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無形化世界の力学と戦略

2005年8月24日

無形化世界とは、1970年代以降の情報化の時代を迎えた世界のことである。冷戦も雪解けを迎え、古典的な有形の戦争が減る中、経済戦争や知的ヘゲモニーの争奪戦やメディア合戦といった目に見えない形での戦争が熾烈になっていく。これらの無形の戦争は、別の手段を以ってする有形の戦争の継続に過ぎないのか。長沼伸一郎の『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』を読みながら考えよう。

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1. 運動量一定の法則

物理学には、質量と速度の積の和は外力が加わらない限り一定であるという運動量一定の法則がある。例えば、スケート場でAとBが衝突したとき、両者の衝突前と衝突後の速度は

Aの体重×Aの速度(前)+Bの体重×Bの速度(前)=Aの体重×Aの速度(後)+Bの体重×Bの速度(後)

という関係を満たす。つまり衝突の前と後で運動量の和が保存される。長沼は、この法則を経済にも当てはめ、近代戦争で動員される人数が人口の1/10であることに着目して、次のように定式化する。

軍事部門というものは国家の経済部門の1/10の大きさや体重しか持たないが、それは経済部門の10倍の速さで動く能力を持つ。[1]

長沼の言う速さとは耐用年限の短さ、つまり新陳代謝の速さである。平和な町を走る自動車と砲弾が雨のように降る戦場を走る戦車では、平均寿命が異なる。だから、この法則は理にかなっているように見える。しかし、戦争時に一国の人口が1/10に縮まって、10倍の速さで消費をするわけではない。戦争時にも軍事部門とは別に経済部門が稼動しているのであり、平和時にも経済部門とは別に軍事部門が訓練を行っている。

もしもこの法則が、長沼が主張するように、物理学での運動量一定の法則と同様に成り立つのなら、次のように定式化しなければならない。

[1]平和時の経済部門の大きさ×速さ+平和時の軍事部門の大きさ×速さ=戦争時の経済部門の大きさ×速さ+戦争時の軍事部門の大きさ×速さ

長沼は、引用した命題で

[2]平和時の経済部門の大きさ×速さ=戦争時の軍事部門の大きさ×速さ

を主張しているわけだが、[1]から[2]を引くと、

平和時の軍事部門の大きさ×速さ=戦争時の経済部門の大きさ×速さ

ということになるが、これは明かにおかしい。平和時の軍事部門より戦争時の経済部門の方がはるかに大きいが、速度も後者のほうが前者よりも大きい。よって、

平和時の経済部門の大きさ×速さ+平和時の軍事部門の大きさ×速さ < 戦争時の経済部門の大きさ×速さ+戦争時の軍事部門の大きさ×速さ

ということになる。平和時と戦争時では、「運動量」の和は保存されない。

長沼は、経済部門と軍事部門のアナロガスな性格を強調するあまり、平和時と戦争時を無差別化しすぎている。両者が無差別ならば、何のために人類が悲惨な戦争をするのか、説明がつかなくなる。

軍事部門が経済部門の1/10の規模だとしても、軍事部門が生産部門でない以上、軍事部門の新陳代謝が速くなれば、銃後の経済部門の新陳代謝も速くなり、生産活動全体が急増せざるをえない。そして、戦争の目的は、経済全体の新陳代謝を速めて、デフレ経済から脱却するところにある。

デフレは、バブルの崩壊によって起きるが、戦争には、バブル的な過剰投資によって生まれた過剰設備と過剰人員を潰し合いと殺し合いによって、バブル以前の水準に戻す機能がある。[2]

2. 冷戦と第一次世界大戦のアナロジー

長沼の経済学版「運動量一定の法則」から、「経済力を用いてある国を屈服させるには軍事力を用いる場合の10倍の時間がかかる[3]」という命題が導かれる。その例として出されるのが、冷戦とそれ以前の二つの世界大戦である。

前の二つの大戦でドイツを屈服させるのにだいたい5年程度の時間がかかっているのに対し、冷戦において軍事力を用いずに経済力によってソ連を屈服させるのにほぼ50年程度の時間がかかっている。[4]

アングロサクソンの世界支配に対するドイツの戦いが軍事的であったのに対して、ソ連の戦いは経済的であったと言えるだろうか。核兵器という、破壊的すぎて使用できない新兵器のおかげで米ソが直接戦争することはなかったが、朝鮮戦争やベトナム戦争など、代理戦争なら、散発的に行われていた。米ソ冷戦は決して純粋な経済戦争ではない。

米国の覇権に対するソ連の戦いは、1946年から1991年まで45年間続いたが、アングロサクソン・ヘゲモニーに対するドイツの挑戦も、1890年のビスマルクの引退から1945年のドイツの降伏まで、55年間続いた。そしてこの55年間は、没落するイギリス経済の後継者の座を巡る米国経済とドイツ経済の戦争と見ることもできる。

長沼は、冷戦を準三次大戦と名付け、本書の第三部で第一次大戦と準三次大戦という奇数次大戦の類似点を細かく指摘するのだが、第二次大戦と将来起きる第四次大戦という偶数次大戦には類似性は少ないと予測する。それならば、奇数次大戦の類似性を強調することにどのような意味があるのだろうか。

3. 陸海空と経済・学術・メディアのアナロジー

長沼が「無形化」と呼んでいる現象は、1970年代以降に生じた産業の情報化と冷戦の雪解けのことである。

軍事力が主役の座から去っていった際に、それらを構成していた陸海空三軍はそれぞれ自分の姿や手足に合わせて自然に出来上がった一種のパターンの鋳型をそこに残していった。[5]

長沼によれば、陸軍は経済、海軍は研究機関、空軍はメディアに相当するということであるが、そうしたアナロジーがどれだけ成り立つだろうか。メディアは戦場に空軍が登場する前から攻撃的な影響力を持っていた。悪者を攻撃する情報が電波を通じて空中を伝わるのなら、それは空軍の攻撃に似ているが、有線なら地上や海中で情報が伝わる。戦艦どうしの海の戦いは今ではあまり行われなくなったが、研究機関どうしの予算争奪戦や業績争奪戦なら今でも激しく行われている。日本は、長沼が言うように、経済だけ強くて、研究機関とメディアは弱いが、それを根拠に、陸上自衛隊だけが、海上自衛隊や航空自衛隊よりも突出して優れていると言えるだろうか。

私は、(1)富と(2)知と(3)暴力が権力の三源泉であると考えている。この三つを陸海空軍のどれかにそれぞれ当てはめるというようなことはできない。陸海空という区別は重要ではない。私は、もっと機能的な区別にこだわりたい。

権力の三源泉は、(1)経済部門と(2)情報部門と(3)軍事部門に対応させることができるが、それぞれは、内部でさらに権力の三源泉を持つというフラクタルな構造を成している。例えば、どの軍隊であれ、(1)食料・燃料・武器の補給、(2)情報の収集と分析および作戦の決断、(3)実力の行使の三つが必要である。どの企業であれ、(1)資金・材料・設備の供給、(2)マーケティングおよび経営の決断、(3)生産の実行の三つが必要である。メディアや研究機関も同じことで、それぞれウェイトが違うだけで、システムとして存続するには権力の三源泉が必要である。さらに社会システムの中で振舞う個人も、(1)代謝系と(2)入力系と(3)出力系の三つを兼ね備えた生命システムである。

4. 固定的デジタル力と流動的アナログ力

フランスを攻略するドイツ・プロシア軍の戦略は「目的はパリ、目標はフランス軍」というものであった。長沼によれば、目的である拠点の確保がデジタルであるのに対して、目標の達成はアナログである。デジタル量には、1と0しかない。成功するか失敗するか二つに一つであり、中間がない。これに対して、アナログ量には中間がある。

米国に固定的デジタル力があるのに対して、日本には流動的アナログ力しかない。では、米国が確保した拠点とは何か。

米国にとって「ドルを基軸通貨にしておくこと」と「核戦力を維持すること」がお互いに援護しあう戦略上の二大拠点である[6]

ここからわかるように、長沼が謂う所の拠点とは、システム論の用語を使うならば、コミュニケーション・メディアのことである。コミュニケーション・メディアのデ・ファクト・スタンダード化にはポジティブ・フィードバックが働くから、拠点をめぐる戦いはウイナー・テイク・オールのゲームとなる。つまり、ゲームの結果は、オール・オア・ナッシングのデジタル量ということである。

コミュニケーション・メディアには、(1)貨幣、(2)言語、(3)刑罰の三つが存在する。だから、米国の戦略上の拠点として、ドルと核以外に英語を追加するべきである。英語を母国語としている国は米国以外にも存在するが、英語のネイティブスピーカーの数という点では、米国が世界一である(インドで英語をネイティブスピーカー並に話せる人の数は、せいぜい5千万人しかいない)。それは、核保有国は米国以外にも存在するが、核兵器の量と質という点で、米国が世界一であるのと同じことである。

ドルが世界の基軸通貨であるとするならば、英語は世界の基軸言語である。日本語が世界の機軸言語でないことの不利益は、日本のインテリたちが痛感するところである。日本人が日本語で発表する研究成果がどんなにすばらしいものであったとしても、それが世界に届くことはめったにない。これに対して、米国人が母国語で発表する研究成果は、本人が特に努力しなくても、世界に届き、アカデミズムのパラダイムとなる。

現実に日本にいてちょっと周囲を見回してみるだけで、軍事力ばかりでなく経済、情報、知的部門のどれをとっても、強いもの、有力なものはほとんど流動的アナログ力の部門に集中しており(例えば現代日本で文化的に海外への発信能力を持つ最大の存在が「日本製アニメ」であることなどは、ある意味でその象徴である)、そしてまたそれらはいずれも世界秩序構築のための敷居を乗り越える能力を持っていないことがわかる。[7]

アニメや漫画は、視覚的で、言語への依存度が高くないので、日本製でも容易に海外に進出できる。しかし、言語への依存度の高い作品となると、ハードルは高くなる。

世界第二の経済大国でありながら、日本が国際政治の舞台で存在感がないのは、拠点の確保ができていないからである。日本人は、ルールを決める権限を持たず、決められたルールのもとで競争に加わることしか許されない。だから、いくら善戦しても、世界のリーダーにはなれない。

日本の大学では、

ある新しい研究を行う場合にその評価は欧米で既にそれが行われているかどうかで決定されてきた。ただしもちろん「欧米でまだ行われていないからこそ価値がある」というのではなく、「欧米でまだ行われていないからその研究には価値がない」という、まともな常識とは逆のいささかあきれた基準である。こと日本に関する限り、学問的覇権、およびその背後の知的制海権を持つ側が米国であり、持たない側が日本であることは覆いようもない事実である。[8]

日本で独創的な発明をしても、周囲は評価しないし、資金を出すこともない。しかし、その発明が欧米で認められると、日本人は態度を豹変させ、我も我もと出資を申し出る。こういう奴隷状態から脱しない限り、日本が知的リーダーシップをとることはない。

日本企業は、これまで欧米から基本的なアイデアを輸入し、欧米と同じ物を、より効率的に、つまりより安く、そしてより精確に模造複製することによって世界市場での競争力を付けてきた。ところが、情報産業の生産物の場合、コンピュータソフトやインターネットコンテンツを例に取ればわかるように、複製や流通にはほとんどコストがかからないので、オリジナルを作成した者のみが利益を独占する。横並びで他者の物まねをやっている者は淘汰される。[9]

アナログな工業社会で通用した方法が、デジタルな情報社会では通用しないのである。

産業の分野で日本がこれまでやってきたような、二番手から参加して努力と改善でやがて一番手のお株を奪っていくということは、ほとんど起こり得ないと言っても良いほど困難なのだ[10]

5. 今後の日本の戦略

長沼は、「それは国の名前ではなく、一つの概念なのだ」という言葉を民族的共同体に優先させる意志があるか否かで、世界の文明を二つのリーグに分類する。

統一世界指向型―米国・中国

勢力均衡世界指向型―ヨーロッパ・日本・イスラム[11]

そして、日本は「知的制海権」を得るために、ヨーロッパやイスラムと提携するべきだと長沼は提案している。

米国と中国が同じリーグに入っていることに首をかしげる人が多いに違いない。実際、米国人と中国人の間に、拝金主義・物質主義・利己主義以外の共通点を見つけることは難しい。長沼は、中国人は米国人と同様に個人主義だというが、親族への帰属を重視する中国人のどこが個人主義なのだろうか。掃いて捨てるほどの人間がいて、個人の人権が無視される中国が個人主義のはずがない。

国家単位で比較しても、連邦制の米国と中央集権的な中国、二大政党制の米国と一党独裁の中国、多民族国家の米国と漢民族が全人口の92%以上を占める中国、海外派兵に積極的な米国とそうでない中国、情報の出入りが自由な米国と鎖国状態の中国、自由経済の米国と統制経済の中国など、違いを挙げればきりがない。

にもかかわらず、長沼が米中を同じリーグに入れたのは、この本が書かれた当時のクリントン政権が親中反日政策を取っていたからであろう。

現在のアジアにおいては、米国にとって日本は軍事面では同盟国だが経済的には敵としての色彩が強い一方、中国は軍事的には仮想敵国だが経済的には将来の味方だと考えられる傾向が強い[12]

経済を重視したクリントンから軍事を重視するブッシュへと政権が交代すると、米国の政策も親中反日から親日反中へと変わった。日本政府が米国との同盟関係から脱して、ヨーロッパやイスラムと組むことは難しくなっている。日本がヨーロッパやイスラムと提携するのなら、民間ベースでやらなければならない。

6. 参照情報

関連著作

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注釈一覧
  1. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 上巻 p. 37.
  2. 永井俊哉.「デフレ対策としての公共事業」2001年8月11日.
  3. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 上巻 p. 37.
  4. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 上巻 p. 37.
  5. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 上巻 p. 59.
  6. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 下巻 p. 186.
  7. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 下巻 p. 175.
  8. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 上巻 p. 202.
  9. 永井俊哉「教育改革はどうあるべきか」2000年2月12日.
  10. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 下巻 p. 366.
  11. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 下巻 p. 269.
  12. 長沼伸一郎.『無形化世界の力学と戦略―理系からの解析は戦略と地政学をどう変えるか』通商産業研究社 (1997/05). 下巻 p. 266.