余剰博士問題はどうすれば解決できるか
既に大量に生み出されてしまった余剰博士をどうするかという問題は、無責任な公共工事でできてしまった無用の長物をどうするかという問題と同様に、手遅れなのだが、日本では買い手のつかない物件でも、日本とは異なる価値観を持つ海外の投資家が購入して、黒字に転換した例があることがヒントになる。すなわち、博士に価値を見出す外資系企業に日本の市場に参加してもらうことだ。
1. 余剰博士の就職について
大学院重点化で増大した余剰博士が就職できるようになるにはどうすればよいのかについて:
当初「余剰博士が増大」という問題を設定していて、結論は「民間の投資による研究の自由化・民営化」となっているが、結論とは問題の解決でなければならないため、「研究が自由になる」「分業による効率化が期待できる」「報奨金の制度にする」といった帰結が、どのように「余剰博士」の問題にかかわってくるのか、かならずしもはっきりしていない。どうして自由化・民営化が余剰博士の数を減らせるのかが説明不足であるように見える。[1]
余剰博士を減らすにはどうすればよいかという問題は、これ以上新たに作らないにはどうするべきかという問題と既にできてしまった余剰博士をどうするかという問題の二つに分けることができます。もんてすQさんのご批判は、私は、前者の解決策ばかりを論じて後者の救済策については何も言及がないという所に向けられているようです。
既にできてしまった余剰博士をどうするかという問題は、無責任な公共工事でできてしまった、赤字の高速道路やらテーマパークやらをどうするかという問題と同様に、手遅れという気がします。ただ、日本では買い手のつかない物件でも、海外の投資家が購入して、黒字に転換した例があることがヒントになると思います。博士に好意的な外資系の企業が参入すれば、博士の採用が増えるでしょう。
以前、私は、シティバンクの日本のある支店に行ったところ、支店長以下従業員がすべて女性であることに気付き、外資系らしい人事だなと感心したことがあります。日本の企業には、高学歴で有能な女性を採用しても、お茶くみしかさせないようなところが多いので、シティバンクは、そこに目をつけて、コストパーフォーマンスの高い人材を選んだのでしょう。外資系企業は、日本で不当に低く評価されている物件や人材を買う傾向があります。国粋主義者は、それをハゲタカの死肉漁りに喩えて軽蔑するわけですが、様々な価値観の持ち主が、日本の市場に参入することは、資源の有効活用という点で好ましいことだと思います。
もちろん、それでも就職できない、生計が立てられない博士が出てくるでしょうけれども、失業している博士を皆無にするために、無駄な公共事業を行うことは、断じてあってはならないと思います。現在政府は、科学ジャーナリストに金をばらまいて、彼らに大本営発表をさせる計画を立て、その準備として、ジャーナリストを育てる博士課程を作っていますが、こうした御用ジャーナリストを育成する公共事業も、百害あって一利なしです。
科学ジャーナリストを育成する早稲田大大学院の教育プログラムが、今年度の国の科学技術振興調整費の交付対象に決まった。東京大、北海道大の科学技術の研究内容を社会に分かりやすく伝える人材育成プログラムも採択された。
早大のプログラムは、大学院政治学研究科に設置する。出身学部を問わず、博士課程修了者も含む多彩な人材を受け入れ、毎年10人以上を養成して、マスコミや行政、科学館、教育現場などさまざまな分野へ送り出す計画だ。[2]
失業者を救済するのは、社会保険の仕事であり、これについては、「社会福祉は必要か」をご覧ください。
投資家たちの利益追求は、政府による「報奨金」に負っている。政府が充分な報奨金を用意する根拠はどこにあるのか。政府といえども、カネが足りなければ、厳しい財政状況のなか、どれだけ具体的に報奨金を出せるだろうか。日本の学術発展への報奨というものが、世間一般にどれだけ評価されているか、「血税をそんなことに使うな」といわれて報奨金を削るようでは、投資家たちのインセンティヴにも響いてしまう可能性がないのか。[3]
かつて、80年代の頃、日本がアメリカの基礎研究の成果をただで利用しているというフリーライダー論がアメリカから出てきて、日本はアメリカにもっと金を出すべきだと言われました。金になる応用技術にばかり力を入れていると、こういうことになります。「ただ乗り」と非難されないためにも、基礎研究の分野でも、世界的に評価される、被引用度の高い研究をする必要があります。
引用の数値化は、哲学と経済学と天文学と医学などのあいだで平等と言い切れるのか。時間のかかる研究や元手のかかる研究に不利に作用しないか。[4]
研究資金は分野ごとに分割します。被引用度数は、被引用数とは異なり、絶対値ではありません。投資効率の高い分野があったとしても、参入者が増えて、投資効率が落ちるので、市場原理により自動的に均一化されます。分野ごとの資金配分については、国際的に被引用度数が低い分野の水準を上げるように、毎回調節すればよいでしょう。
2. 追記:「土俵の違い」と「立場の違い」の違い
もんてすQさんがこの記事に対して「クレームをつけてきた」ようなので、それに対してリプライします。
わたしは永井俊哉さんに疑念を呈し、それによってかれの着目点を探る。その結果、かれの土俵とわたしの土俵との違いをはっきりさせることができた。そしてかれの土俵に上がるかぎり、わたしはかれと「対決」する必要をまったく感じなかった。だから「相互了解もできている」として、土俵を降りたのだった。したがってその後のわたしの考察は、対決として、反駁として書いたものではない。[5]
どうやら「立場の違い」と「土俵の違い」を混同しているようです。論争を止める時、「立場に相違があるから、議論するのは止めよう」というセリフがよく使われますが、これはおかしな話です。そもそも立場に相違があるからこそ論争が起きるわけで、立場に相違がなければ、以心伝心のコミュニケーション、あるいは同じパラダイム内のパズル解きで合意に達することができます。
これに対して、土俵が異なるなら、論争が起きることはありません。もしも、もんてすQさんが、自分のプライベートな日記に、「末は博士かホームレスか」に関する「疑問点」を書いたとするならば、あるいは自分のブログに本人にしか分からない暗号で書いたならば、私が反論することはありません。しかし、インターネットという共通の土俵で、日本語による理解可能な文で「疑問点」を書けば、もうその段階で、同じ土俵に上ったことになります。
主題が異なる時にも、論争は起きませんが、私ともんてすQさんは、同じ余剰博士問題について語っているのだから、これは関係がありません。
まとめましょう。もしも立場が同じならば、論争は不要であり、もしも土俵が異なるならば、論争は不可能です。土俵が同じで立場が異なる時にのみ、論争が必要かつ可能になるということができます。進化論と創造論も、立場は異なるけれども、土俵が同じだから、論争するわけです。
私は、正直言って、他人の批判に反論することは好きではありません。泥沼の論争に時間を使うよりも、自分の研究に使ったほうが生産的です。ただ、ネット上に存在する批判を放置しておいて「永井は、自分の間違いに気付きながら、訂正せずに無視している」と思われるのが嫌だから、反論しているだけです。
ブログの管理人の中には、自分に批判的なコメントやトラックバックをすべて削除する人がいます。本人は、そうすることで、論敵を土俵から排除しているつもりなのでしょう。しかし、そういうことをしていると、2ちゃんねるとかに悪口を書かれ、よりいっそうたちの悪い非難に晒されることになります。私は、それが嫌だから、批判に対して、オープンにしているのです。
もしも、他人から批判されることが嫌いならば、ネットで公表した自分の主張をすべて回収し、それを自分のプライベートなメモに書けばよい。そうすれば、他人の批判を書いても、反論を受けることはありません。それが、本当の意味で、「土俵を降りる」ことになるのです。
もしも、もんてすQさんが、たんにもうこれ以上議論をするのを止めようと言っているのだとするならば、私は歓迎します。こういうことに時間を浪費することは、お互いのためにはなりませんから。
3. 参照情報
- 水月昭道『ホームレス博士~派遣村・ブラック企業化する大学院~』光文社 (2011/8/5).
- 水月昭道『高学歴ワーキングプア~「フリーター生産工場」としての大学院~』光文社 (2007/10/20).
- 榎木英介『博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか?』ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/11/16).
- 山田剛志『搾取される研究者たち~産学共同研究の失敗学~』光文社 (2020/3/30).
- ↑もんてすQ. “「末は博士かホームレスか」について・再論.” Doblog – 現代思想の泉・社会哲学. 2005/06/02.
- ↑『毎日新聞』2005/06/01.
- ↑もんてすQ. “「末は博士かホームレスか」について・再論.” Doblog – 現代思想の泉・社会哲学. 2005/06/02.
- ↑もんてすQ. “「末は博士かホームレスか」について・再論.” Doblog – 現代思想の泉・社会哲学. 2005/06/02.
- ↑もんてすQ. “議論の「土俵」について." Doblog – 現代思想の泉・社会哲学. 2005/06/04.
ディスカッション
コメント一覧
まず、「立場」および「土俵」という言葉の意味づけに、おたがいに食い違いがあるようです。
ご存知のとおり、言葉の意味が論者によって違うのは、じつに良くあることです。これ自体は悪ではなく、またどちらか一方につねに合わせるべきだということもないと思います。問題なのは差異を認識しないまま議論がかみ合わなくなることでしょう。
当該記事で問題にしたのは、議論の力点がまるで違うのに、おたがいに攻撃だけをおこなうのは、不毛な≪すれ違い≫しか生み出さないということです。引用された箇所は、これを踏まえて、永井さんには永井さんなりの視点で、わたしにはわたしなりの視点で、おなじ問題について別の角度から論じればよい、ということです。どちらか一方が正しくて他方が間違っていることを、無理に決める必要はないということであります。
わたしの場合、≪立場≫というのは、議論の着目点、力点、重視する点に影響を与える各個人の「考え方」とでもいえるでしょう。そして≪土俵≫というのは、そうした考え方に基づいて展開された実際の議論であって(その議論にはかならずなんらかの「方向性・着眼点」がある)、基づいている論点をつかまえずに的外れなことを言い合っても無駄である、ということです。それ以上に深い意義はありません。もちろん、それをつかまえるために疑問を提示することはあるでしょうが、それなら延々と続ける理由はなくなります。
それだから、「おなじプラットフォームで理解可能」なら即座に土俵といえる、という意味合いを持たせていません。また、持たせる必要もないと思います。永井さんにとっては必要なようですが、わたしにとってはその必要はありません。
それから、立場が違うと、かならず論争になるのですか。しかもその論争は「必要」なことなのですか。わたしは、立場が同一か違いがあるかのどちらかしかないとは考えません。「どう違うか」がポイントになります。
まず、立場が違うことを認識し、相手の立場や力点がどこにあるのかを探り、それが自分の議論にとってきわめて重要である場合、その場合にのみ、「対決」すればよい。当該記事にもそのように書いていたはずです。
「自分の議論にとってきわめて重要」なのは、相手の立場が自分の立場と真っ向からぶつかる時に限られるでしょう。そもそも誰であれ、立場が違うのは当然のことであり、立場が違うだけで必然的に論争になるのなら、それこそ世界は論争だらけになり、誰一人として日常のコミュニケーションをとれなくなります。現実には、「真っ向からぶつかり、どうしても譲れない」部分など、たかが知れていると思います。じっさいの論戦も、どうしても譲れないように思い込んでいて、じつは真っ向からぶつかっていないのではないかと思えるものも、少なくないのです。
「再論」でわたしが「あえて批判」をしたのは、わたしなりの「課題」を探るため、よりいっそう永井さんのお考えを(わたしに)明瞭にする必要を感じたからです。その課題とは、結局、はじめから一貫して「民間企業の博士嫌い」の問題になるのですが、そのために永井さんの議論をもっとよく踏まえる必要を感じたからです。だから反駁や対決というよりはむしろ、より突っ込んだ掘り下げということになります。批判が否定とは違うことは説明を待ちませんね?
今回、永井さんのブログにて、「再論」の6つの問題についてご解答いただきました(わたしは永井さんの反論とは受け取っておらず、あくまで解答だと思っています)。これにコメントをなんら行わなかったのは、これ以上の議論を打ち切るということではなくて、まったく逆に、納得のできるところとできないところを、わたしなりに「整理」し、これを自分の考察として自分のブログに公開するつもりだからです。本日発行したメルマガにも、「ひきつづき考察する必要がある」と書きました(現時点で半分程度はできていますが、全体を俯瞰してから記事をアップしたいので、まだ公表しません)。
納得できない部分、といいましたが、それは、永井さんが間違いでわたしのほうが正しいということではなく、「永井さんの議論に全面的に依拠して、自分自身がこれ以上考察する必要はない、というわけにはいかない」という意味です。わたしが依拠しない部分については、あなたが間違っているというより、わたし自身の観点にとって「本質的に重要なのはこの点だ」ということを見出すということなのです。
したがって、もちろん、永井さんにとって、わたしの言っていることが「どうしても譲れない」部分を含むなら、ご自身のお考えをあきらかになさればいいし、わたしの言っていることに誤解が含まれるなら、それを正せばよいでしょう。無視したければすればよろしい。すくなくともわたしは、無視することが悪だとも思いません。訂正の必要を感じた場合にのみ、動けばよいのであって、たとえ言及が攻撃的な内容でも、自分が「どうでもいい」と思っているものにたいして、いちいち反応する必要はないと思います(じっさい、わたしはあなたに「答えろ」とは言ってません)。もっとも、それは各人の志向によりますが。
ちなみに、わたしも論争は好みません。恐らくおなじ経験を経ているでしょう。
この余剰博士の問題については、「泥沼の論争」にするつもりは毛頭ありません。こちらの「整理」がつけば、あとは永井さんによる「訂正」の可能性を残すのみで、そこから先は違う議論になるはずです。なぜなら、余剰博士のうち、すでに生じたひとたちの民間企業への就職の問題、およびこれとニートやフリーターなどとの共通点、こういった問題が、その先のわたしの「土俵」(あえて土俵といいます)になるからです。
話を戻しますが、「土俵」とか「立場」といった言葉の意味に差異があることは確認できました。そしてわたしは、永井さんの使っている意味に自分の概念を正す必要も、永井さんにわたしの意味づけを押し付ける必要も、ないと考えます。永井さんは永井さんなりに、ご自分のお言葉として、自分なりに定義した言葉で引き続き「別の研究」を続ければいいし、わたしも同様です。したがって、「「土俵の違い」と「立場の違い」の違い」という問題にかんしては、『余剰博士』と違って、「もうこれ以上議論をするのを止めようと言」うことにします。すくなくともわたしにとって、無意味だからです。そもそも当該記事は永井さんにたいして書いたものでさえもないので(部分的に引き合いには出しましたが)。
長文のあとで恐縮ですが、ちょっとだけ補足させてください。わたしが「無意味」と書いたのは、「これ以上論争すること」が無意味なのであって、永井さんがこの記事を書いたことには充分な意義があると思っています(そうでなければ無視します)。なぜなら、「問題なのは差異を認識しないまま議論がかみ合わなくなることでしょう」という困難をあらかじめ回避できているからです。以上補足。
「ジャーナリストを育てる博士課程を作って」いるのはたしかでも、「政府は、科学ジャーナリストに金をばらまいて、彼らに大本営発表をさせる計画を立て」ているという話はいったいどこから出てきたんでしょう?
この2つの間には相当な隔たりがあるように思うのですが。後者を証明するようなものが何かあるのでしょうか?もしないのなら、科学ジャーナリストに対して失礼な話だと思います。
それがゆるされるなら「現在政府は、哲学者に金をばらまいて、彼らに大本営発表をさせる計画を立て、その準備として、哲学者を育てる博士課程を作っています」なんてこともいえるのでは。
基本的に科学ジャーナリスト見たいな(哲学者とおんなじぐらい)マイナーで影響力のない存在に金をばら撒くぐらいなら、もっといいばら撒き先があるのではとおもってしまうのですが?
これについては、「政府は科学ジャーナリストに金を出すべきか」をご覧ください。
「政府は、影響力がないにもかかわらず、哲学に金を出している」のではなくて、「政府が金を出すから、哲学には影響力がない」のです。かつてのマルクス主義を見ればわかるように、哲学(あるいは、広く言って、思想)には、政府を転覆するぐらいの力があります。
政府が哲学研究者に金を出すと、研究者は、自分の研究に公共性を要求されるようになります。私は、自分独自の哲学を打ち出したいと思って、哲学科に入ったのですが、そういう独自路線は、公私混同として非難されます。日本の大学で許されるのは、訓詁学的な哲学史研究だけです。
確かに、哲学研究ではなくて、哲学史研究なら、実証可能で、客観的な研究ができますが、それでは、哲学の本来の魅力が一般の人に伝わりません。その結果、一般の人は哲学に興味を失い、3S(スポーツ・スクリーン・セックス)に現を抜かす愚民となります。これは、権力者にとってはまことに都合のよいことです。
政府が文化を保護すると、その文化は本来の生き生きとした魅力を失い、大衆から見放され、化石のようにひなびた存在になります。ジャーナリストであれ、哲学者であれ、政府が文化人に直接金を出すことには、いろいろ問題があると思います。文化を保護する場合、そこに市場原理(消費者の選択)が機能するように、工夫を凝らす必要があります。
現在、博士課程に在籍し着実に科学に貢献することをライフワークにしているものです。
就職が難しいことには3つの理由が考えられます。
理由1:実力に応じてポストが分配されない→実績が就職に反映されない→努力が無意味
理由2:民間企業と博士をつなぐインフラが充実してない→就職先は存在するが見つける手段がない
理由3:学問は金になりにくい。(例えば、発明者にお金が入るわけではない。重要な調査を行いデータを集めても金が入るわけではない)
それぞれの改善策を挙げてみます。
改善策1:税金が給料となるポストは、実力に応じて配分する。年功序列はやめる。研究者がいきなり仕事が無くなるようなリスキーな職業というのは悲惨なので、ポストを失った場合の保証を設ける。
改善策2:博士専用の就職WEBサイトを作る。博士データベース。
改善策3:いくらでもフリーライドできるコンテンツを生成すると、コンテンツクリエーターにお金が支払われるような仕組み作り。音楽の著作権やオープンソースと同様の問題です。論文を書いても著者には少しもお金が入りません。
研究費分配問題について。
良い研究をするには、お金(科学研究費と科学者の給料)が必要なのは確かですが、研究を実行できる優秀な研究者の存在が欠かせません。ということで、予算を増やすより、誰が良い研究者なのかを見極めた方がいいと考えています。研究者はプロ野球選手と同様実力に差があります。ゴジラ松井を他の選手の100倍の値段で獲得した方がいいのは研究の世界でも同じです。違いは勝ち負けがわかりにくいことだけです。
予算の大きさと、研究結果には相関がありますが、
それ以上に人材のクオリティーと結果の相関は大きいと感じています。
書類操作で簡単にできるような対策ではなく、もっと知恵を振り絞ったクオリティーの高い対策をしてもらえれば、嬉しいです。
1. 研究者の実力を機械的に数量化することに無理があるということは、認めますが、だからといって、少数の審査員の評価に人事を委ねると、恣意的な裁量が入る余地を作ってしまいます。
2. 日本の民間企業が博士を評価しない以上、データーベースを作ったところで、あまり意味はないでしょう。海外の企業に売り込むためのデーターベースを作るというのならわかりますが。
3. 私は、以前、「定額成長流通」という仕組みを提案しました。これでどうでしょうか。
科学者のお給料は、何円ですか。
自然科学研究者の平均年収は、628万円なのだそうです[自然科学研究者 :平均年収と仕事内容 (年収ランキング~職業&平均年収ランキング)]。教育に長い時間がかかることや、競争率の高さを計算に入れたら、高いとはいえません。