権力の脱中心化
一般的に言って、寒冷化はシステムの集権化をもたらし、温暖化はシステムの分権化を促す。中世温暖期から近代小氷期にかけて社会システムは中央集権化したが、その後の温暖化により社会システムは脱中心化しつつある。本稿は、近代小氷期に集権化した情報システム、政治システム、経済システムという三種類の社会システムが、現代において分権化している現状を指摘する。[1]
1. 情報システムの脱中心化
近代ヨーロッパにおいて中央集権化された社会システムは、現在、脱中心化されつつある。このトレンドは、1970年代以降の情報化社会においてとりわけ顕著である。知のシステムが脱中心化される思想史的背景を探ろう。
1.1. 近代哲学における自我による知の統一
古代寒冷期において、ギリシャの哲学者は、アルケー(万物の根源)を求めた。中世寒冷期において、ローマ人とゲルマン民族は多神教を捨てて、一神教であるキリスト教を崇拝した。近代小氷期に起きた科学革命と近代哲学の誕生もまた、知的システムの集権化として特徴付けられるイノベーションである。
寒冷期には、太陽エネルギーと大気循環が弱くなり、物質的にはエントロピーが捨てにくくなるので、意識システムは、情報エントロピーを捨てることで、これに対応しようとして、知的システムのカタルシスを行う。逆に、温暖期には、太陽エネルギーと大気循環が強くなり、物質的にはエントロピーが捨てやすくなるので、意識システムは、積極的に情報エントロピーを捨てようとはしない。それゆえ、知的システムの強引な統一は行わない。
中世神学は、知的システムを神の下に統一したが、近代哲学は、結果としては、自我を神の地位にまで高めることとなった。シュペーラー極小期の哲学者、デカルトは、『方法序説』で、確実な真理の第一原理を見出すために、あらゆるものを、神すらをも疑った。
しかし、その後ですぐに、私は、このようにすべてを偽りと考えようとしていた間にも、そう考えている「私」は、どうしても何物かでなければならないということに気が付いた。そして、「私は考える、ゆえに私は存在する」というこの真理は、懐疑論者のどんな途方もない想定といえどもそれを揺るがすことはできないほど堅固で、確実であることを確認して、私は、これを、自分が探求しつつあった哲学の第一原理として、何の懸念もなく、受け入れられると判断した。[2]
デカルトは、不完全な自我ですら存在するのであるから、完全な存在である神は存在するはずであるとして、自我の存在から神の存在を導き出した。彼は、さらに、誠実性は完全な存在者の本性であるとして、神の誠実性を媒介にして、外界の知識についての懐疑を否定する。
デカルト以降の近代哲学においては、神はもはや真理の根源的な基礎ではなくなった。レス・コギタンス(res cogitans 思惟する物)としての自我が、神に代わる存在となる。神が唯一の存在であると同様に、自我も唯一の存在となる。なぜなら、他我は自我ほど明確に与えられた存在ではないからだ。
デカルトの哲学には、独我論的傾向がある。これは、彼の哲学が、ガリレオ以降の自然科学の影響を受けて、機械論的決定論をパラダイムとしていたことと無関係ではない。決定論においては、すべての出来事は必然的であり、必然的であるということは、こうであって他のようにはなりえないということであり、他者性の否定を帰結するからである。
カントは、デカルトにおいて曖昧だった、経験的自我と超越論的自我を区別したが、超越論的自我の外部に物自体の存在を想定していた。ヘーゲルは、この疎外態を絶対精神へと止揚し、ここにおいて、人間の知は、神の知の高みにまで登りつめた。ヘーゲルの哲学においては、必然性こそが自由であり、弁証法的論理の展開にもかかわらず、最終的にはディアロークではなくて、モノロークに終わってしまった。
1.2. ヒエラルキーからリゾームへ
1900年以降、量子力学の登場により、近代科学の世界観だった機械論的決定論が破綻する。不確定性は、主観の認識能力の欠陥に全面的に帰せられる見せ掛けの性質ではなくて、客観の本質的な性格とみなされるようになった。また、哲学における間主観性論や他者論の興隆は、量子力学の多世界解釈の哲学版とみなせる。
決定論と独我論という他者性の否定がモダンな哲学の特徴であったとするならば、ポストモダンな哲学は、他者性を復活させる、不確定性と間主観性の哲学であると言える。ポストモダンの哲学者たちは、自我によるすべての知の究極的な基礎付けを放棄する。自我を頂点とする知のヒエラルキーは、崩壊し、リゾーム化する。
リゾームとは、ドゥルーズとガタリが『千のプラトー』で提起した、求心的なヒエラルキー状のアルブル(木)に対する、脱中心化された地下茎をモデルとした哲学的な概念である。
リゾームの主要な性質をまとめよう。木や木の根とは異なり、リゾームは、任意の点と点を結びつけるが、必ずしも同じ特徴のものどうしが結びつくとはかぎらない。リゾームは、非常に異なった記号を、それどころか記号でない状態をも作用させる。[…]中心化された(たとえ中心が複数あっても、中心がある)システムとは異なり、また、ヒエラルキー的なコミュニケーションやあらかじめ定められた結びつきとは違って、リゾームは、中心のないシステムであり、ヒエラルキー的でもシニフィアン的でもなく、普遍的統括者もなく、組織力のある記憶装置も中央制御装置もなく、もっぱら諸状態の循環によって定義される。[3]
『千のプラトー』が出版された1980年の時点では、まだインターネットは、その名前も存在もほとんど知られていなかったが、リゾームという概念は、インターネットという新たな形態の情報システムとして具現することとなった。
1.3. リゾームとしてのインターネット
グーテンベルクが活版印刷術を発明して以来、マスメディアは、その影響力を強め、工業社会の時代における最も支配的な情報システムとなった。それ以前に支配的だった口コミが、脱中心化されたメディアであるのに対して、近代になって登場したマスメディアは、情報の生産者/消費者、専門家/素人を中心/周縁として差異化する中央集権的メディアである。これに対して、インターネットは、近代以前のヴァイラルなコミュニケーションを新たな情報技術で復活させた脱中心化されたメディアであると言える。
1970年代以降の情報革命は、たんなる技術革新にとどまらず、社会システムの構造全体を、脱中心化することで、大きく変えつつある。ドットコム・バブル崩壊後のウェブの新しい潮流は、ウェブ2.0と呼ばれるが、このソフトウェア開発になぞらえた命名法を敷衍して70年代以降の時代を特徴付けるならば、1970年代は、ウェブ・アルファ、1980年代は、ウェブ・ベータ、1990年代は、ウェブ1.0、2000年代は、ウェブ2.0、2010年代はウェブ3.0の時代ということが言える。以下、それぞれの時代における、情報システムの脱中心化の進展を見ていこう。
インターネットの前身は、1972年から、米国国防省の高等研究計画局(ARPA)が開発した ARPANET (Advanced Research Projects Agency Network)である。これは、情報伝達におけるボトルネックの弊害を取り除くべく、複数のコンピュータをつないで、各コンピュータからパケット通信によりデータを伝送する分散型ネットワークである。このネットワーク化のテストは、ARPA内部で行われた、いうなれば、ネットワークのアルファ・テストであるので、この段階は、ウェブ・アルファと呼ぶにふさわしい情報伝達の脱中心化の第一歩である。
60年代から70年代にかけて支配的だったコンピュータでは、メインフレームと呼ばれる中央集権的なコンピュータであったが、80年代には、パーソナル・コンピュータが普及するようになった。これは情報処理の脱中心化と特徴付けることができる。80年代にはまた、パーソナル・コンピュータ同士をネットワーク化するパソコン通信が商業化された。パソコン通信は、インターネットのように開かれたネットワークではなく、特定の会員どうしの閉じたネットワークであったが、民間の一般人がネットワーク化をベータ・テストした時期という意味で、ウェブ・ベータの時代と言える。
World-Wide Web は、CERN(Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire)が、1991年に公表し、1993年に無料公開し、90年代後半に爆発的に世界に普及した。パソコン通信では、使用時間ごとに課金していたが、インターネットは定額利用が可能であり、誰もが低コストで情報を世界に配信し、またそれを受け取れるようになった。90年代は、インターネットが正式にリリースされた時期であり、ウェブ1.0の時代と言える。
ドットコムバブル崩壊後の新しい潮流として、ブログとRSS/Atomの普及を挙げられる。ウェブ上のコンテンツはデータベース化され、情報の消費者は、任意のキーワードでコンテンツをアグリゲイトできるようになった。生産者だけでなく、消費者までが編集できるようになったという意味で、これは編集の脱中心化と特徴付けることができる。クライアント・コンピュータに代わって、ウェブ・ネットワークがプラットフォーム化し、ウィキ・ソフトを用いて、ネット上で共同編集することもできるようになった。オープン・ソースのソフトウェアの開発も盛んになった。かくして、情報の生産者と消費者の差異がますます不明確になり、ウェブ2.0という言葉が流行した。
2010年代になると、モバイル端末が普及した。PC以前、会社に一台だったコンピューターは、PC時代に一家に一台となり、モバイル時代には一人に一台、否一人で複数台の時代になった。それとともに発達するようになったクラウド・コンピューティングは、中央集権的情報処理の復活のように見えるかもしれないが、各個人が、複数の端末から複数のクラウドを使うようになったのだから、中央集権化とは言えない。この時代は、またソーシャル・メディア興隆の時代でもあり、それは同時に中央主権的なマスメディア没落の時代でもあった。ブロックチェーンを用いた仮想通貨の流行も決済の脱中心化と評することができる。
以上、10年単位で区切ったのは、ジュグラーサイクルにしたがって、約10年単位でバブルが崩壊し、不況期に技術革新が起き、好景気の時にそれが広がるからである。もちろん、技術革新が社会システムを変えているのではなくて、社会システムの変革需要に技術革新が追いついているのだが、情報システムの脱中心化というトレンドは、今後も続くだろう。
2. 政治システムの脱中心化
近代ヨーロッパの絶対王政において中央集権化された政治システムは、その後徐々に始まった民主化の流れの中で、脱中心化されていった。情報システムの脱中心化と政治システムの脱中心化は、どのように関連しているのか、情報システムの脱中心化に対応する民主主義の制度とはどのようなものなのかを考えたい。
2.1. 近代小氷期における絶対王政
中世ヨーロッパにおける政治システムは、封建制度という地方分権的な制度を採用していた。封建制度においては、臣下が領主に忠誠を誓う代わりに、領主は臣下に土地の支配を委任する。この関係は、騎士と諸侯の間のみならず、国王と諸侯の間にも成り立つ。国王は、諸侯に対して、同輩の中の第一人者といった立場にしかなく、諸侯に対して超越的に支配するような強い立場にあったのでもなければ、国土を直接に支配する強力な権力を持っていたのでもなかった。
近代小氷期になると、集権化による効率性の向上が必要になってくる。ニッコロ・マキャヴェリは、1516年に『君主論』をウルビーノ公ロレンツォに献上し、汚い手段を使ってでも、君主の強力な権力により、イタリアを統一すべきだと主張している。その願望は、マキャヴェリの存命中には実現しなかったが、英国やフランスなどでは、早くから絶対君主による国民国家の統一が進んだ。これに呼応して、国王を、同輩の中の第一人者としてではなく、神から絶対的な権利を付与された超越的存在とする王権神授説が登場し、中央官僚と常備軍を備えて、国土を直接統治する絶対君主を正当化した。
前章で、近代的な集権化の哲学の代表として、デカルトの哲学を挙げたが、デカルトの哲学と王権神授説には、構図上の共通点がある。中世の哲学においては、思考する物(res cogitans)としての自我ないし霊魂は、広がりのある物(res extensa)に対して、神のような超越的な位置を持たず、たかだか同輩の中の第一人者でしかなかった。同様に、国王は、ローマ教皇のような超越的な地位を持たず、諸侯に対して、同輩の中の第一人者でしかなかった。しかし近代になって、ローマ教皇と国王の地位は逆転し始めた。デカルトの哲学でも、神と自我の地位が逆転している。そして、自我が神の誠実性を媒介にして外界を認識するように、絶対君主は、神から付与された王権を媒介に、臣民を統治するようになる。
フランス絶対王政の基礎を作ったリシュリュー枢機卿(Armand Jean du Plessis de Richelieu 1585-1642年)は、デカルト(1596-1650年)と同時代の人であった。デカルトが近代哲学成立に果たした役割を、リシュリューはフランス絶対王政成立において果たした。デカルトは、理性を重視した反面、理性を持たない動物を、心も感覚も持たない、たんなる機械とみなして、平気で生体解剖を行った。一方、リシュリューは、国家理性(Raison d’État)の名の下に、中央集権化の妨げになる貴族勢力を容赦なくつぶした。デカルトは、世界を数学という普遍的言語で統一的に記述しようとした。一方、リシュリューは、アカデミー・フランセーズ(Académie française)を創設し、フランス語の標準化とその規範化により国土を統一しようとした。
フランスの絶対王政は、ルイ14世の治世(1643-1715)において頂点に達した。ルイ14世の治世は、近代小氷期の中でも最も太陽黒点数が少なくて、寒い時期であるマウンダー極小期とほぼ重なっている。ルイ14世は、太陽王(le roi soleil)の異名で知られるが、太陽が衰退したからこそ、太陽の代替となるような、絶対的な秩序の中心が現れなければならなかったと言える。
2.2. 権力の脱中心化としての民主化
ルイ14世は絶対君主の典型であるが、その後、フランスの絶対王政は衰退し、1789年のフランス革命で終焉を迎える。アメリカ合衆国が大英帝国から独立し、共和政の国家を建設したのも、18世紀の末であった。選挙権の対象も漸次的に拡大し、今日に至るまで、民主化、すなわち政治システムの脱中心化は、トレンドとして続いている。危機の時代には、人々は、個人の利益よりも運命共同体の存続を優先し、強い指導者の出現を待望する。豊かな時代になると、その逆が、つまり脱中心化と分散化が好まれる。
民主化と脱中心化は一直線に進んでいるわけではなく、何度か反動があった。以下のグラフは、Polity IV Project の基準で民主主義国家と判定された国の数の推移を表している。
このグラフを見てもわかるように、1929年の世界大恐慌以降、民主主義の国が大幅に減っている。これはデフレの危機を克服するために、ファシズムに傾いた国が増えたからである。米国のような民主主義国家においても、自由主義経済が放棄され、ニューディールによる混合経済が選択された。こうした反動があったにせよ、この図が示すように、民主主義国家の数は、長期的に増える傾向にある。フランシス・フクヤマとフリーダム・ハウスは、民主主義国家の増加を次のように報告している。
1950年までには、ナチの全体主義の敗北、戦後の脱植民地化の勢い、戦後の日本とヨーロッパの再建により、民主主義国家の数が増えた。20世紀の中頃において、世界人口の31パーセントを占める22の民主主義国家が存在し、さらに、世界人口の11.9パーセントを占める21の国に、制限されているとはいえ、民主主義的な慣行があった。[…]現在、世界に存在する192の国のうち、120の国が、選挙制度のある民主主義国で、これは世界人口の62.5パーセントになる。[5]
民主主義の基本は、個人の選択の自由である。以下のグラフは、フリーダム・ハウスの基準による自由な国(緑色)、部分的に自由な国(ピンク色)、自由がない国(赤色)の数の推移である。70年代以降の情報化社会が、自由化とともに進展していることがわかる。
現在、間接民主主義(議会制民主主義)は既に多くの国で普及している。政治システムの脱中心化をさらに進める次の段階は、直接民主主義である。議会制民主主義は、脱中心化の初期の段階で重要な役割を果たすが、あくまでも過渡的な制度に過ぎない。私は、以前「インターネットによる直接民主主義」で、インターネットを用いた直接民主主義の提案をしたが、今回は、現在のウェブ2.0の流れを受けて、この提案の次を考えてみたい。
2.3. イーデモクラシーの時代へ
インターネットなどの情報技術革新により可能となる民主主義のことを、インターネット民主主義(Internet democracy)ないしは、イーデモクラシー(e-democracy)と呼ぶ。一般的に言って、政治システムは、経済システムや情報システムと比べて、保守的で、変革が一番遅くなる。情報システムでは、インターネットがウェブ2.0の段階に入っているが、政治システムでは、イーデモクラシーは、まだベータテストの段階である。
電子投票が、既存の議会制民主主義の選挙に使われても、政治システムを脱中心化することはない。インターネットが、マスメディアを中抜きした、ダイレクトな情報公開を可能にしたように、イーデモクラシーは、代議士を中抜きした、ダイレクトな意思表示を可能にする。有権者が代議士を選び、代議士が法案を採決するのではなくて、有権者が直接インターネットで採決するのである。この段階を、イーデモクラシー1.0と呼ぶことにしよう。
インターネットが普及した当初、つまり、ウェブ1.0の段階では、ソフトもコンテンツも、プロないしマニアが作り、大半のユーザはそれを受動的に消費し、せいぜいソフトないしコンテンツの選択を通じて意思表示しているだけだった。同様に、イーデモクラシー1.0の段階においては、政治のプロが、法案や政策案を作成し、有権者は、電子投票を通じて、受動的に賛成か反対かに対して意思表示するだけにとどまるだろう。
ウェブ2.0では、ユーザが、オープンソースのソフトウェアやコンテンツを自由に編集するようになる。いわゆる CGM(Consumer Generated Media 消費者生成メディア)となる。こうした、オープンソース・ムーブメントの流れを取り入れた政府のことを、オープンソース政府(open source government)というが、これこそまさにイーデモクラシー2.0と呼ぶにふさわしい、徹底的な政治権力の脱中心化の段階である。
ウェブ2.0では、プロとアマ、専門家と素人の境界が消滅するが、イーデモクラシー2.0においても、政治のプロとアマ、専門家と素人の境界が消滅する。もはや、有権者は、政治のプロが作った法案に対して、受動的にイエスかノーかを言うだけの存在ではなくなり、ちょうどリナックスやウィキペディアを編集する時のように、だれもが、法案や政策案の編集作成に参加できるようにならなければならない。
複数製作される法案や政策案は、投票によって選択されなければならないが、インターネットのウェブ2.0では、この機能が十分ではない。ウィキペディアでは、編集のあり方をめぐって編集合戦(edit wars)が起きるが、それを収集する有効な方法はない。編集者ごとにバージョンを作って、投票により、表示の優先順序を決めるのが、理想的である。しかし、田代砲のような連続投票スクリプトを使えば、容易に投票を水増しできるから、この方法は取れない。しかし、政治システムの場合、有権者のアイデンティフィケーション(身元確認)が制度化されるから、こうした問題は最小限にできるだろう。
イーデモクラシー3.0があるとするなら、それは、分散型台帳技術を用いた電子投票の活用である。ブロックチェーンをはじめとする分散型台帳技術は、認証の権限自体を脱中心化することで、改竄のリスクを低減させる。
イーデモクラシーは、ヒエラルキー型だった政治システムをリゾーム化するだろう。かつてヒエラルキー型組織の代名詞であった軍隊までが、今では、双方向情報機器の発達により、組織を脱中心化することができるようになっている。
3. 経済システムの脱中心化
前近代における労働集約的経済から近代の資本集約的経済への移行過程で経済システムの中心化が進み、ポスト近代の知識集約的経済への移行過程で脱中心化が進みつつある。
3.1. 近代における産業の資本集約化
近代小氷期をもたらした三つの太陽黒点数極小期、すなわち、シュペーラー極小期(Sporer Minimum 1450-1550)、マウンダー極小期(Maunder Minimum 1645-1715)、ドルトン極小期(Dalton Minimum 1790-1820)は、それぞれ、英国における第一次囲い込み、第二次囲い込み(農業革命)、産業革命と同時代である。私たちは、これら三つの経済的出来事を、経済的生産の集権化として特徴付けられる。
シュペーラー極小期に、英国の気候は寒冷化し、毛織物に対する需要が増え、羊毛を量産する必要が生じた。開放耕地や混在地が個人によって囲い込まれ、羊の放牧地になった。これは、自給自足的な中世的共同体農業から、近代的な個人経営による商品作物の生産に向けての第一歩と位置づけられるが、第一次囲い込みが行われた範囲は限定的で、英国の農業全体の性格を変えるにはいたらなかった。
マウンダー極小期は、小氷期の最盛期に当たる。日照不足のため、食糧不足が生じ、食料を効率的に大量生産する必要が生じてきた。そのために、この時期に、機械的に効率よく播種するシード・ドリルの発明、輪裁式農法や改良穀草式農法の導入、囲い込みによる開放耕地と混在地の排除、耕作単位の拡大、労働集約的な農業経営を特徴とする農業革命が起きた。第一次囲い込みは、トーマス・モアなどから非難された[7]が、第二次囲い込みは、議会が種々の囲い込み法案を通して、国家ぐるみで推進した。
ドルトン極小期は、温暖化における寒冷化の反動をもたらした。農業革命により、英国は、人口を増やし、また海外に植民地を持ったことで、より大きな市場を持つようになった。それゆえ、寒冷化による衣類需要の増大に対して、手工業(マニュファクチュア)では対応できなくなり、かくして、機械制大工業による綿織物の大量生産が行われるようになった。これがいわゆる産業革命である。産業革命(the Industrial Revolution 工業革命)は、第二次囲い込みによって既に始まっていた農業革命の原理を、工業に応用したものであると評することができる。
農業革命も工業革命も、産業の資本集約化として特徴付けられる。中世の英国では、農民は、自分の土地を持ち、共同体を形成しつつも、自給自足的な生活を送っていた。しかし、農業革命と工業革命により、農民は、労働力以外には何も資本を持たないプロレタリアート(無産市民)になり、資本家の下に集められ、機械化された工場ないし農場で、資本集約的に生産性が高い労働を行った。
近代小氷期という危機が去った後も、産業の資本集約化と労働者のプロレタリアート化はその後も続いた。資本集約化により、生産力が大幅に向上したが、同時に人口も爆発的に増えたために、それは個々の労働者の待遇改善にはつながらなかった。労働者問題は、19世紀後半になって解決が図られるようになった。
労働者が資本のもとへと組み込まれたのと同時に、資本は国民国家のもとへと組み込まれた。貴族は荘園の徴税権を失い、国家が直接国民経済を支配するようになった。絶対王政の時代の経済政策は、重商主義で、初期の重金主義であれ、後期の貿易差額主義であれ、各国家は、ゼロサムゲームの発想で、富の国外の流出を防ぎ、できるだけ自国内に富を蓄積しようと経済を統制していた。しかし、産業革命が起きると、「諸国民の富」全体を増大させることが可能となり、それを促すために、自由放任主義(laissez-faire)を唱える経済学者が現れるようになった。
3.2. 社会主義と福祉国家
近代から現代にかけて、経済システムは、従属的労働から自立的労働へと、国家統制型経済からグローバルな自由市場経済へと脱中心化されていく。しかし政治システムにおける民主化のプロセスと同様に、この流れは決してスムーズであったわけではなく、何度か反動的な局面を迎えた。
1844年に、英国は、銀行設立免許法(Bank Charter Act)を制定し、金本位制を正式に導入した。その後多くの近代国家が、19世紀に金本位制を採用した。金本位制によるマネーサプライの制限は、その後長期にわたってデフレをもたらすことになる。デフレによる物価の下落を防ぐために、企業はカルテルやトラストを形成し、市場を独占ないし寡占しようとした。労働者も、とりわけ1870年代以降、賃金の下落を防ぐために、労働組合を結成し、労働市場を独占ないし寡占しようとした。
これは、19世紀前半に盛んになったレッセ・フェールからの後退である。ヨーロッパ諸国は、19世紀後半になると、保護主義と干渉主義を再開した。フランスでは、1890年に他のヨーロッパ諸国との自由貿易協定が破棄され、プロシアでは、ビスマルクが1878年から保護主義の方針を打ち出し、1879年には鉄とライ麦の関税を設けた。
労働条件の改善のためにも、保護主義的政策が取られた。ビスマルクは、1880年代に、プロシアで様々な社会保障制度を設立した。1914年には、米国のヘンリー・フォードが、自動車製造の工程を大量生産により合理化しつつ、労働者の賃金を倍に引き上げ、それによって自動車の需要を増やすフォーディズムを始めた。1917年には、ロシア革命が起き、世界初の共産主義国家であるソビエト連邦が1922年に発足した。1929年から始まった世界大恐慌は、民間主導のフォーディズムによる景気を終わらせ、代わって、フランクリン・ルーズベルトが、ニューディールと呼ばれるところの政府主導のフォーディズムを始めた。ヒトラーもフォーディズムを採用し、600万人近かった失業者数を30万人に減らした。しかし、世界大恐慌によるデフレを最終的に克服したのは、第二次世界大戦を通じての軍事的ケインズ主義(military Keynesianism)であった。
経済学的観点からすると、第二次世界大戦の時から冷戦の時代にかけて存在した、ファシズム国家、社会主義国家、福祉国家の間に大きな違いは認められない。こうした国々の全体主義的経済政策は、富の再配分をもたらしはしたが、その構造において中央集権的であり、経済システムの脱中心化という観点からすれば、反動的な動きであった。
3.3. グローバルな個人主義
1970年代のスタグフレーションにより、経済システムの目標は、量的拡大から質的向上に変わった。情報革命の本質は、ここにある。情報革命は、レスター・サローが謂う所の「知識依拠型経済 knowledge-based economy」をもたらした。米国の国勢調査局(U.S. Census Bureau)によると、学歴の違いによる経済格差は、70年代から拡大しつつある。「大学院を修了した労働者と高卒の労働者の収入格差は、1975年において1.8倍だったが、1999年には、2.6倍になった[9]」とのことである。
機械化と自動化により、人間の肉体労働の価値は下がったが、情報革命は、知的労働の価値を高めた。労働者は、前近代的な労働集約的経済において重要であったが、近代の資本集約的経済において重要でなくなり、ポスト近代の知識集約的経済において、再び重要となった。つまり、経済システムは、前近代から近代にいたる変遷において中心化し、近代からポスト近代にいたる変遷において脱中心化した。
1970年代以降、大きな政府はその有効性を失った。小さな政府を目指した第一世界の国は繁栄し、共産主義経済を続けた第二世界の国は破綻した。政府がコントロールする国民経済は時代遅れとなり、かつて国内でのみ活動していた企業は、政府のコントロールから離れ、グローバルにビジネスを展開するようになった。それまでの国際経済とは異なる、グローバルでボーダレスな経済が地球を覆うようになる。
小さな政府の誕生は、資本集約的経済から知識集約的経済への構造的変化を反映している。政府が主導する大規模な計画経済は、規模の経済が働く資本集約的経済において有効であるが、知識集約的経済では失敗する。なぜなら、官僚は、知識集約的経済で要求されるようなイノベイティブなアイデアを持たないからである。
イノベイティブなアイデアは、競合する個人から生まれる。そうした競合を促すためには、報酬は、労働時間に対して支払うよりも、労働の成果に対して支払う方が望ましいし、投資家も経営に参加する方が望ましい。実際、情報社会においてはそのような傾向が見られる。
世界で最初の近代的な株式会社は、1602年にアムステルダムで上場したオランダ東インド会社だといわれている。初期の株式会社は、多額の資金調達とリスク分散が目的であって、民主主義的なコーポレート・ガバナンスが目的ではなかった。しかし、近年「ものをいう株主」が現れ、株主行動主義(shareholder activism)がコーポレート・ガバナンスのあり方を変えている。株主と経営者の関係は、有権者と代議士の関係と同じであり、株主行動主義は、一種の直接民主主義である。それは、ウェブ2.0の時代にふさわしいコーポレート・ガバナンス2.0であると言える。
経済システムの脱中心化と平行して、エネルギーシステムの脱中心かも始まろうとしている。電力自由化により、小型分散型電源が電力網に参加し、これまでたんなる電力の消費者に過ぎなかった電力網の端末が、電力の生産者として、電気をアップロードすることが可能になるだろう。どの小型分散型電源が望ましいかは、政府が決めることではない。電気の消費者であると同時に生産者でもある各端末の選択を通じて、市場原理により決められることである。
4. 参照情報
- ルネ・デカルト『方法序説』岩波書店 (1997/7/16).
- ジル・ドゥルーズ, フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』河出書房新社 (2006/10/6).
- ジル・ドゥルーズ, フェリックス・ガタリ『千のプラトー』河出書房新社 (2010/9/3).
- 宇野重規『民主主義とは何か』講談社 (2020/10/21).
- 佐々木重人『ダイレクトデモクラシー: 民主主義ってほんとはコレだ!』(2016/8/13).
- ↑本稿は、2007年04月15日 公開の「権力の脱中心化(1)情報システム編」、2007年04月23日公開の「権力の脱中心化(2)政治システム編」、2007年04月29日公開の「権力の脱中心化(3)経済システム編」を一つにまとめ、加筆と修正を施して、2021年7月4日に再公開したものである。
- ↑“Mais aussitôt après je pris garde que, pendant que je voulais ainsi penser que tout était faux, il fallait nécessairement que moi qui le pensais fusse quelque chose; et remarquant que cette vérité, je pense, donc je suis, était si ferme et si assurée, que toutes les plus extravagantes suppositions des sceptiques n’étaient pas capables de l’ébranler, je jugeai que je pouvais la recevoir sans scrupule pour le premier principe de la philosophie que je cherchais." ― René Descartes. Discours de la méthode. (1637). partie IV.
- ↑“Résumons les caractères principaux d’un rhizome : à la différence des arbres ou de leurs racines, le rhizome connecte un point quelconque avec un autre point quelconque, et chacun de ses traits ne renvoie pas nécessairement à des traits de même nature, il met en jeu des régimes de signes très différents et même des états de non-signes. […] Contre les systèmes centrés (même polycentrés), à communication hiérarchique et liaisons préétablies, le rhizome est un système acentré, non hiérarchique et non signifiant, sans Général, sans mémoire organisatrice ou automate central, uniquement défini par une circulation d’états." ― Gilles Deleuze et Félix Guattari. Mille Plateaux, Capitalisme et Schizophrénie 2. Les éditions de minuit (1980). p. 30-31.
- ↑“Number of nations 1800-2003 scoring 8 or higher on Polity IV scale.” 28 August 2006. Licensed under CC-0.
- ↑“By 1950, the defeat of Nazi totalitarianism, the post-war momentum toward de-colonization, and the post-war reconstruction of Europe and Japan resulted in an increase in the number of democratic states. At mid-century, there were 22 democracies accounting for 31 percent of the world population and a further 21 states with restricted democratic practices, accounting for 11.9 percent of the globe’s population. […] Electoral democracies now represent 120 of the 192 existing countries and constitute 62.5 percent of the world’s population." ― Fukuyama, Francis and Freedom House (U.S.). Democracy’s Century: A Survey of Global Political Change in the 20th Century. New York, N.Y. Freedom House, 1999.
- ↑“Freedom House Country Rankings 1972-2005.” May 2007. Licensed under CC-0.
- ↑Thomas More (1516) De Optimo Reipublicae Statu deque Nova Insula Utopia. 日本語訳:トマス・モア『ユートピア』岩波書店 (1957/10/7).
- ↑Rail Gustave Dore. “Over London By Rail from London, a Pilgrimage.” circa 1870. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑“Workers with an advanced degree, who earned 1.8 times the earnings of high school graduates in 1975, averaged 2.6 times the earnings of workers with a high school diploma in 1999." Issued July 2002.
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