小文字の他者と大文字の他者
鏡像段階の子供は、想像界において母のファルスと自己同一するが、父が象徴界においてライバルとなるやそれが不可能となり、去勢に怯えるようになる。子供はどうすれば現実界においてファルスと自己同一することができるようになるのか。ラカンの理論をもとに、欲動の対象である小文字の他者と媒介的第三者としての大文字の他者が果たす役割を考えてみたい。
1. 想像界における媒介的第三者
子供は、産まれて間もないころ、母親に栄養および愛情の点で依存する。子供は口唇や肛門に、おしゃぶりをしたり排泄物を貯めたりするときに性的快感を得る。母子の間には、愛情の交換関係があって、母親が母乳を与えてくれるお返しとして、糞尿を贈り物として提供しているのだと子供は勝手に考えている。もちろん母親にとっては赤ん坊の笑顔が何よりもの報酬なのであるが、こうした男根期以前の互酬性のレヴェルでは、母子の愛情関係は安定している。
しかし子供はやがて母親に何かが欠如していることに気が付く。男の子が、母親に欠けていているがゆえにそれを補うべく想像的に自己同一する対象はファルスである。ファルスとは、男根を意味するギリシャ語のファロス(φαλλός)に由来する精神分析の用語である。フロイトがハンス少年の観察で詳述しているように[1]、男の子はペニスになみなみならぬ関心を寄せ、そして女の子がペニスを持たないのを目撃すると衝撃を受ける。その子は父親によって去勢されたのではないかという思いが頭をかすめるからだ。
もっとも最初のうち、男の子は、その女児はまだ小さいからペニスも未発達なのだと理屈付けて自分を安心させようとする。男の子はやがて成人した女性である母親にもペニスがないことを知り、愕然とするが、今度は自分が母親のペニスとなって欠如を補おうとするようになる。一方、女の子は自分にペニスがないことに劣等感を持ち、自分も欲しいというペニス羨望を持つようになる。フロイトによれば、女の子が後に結婚して子供(特に男の子)を産むのは、この願望を満たすためである[2]。男の子が、母親の期待に応えて立身出世しようとするのは、自らが母親のたくましいペニスとなって、母親の欲望を満たそうとする欲望に基づいている。
このように、母親と男の子との愛情関係は、想像的ファルス(phallus imaginaire)を媒介的第三項にして成り立つようになる。以下の図はこの男の子の想像が作り出す三角形を視覚化している。
子供(Enfant)は、自分を母親(Mère)から愛される受動的主体(assujet)と想像する。つまり、子供は、自分が欲望する対象である母親によって欲望されている対象であることを欲望する。そのような対象としての母親は、上掲の「想像界の三角形」の図では a(autre 小文字の他者)と書かれているが、ラグランド=サリヴァンの巧みな英語表現を用いるなら、m(Other)、つまり《他者としての母親=母親としての他者》である。この m(Other)という表記法は、「人間の主観は、最初は、対象的な人格、普通は母親との同一化によって自己を認知するようになるのだという考えを表現しようとしたものである[3]」。
m(Other)において、m が小文字で、Other が大文字であることに注意しよう。ラカンの表記では、大文字と小文字はシニフィアンとシニフィエ(意味するものと意味されるもの)の関係にある。これは、ソシュールから借用した用語であるが、ラカンはソシュールとは異なる意味で用いているので、注意が必要である。
母親自体は大文字の他者 (Other = Autre) であるが、母親において見出される自己同一可能な対象は、小文字の他者である。だから、m は小文字で、 moi(英語の myself に相当する対象的自我)の頭文字と読めるようにしている。幼児にとって、母とは鏡に映し出された自分自身の姿を意味し、幼児は鏡像を通して自分自身を認識する。それゆえ「想像界の三角形」の図では、子供は主体的自我(Je)ではない。主体は、この図で S (Sujet) と記された想像的ファルス φ である。子供は、a’(他者の他者)または moi(対象的自我)と表記されている。幼児に限らず、人は一般に自分自身を直接見ることはできず、鏡などの媒体を通してしか自分を認識できない。このことは非光学的な意味でも成り立つのであって、他我の認識なくして自我の認識はないと言ってよい。
ラカンによれば、子供にとって自我は最初他者として現れる。幼い女の子は、自分のことを指し示すのに、「私は」とは言わずに、例えば「さちこちゃんは」などと他者が呼びかけるときの言い回しを用いる。
このようなことはいかにして可能なのか。それは人間の対象的自我が他者であり、初めのうち主体はむしろ他者の形態を取っていて、自我固有の性質を出現させたりしないことによってである。主体はもともと欲望のばらばらな集まり ― これが“寸断された身体”という表現の本当の意味だ ― であり、主体を最初に総合するのは本質的に他者であって、自我は疎外されている。欲望する人間主体は、他者が主体に統一を与えるかぎり、他者という中心の周辺で構成される。主体が最初に接近する対象は、他者が欲望する対象としての対象である。[4]
ピアジェは、子供はもともと自己中心的で、成長の過程で次第に世界観を脱中心化していくと主張したが、そのような発達心理学は、ロビンソンクルーソーの物語から説明を始める経済学やコギト・エルゴ・スムを第一原理とする哲学と同様に、人間存在の根源的他者性を無視している。
人間が自分の存在を自分の意識によって形成したという幻想は、人間は、彼の同類との想像的関係に特有な裂け目の通路[パロール]を経てこそはじめて、主体としての象徴的秩序に入ることができたという事実から[事後的に]生じる。[5]
他者の存在は、個体発生的にも系統発生的にも最初から自明で、自我の存在は、その後から発見される派生的なものであった。さまざまな懐疑論が哲学の歴史にはあったが、他者の存在を疑う独我論は、デカルトの時代になるまで現れなかったことがそのことを系統発生的に裏付けている。個体発生的には、ラカンが謂う所の鏡像段階における幼児の自己認識によって示される。
鏡像段階とは、幼児が鏡に映る自分の像を自分のものとして確認して歓喜する生後六か月から一八か月ぐらいの期間のことである。この現象自体は、ラカン以前から認識されていたが、ラカンは、そこに光学的な意味以上のものを読み取った。幼児は、まなざしを振り向けたり、声で呼びかけたりといった母親の振る舞いの中に自己を見出す。反対に、幼児が泣き叫んでも、母親がそれを無視するなら、幼児は、鏡を覗いても、そこに何も映っていないような体験をすることになる。幼児が泣き叫ぶのは、必ずしも物質的な欲望を満たそうとするためだけではない。母親にかまってもらうことで、自分の存在を確認しようとしているのだ。
だから、育児放棄は、たんに栄養失調といった肉体的問題をもたらすだけでなく、心の問題をももたらす。大人でも、頭越しに物事が決められると「俺は聞いていない」と不満を口にする人がいるが、そういう人は、自分の要望が反映されないことを問題視しているのではなくて、自分の存在が無視されることを怒っているのである。他者を通じて自己を確認するということはそれぐらい重要なのである。
2. 象徴界における媒介的第三者
母子の関係 a-a’ は鏡に映されたように対を成しているけれども、この交換関係は無媒介ではなく、a’ は第三項の φ に自己同一化することによって a の愛の対象となろうとする。しかし子供の空想と願望を裏切るように、母親の愛は父親(Père)、つまり彼女の夫に向けられる。
なぜか。それは、もしそう言ってよければ、ファルスはぶらつくものだからだ。ファルスは他の場所にある。精神分析学がそれをどこに位置付けているのかは周知の通りであって、所持者とされるのは父親である。この所持者を巡ってこそ、子供においてはファルスの喪失、返還要求、剥奪が始まり、母親においてはファルスを持たないことの不安やファルスへのノスタルジーが始まる。[6]
私(子供)にとって父親はライバルになるのであって、このエディプス的三角関係を表したものが以下の「象徴界の三角形」の図である。父は、象徴的ファルス(Phallus symbolique)であり、小文字の他者である象徴的母(Mère symbolique)が欲望する大文字の他者(A=Autre)である。幼児は、そうした父を自我理想(Ichideal/idéal du moi)とする。
私は、もはや小文字の φ のときのように、父親を象徴する大文字の Φ に自己同一化することはできない。かくして、私は母親の欲望の対象である受動的主体(assujet)から母親を欲望する能動的主体(sujet)へと変貌する。これに対して父親は、私の欲望を否定する抑圧者として登場する。私は父によって去勢されるのではないかという恐怖に怯える。父は私にとって尊敬と憧れの対象であるが、しかし同時に憎悪と恐怖の対象でもあるという両価感情(Ambivalenz)は、想像界の三角形と象徴界の三角形を、つまり φ と Φ を重ね合わせてみればよく分かる。
子供は母親の欲望の対象となっている父親に憧れと憎悪の入り混じった感情である嫉妬心を抱き、父を殺害して母と結婚したいというエディプス的欲望を抱く。このこと、つまり象徴界の三角形に想像界の三角形を重ねることは実際には不可能であるから、想像界の三角形 iφm(赤い三角形)は、象徴界の三角形 MΦI(青い三角形)に対して線対称に裏返しにされる。これが以下の図の主旨である。この図における I は想像界(Imaginaire)、R は現実界(Réel)、S は象徴界(Symbolique)を表し、R は表のS と裏の I を隔離している。
三角形 I と三角形 S との中間に鏡を置けば分かることだが、両者は鏡像関係にある。そもそも三角形 I 自体が鏡像関係を表しているのだから、この鏡像関係は、鏡像関係の鏡像関係、謂わば、メタ鏡像関係と評することもできる。子供は、現実界の裏側にある想像界の三角形を現実界の表にある象徴界に重ね合わせようとする。それは、ちょうど自我理想としての鏡像に自分を重ね合わせようとするのと同じことなのだが、左右が厳密に対称でない以上、自分を鏡像と完全に重ね合わせることはできない。同様に、想像界の三角形は、二次元の平面上でどう動かそうが、象徴界三角形と完全に重ね合わせることはできない。
「抑圧された想像界」の図は、ラカンが謂う所のシェーマRに相当する。シェーマRでは、想像界は点線で描かれている。
想像界のファルス(φ)の位置にある S は、大文字の主体(Sujet/Subjekt)の頭文字であると同時にエス(Es)の意味も兼ねた記号である。大文字の主体であるエスは、夢や機知や錯誤行為などの無意識のディスクールを通して表層の意識に語りかける。I は自我理想で、自我理想 は、後に超自我(sur-moi/Über-Ich)として内面化される象徴界の P(父親 Père)と関係がある。P は、象徴的ファルス(Phallus symbolique)の頭文字でもある。
超自我は自我理想の担い手であって、自我[Ich]は自我理想に即して自己を測り、自我理想を模範として努力し、絶えずさらに完全であれという自我理想の要求を満たすべく骨を折る。明らかに、この自我理想はかつての両親の表象の名残であり、子供が両親に認めたあの完全性に対する驚嘆の表現である。[7]
「自我理想 Ichideal/idéal du moi」は「理想自我 moi idéal/Ideal-Ich」から区別されるべきである。文法的なことを言えば、フランス語でもドイツ語でも“idéal/Ideal”は名詞としても形容詞としても使われる。前者では名詞で「自我の理想 das Ideal des Ichs」、後者では形容詞で「理想的な自我 das ideale Ich」のことである。もっともこれだけでは違いが明確でないし、事実、フィッシャー版フロイト全集の編集者は、自我理想・理想自我・超自我の三つには本質的な区別はないと『自我とエス』の序論の中で述べている[8]。しかしこの三つは同じでないし、次のフロイトからの引用文を読めば、象徴界の自我理想と想像界の理想自我の相違は明らかである。
幼少時代に現実の自我が享受した自己愛はこの理想自我に向けられている。ナルシシズムは、この新たな理想的自我に移行して現れるのだが、理想的自我は、幼少期の自我と同様に、全ての価値ある完全性を所有している。リビドーの領域では常にそうなのだが、ここでも一度享受した満足を放棄することは不可能であることが分かる。人間は幼少時代のナルシシスティックな完全性をなしですまそうとはしないのであって、成長期にさまざまな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりして、その完全性が維持できなくなると、それを自我理想という新しい形式の中に、もう一度獲得しようとする。彼が自分の理想として目標に掲げるのは、そこにおいては彼が自分自身の理想であった、幼少時代の失われたナルシシズムの代替物である。[9]
ナルシスが水面に映った自分の容姿に惚れ込んだように、幼児は鏡に写し出された自分の理想自我に陶酔する。ボールドウィンの観察によれば、生後6ケ月の鏡像段階の「幼児は、自分のものとされる像の動きと鏡に写し出された彼の周囲との関係をはしゃぎながら確かめる[10]」。もっとも、幼児は、鏡の中に自分を見出したから喜んではしゃぐのではなくて、はしゃぐことによって自分の意思で鏡の映像に変化をもたらすことのうちに自己を見出しえるから喜ぶのである。ある心理学者は、ベッドに横たわる幼児の足に紐を付け、その紐を天井から吊してある玩具に結合させた。すると幼児は、最初偶然に、次に意図的に足をばたつかせて、玩具がガラガラと音を立てて動くたびごとに喜びの声を上げた。しはらくして実験者は紐を切った。すると幼児がいくら足を動かしても、玩具に変化がないので、幼児は不機嫌になり、しまいには泣き出してしまったとのことである。「自分は世界から切り離されている」「自分は存在しない」という疎外感を、我々大人も、例えは冗談を言ったが誰も反応しないとか、挨拶をしたけれども無視されたなどの場合に感じる。他者を通じての自己同一化ができなくなると、それは精神病の原因に成りうる。
幼児と母親の愛情のコミュニケーションも同様にナルシシスティックである。泣き声をあげる幼児に対して母親が母乳を与えたりおしめを取り替えたりして世話をすると、幼児は満足そうな顔をする。幼児は物質的な欲望が満たされただけではなくて、ちょうど身体を動かすと鏡がそれに反応して像を変化させるように、泣き声に対して母親が反応してくれたこと自体に精神的な満足を感じるのである。
これはナルシシズムではないとひとは思うかもしれない。しかし前エディプス期の母子関係は自他未分で、未開民族の成人が「私はインコである」と考えているように、「私は他者である」が幼児の意識なのである[11]。つまり鏡像段階の幼児の意識においては、自己が他者を欲望することと他者が自己を欲望することが相互に反転可能であって、それは他者の中に自己を見出し、自己の中に他者を見出す愛の弁証法的反照関係である。この自他の同一化作用のゆえに、幼児の性愛はナルシシズム的なのである。想像界の母親の位置にあった a は、実は母親 M の中に見出された理想自我であって、ラカンはそうした自我のイメージを、イメージを意味するラテン語の imago(ユングの用語)とし、その頭文字を取って i と表記している。
先のフロイトからの引用文にあった「成長期にさまざまな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりして、その完全性が維持できなくなると、それを自我理想という新しい形式の中に、もう一度獲得しようとする」というくだりは、男根期の去勢コンプレックスによるナルシスティックな理想自我(母親との同一化)の喪失と自我理想(父親との同一化)への憧れを意味している。幼児 a’ は、a を i から M へ移行させるために、m から I に接近しようとする。しかし現実界 R は想像界 I と裏返しにされた(潜在化された)象徴界 S との連続化を阻む。では、エディプス的欲望である、象徴界の P から想像界の φ への移行はいかにして可能か。
3. 現実界における媒介的第三者
ラカンは、シェーマRの註の中で、I と i、M と m という大文字と小文字のペアをつなげるとメビウスの輪になると述べている[12]。この時、理想自我が自我理想となる(i=I)ことを媒介にして、自我が母親と結ばれる(m=M)。 以下の図は、 「抑圧された想像界」の図(またはシェーマR)における、I(自我理想)と i(理想的自我)、M(母)と m(自我)を結びつけた結果を表したものである。メビウスの輪では、表と裏の差異が消滅して、表面が一つになるので、表の象徴界から裏の想像界へ、そして裏の想像界から表の象徴界へ自由に移動できる。
子供は実際に父親を殺害して母親と結婚しなくても、現実の父母の象徴的な関係からの想像によって、父親との自己同一が可能となる。メビウスの輪を作ることに失敗した場合はどうなるのだろうか。そのときには、シニフィアン(象徴界)とシニフィエ(想像界)との関係が切断され、精神病の原因となる。象徴界から切り離されるとパラノイアとなり、想像界から切り離されると精神分裂病になる。だから「パラノイア者は想像的なものを象徴化しようと努力するのに対して、精神分裂病者は象徴的なものを想像化しようと努める[13]」のである。
小出は、“i=I・m=M”というメビウスの帯は「もはや三次元空間では考えることはできない[14]」と言っている。そこで私は、本当にメビウスの輪が作れないのかどうかを「実験」することにした。以下は、透明なペットボトルを切り取り、表から象徴界の三角形 MΦI を書き込み、裏から想像界の三角形 iφm を書き込み、I と i、M と m が対応するように帯を捻じ曲げ、ホッチキスで止めて作った試作品である。これを見てもわかるとおり、三次元空間でシェーマRからメビウスの輪を作ることは可能である。
シェーマRは、ほぼそのまま以下のシェーマLとして理解することができる。Lはラカンの頭文字で、これはラカンの理論の代表的なシェーマである。
シェーマLにおいては、メビウスの輪の形成によって、小文字の主体(moi 対象的自我)は a’ ではなくて a となっており、逆にイマーゴとしての他者は a に相当する記号が付されるというキアスムが生じている。シェーマL内の矢印について、ラグランド=サリヴァンは次のように説明している。
人間の存在を可能ならしめているのは何かという問いは、大文字の他者(A)の位置から立てられる。対象的自我[moi]は、疎外された主体であると同時に大文字の他者(A)の客体でもある。Sは語りの主体、私[Je]を表し、この主体はそのディスクールを小文字の他者に向け、そして小文字の他者は、今度は大文字の他者(A)の対象的自我への影響を触媒する。[15]
つまり、A → a の影響関係は、A → S → a’ → a という弁証法的迂路を経て可能となる。シェーマLの左上がりの矢印である「無意識[l’inconscient]、それは大文字の他者からのディスクール[le discours de l’Autre 大文字の他者についてのディスクール]である[16]」が、大文字の主体は、その大文字の他者からのディスクールを小文字の他者に向け、そしてそのことを通して小文字の他者は対象的自我と鏡の関係(シェーマLにある想像的関係 relation imaginaire)を持つというわけだ。
ラカン自身は四項の関係を次のように説明している。
我々は実のところ最初に、小文字の他者との鏡の関係を通して、対象的自我の機能に対して持つ小文字の他者の支配的地位を、フロイトにおいて重要であったナルシシズムの理論に対しても再び与えようとした。小文字の他者との鏡の関係から、分析の経験によって明らかにされた全ての空想作用を事実上小文字の他者に帰することができるのは、この図が説明するように、当の鏡の関係が大文字の主体の此岸と大文字の他者の彼岸の間に割って入ることによってである。その際、パロールが鏡の関係を実際に挿入するのは、パロールに基づく存在者たちが小文字の他者の思うがままになるかぎりにおいてである。[17]
シェーマLでのディスクールの関係は、A の位置に精神分析家(の権威)を置いてみると分かり易い。フロイトのような精神分析家は、自由連想法によって患者に思いつくがままに語らせる。フロイトと患者の対話は一見すると A → a の関係であるかのようであるが、しかしフロイトが語り掛けているのは実は自我ではなくてエスである(A → S)。エスは自我とは異なって欲望を検閲することなくありのままに話し、リビドーが小文字の他者 a’ に向けられることを暴露する(S → a’)。こうして、a’ と鏡像関係にあることを知った患者 a は、この事実を抑圧した結果生じてきた精神病を治療することができるようになる。引用したラカンの文章は、自我が隠蔽しようとすることによってあらわにする、そこから逃れようとすることによってかえって自我を束縛する小文字の他者が精神分析の主題であることを述べている。
シェーマLは、臨床的な精神分析を説明する図式として使用できるけれども、これをコミュニケーション一般のモデルとして解釈することはできないであろうか。これが次の我々の課題である。シェーマ R では、“A/S”が、“象徴的ファルス Φ/想像的ファルス φ”として“シニフィアン/シニフィエ”の関係にあるのだが、ラカンが謂う所の“シニフィアン/シニフィエ”の関係は、ソシュールが謂う所の“シニフィアン/シニフィエ”の関係とは異なるので、後者の軸を前者とは別に導入することにしたい。するとシェーマLは以下のような正八面体のモデルの中に位置付けられる。
このモデルは、私が『システム論序説』で提示した、超越論的間主観性の四角錐モデルの一部として位置づけることができる。
但しその際には、八面体モデル図内の矢印が示すように、自我のエス(S-a)と他我のエス(S-a’)に分けて、たまたま同じ記号の読み(S=ES エス)になるのだが、 それぞれ四角錐モデルの“ESE”と“ESA”に対応させる必要がある。四角形 a・SA・a’・SE は、フロイトならば W-Bw と記したであろう《知覚=意識》の領域で、この平面より下は無意識、上は超自我の領域を表している。一方、四角形 A・SE・S・SA は、a に a’ を写し出す鏡であると言ってよい。図中の M は鏡(miroir)の頭文字であるが、同時にメディア(media)の頭文字である。つまり、この鏡は、a-a’ というコミュニケーションのメディアであり、したがって象徴的父親としてのファルスは貨幣であるということだ[18]。
ここでもう一度、コミュニケーション・メディアと形式の区別を思い返してもらいたい。空気はそれ自体音でないがゆえに、形式の音を伝えるメディアでありうる。言語はそれ自体真でも偽でもないから、形式である真偽を表現するメディアでありうる。貨幣はそれ自体商品価値を持たないために、形式である商品価値を測定するメディアでありうる。そして鏡についても、鏡自体は特定の映像を持たないがゆえに、あらゆる像を映し出すことができるメディアであると言える。
ラカンは鏡に映し出された像を小文字の他者としているのに対して、大文字の他者という媒介的第三項は鏡それ自体として位置付けている[19]。我々はまさに父親を行動の鑑(かがみ)として成長するのである。エディプスは、自分が父親を殺害したことを知ったとき、自分の手で自分の目を潰した。フロイトの解釈によれば、これは去勢を意味する。《父親=ファルス》を失ったとき、ちょうど鏡を失ったときのように、光は失われ、何も見えなくなる。
母親と父親との幼児期における三角関係は、その後思春期になって通常の恋愛を始めるときにも反復して現れる。恋人や結婚相手は無媒介には得られない。結婚は《贈り物》の交換によるコミュニケーションであった。すべてのコミュニケーションにおいてそうであるように、結婚のコミュニケーション・メディアも、《資本を犠牲にすること》であり、このメディアによって愛情という形式が伝達される。
八面体モデル図 の“SA”は記号としての《資本の犠牲》であって、“SE”はそのシニフィアンが意味するところの私の愛情であり、その愛情を小文字の他者が受け取るとするならば、a → SA → SE → a’ → a という回路が成り立つことになる。SA は A から、SE は S から分化したのだから、この回路は当然、a → A → S → a’ → a という回路と二重写しになっている。この後者の回路は、超自我が提示する自我理想を追求することによって、無意識のレヴェルでの理想自我への思慕を実現するというプロセスである。資本を犠牲にするためには、あらかじめ資本を蓄積しなければならない(エントロピーを増大するためには、あらかじめネゲントロピーを生産しなければならない)のであって、性愛を断念するような努力をして(例えば高学歴・高収入などの)資本を築いた者が、かえって性愛を手に入れるという逆説がこの回路にはある。
4. 質疑応答
以下の議論は、システム論フォーラムの「コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者」からの転載です。
「蕩尽と至高性」、「芸能人とはいかなる存在か」を読んだのですが、至高者、芸能人、スケープゴートなどが何を媒介するコミュニケーション・メディアなのかが具体的に理解できません。
永井俊哉「結婚の経済学」
経済的交換におけるメディアは貨幣であり、形相は価値であった。認識的交換におけるメディアは言語であり、形相は真理であった。
これに当てはめて、「~交換におけるメディアは大文字の他者(または権力?)であり、形相は~である。」と表現すると、~に当てはまる言葉は何になるのでしょうか?
それに関しては、「結婚の経済学」の次のページに相当する「復讐の経済学」を参照してください。それを読めば分かる通り、法的交換におけるメディアは刑罰としての苦痛であり、法的交換における形相、すなわち罪の重さは、刑罰としての苦痛によって計測され、その媒体を通じて加害者と被害者の間で交換されます。権力者は、その交換を可能にする主体で、交換媒体と不可分の関係にあるとはいえ、両者は概念的に区別されるべきでしょう。大文字の他者(Grand Autre)は、ラカンの用語で、本来、幼児にとっての母親に相当するのですが、後にその役割は父親に引き継がれます。権力者が父なるものとして表象されるのはそのためです。
ご返答ありがとうございます。大文字の他者はメディアではなく、それを可能としている存在であることが理解できました。このトピックのテーマ「コミュニケーション・メディアとしての大文字の他者」という言い方も間違いでした。
永井俊哉「小文字の他者と大文字の他者」
空気はそれ自体音でないがゆえに、形相の音を伝えるメディアでありうる。言語はそれ自体真でも偽でもないから、形相である真偽を表現するメディアでありうる。貨幣はそれ自体商品価値を持たないために、形相である商品価値を測定するメディアでありうる。そして鏡についても、鏡自体は特定の映像を持たないがゆえに、あらゆる像を映し出すことができるメディアであると言える。
ラカンは鏡に映し出された像を小文字の他者としているのに対して、大文字の他者という媒介的第三項は鏡それ自体として位置付けている [Lacan: Ecrits. p.678] 。我々はまさに父親を行動の鑑(かがみ)として成長するのである。
私は、この文章を読んで、鏡すなわち大文字の他者が「あらゆる像」という形相を表現するコミュニケーション・メディアであると理解したのですが、「あらゆる像」が具体的に何なのか想像できなかったので、一例を示していだたこうと思い質問しました。
ちなみに、大文字の他者を鏡それ自体とするのはラカンの考えで、ここにおいては、鏡それ自体=コミュニケーション・メディアではない、ということでよろしいでしょうか。
芸能人が造語を使うことで、視聴者の間でその造語を使って真偽の交換をするとき、その造語がメディアであり、それを可能ならしめたのが芸能人(大文字の他者)であるといえると思いますが、これ以外のメディアについて芸能人においては想像できないのですが、ご教示いただけますか。
申し訳ございません、「読んだのですが」と言いましたが、正確に読めていませんでした。
芸能人は、カタルシスという形相を表現するメディアでした。
また、「あらゆる像」とは自己像のことだと思いますが、それを表現するメディアとしての大文字の他者とはどういったものなのかが当初の疑問でした。
貨幣に例えれば、「貨幣」が「大文字の他者」で、「3千円の価値」が「自己像」という感じでしょうか。
大文字の他者の定義がよく分かりません。
「コミュニケーション・メディア」はルーマンの用語で、「大文字の他者」はラカンの用語で、彼らが使っていた時の本来の意味と、私が借用することで担わせようとしている意味との間にギャップがあるために、イスさんが混乱することになったのだと思います。一般的に言って、思想家が考案した用語は、思想家の理論と不可分に結びついており、その用語を本来の意味で使おうとするならば、その思想家の理論をそのまま受け入れざるを得なくなります。だから、独自理論を構築しようとするのであれば、そうした借用はできるだけ避けるべきであり、今後、自分のシステム論を語る上で、「コミュニケーション・メディア」や「大文字の他者」といった用語を使わず、自分で独自に定義した用語を使っていきたいと思います。それならば、最初からそうしろと言われそうですが、『社会システム論の構図』は、私が学生だった時に書いた論文がもとになっており、当時は、著名人の有名用語を使ってしか自分の理論を語ることが許されないような状況だったことをご理解ください。
さて、ご質問の趣旨は、芸能人のシステム論的な位置付けのようですが、これに関しては以下のように理解してください。文化的な交換において、交換媒体は言語であり、形相は意味です。有意味な情報が持つ価値は、賞賛や名声といった文化的価値、ないし経済的価値や政治的価値などを対価として交換されます。個別的な言語は、翻訳というメタレベルの交換では交換される対象となり、その価値は、その言語の使用者、その言語を使用した作品の価値の大きさによって決まります。それは、個別的な貨幣は、為替というメタレベルの交換では交換される対象となり、その価値は、その貨幣の発行者の収入と資産の大きさによって決まるのと同じことです。文化システムにおける著名な芸能人は、経済システムにおける大企業に相当します。信用度の高い企業は、社債や株といった独自貨幣を発行することができるし、人気のある著名な芸能人も、独自言語をはやらせることができます。
こう考えるならば、なぜ学生は「著名人の有名用語を使ってしか自分の理論を語ることが許されない」のかもお分かりかと思います。芸能人も、学者も、企業も同じです。米国ならともかく、日本では、駆け出しのベンチャー企業が、株や社債を発行しても、相手にされません。中小企業は、大企業の下請けから始めないといけません。私も、日本のアカデミズムの慣例に従って、大思想家の下請けから始めたのですが、現在では、受け入れられるかどうかは別として、独立しようとしているので、下請けしていた頃とは切り離して考えてください。
ご説明、ありがとうございます。芸能人と言語の関係については、理解が深まりました。著名な芸能人は、独自言語を交換媒体として可能とする「権力者」と言っていいでしょうか。
カタルシスの媒体は、同一化可能な像(例えば、TVドラマでの俳優や、自然ドキュメンタリー番組での動物など)であると言えるはずですが、この媒体における権力者にあたるものは何ですか?
永井俊哉 さんが書きました:
「コミュニケーション・メディア」はルーマンの用語で、「大文字の他者」はラカンの用語で、彼らが使っていた時の本来の意味と、私が借用することで担わせようとしている意味との間にギャップがある
「小文字の他者と大文字の他者」でのシェーマNの説明などにおいて、永井先生が「大文字の他者」という用語に担わせていた意味を、教えていただけますか。
イス. さんが書きました:
著名な芸能人は、独自言語を交換媒体として可能とする「権力者」と言っていいでしょうか。
権力者の権力は、権力者が所有する資本(経済資本のみならず、文化資本や政治資本など)に基づいています。芸能人が所有する文化資本が大きければ、その人は文化的な権力者ということができます。権力とは、他者を意のままに動かす力であり、著名な芸能人は、実際に多くの人を動かしています。
イス. さんが書きました:
カタルシスの媒体は、同一化可能な像(例えば、TVドラマでの俳優や、自然ドキュメンタリー番組での動物など)であると言えるはずですが、この媒体における権力者にあたるものは何ですか?
スケープゴートは、「スケープゴーティングの対象」とか「カタルシス効果を引き起こす原因」とでも呼ぶべき存在者であって、「カタルシスの媒体」という言い方はおかしい。
イス. さんが書きました:
「小文字の他者と大文字の他者」でのシェーマNの説明などにおいて、永井先生が「大文字の他者」という用語に担わせていた意味を、教えていただけますか。
「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」というような意味で使っていたのだろうと思います。
永井俊哉 さんが書きました:
「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」というような意味で使っていたのだろうと思います。
「交換を可能にする権力者」と「交換の媒体」という意味が、一つの語に収まっています。交換を可能にする権力者は、概して、交換媒体としての権力としても機能していると理解してよろしいでしょうか。ちなみに交換媒体としての権力という語は、
永井俊哉「主人と奴隷の弁証法」
権力的なコミュニケーションでは、資本の差異がメディアとなって、主人の命令メッセージが奴隷に伝達され、奴隷の行為を規定する。
ここでいう「資本の差異」が、それであると思って使っています。また、ここでいう「命令メッセージ」とは、権力が人を服従させる作用であると解釈しております。
つまり、「交換を可能にする権力者」という意味での大文字の他者が可能にしている媒体の形相と、「交換の媒体」という意味での大文字の他者(媒体)の形相は、異なるものではないか、と疑問に思っています。
「交換を可能にする権力者」という意味で「大文字の他者」が使われるとき、著名な芸能人も大文字の他者ということになります。大文字の他者は、あらゆる像を媒介するメディアでした。主人と奴隷においては、社会としての「大文字の他者」(共通の第三者)が、「自分は主人か奴隷か」という自己像の媒体になっていたと思います。
永井俊哉「主人と奴隷の弁証法」
a-a’ の関係では、奴隷は社会から奴隷と判断されることによってのみ奴隷であり、主人は社会から主人と認められることによってのみ主人であるというように、鏡像を通して社会的自己同一がなされる。
著名な芸能人は、独自言語を媒体として可能としつつ(権力者としての大文字の他者でありつつ)、その芸能人と同一化する人にとっては鏡という媒体として機能する(交換の媒体としての大文字の他者である)、という理解でよろしいでしょうか。
また、著名な芸能人はその高資本(大きい権力)をもつからこそ、二者間の承認において共通の第三者(鏡という媒体)として機能できるのですか?
イス. さんが書きました:
「交換を可能にする権力者」と「交換の媒体」という意味が、一つの語に収まっています。交換を可能にする権力者は、概して、交換媒体としての権力としても機能していると理解してよろしいでしょうか。
「または」は、論理学的には選言の結合子ですから、この結合子によって結合されている「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」は同一ではありません。英語で言えば、“or”であって、“namely”ではありません。日本国内における経済的交換を例にとると、「交換の媒体」である日本銀行券、「交換を可能にする権力者」である日銀および日本政府、「その権力を象徴する権威」である福沢諭吉の肖像画とか日の丸の国旗とかは、人々の意識においては渾然一体になっているかもしれませんが、概念的には区別するべきだということです。
永井俊哉 さんが書きました:
「または」は、論理学的には選言の結合子ですから、この結合子によって結合されている「交換の媒体」または「交換を可能にする権力者」または「その権力を象徴する権威」は同一ではありません。
ご指摘ありがとうございます。以後、読み違えないよう気を付けます。また、私の質問の仕方が回りくどいために、ご迷惑おかけしたかもしれません。表のように表すと、以下の「?」の部分が分かりません。
~的交換 | 形相 | 媒体 | 権力者 | 権威の象徴 |
---|---|---|---|---|
? | あらゆる像 | 鏡 | 父、神 | ペニス、十字架 |
? | 命令メッセージ | 資本の差異 | ? | ? |
「資本の差異がメディアとなって」という文は、具体的にどのような物体を想像すればいいのか難しく感じました。また、この2つの交換でそれぞれ、a と a’ は、何の所有権を放棄し、何を得ているといえますか。よろしくお願いします。
去勢期における交換の各要素は、次のようにまとめることができます。
交換の種類 | 形相 | 媒体 | 権力者 | 権威の象徴 |
---|---|---|---|---|
去勢期における愛の交換 | 欲動の対象 | 鏡 | 父 | 父の名 |
父の名(Noms-du-Père)というのはラカンの用語で、父の否(Non-du-Père)という意味もあります。母に甘えようとする子に対して、母が「お父さんがダメと言ってたでしょう」と父の名を引き合いにしてたしなめるような場面を想像してください。この場合、子は、想像の世界で母子の相思相愛という交換を成立させるしかありません。
ところで、「資本の差異がメディアとなって」という文は、どこにあるのでしょうか。検索してみたけれども、私の文には見当たりませんでした。
表の修正、ありがとうございます。ご返答いただいた内容について、もう少し考えてみます。とりあえず、「資本の差異がメディアとなって」という文の場所をお知らせします。
永井俊哉「主人と奴隷の弁証法」
ラカンがここで区別する“コード/メッセージ”は、より一般的には、コミュニケーションにおける“メディア/エイドス”の区別である。権力的なコミュニケーションでは、資本の差異がメディアとなって、主人の命令メッセージが奴隷に伝達され、奴隷の行為を規定する。権力・権力者・権力コミュニケーションの三つは、概念的には区別可能である。
御指摘の箇所を読み直してみましたが、これはラカンの『エクリ』からの引用のすぐ後に続く文で、ラカンが行っている《コード/メッセージ》、《大文字の他者/小文字の他者》の区別を再解釈するという文脈で出てきた文です。もとより当時の私自身、メディアと権力とエイドスの違いということはあまり意識していなかったようです。
コードは、行為の不確定性を縮減するという点で権力を有するという考えもあるでしょう。しかし、コードが権力を持つのは、そのコードの違反者が処罰されるからであり、処罰する権力は、コードそれ自体とは区別されます。物質とエネルギーとエントロピーが区別可能であるように、媒体と力と形相は区別可能であると言うことができるでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
母に甘えようとする子に対して、母が「お父さんがダメと言ってたでしょう」と父の名を引き合いにしてたしなめるような場面を想像してください。この場合、子は、想像の世界で母子の相思相愛という交換を成立させるしかありません。
「欲動の対象」を「交換」しているというイメージが湧かないのですが、別の状況における具体例を挙げていただけますか。「去勢期における愛の交換」ということは、「去勢後における愛の交換」ともいえ、社会人にとって一般的に見られる交換であると思いますので、一般的な私と他者の関係における例が見たいです。よろしくお願いします。
永井俊哉 さんが書きました:
物質とエネルギーとエントロピーが区別可能であるように、媒体と力と形相は区別可能であると言うことができるでしょう。
「~交換における媒体は権力である」 とか、「~交換における形相は権力である」という表現は、厳密には無いということになるのでしょうか。
イス. さんが書きました:
「欲動の対象」を「交換」しているというイメージが湧かない
相思相愛の交換とは、「「他者が私を欲望している」ということを私が欲望している」という鏡像的に反復される欲望の相互承認です。欲動の対象の交換ということに関して言えば、母乳に対するお返しとして糞尿を母にプレゼントしていると想像している乳幼児をイメージしてもらえばわかりやすいと思います。経済的交換も、「私が欲望する商品の所有者は、私が所有する商品を欲望する」という欲望の二重性の相互承認に基づいています。
イス. さんが書きました:
「~交換における媒体は権力である」 とか、「~交換における形相は権力である」という表現は、厳密には無いということになるのでしょうか。
最初の返信で書いた通り、法的交換における媒体は刑罰としての苦痛であり、法的交換における形相、すなわち罪の重さは、刑罰としての苦痛によって計測され、その媒体を通じて加害者と被害者の間で交換されます。権力とはその交換を可能にする力で、権力者とは、その権力を持つ主体のことです。それ以外の交換に関しても同じことが言えます。
永井俊哉 さんが書きました:
経済的交換も、「私が欲望する商品の所有者は、私が所有する商品を欲望する」という欲望の二重性の相互承認に基づいています。
その、私の目の前にまるで鏡があるかのような、他者との求め合う関係が成立していることは分かるのですが、「父」が可能としている媒体「鏡」が、具体的に何なのかが分かりません。銀行が貨幣を可能とするとき、貨幣があることで、そのような求め合う関係が成立しているので、貨幣も「鏡」と言えると思います。しかし、この場合、媒体は「鏡」とは言わずに「貨幣」となります。権力者が「父」である場合の媒体を、「鏡」といわなかったとき、それは具体的には何なのですか。
永井俊哉 さんが書きました:
欲動の対象の交換ということに関して言えば、母乳に対するお返しとして糞尿を母にプレゼントしていると想像している乳幼児をイメージしてもらえばわかりやすいと思います。
この交換は、欲動の対象を交換しているとは思いますが、その媒体は「贈り物」といわれるものではないですか。また、ここでは権力者によってルールが共有されているような普遍的な交換媒体は使われていないように感じてしまうのですが。
イス. さんが書きました:
銀行が貨幣を可能とするとき、貨幣があることで、そのような求め合う関係が成立しているので、貨幣も「鏡」と言えると思います。しかし、この場合、媒体は「鏡」とは言わずに「貨幣」となります。
「鏡」という言葉は象徴的な意味で使われているので、媒体は鏡であると言っても間違いではありません。
イス. さんが書きました:
ここでは権力者によってルールが共有されているような普遍的な交換媒体は使われていないように感じてしまうのですが。
糞尿を贈り物とするのは、フロイトの言葉では肛門期での話ですから、去勢以前の段階です。
5. 参照情報
- 永井俊哉『社会システム論の構図』Kindle Edition (2015/05/20).
- ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念 (上)』岩波書店 (2020/8/19).
- ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念 (下)』岩波書店 (2020/10/16).
- ジャック・ラカン『エクリ 1』弘文堂 (1972/5/25).
- ジャック・ラカン『エクリ 2』弘文堂 (1977/12/10).
- ジャック・ラカン『エクリ 3』弘文堂 (1981/5/20).
- ↑Freud, Sigmund. “Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben (>Der kleine Hans<)" in Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 8. 1996. S. Fischer Verlag.
- ↑Freud, Sigmund. Studien ueber Hysterie/Fruehe Schriften zur Neurosenlehre. 1991. Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 1. Werke aus den Jahren 1892-1899. S. Fischer Verlag. p. 562.
- ↑Ragland-Sullivan, Ellie. Jacques Lacan and the Philosophy of Psychoanalysis. 1986. University of Illinois Press. p. 16.
- ↑Lacan, Jacques. Le Séminaire Livre 3, Les Psychoses 1955-1956. 1981. Édition du Seuil. p. 50. この引用文に登場する「主体」と「他者」は全て小文字である。
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 53.
- ↑Lacan, Jacques. Le Séminaire Livre 3, Les Psychoses 1955-1956. 1981. Édition du Seuil. p. 359.
- ↑Freud, Sigmund. Studien ueber Hysterie/Fruehe Schriften zur Neurosenlehre. 1991. Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 1, Werke aus den Jahren 1892-1899. S. Fischer Verlag. p. 503.
- ↑Freud, Sigmund. Die Traumdeutung/Über den Traum. 1900. Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 2/3. S. Fischer Verlag. p. 280.
- ↑Freud, Sigmund. Die Traumdeutung/Über den Traum. 1900. Sigmund Freud Studienausgabe. Bd. 2/3. S. Fischer Verlag. p. 60-61.
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 93.
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 117-118.
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 553.
- ↑小出浩之. 「シェーマL ― ラカンの精神病論」in 『イマーゴ 1994年10月 臨時増刊号』 総特集: ラカン ― 精神分析の最前線. 青土社. 藤田博史編. p. 14. 小出氏のこの論文からは、シェーマRに関しても多くの教示を得た。
- ↑小出浩之. 「シェーマL ― ラカンの精神病論」in 『イマーゴ 1994年10月 臨時増刊号』 総特集: ラカン ― 精神分析の最前線. 青土社. 藤田博史編. p. 12.
- ↑Ragland-Sullivan, Ellie. Jacques Lacan and the Philosophy of Psychoanalysis. 1986. University of Illinois Press. p. 3.
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 16.
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 53-54.
- ↑栗本慎一郎『幻想としての経済』青土社(1980年)3.「貨幣のエロティシズム」は、貨幣の起源を女性性器ではなくて男性性器に求めている。
- ↑Lacan, Jacques. Écrits. 1966. Édition du Seuil. p. 678.
- ↑Guillaume Paumier, Madeleine Price Ball, Mariana Ruiz Villarreal. “Le stade du miroir selon Jacques Lacan" Licensed under CC-BY-SA.
ディスカッション
コメント一覧
と永井さんは記されていますよね。確かにシェーマRを出すときにラカンはメビウス構造について触れていますが、それとシェーマLの関連については直接的な言及は見つけられませんでした。このあたり、何かラカン自身がそう言っている文脈、あるいはラカン研究書が存在するのでしょうか?それとも永井さん独自の解釈なのでしょうか?
それは、私の思い付きですから、疑ってみた方が良いですよ。シェーマRに先立って、シェーマ£という、シェーマLを簡略化した図があるのですが、そこで既に、a’, son moi と書かれていて、関係が逆になっています。なぜ○マークがなくなったのかとか、なぜシェーマ£では、aとa’が斜字体になっているのかとかに関しても、いろいろ解釈できそうです。
想像界の三角形の説明で
「この交換関係は無媒介ではなく、a’(子供:他者の他者)は第三項のφに自己同一化することによってa(母親)の愛の対象となろうとする。」
とありますが、φとはいったい何なんなのでしょうか?
象徴界の三角形では、象徴的ファルス(父親)がφに入りますが、想像界においてのφの意味がよくわかりません。
子供は、自分を母の欠如を埋めるペニスであると想像します。また、母は、自分のペニスの代理物としての子供を望みます。それは、父を媒介としない母子相姦の媒介項です。
ラカンの文章は所々意味が成り立たないところや、数学を用いた間違った喩えがあります。こういう分かりにくい文体にどうしてなるのですか?
一般的に言って、研究者は研究対象に同化する傾向があるようです。私が大学で教わった生物学の先生は、タコの専門家で、「私は若いころは好青年だったが、タコを長年研究した結果、タコみたいな人間になってしまった」と講義で語っていました。実際、その先生は、立ち居振る舞いだけでなく、顔形にいたるまでタコそっくりでした。
ある精神病院に勤務する精神科医は、患者の立場に立って、相手を理解する治療を心がけていました。その結果、その先生は、その病院の精神疾患の患者になってしまいました。これは極端な例ですが、研究熱心な精神科医に、まるで精神に異常をきたしているかのような形相の先生がいるのは偶然ではないと思います。
精神科医であるラカンの文章は、難解であることで有名ですが、それはその思想が高度であるからというよりも、研究対象である精神疾患者の言説と同化しているからではないかと思います。そもそも精神分析学は、意味不明に聞こえる精神疾患者のディスクールから、患者が何を言おうとしているかを解読する理論なのですが、その理論の解読に同じ理論が必要であるなら、その理論を理解していない人にとっては、ラカンのテクストが精神疾患者のつぶやきなみに意味不明になってしまいます。
これは、喩えていうならば、フランス語を全く知らない学習者がフランス語で書かれた学習書でフランス語を学ぼうとするようなものです。あるいは、中に鍵が閉じ込められた箱を開けようとするようなものです。こうした悪循環のループから抜け出すには、自分か理解している言語で書かれた学習書でフランス語を学ぶ、あるいは箱の外にある合鍵を持ってくるということが必要になります。
ラカンを理解する時も同じで、いきなりラカンのテクストを読むと「ラカンはわからん」ということになってしまいます。だから、まずはラカン研究者による初学者向けの解説書を読んで、ラカンの理論の概要を理解し、その後で、メタファーに満ちたラカンのテクストを自己準拠的な構造に留意しながら解読すれば、ラカンが何を言おうとしているかが理解できるようになります。
ラカンについてはミイラ取りがミイラになったわけで、精神病患者が呟いてるのと変わらなくないですか。精神病患者の言説を健常者の言葉に頭の中で翻訳して文章にすることもできないのかと思いました。
自己準拠的な構造と言うのがよくわかりませんが。
少し話題がずれますが、アンチオイディプスも意味不明でした。あまりのわからなさからアランソーカルの知の欺瞞を買いました。まだ読み終わってません。
ラカン本人に精神疾患はないのですが、文体や考え方の面で患者から影響を受けているということです。自己準拠(self-reference)とは、システムが自己自身を参照することで、ここでは、解読の理論の解読にその理論の参照が必要という意味で使いました。一般的に言って、あらゆるものを対象とする哲学は、その哲学自体をも対象にするので、自己準拠的になります。ラカンの理論は哲学的で、他の哲学と同様、自己準拠的になっています。
ご説明ありがとうございます。自己準拠的の意味がわかりました。