夫婦別姓問題を考える

2016年10月22日

女性の社会進出に伴って、結婚後夫婦を同姓にする民法上の規定の弊害が指摘されるようになった。現在、国会では、選択的夫婦別姓制度を認めるように民法を改正するかどうかをめぐって、継続審議となっている。夫婦同姓問題を解決するにはどうすればよいのか、氏名の自己決定権という、より一般的な観点からこの問題を考えてみたい。

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大邱地方法院創氏改名公告。朝鮮は父系制で夫婦別姓であったので、養子縁組もできなかった。そこで、内地と同様に家族で同じ氏を名のることができるよう、日本統治下で創氏が行われた。また朝鮮の出自を隠すために、日本風に改名する朝鮮人もいた。

1. 夫婦別姓か夫婦同姓か

夫婦別姓(夫婦別氏)とは、結婚後も、夫婦が同じ氏/姓を称することである。民法第750条に「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とあり、戸籍上の夫婦別姓は不可能である。法律上は、夫の氏でも妻の氏でもどちらでもよいことになっているが、実際のところ九割以上、夫の氏に統一させられるので、夫婦別姓問題は、女性の人権問題として取り上げられることが多い。

女性が、結婚後、専業主婦として家事と育児に専念している間は、同姓の強制は大きな問題とはならなかった。女性が結婚後も職場で働き続ける時代になると、氏姓を変えることによる業績の断絶や連絡の混乱などの弊害が顕著になってきた。夫婦別姓問題は、女性の社会進出に伴って生まれてきた問題である。

平成13年に行われた政府の世論調査によると、婚姻前から仕事をしていた人が婚姻によって姓を変えると、仕事の上で何らかの不便を生ずることがあると答えた者の割合は、41.9%にのぼり、20-49歳の女性に関しては、50%以上になっている。また、そう答えた者のうち、婚姻をしても仕事の上で不便を生じないようにした方がよいと答えた者の割合は、56.7%になっている[選択的夫婦別氏制度に関する世論調査]。

結婚による改姓の不都合を回避する方法としては、便宜的な方法と根本的な方法の二つがある。便宜的な方法は、旧姓による氏名を、戸籍上の氏名とは別の通名として使い続ける方法である。しかし、通名の適用範囲は限られており、健康保険証や運転免許証などの公的証明書では戸籍上の氏名を使わなければならず、このため混乱が生じるという不都合がある。

夫婦別姓以外の妥協的な解決策として、結合姓という方法もある。例えば、米国のヒラリー上院議員は、ビル・クリントンとの結婚後も旧姓を使用して、ヒラリー・ローダムと名乗っていたが、過激なフェミニストという印象を薄めるために、今では、ヒラリー・ローダム・クリントンというように、旧姓と夫の氏の両方を結合して名乗っている。だが、日本では、この方法は認められていない。ファースト・ネームを頻繁に使うわけではない日本では、結合姓の導入は困難という意見もある。

夫婦別姓を貫く根本的な方法は、婚姻届を出さない事実婚により、夫婦関係を内縁関係に留めるという方法である。この場合、戸籍上も旧姓のままでいることができるが、家族が、扶養控除や配偶者控除の対象にならないとか、法定相続権がないために、遺言で遺産相続をしようにも、贈与扱いとなり、税金は二割り増しになるなど、法的に不利な扱いを受ける。

こうした不利な条件にもかかわらず、最初から、あるいはペーパー離婚(法律婚の夫婦が事実婚に移行する離婚)によって、事実婚を選ぶカップルが少なくない。別姓運動に取り組んでいる人の中には、婚外子差別撤廃運動にも関わっている人が多いことから、夫婦別姓反対論者の中には「別姓推進派の目的は家族破壊にある」[千葉展正:夫婦別姓推進論七つのウソ,夫婦別姓大論破!, p.23]と言う人もいるが、夫婦別姓のためだけに事実婚を選ぶ男女がいる以上、むしろ、家族制度の解体を防ぐために、夫婦別姓を容認するべきだという考えも成り立つのではないか。

家族崩壊は、子供に悪い影響を与える。スウェーデンは、婚外子差別を完全に撤廃したために、婚外子の割合が急増し、2001年現在、55.3%にまで達した[社会実情データ図録婚外子(非嫡出子)の割合(国際比較)]。そして、父親不在の家庭の増加に伴い、治安も悪化した。スウェーデンの人口当たりの犯罪数は、婚外子の割合が33.2%のアメリカの4倍、1.7%の日本の7倍もある [武田 龍夫:福祉国家の闘い―スウェーデンからの教訓, p.134]。夫婦別姓がノミナルな問題であるのに対して、婚外子の増加はリアルな社会問題となる。

夫婦別姓反対派は、夫婦別姓の容認も婚外子の容認も、行き過ぎた個人主義だと批判する。確かに、結婚は、子供という第三者の人権が関わるのだから、結婚に関する夫婦個人の自由はある程度制限されてしかるべきである。心の発展段階を考えても、子供に個人主義を求めるのは無理である。だから、夫婦を愛という気まぐれな関係だけで結合させるのではなくて、法的拘束力のある関係で結合させなければならないというのが、国家権力が結婚に介入する根拠である。

夫婦別姓反対派は、夫婦別姓の容認が家族制度の解体につながると危惧するが、私は、夫婦別姓ぐらいで家族の絆が弱まるとは思わない。皆さんは、姓がたまたま同じ赤の他人と、姓が異なる母方の親戚と、どちらに親類としての強い絆を感じるだろうか。明治時代以前の日本では夫婦別姓が実践されていたが、それが家族崩壊をもたらしたとする証拠はない。家族崩壊をもたらさないかぎりにおいて、夫婦の個人の自由は尊重されるべきである。

2. 氏姓の歴史を振り返る

氏姓の起源を遡るなら、おそらく今日のプリミティブな社会に見られるトーテミズムのようなものに行き着くであろう。トーテムとは、自分たちの祖先として信じられている動植物などで、氏姓として機能し、自分たちのトーテムの動物は殺さない、同じトーテムの人間とは結婚しないというタブーがある。トーテムは母系で受け継がれるので、トーテミズムは、子が母の姓を名乗るシステムに近い。ユダヤ法におけるユダヤ人の定義などは、今でも母系的である[m]

[m] 私は、人類が、太古において母権性を取っていたと考えているが、これは、他の霊長類からのアナロジーでは必ずしも支持されない。人類と近いゴリラ・チンパンジー・ボノボは父系制である。ゴリラでは、リーダーが死ぬと、息子が跡を継ぐ。チンパンジーは乱婚的であるが、集団を出て行くのはメスの方である。ボノボは、チンパンジーと似たような父系の複雄複雌型の集団を作る(メスは全部よそから入ってくる)。但し、母親の影響がもっと強く、息子の順位は母親がどれだけ強いかで決まる。また、他の霊長類では、マントヒヒを除いて、母系制であるが。霊長類の性の形態は多様であるから、ゴリラ・チンパンジー・ボノボからの類推からだけでは決めることができない。

しかし、やがて父権社会が成立するようになると、父系制が一般化し、西洋では、家族の氏を父の氏で統一する習慣が確立されるようになる。中国では、そこまで徹底せず、今日に至るまで、夫婦別姓である。父権社会化がさらに弱い日本は、かつては重系(双系)社会であったようだ。例えば、葛城県の割譲を推古天皇に要求した蘇我馬子は次のように述べている。

葛城県者元臣之本居也。故因其県為姓名。

葛城県は、もともと私の本拠地だ。だから、その県名を自分の姓名にしている。

ここからもわかるように、父が蘇我で、母が葛城だった馬子は、氏としては蘇我を、姓としては葛城を称していた。今日、氏も姓も同じ言葉として使われるが、本来は、氏が父系の出自を、姓は、その字が示すごとく、生んだ女、つまり母系の出自を表した[通志:氏族略序]。この時代、妻問い婚、子の母方居住、女性の財産相続権など、母系制家族制度の名残が強かった。

姓(かばね)は、やがて職掌や格式を表す形式的な称号となり、父系の出自が重視されるようになる。日本では、明治の時代になるまで、中国や朝鮮でと同様に、夫婦別氏で、氏の父系継承が行われた。明治政府は、明治9年の太政官指令では、従来の夫婦別氏制度を踏襲することを布告したが、明治31年に公布された民法で初めて夫婦同氏を規定した。欧米の制度のまねである。

日本の夫婦別姓(別氏)推進者たちは、「伝統的な家制度」からの解放を主張しており、決して、明治時代以前の伝統への回帰を主張しているわけではない。欧米で、夫婦別姓の動きが出てきたから、それを模倣したいというのが実情である。日本は、いつでも、中国や欧米といった、その時代の先進国の習慣に合わせようとしている。

少なくとも先進国においては、個人を常に家系において位置づけなければならない時代は終わった。ちょうど、子供が、母の影響、父の影響から脱して、個人として自立するように、人類も、母系でトーテムを受け継ぐ時代から、父系で氏を受け継ぐ時代を経て、氏名を個人を指す記号として使う時代に到達している。

日本には、欧米のように、相手を個人名(ファースト・ネーム)で呼び合う習慣がない。あたかも氏が個人名であるかのように使われる。それならば、例えば、「山田花子」の場合、「山田」を氏、「花子」を名として扱わずに、「山田花子」全体を名として、氏は「?家所属」というように別に表記するようにすればよい。そうなれば、山田花子さんが鈴木太郎さんと結婚して、自分が姓を変えることに同意しても、「山田家所属の山田花子」が「鈴木家所属の山田花子」になるだけで、呼称の不連続が起きることはない。これならば、現行の制度をあまり変更することなく、夫婦同姓の問題点を解決することができる。

3. 戸籍名の自己決定権

夫婦別姓問題の本質は、自分の氏姓を維持する権利と変更する権利の両方を含む、命名の自己決定権にある。本稿を終えるにあたって、問題を一般化し、自分の名前を自分で決める権利はどこまで認めることができるかを考えてみよう。

現在、日本では、個人のアイデンティフィケーションは、住民票コードを通じてなされており、かつての通名と戸籍名の関係を、戸籍名と住民票コードの関係に置き換えることは、技術的には可能である。にもかかわらず、戸籍名は、住所と同じように簡単に変更することはできない。だが、住民票コードを導入した以上、変更履歴を残すなどの措置を講ずれば、戸籍名を変更しても不都合は生じないはずである。

他方で、通名は、戸籍に登録されないために、簡単に変えることができる。一部のマスコミが、被疑者となっている在日外国人の通名しか報道せず、実名が報道される日本人と比べて不公平だという指摘がある。もっとも、すべてのマスコミに実名報道を義務付けるわけにもいかない。この問題は、日本人の戸籍名も、在日外国人の通名と同様に、容易に変更可能にすれば解決する。

戸籍名を簡単に変えることができるようにするならば、犯罪者が増えると懸念する人がいるかもしれない。しかし、実名報道のおかげで、刑期終了後も社会復帰ができなくなり、生活のためにさらに犯罪を繰り返すといった悪循環が生じている。本来、犯罪は、刑期の終了とともに清算されるべきであり、犯罪者に、戸籍名を変更して、人生をマイナスからではなくてゼロからやり直すチャンスを与えてもよいのではないだろうか。

結婚した後も、自分の姓を変えたくない、あるいは、自分の氏名が気に入らないので、変えたいといった要望に対して、現在の日本の戸籍はあまりにも柔軟性を欠いている。自分の氏名を自分で決める権利は、もっと尊重されるべきだ。そうすれば、親から付けられた名前に不満があるとき、子が自分の名を変えるといったことも可能になる。