余剰博士の就職について

2018年8月25日

Doblog – 現代思想の泉・社会哲学 – へのトラックバック。「末は博士かホームレスか」での議論の続き。大学院重点化で増大した余剰博士が就職できるようになるにはどうすればよいのかについて。

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当初「余剰博士が増大」という問題を設定していて、結論は「民間の投資による研究の自由化・民営化」となっているが、結論とは問題の解決でなければならないため、「研究が自由になる」「分業による効率化が期待できる」「報奨金の制度にする」といった帰結が、どのように「余剰博士」の問題にかかわってくるのか、かならずしもはっきりしていない。どうして自由化・民営化が余剰博士の数を減らせるのかが説明不足であるように見える。

余剰博士を減らすにはどうすればよいかという問題は、これ以上新たに作らないにはどうするべきかという問題と既にできてしまった余剰博士をどうするかという問題の二つに分けることができます。もんてすQさんのご批判は、私は、前者の解決策ばかりを論じて後者の救済策については何も言及がないという所に向けられているようです。

既にできてしまった余剰博士をどうするかという問題は、無責任な公共工事でできてしまった、赤字の高速道路やらテーマパークやらをどうするかという問題と同様に、手遅れという気がします。ただ、日本では買い手のつかない物件でも、海外の投資家が購入して、黒字に転換した例があることがヒントになると思います。博士に好意的な外資系の企業が参入すれば、博士の採用が増えるでしょう。

以前、私は、シティバンクの日本のある支店に行ったところ、支店長以下従業員がすべて女性であることに気付き、外資系らしい人事だなと感心したことがあります。日本の企業には、高学歴で有能な女性を採用しても、お茶くみしかさせないようなところが多いので、シティバンクは、そこに目をつけて、コストパーフォーマンスの高い人材を選んだのでしょう。外資系企業は、日本で不当に低く評価されている物件や人材を買う傾向があります。国粋主義者は、それをハゲタカの死肉漁りに喩えて軽蔑するわけですが、様々な価値観の持ち主が、日本の市場に参入することは、資源の有効活用という点で好ましいことだと思います。

もちろん、それでも就職できない、生計が立てられない博士が出てくるでしょうけれども、失業している博士を皆無にするために、無駄な公共事業を行うことは、断じてあってはならないと思います。現在政府は、科学ジャーナリストに金をばらまいて、彼らに大本営発表をさせる計画を立て、その準備として、ジャーナリストを育てる博士課程を作っていますが、こうした御用ジャーナリストを育成する公共事業も、百害あって一利なしです。

科学ジャーナリストを育成する早稲田大大学院の教育プログラムが、今年度の国の科学技術振興調整費の交付対象に決まった。東京大、北海道大の科学技術の研究内容を社会に分かりやすく伝える人材育成プログラムも採択された。

早大のプログラムは、大学院政治学研究科に設置する。出身学部を問わず、博士課程修了者も含む多彩な人材を受け入れ、毎年10人以上を養成して、マスコミや行政、科学館、教育現場などさまざまな分野へ送り出す計画だ。

失業者を救済するのは、社会保険の仕事であり、これについては、[試論編:社会福祉は必要か]をご覧ください。

投資家たちの利益追求は、政府による「報奨金」に負っている。政府が充分な報奨金を用意する根拠はどこにあるのか。政府といえども、カネが足りなければ、厳しい財政状況のなか、どれだけ具体的に報奨金を出せるだろうか。日本の学術発展への報奨というものが、世間一般にどれだけ評価されているか、「血税をそんなことに使うな」といわれて報奨金を削るようでは、投資家たちのインセンティヴにも響いてしまう可能性がないのか。

かつて、80年代の頃、日本がアメリカの基礎研究の成果をただで利用しているというフリーライダー論がアメリカから出てきて、日本はアメリカにもっと金を出すべきだと言われました。金になる応用技術にばかり力を入れていると、こういうことになります。「ただ乗り」と非難されないためにも、基礎研究の分野でも、世界的に評価される、被引用度の高い研究をする必要があります。

引用の数値化は、哲学と経済学と天文学と医学などのあいだで平等と言い切れるのか。時間のかかる研究や元手のかかる研究に不利に作用しないか。

研究資金は分野ごとに分割します。被引用度数は、被引用数とは異なり、絶対値ではありません。投資効率の高い分野があったとしても、参入者が増えて、投資効率が落ちるので、市場原理により自動的に均一化されます。分野ごとの資金配分については、国際的に被引用度数が低い分野の水準を上げるように、毎回調節すればよいでしょう。