リビドー発達段階史観
フロイトによれば、去勢以前のリビドーの発達段階には、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズがある。個体発生が系統発生を繰り返すという反復説に従うなら、個人史的な三つのフェイズは、人類史的にどういう時代に相当するのだろうか。リビドー発達段階史観に基づき、人類が母なる自然から自立したこれまでの歴史を振り返る。

1. 人は段階的に去勢を経験する
リビドーは、「強い欲望」を意味するラテン語 “libido" に由来するフロイトの用語である。リビドーは性欲と同一視されることもあるが、普通性欲と言えば、思春期(リビドー発達段階理論で謂う所の性器期)以降の男女が持つ欲望である。乳幼児には性欲がないというのが世間の常識である。フロイトは、乳幼児にも、広義の性欲があると考え、それをリビドーと名付けた。
乳幼児のリビドーは、口唇、肛門、男根といった部位に向けられるが、その欲動はその都度挫折し、断念を余儀なくされる。フロイトは、リビドーの断念を去勢と呼ぶ。六歳以降の学童は、表向きリビドーを完全に放棄して、性欲が全くないように見える。この時期を潜在期と言う。潜在期をもたらすリビドーの断念が狭義の去勢であるが、それ以前にも乳幼児は、段階的に去勢と似たような体験をする。私は、それらを広義の去勢と呼ぶことにしたい。
最初の広義の去勢は、産まれてくる時である。へその緒を切ることは、母のペニスを切る行為であり、この去勢により、母子の恒常的な肉体的一体性が終わる。その後も母は、へその緒に代わって、乳房を通して、子に栄養を与え続けるが、やがて子は、離乳という第二の去勢を経験する。次に母は、子が大切に溜め込んでいる糞尿を排出せよと促す。これは第三の去勢である。最後に、父による狭義の去勢が行われ、その最終切断によって、子は母から、精神的に自立する。
四番目の狭義の去勢のみならず、その前の三つの去勢も、同じような切断体験である。出産時の母の膣とその中の子(または子と母を結び付けている臍の緒)、授乳時における子の口とそこに挿入される母の乳首あるいは乳、硬くなってペニスのような形をした大便と直腸、これらはすべて本来の性交における膣と男根の関係と等価とみなされる。そして四回の去勢という切断は、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズを区切る。
2. 個人史および人類史における口唇期
個人史的には、口唇期とは、生後一年余りの、母乳で養われる時期で、この時期では、口が支配的な性感帯になっている。性交の代替としてキスが行われるのは口唇期の名残である。口唇期は、前期と後期に下位区分される。前期では吸うことに、後期では噛むことに快を感じるようになる。これは、生後五ヶ月ぐらいで、乳児の摂食機能が、乳汁を吸うことから、食物をかみつぶして飲み込むことへと発達することに対応している。後期の口唇サディズム的段階は、次の肛門サディズム的段階へと引き継がれる。
人類史的には、口唇期は、トーテム崇拝の初期にあたる。トーテムを殺したり食べたりしてはいけないというタブーは、最初からあったわけではない。オーストラリアのアボリジニのような、きわめて原始的な民族には、そうしたタブーがなく、彼らは、トーテム動植物を自由に殺して食べている。多分、口唇期の人類は、乳児が母の乳首を口に含み、栄養を摂取することに、受動的かつ無反省的な快を感じるように、母なる自然から栄養を摂取することに受動的かつ無反省的な快を感じていたことだろう。
口唇期が終わるころ、ラカンが謂う所の鏡像段階(stade du miroir)が始まる。鏡像段階以前では、子供は自分の身体をまとまった全体としてではなく、寸断された身体として体験する。生後六ヶ月ぐらいの子供は、最初のうちは、鏡に映った自己の身体を手でつかもうとするが、やがてそれが現実の他者ではないことに気が付き、自己のイマージュとの原初的同一化により、鏡を前にして大喜びする。この自己を再認する作業は、生後十八ヶ月ぐらいになると完了するが、母子の鏡像的な関係は、次の肛門期でも持続する。

人類史において鏡像段階に相当するのは、四万五千年前頃に起きた文化のビッグバンと呼ばれるコミュニケーション革命である。現生人類(クロマニヨン人)は、鏡像的な関係に基づき、言語と交易のコミュニケーション・ネットワークを築くことができた。私は、以前こう書いた。
クロマニヨン人の脳に見られる発達した前頭連合野は、新しい神経回路のネットワークを作り出し、交易の新しい社会的なネットワークを作り出し、それによって言語システムを複雑にし、概念の示差的なネットワークに革新をもたらした。この三つのネットワークの創発は、相互に無関係なのではなく、知性の発達という一つの本質の異なった側面にすぎない。[2]
文化のビッグバンを否定する人もいる。たしかに、四万五千年前頃に一回限りで起きたということはないにせよ、それに相当するイノベーションは、世界の各地で起きた。
3. 個人史および人類史における肛門期
個人史的には、肛門期とは、生後二年から三年ぐらいにかけての年の、排尿と排便に快を感じる時期である。前期では、口唇期後期を受け継いでサディズム的で破壊的傾向が強く、後期では、対象を確保し、所有しようとする傾向が強い。特に自分の糞尿を、母への贈り物として意識する。尿は金色で、糞は鋳潰した銀のような色をしている。フロイトは、金銀が貨幣として交換に用いられるようになった起源をここに求めている[3]。かくして、母との鏡像関係において、贈り物と取引の経験が始まる。
『社会システム論の構図』でも紹介したラカン的な図式なのだが、母子の鏡像関係を図式化すると次のようになる。

子供(Enfant)は、自分を母親(Mère)から愛される受動的主体(assujet)と想像する。すなわち、子供は、主体的自我(Je)ではなくて、a(autre 小文字の他者)によって位置付けられる a’(他者の他者)であり、それゆえ、m(moi 対象的自我)と記されている。欲望の対象である母から欲望される自我のイメージは、理想的自我(Ideal-Ich/moi idéal)であり、それゆえ、i(ラテン語でイメージという意味の imago の頭文字)と記されている。“φ”は、想像的ファルス(phallus imaginaire)で、母の欠如を埋める媒介的第三者である。肛門期においては、糞尿がこれに相当する。
私は、これまで、蛇や鳥や竜が、想像的ファルスに相当すると書いてきた。垂れた糞便は、その形からして、蛇や竜に似ている。母が糞尿の世話をしてくれるので、糞尿は、母と子をつなぐ媒介者となる。同様に、蛇や竜は、この世とあの世をつなぐ橋なのである。母子をつなぐ橋は、他にもまだある。母子が交わすまなざしや声で、この媒介的第三者は、空中を飛ぶので、鳥として表象される。これらは、ラカンの用語で言えば、小文字の他者(petit autre)で、後に対象a(objet a)となる存在だ。
肛門期において、母子は、物と情報の交換をする。そして、肛門期は、人類史的には、交易と話し言葉のネットワークが広がった先史時代に相当する。トーテムは、母との鏡像的関係において自己同一可能な想像的ファルスとなり、その殺害がタブーとなる。しかし、現在のトーテムでも観察可能なように、祝祭においてトーテムは殺害され、食される。フロイトが肛門期をサディスティックと形容したゆえんである。
幼児が、糞尿を贈与するから、母は自分に世話をしてくれると想像するように、肛門期の人類は、供犠をするから、地母神は自分たちに自然の恵みを与えてくれると想像する。バタイユが指摘するように、供犠はエロティシズムの快楽をもたらす。エロティシズムとは「規則の違反によって特徴付けられる領域[4]」であり、非日常的な侵犯の快楽であるからだ。
供犠における殺人が原則的に禁止でさえあるように、結婚での性的行為は原則的に禁止の対象であった。[…]結婚とは[よそのクランには女の処女を与えるなという禁止に対する]違反である。[5]
日常(褻)の世界では殺人は禁止されているが、供犠という非日常(晴れ)の儀式においてはその禁止が破られる。同様に、女性を犯すことは通常では禁止されているが、結婚という儀式においてはその規律が破棄される。肛門期の子供は、糞尿をすぐに排泄せずに、それを溜め込んだ上で排泄することに快を感じる。トーテムを殺して食べることをタブーによって禁止し、我慢すればするほど、トーテムを殺して食べるエロティシズムの快は大きくなる。
肛門期の子供は、また、離乳により、もはや無媒介に母と合体することは少なくなくなる。しかし、無媒介性が否定されているからこそ、母子の愛の関係は逆に強まる。愛は、「分別」が隔てている自他の差異を消滅させる。それは、未開/原始社会の人々が、祝祭的な供犠において、トーテム動物と一体となる体験と同じである。
タブーは、欲望を否定することで肯定する。エロティシズムは、否定性(他者性)によって媒介された快楽である。弁証法的に表現するならば、肛門期とは、即自的で無媒介な口唇的段階を否定する、他者性の対自化によって媒介された段階であると言うことができる。
幼児は、排泄物を、自分を世話してくれる母に対する対価と考える。人類史の肛門期において、交易(物のコミュニケーション)と表象文化(情報のコミュニケーション)が活発となるが、外婚のネットワークが確立されたのもこの時期であると考えられる。
トーテムが母だとするならば、同じトーテムに属する女とは、母ではなくて、姉妹ということになる。人間は、生物学的に、幼い時から生活を共にする同胞に性的欲望を持たないようにできている。そうした近親相姦は、人間が誕生する以前から回避されているから、フロイトのように、それを説明するのに何か物語を考える必要はない。
エディプス・コンプレックスで「トーテムとタブー」を説明することはできない。エディプス・コンプレックスは、父権宗教が「トーテムとタブー」というエロティシズムを極大化する母権宗教を否定する中で生じた男根期の意識であり、男根期以前の自然民族には無縁である。
4. 個人史および人類史における男根期
個人史的には、男根期とは、男の子はペニスに、女の子はクリトリスに関心が向かう、生後三年から六年ぐらいにかけての時期である。子は、母にとって自分がすべてでないこと、母の欲望の対象であるファルスが父親、つまり彼女の夫に向けられることを悟る。ファルスが子から父へと移転するわけだ。
なぜか。それは、もしそう言ってよければ、ファルスはぶらつくものだからだ。ファルスは他の場所にある。精神分析学がそれをどこに位置付けているのかは周知の通りであって、所持者とされるのは父親である。この所持者を巡ってこそ、子供においてはファルスの喪失、返還要求、剥奪が始まり、母親においてはファルスを持たないことの不安やファルスへのノスタルジーが始まる。[6]
子供にとって父親はライバルになるのであって、このエディプス的三角関係を表したものが以下の図である。父(Père)は、象徴的ファルス(Phallus symbolique)であり、小文字の他者である象徴的母(Mère symbolique)が欲望する大文字の他者(A=Autre)である。幼児は、そうした父を自我理想(Ichideal/idéal du moi)とする。

父親を殺して、母を我が物としたいというエディプス的欲望は、父の去勢の脅しによって、挫折する。そこで、子供は、象徴界の三角形に想像界の三角形を重ねることを断念し、想像界の三角形 iφm(赤い三角形)を象徴界の三角形 MΦI(青い三角形)に対して線対称に裏返しにし、抑圧する。これが以下の図の主旨である。これは、ラカンのシェーマRに相当する図である。

この図における I は想像界(Imaginaire)、R は現実界(Réel)、S は象徴界(Symbolique)を表し、R は表のS と裏の I を隔離している。象徴の三角形の各頂点は大文字で、想像の三角形の各頂点は小文字で書かれているが、これは、前者がシニフィアンで、後者がシニフィエであるからである。象徴界と想像界は、しかしながら、現実界の帯によって分断され、シニフィアンからシニフィエへの移行ができないままになっている。
この抑圧の構造は、エディプス神話の誕生の地である古代ギリシャに既にあった。そもそも、ギリシャ語のファロス(φαλλός)は、ディオニュソスの祭りで、豊穣の象徴を指す言葉として使われていた[7]。ディオニュソスは豊穰と酒の神で、小アジアのリュディア語に由来するバッコスの名でも知られる。その祭儀では女たちは忘我的陶酔状態で乱飲乱舞した。神話によると、ディオニュソスは、遍歴の後に故郷テーバイに帰り、テーバイの王であるペンテウスの母を含めた女たちを狂乱させ、彼女たちにペンテウスを八つ裂きにさせた。これはエディプス的欲望の実現と言ってよい。古代ギリシャには、アポロ的な昼の世界とは別に、ディオニュソス的な夜の世界があったのだ。
個体発生的にも系統発生的にも、ディオニュソス的な世界は抑圧される。男根期は、人類史的には、社会が男尊女卑になり、父権宗教が誕生した時代に相当する。人類史における社会の男尊女卑化は、男の子が女の子にペニスがないことを見て、女の子を軽蔑するようになるという出来事に対応している。そして、やがて、子供は、同じくペニスのない母を軽蔑し、ペニスを持ち、かつ去勢する権力を持っていると子供が想像する父が尊敬されるようになる。これに対応して、人類は、地母神崇拝をやめ、天父神崇拝を始める。自然の豊穣さに代わって、理性の光が尊重されるようになる。
精神分析が産まれたヨーロッパでは、この説明で十分なのだが、日本では、去勢が違った形で行われているので、別の文化史的説明が必要になる。ヨーロッパでは、母の愛が子から父(母にとっての夫)に向かうことで、去勢が起きる。ところが、日本では、それまで第一子に向けられていた母の愛が後から生まれてきた弟妹(ていまい)に向かうことで起きる。このため、日本では、ヨーロッパと比べて、父による去勢という側面が強く出ていないし、そもそも去勢自体が徹底的には行われない。
日本社会は、欧米社会と比べると、トップダウンの組織運営が行われない。父なる存在であるトップの力が弱いのだ。その代わり、ボトムでは年功序列という秩序がある。先輩と後輩という欧米人にとって理解しがたい年齢差別は、弟妹に母の愛を奪われた兄姉(けいし)の激しい嫉妬に起因する日本人の感情が組織の和を乱さないようにするために作り出された妥協の産物である。また、日本では、子が母から自立しないことに対する社会の寛容度が高い。これも、日本では去勢が不十分であることの結果である。
私は「なぜ日本人は幼児的なのか」で、欧米と比べた日本の特殊性は、去勢体験の弱さで説明できるという主張をした。「幼児的」という言葉を使ったおかげで、この記事は日本人を貶めているという批判をずいぶんいただいたけれども、幼児的だから悪とは限らない。日本人が幼児性を残しているがゆえに、私たちは浦島伝説を素直な気持ちで受け継ぐことができるのだし、去勢以前の母権的な文化を正しく認識できるのである。
5. 太古の記憶を甦らせる
人類史の男根期は、文字が発明され、文字によって記録がなされるようになった文明時代である。これに対して、それ以前の地母神崇拝の時代は、文字によってあまり記録されていないために、忘れ去られた暗黒時代になっている。これは、個人レベルでの幼児期健忘に対応している。
本稿の冒頭で述べたとおり、私たちは、男根期以前の経験を思い出すことはできない。私たちは、男根期以前にも、記憶する能力があったにもかかわらず、男根期以前の記憶は、抑圧され、意識に上ってこない。母子の過去の結びつきをばっさりと切り落とすことが去勢の働きであることを考えるならば、男根期の子供が過去の母の思い出を切り捨てることは、十分理解できることである。
意識が、母子相関の享楽を抑圧し、忘れ去ろうとしても、無意識の欲望は、決してそれを忘れない。だから、私と母がかつて交わった通路は、対象aとして、その後も欲動の原因となり続ける。地母神と人類とをつなぐ橋が、蛇や鳥や竜として現れる神話や民話が今も語り継がれるのはそのためである。
フロイトが認識したように、心の病は、満たされなかった欲望を象徴的に満たそうとすることでおきる。だから、私たちは、原点に立ち返って、自分が本当は何を欲望しているのかを見つめ直さなければならない。そのためには、シニフィアンからシニフィエへの、象徴的三角形から想像的三角形へと立ち返る道を見出さなければならない。それにはどうしたらよいだろうか。
表と裏をトポロジカルにつなげるには、メビウスの輪を形成すればよい。メビウスの輪とは、帯をねじってつなげることができる曲面で、以下の図を見ればわかる通り、もとの帯の表から裏へ、さらには裏から表へとシームレスに移動できる。

ここで、メビウスの輪に書かれた文字mのコピーを帯に沿って表から裏へ、そして裏から表へと一周させ、元の位置に戻してみよう。mは鏡像的に反転して、もとのmと合体する。メビウスの輪において、自我はその鏡像的他者と合一する。
話を 「抑圧された想像界」の図(またはシェーマR)に戻そう。この図における、I(自我理想)と i(理想的自我)、M(母)と m(自我)を結びつけ、現実界の帯をメビウスの輪にすると、以下のような図になる。

すると、裏返された(抑圧された)想像界の三角形が、表にある象徴界の三角形とつながり、一つの平面へと連続し、シニフィアンからシニフィエへと、象徴的三角形から想像的三角形へとスムーズに移行することができるようになる。文字通り、自我理想をその原点である理想自我と結びつけ、母子一体であった時を思い出すということだ。
だから、メビウスの輪は、胎内回帰願望の実現を象徴していると言うことができる。実は、地母神崇拝が顕著であった縄文時代には、メビウスの輪のような装飾を施した土器が作られていた。縄文時代後期(約3500年前)の著保内野(ちょぼないの)遺跡で出土した中空土偶「カックウ」がそうである。

カックウの膝の部分に注目してほしい。写真では見にくいので、以下の図に、膝の周りを覆う幾何学的文様を模写で示そう。これを見ればわかる通り、刻み目が施された細い粘土ひもを貼り付けたり、削り出したりして表現された三叉文(さんさもん)と円形文を組み合わせた文様は、まるでメビウスの輪のようである。

刻み目が施された細い粘土ひもは、蛇を象徴していると考えるなら、この紋様は、蛇が穴の中に入り、そしてまた外へと出てくる様を描写していると言うことができる。これは、まさにファリック・マザー幻想、体外(この世)と胎内(あの世)との融合を可視化したものだ。
カックウは、中空土偶の名の通り、内部が空洞になっており、その内部は足元にある穴からアクセス可能である。液体を保存するといった実用的な目的で使用された可能性も考えられるが、形状が実用的ではないので、儀礼的な目的で使われた可能性の方が高い。縄文時代の中期以降、気候寒冷化に伴って、縄文人の生活は厳しくなり、呪術的な土器の類が大量に作られるようになる。カックウもその一つに違いない。日本に父権宗教が登場するのはずっと後のことである。それ以前の日本人は、冷たくなった母なる大地に対して、生命の蘇りを求めて、地母神崇拝を盛んに行ったことであろう。
6. 参照情報
- 永井俊哉『浦島伝説の謎を解く』Kindle Edition (2017/08/11).
- 永井俊哉『社会システム論の構図』Kindle Edition (2015/05/20).
- 永井俊哉『ファリック・マザー幻想』リーダーズノート (2008/12/15).
- ↑roseoftimothywoods. “baby kissing mirror image." Taken on July 28, 2005. Licensed under CC-BY.
- ↑永井 俊哉.『縦横無尽の知的冒険』. プレスプラン (2003/7/15). p. 100-167.
- ↑“In ganz analoger Weise decken die Darmreizträume die dazugehörige Symbolik auf und bestätigen dabei den auch völkerpsychologisch reichlich belegten Zusammenhang von Gold und Kot.” Sigmund Freud. Die Traumdeutung / Über den Traum. Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.2/3. p. 408.
- ↑Bataille, Georges. L’histoire de l’érotisme. Oeuvres complètes VIII. Paris: Gallimard, 1976. p. 108.
- ↑Bataille, Georges. L’histoire de l’érotisme. Oeuvres complètes VIII. Paris: Gallimard, 1976. p. 108.
- ↑Jacques Lacan. Le Séminaire livre III – Les psychoses, 1955-1956. Editions du Seuil (1 novembre 1981). p. 359.
- ↑“φαλλός = membrum virile, phallus, or a figure thereof, borne in procession in the cult of Dionysus as an emblem of the generative power in nature." Henry George Liddell, Robert Scott. A Greek-English Lexicon.
- ↑Krishnavedala. “A moebius strip.” Licensed under CC-BY-SA and modified by me.
- ↑ぽん吉. “中空土偶カックウ複製.” Licensed under CC-0.
- ↑“国宝・中空土偶.” 北の縄文道民会議(Hokkaido Jomon Culture Promotion Council).
ディスカッション
コメント一覧
永井様
まず、質問です。永井さんは、「出産時の母の膣とその中の子、授乳時における子の口とそこに挿入される母の乳首あるいは乳、硬くなってペニスのような形をした大便と直腸、これらはすべて本来の性交における膣と男根の関係と等価とみなされる。そして四回の去勢という切断は、口唇期、肛門期、男根期という三つのフェイズを区切る。」と言われています。
ここで、羊水中の子自身、母の乳首や乳、大便がペニスとみなされ、それに対して膣、赤ちゃんの口、直腸というか肛門が膣に対応するわけでしょう
つまり、男の子は、最初ペニスとして生まれ、膣として乳を飲み、膣として大便をし、最後にペニスとして性交すると言うことでしょうか?
非常に面白く興味深いのですが、例えばホモセクシュアルをこの4段階説で説明するとどうなるのでしょうか?
羊水の中にいるときは、へその緒が母子をつなぐ絆となります。へその緒が切れた後も、子は、その代替を求め、母子の接点を見出そうとします。その際どちらが能動的でどちらが受動的かは、想像的な鏡像関係においては、相対的で、ファリックマザーとの想像的同一化が後の文化的に規定されたホモセクシュアリティの目標となります。
鏡像段階では、受動と能動は相対的で、受動と能動(膣とペニス)交換可能で、後の象徴段階で、能動受動の非対称性というか局在化が起こるということですね
以前テレビで、ホモセクシュアルの男に対して、イスラム圏の男が、ものすごい剣幕で「殺す」といっていました。なんでそれほどまでに「ダメ」なのかよく分からなかったのですが、永井さんの論考で少し分かるようになりました。
永井さんの四つの去勢のなかで、最後の去勢だけが重要ということはない気がします。 つまり、おしっこやウンチを抑制するのと射精を抑制することにさほどの違いが感じられないのです。
永井さんは、この四つの去勢に対して優先順位というか重要性の違いを感じられているのでしょうか? 構造が類似しているということだけではない気がします。段階的に考えるのなら、最初の去勢が決定的ということなのでしょうか?
普通、精神分析学で「去勢」といえば、男根期での去勢のみを指します。それは、子が母から自立する最後の局面で、以後、子は、幼児的な性欲を断念して潜伏期に入ります。
永井様
幼児期健忘についての永井さんの解釈は非常に面白い。
それで、思い出したのですが、日本で臨床心理の分野で箱庭療法というのがあって、特に日本で盛んに利用されているそうです。ミニチュアの山や川、いろいろなフィギャーを組み合わせて、一つの箱庭を完成させる。その過程で治癒が達成される。
臨床心理士は、何かを解釈したりするのでなく、受容的に、母親的に見守るだけ。それでなぜかしら直るのだそうです。
音楽療法というのもあると聞いたことがあります。
幼児健忘期の記憶を活性化させるには、言語によらないでイメージとか音楽の方が容易なのかもしれません。
幼児健忘と言語的な分節とは馴染まないということでしょうか?
精神分析学は、意識によって抑圧された無意識の欲望を知ることで、心の病を治すという方法をとっています。意識的な方法をとると、意識が検閲しようと抵抗を試みるのでうまくいきません。だから、連想とか、造形とか、無意識のうちに欲望が表れる方法をとるわけです。
ふと思ったのですが、潜伏期や思春期に入るのにも、去勢というのは存在するのでしょうか?
去勢の影響は、去勢後も続きます。