幸福とは何か
たんに幸福と感じていれば、それが幸福なのか。それとも、本当の幸福には、それ以上の条件があるのか。SF的な思考実験を通して考えてみよう。

1. 感覚は騙される
幻肢と呼ばれる現象がある。手足を失ったにもかかわらず、なくなったはずの手もしくは足が未だ存在するかのように感じる幻覚のことである。実際には切断面に生じた刺激であるのに、「親指にかゆみを感じる」とか「小指に圧迫感がある」というように、神経のかつての末端に生じた刺激であるかのように感覚してしまう。これは手足にかぎった現象ではない、人間の五感を司る神経はすべて同様にだますことができるのである。
この現象に注目したあるベンチャー企業家が、脳管理会社を作ったとしよう。人体から、脳を取り出して電線につなぎ、その脳に快楽刺激を送りつづければ、その人は一生幸福な人生を送ることができる。脳は、実際には身体を失ったのにもかかわらず、いまだに身体を持っているかのように錯覚する。あなたは、脳管理会社があらかじめ用意したプログラムにしたがって、すばらしい恋人ととろけるような恋愛をしてめでたく結婚し、順風満帆に出世して名声と巨万の富をものにし、かつ自分の子孫が同様の幸福な人生を送っていることを見届けつつ、円満な人生を終えることができる。
やじ馬根性でこの会社を見学しに行くことにしよう。その会社では、たくさんの電線でつながれた脳が各々水槽の中に保存されている。その異様な光景をながめていると、経営者が近づいてきて、あなたに、全財産を提供してこうした脳管理サービスの契約をするように強く勧める。さあ、あなたならどうする?
戸惑う顧客に対して、経営者は、「もし不安を感じているのでしたら、一度、契約した人たちの声をお聞きください」と言って、音声入力装置に向かって、「みなさーん、最高ですかー?」と問う。するとノーミソたちは、音声出力装置を通して、一様に「最高でーす」と答える。
そう、この話は、全財産をなげうってカルト教団に出家するかどうかという話とよく似ている。あなたは、洗脳された信者が、どんなに熱心に教団のすばらしさを語っても、たぶんその話を信用しないであろう。同様にあなたは、契約を結んだ幸福そうなノーミソたちに対しても、軽蔑的な視線を投げかけつつ、「そんなのは本当の幸福ではない」とつぶやきながら、脳管理会社を後にすることであろう。
2. 本当の幸福とは何か
しかし私たちが「ホントーの幸福」と呼んでいるものは、電線につながれたノーミソたちの「最高でーす」とどう違うのか。私たちは、周囲の評判が良いと幸福を感じるが、その評判は社交的なお世辞かもしれない。私たちは、苦労の末に何かに成功すると、幸福を感じるが、その成功は、自分の努力や才能のおかげではなくて、たまたま偶然が重なってもたらされたものかもしれない。こうして疑っていくときりがない。菊地寛の忠直卿行状記に登場する殿様のように、懐疑地獄に陥っていくことになる。
結論として言えば、真の幸福と電線につながれたノーミソの幸福との間に本質的な違いはない。このことを確認するために、電線につながれたノーミソが、「ホントーに幸福」と感じるための条件を探っていこう。
まず、自分が体験していることが、幻想ではなくて、現実だと思っていなければならない。もし幻想だということがわかっているならば、ハッピーエンドのドラマを見ているようなもので、少しも楽しくない。だから契約者の脳を初期化して、脳管理の契約を忘れさせ、人生を誕生から再スタートさせなければいけない。
さらに産まれたときから楽しいことばかりだと、ちょうど甘いものばかり食べていると味覚が麻痺してきて、むしろ気持ち悪くなってくるように、幸福を感じなくなるので、適当につらいことや悲しいことを体験させなければいけない。法の華三法行でも、信者は「足裏診断」とやらを受けて、「あなたは3ヶ月以内に癌で死亡する」と宣告され、いったん地獄に落とされてから「救済」されて初めて「最高でーす」の境地に至ることができる。最高の幸福を体験するためには、最低の不幸を体験しなければならない。良い意味でも悪い意味でも、電線につながれたノーミソは、今の私たちと同じ種類の人生を送らなければならないのである。
真の幸福も偽の幸福も、幸福を感じる感覚のレベルでは違いがない。しかし幸福の根拠となる認識が、真理に近いか遠いかという違いはある。アンケートを行うと、先進国よりも発展途上国のほうが、「自分が幸福だ」と感じている人の割合が多い。しかし私たちの多くは、「地上の楽園」に住むと信じている北朝鮮の人々が、自分たちよりも幸福だとは考えていない。
「真理とは何か」で述べたように、真理は、それに基づいて行為することが、長期的な生存に貢献する可能性があるかどうかを判定基準とする。
3. 幸福はシステムを維持するための感情である
北朝鮮の独裁体制は、長期的な維持が難しい。法の華三法行の寿命も短かった。脳管理会社が倒産した時、契約者のノーミソはどうなるのだろうか。その運命は、教団の解散で路頭に迷う出家信者の運命と同じである。本当の幸福と偽りの幸福の違いは、持続可能か否かというところにあるのだ。
ところで、もしみなさんがある朝目を覚ますと、見たこともない水槽の中にいて、見たこともない人から、「あなたが生まれてから今にいたるまで送ってきた人生は、実は脳管理会社が提供してきた幻想でした。しかし残念ながら、その会社は本日倒産したので、これ以上サービスを続けることはできません」と言われ、ふと鏡を見ると、自分が身体を持たない電線につながれたノーミソであることに気が付いた時 … さあどうする?
4. 追記:マトリックスについて
読者から、『マトリックス』のパクリだと指摘された時、マトリックスが誰かわからなかった。その後、映画のタイトルだと知り、遅まきながら、2003年6月6日、日本テレビで放送された映画を見た。なるほど、みんな似たようなことを考えるものである。これまで現実だと思っていた世界が実はバーチャルな世界だったと気付くストーリーが、これまた映画というバーチャルな世界の出来事だったという二重の否定で、現実が肯定されている。マトリックスの製作者が何からヒントを得たのかわからないが、「これまで現実だと思っていた世界が実はバーチャルな世界だったと気付くストーリー」の一番古い例は、プラトンの洞窟の比喩と荘子が見た蝶の夢(蝶が見た荘子の夢?)だ。重要なことは、何が本当の世界なのかという問いに答えることではなくて、なぜ私たちは、何が本当の世界なのかを問わなければならないかという問いに答えることだ。ヘーゲルが洞察したように、絶対に覚めない夢は、夢ではなくて現実なのだ。夢から覚めるか、あるいは少なくとも覚める可能性が現れ、夢に安住していると、夢の中での自分の存在が危うくなる可能性が生じて初めて、夢に現実としての価値がなくなる。逆の場合は、マトリックスに登場する裏切り者のように、夢から覚めないほうが良かったと思うことになる。
ディスカッション
コメント一覧
映画「マトリックス」とカルト集団を掛け併せた駄作と拝察しました。真理は、もっと深いところに根ざしています。我々の五感で察知できるものは真理のごく一片に過ぎず、いまだ真理そのものを明確にした科学者、哲学者は存在しません。だからこそ非科学的な宗教に身を委ねる人間が後を立たない訳です。言葉や感覚で表せない真理の偉大さが、人類が畏怖して来た「神」の存在なのかも知れません。貴殿がパンドラの箱を開いた以上、生を与えられる限りこの追求を止めてはなりません。そう、この「哲学」することが貴殿の貴殿たる存在の証であるからです。
私たちは、有限な存在であるがゆえに、真理を完全に認識することができません。このことを「だから私たちの努力はすべて空しい」と悲観するか、「だから私たちの認識には無限の進歩の余地がある」と前向きに捉えるかという違いが、宗教と科学の違いになります。宗教と言っても、いろいろあるわけですが、その多くは主体性の放棄を前提にしています。私は、「言葉や感覚で表せない真理の偉大さに畏怖する」ことは、真理の放棄だと考えています。
宗教に関する認識が不足しています。4大宗教のうち「人は有限の存在であるから、努力しても空しいと悲観」しているものはありません。もしそのような新興宗教があるとすれば、それこそオカルト、いやカルト教団です。では参考まで簡単にエッセンスだけ述べます。
まず「仏教」は、空と因果応報がその真髄です。空とは何も無いと言う意味ではなく、唯物論的に厳然として存在する空です。空を述べた学者、哲学者は多いですが、空そのものを完全に規定した人は未だいません。では、因果応報とは。これは人にも努力を求めています。出家した専門化集団すなわち僧侶は、悟りを開くために極めて厳しい戒律を守り修行するのがその具体例です。魂は、悟りを開くまで輪廻転生を繰り返し現世で修行を積むことを義務付けられているのです。
しかし、日本で中世に広まった大乗仏教(最澄、親鸞、日蓮等)は、いずれも無知な大衆(農民)への布教を優先するあまり仏教の戒律そのものを捨て去りました。この時点で、日本の仏教は、真の仏教であることを放棄して、新興宗教として広まった訳です。現代の日本の多くの僧侶が、SEXし、酒肉を食し、さらには脱税し、綺麗な衣装を纏い、高級車に乗り、贅沢三昧をしているのは、戒律を捨てたがゆえの当然の成り行きなのです。因果応報とは字のごとく結果には、必ずそれに至る原因がある、努力(善)をすればするなりに、しなければしないなりにと言うことです。お気付きでしょうが、人間に対し主体性の放棄を求めてはいません。
次に経典宗教(仏教には絶対的な経典は無いことに対して言う)である「キリスト教(主イエス・キリスト)」や「イスラム教(主アッラー)」ですが、これらは仏教と反して完全なる運命論を展開しています。簡単に言うと、人の人生は幸福になるか否かも含めてすべて神によって定められていると言うものです。このことをすべて「人は非力なるがゆえに努力することは空しい」と結び付けるのは極めて軽率、短絡思考です。では、この場合、人は何に努力するのか?ですが、これは極めて明白です。そう、その通り、それぞれの経典の戒律、教えが絶対であり、これを守るべく主体的に努力するのが人間(信者)としての最大の義務なのです。決して客体的に身を任せてしまうことでは有りません。極めて簡単に述べましたが、紙面と時間の制約で次に進みます。
最後に「儒教」ですが(ここでも日本の儒教とは異質のもの)、これは一言で言うと鉄人宗教です。国家の安泰を主眼に置いており、そのためには大衆を治める政治家が倫理・道徳において完全であることを求めます。社会、組織、家族においては、その秩序の維持と厳守を最優先とするものです。これは日本に伝播すると早々に官僚主義と結付き、現代に至るまでその弊害を露呈している次第です。結論を言うと、鉄人になるために、また、倫理道徳を守り秩序を維持するために君主は客体的であって良い訳がありません。
以上が宗教に関する極めて短いエッセンスです。揚げ足を取りますが、「科学とは技術における無限の可能性の論理的、系統的探求」であって認識の無限の進歩ではありません。対外的物質の世界と内面的精神の世界の識別が未だ出来るに至っていないことが表れていると思われます。
畏怖することと放棄とは、論理的に全く繋がりません。真理の偉大さに畏怖しないということは、その偉大さどころか真理そのものを全く認知できていない証明であり、放棄するまでも無く放棄するものさえ全く無い状態を指します。真理の絶大さ偉大さを一瞬でも垣間見れば、それに畏怖せざるを得ません。それは、逃げたいという怯えの恐れでは無く、尊敬の念を超越したむしろ驚嘆の恐れであるはずです。絶対真理とは、それそのものの偉大さゆえに、宇宙や時空からすればゴミにすぎない小さな人間が、人類創生以来、内面的な精神上に、千差万別の「神」として存在を認め恐れ崇めてきたものなのかも知れません。
「それぞれの経典の戒律、教えが絶対であり、これを守るべく主体的に努力するのが人間(信者)としての最大の義務なのです」。
与えられた経典の戒律や教えを絶対視して、それを守るべく努力することが主体的なのですか。科学者には既存の学説を疑う自由があり、新しい学説を提示することがむしろ推奨されています。しかし宗教は、信者に戒律や教えを疑ったり、これを改作したりすることを推奨していません。私が、宗教の信者が主体性を放棄していると言ったのはこの意味においてです。
物質/精神を対外的/内面的と捉える古い二元論はいただけません。かつて自然科学は、物質とエネルギーしか扱いませんでしたが、現在では情報/エントロピーをも射程内に入れています。
もしこの世に、宇宙のすべての情報を知る存在者がいるとするならば、私はその存在者を尊敬するどころか軽蔑します。あなたは、電話帳一冊を丸暗記した人を尊敬する気になれますか。私は、自分にとって必要かつ重要な情報しか知りたいとは思いません。そもそも生物は、自分たちのサバイバルのために情報を得ようとします。滅びることがない存在者がいるとしたならば、その存在者には、情報は無用の長物でしょう。
「幸福とは何か」を読んでいて頭がこんがらがってきてしまったので、御教授ください。質問は以下の2点です。
1.「幸福」という概念の定義(基準)は?
「幸福」は、人それぞれ判断基準が違うものなので定義できないのでしょうか?どういう状態を「幸福」と考え、どういう状態を「不幸」と考えるのか、ということについての一般的な判断基準みたいものはないのですか?
2.人間は幸福を求めているのか?
そもそも人間は幸福になりたいと常に思っているものなのでしょうか?そうだとしたら、なぜ幸福になりたいと思うのでしょうか?
二つの質問には、同時に答えることができます。幸福とは、選択される状態です。人間は幸福を求めているというよりも、求めているものが幸福だと考えるべきでしょう。では、人々は何を求めているかといえば、それはネゲントロピー、平たく言えば自己保存であると答えることができます。自己保存を求めない人は、自己保存を求めないがゆえに、存在しなくなります。私の幸福の定義は行動主義的で、もっと内観的な定義が必要だと考える人もいるでしょう。幸福を快の意識で定義するのは、その典型です。そして「幸福とは何か」は、そうした hedonistic な幸福の定義を批判するために書いたものでした。
御回答ありがとうございました。「幸福」についてはよく分かりました。御回答の中に、「人々は何を求めているかといえば、それはネゲントロピー」という箇所があり、これについてもう少し質問させていただきたいのですが、この「求める」というのは、「人は、必ずエントロピーを減らすように行動(選択)する」ということなのですか?それとも単にエントロピーを減らしたいと「望む」だけで、行動しない場合や、行動が結果としてエントロピーを増すことになる場合があるのですか?
どのような行動/選択でも、それが行われれば、何らかの可能性が排除され、エントロピーが減ります。たんなる願望も、それが何が望ましいかに関する情報エントロピーを減らす以上、一つの選択です。ただ、私たちは、物質的・社会的存在でもあるわけですから、物質的エントロピーや社会的エントロピーを縮減しないたんなる願望や予想に反して増加させてしまう間違った情報には、価値を見出さないわけです。
本文及び、[投稿者メルトモチャン氏]との議論に関連してご意見及びご質問をさせて頂きます。
引用文「本当の幸福と偽りの幸福の違いは、持続可能か否かというところにあるのだ」と論じていらっしゃいます。
それに関連して、北朝鮮や法の華三法行を例に挙げていらっしゃいます。最近では、オウムも15年程で衰退しました。確かに、最近の新しい宗教は持続していません。
ただし、一般に3大宗教と呼ばれる「仏教・キリスト教・イスラム教」は(形は変えてきているとはいえ)、約2000年にわたって継続しているということは、少なくてもそれらの宗教は人々を幸福にしてきたという結果なのでしょう。
周知の通り、現在の日本はどちらかというと多神教で、また、宗教色が薄いですが(多神教だから宗教色が薄いのかもしれませんが)、世界レベルで考えると、宗教を取り入れている国の方が圧倒的に多い。
つまり、継続性があれば、宗教は人間を幸福にする要素があるということでしょうか。
ただし、継続性は結果だから、その時点で判断するのは難しそうですね。
ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理が、資本主義の成立に貢献したことを指摘しました。しかし、プロテスタンティズムの倫理自体が、近代になって生まれた、新しい宗教の形態でした。このように、宗教を含め、私たちの思想は、そのつど環境に適応できるように変化するものだと思います。