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松村劭の戦争学

2006年4月13日

戦争が別の手段をもってする政治の継続であるとするならば、どのようにして戦争を行うかは、その国の政治が平和時にどのように機能しているかとは無関係ではありえない。松村劭の『戦争学』と『新・戦争学 』を参考に、古代から現代の戦争の歴史を振り返りながら、政治システムの構造変換の歴史を考えてみよう。

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1. 古代から中世へ

古代の戦争では、歩兵が中心的な役割を果たしていた。

確固とした陣形を組み、チーム・ワークによって戦闘するローマ連隊は、騎兵の突撃を粉砕した。ローマの戦闘教義は、実に五百年以上も周辺諸国の陸軍より、優れていたのだ。[1]

歩兵が凋落し始めたのは、378年のアドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦いあたりからである。この戦いでは、進入してきた西ゴート族の騎兵が、ローマの歩兵隊を、四周から攻撃して壊滅させ、ローマ帝国側ではウァレンス帝をはじめとする主将が戦死した。

アドリアノープルの戦いから98年後、西ローマ帝国は滅亡し、中世が始まる。古代が歩兵の時代であったのに対して、中世は騎兵の時代である。松村は、この主役交代の原因を次のように技術論的に説明する。

五世紀には、騎兵の襲撃を容易にする「あぶみ」をもつ鞍が開発され、騎馬の速度と人馬の重量の積による衝撃力を活用した「槍(ランス)」が威力を発揮するようになった。またペルシャと中央アジアで体の大きい馬が誕生した。[2]

では、なぜこれに匹敵する技術革新が歩兵の戦術に起きなかったのだろうか。後で見るように、歩兵の復活と騎兵の没落をもたらした技術革新は、それほどハイテクというわけではなかった。歩兵の没落と騎兵の台頭を説明するには、技術論的説明だけでは不十分であり、政治論的説明も必要である。

一般的に言って、寒冷化は集権化と革命をもたらし、温暖化は分権化と安定をもたらす。

太陽黒点数は、2500年ごとに、ほとんどゼロになる時期が来る。BC3300年頃から始まった都市革命、BC800年頃から始まった精神革命、1700年頃から始まった科学革命は、いずれも2500年周期の谷で起きた革命なのである。[3]

ローマ帝国は、BC800年頃から始まった寒冷化による集権化で誕生し、中世温暖期の分権化で崩壊した。集権化のプロセスで、貴族が実権を失って、皇帝が膨大なローマ市民を支配する帝国が生まれ、分権化のプロセスで、ローマ帝国が崩壊し、封建貴族が群雄割拠する中世的封建制度が生まれた。

軍隊組織の変貌は、社会システム全体の変貌を反映しており、各階級の運命には、次のような対応が見られる。

  • 将軍 … 皇帝/国王
  • 騎兵 … 富裕市民/貴族
  • 歩兵 … 一般市民/領民

ローマ帝国の膨張期では、ローマ市民が重装歩兵として活躍した。帝国の斜陽期には市民が没落し、それと平行して、歩兵が凋落した。騎兵は独立性が高く、一騎打ちも可能であるが、歩兵は集団で行動しなければならない。だから、集権化の時代には歩兵が活躍し、分権化の時代には騎兵が活躍する。

2. 中世から近代へ

中世の戦争は、古代ローマ帝国の戦争や近代の国民国家による総力戦とは異なり、一般の民衆を組織的に徴兵することはなかった。戦争は殿様の趣味のようなものであり、領主は従者たる騎士たちを私兵として従え、狩に行くような感覚で戦争をした。封建貴族の上に国王が君臨したが、中世の国王には、ローマ皇帝のような求心力はなく、国王が大軍を率いて戦うときも、政治システムにおける間接統治の性格をそのまま引きずっていた。

松村は、騎兵の時代の終焉をも、技術論的に説明する。11世紀になるとクロスボウが使われるようになった。クロスボウは、日本語の弩(おおゆみ)に相当する。

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15世紀の攻城用のクロスボウ[4]

弩は、アジアでは、紀元5世紀に開発されているから、特にハイテク兵器というわけではないのだが、取り扱いの簡便さ、命中精度、有効射程距離の長さ、貫通力という点で従来の弓より優れ、戦争のしろうとである農民ですら、金属製の甲冑を貫通する弓を射て、騎兵を殺傷することができるようになった。

騎兵は、クロスボウに対抗するために、装甲防護力を強化したが、鎧が重くなったために、重騎兵の戦闘行為は鈍重となった。騎兵はそのスピードにおいて歩兵より優位にあったわけだから、機動性を失えば、騎兵はその優位を失ってしまう。

松村によれば、騎兵の時代の終わりを告げる戦いは、英仏百年戦争の一環として行われた、1346年のクレシーの戦いである[5]。この戦闘では、イングランド側の自由農民で構成されたロングボウ(長弓)歩兵が活躍した。ロングボウは、射程距離が長く、またクロスボウよりも射出速度が大きかった。ロングボウの雨のような矢を浴びて、イングランド軍の三倍の数を誇ったフランス騎兵隊が敗北した。

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クレシーの戦い。ジャン・フロワサールによる15世紀の絵画[6]

近代小氷期は、絶対王政という集権化をもたらした。ブルジョワ階級が台頭する一方で、封建貴族は没落していった。この過程は、騎兵が没落し、歩兵が戦場の主役として活躍する過程と軌を一にしている。やがて市民革命が起き、国民国家が誕生すると、国家元首が、国民を徴兵し、国家の運命を賭けて総力戦を行うようになる。

3. 近代から現代へ

私は、産業革命(The Industrial Revolution 工業革命)を近代小氷期で説明した[7]。工業革命は、人類文明を量的に拡大した。戦争もまた、フォーディズムの工場のごとく、機械化・規格化・高速化・量産化された。機械化された戦争の典型である電撃戦を初めて採用したのが、フォーディズムの信奉者だったアドルフ・ヒットラーであったことは偶然ではない[8]

近代科学に基づく兵器の量的拡大は、核兵器の誕生をもってその極限に達した。しかし、工業社会から情報社会へと時代が転換する過程で、そうした量的拡大の限界が、戦争の分野でも露呈した。そのターニングポイントとなったのがベトナム戦争であった。集権化され、機械化された軍隊は、敵を明確に対象化できるときには効率的にそれを破壊できるが、敵がどこにいるのかわからないときには、なすすべがない。

米地上軍が採用した「索敵撃滅」方針は、いかに近代的装備をもっていても成功するわけはなかった。隠れることを第一とするゲリラを100%発見する捜索機器はない。住民から提供される情報は、通常時機を失しているか、ニセ情報である。[9]

ベトナム戦争という苦い失敗を契機に、アメリカは、情報戦争に力を入れるようになった。破壊力の量的拡大を続けた兵器開発の方針は、質的転換を迫られるようになったわけだ。無差別的に大量の人を殺傷する核兵器よりも、ターゲットを絞ってピンポイント攻撃をするインテリジェントな兵器の方が重要になってきているのである。

松村は、戦闘教義に大きな変化を与えた兵器革命が、二十世紀には、四つあったと言う。

第一次兵器革命:「火薬」が最大限に威力を発揮し、火力打撃が勝敗を決した第一次世界大戦

第二次兵器革命:「内燃機関」が生んだ戦車、航空機、潜水艦などによって機動の発揮が勝敗を決した第二次世界大戦

第三次兵器革命:「原子力」によって軍事力行使の目的・戦域が制限された冷戦

第四次兵器革命:「情報・通信」によって新しい戦闘ドクトリンが模索されている時代[10]

松村は、情報革命を、たんに情報通信機器の性能の飛躍的発達ぐらいにしか考えていないようだが、それは情報技術革新であって、情報革命ではない。ここに松村の技術論的考察の限界がある。たんに技術的側面しか見ていないと、それが戦争や社会をどう変えるかは見えてこないし、実際、引用文からも伺えるように、松村は、「第四次兵器革命」が戦闘教義をどう変えるかについては、わからないままである。

近代工業社会から現代情報社会へ変化は、古代から中世への変化と同様に、集権社会から分権社会への変化である。それは、2500年周期で寒冷期から温暖期へと移行するプロセスで起きるシステムの構造変動である。

かつて軍隊は、ピラミッド型組織の典型であった。しかし、こうした中央集権型の組織は、軍隊の組織としてもいろいろと問題がある。トップが情報を収集し、判断し、命令を下すといっても、それが一人の人間である以上、限界がある。また、いちいちトップの判断を仰いでいると、機動的な行動に出ることが難しくなる。またあまりにもトップに依存しすぎると、トップが狙われて、組織全体が機能麻痺に陥るというリスクが増える。

こうした問題を解決するために、米軍は、組織の意思伝達方法を、ピラミッド型(メインフレーム型)からネットワーク型(インターネット型)へと変えつつある。すなわち各兵士を双方向通信機器でネットワーク化し、いちいち遠くにいる指揮官に判断を仰ぐことなく、現場にいる仲間同士で情報を共有し、判断し、行動するという、分権化された意思伝達システムが採用されているのである。

近代から現代へ変化は、古代から中世への変化と同じではないが、いろいろな点で似ている。古代ローマ帝国で「パンとサーカス」を与えられていた、堕落したローマの市民たちは、さながら、補助金をばら撒かれていた、福祉国家の大衆のようである。西ローマ帝国と福祉国家は、重すぎる税金に耐えられなくなって、崩壊した。

福祉国家と社会主義が崩壊した後、富の二極化が起こり、富裕層という新たな貴族が社会を動かすようになるだろう。国家が国民を徴兵する公的戦争に代わって、私企業が従業員を動員して富と情報を奪い合う私的戦争が活発になるだろう。もしも、かつて中世で起きたことが現代で起きるとするならば、こういうことが起きるのかもしれない。

4. 参照情報

関連著作

戦争学』が、古代から現代までの戦闘教義の変化を述べているのに対して、『新・戦争学 』は、第二次世界大戦以降の戦闘教義を詳しく取り上げています。松村劭は、この二冊以外にも、戦術論に関する本を書いています。

注釈一覧
  1. 松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16). p. 69.
  2. 松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16). p. 70.
  3. 永井俊哉「太陽活動と景気循環の関係」2001年7月7日.
  4. Sandstein. “Heavy siege defence crossbow (Wallarmbrust) of Andreas Baumkirchner.” Licensed under CC-BY-SA.
  5. 松村劭『戦争学』文藝春秋 (1998/12/16). p. 105.
  6. Jean Froissart. “Battle of Crécy between the English and French in the Hundred Years’ War.” Licensed under CC-0.
  7. 永井俊哉「産業革命はなぜ繊維産業から始まったのか」2001年9月1日.
  8. 永井俊哉「フォーディズムとナチズム 」2002年4月12日.
  9. 松村劭『新・戦争学』文藝春秋 (2000/8/21). p. 143.
  10. 松村劭『新・戦争学』文藝春秋 (2000/8/21). p. 188-189.