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ヘアーの普遍的指令主義

1997年9月3日

ヘアーは、オックスフォード大学で支配的だった日常言語学派の立場から道徳的言説の分析を行ったメタ倫理学者として知られるが、規範倫理学にも取り組んだ。実際、彼は、英国の各種委員会に名を連ね、社会政策の立案にも関わった。ヘアーのメタ倫理学的立場は「普遍的指令主義」と呼ばれているが、そこには、規範倫理学の基礎付けとしてのメタ倫理学としてどのような問題があるかを考えよう。[1]

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英語の “hare" には「うさぎ」という意味がある。英国では、"hare" は魔女の化け姿で、その行く手を横切ると縁起が悪いと信じられている。

1. 価値語の指令主義的分析

ヘアーは自分の立場を「普遍的指令主義 universal prescriptivism[2]」と呼んでいる。すなわち、彼のメタ倫理学上の主張は、

  1. 情動主義批判としての普遍主義
  2. 記述主義(自然主義+直観主義)批判としての指令主義

から成り立っているのだが、ムーアとの連関上、普遍化可能性を取り上げる前に、まず後者の側面から見ていこう。

ムーアの『倫理学原理』以後、「善い」の定義可能性をめぐって様々なメタ倫理学的議論がなされた。論理実証主義の急先鋒であったエイヤーは、「善い」の定義が不可能なのは「善い」のような倫理的概念が疑似概念(pseudou-concept,真偽の判定の不可能な概念)だからであると考えた[3]。つまり倫理的概念には、道徳的感情を表出したり、聞き手の行動を刺激したりする情動的な機能があり、それゆえそれは事実に還元することができないというわけである。これは自然主義的誤謬の5の解釈に相当する。エイヤーはその実証主義的解釈から当然ムーアの直観主義を批判することになる。ムーアの「神秘的な知的直観[4]」が客観的妥当性を持たないので、エイヤーはそれを主観的感情にまで矮小化したわけである。

エイヤーの説を受け継いだ米国の分析哲学者、スティーブンソンも「これはよい」の意味を「私はこれを是認する、君も是認したまえ」すなわち、感情表出+聴者説得というように分析している[5]。スティーブンソンは「君も是認したまえ」の部分は心理的状態の記述で心理学の対象となり、そのためある程度の合理性を持つと言っている[6]が、これは当っていない。エイヤーが言うように、表出は「何ら命題を表現しているのではない[7]」。それは陳述の内容(What)を語っているのではなくて、様式(How)を示している。

メタ倫理学の分野で、ムーアが直観主義者と呼ばれるのに対して、エイヤーやスティーブンソンは、情動主義者と呼ばれている。もとより「善い」を情動で定義しても、それはせいぜいの《意味》の定義にしかならず、《基準》の定義にはならない。情動主義者は「善い」とそれが適用される対象との関係をどのように考えていたのであろうか。彼等は、前者を情動的意味、後者を記述的意味と名付けて両意味契機の相互独立性を強調する。

ビューラーが分析したように、言語には表出・喚起・叙述の三機能がある[8]のだが、情動的(e-motive)意味の“情”(感情表出 express)と“動”(行動喚起 move)の機能、記述的意味の事象叙述の機能がそれぞれ当の三つに対応する。例えば「虎だ!」という発話は、虎出現を叙述すると同時に話者の恐怖と当惑の感情を表現し、聴者に逃走の行動を喚起するが、同じ発話を加藤清正がするとき、それは獲物発見の喜びの表現であり、部下への準備の指令であるというように記述的意味は特定の情動的意味と必然的な結合関係を持たない。同様に特定の記述的意味は、他人の特定の情動的意味と必然的に結合しているとはかぎらない。それゆえある特定の支持理由(supporting reason)を挙げることによって、 常に他人を自分が持つ特定の態度に同調させることができるとは限らない[9]

合理的方法によってもなお態度の不一致が残存する場合、通常私たちは、非合理的な説得的方法(persuasive method)、つまり様々な物理的心理的方法で相手の感情に因果的な影響を及ぼし、説得させようとする[10]とスティーブンソンは言う。いかにも情動主義者らしい議論展開で、そこからスティーブンソンの心理学的分析が始まるのだが、この種のメタ倫理学においては、規範倫理学への道が全く塞がれていることはいうまでもない。

以上が、ヘアーが登場するまでのメタ倫理学の短い学説史である。ヘアーは、正当化と動機付け、即ち「誰かにあることをするように言う過程が、彼にそれをさせることとは相互に論理的に全く異なっている[11]」ことを指摘して、因果分析から概念分析へ、情動主義から指令主義へとメタ倫理学の方向を転じる。彼は、情動的意味の感情表出よりも行動喚起の機能を重視し、指令的意味と記述的意味の相互関係の分析を自分の課題とする。

ヘアーは、一方ではこのように情動主義を批判しておきながら、他方「善い」の意味に関しては情動主義的な定義をしている。彼が「自然主義の諸理論における誤謬は、それらが価値判断を事実言明から導出することができるようにしようとするあまり、その判断にある指令的推薦的要素を無視することにある[12]」と言う時、明らかに自然主義的誤謬を4の意味で解釈してしまっている。

このような解釈をする人は、《ヒュームの法則》を信奉して、事実と価値/意味と基準を峻別し、結局は《価値主観主義=不可知論的相対主義》に陥らざるをえない仕組みになっているのである。ヘアーは「よい」の意味を「選ばれるべき」や「勧めるべき」で定義するが、このような意味を知ったところで「何がよいのか」の問題は解決されえないどころか、解決の糸口すら与えられないままである。かくして「よい」を対象に適用する時の基準の判定は「そのつどの新しいレッスン[13]」になってしまう。対象にどのような価値を付着させるかは、個人の恣意的な決断、即ち《自由》に任せられているのである。

とはいえ、規範倫理学にも取り組む以上、価値問題に関して全く無関心でいるわけにはいかないのであって、それゆえ初期のヘアーは、「よい」を「べし」で定義することによって、つまり価値問題を実践問題に還元することによって事態を解決しようとした。「AはよいXである」(Aは類Xの一つの種)は「Aは他のXの種Bよりもよい(better)Xである」を意味し、これは「もしXを選ぶべきなら、他の種よりAを選ぶべきだ」を意味するという定義がそれである[14]

この定義により、価値という個人の内面に関する捉え所のない問題は、個人の選択という客観的に観察可能な行動の問題に変換される。これは行動主義を帰結するわけではない。『道徳の言語』を書いた頃のヘアーは、よく言われるように、後期ヴィトゲンシュタインの語用論的意味論の影響を受けていた。

ヴィトゲンシュタインも、次のように言って、《行動主義=情動主義》を却ける。

私たちが“ある人が音楽的だ”という言葉を使うのは、ある音楽が演奏されたとき“ああ!”と声を出す人を音楽的と呼ぶためではない。それは音楽が演奏されるとしっぽを振る犬を音楽的と呼ばないのと同様である。[15]

音楽を評価できる人は、演奏を聞きながら「これは調和するか。否。低音がまだ小さすぎる。ここのところでは何か違ったものが欲しい」などと論評するものだ。

その人が評価できる人であるということは、彼の発する感嘆詞によって示されるのではなくして、彼が選び、選定するなどの仕方によって示される。[16]

もちろんこの自称音楽評論家は、曲の良し悪しも分からずに、ただ音楽的教養があるふりをして「これは調和するか。否。低音がまだ小さすぎる。ここのところでは何か違ったものが欲しい」などと言っているのかもしれない。その場合、彼は曲の評価よりも、自分が音楽的鑑定力を持っていると評価されることの方を評価していたという価値判断が、選択行為となって現れたと理解すればよい。ある音楽が演奏されたとき“ああ!”と声を出すことも一つの選択であり、その人が言語運用能力を持つかぎり、その演奏に感動したからかどうかは別として、ある価値に基づいているがゆえにと考えられる。『現象学的に根拠を問う』の第二章で確認したように、価値は先取/後置きという選択行為と結び付けられているのである。

ヘアーは、しかし『自由と理性』の中では、「よい」を「べし」で定義する初期のテーゼを撤回している[17]。「Xはよい」⇔「Xを選べ」という定義は結局《趣味の押し付け》につながること、「AはBよりよい人だ」から指令「BはもっとAのようになろうとすべきだ」は導出されえないことが理由である。彼の自由主義は、後期においては選好(preference)の内容に対する不干渉という形で保持されているのだが、実はこの価値自由主義が彼の功利主義をかなり平板なものにしてしまうのである。しかしこの側面からヘアーを攻撃する前に、彼の普遍的指令主義のもう一つの側面である普遍化可能性(universalizability)の議論を見ておく必要がある。

2. 普遍化可能性と功利主義

ヘアーはまず様相論理学風に、命令文の《何を what》と《いかに how》、《指示句 phrastic》と《断定辞 neustic》を区別してその合理的側面を確保し、これを基にして実践論理学を樹立しようとする。即ち「君はドアを閉めようとしている」という平叙文と「ドアをしめたまえ」という命令文は、「君が近い未来にドアを閉めること」という指示句を共有しており、両者の相違は断定辞の違いに過ぎず、まさにこの指示句を共有するがゆえに実践論理学にも通常の論理学と同じ論理規則(例えば矛盾律)が成り立つのである[18]。だから「ドアを閉めたまえ、しかしドアを閉めるな」という命令を下すことはできない。この一見トリヴィアルに見える論理的事実が、実は道徳推論の基礎となるのである。

さて普遍的命令文は、二人称の人物が未来においてある行為をすることを命じているのだから、普遍的でないのだが、記述的な指示句を持つがゆえに、少なくとも論理的には常に普遍化可能である。即ち「道徳法則は、記述的判断が普遍化できるのと全く同じ仕方で普遍化できるが、これは道徳表現にも記述的表現にも記述的意味があると言う事実から来ている[19]」。換言するならば、全ての個別的な命令は、それを一例として包摂する普遍的原則を暗に前提しているということなのである。

では普遍化という概念操作は、具体的にはどのようなものなのだろうか。ヘアーは、「厳密に言うならば[…]普遍化に異なった諸段階があるというわけではないということを強調しておきたい。道徳的判断はただ次の意味においてのみ普遍化可能である、すなわち道徳的判断は、その普遍的属性という点で同じである全ての場合に対して同じ判断を導出する、これが私の主張である[20]」と言うが、実際には普遍化は、全称化と普遍化の二つのプロセスから成り立っている[21]

両者の違いを知るためには、そもそも普遍的でない命題にはどのような種類があるのかを確認しておく必要がある。まず差し当って次のような三つの命題を考えてみよう。

(1)「嘘をついてはいけない場合も時にはある。」

(2)「永井俊哉は常に嘘をついてはならない。」

(3)「日本人は常に嘘をついてはいけない。」

この道徳判断の記述的意味(指示句)の部分だけ記号化すると次のようになる(但し、Wは「言葉である」Mは「ひとである」D「~が~を公言する」Lは「嘘である」Jは「日本人である」を表す述語記号、n は「永井俊哉」を表す個体定項とする)。

(1) (∃x)(∃y)(Wx ∧(My ⇒ Dyx)∧ ¬Lx)

(2) (∀x)(Wx∧Dnx ⇒ ¬Lx)

(3) (∀x)(∀y)(Jx∧Ly∧Dxy ⇒ ¬Lx)

ここから上掲の各判断がなぜ普遍的原則ではないのかは明らかである。(1)は存在量化が冠頭にあるので特称判断であり、普遍的でない以前にそもそも原則ではない。(2)と(3)は全称判断であるから原則にはなっているのだが、(2)は n という個体定項を含んでいるので個別的全称判断であり、(3)は個体定項を含んでいないので、そのかぎりでは非個別的であるが、「日本人である」という普遍的ではない述語を含んでいるので、結局両方とも普遍的原則ではないのである。

ところで(2)と(3)は異なるものであろうか。そうではあるまい。「xは永井俊哉である」という関数Nxを作れば、Dnx は(∀y)(Ny⇒Dyx)と書き替えられるし、Jxは、「xはyの国籍をもつ」という関数Bxyを作って、「日本」を表す個体定項jを作ってやれば、Bxjと書き替えることができるというように(2)と(3)は相互に変換可能だからである。そこでこの両者を合わせて個別的全称判断とし、特称判断からこれへの移行を全称化、これから普遍的判断への移行を普遍化と呼ぶことにしよう。

私たちは、善くないPに出会わないかぎり、「このPは善い」という特称判断を「全てのPは善い」へと全称化することができる。これを記号化すると、

¬(∃x)(Px ∧ ¬Gx)⇒((∃x)(Px∧Gx)⇒(∀x(Px ⇒ Gx))

となる。しかしこの概念操作によっては利己主義を論駁することができない。例えばPが「永井俊哉の利益になる」を表すなら、「エゴイスト、永井俊哉」はこの全称価値判断を喜んで無条件的に受け入れることができるであろう。そこで道徳的推論においては全称化可能性のみならず、普遍化可能性までもが要求されることになる。

普遍化可能性に関して中期のヘアーが挙げている例は、AがBから、BはCから借金をしていて、Bが借金を取り立てるためにAを投獄しようか否かと迷っている場合である[22]。いまBが利己的な動機からAを投獄しようと決心したとする。この時“私にAを投獄させろ! Let me put A into prison!”という個別的指令を、その理由を条件法導入して記号化すると、次のようになる。

¬Rab ⇒Iba

但し、Rxy は「x は y からの借金を返済(repay)している」、 Ixy は「x は y を投獄(imprison)する」という述語記号とする。

Bは、この個別的指令を普遍化した

(∀x)(∀y)(¬Rxy ⇒Iyx)

という原則を受け入れることになるが、彼はまさにこのことによって、自分が、¬Rbc⇒Icb というもう一つの個別的指令にも言質を与えている(commit oneself)ことに気が付くのである。かくしてBは、Iyxを欲すると同時に欲しないという《意志の矛盾》に陥るのだが、もし彼の選好が、Rba<¬Icbであるならば、Aの投獄を断念すべきだ、という結論を出すことになるであろう。

このような普遍化の構成要素として、ヘアーは、

1.¬Rab,¬Rbc という事実、

2.個別的指令を普遍化する論理、

3.Iba<¬Icbという嗜好、

の三つを差し当り列挙する[23]が、1や2だけでなく3が必要であることに注意しなければならない。当事者の嗜好を知ることは一種の事実認識なのであるが、判断に指令性を与えるものとして格別の位置が与えられているわけである。ヘアーは、この三つにさらに

4.想像力(imagination)

という要素を加える。つまり、たとえCに相当する人物が居なくても、なお想像力によってそれを仮想して、ないし(同じことだが)想像力によって相手(A)の立場に自分を移し置いて、“果たして自分はIbaの指令を意志することができるだろうか”とBは自問しなければならない。この4を追加することによって、普遍化可能性のテストは利己的打算的なものから道徳的なものへと変貌する。

道徳的推論において重要な役割を果たすこの《他者の立場へ「私」を移し置く》という思惟の運動が可能であるのは、「私」が「非本質的属性 non-essential property」だからであると後期のヘアーは言う[24]。それゆえ「もしもジョーンズがスミスならば…」という仮定は、ジョーンズとスミスがそれぞれ別の本質(essence)を持っているのだからナンセンスであるが、「もしも私がスミスであるならば…」という仮定は有意味であると彼は説明するのだが、要するに「ジョーンズ」や「スミス」などの個体定項を、人格一般に適用可能な「私」へと普遍化することによって、道徳的共感は論理的に可能となるということなのである。

道徳的共感とは、他者の悲しみや苦しみを感じることである。もとよりひとは他者の悲しみや苦しみを直接経験するわけではない。他者の不幸を想像して心を痛めるときでも、その苦痛はあくまでも私が感じている私の苦痛だと言い張る人もいるであろう。だが“私は他者の苦痛を感じることはない”というのは文法的な主張である。「もしも私たちの言語から“私は彼の歯痛を感じる”という言い回しを排除するならば、“私は私の歯痛を感じる”という表現をも排除することになる[25]」。私が感じるのはむしろ前人称的な苦痛であると言ってよい。

もちろんここで言う“前人称的な苦痛”とは、例えば大庭が次のように攻撃するような神秘的経験ではない。

私には、私にとってのこの色しか見えず、私にとってのこの痛みしか感じられないのであって、この色・この痛みが相手におけるのと同じである、などとは絶対に語りえない。[…]こう確認すると、ある人は、直ちにこう応じるかもしれない。いわく、きみは、哀れにも所詮は西洋風の近代的な自我の意識という低劣な段階に留まっているから、ココなる自我とソコなる他者との区別を固定して、物を考えることしかできないのだ。人間を根本的に考えたいなら、やはり竿頭一尺を進めて東洋的な思惟の“深み”に立ちいたらねばならない云々。その御親切は有り難い、と一応は言っておく。しかし、である。[…]仮に、「西洋ふうの自己意識という低劣な段階」を越えて、一切が融通無礙に融入しあう「物心未分・主客未分・自他未分」の境地に達した人がいたとしよう。もしそうした人がいたとすれば、その人は、自他の直接的な交換において二四時間途切れなく身体を捩って呻き続け、即座に絶命する他はない。なんとなれば、母親に捨てられて、今、乳児院の前の冷たい歩道の上で必死に(そして、もはや微かにのみ)泣いている新生児の痛み、今、しんしんと冷えゆくアフリカの大地の上で断末魔の七転八倒している母親の痛み、そして今、そして今、… こうした「他者」の痛みを、 その人はじかに・そのまま痛むほかはないからである。[26]

東洋的無我の境地を弁護する気はないが、大庭の例によって例の如く性急な批判に対しては、若干コメントをする必要がある。前人称的に苦痛を感じる人が、全ての他者の苦痛まで感じなければならないという主張は、ロックの普遍的三角形の議論を彷彿とさせる。三角形は、普遍的概念であるために、鋭角三角形であり、かつ直角三角形であり、かつ鈍角三角形であり … というように全ての三角形の属性を一身に担う必要はない(それは不可能である)。同様に、普遍的に共感する能力がある人とは、個別的具体的な苦痛を全て感じる必要はない。実際X氏がpという事態に苦痛を感じ、Y氏は¬pという事態に苦痛を感じるということはありうるが、p∧¬pという事態について私が苦痛を感じるということは不可能である。

本題に戻ろう。1. 事実、2. 論理、3. 選好、4. 想像力という要件を満たしながらも、なお債権者Bは、自分と債務者Aとのある相違を指摘することによって、

Iba ∧ ¬Icb

という指令を可能にするかもしれない。例えばAは独身で、貸与された金を自分の娯楽のために浪費していたが、Bには扶養すべき家族がいて、然るべき事情のため返金できないでいるということにしておこう。この種の情状酌量の対象となる然るべき事情(extenuating circumstances)があることをCとすると、Bが依拠する普遍的原則は、

(∀x)(∀y)(¬Cx∧¬Rxy ⇒Iyx)

というように修正される。

このように次々と例外が条件法導入によって繰り入れられて行くならば、その原則はもはや普遍的でなくなるのではないか、と懸念する人は、普遍と一般を混同しているのである。

“一般的[general]”の反対は“限定的[specific]”であり、“普遍的[universal]”の反対は“個別的[singular]”である。[27]

だから、

(∀x)(∀y)(¬Rxy ⇒Iyx)

という一般的原則も、

(∀x)(∀y)(¬Cx∧¬Rxy ⇒Iyx)

という限定的原則も、共に普遍的原則なのであって、

(∃x)(∃y)(¬Rxy ⇒Iyx)

¬Ca∧¬Rab ⇒Iba

などの個別的原則からは区別される。一般的か限定的かは程度の差なのであるが、普遍的か個別的かはそうではない[28]

一般的普遍が限定的となるプロセスを自然科学の対応例で見てみよう。科学者は、27℃5気圧のもとでの1モルの窒素の気体の体積は5リットルであるという個別的な気体の記述を気体の状態方程式 PV=nRT へと普遍化する。ところがこの“一般”法則は、“理想”気体の状態方程式と言われるように、実在的気体の状態に適合しない場合(低温・高圧で凝縮する場合)がある。そこで科学者は「もし気体分子に大きさがなく、分子間力が働かなかないとすれば」という前提を条件法導入することによってこの法則を“限定的”にするが、このことは法則をあいまいにするのではなくて、むしろ厳密にするのであって、科学的認識の進歩の一部である。

同様に道徳原則の場合も「諸種の例外を認める際、私たちがしていることは、原則をあいまいにすることではなくて、厳密にする[29]」ことなのであって、それは「私たちの道徳的発展の一部なのである[30]」。

この条件法導入に際して、導入される条件が正当であるか否かをどうやって決定するのかという問題が生じてくる。また借金の例に戻るが、例えばBは、Aが黒人でBが白人であるという事実を指摘して、これが、道徳的に関係がある(morally relevant)と主張しだすかもしれない。「ある状況のある特徴を道徳的に関係があると見なすことは、その特徴に言及している道徳原則をその状況に適用することである[31]」。そこで適用されている道徳原則は、

(∀x)(∀y)(¬(Wx∧By)∧ ¬Rxy ⇒Iyx)

ということになる(W=White,B=Black)。ところがBがこの原則を信奉するのは、それが白人である自分の利益につながるからなのであって、このような利己主義者に対するヘアーの説得方法は、相変わらず想像力を働かすことである。もしもBが、自分と相手の皮膚の色が逆転した想像上の場合でも、なおこの原則を信奉し続けることができるだろうかと自問すれば、彼は皮膚の色が道徳的に無関係(irrelevant)な性質であることを認めざるをえなくなるであろう。

私たちは以前、普遍化において示されるのは、行為原則の自己矛盾ではなくて、普遍化された原則と嗜好(つまり選好)との衝突であることに留意しておいた。しかしここで衝突しているのは選好というよりもむしろ選好を満足させることを指令する原則であるから、要するにこれは原則相互の、借金の例で言うならば、復讐欲の原則と護身欲の原則との葛藤であると考えられる。

このように直観レヴェルでさしあたり妥当する二つの可能的原則(prima facie principles)がある状況で葛藤するとき、批判レヴェルでどちらの原則を優先させる(override)かを選好の強度という点で比較考量して決定することが功利主義的倫理学の仕事であるとヘアーは考える。この比較考量に際して、ヘアーはその時のその人の選好を十分に想像する(fully represent to oneself) ことを強調する[32]。換言するならば、今の自分の選好でその時のないし他人の選好に関することがらを決定してはいけないのである。例えば老人医療費は税金の無駄であるという発言は、将来の自分のことを考えると撤回を余儀なくされるであろう。

このような批判的思考をし続けることによって、私たちは結果的には《最大多数の最大幸福》を実現することができるかもしれない。だがヘアーの療法的な功利主義は、従来の建設的な功利主義と同じではない。「私たちが私たちの方法に要求するのは選好の強度の比較である。私たちは快や幸福の単位を総計する必要はない[33]」。ヘアーは現存する直観的な道徳的原則を全面的に肯定しているのであって、ただこれらが葛藤を起こしたときのみ調停に乗り出すのである。彼の功利主義が英国に伝統的な自由主義の立場に立つものであると言える。

3. 自由主義的功利説の陥穽

ヘアーのこの自由主義の遠因は、以前仄めかしておいたように、その情動主義的な自然主義的誤謬の解釈、そしてそこから生じてくる価値主観主義・不可知論的相対主義にある。「善い」の意味と基準のつながりを見出すことができなかった彼は実践哲学において、多様な選好内容を度外視して、たんに外面的な形式的側面しか扱えないはめになっている。

そこでまず彼の「よい」の定義から疑ってかからなければならない。ヘアーによると、

1.「Sはよいイチゴだ」

は、

2.「Sは甘くて、果汁が多く、身がひきしまっていて、赤くて、大きい」

で置換することはできない。なぜならば、2には

3.「私はSを勧める」「イチゴならSを選びたまえ」

という推薦的指令的意味が欠けているからである[34]。この種の自然主義的誤謬の情動主義的解釈においては、2の基準と3の意味の相互独立性ばかりが強調され、私たちの解釈において重要な問題となる2が1の理由として適切であるか否かという内容に関する問題が、たいして問題にならないようになっている。

もちろん「善い」の意味を知ったからといって、1を2に適用してよいか否かの基準の問題が直ちに解決されえるわけではない。「白い」の意味を知ったからといって、「白鳥は白い」という命題の真偽が直ちに解決されえるということはない。しかし意味の定義は、もしそれが本質的なものであるならば、判定基準の決定に少しは手掛りを与えるはずである。しかるに3の如き「よい」の定義は、1から派生してくるものであって、1と2を媒介するようなものではない。

私たちは、よいから勧めるのであって勧めるからよいと考えるのではない。「善い」に推薦的指令的機能があることは確かであるが、「善い」の意味が推薦や指令であるというのは不合理である。

そもそもヘアーがこのような定義をしたのは、「よい」の意味が非記述的(non-descriptive)であることを示すためであったのだが、謂う所の「非記述的」は非質料的という程度の意味なので、記述的でないなら情動的だという推論は成り立たない。では非記述的であって、「勧める」「指令する」等々がそこから派生してくるような「善い」の意味とは何か。私たちが以前提案した「よい」の定義はこの要件を満たしうる。「よい」とは目的に対する手段/形態の有用性である。

ヘアーも言うように「よい」をこのように定義しても何がよいかは質料的記述的には依然として決らない[35]。しかしながら「よい」と「よいの根拠となる属性」(good-making properties)との関係は、かなり判然となるであろう。例えば子供のおやつという目的には「甘くて果汁が多い」という属性が、ケーキのデコレーションという目的のためには「身がひきしまっていて赤くて大きい」という属性が《判定基準=good-making properties》となる。

このように一方で「Aはよい」を「BのためにはAはよい」で定義しておきながら、他方「Cすべきだ」を「BのためにはCをすべきだ」で定義することによって、つまり「よい」と「べし」を「ために」(目的)によって定義することによって、目的論的倫理学は、価値論と実践論をヘアーよりも内的に総合することができる。

もちろん普遍化までもが目的論的に説明できるとまでは主張しない。各人の諸目的の相互承認を可能にしているのは論理だからである。だが行為の原則の適用条件の決定や原則相互の葛藤の解決においては、形式的論理的制約もさることながら、最終的な決め手となるのは価値や欲求などの実質的なものである。目的論的倫理学は、目的の概念を手掛りに実質的なものの内部にまで立ち入るが、ヘアーはそれをしない。なぜならば、選好の内容は所詮趣味に関するプライベートな事柄に過ぎないからである。

それゆえヘアーは right を語っても good を語らない。「理想」を追求する狂信的理想主義者が他者の利益を無視して good から ought を導出するのに対して、「正義」を追求する功利主義者は、他者の利益を考慮して right から ought を導出する。good には比較級があるのに right にはそれがないのは good が趣味を根拠にしているのでその内容が多様であるのに対して、right は論理を根拠にしているのでその根拠が一義的であるからである[36]。そこで寛容の精神を全うするべく ヘアーは“選好の対象”から“対象の選好”へと関心を移行させてしまったわけである。

このヘアーの功利主義に対する目的論からの批判は次の三点にまとめることができる。まず

  1. 彼は選好内容を少なくとも当人によっては自明で既知のものであると考えている。しかし私たちが自分の選好と考えているのは表層の欲求であって、深層のないし根源的なすなわち究極の欲求ではない。彼は多くの英国の哲学者と同様に、社会制度からは独立自存の個人の選好から議論を始めるが、現実の個人の選好はむしろ逆に社会制度によって歴史的文化的に規定されている側面が強いので、それだけに選好が“イデアロギー的に歪曲”されている可能性が常にあるのである。このイデアロギー的欺瞞をヘアー流の共感の倫理学は見抜くことはできない。ここにおいて彼の理論の保守的性格は明らかである。社会制度を根本的に変革するというようなことは彼の衝突調停の倫理学には不可能なのである。しかしたとえ選好内容を正確に知りえたとしても、
  2. これを強度という点で比較することは技術的に不可能である。ヘアーは、何度も繰り返すように、批判的レヴェルにおける原則葛藤の調停に際しては、中立的であるべく原則の内容に立ち入ることなく外面的な強度だけで判断しようとするのだが、実際にはあらかじめ直観によって判断しておいて、しかる後に“強度による客観的な比較の結果”を自称しているだけではないのかという疑問が生じる。この難点と相即して、さらに
  3. 批判的思考によって得られた結論は、間主観的な説得力を持たない、という点が指摘される。ヘアーの二層理論は、一方で直観、他方で想像力を根拠にしているが、どちらも内省的感覚的確信の域を出ないのであって、対他的正当化の役には立たない。例えばもし議員が「A議案とB議案のそれぞれについて、1億の全国民の立場に逐一自己を移し置き(!) 、その選好をフルに想像した結果、AよりもBを採択したほうが、選好の強度が強かった」と内感を告白して他の議員を説得させようとすることなどできない。

以上列挙した三つのアポリアを、私たちは1.目的論的還元、2.目的論的構成、3.目的論的破壊によって克服すればよいのである。これは「目的論的還元・構成・破壊」で説明した通りである。

4. メタ倫理学から規範倫理学へ

超越論的目的論的倫理学はいかにして倫理的言説の正当化というメタ倫理学の根本問題を解決しうるのか。還元・構成・破壊という私たちの方法の必然性を示すには、具体的な倫理的ディスコースの分析を通して、メタ倫理学の立場が目的論へと対話弁証法的(dialog-dialektisch)に移行することを示すのは一つの方法である。

対話例は何でもよいのだが、ここでは学校教育はいかにあるべきかについての議論を取り上げることにする。Aは教育評論家、Bは財界人である。

A : 今の日本の学校では、世の学歴至上主義の影響を受けて画一的 教育による偏差値序列・偏差値選抜が行われていますが、このような教育では子供たちは他人を蹴落とすことしか考えない偏狭な人間になって、いじめの問題もいつまでたっても解決しません。落ちこぼれの子供も明るく楽しい学校生活が送れるような、そういう愛の教育によって初めて人間味豊かな子供を育てることができるのではないでしょうか。

B : 君、そんな生ぬるいことで子供の教育ができると思っているの かね。現実の社会をよく見たまえ。どこでも弱肉強食だよ。そういう厳しい競争を通してこそ、真の人間形成がなされるんだ。学校を馬鹿の天国にしないためにも、競争を通した相互の切瑳琢磨があってもいいと思うね。

この対話の直観主義的ムーア的段階においては、評論家と財界人はそれぞれ自分の趣味判断的な価値・規範をそれぞれ表出しているにすぎず、 そこには和解の余地はない。このAとBの対立は、以前の四項図式を用いて表現すれば、以下の図のようになる。

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評論家Aと財界人Bの直観的価値の対立

これは以前「自己実現」(A) と「他者帰属」(B) と名付けた、二つの精神的目的の永遠の葛藤である。もし情動主義者が言うように倫理的ディスコースがたんに感情の表出に過ぎないなら、両者の間にはもうこれ以上議論に進展はないはずである。趣味は争えないのだから。しかし両者は普遍的妥当性要求をもった倫理的主張である。

合理的な和解を求める評論家Aは、この直観レヴェルでの原則の葛藤を解決するために、ヘアーが提唱する「批判的思考」によって財界人Bを説得させようとするかもしれない。これが対話の第二段階である。

A : でも、もっと生徒の気持ちを考えてみるべきではないでしょう か。あなたは、学歴社会の被害者の選好を十分に想像して、その立場に自己を移し置き、それでもなおかつ弱肉強食たれと指令できますか。

B : 確かに落ちこぼれの気持ちがわからないでもない。だがそう言う君こそ優等生の選好を十分に想像する必要があるのではないのかね。怠け者と同じ扱いでは優等生もさぞ迷惑することだろう。しかしたとえ優等生の選好の強度よりも劣等生の選好の強度の方が強いとしても、だからといって直ちに実力社会を潰せということにはならないはずだ。勉強などというものはもともと嫌でもやらなければならないものなのだから、こんなものにいちいち子供の選好を斟酌する必要はないのではないのか。

ここでBは、たんに優等生の選好と劣等生の選好を強度の点で比較することが技術的に困難であることを指摘するのみならず、このような方法の正当性そのものを疑っている。Bにとって劣等生の怠けたいという選好はいかがわしいものであり、Aにとって優等生のエリートになりたいという学歴社会=産業社会=資本主義のイデアロギーによって生み出された選好はいかがわしいものなのである。

かくして評論家Aは、ヘアー流の共感倫理学の限界に気が付き、目的論的還元の方法によって財界人Bを説得させようとする。対話の第三段階:

A : それでは一つお聞きしたいのですが、なぜ学生達はあんなに一生懸命に勉強しなければならないのですか。

B : それは君、今の高度技術社会の有能な担い手となるためだよ。

A: 高度技術社会はなぜ必要なのですか。

B : それは日本の、ひいては全人類の福祉に貢献するため、つまり人類が快適で豊かな生活を送ることができるためだよ。

A : にもかかわらず生徒たちは「快適で豊かな生活」を送ってはいけないというのは自己矛盾ではないのですか。

B : 君は努力目標と努力そのものとを混同している。結果の価値も さることながら、真に美しいのは、熱心に仕事に取り組み、未知の分野に果敢にチャレンジして世間に役立つ人間になろうとする企業精神、これなんだ。

A : あなたのおっしゃること自体はもっともですが、視野が一面的 なのではないのですか。自己実現は人間や社会が求める唯一のものではないわけで、例えばビジネスの世界でも《和の精神》が日本的経営の必須のモメントとなっているわけでしょう。テクノロジーが人類の福祉に貢献するといっても、それは政治的安定を前提してのことですね。しかし健全な民主主義社会を維持するためには各国民が教養、それも断片的な技術知ではなくて全人格的な教養知を持っていなければならないわけで、そのためにも学校教育はたんに試験によって生徒に知識を詰め込ま せるだけではなくて、読書や討論によって教養を深めることができるように生徒に“ゆとり”を与えるべきではないでしょうか。

B : (沈黙)

果たしてこれで財界人Bは納得するであろうか。納得すればそれでよいのだが、実際にはそううまくはいくまい。教育評論家Aの話に苛立ちを感じてきた財界人Bは、規範の“超越論的基礎付け”に熱弁をふるうAの説得をもうわのそらに煙草をふかし始め、あまつさえ腕時計にちらちら目をやりながら「ちょっと用事を思い出したのでこれで失敬」などとうそぶきながら出て行ってしまうかもしれない。これに対して評論家Aは何ら成す術を知らない。― これが《コミュニケーション的理性》の限界なのだ。

かくして教育評論家Aは、“自由浮動型”の一介の知識人である自分のディスクールと膨大な資本の蓄積を背景にした財界人のディスクールとの間にある権力的な差異に痛感の思いを新たにする次第であるが、ここでロゴス中心主義的な目的論的倫理学は差異の戯れへと転落して消滅するわけではない。目的論的還元・構成・破壊は、私たちの実践において問題になっていることは結局のところ主体(システム)の存在であるということ、全ては権力への意志であることを暴露する。目的論的倫理学は、真理が権力闘争の産物であることを認めた上で、その権力構造になお目的論的ロゴスを見出さなければならない。

次に目的論による正当化ではなくて、目的論そのもの正当化という問題を扱おう。設問はこうである。なぜ私たちは価値や規範を目的論的に還元しつつ構成/破壊しなければならないのか。

この問いに対しても私たちは、通常の規範を基礎付ける時と同じように答えればよい。すなわち還元・構成・破壊“する”ことは一つの《行為》であり、それゆえこの行為の原則は、その妥当性を目的論的に還元・構成・破壊することによって正当化される。超越論的目的論的還元の根本動機は「厳密な学としての倫理学」である。私たちは直観的な価値判断・当為判断に導かれて 多くの過ちを犯して後悔し、正確な価値判断・当為判断を下したいと切実に願うようになる。この目的が必然的である以上、その手段/形態である目的論的還元・構成・破壊の当為化も必然的なのである。

しかしここで人は、目的論的還元・構成・破壊を目的論的還元・構成・破壊によって正当化することは循環論証ではないのかという疑念を抱くかもしれない。確かに循環論証である。しかしもしも目的論的還元・ 構成・破壊の方法を目的論的還元・構成・破壊以外の方法で正当化するならば、その方法をいかにして正当化するのかという更なる同じような問題が生じるであろう。いやそれ以前の問題として、すべての行為は目的論的還元・構成・破壊によって正当化されると言っておきながら、目的論的還元・構成・破壊という行為は目的論的還元・構成・破壊によっては正当化されえないと言うことは自己矛盾である。

こうして私たちは、自己矛盾か循環論法かという正当化の方法を正当化するときに直面せざるをえないディレンマに直面する。このディレンマをいかにして乗り越えるか。デカルトのように不可疑で自明な出発点を作ってしまうか、それともハイデガーのように循環こそが真理であると開き直るか。

しかしながらこの自己矛盾か循環論証かというディレンマは、他のディレンマと同様、ある一つの事態の二つの現れに過ぎない。つまり究極的真理は、それがコギトの如き点であるか循環する円であるかを問わず、基礎付けることができないのであって、いやむしろ基礎付けることができないがゆえに究極的真理は《究極的に》真理なのである。

ムーアの表現を借りて言えば、それは自己自身を真理の証拠(evidence)とするほかがないゆえに自明(self-evident)なのである[37]。したがって目的論的還元・構成・破壊を他の方法によって基礎付ける必要はない。それは私たちが合理的な実践的思惟において常に暗黙のうちにではあるが前提にしている方法であると言えばそれで十分なのである。

そのような暗黙の前提をなぜことさら超越論的反省のもとに対自化しなければならないのかと後期ヴィトゲンシュタインの影響を受けた人なら問うかもしれない。超越論的目的論などという反省的思弁は「…のために」という日常言語が仕事を休んでする言葉のお祭りであり、哲学者の病気であると。だが、お祭りもまた「生活形式 Lebensform」の一つでなのであって、病気扱いするのは不適切である。要はメタレヴェルを自己言及的に対象レヴェルへと内在化させつつ、自己関係性の論理を貫くことなのである[38]。ヴィトゲンシュタイン自身次のように言っている。

哲学が“哲学”なる語の使用について語るなら、第二階の哲学がなければならないと考えることができるかもしれない。しかしそうでは全くないのであって、その事情は、正字法が“正字法”という語をも扱わなければならないからといって、第二階の正字法が存在するわけではない事情に対応している。[39]

確かに私たちは目的論的還元・構成・破壊なる反省的方法を自然的態度において用いてはいない。目的論的還元・構成・破壊の目的は倫理的判断の厳密化であるので、逆に言えば厳密さを要求しないような場合(例えば日常の些細な行為の決定)においては、いちいち目的論的に還元する必要はないのである。このように目的制約的妥当性しか認めないことは、常に還元することを説く絶対主義や還元すべきときとそうでないときとの区別ができない相対主義から区別された相関主義のテーゼに基づくものである。

それゆえ私たちの論敵は目的論的還元・構成・破壊を全面的に拒む人でなければならない。だがこのような人は「なぜ私は、自分の行為や価値を正当化する時に目的論的に還元しなければならないのか」と問うことはできない。このような問いは、「なぜ私は理由を問わなければならないのか」という問いが自己矛盾的であるのと同じぐらい自己矛盾的である。そこで私たちの“論”敵は、このような問いすら立てない直観と感情に埋没した人でなければならない。そしてこのような人とはもはや対話は不可能である。対話が不可能な精神錯乱者は、精神病院に幽閉されるなどして《私たち》の言語共同体から追放される。真理は《権力=中心》であり、周縁は排除される。

倫理的判断の基礎付けの問題にヘアーはどのように対処していたのであろうか。ヘアーは、メタ倫理学者の常として対象レヴェルとメタレヴェル、彼が謂う所の直観的レヴェルと批判的レヴェルを区別するが、批判的レヴェルが直観的レヴェルを正当化する同じ方法で批判的レヴェルが批判的レヴェルを正当化するわけではない。早い話、普遍化可能性が正当であるのは、普遍化可能性が普遍化可能だからではない。

そこで彼はメタレヴェルのメタレヴェルとして「メタ倫理学的レヴェル」という段階を設定し[40]、批判的レヴェルの基礎付けを試みた。直観的レヴェルが第一階の関数化で、批判的レヴェルが第二階であるとするならば、このレヴェルは第三階の反省的規定ということになるのだが、結局、彼の結論は、それが道徳語の使用規則なのだというものであった。

このヘアーの日常言語分析の手法に対して、ひとは、道徳的思考を言葉の奴隷にしてしまうのではないのかという危惧を抱くかもしれない。これに対して、ヘアーは、次のように答える。

しかしながらもし私たちが私たちの言葉の意味[使用規則]を変えてしまうならば、私たちは問うている、そして恐らく答えているところの問いをそれによって変えていることになるだろう。私たちは道徳哲学を始める時ある道徳的な問いを立てているのであって、そしてその問いはある概念によって立てられている。もし私たちがその問いに答えようとし続けるならば、私たちはその概念に拘束される。[41]

道徳的な問いを立てる人は「なぜ私はそもそも道徳的でなければならないか」と問うことはできない。すべきかすべきでないかの問いは《いつも・すでに》超越論的合理性なる“地平”において生起するのであり、そして超越論的合理性の問いは、人-間の目的論的構造にその答えの基盤を持つのである。

5. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿の初出は、永井俊哉「現代英米倫理学の批判的検討(上) ― 超越論的目的論の立場から ― 」『一橋研究』通巻99号 41-64頁(一橋研究編集委員会 1993年4月30日)と「現代英米倫理学の批判的検討(下)― 超越論的目的論の立場から ― 」『一橋研究』通巻101号 125-147頁 一橋研究編集委員会 1993年10月30日. である。その後、加筆を行って、1997年に電子書籍の一部としてウェブ上で公開し、2021年に、さらに改変して、単独の記事として独立させたのが本稿である。
  2. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 228.
  3. Ayer, Alfred Jules. Language, Truth and Logic. 1936. Penguin Books. p. 142.
  4. Ayer, Alfred Jules. Language, Truth and Logic. 1936. Penguin Books. p. 140.
  5. Stevenson, Charles. Ethics and Language. 1944. Yale University Press. p. 21.
  6. Stevenson, Charles. Ethics and Language. 1944. Yale University Press. p. 26.
  7. Ayer, Alfred Jules. Language, Truth and Logic. 1936. Penguin Books. p. 142.
  8. Bühler, Karl. Sprachtheorie. Die Darstellungsfunktion der Sprache. 1934. Uni-TB. GmbH. Stgt. p. 24.
  9. Stevenson, Charles. Ethics and Language. 1944. Yale University Press. p. 30.
  10. Stevenson, Charles. Ethics and Language. 1944. Yale University Press. p. 139.
  11. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 13.
  12. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 82.
  13. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 102.
  14. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 184.
  15. Wittgenstein, Ludwig. Lectures and Conversations on Aesthetics, Psychology, Religious Belief. 1970. Basil Blackwell Publishers. ed. Cyril Barrett,17.
  16. Wittgenstein, Ludwig. Lectures and Conversations on Aesthetics, Psychology, Religious Belief. 1970. Basil Blackwell Publishers. ed. Cyril Barrett,19.
  17. Hare, Richard M. Freedom and Reason. 1965. Oxford University Press. p. 155.
  18. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 17f.
  19. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 30.
  20. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 108.
  21. 全称化可能性については、内井惣七氏の「倫理的判断の普遍化可能性について」(人文学報38号1974年)を参照。内井氏のこの論文には次の三つの点で疑問を感じた。(1)氏は「冠頭標準形が全称記号で始まるけれども個体定項を含んでいる」命題は個別的全称形を持ち、「冠頭標準形が全称記号で始まり、かつ個体定項を全く含まない」命題は非個別的全称形を持つと言う(同22頁)。しかし本論で示したように、両者の間には本質的な相違はない。飯田隆氏を援用して言えば、個体定項「ソクラテス」は「ソクラテスるもの」というように述語+変項に置換できる(飯田隆『言語哲学大全』剄草書房 1987年,208 頁)。内井氏は「非個別的全称判断を前提している」を全称化可能性と呼んでいる(24頁)が、「非個別的」は削除されるべきではないかと思う。(2)氏はまた「記述的意味を持つ判断が全て普遍化可能性である というのは誤りである」(25頁)とヘアーを批判する。例えば「ニクソンはアメリカ人である」という記述的判断は、「ニクソンと適切な点で類似の人は全てアメリカ人である」と全称化しうるが、この適切な点とはアメリカ国籍を持つということであり、これはアメリカという個体に言及する性質であるので普遍化されえないというわけである。しかしこの全称判断は「その国の国籍を持つ人はその国の人である」というように普遍化されるのではないか。非道徳的行為は、それの普遍化を当人が欲求できないという意味で普遍化不可能なのであって、論理的には全ての原則は普遍化可能なのである。内井氏は、倫理的判断は記述的意味を持つがゆえに普遍化可能なのではないというテーゼから、さらに普 遍化可能性の規範的性格を主張する(29頁)が、普遍化可能性そのものはたんに論理的可能性として事実的に存立しており、現実に普遍化して自分の原則を吟味することが各人の規範的当為なのではないだろうか。(3)「法的な当為はその範囲内では全称化可能であるが普遍化可能ではない。例えば、同じ売春という行為でも、日本では現在これを法的に禁じているけれども、西ドイツの一部あるいはアメリカのネヴァダ州の一部では合法的である(空間的な制約)。また同じ日本においても、売春禁止法が発効する以前と以後とでは話が違ってくる(時間的な制約)」(32頁)。この法と倫理の区別にも問題がある。《実定法は、成立時から廃止されるまでかつその立法府の管轄領域内においてのみ妥当である》ことを条件法導入すれば、法もヘアーが言う意味において「普遍的 universal」でありうるからである。
  22. Hare, Richard M. Freedom and Reason. 1965. Oxford University Press. 6.3.
  23. Hare, Richard M. Freedom and Reason. 1965. Oxford University Press. p. 93.
  24. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 119f.
  25. Wittgenstein, Ludwig. Blue and Brown Books. 1964. Basil Blackwell Publishers. p. 55.
  26. 大庭健. 『他者とは誰のことか―自己組織システムの倫理学』 1989. 勁草書房,16-17頁.
  27. Hare, Richard M. Freedom and Reason. 1965. Oxford University Press. p. 39.
  28. Hare, Richard M. Freedom and Reason. 1965. Oxford University Press. p. 40.
  29. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 52.
  30. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 54.
  31. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 63.
  32. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 105.
  33. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 124.
  34. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 85.
  35. Hare, Richard M. Language of Morals. 1952. Oxford Clarendon Press. Kindle Edition: 1991. p. 99.
  36. Hare, Richard M. Freedom and Reason. 1965. Oxford University Press. p. 153.
  37. Moore, George Edward. Principia Ethica. 1903. Cambridge University Press. Kindle Edition: 2016. p. 143.
  38. ヴィトゲンシュタイン自身次のように言う「哲学が“哲学”なる語の使用について語るなら、第二階の哲学がなければならないと考えることができるかもしれない。しかしそうでは全くないのであって、その事情は、正字法が“正字法”という語をも扱わなければならないからといって、第二階の正字法が存在するわけではない事情に対応している」(Philosophische Untersuchungen, 121)。
  39. Wittgenstein, Ludwig. Philosophische Untersuchungen. 1951. Ludwig Wittgenstein Schriften. Bd.1. Suhrkamp, 121.
  40. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 26.
  41. Hare, Richard M. Moral Thinking ― It’s Levels, Methods and Point. 1981. Oxford University Press. p. 18.