愛とは何か
愛という言葉は、しばしば「ワインをこよなく愛す」というように、「好き」と同じ意味で使われることがあるが、ここで問題にしたいのは、そうした嗜好としての愛ではない。といっても、物に対する愛とは異なった人間に対する愛という形で限定したいわけではない。異性をたんなるセックスマシーンとして弄ぶ人は、ワインを味わって飲む愛好家と同様、相手を自分の嗜好を満足させる対象としてしか扱っていない。では、私たちが「精神的」という言葉で形容したくなる、狭義の愛は、嗜好としての愛とどう異なっているのか。
1. 愛の三つの特徴
愛と呼ばれる現象には、次のような特徴が見られる:
1.1. 実利の見返りがない犠牲
人は、恋人の愛を獲得するために、そして愛のあかしとして、惜しみなく犠牲を払おうとする。リッチなOLが、ホストクラブの人気ホストの関心を惹こうと高額なワインボトルを購入するのはその例である。愛のあかしとして、他の異性との交渉を断念することも犠牲の一種である。しかしこの代償なき犠牲は、狭義の愛を嗜好としての愛から区別することには役立たない。ワイン愛好家が、お気に入りのワインを手に入れるために、高い金を支払うことは、個人的にはワインに興味のない輸入業者が金儲けのためにワインを購入するのとは異なって、自己目的的な消費であり、「実利の見返りがない犠牲」を払うことだからである。
1.2. 対象と一体になることへの欲望
ワイン愛好家は意中のワインを飲みたいと願うし、恋人はお互い抱きしめ合おうとする。物理的接近を伴わない場合でも、私たちは何かを愛する時、主客の対立を忘れ、対象に自己を見出し、対象と一体になろうとする。これも愛において幅広く見られる特徴であり、後で述べるように、恋人を愛することも、他者の中に自己を見出すことなのである。狭義の人格的愛に特徴的なのは、次の三番目の項目である。
1.3. 他者を媒介とした自己の存在の確認
私たちは、愛すべき対象が崇高だからこそ、多大な犠牲を払ってでも手に入れようとするのだが、実際には逆に、多大な犠牲を払うことによって対象を崇高な存在に祭り上げているとも言える。そして狭義の愛の最終的なねらいは、崇高な存在へと高められた他者から認められることを通して、自己を崇高な存在へと高めることなのである。一人のファンにとって、スター歌手は高嶺の花である。それでもコンサートに足繁く通い、殺到するファンの群れに混じりながら、手を差し伸べたところ、たまたまそのスター歌手が握手してくれたなら、そのファンは宙を舞う気持ちになるだろう。そのうきうきした気持ちは、ライバルのファンの数が多いほど、そして払う犠牲が大きいほど高揚したものになるものだ。
ここから、私は、嗜好としての愛から区別された狭義の愛の本質は、他者を媒介として自己の存在を確認するナルシシズムにあると主張したい。
2. ナルシシズムとしての愛
ナルシシズムとは、水面に映った自分の美しさに恋をしたギリシャ神話のナルキッソスに由来する言葉で、自己陶酔とか自己愛と訳される。ナルシシズムは、通常、性的倒錯と考えられている[1]。つまり鏡に映った自分の美貌にうっとりする人は、縄で縛られ、鞭打たれ、ローソクたらされて快感の叫びをあげるあの特殊な人たちと同じく、異常な倒錯者というわけだ。はたしてそうだろうか。
人間は誰でも、幼児のころはナルシストであることが知られている。生後6ヶ月から18ヶ月の間のいわゆる鏡像段階では、幼児は、鏡に映った自己を見て大はしゃぎする[3]。「鏡に映った自己」とは母親のことでもある。母親の笑顔は幼児に向けられている。だから幼児は、母親の笑顔の中に自己を見出す。そして幼児は、排泄物を贈り物として差し出す(犠牲とする)ことで、この愛を受け取ると空想する。これがその後のあらゆる愛の原型となる。
崇高なものに対する、愛と似た感情として、尊敬がある。尊敬の対象に対して、人は「私もああなりたい」と願望する。だから、愛が主として異性に向けられるのに対して、尊敬は主として同性に向けられる。例えば、男の子は、母親に愛を感じ、父親には尊敬の念を抱くものなのである。愛と尊敬は別の感情である。
愛欲が、崇高な存在へ高められた存在者から認められることによって、自らを崇高な存在へと高めようとする欲望だとするならば、愛欲は名誉欲とどう違うのだろうか。高嶺の花の恋人から愛を勝ち得て、自分の存在を認めてもらおうと努力することは、オリンピックで金メダルを獲得して、自分の能力を世界から認めてもらおうと努力することと同じなのか。先週、3度目の挑戦で金メダルを獲得した柔道の田村亮子選手は、「初恋の人にやっと巡り逢えたような気持ちです」と語っていたが、実際両者はよく似ている。しかし愛欲と名誉欲は同じではない。
このことを説明する前に、愛には、ギリシャ思想系のエロース以外に、キリスト教系のアガペーがあることを指摘しなければならない。アガペーとは、「アフリカの貧しい子供たちに愛の手を」と言う時の愛のことである。図式的に言うならば、イデア界への上に向かっての憧憬がエロースであるのに対して、人間への下に向かう神の慈愛がアガペーである。「憐れみは愛に近し」(Pity is akin to love.)という英語のことわざにあるように、「かわいそう」と「かわいい」は紙一重である。愛欲と名誉欲が異なるのは、後者には、アガペーの側面がないからである。
このように、エロースとアガペーを分けた上で、しかしどちらの愛もナルシシズムだと主張したい。みなさんの中には、「たしかに、勇敢な行為で恋人を喜ばせ、それを見て自分の勇敢さに心酔する男性とか、ステータスの高い男性と付き合うことで、自分のステータスの高さを誇示する女性とかは、エロースの喜びに浸るナルシストだと言えるだろう。しかし、子供にろくに食事も与えることができない貧しい近所の母子家庭を見て、私がかわいそうに思い、金銭を与える時、それは純粋に利他的な動機からなされるのであって、こうした崇高な愛の精神をナルシシズムとして価値を貶めようとするのは、おまえの心が歪んでいるからだ」と言って、私に反論する人もいるかもしれない。
では次のような思考実験をしてみよう。あなたが金銭を与えた母親は、「ありがとう」とも言わずに、お金を受け取ると、あたかも「もうあなたには用がない」とでも言わんばかりに、立ち去ったとしたならば、あなたはどう感じるだろうか。「なんだこいつは。せっかく助けてやったのに、御礼の一言も言わないなんて」とむかつくのではないだろうか。だがもしあなたの行為が純粋に利他的であるならば、飢えた子供が食事にありつけるだけで十分なはずだ。にもかかわらず、あなたが感謝の言葉を求めるのは、他者を援助することを通して、援助できる自分の存在を確認したいからである。
3. 愛の構造
ここでエロースとアガペーという二つの愛の形態を図でまとめてみることにしよう。話をわかりやすくするために、左側の愛する存在者が自分で、右側の愛される存在者が他者だと仮定する。
3.1. エロスの構造
エロスの構造は、以下の図のようになる。
ナルシシズムという鏡の関係において、私は鏡の向こうの他者としての自己を眺めると同時に、他者の視点から自己を眺めている。この鏡像的反転現象は愛においても見られる。エロースの図で言えば、青色の"eros"の矢印とそれとは反対方向の緑色の"appraise"の矢印がそうである。私は一方で他者の立場に身を置きつつ、自分によって愛される他者の喜びを想像し、そしてその他者から愛される喜びという二つの愛される体験を想像して悦に入る。点線で囲んだ四角は、そうした二つの想像上の存在で、失恋ではそれが幻想であることが暴露され、二つの想像上の幸福は、二つの幻滅の苦痛になる。
3.2. アガペーの構造
アガペーの構造は以下の図のようになる。
アガペーにおいて、愛する存在者は、私の慈愛に喜ぶ他者とその他者から感謝される自己を想像して悦に入る。しかしもし、相手が恵みを拒否するならば、点線で囲んだ四角は幻想となり、二つの想像上の幸福は、二つの幻滅の苦痛になる。
4. 利己主義と利他主義の対立の止揚
エロースとアガペーは正反対に見えるが、構造は同じである。ナルシシズムを性的倒錯と考える人は、ナルシシズムをたんなるエゴイズムだと考えている。しかしナルシストは、たんに他者の中に自己を見出すだけでなく、自己の中に他者を見出す。自己を愛することが、他者を愛することになるという鏡の反転現象である。この間主観的な反照関係において、利己主義か利他主義かという対立地平は止揚される。
ディスカッション
コメント一覧
こんにちは。19歳の男の学生です。今回の内容についてちょっと意見があります。
先生のおっしゃる、愛の本質は「他者を媒介として自己の存在を確認するナルシシズムにある」には全面的に賛成です。先生があげた例においてはそうだと思います。他者の中に自分の存在意義を置き、自分の中に他者という存在を置く。これを確認したいがためにある愛。そのとおりだと思います。
意見というのは、あげた例に問題があると思うのです。エロースでもなく、アガペーでもない愛。母親が子供に対して持つ愛。これはどうなのでしょう?先生の話では、エロースもアガペーもナルシシズムにあるといいます。これも賛成です。しかし、母親が子供に対して持つ愛(以下”母性愛)は、エロースでも、アガペーでもないと思います。
母性愛は生物学的に見て、本能だと思いますが、それが欠落している親の割合の多さを見ると、決してそれが本能だと片付けられる問題ではないと思います。母性愛は、見返りを求めていません。子供に感謝を求めてもいません。求めている親もいるとは思いますが、それは上記の親です。それもナルシシズムに置き換えることができるのでしょうか?
僕は男なもので、その辺よくわかりません。先生も男なので難しいとは思いますが、どう思われているのですか?母性愛についてはどう考えられますか?
私は、エロースもアガペーも本質的に同じであると主張しているわけで、さまざまな愛の形態をこの二つのどちらかに分類するという作業にはあまり意味がありません。実際マージナルなケースはいくらでもあるでしょう。母親の子供に対する愛は、明らかにアガペーですけれども。
ナルシシズムの鏡像的反照関係には、
1.他者の中に自己を見出す
2.自己の中に他者を見出す
の二つがあります。
1.親にとって子供は、自分の分身ですから、「他者の中に自己を見出す」ということは典型的にあてはまります。
2.「自己の中に他者を見出す」ということは、「自己の存在を、他者を媒介にして確認する」ということです。独身ならば、人生がいやになれば自殺するであろうひとが、「もし自分が死んだら、幼いこの子はどうなるだろうか」と考えて、自殺を思いとどまる時、その親は、愛する我が子の存在を媒介にして、自己の存在の重みを感じていると言えます。逆に、恋人に冷たく無視されて、自分の間主観的存在を感じなくなった人が自殺するということもよくあります。ここで言及した「感謝の言葉」は、「自己の存在を、他者を媒介にして確認する」ための必要十分条件ではありません。ただ、あの例では、感謝の言葉が何もなければ、「自己の存在を、他者を媒介にして確認する」ということは難しいでしょう。
愛とはナルシシズムであるということは、基本は、自己愛だということですね。しかし、性欲、つまり種族保存本能ですが、これについては、系統発生的に基本的に対象愛なのではないでしょうか?もちろん、両者は、複雑に入り混じりどちらがどうと区別しにくいのが実情だと思います。
私は、「愛とは何か」の冒頭で、嗜好としての愛を狭義の愛(他者を媒介にした自己愛)から区別しました。種保存なら、嗜好としての愛だけで可能でしょう。「愛しているわけではないけれども、セックスが好きだから」という理由でセックスする人が、男のみならず女でもいるそうです。
教養大学講義室時代からの読者です。
ルーマン社会学に興味を持ち、ネット上で酒井さんの日曜社会学にて永井先生の存在を知り、先生の超越論的哲学論文を読み、勉強させてもらって今に至っております。
私は工学系の人間のため哲学的教養がなく、その分哲学に対する好奇心が強く、毎日先生のページを閲覧しております。素人のためおかしい表現がありましたらお許し下さい。
今月のプレスプランでの「性書」にて、「愛」が語られており、試論編における「愛とはなにか」と合わせ読んで考えたことをメールさせて頂きます。
(1)精神的愛である「狭義の愛」=「エロス」と「アガペー」は「環境適応指向性」と「環境変化適応指向性」に対応している。エロスは、環境適応力ある”権力”を体現している相手に自己を同一化させたい欲望の表れであり、「アガペー」は、自己を環境変化適応させていきたいという欲望(自分の権力分散投資)の表れと考える。
(2)異性を対象とした「嗜好としての愛(好き)」=性選択的(性欲的、遺伝子戦略的)にも環境適応指向(美男美女指向)と環境変化適応指向(誰でもいい、または個性的指向)がある。
(3)精神的愛である(1)は、肉体的愛である(2)から(1)へ「オートポイエーシス」的に肉体から精神への発達史のなかで発展していったもの
という概念で愛を理解すると、環境適応指向=エロス的愛と、環境変化適応指向=アガペー的愛が、超越論的還元・構成・破壊のなかで語られている人間の根本動因「自己実現欲求=正義」と「他者帰属欲求=寛容」に還元される、という考えは、永井哲学の理論からずれていないと思うのですが如何でしょうか。
また、書籍編のなかにある「社会システム論の構図」において、「交換としての結婚」のなかで「恋愛のメディアは抽象的な意味での”贈り物”(=資本の犠牲)である」とも書かれており、愛を伝えるためには、自分の所有する資本をけずりとって贈る:
教養大学講義室時代からの読者です。
ルーマン社会学に興味を持ち、ネット上で酒井さんの日曜社会学にて永井先生の存在を知り、先生の超越論的哲学論文を読み、勉強させてもらって今に至っております。
私は工学系の人間のため哲学的教養がなく、その分哲学に対する好奇心が強く、毎日先生のページを閲覧しております。素人のためおかしい表現がありましたらお許し下さい。
今月のプレスプランでの「性書」にて、「愛」が語られており、試論編における「愛とはなにか」と合わせ読んで考えたことをメールさせて頂きます。
(1)精神的愛である「狭義の愛」=「エロス」と「アガペー」は「環境適応指向性」と「環境変化適応指向性」に対応している。エロスは、環境適応力ある”権力”を体現している相手に自己を同一化させたい欲望の表れであり、「アガペー」は、自己を環境変化適応させていきたいという欲望(自分の権力分散投資)の表れと考える。
(2)異性を対象とした「嗜好としての愛(好き)」=性選択的(性欲的、遺伝子戦略的)にも環境適応指向(美男美女指向)と環境変化適応指向(誰でもいい、または個性的指向)がある。
(3)精神的愛である(1)は、肉体的愛である(2)から(1)へ「オートポイエーシス」的に肉体から精神への発達史のなかで発展していったもの
という概念で愛を理解すると、環境適応指向=エロス的愛と、環境変化適応指向=アガペー的愛が、超越論的還元・構成・破壊のなかで語られている人間の根本動因「自己実現欲求=正義」と「他者帰属欲求=寛容」に還元される、という考えは、永井哲学の理論からずれていないと思うのですが如何でしょうか。
また、書籍編のなかにある「社会システム論の構図」において、「交換としての結婚」のなかで「恋愛のメディアは抽象的な意味での”贈り物”(=資本の犠牲)である」とも書かれており、愛を伝えるためには、自分の所有する資本をけずりとって贈る:
エロスは、ギリシャ人が完璧な裸体に対して持った性愛の欲望であるのに対して、アガペーというのは、イエス・キリストが、汝の敵を愛せと言ったときの愛ですから、環境適応指向=エロス/変化適応指向=アガペーという結びつけはそれでよいと思います。しかし、一夫多妻制ならともかくとして、一夫一婦制のもとでは、アガペーがなくても、変化適応(遺伝子の多様化)は実現できます。
今、すべての個体が高資本のパートナーを求めている、つまりアガペーがなくてエロスだけの、一夫一婦制の社会があると仮定しましょう。この場合、高資本のカップルから先に結婚が決まっていき、高望みをしていた低資本の個体は、分相応の相手で妥協せざるを得なくなります。もちろん、低資本の個体ほど結婚は難しいし、結婚しても、子孫が繁栄する確率は低くなります。だから、高資本で環境適応力のある遺伝子に重点的に投資しつつ、低資本ではあるが、多様性を備えた遺伝子にもリスク分散のためにある程度投資するという種の投資戦略は、この場合も実行されていることになります。
資本の落差がないなら、愛情交流は難しいかというとそうでもなくて、俗に「あばたもえくぼ」といわれるように、恋愛の初期の段階では、相互に相手が自分よりも高資本であるという幻想を抱きます。結婚すると、そういう幻想が崩れますが、そのころになると子供が生まれ、子供に対するアガペーを媒介にして、夫婦関係が維持されます。
ただ単純に愛とは
自分以外の人をとっても大切に思う気持ち・・ではいけませんか
それは自分を通して行われ自分が経験できる
自己を定義する上で最大のチャンスなのではないでしょうか
おしゃっている
他者の中に自己を見出す・自己の中に他者を見出すという事も
「あなたは私・私はあなた」つまり私たちはひとつであると解釈できますね。
たまたま開いたページで
何故こんなにも複雑に表現しているのか?
知識欲が持つ特有の優越感からなのか?・・と
大変興味深く拝見させて頂きました。
また他者を崇高な者に祭り上げてしまうという心理は
普段から感じている事だったので分かり易く勉強になりました
自分の人間関係にあてはめて、虚像を作らないよう気をつけたいです。
誰でも簡単に理解できるように
専門的な言葉がもっと少ないとありがたいです
ここが個人的な感想の場でなかったらすみません。
たしかに、通常の愛を理解するだけなら、このようなもってまわった説明は不要なのかもしれません。しかし、例えば、ストーカーなどの歪んだ愛はなぜ起きるのかといった問題を考えるとき、愛の構造について本格的に分析する必要が出てきます。
愛というものは、本来、生物学的に繁栄のために備わった種族防御及び自己防御の機能というものがあるのではないでしょうか?人間以外にも哺乳類などの動物には、親子愛、異性を争奪する行為、などの感情をつかさどる本能的な感情も見られますよね。そういった本能的な感情としての「愛」が人類の発展に寄与してきました。しかし、その後、宗教の誕生によって社会秩序が構築され、その秩序の枠組みの中に「愛」というものが組み込まれていきます。それが今日の社会通念の道徳として「愛」は複雑なものにいたったと推測します。
愛についての論理的説明、とても興味深く拝見しました。
「愛」がただ種の保存のためだけのものではなかったのに、アダムとエバの堕落以降、つまりはじめから誤ったものとなってしまったことを確認する現実です。
本来の愛は神から出発するのに、神からはなれてしまった人間が、その根本をみいだせずにいると思います。
なぜ、人間がつくられたか・・・その根源がわからずして、本来解決の道はないのではないでしょうか。宗教うんぬんではなく、向き合わなければならない根本です。ここをはずして、全ての解明の道はないのではなかろうかと考えます。
愛は同一化でもないし、所有でもない、ナルシシズムでもない。愛は何でもない、つまり全てなんだ。
愛という日本語は多義的ですね。たとえば、中国語では「愛情」と「愛」を分けており、もう少し議論の焦点が絞られています。永井さんの議論は、基本的には「愛情」の方の「愛」という人間の感情や欲望(愛欲、物欲、食欲)について語っていながら、神の愛という人間に対する受容と寛容の態度についても、基本的には人間の心理構造のもとに置かれるものとして語られていらっしゃり、前者と後者との区別が充分ではないと感じました。
両者は同じ「愛」という言葉で語られますが、後者の「愛」は人間の人間や物に対する「感情」や「欲望」ではありません。もちろん、人間もこの愛をもつことが可能です。しかし、この愛をもっている人間にとって、この愛は、感情ではなく、他者を許し、受け入れ、ケアするその人の眼差しや態度、あるいは他者とともに生きる姿勢そのものだと思います。したがって、この愛は、同一化でも、自己所有でも、ナスシシズムでもないと思います。この愛によって人間がもつ「大切にしたいという気持ち」は、「愛情」と同じかもしれませんが、それはその存在自体のかけがえのなさ自体に基づいており、自己を高めるためという自己の存在と結びついた心理状態や人間の欲望の一種ではありません。この意味において、2010年2月16日投稿の匿名さんのご意見に賛成します。
日本語でも中国語でも、愛一字だけなら、多義的です。多くの言語で、多義的な心的状態に対して、愛という一文字が使われているということは、それらの心的状態に何らかの共通点があるからで、その共通点が何であるかを考えてみる必要があります。
句読点が多い。かっこよく見せたい気持ちはマウンテンマウンテンだけど、所詮文献読んで考察した程度ですね。
句読点を減らし、「山々」を「マウンテンマウンテン」と表記するなどの文体上の工夫を凝らせということですか。学問において重要なことは、文体がかっこうがよいか否かではなくて、内容が真理か否かということです。
マウンテンマウンテンだなんて、それこそ読みにくく意味の無い表現ですね。。
永井先生のこの’愛とは何か’、楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。
みもふたもないおはなしですが、たしかに筋は通っています。
これ読んで生きる勇気なくすひともいるでしょうね。
つらい真理ですがキチンと受け止めたいとおもいます。
知るってことは残酷なことでもありますね。
愛という現象或いは運動について言及されていますが、まずは愛とはどのような具体的な現象や運動を対象に使用している用語なのか、検討の範囲を示して頂くと助かります。ストーカー行為までをも愛の一種に含めて論ずる時、文学的修辞としての逆説的な愛を連想してしまいがちな私も居ます。ワインに対する愛と人間間の愛とを分別するならば、ストーカー行為も分別しておくべきかと。
私見では愛とは何かを考察するならば、経済学、社会学、数学、生物学、運動生理学、医学等学際的視点から開始すべき究極的に困難な課題に思えます。
動物に愛はあるか、無機物にはどうか、意識体或いは純非物質存在との愛情現象つまり神の愛等は脳内の現象なのか。
エロス、アガペーで分類できる範囲は狭いように思います。
ストーカーに関しては、「ストーカーは何を求めて付きまとうのか」をご覧ください。ストーカーは、「他者の中に自己を見出す」場合の典型です。
該当項目拝読致しました。
ご提示のストーカー行為についての評論と
前回書きました本項目の愛の構造分類の不足感について
どのような補完関係にあるのかが理解できません。
あれも愛これも愛、と対象が飛躍して個別の構造の特殊性が
全体的構造の論理を破壊しているように感じました。
自己と他者と二元論的な叙述は、
自己の中の他者、他者に投影される自己
と交換不能な言葉遣いかな、
との感想を持ちます。
あくまで自己の中の他者は自己に含まれる属性であり
他者そのものではあり得ないからです。
現実の現象と認識としての自己或いは他者は、
峻別されるべきと思います。
本稿において私が試みたことは、「エロースとアガペーは正反対に見えるが、構造は同じである」という結論で書いたとおり、愛には様々な類型があるということを示すことではなくて、様々な類型があるように思われる愛も、その本質は「他者を媒介として自己の存在を確認するナルシシズム」という点で同じであるということです。「ストーカーは何を求めて付きまとうのか」も「分類の不足」を「補完」するために書いたのではなくて、愛に関する一般的法則をストーカーという特殊事例に適用するために書いたものであり、本稿の主張内容を修正するものではありません。
私は何でもかんでもすべて愛とは言っていません。例えば、「あくまで自己の中の他者は自己に含まれる属性であり他者そのものではあり得ない」と主張するあなたの「自己と他者と二元論的な叙述」は、他者を愛していない人の認識様態を示しています。
前項末尾の『…主張するあなたの「自己と他者と二元論的な叙述」は、他者を愛していない人の認識様態を示しています』
との指摘はまずは「愛とは何か」を論じる場でありながら「愛していない」などと『愛』の定義議論を放棄したとしか思えない言説ですね。
そもそもあの一文のみで他者を愛していない認識、と断言できる根拠や説得力は皆無かと存じます。
自他の認識作法に論理的不正確な頭脳の持ち主のわたくしですが、
わたくしなりに他者を愛しておりますのでまさに余計なお世話です。
議論になりませんので終わりとさせていただきます。
概念は、否定の否定によって反照的に定義されなければならないのだから、「愛は何でないか」がわかっていなければ、「愛とは何か」は理解できません。だから、愛していない時の認識様態を認識することは、愛の定義議論の放棄ではなくて、愛の定義議論に不可欠な作業です。
あなたは、常にいかなる人をも愛し続けていますか。そうではありませんね。愛している時の主客未分の状態は例外的な状態で、愛していない冷静な時には、人は自他を区別する二元論的な認識様態を示すものなのです。