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古文の用言の活用を習得する方法

2012年5月28日

古文の用言の活用を習得する時、活用語尾だけを切り離し、そのリストを朗読して覚えるという方法よりも、現代日本語の用言の活用を習得する時と同様に、後続語とセットで、いわば文脈の中で有機的に覚えた方が、速く習得できる。私は、そのために、独自の活用表を作ったので、それをここに公開しよう。

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1. 古文の用言の活用を習得する方法

私が高校生だった頃、古文の先生から「用言の活用は、暗唱できるようになるまで何度も復唱するように」と言われ、文法書の見返しに掲載されていた活用表を丸暗記した。今では大半を忘れてしまったが、打消しの助動詞「ず」の活用、「ず、ざら、ず、ざり、ず、ぬ、ざる、ね、ざれ、ざれ」など、一部は今でも暗唱できる。

では、活用表を丸暗記したことで、古文の読解力が向上したかと言えば、そうでもなかった。今でも高校や予備校などでは、活用表を暗記させているところがあるようだが、そういう学習方法はお薦めではない。

実際、現代日本語を不自由なく使っている日本人が、例えば、五段活用の動詞「走る」の活用語尾を暗唱せよと言われて、「ら、ろ、り、っ、る、る、れ、れ」とすらすらと答えられるかといえば、それを覚えさせられたばかりの中学生を除けば、ほとんどないというのが実情である。しかし、日本語のネイティブなら、以下のような形式の問題には、簡単に答えることができる。

問題:括弧内に適切な動詞の活用語尾を記せ。

走( )ない。
走( )う。
走( )ます。
走( )た。
走( )。
走( )時、
走( )ば、
走( )!(命令)

ここからもわかるように、私たちは活用語尾を後続語との関係で直感的に選んでおり、「ます」は連用形接続の助動詞だから、連用形の「り」を選ぶというようなことをいちいち考えて活用させていない。

口語文法でそうだとするなら、文語文法を習得する時にも同じことをしてはどうだろうか。活用語尾だけを切り離し、そのリストを呪文でも唱えるかのように朗読して覚えるという方法よりも、後続語とセットで、いわば文脈の中で有機的に覚えた方が、苦痛なく、かつ速く習得できる。

私は、文脈の中で古文の用言の活用を覚えることができるように、独自の活用表を作ったので、それをここに公開しよう。印刷用のPDFファイルと編集用のエクセルファイルがあるが、内容は同じなので、用途に応じて選び、ダンロードされたい。

まず最初のファイルである「接続表」では、助動詞や助詞をさ行変格活用の動詞「す」に接続させて覚える。なぜ「す」なのかというと、この動詞は、未然形、連用形、終止形、連体形、已然系、命令形で異なる活用形を持っており、どの活用形に接続するかでもって接続の類型を覚えることができるからである。

次に「暗記用活用表」では、すべての用言の活用が、接続語付きで示されているので、これらを、その意味を理解しなら朗読してほしい。この表では、各用言を、その品詞を無視して、活用パターンが同じものどうしでグループ化しているので覚えやすいと思う。助動詞の活用で、「為」という漢字を使ったのは「接続表」での知識を試すためで、読み方がわからないの時は、もう一度「接続表」に戻って確かめるとよい。

最後に、テスト用活用表で、括弧内を自分で埋めながら、読んでみよう。前後の文脈から活用語尾が自然と出てくるようになれば、活用が身についているということである。

こういう方法だと応用がきかなくなると思うかもしれないが、典型例をまず覚え、それから他の語がどの典型例と同じ類型であるかを覚えることで、どのような組み合わせでも正しく活用が作れるようになる。私たちが学校へ行く前に日本語を覚えた時も、そうした覚え方をしたはずだから、古文でも同じことをすればよいのである。

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2. 付録:「参る」と「奉る」が尊敬語として使われることはあるのか

初出:2011年12月26日(月) 00:05

古語辞典や文語文法書で調べると分かるように、国語学者は、「参る」と「奉る」が謙譲語として使われる以外に尊敬語としても使われることがあると説明している。しかし、本当にこれらの語は尊敬語としても使われることがあるのか。

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『古今和歌集』巻一巻頭

まず「参る」であるが、これは本来「まゐいる」で、貴人の目の届く場所という意味の「目居(まゐ)」と「入る」とから合成されており、したがって貴人の目の届く神聖な場所に参入するという意味を持つ謙譲語である。「参る」と対をなす謙譲語は「罷(ま)かる」であるが、これも本来は「目離る」で、「目居入る」とは逆方向の動作を表す。

「参る」には、こうした謙譲語としての典型的な用法以外に、「食べる・飲む」の尊敬語としての用法もあるとされている。例えば、以下のような文における「参る」がそうである。

『落窪物語』

粥など少し参りて、出でたまひぬ。

「粥など少し参りて」を「粥などを少し召し上がって」と解釈するなら、確かに尊敬語である。しかし「粥」を主語とみなすなら、身分の低い粥が貴人の口の中という神聖な場所に参入するのだから、「参る」は本来の意味での謙譲語となる。

「参る」が動作一般の尊敬語として使われるとみなされる場合はどうだろうか。

紫式部『源氏物語』

嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、「尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」など、めでたまふ。

「大殿油短く参りて」を「嵯峨の帝が、大殿油を低い台に灯して」と解釈するなら、確かに尊敬語である。しかし「大殿油」を主語とみなし、「大殿油が低い台で灯され、嵯峨の帝の目前に現れ」と解釈するなら、それは「目居入る」という本来の意味で理解されるべき謙譲語となる。

次に「奉(たてまつ)る」を取り上げよう。この語は、下二段活用の他動詞「立つ」あるいは「建つ」の連用形である「たて」と「祭る」の意味の「まつる」から合成されている。日本語では、神を数える時、「柱」という単位を使うが、それは神が「はしら」を「はしる」ことでこの世とあの世を往復していたと考えられていたからだ。柱を立て、神がこの世に来るあるいはあの世に行くことを「待つ」、それが「祭」である。だから、「たてまつる」という動作は、御柱祭における建御柱のような祭礼行為を原型としていると考えれば、わかりやすい。動作の対象は神であるから、当然のことながら、この語は謙譲語である。

「奉る」が尊敬語として使われるのは、「乗る」や「着る」などの意味で使われるときである。しかし、古代においては、尊敬語の対象となる階級の貴人は、自分で車に乗ったり服を着たりせず、従者によって車に乗せられたり、服を着せられたりするのが普通であり、その場合、「奉る」は謙譲語とみなさなければならない。

このことを具体例で検討しよう。以下の場合では、「奉る」は「乗る」の尊敬語として扱われる。

紫式部『源氏物語』

女御殿、対の上は、一つに奉りたり。

たしかに、これを「女御殿と対の上は、同じお車にお乗りになっていた」と解釈するなら、尊敬語ということになる。しかし、「女御殿と対の上は、従者が同じお車に乗せ申し上げていた」と解釈すれば、謙譲語となる。

日本語の「は」という助詞は、必ずしも主語にのみ付くのではなく、目的語にも付くのであって、それは以下の例についても言える。

清少納言『枕草子』

宮は、白き御衣どもに、紅の唐綾をぞ上に奉りたる。

「宮」を主語と解するなら「奉る」は「お召しになる」という尊敬語であるが、目的語と解するなら、「着せ申し上げる」という謙譲語になる。「奉る」という語の由来を考えるなら、後者の方が本来的である。

以上から明らかなように、「参る」も「奉る」も、本来謙譲語であり、尊敬語としても使われるという解釈は、後世の誤解釈または誤用に由来すると言うことができる。

3. 関連著作