロコーストは史実ではないようだ。しかし、それならば、『旧約聖書 』での記述はさらに異様である。ユダヤ人は、わざわざ歴史を捏造して「自分たちは、こんなにすごいホロコーストをやったのだぞ」と誇示しているのである。実際には、ホロコーストをするだけの軍事力はなかったが、できればホロコーストをしたいという願望だけはあったということである。それでいて、ユダヤ人は、ナチスのホロコーストに対しては、厳しくその罪を糾弾し、今日に至るまで謝罪と賠償を要求し続けている。

旧約聖書』には、『エステル記』という、
次のような話が含まれている。ユダヤ人モルデカイは、養女で絶世の美女であるエステルをペルシャ王クセルクセスの后にすることに成功した。その後、権力者ハマンが、王国内のユダヤ人たちを皆殺しにすべる陰謀を企てたが、モルデカイは、エステルを通じてクセルクセスを篭絡し、逆にハマンを死刑にすることに成功する。

ユダヤ人は敵を一人残らず剣にかけて討ち殺し、滅ぼして、仇敵を思いのままにした。[9]

『エステル記』には、王国内のユダヤ人たちは、王とモルデカイの権威を借りて、7万5千人の反ユダヤ人勢力を殺害したと書かれている。想像を絶するホロコーストである。しかし、この話もフィクションであり、たんにユダヤ人たちの聖絶願望を反映したものに過ぎない
と考えられている。『エステル記』は、キリスト教徒からは嫌われているが、ユダヤ人たちの間では人気がある。

それにしても、この話を読んで、ロビー活動でアメリカ大統領を篭絡し、米軍を用いて中東の反ユダヤ人勢力を叩かせるイスラエルの策略に思いを馳せるのは私だけだろうか。

2. なぜ兄ではなくて、弟が祝福されるのか

イスラエル人は、他の多くの民族と同様に、遺産相続に際して、長子を優遇する。

その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。

疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。[10]

ところが、『創世記』には、以下に示すように、家督争いで、弟が兄に勝つケースが数多くある。抑圧された弟が兄を越える物語は、他のオリエントの物語にも見られる[11]が、『旧約聖書』では、格別の意味を帯びている。すなわち、『旧約聖書 』は、後から来たという意味で弟に相当するイスラエル人が、ヤハゥエの祝福を受け、兄である先住民族・先行文明から支配権を奪い、子孫を繁栄させることを正当化するために、弟に長子権を持たせる事例を作っていると考えることができる。

2.1. 兄カインと弟アベル

アダムとエバは、カインとアベルを産んだ。

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。[12]

カインは、嫉妬から、弟のアベルを殺してしまう。このため、カインは呪われ、豊かな大地から追放されてしまう。アダムは、セト(シェト)を産み、セトが、アベルの代わりに、子孫を作る。

カインの行動は、許容できるものではないが、その前に、ヤハゥエのえこひいきにも問題があるのではないだろうか。祭儀と生活の規定の書である『レビ記』では、家畜の献げ物だけでなく、穀物の献げ物についての規定もある。では、なぜヤハゥエは「土の実り」よりも「羊の初子」を喜んだのか。それは、ヤハゥエが、牧羊民であるイスラエル人の神だからである。

イスラエル人は、もともとメソポタミア地方北部を放浪する遊牧民族だった。ユーフラテス川上流のマリを首都とするマリ王国(紀元前2000年前後)の宮殿からは、都市や農村に定住する王国の人々が、イスラエル風の名を持つ遊牧民族に襲われたことを記した粘土板が多数発掘されている[13]

カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。[14]

兄カインとは、イスラエル人より先に農村や都市に定住していた人々ではないだろうか。カインの末裔が放浪するこの話には、農村と都市の定住民を追い払い、自分たちがその後を継ぎたいという、今日に至るまで世界の火種となっているイスラエル人たちの願望があるのかもしれない。

2.2. 兄エサウと弟ヤコブ

イサクとリベカは、エサウとヤコブを産んだ。

主は彼女[リベカ]に言われた。

二つの国民があなたの胎内に宿っており

二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。

一つの民が他の民より強くなり

兄が弟に仕えるようになる。

月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。

先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。

その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。

二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。[15]

ヤコブは、エサウを出し抜いて、父イサクから長子権を奪い、兄に代わって、祝福される。ヤコブは、エサウの迫害を恐れ、伯父のラバンのもとに逃げるが、最後には、エサウと和解する。イサクはエサウをかわいがったが、ヤハゥエはそうではなかった。

エサウを憎んだ。

わたしは彼の山を荒廃させ

彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。

たとえエドムが、我々は打ちのめされたが

廃墟を立て直す、と言っても

万軍の主はこう言われる

たとえ、彼らが建て直しても

私はそれを破壊する、と。

人々はそれを悪の領域と呼び

とこしえに、主の怒りを受けた民と呼ぶ。[16]

ヨセフの家は炎となり

エサウの家はわらとなる。

火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。

エサウの家には、生き残るものがいなくなる[17]

エサウは、死海の南からアカバ湾に至る地域に住むエドム人の先祖とみなされていた。そして、エサウは狩猟文化を代表し、ヤコブは牧畜文化を代表している。毛がふさふさとたエサウには野蛮なイメージがあるのに対して、イスラエルの祖先であるヤコブには洗練されたイメージがある。そして、ヤコブがエサウを滅ぼす予言には、自分たち牧畜民族が、野蛮な狩猟民族を支配したいというイスラエル人たちの願望がこめられているのであろう。

イスラエルはヤコブの別名であり、その十二人の息子たちからイスラエル十二部族が生まれたことになっている[18]。だから、もうここから先は、跡継ぎの優劣をめぐる争いはなくてもよさそうなのだが、弟が兄を凌駕するという話が、この後も登場する。後続者優位の原則が、イスラエル民族内部にまで適応されることがあるということである。

2.3. 兄たちと末弟ヨセフ

ヤコブ(イスラエル)最愛の息子ヨセフは兄たちから憎まれ、エジプトに売られる。しかし、ヨセフは、エジプトで立身出世し、宰相になり、兄たちは、ヨセフの僕となる。この話は、なぜイスラエルがエジプトに寄留することになったかを説明する話だと思われているが、末弟が奴隷として異国に売り払われる話は、イスラエル王国がアッシリア帝国に、ユダ王国が新バビロニア王国に滅ぼされ、イスラエルの民が捕囚された史実を反映していると思われる。だから、ヨセフが、予言と夢解釈という知的能力を発揮して出世していく物語は、預言者が現れ、ユダヤ人が捕囚から解放される過程が投射されている。

722年に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時、北イスラエル王国との同盟を拒んだユダ王国は、そのまま残った。以下の記述におけるユダの行動は、北イスラエル王国に見立てられたヨセフを外国に売る行為と見ることができる。

ユダは兄弟たちに言った。

弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。

それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。

兄弟たちは、これを聞き入れた。[19]

ところで、ヨセフは、厳密に言うと、ヤコブの末弟ではない。12番目の末弟は、ベニヤミンであり、ヨセフは11番目の弟である。そして、ヨセフは、ベニヤミンと会うことを熱望した。ベニヤミンが他の兄たちより好待遇だったのは、彼が同じ母(ラケル)から生まれた唯一の兄弟だったからなのだろうか。私は、むしろ、ベニヤミン族のサウルがイスラエル最初の王となり、その後ユダ族とともに、ユダヤ教を信奉するユダヤ民族となったことが、ここでの特別扱いの理由だと思う。

サウルの死後、ユダ族出身のダビデがイスラエルの王となり、その息子、ソロモンが王となったとき、イスラエル王国は全盛期を迎える。だが、やがてユダ族とベニヤミン族のユダ王国とそれ以外の十支族による北イスラエル王国に分裂する。

2.4. 兄マナセと弟エフライム

ヤコブは、ヨセフの二人の息子を祝福する時、弟エフライムを兄マナセの前に置き、兄よりも弟の子孫の方が繁栄すると言った。

ヨセフは父に言った。

父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。

ところが、父はそれを拒んで言った。

いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。この子も一つの民となり、大きくなるであろう。しかし、弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる。 [20]

モーセが後継者として選んだヨシュアは、エフライムの曾孫だった。ヨシュアは先住民を聖絶し、カナンの各地を占領し、それをレビ族を除くイスラエルの十二族に分配した。このため、エフライム族はマナセ族より優勢となり、エフラムは北イスラエル王国の別名となった。

3. 初子奉納と先住民族の聖絶

以上、見てきたとおり、族長時代の物語には、先行者である兄に代わって、弟が優位に立つというケースが多い。これとユダヤ民族の選民思想を結びつけることは決して荒唐無稽なことではない。セム・ハム・ヤフェットの物語のように、イスラエル人が兄の立場にある時は、弟が兄に仕えるのである。

3.1. イスラエル人にとっての初子奉納

先行者を聖絶することは、イスラエルの初子奉納の習慣と無関係ではない。初子奉納は、イスラエル以外でも見られる習慣ではある[21]が、弟の長子相続の物語と同様に、『旧約聖書』では、格別の意味を持つ。

ヤハゥエはモーセに次のように言っている。

イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。[22]

カインとアベルの物語にもあったように、イスラエル人は、植物の場合は初穂、動物の場合は初子を、要するに最初に生まれたものを神に奉納しなければならなかった。そして、人間ですら、初子を聖絶しなければならない場合があった。ヤハゥエは、アブラハムを試すために、次のような命令をしている。

あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。[23]

結局、ヤハゥエは、イサクに代えて、牡羊を用意し、それを屠らせた。このように、人間の長子は家畜によって贖うことができた。

部族全体が、神に捧げられることもあった。モーセやアロンを輩出したレビ族は、イスラエルの独立に先行者的役割を果たしたが、神に初子として召し上げられてしまい、その結果、土地を与えられて、世俗的権力をふるうということがなかった。

見よ、わたしはイスラエルの人々の中からレビ人を取って、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての初子の身代わりとする。レビ人はわたしのものである。

すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしはイスラエルの初子を人間から家畜に至るまでことごとく聖別して、わたしのものとした。わたしは主である。[24]

ここだけ読むと、エジプトの初子の聖絶とイスラエルの初子の聖別は異なるように見える。一体、これらは、穢らわしいから行うのか、素晴らしいから行うのか、どちらなのだろうか。

3.2. カタルシスから供犠への転換

モーセは、「初子の足や目、あるいはほかのどこかに大きな傷があれば、あなたの神、主にいけにえとして屠ってはならない[25]」と言っている。だから、エジプト人のような異教徒の初子は、生贄として屠ってはいけないのではないかと考えたくなる。ところが、以下の件を読めばわかるとおり、そうではない。

わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。[26]

私は、「生贄とスケープゴートの違いは何か」で、貴重なものを神に奉納する供犠と穢れたスケープゴートを排除するカタルシスを区別したが、イスラエルにおける初子奉納では両者の区別は明確ではない。エジプトの汚らわしい異教徒の初子を殺すことも神に仕えるレビ族を召し上げることもともに同じ聖別による聖絶である。

モーセは、イスラエルの民に向かって言う。

厭うべきものをあなたの家に持ち込んではならない。そうすれば、あなたも同じ様に滅ぼし尽くすべきものとなる。それを憎むべきものとして憎み、徹底していとい退けなさい。それは滅ぼし尽くすべきものである。[27]

ここで語られる、いとうべきものとは、異教徒が崇拝する偶像のことである。この引用文からも分かるように、厭うべきものに対してもへーレム(滅ぼしつくす=聖絶する)という言葉が使われている。穢れた存在者も、屠れば聖なる存在者となるから、供犠とカタルシスを区別する必要がなかったわけである。

ユダヤ人には、割礼という特徴的な習慣があるが、これも神と契約するための一種の聖絶である。現代人がやる包茎手術とは意味が異なる。包皮の先端部分は、いわば初穂であり、そこを切り取って、神に捧げなければならない。初子奉納の原理は、こんなところにまで適用されているのである。

4. 参照情報

4.1. 関連著作

『聖書』を買うなら、以下の新共同約がお薦めです。

  • 共同訳聖書実行委員会『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).

『旧約聖書』と『新約聖書』の全文に加え、アポクリファ(外典/第二正典)までが収録されていて、この値段ですから、お買い得です。『聖書』は最もよく引用される本ですから、通読するつもりがなくても、一冊手元において、辞書みたいに使うとよいでしょう。

旧約聖書は、西暦90年頃にラビが開いたヤムニヤ会議で、ユダヤ教の正典として認められた文書を、一冊の書物として編集したものです。旧約聖書だけを買うのなら、以下の新改訳の電子書籍がお薦めです。

  • 新日本聖書刊行会『旧約聖書』いのちのことば社 (2018/6/27).

比較的安くて、かつ最新の訳です。

4.2. 注釈一覧

  1. 本稿は、2005年6月16日に公開した書評「旧約聖書」に加筆を行い、2021年4月15日に「先住民族の聖絶としての初子奉納」と解題したものである。初稿に関してはリンク先を参照されたい。
  2. ユダヤ人、イスラエル人、ヘブライ人という呼称は、厳密には同じではない。ヘブライ人はエベルを祖とする人々で、イスラエル人はヤコブを祖先とする人々で、ユダヤ人は、イスラエル人12支族の内ユダ王国を作った2支族、ユダ族とベニヤミン族である。ノア→セム→?→エベル→?→ヤコブ→?→ユダ・ベニヤミンという系図からいえば、包摂関係は、ユダヤ人<イスラエル人<ヘブライ人となる。
  3. 「申命記」07:01-02.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  4. 「ヨシュア記」06:20-21.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  5. 旧約聖書〈4〉ヨシュア記 士師記』. 鈴木 佳秀 (翻訳). 旧約聖書翻訳委員会. 岩波書店 (1998/3/24). 補注.
  6. 「ヨシュア記」08:21-26.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  7. Gustave Doré. “Joshua Burns the Town of Ai (Josh. 8:1-19).” 1866. Licensed under CC-0.
  8. 「サムエル記上」15:02-03.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  9. 「エステル記」09:04-05.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  10. 「申命記」21:15-17.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  11. 弟が兄を打ち負かす話として、日本にも、山幸彦と海幸彦、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)、兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)、神渟名川耳命(かむぬなかはみみのみこと)と神沼河耳命(かむやいみみのみこと)の話がある。『日本書紀』の下巻には、兄弟相続が多いが、中巻には、末子相続が多い。古代出雲族に末子相続の習慣があったとされている。前者の記録は確かだが、後者は願望に基づく創作か。天武天皇が舒明天皇の末子だったこともあるが、皇孫や天神の子が先に住み着いていたという話と同様、侵略を正当化するためのフィクションである可能性がある。
  12. 「創世記」04:02-05.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  13. 小嶋 潤.『旧約聖書の時代―その語る歴史と宗教』. 刀水書房 (1995/04). p.23-24.
  14. 「創世記」04:16-17.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  15. 「創世記」25:23-27.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  16. 「マラキ書」01:03-04.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  17. 「オバデヤ書」12:18.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  18. ただし、単純に十二人の息子とそのまま十二支族となるわけではない。レビは祭祀を司ったので、除かれ、代わりにヨセフ族がマナセ族とエフライム族に分かれ、十二支族となった。
  19. 「創世記」37:26-27.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1). なお、文中に出てくるイシュマエル人は、アラブ人の祖先とされる民族である。
  20. 「創世記」48:17-19.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  21. 中世ヨーロッパにあったとされる初夜権も一種の初子奉納である。新郎は、新婦を手に入れると、その処女を、まず最初に神に奉納しなければならない。もちろん、神は新婦とセックスできないから、祭司や領主が、神に代わって、新婦と同衾するということになったのだろう。
  22. 「レビ記」23:10.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  23. 「創世記」22:02.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  24. 「民数記」03:11-13.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  25. 「申命記」15:19-23.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  26. 「民数記」08:14-18.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
  27. 「申命記」07:26.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).