松村劭の戦争学
戦争が別の手段をもってする政治の継続であるとするならば、どのようにして戦争を行うかは、その国の政治が平和時にどのように機能しているかとは無関係ではありえない。松村劭の『戦争学』と『新・戦争学 』を参考に、古代から現代の戦争の歴史を振り返りながら、政治システムの構造変換の歴史を考えてみよう。

1. 古代から中世へ
古代の戦争では、歩兵が中心的な役割を果たしていた。
確固とした陣形を組み、チーム・ワークによって戦闘するローマ連隊は、騎兵の突撃を粉砕した。ローマの戦闘教義は、実に五百年以上も周辺諸国の陸軍より、優れていたのだ。[1]
歩兵が凋落し始めたのは、378年のアドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦いあたりからである。この戦いでは、進入してきた西ゴート族の騎兵が、ローマの歩兵隊を、四周から攻撃して壊滅させ、ローマ帝国側ではウァレンス帝をはじめとする主将が戦死した。
アドリアノープルの戦いから98年後、西ローマ帝国は滅亡し、中世が始まる。古代が歩兵の時代であったのに対して、中世は騎兵の時代である。松村は、この主役交代の原因を次のように技術論的に説明する。
五世紀には、騎兵の襲撃を容易にする「あぶみ」をもつ鞍が開発され、騎馬の速度と人馬の重量の積による衝撃力を活用した「槍(ランス)」が威力を発揮するようになった。またペルシャと中央アジアで体の大きい馬が誕生した。[2]
では、なぜこれに匹敵する技術革新が歩兵の戦術に起きなかったのだろうか。後で見るように、歩兵の復活と騎兵の没落をもたらした技術革新は、それほどハイテクというわけではなかった。歩兵の没落と騎兵の台頭を説明するには、技術論的説明だけでは不十分であり、政治論的説明も必要である。
一般的に言って、寒冷化は集権化と革命をもたらし、温暖化は分権化と安定をもたらす。
太陽黒点数は、2500年ごとに、ほとんどゼロになる時期が来る。BC3300年頃から始まった都市革命、BC800年頃から始まった精神革命、1700年頃から始まった科学革命は、いずれも2500年周期の谷で起きた革命なのである。[3]
ローマ帝国は、BC800年頃から始まった寒冷化による集権化で誕生し、中世温暖期の分権化で崩壊した。集権化のプロセスで、貴族が実権を失って、皇帝が膨大なローマ市民を支配する帝国が生まれ、分権化のプロセスで、ローマ帝国が崩壊し、封建貴族が群雄割拠する中世的封建制度が生まれた。
軍隊組織の変貌は、社会システム全体の変貌を反映しており、各階級の運命には、次のような対応が見られる。
- 将軍 … 皇帝/国王
- 騎兵 … 富裕市民/貴族
- 歩兵 … 一般市民/領民
ローマ帝国の膨張期では、ローマ市民が重装歩兵として活躍した。帝国の斜陽期には市民が没落し、それと平行して、歩兵が凋落した。騎兵は独立性が高く、一騎打ちも可能であるが、歩兵は集団で行動しなければならない。だから、集権化の時代には歩兵が活躍し、分権化の時代には騎兵が活躍する。
2. 中世から近代へ
中世の戦争は、古代ローマ帝国の戦争や近代の国民国家による総力戦とは異なり、一般の民衆を組織的に徴兵することはなかった。戦争は殿様の趣味のようなものであり、領主は従者たる騎士たちを私兵として従え、狩に行くような感覚で戦争をした。封建貴族の上に国王が君臨したが、中世の国王には、ローマ皇帝のような求心力はなく、国王が大軍を率いて戦うときも、政治システムにおける間接統治の性格をそのまま引きずっていた。
松村は、騎兵の時代の終焉をも、技術論的に説明する。11世紀になるとクロスボウが使われるようになった。クロスボウは、日本語の弩(おおゆみ)に相当する。

弩は、アジアでは、紀元5世紀に開発されているから、特にハイテク兵器というわけではないのだが、取り扱いの簡便さ、命中精度、有効射程距離の長さ、貫通力という点で従来の弓より優れ、戦争のしろうとである農民ですら、金属製の甲冑を貫通する弓を射て、騎兵を殺傷することができるようになった。
騎兵は、クロスボウに対抗するために、装甲防護力を強化したが、鎧が重くなったために、重騎兵の戦闘行為は鈍重となった。騎兵はそのスピードにおいて歩兵より優位にあったわけだから、機動性を失えば、騎兵はその優位を失ってしまう。
松村によれば、騎兵の時代の終わりを告げる戦いは、英仏百年戦争の一環として行われた、1346年のクレシーの戦いである[5]。この戦闘では、イングランド側の自由農民で構成されたロングボウ(長弓)歩兵が活躍した。ロングボウは、射程距離が長く、またクロスボウよりも射出速度が大きかった。ロングボウの雨のような矢を浴びて、イングランド軍の三倍の数を誇ったフランス騎兵隊が敗北した。

近代小氷期は、絶対王政という集権化をもたらした。ブルジョワ階級が台頭する一方で、封建貴族は没落していった。この過程は、騎兵が没落し、歩兵が戦場の主役として活躍する過程と軌を一にしている。やがて市民革命が起き、国民国家が誕生すると、国家元首が、国民を徴兵し、国家の運命を賭けて総力戦を行うようになる。
3. 近代から現代へ
私は、産業革命(The Industrial Revolution 工業革命)を近代小氷期で説明した[7]。工業革命は、人類文明を量的に拡大した。戦争もまた、フォーディズムの工場のごとく、機械化・規格化・高速化・量産化された。機械化された戦争の典型である電撃戦を初めて採用したのが、フォーディズムの信奉者だったアドルフ・ヒットラーであったことは偶然ではない[8]。
近代科学に基づく兵器の量的拡大は、核兵器の誕生をもってその極限に達した。しかし、工業社会から情報社会へと時代が転換する過程で、そうした量的拡大の限界が、戦争の分野でも露呈した。そのターニングポイントとなったのがベトナム戦争であった。集権化され、機械化された軍隊は、敵を明確に対象化できるときには効率的にそれを破壊できるが、敵がどこにいるのかわからないときには、なすすべがない。
米地上軍が採用した「索敵撃滅」方針は、いかに近代的装備をもっていても成功するわけはなかった。隠れることを第一とするゲリラを100%発見する捜索機器はない。住民から提供される情報は、通常時機を失しているか、ニセ情報である。[9]
ベトナム戦争という苦い失敗を契機に、アメリカは、情報戦争に力を入れるようになった。破壊力の量的拡大を続けた兵器開発の方針は、質的転換を迫られるようになったわけだ。無差別的に大量の人を殺傷する核兵器よりも、ターゲットを絞ってピンポイント攻撃をするインテリジェントな兵器の方が重要になってきているのである。
松村は、戦闘教義に大きな変化を与えた兵器革命が、二十世紀には、四つあったと言う。
第一次兵器革命:「火薬」が最大限に威力を発揮し、火力打撃が勝敗を決した第一次世界大戦
第二次兵器革命:「内燃機関」が生んだ戦車、航空機、潜水艦などによって機動の発揮が勝敗を決した第二次世界大戦
第三次兵器革命:「原子力」によって軍事力行使の目的・戦域が制限された冷戦
第四次兵器革命:「情報・通信」によって新しい戦闘ドクトリンが模索されている時代[10]
松村は、情報革命を、たんに情報通信機器の性能の飛躍的発達ぐらいにしか考えていないようだが、それは情報技術革新であって、情報革命ではない。ここに松村の技術論的考察の限界がある。たんに技術的側面しか見ていないと、それが戦争や社会をどう変えるかは見えてこないし、実際、引用文からも伺えるように、松村は、「第四次兵器革命」が戦闘教義をどう変えるかについては、わからないままである。
近代工業社会から現代情報社会へ変化は、古代から中世への変化と同様に、集権社会から分権社会への変化である。それは、2500年周期で寒冷期から温暖期へと移行するプロセスで起きるシステムの構造変動である。
かつて軍隊は、ピラミッド型組織の典型であった。しかし、こうした中央集権型の組織は、軍隊の組織としてもいろいろと問題がある。トップが情報を収集し、判断し、命令を下すといっても、それが一人の人間である以上、限界がある。また、いちいちトップの判断を仰いでいると、機動的な行動に出ることが難しくなる。またあまりにもトップに依存しすぎると、トップが狙われて、組織全体が機能麻痺に陥るというリスクが増える。
こうした問題を解決するために、米軍は、組織の意思伝達方法を、ピラミッド型(メインフレーム型)からネットワーク型(インターネット型)へと変えつつある。すなわち各兵士を双方向通信機器でネットワーク化し、いちいち遠くにいる指揮官に判断を仰ぐことなく、現場にいる仲間同士で情報を共有し、判断し、行動するという、分権化された意思伝達システムが採用されているのである。
近代から現代へ変化は、古代から中世への変化と同じではないが、いろいろな点で似ている。古代ローマ帝国で「パンとサーカス」を与えられていた、堕落したローマの市民たちは、さながら、補助金をばら撒かれていた、福祉国家の大衆のようである。西ローマ帝国と福祉国家は、重すぎる税金に耐えられなくなって、崩壊した。
福祉国家と社会主義が崩壊した後、富の二極化が起こり、富裕層という新たな貴族が社会を動かすようになるだろう。国家が国民を徴兵する公的戦争に代わって、私企業が従業員を動員して富と情報を奪い合う私的戦争が活発になるだろう。もしも、かつて中世で起きたことが現代で起きるとするならば、こういうことが起きるのかもしれない。
4. 参照情報
『戦争学』が、古代から現代までの戦闘教義の変化を述べているのに対して、『新・戦争学 』は、第二次世界大戦以降の戦闘教義を詳しく取り上げています。松村劭は、この二冊以外にも、戦術論に関する本を書いています。
- 松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16).
- 松村劭『新・戦争学』文藝春秋 (2000/8/21).
- 松村劭『戦術と指揮 命令の与え方・集団の動かし方』PHP研究所 (2006/2/28).
- 松村劭『世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術』PHP研究所 (2007/12/3).
- 松村劭『勝利を決めた 名将たちの伝説的戦術』PHP研究所 (2010/11/2).
- ↑松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16). p. 69.
- ↑松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16). p. 70.
- ↑永井俊哉「太陽活動と景気循環の関係」2001年7月7日.
- ↑Sandstein. “Heavy siege defence crossbow (Wallarmbrust) of Andreas Baumkirchner.” Licensed under CC-BY-SA.
- ↑松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16). p. 105.
- ↑Jean Froissart. “Battle of Crécy between the English and French in the Hundred Years’ War.” Licensed under CC-0.
- ↑永井俊哉「産業革命はなぜ繊維産業から始まったのか」2001年9月1日.
- ↑永井俊哉「フォーディズムとナチズム 」2002年4月12日.
- ↑松村劭『新・戦争学』文藝春秋 (2000/8/21). p. 143.
- ↑松村劭『新・戦争学』文藝春秋 (2000/8/21). p. 188-189.
ディスカッション
コメント一覧
歩兵を破った騎兵、との分け方は、少し乱暴な論と思えますが。アレクサンダー大王は騎兵と歩兵との用兵に卓越し、偉業をなしたのですから、将軍の能力次第ではないでしょうか?
鐙は中国で発達しましたが、西洋に取り入れられたのは遅く、少数の回教徒がスペインを席巻したのも、イスラムには鐙があり、西ゴート王国にはなかった、と言われております。
またクロスボーは射程距離が長い、とありますが、短いが正しいのでは?
クレシーの戦いでは、長弓の威力による勝利と考えられていましたが、論証により、狭いぬかるみの土地に重装備の騎士が殺到し、押し合いと転倒により破れた。長弓兵は、その武器ではなく、剣と斧で武装した歩兵に変わり、フランス騎士を殺戮した、とあります。
戦争は非常に込み入った歴史ですから、簡単に決めつけられない面があるのではないでしょうか?
私は、松村さんのように、一回の戦争の勝敗で、その後の戦争のあり方ががらりと変わったとは考えません。戦争の仕方はその時代の社会システムのあり方を反映するというのが私の主張で、エポックメイキングな戦争には、象徴的な意味しかありません。
少なくとも、筋力が弱い人にとっては、普通の弓よりも、クロスボーのほうが遠くに矢を飛ばすことができます。
それも騎兵が没落した原因の一つです。一つ前の段落に書いたように、
『少なくとも、筋力が弱い人にとっては、普通の弓よりも、クロスボーのほうが遠くに矢を飛ばすことができます』
これは屁理屈のように思えますが、筋力が強い人間には、長弓の方がクロスボーよりも射程距離は延びる、との確認にはなりますね。
当時の騎士と農民との肉体的差は一目で分かるものだったにせよ、当時の農民でさえ、現代人よりも腕力は有ったと思います。
クロスボーの利点は、矢を番えて待機出来た点と、狙いが正確であった、に尽きます。実射テストでは確か二倍以上の飛距離の差が出ていた、と記憶します。
『騎兵はそのスピードにおいて歩兵より優位にあったわけだから、機動性を失えば、騎兵はその優位を失ってしまう』
確かにスピードの優位性が騎士にはあるのですが、
四十キロにもあまる鎧を着て、馬にも防御鎧を付けさすと、短距離決戦にならざるを得ませんでした。
更に四十キロの鎧を付けたまま、落馬すれば、どのような状態になるか、亀をひっくり返して連想していただければ宜しいかと。
つまり機動性ではなく、鎧の重さが致命的になったのです。
騎兵は日露戦争でも第一次大戦まで活躍しました。鎧を捨てて軽装を選び、機動性を選んだ結果とは言えますが、クレンシーの戦いとは無関係です。
もう一度本文をよく読んでください。従来の弓よりも射程距離が長いと書いただけです。
ウィキペディアからの引用で代替しましょう。
もしもフランスの騎兵が軽装で機動性があれば、戦況も変わっていたかもしれません。
クレシーの戦い以降、騎兵がいなくなったとは書いていません。主流ではなくなったというだけのことです。
しつこくて、大変失礼ですが、
クレシーの戦いにおける専門家の再現実験を見ておりますと、騎士の鋼鉄の鎧に対して、イギリスの長弓兵が使用した鏃は、跳ね返されて役に立ちませんでした。
多量に消耗する鏃は、鍛冶屋が粗製濫造するもので、経済の法則が有効だったと言えるのでしょう。
クロスボー兵を追っ払う効力はあったでしょうが。
この情報の出所は何ですか。たとえ、騎士が無傷でも、装甲の薄い馬が傷を負えば、騎士は地面に落とされ、身動きが取れなくなるから、長弓は騎兵隊に対しても有効です。
ところで、クレシーの戦いにおける長弓(ロングボウ)と弩(クロスボウ)の比較に関しては、「勝敗を分けた武器「長弓VS弩」~クレシーの戦い~」が詳しいです。
このページによると、クロスボウのほうがロングボウよりも射程距離は若干長いけれども、射出速度が十分の一も低いので、これが勝敗を決めたようです。
私は、技術的側面よりも社会的側面を重視しているので、以下の件に興味を持ちました。
スカイパーフェクトテレビのディスカバリーチャンネル、ヒストリーチャンネルで、軍事関係の、実験考古学とも言うべき、再現の番組があり、関係者は総て専門家です。
なかなか興味深い番組です。
知識として伝わっているのと、実際に再現した結果とは、乖離が出ても仕方な
いと思いますが。
クレシーの戦いに関して言えば、足場の悪さを見た熟達の総司令は、戦闘の停止を王に進言したが、配下の騎士達にも聞きいられず、戦闘が始まった、そうです。
クンシーにおいても、地面が乾いてから戦闘すれば、我勝ちに殺到せず、規律良く突進すれば、フランス騎士が勝利を収めたでしょう。
また戦争においては、騎兵と歩兵を別集団として、対比させるのは無意味と思われます。
ローマ軍も騎兵を増強した戦闘では、西ゴートを破っております。
それは、554年の東ローマ帝国との戦いですか。それなら、378年のアドリアノープルの戦いの後だから、松村さんの説明と矛盾しません。
少し舌足らずな書き方をしてしまいました。
西ゴート族を破ったのは西ローマ軍です。東ローマ軍相手ではありません。
戦闘年は覚えておりませんが、文献を調べてみます。(ただ愚息が無断で持ちだした参考文献が多いので、その点、ご了解下さい)
ローマ軍は歩兵が主力で、騎兵は補助にすぎなかった。
従って騎馬集団との戦闘には弱かった欠陥を、専門家は指摘しております。優秀な指揮官は騎兵を補強し、常に西ゴート族が勝利していた訳ではありません。
軍事指揮官は古今から、敗戦すれば何故負けたのか、原因を探るものです。
アレクサンダー大王の作戦は、「金床と鉄槌」と呼ばれ、歩兵を防御の金床に仕立て、騎馬兵を鉄槌にして、敵兵を叩きつぶしたわけです。
騎兵と歩兵のバランスと用兵は、今日でも、戦車隊と歩兵の関係として説明されております。
松村さんも同じこと言っています。
ロングボウは、射程距離が長く、またクロスボウよりも射出速度が大きかった>
とありますが、銃砲関係で言うところの初速(矢のスピード)と発射速度(一分間に何発撃てるか)を混同されているように思われます。ロングボウがクロスボウに優越していたのは発射速度であり、(ロングボウ:6~10発/分、クロスボウ:2発/分)初速及び射程距離(ロングボウ300m、クロスボウ350m)では劣ります。
また、クロスボウが発射に関しては熟練を要しないのに対してロングボウは骨格が変形するほどの数年~十数年もの熟練を必要としました。
もしも私が、初速度/射程距離と発射速度=発射速度を混同していたならば、「ロングボウは、射程距離が長く、またクロスボウよりも射出速度が大きかった」とは書かずに、「ロングボウは、クロスボウよりも射出速度が大きかったので、射程距離もクロスボウよりも長かった」とでも書いていたでしょう。私は、両者を区別していたから、「また」という接続詞を使って両者をつなげたのです。また、私は「ロングボウは、クロスボウよりも射程距離が長かった」とは書いていません。要するに、私は、ロングボウは、普通の弓とは異なり、クロスボウ並みに射程距離が長くて、しかも射出速度が大きかったから、クレシーの戦いで威力を発揮したと説明したわけです。
?き回すようで申し訳ありませんが、私見を述べさせていただきます。
>クレシーの戦い
いくら重装騎兵の足が遅いとはいえ、歩兵が徒歩で騎兵を追いかけるのは困難です。戦闘場所・時間を選ぶ権利は騎兵側にありました。
フランス騎兵の敗因は、その権利を放棄し、不利な地面状態で、野戦築城(と言っても落とし穴と杭程度ですが)を施した歩兵の正面に突撃したことにあると考えます。フランス騎兵が一部でも戦場を迂回し、野戦築城の無い方向から突撃を敢行していたなら、おそらく戦局はフランス側優勢となったはずです。
前座?のジェノバのクロスボウ傭兵とイングランド長弓兵の戦いはともかく、騎兵と歩兵の戦闘では、歩兵の装備は戦局に影響を与えなかったと見るべきでしょう。
時代背景、技術、どちらに着目するにしても弓より野戦築城の方が重要と考えます。弓は個人携行兵器ですが、野戦築城は個人では行えません。
長篠にしてもクレシーにしても、敵前で柵や杭、落とし穴を作った指揮者を賞賛すべきでしょう。
弓の種類の話なんですか?そこは、松村さんにたずねるべきだと思うのですが。
それより農民兵を重視したと言う話かと思ってました。
”歩兵の没落と騎兵の台頭を説明するには、技術論的説明だけでは不十分であり、 政治論的説明も必要である。”と永井さんは言っているので、論点が違う気がしたものですから。
それについて、他の違う意見も聞きたいと思い、素人が口出してしまって、申し訳ないとは思いましたが、投稿させてもらいました。
もちろん弓の話をしているのではありません。戦争技術の変化の背景にある社会システムのあり方を問題にしています。しかしながら、非本質的なことでも、反論には答えるようにしています。
松村氏が『新・戦争学』で述べられているように、現在の戦争は水面下で粛々と行われている。いや、第2次世界大戦ですら新兵器の生産よりも「情報」つまり暗号解読や敵の作戦把握が勝敗を決することは古今東西戦争の常識である。
兵器の性能は第1次世界大戦の機関銃(日露戦争でも活躍した)・戦車・航空機をはじめとする技術革新により戦争の戦い方が本質的に変化した。総力戦である。
そして、第2次世界大戦ではオレンジ計画で対日戦を準備していたアメリカが「マジック」という暗号解読組織を使って日本の外交方針を詳細に把握し、ハルノートをはじめとする日本挑発に積極的であった。長距離爆撃機、空母と密接な戦闘機、ミサイル、レーダー・・・。新技術が更に戦争を激化、つまり非戦闘員を巻き込む絶滅戦にしたことは否めないが、それらを有効に活用するソフトとしての情報の重要性は更に増したと思われる。
民主主義国家が戦争をする場合、国民の支持が必要であるが、ここでも「敵は悪者」という情報操作によってイメージを作り出さなければならない。マスコミや扇動者の協力が不可欠となった。アメリカが覇権を握っているのはデジタル技術(具体的にはコンピューターのOSならびにアプリケーションソフト)によって独占的地位を占めているからであり、いくら経済が揺らいでも情報管理でアメリカを卓越する技術革新がない限り、米軍優位は揺るがない。
情報のデジタル化、特にインターネットやGPSが軍事技術から民間転用された経緯を踏まえれば、何のために万人に使われるようにしたのかを考える必要がある。OS情報をフィルターにかけて検索すれば私がこのような文章を掲載していることはたやすく探し当てられる。(私は権力者ではないので追跡はされないが・・・)携帯電話にGPS機能があれば今自宅にいるのか、ラブホテルにいるのか、パチンコ屋にいるのかは検索すれば1分もかからずわかる。セコムはあえてこの技術を商品としている。盗聴や盗撮はデジタル技術によって素人でも可能にした。商品のユーザー登録で影響力のある個人がどのような商品を所有し、生活レベルの把握にもつながってきた。
『戦争の常識』(鍛冶俊樹 文春新書)では2005年段階の兵器の実力及び戦術について軽く執筆されている。この程度の情報はトップシークレットではない。現代の軍隊の組織や最新兵器についての記述、例えば実戦においてF15イーグルは「事故」あるいは「整備不良」などのミスを除いて敵(つまりソ連製・フランス製の戦闘機)に撃墜されたことがないそうである。ソ連崩壊の遠因とまでしている。以降の戦闘機・爆撃機・輸送機などのデジタル制御技術は分進秒歩で進んでいるのであろう。自動車技術の格段の進歩のように。
こういったハード面はもちろんのこと、それ以上にソフト面としての情報、とくに対面人的諜報活動やデジタル技術を駆使した情報蓄積が勝敗を分ける時代になる、と松村氏ならびに鍛冶氏は指摘する。
教育機関を通じた厭戦感の醸成と武装解除において日本は経済的繁栄を享受した。今後、この特性が吉とでるか凶とでるかはわからない。しかしITと総称される技術革新はジョージ・オーウェルの描くSF小説『1984』の世界に一歩ずつ近づいている。
紛争は現在でも起きている。しかし、これらの戦闘行為は短期間かつ限定的である。
為政者は過去2回の経験から第3次世界大戦が人間のみならず地球上の全生物の滅亡に導くことを十分理解している、と願いたい。
はじめまして.
消印所沢と申します.
唐突にメールさせていただくご無礼をお許しください.
さて,このたび拙作サイト
「軍事板常見問題&良レス回収機構」
におきまして以下のQ&Aを作成する際,
貴ページを参考にさせていただきましたので,
報告させていただきます.
http://mltr.ganriki.net/faq11l.html#Battle-of-Crecy
引用の範囲内かと存じますが,
もし差支えがございますようでしたら,
遠慮なくお申し出いただければ幸いに存じます.
それでは今後ともよろしくお願い申し上げます.
草々