自殺はなぜ悪なのか
「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。哲学的にこの問題を考えたい。[1]

1. 不公平な多数決
生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言いがたい。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言いがたい。
もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。
規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。
自殺は、常に悪とされてきた。神風特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、一見自殺を奨励していたようにも見えるが、彼らは「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。問題は、なぜ生命には一般に価値があるのかということである。
2. 善悪の基準は何か
生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力といった低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私(たち)のシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのネゲントロピーは私たちの価値の基準である。
自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で1/299792458秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復(トートロジー)に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。
3. 閉ざされたトートロジーのループ
「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーのループを超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命は善である。ゆえに生命は善である」というトートロジーを繰り返しているのである。
トートロジーのループから抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。

石原慎太郎が、戦争放棄を放棄するには、憲法を改正するよりも破棄しろと言ったことがある。日本国憲法は、自らを最高法規と規定し、憲法を改正するには、衆参両議院での2/3以上の賛成と国民投票での1/2以上の賛成が必要と定めている。もし、日本国憲法を最高法規として認め、それに従うなら、面倒な国会対策や世論操作が必要になる。しかし、クーデターを起こして憲法それ自体を否定するならば、憲法第98条に記されている最高法規の条項は、たんなる紙の上にあるインクのしみになってしまう。
「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。
もし、誰かが「自殺したい」と言い出すなら、私は、あらゆる手段を尽くして、その人に断念するように説得するだろう。しかし、それは、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はない。
4. 議論(1)安楽死は認めるべきか
関連トピックとして、システム論フォーラムの「安楽死について」での議論を転載します。
永井さんは人類の究極目的は生きることだと、なにかの記事で読んだので、気になったので聞いて見ますが、安楽死について永井さんはどう考えているのでしょうか?
私は容認派です。というのも、確か永井さんは価値とは低エントロピーのことだとまた何かの記事で見ましたが、私自身は価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかという考えだからです。永井さんはシステムの存続に価値を見出しているようですが、私は単に幸福に価値を見出しています。最もこれは永井さんの説を否定させるものではありません。幸福であるためにはまず生きていることが必要条件だからです。死んだら幸福も不幸も価値も何もありません。
というわけで、私はそういう価値観を持っていますので、不幸であり続けるシステムが存続することを善いことだと思いません。ですので、他に解決策が何もない場合、安楽死は認められるべきものです。
あと、これも聞きたいのですが、意識を持ち、不幸な感情を強く持ち、だがシステムを存続させる意味においては達成している、そんなようなものがいたとしたら、永井さんはそれに対してどういう評価を下しますか?
例えば人類を未曾有の危機が襲って、生きることに対して極めて貪欲な人意外は全員自殺してしまったとか、生きていくだけでも辛い環境とか、そういうような状況などです。人類には多様性がありますし、割に合わない行為をする人は見渡せば大勢います。だから私はどんなに不幸な状況が続こうと、そういった割に合わない行為をする人がかならず、例え生きること自体が苦痛であるような世界になったとしても生きようとする人がいて、生き延び、文明は続いていく、つまりシステムは存続し続けるのではないかと前から思っているのですが。
あくまで理論上のものですが、そういうシステムがあった場合、永井さんはそんなにも頑張ってシステムを存続させて素晴らしいと思うのかそれとも不幸なのに生き続けるなんて馬鹿みたいだと思うのか聞いてみたいです。それとも特になんの感想もありませんか。
生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。戦時中の日本が特攻隊を奨励したのはその例の一つです。もちろん、現在の日本は、このような個体単位のアポトーシスを認めませんが、矯正不可能な殺人鬼を死刑にするといったことなら今でもやっていますし、これは癌化した細胞の除去に喩えることができます。
安楽死も、もしもそれを資源の浪費を防ぐという目的で行うなら、個体単位のアポトーシスと呼ぶことができるでしょう。その極端な例は、ナチス・ドイツが治癒不能な病人や身体障害者に対して組織的に行った「安楽死」です。現在安楽死を認めている国は、それとは別の理由で、すなわち自己決定権の尊重という観点から安楽死を容認しています。但し、大義名分と主観的な理由が何であれ、安楽死の容認は、結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらします。

日本は、安楽死を原則として認めていませんが、以下の判決に見られるように、厳しい条件付きで、安楽死の違法性を棄却しています。
いわゆる安楽死を認めるべきか否かについては、論議の存するところであるが、それはなんといつても、人為的に至尊なるべき人命を絶つのであるから、つぎのような厳しい要件のもとにのみ、これを是認しうるにとどまるであろう。
- 病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫つていること、
- 病者の苦痛が甚しく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること、
- もつぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと、
- 病者の意識がなお明瞭であつて意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること、
- 医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえない首肯するに足る特別な事情があること、
- その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。
これらの要件がすべて充されるのでなければ、安楽死としてその行為の違法性までも否定しうるものではないと解すべきであろう。[3]
秋刀魚刺身さんは、私の意見を聞いているので、それに対しても答えなければいけませんね。現在の日本のような豊かな社会では、少数の生命を犠牲にしなければ、全体の生命が維持できないという極限状況はめったにないと想定することができます。そのような社会では、安楽死を安易に認めることによる生命資源の浪費の方をむしろ懸念するべきです。私は自由主義者として、個人の自由意思は最大限に尊重されるべきであるという考えを持っていますが、人は不完全な判断能力しか持たず、間違った判断で後悔することが多いということ、一度死んでしまえば元に戻すことが不可能であることを考えるならば、安楽死を含めた自殺行為に関する自由意思の尊重に対しては慎重にならざるをえません。安楽死を全面否定するつもりはありませんが、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件を課すことが必要と考えます。
永井俊哉 さんが書きました:
生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。戦時中の日本が特攻隊を奨励したのはその例の一つです。もちろん、現在の日本は、このような個体単位のアポトーシスを認めませんが、矯正不可能な殺人鬼を死刑にするといったことなら今でもやっていますし、これは癌化した細胞の除去に喩えることができます。
これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?永井さん特有の意見というより、極めて現象的な人という生命システムとしてかくあるべきだという理論に聞こえるのですが。つまり極限的には単なる自然現象である生命に自己保存が自己目的的にプログラムされているのだから人もそれに従うべきだと、率直にいえば自然淘汰によって獲得した生きたいという本能や感情(それが無い人は死ぬので遺伝子を残せない)に従えと、つまり生きたいというのは本能だから従えという感情論とたいして変らない主張に思えるのですが。
永井俊哉 さんが書きました:
安楽死も、もしもそれを資源の浪費を防ぐという目的で行うなら、個体単位のアポトーシスと呼ぶことができるでしょう。その極端な例は、ナチス・ドイツが治癒不能な病人や身体障害者に対して組織的に行った「安楽死」です。現在安楽死を認めている国は、それとは別の理由で、すなわち自己決定権の尊重という観点から安楽死を容認しています。但し、大義名分と主観的な理由が何であれ、安楽死の容認は、結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらします。
結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらす・・・ということであれば、永井さんは安楽死を否定はしないと捉えていいのですか?アポトーシスは生命システムの存続に貢献する行動ですから。
永井俊哉 さんが書きました:
秋刀魚刺身さんは、私の意見を聞いているので、それに対しても答えなければいけませんね。現在の日本のような豊かな社会では、少数の生命を犠牲にしなければ、全体の生命が維持できないという極限状況はめったにないと想定することができます。そのような社会では、安楽死を安易に認めることによる生命資源の浪費の方をむしろ懸念するべきです。私は自由主義者として、個人の自由意思は最大限に尊重されるべきであるという考えを持っていますが、人は不完全な判断能力しか持たず、間違った判断で後悔することが多いということ、一度死んでしまえば元に戻すことが不可能であることを考えるならば、安楽死を含めた自殺行為に関する自由意思の尊重に対しては慎重にならざるをえません。安楽死を全面否定するつもりはありませんが、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件を課すことが必要と考えます。
と思ったら、今現在の日本としては厳格な判断が必要という意見なんですね。理由は生命資源の浪費ですか。生命資源の定義はどういったものですか?定義によってはそれによって安楽死していい人としてはいけない人に分かれてしまうように思えるのですが、例えば大学教授と一般人では大学教授のほうが社会に対する貢献率が高いので(あくまで傾向としてです)教授は死んじゃだめだけど一般人はひとりやふたり死んでもいくらでも替えが効くので安楽死してもいいですよとか。そういった世界を肯定できてしまうと思うのですが。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?
ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできません。私の投稿の前半(最後のパラグラフを除く部分)はたんに事実を記述しただけで、どうするべきかに関する私の意見ではありません。一番目と二番目のパラグラフの文章は、生命が自己保存するようにプログラムされているという事実と安楽死を選ぶ個体が存在するという事実は矛盾するものではないということ示すために書いただけで、それが望ましいことだとは書いていません。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
例えば大学教授と一般人では大学教授のほうが社会に対する貢献率が高いので(あくまで傾向としてです)教授は死んじゃだめだけど一般人はひとりやふたり死んでもいくらでも替えが効くので安楽死してもいいですよとか。そういった世界を肯定できてしまうと思うのですが。
ナチス・ドイツの安楽死はそうした優生学的な思想に基づいて行われました。優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。今日の世界において、ナチス・ドイツを典型とする全体主義の多くは淘汰され、人権と多様性を尊重する国が繁栄していることからも、生命を形式的に平等に扱う戦略が生存戦略としても正しいと判断できます。
なお、私たちの社会システムは、生命を形式的に平等に扱っても、実質的な平等までは保証していません。車を運転中に不注意から人をはねて殺した場合、被害者が金持ちでもホームレスでも、刑事裁判では同じ自動車運転過失致死傷罪が適用されますが、民事裁判では、被害者の年収によって損害賠償の額は大幅に異なってきます。生命の価値が形式的には平等に扱われても、実質的には平等に扱われないのは、変化適応と環境適応という二つの生存戦略の結果だと解釈することができます。
永井俊哉 さんが書きました:
ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。
面白そうだからトピックを立ててみたのですが、私にはすこしレベルが高かったようです。所謂メタ倫理学的議論とはなんですか?
永井俊哉 さんが書きました:
ナチス・ドイツの安楽死はそうした優生学的な思想に基づいて行われました。優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。今日の世界において、ナチス・ドイツを典型とする全体主義の多くは淘汰され、人権と多様性を尊重する国が繁栄していることからも、生命を形式的に平等に扱う戦略が生存戦略としても正しいと判断できます。
なお、私たちの社会システムは、生命を形式的に平等に扱っても、実質的な平等までは保証していません。車を運転中に不注意から人をはねて殺した場合、被害者が金持ちでもホームレスでも、刑事裁判では同じ自動車運転過失致死傷罪が適用されますが、民事裁判では、被害者の年収によって損害賠償の額は大幅に異なってきます。生命の価値が形式的には平等に扱われても、実質的には平等に扱われないのは、変化適応と環境適応という二つの生存戦略の結果だと解釈することができます。
この主張の要旨は多様性を肯定することが人類にとって重要なことであり、多様性を肯定することはすべての個を平等に扱うことであるからして、形式的には平等であるとすべき、ということでいいのでしょうか?
となると、この問題は多様性をどこまで尊重するかという線引きの話に帰着することになります。例えば癌細胞はDNAの変異などを理由として本来の細胞に求められる役割(多細胞生物の生存)を無視して無制限に増殖、結果その生物を死滅させることもありますが、無制限に多様性を尊重するとこういった癌細胞まで生存させるべきだという話になってしまいます。まあ、これは極論ですが。
人類は明らかに貢献している固体と明らかに貢献していない固体だけに分かれているのではなく、多様性を持ち、その度合いはグラデーション的に分かれています。その線引きを永井さんは、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件であるべきだと思っている、ということでよろしいのでしょうか?ちょっと厳しすぎやしませんかね、あまり根拠になるとも思えませんが、毎年3万人が自殺する国(年間死亡者数は毎年120万人程度ですから、40人にひとりは自殺することになります。)で、最後くらい楽に死なせてやりたいと思うのですが。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
面白そうだからトピックを立ててみたのですが、私にはすこしレベルが高かったようです。所謂メタ倫理学的議論とはなんですか?
メタ倫理学に関しては、「自然主義的誤謬とは何か」以下のページを、「“である”から“べし”を導くことができない」というヒュームの法則に関しては、「ヒュームの懐疑論に対する懐疑論」をご覧ください。もとより、ヒューム本人は「“である”から“べし”を導くことができない」と断言しているわけではなく、「理由が与えられることが必要だ」と言っているだけです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
となると、この問題は多様性をどこまで尊重するかという線引きの話に帰着することになります。
多様性をどこまで認めるかは、社会によってまちまちであり、どれが適切かは、自然淘汰によって結論が出ます。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
毎年3万人が自殺する国(年間死亡者数は毎年120万人程度ですから、40人にひとりは自殺することになります。)で、最後くらい楽に死なせてやりたいと思うのですが。
日本の自殺率が、諸外国と比べて高いことを勘案するなら、日本が取り組むべき課題は、自殺志願者が楽に死ぬことができる方法を見つけることではなくて、自殺志願者を減らす方法を見つけることです。自殺要因の半分を占めるのは、健康問題ですが、経済問題や人間関係など、それ以外の要因もあります。そうした自殺者を減らすために政府がするべきことは、「あなたもGKB47宣言!」といった意味不明の啓蒙活動をすることではなくて、デフレを解消することと社会の流動性を高めることでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
日本の自殺率が、諸外国と比べて高いことを勘案するなら、日本が取り組むべき課題は、自殺志願者が楽に死ぬことができる方法を見つけることではなくて、自殺志願者を減らす方法を見つけることです。自殺要因の半分を占めるのは、健康問題ですが、経済問題や人間関係など、それ以外の要因もあります。そうした自殺者を減らすために政府がするべきことは、「あなたもGKB47宣言!」といった意味不明の啓蒙活動をすることではなくて、デフレを解消することと社会の流動性を高めることでしょう。
それもそうですね、ちょっと書いている間に考えがぶれてきてしまったようです。
永井俊哉 さんが書きました:
「理由が与えられることが必要だ」
の一文を見て、私がどうして幸福に価値を見出したのか理由があることを書いておこうと思いましたので、一応書きます。
えーとですね、私は小学生のころ、教師か親かなにか本だったかもしれませんが、命の重さはどんな生物でも同じという文を見聞きしたことがあります。それを子供ごころに素直に受け取って、命の重さはみな等しい、だって同じく生きてるんだから!と信じていました。でも、ある時疑問に感じます。命の価値が等しいなら、なぜ人間は他の動物の命を奪って食事をしていいのか、という素朴なものです。でもそれを考えるほど頭が発達してなかったので、とりあえず食事はおいしいから別にいいやみたいなことを考えていました。しかし小学校高学年ぐらいになってくると、けっこう難しいことを考えるようになりました。その時は命の重さは等しいならば、俺が動物を食べようと逆に動物に食べられようと同じことじゃん!!だって命は等しいのだから。人間だけが一方的に動物を食べても、等しいなら問題ない!!と思って結論付けました。だけどしばらくして、今度は動物は植物より劣っている諸悪の根源なのではないかと思い始めました。他の命を奪うことでしか生きていけない動物は植物より劣っているのではないか、命の数を減らして命を保つ動物より、植物のほうがはるかにマシだと思うようになり、こんなに動物だらけの地球は嫌な世の中だなぁ、と思ったものです。
しかし、ある時ドラマやアニメや漫画などで「運命の出会い」だとか「私たちが出会ったのは必然だったんだ」みたいな文句を見たことがきっかけで、運命や必然、偶然について考えるようになりました。そしてこの世界は物理法則に支配されているのだから、どんな偶然もありえなく、全ては過去からの流れの中の必然であり、偶然というのは単にそれが予測できていないだけだという世界観を持つようになりました。そしてその中で、自分という個もまたただ自然法則に支配されたものであり、道端の植物も自然法則に支配された精巧な機械であり、自分自身もまたそうだという考えを膨らませました。
そして中学に入って、あることに気づきました、所詮ただの現象である精巧なロボットのような生命に、価値など何もない。例えば生物学というものがあるように、それには学術的に価値はあるが、世間一般が信じているような価値など生命には一切存在しない。なぜならばただの自然現象であるから。そう、命の価値は0だ。皆等しく0なのだ。「命の重さはどんな生物でも同じ」という文を勝手に命には価値があるという前提を付けて考えるのは間違いだったのだ。命の重さはどんな生物でも同じ、ただしどれも等しく0であると結論付けて、悩むことはなくなりました。
しかし多くの人は命の価値を疑わない、「生きてるだけで丸儲け」という言葉があるように、みんな生きてる価値を疑わない。しかし、よく考えれば命を粗末にしている人はいるではないか、そう自殺者です。そして自殺者に共通するのは唯ひとつみんな死にたいほど「不幸」であったということです。自らの命に価値があると思わない、むしろ-の価値を有すると思う人が自殺するのです。そしてその価値とは「不幸」という感情であり、生命としての命などまるで関係ないことなのです。生物の生存欲求に逆らうほど自殺者はただの生物学的な生命、精巧な機械とはまったく違う、関連性の無い-の価値を持ち続けていた、このことから、不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有すると結論付けたのです。
だから、価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです。
そして具体的に私のいう幸福とは何かといいますと、クオリアです。クオリアとは質感のこと、例えば赤いろのあの赤い感じとかよく説明されますが、この質感は感情にも適応できます。なぜクオリアなどというものがあるのかさえ分からない、この正体がまるで掴めない、脳内で勝手に発生するクオリアがありとあらゆる価値の源泉です。感情もまたクオリアです。そしてこのクオリアにはクオリアごとに価値が存在し、それは+から-まであります。例えば痛みのクオリアは代表的な-のクオリアであり、笑いのクオリアは代表的な+のクオリアです。
自殺者は強い-のクオリアを浴び続けたために、そしてそれを改善できないために、相対的に幸福になるために死ぬのです。死ねばクオリアは発生しないと考えられるからです。クオリアが発生しないと考えられるのはクオリアは少なくとも脳から発生しているものだということは確かで、生命活動の停止は脳の停止を意味し、それはクオリアをまったくもたない生まれてくる前の0に戻るということだからです。
つまり自殺というのは当事者にとっては-から0に価値を増大させる生産的な活動であり、特にその中でも安楽死は死ぬ前にできるもっとも生産的な活動と言えるのです。それは未来の生産の可能性を全て放棄することですが、自殺する者というのは未来に希望が持てないと自己で判断したから死ぬのであって、やはり少なくともその当事者にとって、その時点では安楽死は生産的活動なのです。
問題は、安楽死を実行した場合と、安楽死を実行せず、ほかの要因(例えば老衰など)で死亡したときに、どちがらより総合的に+であったかです。つまり、安楽死が認められるか認められないかは、単に未来が明るいか暗いかという問題に帰着します。
・・・書いてある間に意見が変わってきました。私は収穫加速の法則により未来は明るいと考えているので、安楽死は現時点ではやはり厳正な審査のもと行われるべきだと思われます。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
私は小学生のころ、教師か親かなにか本だったかもしれませんが、命の重さはどんな生物でも同じという文を見聞きしたことがあります。それを子供ごころに素直に受け取って、命の重さはみな等しい、だって同じく生きてるんだから!と信じていました。でも、ある時疑問に感じます。命の価値が等しいなら、なぜ人間は他の動物の命を奪って食事をしていいのか、という素朴なものです。
生命の価値を論じる時、その価値が誰にとっての価値なのかということを考える必要があります。こうしている間にも世界ではおびただしい数の生命が消えていますが、それは、普通の人にとっては、ニュースになる価値すらない出来事です。生命は、その生命自身にとってかけがえのないもの、代替不可能なものですが、すべての生命が他の生命にとってそういう存在とは限りません。家族とか、親友とか、恋人とか、代替不可能な存在である自分と代替不可能な関係を結んでいる存在は、代替不可能な存在ですが、関係が薄くなるにしたがって、どうでもよい存在になります。
では、なぜ人は、自分の生命が代替不可能なものであるにもかかわらず、それを自ら奪うことがあるのかと言えば、自殺したくなるような苦痛もまた代替不可能だからです。病魔に襲われて感じる苦痛を他者に一時的に肩代わりしてもらうことで免れるということはできません。同情による部分的な移転ならあるかもしれませんが、基本的に苦痛を感じるのは当の本人なのです。幸福を感じている人は世界にいくらでもいますが、自分が感じている幸福にはそれらと代替不可能な意義が自分にはあります。だから、赤の他人の幸福には無関心な人も、自分の幸福は必死に守ろうとします。同じことは、マイナスの幸福である不幸に関しても言えます。赤の他人の不幸には無関心な人も、自分の不幸からは必死に逃れようとするし、場合によっては、周囲の悲しみを無視してまで自殺という極端な手段を取ろとうすることもあるということです。
そんなことは分かっています。
いや、わかっていないと思いますよ。わかっているなら、「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」のようなことは書かないはずだから。
永井俊哉 さんが書きました:
いや、わかっていないと思いますよ。わかっているなら、「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」のようなことは書かないはずだから。
「分かっている」の定義にすれ違いがあったようですね。私は
永井俊哉 さんが書きました:
生命は、その生命自身にとってかけがえのないもの、代替不可能なものですが、すべての生命が他の生命にとってそういう存在とは限りません。家族とか、親友とか、恋人とか、代替不可能な存在である自分と代替不可能な関係を結んでいる存在は、代替不可能な存在ですが、関係が薄くなるにしたがって、どうでもよい存在になります。
では、なぜ人は、自分の生命が代替不可能なものであるにもかかわらず、それを自ら奪うことがあるのかと言えば、自殺したくなるような苦痛もまた代替不可能だからです。
や
永井俊哉 さんが書きました:
赤の他人の不幸には無関心な人も、自分の不幸からは必死に逃れようとするし、場合によっては、周囲の悲しみを無視してまで自殺という極端な手段を取ろとうすることもあるということです。
というものを「事実」として分かっていると言ったつもりでした。前に永井さんは単に事実を述べただけだと「なぜ生命は形式的に平等に扱われなければならないのか」で返答したことがあったので、これもまた単に事実を述べられたものだと解釈しました。何か違う意図があったのですか?
書き忘れがあることに気づいたので追記します。「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」で、ただの自然現象に価値は発生しないと書きましたが、この「自然現象」という言葉の範囲は限定的なもので、クオリアを含んでいません。「クオリアも脳という器官から発生する自然現象だ、よって全てに価値など無い」という論法が「自然現象」の範囲を極限まで拡大すると成立できてしまいます。クオリアは唯の自然現象とは違う、特異な性質を持っています。それを単なる物理的な事象と同一に扱うことは論理的にも正しくないように思われますので(将来クオリアも物理的に解明されることもあるかもしれませんが、あくまで現時点としては同一に扱うべきでは無い)勘違いする人がいないように追記しておきます。
私が「わかっていない」と言ったのは、価値は目的従属的で、目的が主観的である以上、主観的であり、客観的な属性と同一視することはできないということです。だから、他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たないということもあるのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
具体的に私のいう幸福とは何かといいますと、クオリアです。クオリアとは質感のこと、例えば赤いろのあの赤い感じとかよく説明されますが、この質感は感情にも適応できます。なぜクオリアなどというものがあるのかさえ分からない、この正体がまるで掴めない、脳内で勝手に発生するクオリアがありとあらゆる価値の源泉です。感情もまたクオリアです。そしてこのクオリアにはクオリアごとに価値が存在し、それは+から-まであります。例えば痛みのクオリアは代表的な-のクオリアであり、笑いのクオリアは代表的な+のクオリアです。
もしも「幸福」でもって主観的な感覚のことを考えているのであるなら、それと価値とを同一視することはできません。「幸福とは何か」で書いたことですが、求めている物か快楽だけなら、脳を身体から切り離し、それに快楽刺激を送り続ければそれでよいということになります。
永井俊哉 さんが書きました:
私が「わかっていない」と言ったのは、価値は目的従属的で、目的が主観的である以上、主観的であり、客観的な属性と同一視することはできないということです。だから、他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たないということもあるのです。
いやそれも分かっています。私が聞きたいのは、永井さんがそれを私に主張することで私にどういった意見を言いたいのかが分からないと言っているのです。価値が主観的というのは同意しますが、それで何か問題があるのでしょうか?価値は主観的というのはある人がいて、その人が価値があると思うものに、その人にとっての価値があるというだけの話でしょう。それはただの事実です。だからどうしたのですか?この事実は、あくまで「主観」であって、その人がその人の脳で判断したことであって、必ずしも正しいとは限らないでしょうに。価値があるのはあくまでその人がそう思っているからその人にとっては価値があるとその人が思っているというだけでしょう。
価値を客観的な属性と同一視することはできないというならば、例えば永井さんの目から見て、つまり永井さんの主観から見て、明らかに間違った価値基準をもっている人が居たとき、永井さんは何を根拠にしてその人を説得するというのですか?相手は間違っていると、客観的、つまり公正で論理的な属性を付けることができないとしたら、永井さんは自らの主観にもとづいてその人を説得するということですか?それは価値は主観的であるのだから、個人によって価値は決められるべきで、客観的に決めてはいけないという永井さんがおそらく言いたいことに、そういう主張に矛盾をきたさないのですか?だって永井さんが説得に成功したら相手の主観を永井さんの主観に変えたのだから、個人個人が主観によって価値を決めたとは最早いえないではないですか。
永井俊哉 さんが書きました:
もしも「幸福」でもって主観的な感覚のことを考えているのであるなら、それと価値とを同一視することはできません。「幸福とは何か」で書いたことですが、求めている物か快楽だけなら、脳を身体から切り離し、それに快楽刺激を送り続ければそれでよいということになります。
私自身それが理想だと思っているのですが・・・もちろんすぐに崩壊するシステムだとか、酷い副作用があるだとかでは話になりません。快楽刺激を送り続ければそれでよいというのも、人には慣れというものがありますのでそう上手くいくとは思いませんし。
そういった、どこかで聞いた名前ですが、幸福最大化装置というのを作るのが私の夢のひとつです。最も、私はそんなに頭がよい訳ではないし(IQはちょうど100くらいです)いやIQだけで頭の良さが計れるという訳ではありませんが、それでも幸福最大化装置を製作するとしたら、かなりの脳科学の発展を待たねばなりませんし、人類全員がその機械を使っても、進化は続けなければなりません。つまり、幸福最大化装置を作ってもそれに安住しては幸福最大化装置というシステムをより進歩、発展させること、保全さえできないので、その辺をなんとかせねばなりませんし、問題が山積みで余り期待はしていないのですが。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
いやそれも分かっています。私が聞きたいのは、永井さんがそれを私に主張することで私にどういった意見を言いたいのかが分からないと言っているのです。価値が主観的というのは同意しますが、それで何か問題があるのでしょうか?
私の問題提起が理解されていないようなので、もう少し詳しく書きましょう。「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」に「不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有する」、「価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです」とありますが、そうすると、「他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たない」場合、同じものに価値があり、かつ価値がないという矛盾が発生しますが、この矛盾をどのように回避するつもりなのかと聞いたつもりでしたが、いかがでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
私自身それが理想だと思っているのですが・・・もちろんすぐに崩壊するシステムだとか、酷い副作用があるだとかでは話になりません。快楽刺激を送り続ければそれでよいというのも、人には慣れというものがありますのでそう上手くいくとは思いませんし。
慣れを防ぐには、いったん不幸にしておいてからハッピーエンドにするという方法があります。
「戦略論―間接的アプローチ」で書いたことですが、カルトはこの方法で信者を幸福と思わせます(周囲からの情報を遮断し、信者を不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れることで、信者に主観的な幸福感と盲信を持たせるというのがカルトの手口です)。カルトが実践している洗脳が秋刀魚刺身さんにとっての理想なのですか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
そういった、どこかで聞いた名前ですが、幸福最大化装置というのを作るのが私の夢のひとつです。最も、私はそんなに頭がよい訳ではないし(IQはちょうど100くらいです)いやIQだけで頭の良さが計れるという訳ではありませんが、それでも幸福最大化装置を製作するとしたら、かなりの脳科学の発展を待たねばなりませんし、人類全員がその機械を使っても、進化は続けなければなりません。つまり、幸福最大化装置を作ってもそれに安住しては幸福最大化装置というシステムをより進歩、発展させること、保全さえできないので、その辺をなんとかせねばなりませんし、問題が山積みで余り期待はしていないのですが。
秋刀魚刺身さんは、自分で幸福価値説の問題点を指摘していますね。事実誤認に基づいて低い目標を立て、その実現に甘んじるといったことも、それが最高の幸福と主観的に感じてさえいれば、それで善いのですか。
永井俊哉 さんが書きました:
私の問題提起が理解されていないようなので、もう少し詳しく書きましょう。「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」に「不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有する」、「価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです」とありますが、そうすると、「他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たない」場合、同じものに価値があり、かつ価値がないという矛盾が発生しますが、この矛盾をどのように回避するつもりなのかと聞いたつもりでしたが、いかがでしょうか。
それはそもそも矛盾しているのですか?同じものに価値があり、かつ価値がないということにはなりません。クオリアが価値の源泉と書きましたが、クオリアは脳内で発生するものだから、クオリアは個人個人が持つものです。クオリアは人の脳ごとに独立しています。もちろん周囲の人が笑っていたら自分もおかしくなってくるだとか(よくお笑い番組で笑い声が入りますよね)周囲の人が涙を流していたら自分も悲しくなってくるようなこともありますが、それも結局は周囲の環境という入力が脳に届き、結果として脳内に似たようなクオリアが発生しただけで、他人のクオリアが流れ込んできた訳ではなく、あたらしく個人の脳から発生したものです。価値の源泉が個人ごとに独立したものである以上、他人と自分で幸、不幸が違っても矛盾は発生しません。それはそもそも違うものだからです。
永井俊哉 さんが書きました:
慣れを防ぐには、いったん不幸にしておいてからハッピーエンドにするという方法があります。「戦略論―間接的アプローチ」で書いたことですが、カルトはこの方法で信者を幸福と思わせます(周囲からの情報を遮断し、信者を不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れることで、信者に主観的な幸福感と盲信を持たせるというのがカルトの手口です)。カルトが実践している洗脳が秋刀魚刺身さんにとっての理想なのですか。
私はそんな行動を取るとは言っていません。不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れるというのであれば、単に幸、不幸に緩急を付けただけで、最初に不幸にしたのならば、それは総合的に+になると思えません。最初に-にし、次に0に戻しただけで、結局0です。最初の不幸が後の幸福によって帳消しされただけで、+になっていません。
永井俊哉 さんが書きました:
秋刀魚刺身さんは、自分で幸福価値説の問題点を指摘していますね。事実誤認に基づいて低い目標を立て、その実現に甘んじるといったことも、それが最高の幸福と主観的に感じてさえいれば、それで善いのですか。
事実誤認とはどういったことでしょうか?事実に反することを書いたつもりはありません。私の理想と、それが現実になることの難しさを書いただけです。現実になることの難しさは説明しなくても分かるくらいに事実でしょう。となると私の理想が事実誤認ということですか?理想という思想が事実として誤認とはどういうことでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れるというのであれば、単に幸、不幸に緩急を付けただけで、最初に不幸にしたのならば、それは総合的に+になると思えません。最初に-にし、次に0に戻しただけで、結局0です。最初の不幸が後の幸福によって帳消しされただけで、+になっていません。
客観的に見ればそうですが、主観的にはそうではありません。客観的に見てプラスの価値があるとは思えないようなものに主観的に大きなプラスの価値を見出す場合でも、それでよしとするのかと聞いているのです。秋刀魚刺身さんは「価値は主観的」と言っていたのに、いつの間に価値を客観的に見るようになったのでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
それはそもそも矛盾しているのですか?同じものに価値があり、かつ価値がないということにはなりません。クオリアが価値の源泉と書きましたが、クオリアは脳内で発生するものだから、クオリアは個人個人が持つものです。クオリアは人の脳ごとに独立しています。
ここで矛盾とは何かを考えましょう。「価値は主観的であり、かつ主観的ではない」といった命題は矛盾と言われます。もしも秋刀魚刺身さんの脳内で起きた事象を時間配列によって分割し、2013年5月23日(木) 22:35 には「価値は主観的である」と考え、2013年5月24日(金) 20:26 には「価値は主観的ではない」と考えていたというように振り分ければ、矛盾ではないということはできます。ところが、言語は本質的に普遍的であり、超時間的、超人称的な同一性が要求されます。言葉の意味は、話者によって、また時間によって微妙に変わるものですが、それはあくまでも事実であって、それが事実だからこそ、超時間的、超人称的な同一性が規範として要求されるのです。
人が自己にかけがいのない価値を見出し、自己への近さに応じた価値を感じるのは、自然な事実であって、規範ではありません。人が全く見知らぬ他人に自己と同じかけがえのなさを規範として認めなければならないのは、言語が持つ普遍性のゆえです。規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています。完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
事実誤認とはどういったことでしょうか?
カルトが信者を洗脳する時、信者を出家させて周囲からの情報を遮断するか、あるいは、周囲の情報が信用できないということを吹き込みます。北朝鮮も、外部から一般人民に入る情報を遮断し、自分たちの国が地上の楽園であると信じ込ませます。外部からの情報を遮断し、間違った事実を教え込めば、低い目標の達成があたかも高い目標の達成であるかのように思わせることができるということです。
「不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有する」という主張は、幸福という主観的な感情が間違った事実認識の結果起きている場合を想定していません。もしも苦痛それ自体が悪ならば、身体を苦痛を感じないように手術すればよいということになります。しかし、そのような手術が可能であるとしても、私は決して自分に実行しようとは思いません。そんな手術を受けたら、体に異変が生じても、それを苦痛という形で教えてくれないから、私は、何の対策も取ることがないでしょうし、結果として、幸福を感じたまま突然死ぬということになるでしょう。苦痛は不快であり、不幸の原因ですが、それでもあえて苦痛という警報システムが必要であるのは、幸福よりも正しい事実認識に基づいて生き延びる方により大きな価値を認めているからです。
永井俊哉 さんが書きました:
客観的に見ればそうですが、主観的にはそうではありません。客観的に見てプラスの価値があるとは思えないようなものに主観的に大きなプラスの価値を見出す場合でも、それでよしとするのかと聞いているのです。秋刀魚刺身さんは「価値は主観的」と言っていたのに、いつの間に価値を客観的に見るようになったのでしょうか。
価値が主観的と書いたのは
秋刀魚刺身 さんが書きました:
価値が主観的というのは同意しますが、それで何か問題があるのでしょうか?価値は主観的というのはある人がいて、その人が価値があると思うものに、その人にとっての価値があるというだけの話でしょう。それはただの事実です。だからどうしたのですか?この事実は、あくまで「主観」であって、その人がその人の脳で判断したことであって、必ずしも正しいとは限らないでしょうに。価値があるのはあくまでその人がそう思っているからその人にとっては価値があるとその人が思っているというだけでしょう。
ですが、「それはただの事実です。だからどうしたのですか?この事実は、あくまで「主観」であって、その人がその人の脳で判断したことであって、必ずしも正しいとは限らないでしょうに。価値があるのはあくまでその人がそう思っているからその人にとっては価値があるとその人が思っているというだけでしょう。」という文から、価値は価値でも価値の定義が違うということが分かりませんか。私は事実としてその人が思っているならばその人にとってはそうであると思っているという事実を述べただけです。そしてそれが間違っている可能性を指摘しました。ここで言っているのは「多くの人が信じている間違っている可能性のある価値」のことであり、私がいう+のクオリアの価値とは定義が違います。文脈から読んでくれると思って説明しなかったのですが・・・。
永井俊哉 さんが書きました:
ここで矛盾とは何かを考えましょう。「価値は主観的であり、かつ主観的ではない」といった命題は矛盾と言われます。もしも秋刀魚刺身さんの脳内で起きた事象を時間配列によって分割し、2013年5月23日(木) 22:35 には「価値は主観的である」と考え、2013年5月24日(金) 20:26 には「価値は主観的ではない」と考えていたというように振り分ければ、矛盾ではないということはできます。ところが、言語は本質的に普遍的であり、超時間的、超人称的な同一性が要求されます。言葉の意味は、話者によって、また時間によって微妙に変わるものですが、それはあくまでも事実であって、それが事実だからこそ、超時間的、超人称的な同一性が規範として要求されるのです。
時間で分けるまでもなく、そもそも「価値」の定義が違うので問題になりません。同じ価値について話していたら矛盾していることになりますが、違う価値について話しているのなら矛盾にはなりません。
永井俊哉 さんが書きました:
人が自己にかけがいのない価値を見出し、自己への近さに応じた価値を感じるのは、自然な事実であって、規範ではありません。人が全く見知らぬ他人に自己と同じかけがえのなさを規範として認めなければならないのは、言語が持つ普遍性のゆえです。規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています。完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです。
難解すぎて私には読解できません。あと、「人間という範囲」という語を見て思い出しましたが、私は「価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうか」というのを最初に書きましたが、これは嘘です。本当は人類以外にも幸福というクオリアが発生させられるのなら、それにも価値があります。例えば猿なんかは人間に近しいから似たクオリアを持つかもしれません。なぜ嘘を付いたのかというと、こういったあまりに突飛すぎる思想を展開すると大概の人は拒絶反応を起こしてそもそも議論に参加してくれないからです。永井さんは議論に参加してくれるので嬉しいです。
永井俊哉 さんが書きました:
幸福という主観的な感情が間違った事実認識の結果起きている場合を想定していません。
永井さんはもしかしてクリスマスの時、子供にサンタクロースは居るんだよという嘘を付かないタイプの人間なのでしょうか。実際にはサンタクロースは居ませんから間違った事実認識となりますが、大抵の子供は目を光らせて楽しそうにします。必要悪というのがありますが、必要嘘というのがあっても良いと私は考えています。もちろん、それを行使するときは重大な嘘であればあるほど、嘘をついていいかを精査をせねばなりませんが。でも、それは精査の問題になるのですから、+のクオリアに対する反論にはなりません。
永井俊哉 さんが書きました:
もしも苦痛それ自体が悪ならば、身体を苦痛を感じないように手術すればよいということになります。しかし、そのような手術が可能であるとしても、私は決して自分に実行しようとは思いません。そんな手術を受けたら、体に異変が生じても、それを苦痛という形で教えてくれないから、私は、何の対策も取ることがないでしょうし、結果として、幸福を感じたまま突然死ぬということになるでしょう。苦痛は不快であり、不幸の原因ですが、それでもあえて苦痛という警報システムが必要であるのは、幸福よりも正しい事実認識に基づいて生き延びる方により大きな価値を認めているからです。
苦痛という警報システムが必要であるのは単に自然淘汰によってそういったものしか生き残れなかっただけです。つまりDNAにそういった遺伝形質を持つものが生き残っただけです。自然淘汰もただの自然現象ですから特に価値もありません。あなたはDNAに刻まれた生存本能やこのような警報システムなどをなぜ幸福を犠牲にしてでも保とうと思うのですか。DNAに刻まれた生物としての行動を意味なく正当化するのですか。それは生物としては正しいが理性としては正しくありません。理性を持つものならそんなものに惑わされてはいけません。もっとも、私もそのような「苦痛を失くすだけ」の手術は行いたくありませんが、私がしたいのは苦痛を失くすだけだというほど低い目標ではなく、実現可能な最大の幸福を手に入れることだからです。だから、そんな手術ははっきりいって中途半端で時間の無駄です。
ところで、「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」は無駄に冗長で説明が雑なので書き直すことにします。
ヒトは自然淘汰により生存欲求を先天的に持つ。しかし、その生存欲求に逆らうものがいる。この者には生存欲求を越えるほどの理由があると思われる。そして不幸なものが自殺するというのは常識である。つまり他者の意識など覗くことができないがそれが常識として、誰も疑問に思っていない以上、不幸なものが自殺するというのは多くのヒトが同意する事項であり、演繹ではないがデータ量の多さから帰納として不幸なものが自殺するのは事実であると推測される。
不幸というのは即ち感情であり、感情というのは即ちクオリアであるから、不幸はクオリアである。クオリアは単独ではなく複数あるので、このことからクオリアの中には不幸を発生させる種類のクオリアがあると分かる。不幸を発生させるクオリアを-のクオリアと定義する。
上記から不幸=-のクオリアなのだから、そこから推論して幸福=+のクオリアとなる。この世に幸福を感じるヒトがいるのだから+のクオリアは実在し、クオリアには+から-まで個々のクオリアごとに価値を有するということができる。
そしてただの自然現象である生命に価値など存在しないのだから、すべての価値は生命という自然現象が発生し、さらにそこから例えばヒトのようにクオリアが発生することによってのみ、価値が発生することになる。価値の主体はクオリアであり、クオリアが全ての価値の源泉である。
一般的に言って、「価値とは幸福である」という幸福価値説は、次の二つのうちのどれかです。
- 「幸福」でもって、主観的に快楽を感じている状態を意味する場合→誤謬
- 「幸福」でもって、客観的に価値のある状態を意味する場合→トートロジー
1番目が間違いであることはこれまで指摘しました。幸福が2番目の意味なら、「価値とは幸福である」という命題は「価値とは価値である」という同語反復と同じで、倫理学的に何も言っていないに等しい。だから、「価値とは幸福である」という命題は、どちらの場合でも、「価値とは何か」という倫理学的問いに対する答えにはならないのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
価値は価値でも価値の定義が違うということが分かりませんか。私は事実としてその人が思っているならばその人にとってはそうであると思っているという事実を述べただけです。そしてそれが間違っている可能性を指摘しました。ここで言っているのは「多くの人が信じている間違っている可能性のある価値」のことであり、私がいう+のクオリアの価値とは定義が違います。文脈から読んでくれると思って説明しなかったのですが・・・。
要するに、1番目ではなくて、2番目ということですね。その場合、「価値の主体はクオリアであり、クオリアが全ての価値の源泉である」という命題は、「価値の主体は価値であり、価値が全ての価値の源泉である」という命題と同じで、内容のない空虚な文になります。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
永井さんはもしかしてクリスマスの時、子供にサンタクロースは居るんだよという嘘を付かないタイプの人間なのでしょうか。実際にはサンタクロースは居ませんから間違った事実認識となりますが、大抵の子供は目を光らせて楽しそうにします。必要悪というのがありますが、必要嘘というのがあっても良いと私は考えています。もちろん、それを行使するときは重大な嘘であればあるほど、嘘をついていいかを精査をせねばなりませんが。でも、それは精査の問題になるのですから、+のクオリアに対する反論にはなりません。
なぜ一般に嘘をついてはいけないのか、どういう嘘なら例外として許容できるのか、そういう問題を解決するのが倫理学の役割です。あなたのクオリア論は、その問題を解決するための基準を提供しているのですか。そうでないなら、「嘘をつくことはマイナスのクオリアだから悪だが、この嘘はプラスのクオリアだから許容できる」といった主張は、「嘘をつくことは悪だから悪だが、この嘘は許容できるから許容できる」という以上のことは何も言っていないことになります。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
あなたはDNAに刻まれた生存本能やこのような警報システムなどをなぜ幸福を犠牲にしてでも保とうと思うのですか。DNAに刻まれた生物としての行動を意味なく正当化するのですか。それは生物としては正しいが理性としては正しくありません。理性を持つものならそんなものに惑わされてはいけません。
この文では、価値基準として「理性」が新たに出てきました。あなたの規範の基準はクオリアではなくて理性なのですか。それともクオリアと理性を同一視しているのですか。クオリアは感情だと言っているから、多分そうではないと思いますが。
倫理の基礎を理性に求めた有名な哲学者がいます。イマニュエル・カントです。カントの「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法は、メタ倫理学の言葉を使って言うなら、義務の判定基準を普遍化可能性に求めています。自分の命はかけがえのないものであり、他人に殺されたくないというのは自然な欲望です。そして、そのような欲望に基づいて、「人を殺してはいけない」という規範に同意すると、その規範の普遍性により、自分が他人を殺したくなっても、その行為を欲望に逆らって阻止しなければならなくなります。「難解すぎて私には読解できません」とのことですが、「規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています」と言ったのはそういうことです。
「殺してはいけない」という規範は、動物には必ずしも適用されません。現に私たちは、牛とか豚とか鶏とかを殺してその肉を食べています。「自分の利益のためには、他の人間を殺すことも厭わない」と公言する人は、その言語を理解する他の人から制裁を受けますが、人が「自分の空腹を満たすためには牛を殺すことも厭わない」と公言しても牛から制裁を受けることはありません。だから、言語の普遍化可能性に基づいた規範の適用範囲は、人間ということになります。「完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです」というのはそういうことです。
永井俊哉 さんが書きました:
要するに、1番目ではなくて、2番目ということですね。その場合、「価値の主体はクオリアであり、クオリアが全ての価値の源泉である」という命題は、「価値の主体は価値であり、価値が全ての価値の源泉である」という命題と同じで、内容のない空虚な文になります。
トートロジーだという事は気づいています。私は唯、幸福や不幸という人によってあまりに定義がまちまちで、論理の妨げとなるものを+のクオリアや-のクオリアという風に新たに定義をすることで論理的思考を妨げる定義の違いを失くし、意味を一元化するためにこのトートロジーを用いただけです。そういった意味で唯の空虚な文とは違います。
永井俊哉 さんが書きました:
なぜ一般に嘘をついてはいけないのか、どういう嘘なら例外として許容できるのか、そういう問題を解決するのが倫理学の役割です。あなたのクオリア論は、その問題を解決するための基準を提供しているのですか。そうでないなら、「嘘をつくことはマイナスのクオリアだから悪だが、この嘘はプラスのクオリアだから許容できる」といった主張は、「嘘をつくことは悪だから悪だが、この嘘は許容できるから許容できる」という以上のことは何も言っていないことになります。
私は安楽死は認められるべきかというトピックを立て、そこに参加しただけです。そして私は私の結論を「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」の最後に、書きました。私がトピックを立てた理由は結論が出たことで既に喪失しています。それからも議論に参加しているのは永井さんから質問があるからですが、とうぜん、これは予期せぬことであり、私自信そんなところまで考えたものではありませんので、そんなに完成度の高い画期的な理論を求められても困ります。
永井俊哉 さんが書きました:
この文では、価値基準として「理性」が新たに出てきました。あなたの規範の基準はクオリアではなくて理性なのですか。それともクオリアと理性を同一視しているのですか。クオリアは感情だと言っているから、多分そうではないと思いますが。
価値基準として「理性」という語を出したのではありません。理性という語を出したのは永井さんに向けてより正しい理論を構築することを推進したかったからです。本質的にはただの現象的な生存欲求を意味なく正当化することをやめたほうが良いと書いたのです。文を読んでいますか?
永井俊哉 さんが書きました:
倫理の基礎を理性に求めた有名な哲学者がいます。イマニュエル・カントです。カントの「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法は、メタ倫理学の言葉を使って言うなら、義務の判定基準を普遍化可能性に求めています。自分の命はかけがえのないものであり、他人に殺されたくないというのは自然な欲望です。そして、そのような欲望に基づいて、「人を殺してはいけない」という規範に同意すると、その規範の普遍性により、自分が他人を殺したくなっても、その行為を欲望に逆らって阻止しなければならなくなります。「難解すぎて私には読解できません」とのことですが、「規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています」と言ったのはそういうことです。
「殺してはいけない」という規範は、動物には必ずしも適用されません。現に私たちは、牛とか豚とか鶏とかを殺してその肉を食べています。「自分の利益のためには、他の人間を殺すことも厭わない」と公言する人は、その言語を理解する他の人から制裁を受けますが、人が「自分の空腹を満たすためには牛を殺すことも厭わない」と公言しても牛から制裁を受けることはありません。だから、言語の普遍化可能性に基づいた規範の適用範囲は、人間ということになります。「完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです」というのはそういうことです。
なるほど、良く理解できました。しかし、これは単に知という力を持つものが言語を行使して知が無いものより優位に立てるということしかいってないように思いますが。言語という武器を行使できるものとできないものが居て、とどのつまり言語を操るものが優位に立つというただの事実認識に過ぎないように感じます。しかし、わざわざ分かり易く書いて頂いてありがとうございました。
そろそろ議論を止めにしませんか、流れ的にこのまま平行線になりそうな気がするので。もちろん永井さん自身がこの議論は平行線ではなく、何か終着点を示す案があるならばそれにこしたことは無いので、永井さん自信も「あー、これは対立が深まるだけで不毛な争いになりそうだなあ・・・」などと感じていた場合のみ議論を終わらせることにしますが。どうでしょう。
秋刀魚刺身さんが納得されるまで議論が続くのは仕方ない事ではないのですか?
もし途中で議論を降りたら、秋刀魚刺身さんの自説を認めたと取られてしまいますよね。
それに不毛な議論だと仰いますが、傍から見てる限りだと永井先生は誠実に受け答えしつつ、秋刀魚刺身さんの矛盾を指摘して議論を発展させようとしている様に見えますよ。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
そろそろ議論を止めにしませんか、流れ的にこのまま平行線になりそうな気がするので。もちろん永井さん自身がこの議論は平行線ではなく、何か終着点を示す案があるならばそれにこしたことは無いので、永井さん自信も「あー、これは対立が深まるだけで不毛な争いになりそうだなあ・・・」などと感じていた場合のみ議論を終わらせることにしますが。どうでしょう。
秋刀魚刺身さんがこれ以上議論を望まないなら、止めましょう。実は、ここで書いたことは、過去に書いた同じような理論の繰り返しなので、私にとってはあまり生産的な活動ではありません。私にとっての「終着点」は本文で既に示されているし、将来的には書籍でもっとまとまった形でお示しできるかと思います。
まるこめのすけ さんが書きました:
秋刀魚刺身さんが納得されるまで議論が続くのは仕方ない事ではないのですか?もし途中で議論を降りたら、秋刀魚刺身さんの自説を認めたと取られてしまいますよね。
納得しなくても、議論が出尽くしたと感じたらそれで終わりでよいでしょう。論争で結論が出ることはめったになく、それよりもむしろ重要なことは、問題点を明確にし、問題意識を深めることだと思います。
永井俊哉 さんが書きました:
秋刀魚刺身 さんが書きました:
これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?
ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできません。私の投稿の前半(最後のパラグラフを除く部分)はたんに事実を記述しただけで、どうするべきかに関する私の意見ではありません。一番目と二番目のパラグラフの文章は、生命が自己保存するようにプログラムされているという事実と安楽死を選ぶ個体が存在するという事実は矛盾するものではないということ示すために書いただけで、それが望ましいことだとは書いていません。
ちょっと気になったことがあったので、横から失礼します。
いつか個体は死にますし、種も滅びますが、それどころでなく、地球は滅びて宇宙も縮爆して、生命はあとかたもなく消え去ると言われています。
なのになぜ、生命は自己保存しようとするのでしょうか?(存在・事実のあり方に関する疑問)
そして、人はそもそも、個体にせよ、種にせよ、生命一般にせよ、これを保存すべきなのでしょうか?(当為・価値に関する疑問)
特に当為に関する疑問を、秋刀魚刺身さんは発しているような気がしますが、それに対して永井さんは自分の意見を回答していないように思いました。
ちょっとニヒリスティックな発想を暗に含んだ疑問ですが、よろしくお願いします。
Kaname さんが書きました:
いつか個体は死にますし、種も滅びますが、それどころでなく、地球は滅びて宇宙も縮爆して、生命はあとかたもなく消え去ると言われています。
「宇宙の縮爆」とは何のことでしょうか。ビッグクランチ (Big Crunch) のことでしょうか。ビッグクランチは、現在の宇宙論では疑問視されています。宇宙と生命の未来に関しては様々な説があり、現時点では確定的なことは言えません。
Kaname さんが書きました:
なのになぜ、生命は自己保存しようとするのでしょうか?(存在・事実のあり方に関する疑問)そして、人はそもそも、個体にせよ、種にせよ、生命一般にせよ、これを保存すべきなのでしょうか?(当為・価値に関する疑問)特に当為に関する疑問を、秋刀魚刺身さんは発しているような気がしますが、それに対して永井さんは自分の意見を回答していないように思いました。
「存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできない」ものの、批判的には導出できるというのが私の考えです。当為・価値に関する命題の妥当性は、目的に対する手段の有用性という事実命題の妥当性と等値できます。そして、目的-手段系列を遡ると、究極目的は生命の維持であることが判明します。これはあらゆる当為・価値の根拠である以上、究極目的にはいかなる根拠もありません。それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。
5. 議論(2)生きることにどのような意味があるのか
関連トピックとして、システム論フォーラムの「生きる意味について」での議論を転載します。
先ほど安楽死のトピックに書き込ませていただいた者ですが、新しくトピックを立てさせてください。
生命はいつかあとかたもなく消え去るのにもかかわらず、人は生を保存すべきなのか、という問いは、生が苦しみに満ちていて、いっそ死んで楽になりたい、と感じるほどになったときに、特に深刻なものとして問われるように思います。個体レベルでも、より広いレベルでもそうだと思います。
そのような、生が苦しみで耐えられないと思われるときに、自殺を思いとどまらせるものは、様々に言い表せるかもしれませんが、その一つが、この、生きる意味という言葉で表現されるもののように思います。
なにか、苦しみに耐えて生き延びることに、表面的な快苦とは別の、なんらかの意味が見いだせたとしたら、生きてもいいかもしれない、そう考えることがあると思います。
しかし、そのようなとき、いつか生あるものすべてが消え去る、ということは、もし生の目的がなんらかの意味での保存にあるのみだとしたら、その、生の目的であったり意味を、無に帰してしまうもののようにも思えるのです。
おそらく生きる意味という漠然とした言葉で言い表せるのは、そのような、保存によって見出されるものだけではないでしょう。誰かと共に生きること自体に、意味を見い出す可能性もあるかもしれません。
しかし、改めて問うとしたら、生にまつわる様々な苦しみにもかかわらず、生を肯定できるような、それを媒介として生を肯定できるような概念があるとすれば、それを媒介として生を肯定できるようななんらかの経験や事実があるとすれば、それはなんなのか、と言うことを問いたいです。
おそらく、生きる意味のようななにかが生にあるとしたら、それは、生き抜くことのみでなく、死んでいくことも、肯定したり、それに納得したりできるのではないか、とも思うのです。
生に意味を見い出すとしたら、それは、生き抜くためだけではなく、よく生きるためだけでなく、よく死ぬため、納得して死ぬためだと思います。
そんな意味での生きる意味は、存在するのでしょうか。存在・非存在に関して、根拠も含めて意見をお聞きしたいと思います。
よろしくお願いします。
まず、本当に「生命はいつかあとかたもなく消え去る」と断言できるのかどうかという所から疑ってください。レイ・カーツワイルのように、生命全体どころか、個人レベルですら不老不死が可能であると考えている未来学者もいます。もちろん、それが可能かどうかはわかりませんが、生命というのはあらゆる手段を用いて生き続けようとするものです。
次に苦しみですが、苦しみとは生きるための警報ですから、苦しみを理由に生命の存在を否定するのはおかしいと思います。もちろん、自分の生に意味を見いだせなくなって、自殺する人もいますが、それは生が究極目的であることと矛盾しません。
ここでそもそも意味とは何かということを考えてください。私たちにとっての意味は、私たちの生によって規定されています。生全体が消滅すれば、意味を理解する意識も同時に消滅してしまいます。個人が自分の死に意味を見出す場合でも、それは全体の生との関連で意味が与えられるのであって、生全体が消滅してもなおその意味が意味を持ち続けることはないでしょう。
すいませんが、「安楽死について」トピックの質問をこちらに統合させてください。
そちらで僕が出した疑問は、
① なぜ、生命は将来の滅亡にもかかわらず、自己保存しようとするのか?(存在・事実のあり方に関する疑問)
② 人はそもそも、個体にせよ、種にせよ、生命一般にせよ、これを保存すべきなのか?(当為・価値に関する疑問)
でした。
永井俊哉 さんが書きました:
Kaname さんが書きました:
いつか個体は死にますし、種も滅びますが、それどころでなく、地球は滅びて宇宙も縮爆して、生命はあとかたもなく消え去ると言われています。
「宇宙の縮爆」とは何のことでしょうか。ビッグクランチ (Big Crunch) のことでしょうか。ビッグクランチは、現在の宇宙論では疑問視されています。宇宙と生命の未来に関しては様々な説があり、現時点では確定的なことは言えません。
はい、ビッグクランチのことです。確かに今調べてみたら、今は定説ではないようですね。
永井俊哉 さんが書きました:
まず、本当に「生命はいつかあとかたもなく消え去る」と断言できるのかどうかという所から疑ってください。レイ・カーツワイルのように、生命全体どころか、個人レベルですら不老不死が可能であると考えている未来学者もいます。もちろん、それが可能かどうかはわかりませんが、生命というのはあらゆる手段を用いて生き続けようとするものです。
ただ、永井さんも、生命がいつかあとかたもなく消え去る可能性を考えてみてください。その可能性はかなり高いように思われます。
以下に挙げるのも説ではありますが、地球の生命は常に脅威にさらされています。
① 核の脅威がある
② 三十万年に一回、直径十キロ級の小惑星が地球に衝突する
③ 地球の海は、約十億年後に消滅する
④ 五十億年から百億年後に、銀河系と、隣のアンドロメダ銀河が衝突して、一個の楕円銀河になる
⑤ ビッグクランチの可能性がある
もしこれらをクリアしたとしても、生物が絶滅しないということは、生命は永遠に未来永劫生き続けることになりますが、その発想は難しいように思われます。
物理的な破壊が生命の死だとすれば、個体レベルでの不老不死は、ありえないように思います。
レイ・カーツワイルは、どのようにそれが可能だと言っているのですか?
上のことを踏まえても、それは可能なのでしょうか?
永井俊哉 さんが書きました:
「存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできない」ものの、批判的には導出できるというのが私の考えです。当為・価値に関する命題の妥当性は、目的に対する手段の有用性という事実命題の妥当性と等値できます。
目的に対する手段の有用性が、当為や価値を規定するということですが、
① なぜ、ある目的をある存在者が目指しているという事実が、まさにそれが、その存在者のなすべきことなのだと言えるのでしょうか。
② ある存在者がある目的を目指しているとして、その目的がなんであるのかを確定する規準はなんでしょうか。(これは次のコメントとも関連します。)
永井俊哉 さんが書きました:
目的-手段系列を遡ると、究極目的は生命の維持であることが判明します。これはあらゆる当為・価値の根拠である以上、究極目的にはいかなる根拠もありません。それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。
究極目的に目的や根拠がないと言うことはよいのですが、しかし、その究極目的が、あらゆる当為と価値の根拠が、生命の維持だということの根拠はなんですか。
反証してみたいとも思うので、どのようにして、それが、私たち自身の存在によって確認されるのか、教えてください。
それに、生の究極目的が保存と延長だとしたら、それがもし成し遂げられなかったとしたら、それがどこかで途絶えたとしたら、それまでの生はすべて無駄になることにはなりませんか。それとも、そのときどきに生の延長という目的を達成しているのだから、それはそれでよいのでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
次に苦しみですが、苦しみとは生きるための警報ですから、苦しみを理由に生命の存在を否定するのはおかしいと思います。もちろん、自分の生に意味を見いだせなくなって、自殺する人もいますが、それは生が究極目的であることと矛盾しません。
苦しみを理由に自殺する人は、それがおかしかろうが、事実いるように見えるのに対して、生をとにかく延長することが当為である場合、生の意味の不在の意識から自殺することは、当為にも目的にも反しているように思います。生を意図的に終わらせる行為の存在は、私たち自身の存在における、事実です。
それに関しては、個体レベルの死によって種の存続を守っている、というふうにつじつまを合わせるのでしょうか。
これらをどう説明しますか。
永井俊哉 さんが書きました:
ここでそもそも意味とは何かということを考えてください。私たちにとっての意味は、私たちの生によって規定されています。生全体が消滅すれば、意味を理解する意識も同時に消滅してしまいます。個人が自分の死に意味を見出す場合でも、それは全体の生との関連で意味が与えられるのであって、生全体が消滅してもなおその意味が意味を持ち続けることはないでしょう。
もし仮にそうだったとしても、僕自身にひきつけて言うならば、僕は、不可能に思われる自己保存よりもむしろ、意味のあることのために生きて死んでいきたいと思います。
しかし、これは、意味を理解する意識を、超越的存在に認めることで回避できます。もちろんこれは一つの宗教的で象徴的な話ですが、宗教的な根源はそもそも厳密には現実に事実として妥当しない物語を通して接近しうるものであり、最終的に言葉が尽きるところで出会われるものではないかとも思います。
意味という概念は、生の保存よりもよっぱどそれに接近するための道しるべとして有効なのではないかと思います。
Kaname さんが書きました:
永井さんも、生命がいつかあとかたもなく消え去る可能性を考えてみてください。その可能性はかなり高いように思われます。
可能性があるからこそ、その可能性をなくすための努力が当為としての意味を持つのです。そもそも不老不死が無条件で保証されているなら、当為が意識されることはないでしょう。
Kaname さんが書きました:
物理的な破壊が生命の死だとすれば、個体レベルでの不老不死は、ありえないように思います。レイ・カーツワイルは、どのようにそれが可能だと言っているのですか?
レイ・カーツワイルに関しては、リンク先の本『ポスト・ヒューマン誕生』を読んでください。簡単にまとめると、2045年ごろまでには、マインド・アップローディングが可能になる、つまり私たちはタンパク質の肉体を捨てて、意識をコンピュータ上に移転させることが可能になるという予測です。コンピュータが古くなっても、マインド・アップローディングを繰り返すことで、永遠に生きることができるというわけです。マインド・アップローディングが可能になれば、私たちは、今のたんぱく質の肉体が住めないような場所にも住むことができます。つまり広大な宇宙のいたるところに住むことができるようになるということです。だから、私たちは、地球が消滅しても生き続けることが可能というのです。
Kaname さんが書きました:
究極目的に目的や根拠がないと言うことはよいのですが、しかし、その究極目的が、あらゆる当為と価値の根拠が、生命の維持だということの根拠はなんですか。
私が『現象学的に根拠を問う』で提示した目的論的還元が、究極目的を見出すための方法です。簡単に言えば、私たちが持っている価値や当為の根拠を目的手段系列を逆方向にたどることで、究極目的へと還元する方法です。究極目的には根拠がない以上、それを選ぶ必然性はありません。しかし、生きるという究極目的を選ばない人は、存在しなくなるのだから、私たちの議論の相手として想定する必要はありません。「自殺は善である」という価値観は、その価値観を持っている人の自殺により消滅し、「自殺は悪である」という価値観だけが生き延びて、社会を支配するという次第です。
永井俊哉 さんが書きました:
可能性があるからこそ、その可能性をなくすための努力が当為としての意味を持つのです。そもそも不老不死が無条件で保証されているなら、当為が意識されることはないでしょう。
生命は、それが消え去ったときには、その目的を達せなかったことによって、目的を志向するひとつの試みとしては失敗ということになるので、それが不可能である可能性が逆にそれを可能にすることを要請している、という主張でよかったでしょうか。
感想としては、それが保存であれなんであれ、全体としての究極目的があり、その中に自分の生の位置があり、個体は、その、いわゆる計画の中で、一分子として生きて死んでいくのだ、という世界観は、自分の死にも、少なくとも、生が永生の達成に向かう物語の一部としての意味を与ええるという点で、ある意味人を安心させえると思いました。
僕は、事実を知りたいのと同時に、人が落ち着くことのできる知であったり、世界観を求めているという面があります。もちろん、「生の目的は自己保存にある」と言って不快になる人もいれば、「生の目的は自己保存以外にある」と言った方が不快になる人もいると思いますが、少なくとも僕は前者です。
なんだか人生相談のようですが、もしそうだとしたら、それ(僕が「生の保存が目的である」と聞いて不快になること)はなぜだと思いますか。それも、生を保存するという目的に奉仕する本能が、そうさせているのでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
私が『現象学的に根拠を問う』で提示した目的論的還元が、究極目的を見出すための方法です。簡単に言えば、私たちが持っている価値や当為の根拠を目的手段系列を逆方向にたどることで、究極目的へと還元する方法です。究極目的には根拠がない以上、それを選ぶ必然性はありません。しかし、生きるという究極目的を選ばない人は、存在しなくなるのだから、私たちの議論の相手として想定する必要はありません。「自殺は善である」という価値観は、その価値観を持っている人の自殺により消滅し、「自殺は悪である」という価値観だけが生き延びて、社会を支配するという次第です。
価値や当為の根拠の目的論的還元によって現象学的に究極目的を問い、見出したものが生の保存だということで、「自殺は善である」という価値観を持った人は、その価値観自体が事実に反していると同時に、消滅に方向づけられていることによって、社会を支配する、生の保存を善とする正しい価値観が生き延び、目的に奉仕する、ということですね。
さしあたって、そう言われただけでは生の保存が究極目的だということが自分で確認できないので、『現象学的に根拠を問う』を読んでみたいと思います。ただ、僕はKindleを持っていないのです。もし紙媒体のものがあり、読む価値があるのならば、2000円ぐらいなら払えると思うので、もし入手の方法があれば教えてください。
ただ、もし、事実として生あるものが保存を究極目的としてすべての活動を行っていて、当為は事実上の目的に奉仕することであり、したがって保存が当為である、と言うとして、もしすべての活動が本当に保存に運命づけられているなら、そもそも当為を我々が意識する必要はないのではないでしょうか。というのも、意識しようがしまいが、我々は、我々の自由意志によってそうでない目的を志向するということができず、その、盲目的な生の保存欲求に従っているだけだとしたら、意識しても、それが自覚されたというだけで、同じことだからです。それとも、自覚することが、保存によりよく奉仕するのでしょうか。
ただそもそも、永井さんの立場は、自由意志によって保存以外のものを目指すことは、不可能だという立場に立っているように思いますが、そうですか。自由がなく、とにかく保存の衝動に従っているとしたら、当為はそもそも存在するでしょうか。また、仮に自由があり、当為があるとしたら、衝動に反して自由に行為するとき、それは、当為に反したことをする自由を行使することで、滅ぶという説明になるだけであって、むしろ、衝動に反したことをすることの中に当為があるという説明をするとしたら、それは間違っているのでしょうか。
そう考えると、自殺を善として選んだ人達は、保存の衝動に忠実に死んでいったのか、保存の衝動に反して死んでいったのか、と考えると、永井さんの立場としては、前者になるように思いますが、そうですか。
永井俊哉 さんが書きました:
レイ・カーツワイルに関しては、リンク先の本『ポスト・ヒューマン誕生』を読んでください。簡単にまとめると、2045年ごろまでには、マインド・アップローディングが可能になる、つまり私たちはタンパク質の肉体を捨てて、意識をコンピュータ上に移転させることが可能になるという予測です。コンピュータが古くなっても、マインド・アップローディングを繰り返すことで、永遠に生きることができるというわけです。マインド・アップローディングが可能になれば、私たちは、今のたんぱく質の肉体が住めないような場所にも住むことができます。つまり広大な宇宙のいたるところに住むことができるようになるということです。だから、私たちは、地球が消滅しても生き続けることが可能というのです。
レイ・カーツワイルに関しては、そのような説があるのですね。それは確かに、生の保存戦略としては有望な気がします。ただ、それを生命と呼べるかや、それが幸せなのかと言ったことに関しては、疑問ですが。永井さんは、幸せよりも保存が大事だとするという立場、もしくは、事実大事にしているのだという立場ですか。「幸せ」はあいまいすぎる表現なので、言い換えると、なにを犠牲にしても、とにかく生命を保存することが大事だという立場ですか。すべてのものごとの中で、一番に優先されるべきは、生の保存ですか。
Kaname さんが書きました:
なんだか人生相談のようですが、もしそうだとしたら、それ(僕が「生の保存が目的である」と聞いて不快になること)はなぜだと思いますか。それも、生を保存するという目的に奉仕する本能が、そうさせているのでしょうか。
生命が自己保存を目的としているからといって、その生命がそれを意識しているとは限りませんし、またその必要もありません。個人主義で、市場経済の国、米国が、なぜ全体主義のファシズムや共産主義との戦いに勝つことができたのか、その理由を考えてください。そこには、個人が全体の利益を意識していない方が、かえって全体の利益になるというパラドックスがあります。似たようなパラドックスに、有用性を無視した遊びもまた有用性に貢献するというものがあります。
Kaname さんが書きました:
さしあたって、そう言われただけでは生の保存が究極目的だということが自分で確認できないので、『現象学的に根拠を問う』を読んでみたいと思います。ただ、僕はKindleを持っていないのです。もし紙媒体のものがあり、読む価値があるのならば、2000円ぐらいなら払えると思うので、もし入手の方法があれば教えてください。
『現象学的に根拠を問う』は、Google Play Books で無料で読めます。「目的論的還元」に関しては、リンク先のページ以降に書かれています。
Kaname さんが書きました:
もし、事実として生あるものが保存を究極目的としてすべての活動を行っていて、当為は事実上の目的に奉仕することであり、したがって保存が当為である、と言うとして、もしすべての活動が本当に保存に運命づけられているなら、そもそも当為を我々が意識する必要はないのではないでしょうか。というのも、意識しようがしまいが、我々は、我々の自由意志によってそうでない目的を志向するということができず、その、盲目的な生の保存欲求に従っているだけだとしたら、意識しても、それが自覚されたというだけで、同じことだからです。それとも、自覚することが、保存によりよく奉仕するのでしょうか。
ただそもそも、永井さんの立場は、自由意志によって保存以外のものを目指すことは、不可能だという立場に立っているように思いますが、そうですか。自由がなく、とにかく保存の衝動に従っているとしたら、当為はそもそも存在するでしょうか。また、仮に自由があり、当為があるとしたら、衝動に反して自由に行為するとき、それは、当為に反したことをする自由を行使することで、滅ぶという説明になるだけであって、むしろ、衝動に反したことをすることの中に当為があるという説明をするとしたら、それは間違っているのでしょうか。
究極目的が自己保存であることが決定されていても、その目的を実現するための手段を選ぶ自由があります。有限な知的能力しか持たない私たちにとって、どの手段が最適かは不確定で、手段の選択を誤れば、身を滅ぼすことになります。だから、どの手段を選ぶかで人は悩むことになります。そして悩むほどの自由と知性があるからこそ、私たちには意識があるのです。
Kaname さんが書きました:
自殺を善として選んだ人達は、保存の衝動に忠実に死んでいったのか、保存の衝動に反して死んでいったのか、と考えると、永井さんの立場としては、前者になるように思いますが、そうですか。
ほとんどの場合、自殺は、個体単位で起きるアポトーシスとでも呼ぶべきもので、生命が、全体として自己保存を究極目的としているという命題と矛盾しません。もちろん、自己保存を否定するような自殺も理論的には考えられますが、そういう故障が起きることは確率的には低く、統計的には無視できる現象と言うことができます。
Kaname さんが書きました:
レイ・カーツワイルに関しては、そのような説があるのですね。それは確かに、生の保存戦略としては有望な気がします。ただ、それを生命と呼べるかや、それが幸せなのかと言ったことに関しては、疑問ですが。永井さんは、幸せよりも保存が大事だとするという立場、もしくは、事実大事にしているのだという立場ですか。
自己保存は幸せではないという人は、自己保存をしないことにより、「自己保存は幸せではない」という考え自体が自己保存されなくなります。幸せと考えている人は、マインドアップローディングであれ何であれ、あらゆる手段で生き延びようとするでしょう。その結果「自己保存は幸せだ」という考え自体が自己保存されるのです。
6. 議論(3)生きるとはどういうことなのか
関連トピックとして、システム論フォーラムの「生きるとは何か、生物とは何か、その定義」での議論を転載します。
生物の定義はあまりはっきりとしていないらしい。
代謝能力、自己複製能力、外界と自己を隔てる膜が必要だとか、散逸構造を持った開放系で遺伝子により進化を達成するだとか、色々言われているが、なんというかしっくり来ない。
というのも、結局のところこれらの定義は既存の生物を元に生物とは何かという定義をしているからなのではないかと思った。
既存の生物を見たら、どれも、代謝をしているし、自己を複製するし、細胞膜を持っている。だから生物とはそういった存在なのだと定義する。その方法自体は無難だが、それはどこまで行っても共通項の抜き出しであり、既存の生物という存在に対して定義することしか出来ない。しかし、それは既存の生物の定義であって生物そのものの定義では無い。既存の定義に当てはまらない生物が存在したらどうするのだろうか。現に、ウイルスなど、細胞膜を持たず、代謝をしないが、遺伝子を持っていて、他の生物の細胞を利用して増殖するだとか、生物的な振る舞いをするものだから、生物の括りに入れるかどうか未だに決着がついていないらしい。
それもこれも、生物の定義を目指すのでは無く、生物とされているものの共通項を定義としているからだ。これらは本末転倒である。生物と非生物の境界をしっかりと分けるために生物の定義をするのに、その生物の定義をするために生物の共通項を抜き出すのでは、その共通項を持った存在を識別するために生物の定義を使わなければならない。生物を定義するために生物の定義が必要なのである。つまるところ、代謝だとか自己複製だとか細胞膜だとかは生物の定義という名前を被った生物らしきものの定義である。
生物というのは、生きている物のことを指す。では、生きているとは一体どういうことなのかを考えるのが筋ではないだろうか、生きているとはどういうことなのかが分かれば、生物の定義はおのずと決定する。
では、生きているとはどういうことかを考えたが、生きていることの明確な定義はひとつしか思い浮かばなかった。すなわち、死んでいないことである。生きていることについていろいろと考えてみたのだが、明確に生きているとはどういうことかというものは見つからなかった。さまざまな生物を思い浮かべて、生きていることの特徴を掴もうとしたのだが、途中でこれでは上記の共通項の抜き出しと同じだと分かったのでやめた。生物は多種多様で、一口に生きているといってもその実態は様々であり、生きているというのがどういうことなのか理解するのは難しい。なので、死んでいないものが生物であるということをとっかかりに考えていくことにした。生きているものは死んでいないというのは、疑いようのない事実であるから。
では、死ぬとはどういう状態であろうかと考えた。そして、存在が消失することが死であると結論付けた。死んでいるものは生きていないのだから、生きているという存在の消失が死であると結論付けた。生という存在の消失が死ぬということである。生という存在がなんなのかについては分からないが、死とはなんらかの存在が消失することであると結論付けた。
存在が消失するといっても、それは一時的なものであってはならない。一時的に存在が消失したとしても、また復活するのだとしたらそれは死んでいたとは言えない。冷凍睡眠して生命活動を停止させ、のちに復活というようなSFはあるが、冷凍睡眠していた間、その存在が死んでいたかと言われればそうではないと思う。後に復活するのならば、通常その間は仮死だとか、冬眠だとか言われて、死んでいたとは言われない。逆に、死んだのならば生き返ることは無い。
存在の消失には二通りある、ひとつは存在そのものが消失すること、もうひとつはそれが別の存在になることである。存在そのものが消失した場合は、消失したのだから生き返ることは無い。しかし、存在そのものの消失というのは現実的にありえない。例えば生物Aという存在それ自体が消失するということは一体どういうことなのだろうか。生物Aが死体Aになること、つまり存在が変わることは理解できるが、生物Aという存在そのものが消失するならば、忽然と消えてなくなってしまうのだろうか。もし、生物Aと瓜二つな生物が後に偶然発生したとしたら、生物Aと同じ状態になった途端またしてもその存在は存在しないのだから、突然消失したりするのだろうか。それとも生物Aの存在というのは概念的な話で、瓜二つな生物が現れたとしたらその存在は存在しないのだから、その存在はありえないものとしてどんなに生物Aに似せようと思ってもいくらやっても生物Aにはならないだとか、そういう結果になるのだろうか。いずれにしても、存在の消失というのは物理的にありえないことだらけであり、死ぬことが存在そのものの消失とは考えにくい。
つまり、存在そのものが消失するのではなく、存在が変わることによって死ぬことになる。しかし、死んだものは生き返らない。すなわち、この変化は非可逆的なものである。
つまるところ、死ぬということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することによって生じる現象であると結論付けられる。また、生きているということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為ということになり、生物とはその様な行為をしている物のことを指すということになる。
また、非可逆的に変化することが死ぬことであり、それを防ぐことが生きていることなのだから、そもそも非可逆的な変化がありえないものはそのどちらの定義にも入らない。例えば物質が E=mc2 の法則によりエネルギーになったとしても、そのエネルギーは質量に転化することが出来る。つまり可逆変化可能であるから、唯の物質やエネルギーは生きているとは言えないし、死んでいるとも言えない。しかし非生物であることは確かなので、唯の物質及びエネルギーは非生物である。
唯の物質及びエネルギーという存在は非生物である。しかし、宇宙に物理的に存在するものは物質及びエネルギーしかないので、物質及びエネルギーに付随するなんらかの存在が生である。
物質及びエネルギーに付随する存在といえばおそらく情報しかありえないので、生とは情報であり、また非可逆的に変化するものである。
また、その情報、例えば生物Aの情報という存在そのものが消失したのでは無く、あくまで変わっただけなので、偶然物質やエネルギーがその情報と同じ状態を保持すれば、生物Aは復活することになる。しかし、簡単に復活するのならば非可逆とは言いにくいため、偶然元と同じ情報を保持する確率は極めて低いことになる。このことから、生の情報はランダムな物質の動きで簡単に再現されるような無秩序な情報では無く、なんらかの規則にそった秩序だった情報であることが分かる。
秩序だった情報だということは、その情報は無秩序な情報、つまりランダムな情報では無いということである。ランダムとはありとあらゆる値を乱雑に出すことであるから、ランダムな情報にはありとあらゆる結果を出す可能性がある。秩序とはその逆であるから、なんらかの結果を出す可能性を排除し、なんらかの結果を出す可能性に偏らせたものである。
生とは情報そのものであるから、もちろん死の情報も存在する。生の情報は非可逆的な変換を防ぐのでその情報を保持することが出来るが、死の情報は非可逆的な変換を防げないのでその情報を喪失する。結果として生の情報は保持されるが死の情報は保持されないため、次第に情報の割合の中で生の情報は増えていく。つまり、生の情報はその情報を保持するものが死ぬか死なないかという規則にそって、死なないものだけを選んで秩序さを増して行く。
結果として、生の情報は生の情報を保持するための情報の精度を進化という形で延々と上げ続けていくことになる。
結論として生物とは何かを説明すると。
非可逆的な変化を起こすなんからかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為をする物であり、それがこの宇宙の場合、非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物となった。
結果としてその現象には散逸構造だとかいう名や、情報を効率良く保持するために生まれた分子構造にDNA、内部の秩序を外部の無秩序に溶け込ませないためのものを細胞膜、情報の保持確率を上げるための自己の情報の複製を細胞分裂、活動のための化学反応に代謝などと言う様に名前を付けていったが、それらはあくまで「生きるための手段」であり、「生」そのものではない。生きるための手段は様々なものが考えられるのだから、そのさまざまな手段をもとに生物を区別しようとしても、生物ごとに手段が違うため、生物が定義出来ないのはあたりまえである。
また、この定義の場合ウイルスも生物である。非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物であれば手段はなんでもいいため、細胞膜が無くても、代謝をしていなくても関係は無い。これもまた生物ごとに手段が違うことを示す好例である。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
ウイルスなど、細胞膜を持たず、代謝をしないが、遺伝子を持っていて、他の生物の細胞を利用して増殖するだとか、生物的な振る舞いをするものだから、生物の括りに入れるかどうか未だに決着がついていないらしい。
他の概念と同様に、生命という概念にもマージナルなケースがあり、その代表がウィルスです。ウィルスを生命とみなすかどうかは、生命の本質を DNA とみなすかどうかにかかっています。細胞なしの単独で代謝や増殖を行わないという点では、DNA もウィルスも同じです。RNA はかつては DNA の派生体のように思われていましたが、RNA ワールド仮説によればその順番は逆です。DNA や RNA を生命の本質と考えるなら、機能的に DNA や RNA と同じであるウィルスは生命ということになります。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
生物を定義するために生物の定義が必要なのである。
定義とは一般的にそういうものです。従来の伝統的な定義を継承し、それを尊重しつつ、より厳密な規定を試みることが、定義の見直しという作業に求められます。例えば、メートルという単位は、地球の赤道と北極点との間の子午線弧長の 1/10000000 の長さとして最初に定義され、現在では一秒の 1/299792458 の時間に光が真空中を伝わる距離としてより厳密に定義されています。もしも最初の定義を尊重しなくてもよいなら、1/299792458 などという覚えにくい分数が採用されることはなかったでしょう。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
死ぬということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することによって生じる現象であると結論付けられる。また、生きているということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為ということになり、生物とはその様な行為をしている物のことを指すということになる。
それは生命であるために必要条件の一つであって、十分条件ではありません。もしそれだけで生物というのなら、水を湛えているコップですら生物ということになります。コップは「覆水盆に返らず」という諺にもなっている非可逆的変化を防いでいるのですから。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
非可逆的な変化を起こすなんからかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為をする物であり、それがこの宇宙の場合、非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物となった。
この結論の前半と後半は矛盾しているように見えます。「非可逆的に変化することを防いでいく行為をする物」が「非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物」となるとはどういうことを念頭に置いて言っているのか、もう少し詳しく説明してくれないと、論評できません。熱力学的あるいは統計力学的には非可逆的な変化とはエントロピーの増大であり、これに対して、秩序や情報はその否定ですから、両者をどういう理由で結びつけているのかを説明してください。
7. 参照情報
- Bering, Jesse『ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学』化学同人 (2021/1/31).
- ショーペンハウエル『自殺について』KADOKAWA (2013/7/15).
- 末木新『自殺学入門』金剛出版 (2020/5/25).
- 雨宮処凛『自殺のコスト』太田出版 (2015/4/9).
- 茂木健一郎『クオリアと人工意識』講談社 (2020/7/15).
- ↑このページの初出は、2002年5月3日発行のメールマガジンの記事「自殺は悪か」である。関連議論として、システム論フォーラムから三つのスレッドを転載した。
- ↑“Euthanasia legal status 2009 world map" by Sémhur. Licensed under CC-BY-SA
- ↑“尊属殺人被告事件 昭和37年12月22日判決“『名古屋高等裁判所』高裁判例集第15巻9号674頁.
ディスカッション
コメント一覧
私も、やはり、自殺と言うのは結局生に対する善悪の判断であると思います。自殺という行為において重要なのはやはりその人が生きることに死よりも苦を感じるというその考えでしょう。そうあるのならば、個人の問題だからこれは個人に任せるのがもちろん普通のことではないのでしょうか?
しかし、社会としては、何故かそれを制止する方向にある。他にも、途上国の子供達が餓死していく…それを悪と受け止め、様々な援助が考案されます。もちろんこれらの姿勢は美しいものです、とおそらく多くの人がそう考えていると思います。私は、こういう死に対する否定的な考え方は、慣習的なものではないかと思います
後、もう一つ重要なのは、母と話すときに非常に思うのが、家族関係と言うものです。これは、『自殺は残された家族に対する最大の復讐だ』という言葉に象徴されると思います。結局両者とも非常に密接な関係にあると思いますが、要は道徳観念がポイントにあるのでしょう。道徳をこの善悪の判断にはさむかどうかは様々な意見があると思いますが、私ははさみ得るものだと考えています。何故なら、この基準を抜け得る人はなかなかいないと思うからです。
その上にあるのは教育です。この価値基準に基づいた教育を受けた人々が自殺をすることに悪を感じないとは思えません。そして周りの人もその自殺に対して、この価値基準で判断するのでしょう。
この基準こそが慣習だと思うのです。古代、日本は食糧不足のために間引きなどをとみに行ったのことですが、おそらく、食糧難の場所では、きっと今でもそういうことがあると思います。そして、選ばれた子供達の完全な発育を望むのです。これが、子供を生かしたいと思う家族の気持ちに直結するとは考えていませんが、このような昔からの慣わしから人の生に対する価値が今ならば『道徳』という言葉で表現されていくのではないでしょうか。
しかし、その昔の間引きを例に取るのならば、もう一方の面からもひとつのことを考えていけるでしょう。間引きーつまり人殺しといっしょですが、それをできたというのはやはり昔は生に対する判断が今よりももっと否定的であったのではないかと思います。否、生と死の格差がもっと小さかったといえるのではないでしょうか。これは興味深い事です。日本の昔だってそうでしょうが、ヨーロッパの中世史でも、暴力などという言葉に象徴されるように人の死はかなり身近にあったものだと考えられます。そのときに、死に対してどう思っていたのでしょうか…恐怖?それとも諦め?
今の発展途上国の人々だって、『毎日ー人の人が死んでいきます』なんて放送されているけど、現地にいって彼らの意見を私は聞きたいのです、死が怖いのか、或いはそれをあなた方は受容しているのか?…こんな風に言うと私は冷血漢のように自分でも感じてしまいますが、死に対しての判断をするのはムづかしい、生きることになれているから、このように死に対する恐怖が倍増しているだけかもしれないと、思わなくもないのです。そう、生が普通だというものが根底にあるのです、私たち達の生活には…生を普通の基準とするために民主主義など様々な試みがあったのでしょうか?わかりません。
意見するにはまだまだ早かったみたいです。最終的には、私は今の道徳価値に肯定ですし(もう抜け出せないのだろうと思います)、何より家族という関係の習慣から出て行くつもりもありません。でも、恵まれて、色んなことに対して、鈍感になり、当然と思っているような今の状態にはあまり納得いきません…そういえば、自殺する動物は人間だけだと聞きました。これも一つのキーポイントのような気がします。
今回私が主張しようとしたことは、哲学的に考察すると、「自殺は悪だ」には根拠がないということであって、「自殺は悪ではない」と主張しているわけではありません。生の内部にとどまる限り、生には絶対的な価値があるし、生のルールに従って行動しなければなりません。
自殺は社会的現象であり、個人の問題ではないのだから、「自殺するかどうかは、個人の自由」ではすまされないでしょう。自殺の増加は、社会にとって、資源の浪費であり、社会は、「自殺は悪だ」というイデオロギーとともに、あらゆる手段を用いて自殺を防止しなければなりません。
経済的な理由から、発展途上国における人間一人あたりの生の価値は、先進国におけるそれと比べて、低くなっていますが、決して生に価値がないわけではなく、自分たちの生よりも神に価値をおく一部の社会を除けば、人間の生が究極的な目的です。もっとも、究極的な目的は、究極的に基礎付け不可能なのですが。
日本で自殺が絶対悪であるかのように扱われている理由は、殺人が絶対悪として扱われている影響がもっとも強いと思います。日本では、患者を苦しみから解放するために安楽死を施した場合、たとえ安楽死要件を満たしていても、殺人罪に問われます。殺人を禁止する刑法に対し、容認する特別法が存在しないからです。殺人罪は「人を殺したるもの…」と書いてあるはずです。傷害罪は「人を傷つけたるもの…」。一方で「他人を…」と書いてある法律もあります。「人を…」と表記している法律は、自分も含めると警察が言ってました。私が無茶な運転をして、勝手に事故を起こし自分のみが怪我をしたときに、「傷害罪を適用してもいいんだぞ」的なことを言われました。単なる脅しかもしれませんが、あんまり頭がよくなさそうな人だったのに、妙に論理的だったので本当のような気がします。その真偽はとりあえずいいとして、殺人の是非をまず問うべきであるように感じます。今後殺人の是非を取り上げてほしいです。
他者を殺すという意味での殺人が悪なのは、自殺が悪であることから簡単に証明できます。もし私が「他者を殺してもかまわない」と主張したとすると、それを聞いた他者は「そうか、他者を殺してもかまわないのか」と納得し、他者にとっての他者である私を殺すことになるでしょう。つまり、殺人を許容することは自殺行為なのです。このように、あらゆる価値の問題は、なぜ自分の生に価値があるのかという問題に帰着します。
教育と洗脳、私は同じ事だと思っています。どちらも、一定の統治に重要なカテゴリーです。イスラム原理主義では生きているときの性的欲求を締め付けるだけ締めつけて、命を捧げれば天国で女(男)を抱き放題とかなんとか言って教育(洗脳)して、自爆を助長しているとか。だから自爆する人は進んで自爆しているらしいですよね。これは止めようがありません。止めるにはその上から全く違う価値観を上書きするしかありません。この件、非常に重要だと思いますが、考えていると実は時間が無駄に過ぎてしまいますよね(笑)。
現実だけを直視すると、義務教育受ける国民の割合が99・8%を誇る世界一の教育先進国である我が国。統治に必要な最重要課題をクリアできるわが国。教育の元々の目的は単なる個人のレベルアップではなくて統治の充実であり、その結果、個人のレベルアップに結ばれるということに立ち返って教育を議論して欲しい物です。ちなみに、私は自殺とか(浮気とかって)自由だと思っていますが、それを布教するとみんなやってしまう。そうすると統治が成り立たなくなってしまうと危惧して、他人には志雄らしく「自殺はいけない!」「浮気はいけない!」って言っております(大笑)。
私たちには、この世に生まれるがどうかを選ぶ権利がないし、幼少時にどのような教育を受けるかを選ぶ権利も普通ありません。その意味で、私たちの自由は、かなり限られています。しかし、私たちには、その事実に気付くぐらいの自由はあります。「自分は、実は洗脳されていたのだ」と気付く人は、気付いた瞬間、洗脳から自由になります。逆に「洗脳とは何事だ。けしからん」と言って怒る人は、洗脳されたままです。これは洗脳のパラドックスです。
永井様の言われることは、もっともですが、なぜ自殺が悪であるかの本当の原因は、残された人を不幸のどん底に陥れるからです。ストーカーに娘を殺された親も、自殺で息子を失った親も、子供が死んでしまったことに対する悲しみは同じ。自殺をした人の意見が聞けないように、自殺した人が、取った道が正しいかどうかは関係なく、その行為によって周りの人を悲しませる。その人を愛する人々をこのような形で苦しめる、だから、悪なのです。ロジックな解説は、意味がない、と私は思います。では、誰からも愛されてない人がする自殺は悪ではないのか。と、すぐに質問されそうですが、私の答えは、YESです。まったく、誰からも愛されていない人、そんな人がいるとは思えませんが、その人の自殺は悪ではありません。以上が私の意見です。
自殺しようとする人は、自分の自殺で心を傷めるであろう人のことを考えて心を痛めます。そして、それで思いとどまる人もいます。しかし、もしも、生き続けることで自分が耐えなければならない苦痛が、自殺することで生じる自他の苦痛以上であると自殺願望者が判断するならば、どうでしょうか。一つアナロガスな例を挙げると、あなたが会社の命令で、遠いところへ転勤しなければならなくなったとします。それを聞いた周囲の友人が、「あなたがいなくなるとさびしいから、ここにいてちょうだい」と懇願したとします。しかし、会社の命令を拒否し、その結果解雇されるとするならば、その苦痛は、転勤することで生じる自他の苦痛よりも大きなものとなるとあなたが判断するとします。その場合、転勤は悪ではありません。これと同じ論理を自殺には当てはめることができず、したがって、自殺は絶対に悪だと言うことができるのか、それが私の問題提起です。
自殺に対する規範意識について考えてみますと、この行為が行われた場合極めて嘆かわしいことであると考えられているようです。しかしそれを「禁止」するまでの強い忌避の念が一般的な規範意識に含まれるものであるかどうかはすこし疑問であって、むしろこれを大っぴらに推奨することから、これの是非を論じたり、このサイトにおけるようにこれを「悪」とする観念のよって立つ由来を議論したりするような、寛容さの幅があると思われます。
これはひとえには、個々の事例において自殺を実行する者が、自殺をもってする他には耐えることの出来ない程度の苦悩のもとにあることが多く、なおかつ多くの場合においてはその事情を知る者においてその受苦の程度と自殺との間に自然な関連を見い出すことができるということ、すなわち「自殺するのも無理もない」と感想することから、そのような場合において自殺者を「悪人」とするに忍びないという事情があるものと思われます。これは「悪」をなしたものは「悪人」として非難されるであろうという前提を含んでおりますが、このような前提はほぼ一般的に承認されている考え方であると仮定しています。つまり自殺を「悪」であると言い切るには自殺者を「悪人」であるとしなければならず、「気の毒な」自殺者を「悪人」として非難することへの躊躇いが上記の寛容さの幅である、ということになります。
したがって、一方では宗教的な規範、あるいは法的強制力をもって自殺を「禁止」する場合もあり、そのような規範が存在することをもって「自殺は悪である」という規範があるのだとすれば、通常人の自然な観念というものを仮定してそこからこれを導き出すことは困難であると思われます。
そのように考えると、自殺を「禁止」するところのこのような規範がある種「人為的」に「作られた」ものなのではないかと仮定することができるでしょう。ここで歴史を遡って自殺そのものの禁止が明示されたのはいつどこの話であるかということを明らかにする方向で考えるのもひとつの道でありますが、どうもそれは私の手にはあまるようです。そこでこれ以上は勘のようなもので申し上げますが、自殺の禁止は所有関係の発達にともなって経済的な動機で設定されたものではないでしょうか。すなわち支配階層にとって自殺は、もし集団的に行われるときには江戸時代の農民の逃散、もしくは近代労働者のストライキに相当するような、経済的不利益をもたらすところの不服従の身振りとされ、それゆえの「禁止」なのではなかったかと予想されます。そしてむしろこの「禁止」を正当化するためにいつの間にか動員されたのが「悪」の観念だったのではないでしょうか。
生命の持続は自己目的的であって、自殺が悪であることを手段レベルで説明することはできません。支配者階級が、生産手段を失うことを恐れて被支配者階級に自殺を禁止したとするならば、支配者階級の人間も自殺してはいけないという規範意識を持っていることをどのように説明するのですか。「江戸時代の農民の逃散」や「近代労働者のストライキ」を容認することは、支配者階級にとって自殺行為ですが、なぜそうした自殺行為をしてはいけないのかという問題を考えてください。
自殺は何故悪なのだろうか。
何故悪と断定されているのでしょうか。
仮に悪なら、誰にとって悪なのでしょう。
言葉遊びのような気がします。
これを考えてる人は、私を含めて、とりあえずまだ生きていようとしている人だと思います。
自殺しょうとする人が、善いことだと考えて死ぬとは思えません。
生きていたいけれど生きていけないから死を選ぶのではないのでしょうか。
死を決意した人に自殺は悪いことだから止めろと言ったら、聞いてくれるのでしょうか。
社会規範?その手のものを持ち出したとて、死への決意が鈍るとは思えません。
善し悪しではなくて、止むに止まれぬ事情があるから自殺しようとするのであって、出来れば生きていたいのが人です。
死を決意した人の環境やその人の資質を問うのが先だと思います。
私には自殺するのは悪である、と決め付ける事はできません。
人は種を残すための、遺伝子の入れ物といった考え方があります。
種のバトンを手から手へ渡すのが生物ならば、それが終えたら死ぬのも自然なことのように思われます。
私には、自殺するのは悪である、と壇上で居丈高に叫ばれているように聞こえます。
「生きていたいけれど生きていけないから死を選ぶ」ことは自殺なのですか。例えば、治る見込みのない末期がんの患者が、「生きていたいけれど生きていけないから死を選ぶ」なら、それは、自殺ではなくて、安楽死と呼ばれ、普通は、非難されることはありません。生きていけないからではなくて、生きていけるのに死を選ぶことが自殺であり、そうした安易な選択をすることは「命を粗末にしている」といって非難されます。
「種のバトンを手から手へ渡すのが生物ならば、それが終えたら死ぬのも自然なこと」というのは、そのとおりですが、「死は悪ではない」ということを認めたからといって「自殺は悪ではない」という結論は出てきません。また、社会が自殺を容認し始めると、「種のバトンを手から手へ渡す」ことに支障をきたします。
私は、この文章を、自殺は悪だとお説教をするために書いたのではありません。「自殺しょうとする人が、善いことだと考えて死ぬとは思えません」とあなたも認める常識の根拠を哲学的に問うために書いたのであり、その結論は、自殺を悪とする根拠は何もないというものです。
この前の投稿は早とちり、浅慮で失礼いたしました。
こんなことを考えました。
ある人物が自殺しようとしましが、どうにも決行できません。
そこで画策したことは、自分と何の関わりのない複数の人の命を奪い、捕まって死刑になることでした。
実際に行動し、望み通り死刑になった場合、
この犯人は自殺したと言えるのでしょうか。
屁理屈のような設問で申し訳ありませんが、先生の考えをお聞かせいただければと思いまして投稿します。
宅間守のように「自殺をしても…らが喜ぶのみだ。自分が死ぬくらいなら、自分が味わっている絶望的な苦しみをできるだけ多くの被害者とその家族に味わわせてやろう」と言って無差別殺人をする場合は、一種の自殺でしょう。死刑が最高刑である法体系は、道連れ殺人を防ぐことはできません。
自殺は、絶対にやってはいけない事であると思います。「思う」というかいけない事なのです。どういう星の下に生まれてきたのかは人それぞれですが、自殺はその言葉自体が悪であると認識されなければならない。死んでから人は楽になれると考えているでしょうが、それは大きな間違いであると言わせてもらう、地獄や天国が本当には無くて死ぬとただ消えるだけなんて心のどこかで思っているとしたら大違いです。なぜ地獄を語る人がいるのでしょうか。なぜ霊が見える人がいるのでしょうか。本当に、本当に無いのであればこの長い歴史の中で説は消えていくでしょう。地獄はあります。自分を殺す?そんな事ができる人は地獄をわかっていないからしてしまうのだ(普通人は地獄を知らないから)。地獄はもし人間が生きて体験する事ができたとして、世界中で一番苦しんでいる人の30倍以上苦しいものだと考えてほしい。いやもっとかもしれない。人生に疲れた?死んでしまいたい?死んで楽になりたい?死んだらその人の本来生きるはずだった寿命の何十倍もの時間を苦しみぬかなくてはいけなくなるんだと思ってほしい。今苦しくて自殺したいと思っても、その今の苦しみの何十倍もの苦しみを何千年もかけて味わう事になるのです。生きていれば、本来の人生の中でいい事が見つかる可能性はあるのです。死んだらその可能性をも絶つことになるのだと思ってほしい。自分自身の人生を絶つということは、どんな罪よりも重いのだと思ってもらいたい。今までの投稿を内容を見てコメントしたのではなく、神道に基づいて述べたまでです。
「神道」というのは、日本神道のことですか。日本神道では、仏教やキリスト教といった世界宗教とは異なり、地獄の思想は明確ではありません。冥界や根の国といった死後の地下世界は、それほど悲惨なところではありません。珠月さんは、宗教的にはどういうポジションの方なのですか。
「自殺がなぜ悪なのか」という問いは人が生まれながらにして善か悪かという問いと同種の哲学的問題であると思う。
人が善であるか悪であるかについてですが、それは個々人が育ってきた環境、周りとの関わりで形成していくものだと考えます。
いかにして人は善になるか悪になるかということです。
私は、自殺が善であるか悪であるかもそれと似通っているのではないかと考えます。ある社会が「自殺は悪いことだ」と、倫理規範、国益、政策的観点から定め、その環境で育まれたからそのような意識が生まれたのだと解します。ですから自殺が特段悪とはしない社会も存するものと考えます。
それでは「自殺はなぜ悪なのか」ではなく「自殺は悪なのか」という問題提起を考えてみたいと思います。
自殺が悪だとする社会で自殺者を処罰できるのか考えてみる。日本では自殺を悪とし、積極的に推奨する社会ではないものの、社会通念上違法だとは解されていない。それはおそらく自殺は自己決定権の問題、死が人にとっての終局的な現象であることから法規範違反としては定められないことに起因しているものだと思います。
それでは自殺を幇助・教唆した者はどうだろうか。これも上記同様に処罰根拠がないように思われるが私は以下の理由で裁かれるものだと考える。生命の放棄という自己決定は違法ではないが、好ましくないものであり、それを助長する行為は禁止すべきものとするのである。これは、生命の軽視を否定する道義観の保護に通じ、生命の支配権は個人のみに存するとする(つまり生命に関してはすべて本人が司らなければならないと考える)抽象化した法益概念を承認することになる。これと同じように殺人罪等についてもそれぞれの社会で価値が異なるのではないかと思います。
しかし日本でも例外的に安楽死が認められています。安楽死といっても尊厳死と狭義の安楽死に大別できますが、ここでは狭義の安楽死について取り上げます。狭義の安楽死は厳格な要件のもとにおいてのみ認められています。
判例の引用ですが「①耐え難い肉体的苦痛が存在し、②死が回避不能でかつ死期が差し迫っており、③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がなく、④患者の明示の意思表示が存在する時には、積極的に死期を早める安楽死も例外的に許容されうる」としています。これほどまでに生命を尊いものだとする社会であればこそです。
結論としては環境の問題で決まるのだと思います。
上記のコメント内において永井教授が
”死刑が最高刑である法体系は、道連れ殺人を防ぐことはできません。”
と発言しておられますがどのように解釈したらよいのでしょうか。
死刑が最高刑である法体系であるから道連れ殺人を防ぐことができない(だから死刑は廃止すべきだ)という意味なのか、
それとも死刑が最高刑であろうとなかろうと道連れ殺人を防ぐことができる法体系は存しないという意味なのか、またはそれ以外の意味があるということなのか教えてください。お願いします。
宅間守を例にしたのでわかりにくかったのではないかと思います。もっとわかりやすい例を挙げましょう。ある自殺志願者が、「オレと一緒に死んでくれ」と叫びながら、電車のホームに立っていた人に飛びかかり、そのまま、二人とも通過電車に轢かれて死んだ場合、この自殺志願者は、殺人の罪を犯したことになりますが、被疑者死亡で、裁くことはできません。
自殺志願者の家族には、損害賠償を求められるなどのペナルティがあるでしょう。だけれども、それは、家族が受けるペナルティであって、本人が受けるペナルティではありません。周囲に迷惑をかけずに死にたいという人もいるでしょうが、そうでない人もいるわけで、後者を罰する刑罰が存在しないことが問題です。
宅間守は、死刑という手段で自殺したわけですから、形式的には、裁かれ、罰せられたことになります。しかし、死刑が目的ですから、なんら刑罰に抑止力がなかったということです。通常の死刑よりも重い刑罰として、残虐な死刑を導入しても、宅間守は、捕まる前に自殺したでしょうから、残虐な死刑の導入によりあの事件を防ぐことができたとは断言できません。
死刑があるおかげで、抑止できる犯罪もあるので、自殺志願者の殺人を防ぐことができないからといって、死刑を廃止するべきだということにはなりません。死刑の是非は、また別の問題です。
はじめまして。一つ質問があります。
“規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。”
たしかにその通りだと思います。善か悪かを最終的に決めるのは社会であって、個人ではないと思います。では、自殺は悪という社会の規範がある以上、自殺は悪なのではないでしょうか。
またその際、”私たちの生命に価値があるのかと問うことと”はあまり意味がないような気がします。私たちの生命に価値が有る無いにかかわらず、そういう個人の考えとは関係なく、社会では自殺は悪だとしているからです。
ネゲントロピーという単語がこの質問な答えになるような気がして、いろいろ調べたのですが、結局分かりませんでした。実は僕はまだ大学一年生で、頭もあまり丈夫ではありません(笑)先生の論文をすみずみまで理解したいので、分かりやすい言葉で説明してもらえるとうれしいです。
社会は個人を離れてどこかにあるわけではありません。また、本文に「重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない」と書いたように、生命は価値なのではなくて、価値の基準です。
初めて投稿させていただきます。
この文章を読み、「親が自分より子供の命を守ろうとする」行動に疑問を持ちました。もし趣旨がずれていたら申し訳ありません。
親が子供のために己を偽性にすることは、価値の基準であるはずの自分の命よりも、社会を優先させる行為であり、「自殺はなぜ悪なのか」で述べられている内容と整合しないと思いました。
価値の基準である自分の命よりも、他のものを優先しているからです。
生きている者にとって、命が価値の基準である以上、自分の命を他の命よりも優先させると思います。あらゆる存在にとって、(種など関係なく)全ての生命の価値が同じであるならば、他の生命を糧として生きることはないと考えます。
自分の命を優先しているからこそ、他の生命を偽性にして、己のエントロピーを低減させることによって生き延びていると思います。
私はこの事実から、価値の基準は「自分の」命に限定されると考えました。
そして社会秩序や道徳については、
—————————————————-
カントが主張したように、道徳的に悪しき行為は、その格率(主観的な行為の規則)を普遍化すると、概念的な矛盾に陥る。例えば、他人の利益を尊重せず、自分の利益のみを考えるエゴイストが、その格率を言語で表現する(普遍化する)と、周囲の人も、その人の利益を尊重しなくなるから、「自分の利益のみを考える」という当初の格率に矛盾してしまう。
—————————————————-
(永井先生の「価値とは何か」より)
などから、「社会秩序や道徳は、各々自身の命のため」と考えていました。当人以外の命を尊重するのは、当人が命を尊重されたいからだという意味です。
種の保存は、その種が生きる社会にとっては有益と考えます。しかし善悪の基準が当人の命であるならば、「親は他人である子供よりも、自分の命を尊重すべき」という結論になる気がします。
価値の基準を「自分の」命に限定することがおかしいのか、あるいは親と子供は一体と捉えるべきなのか、いろいろ考えましたが、よくわかりませんでした。
永井先生はどのようにお考えでしょうか?
浅学のため、読みにくい文章で申し訳ありません。返答をお待ちしております。
「自分の」命と言うときの「自分」は、必ずしも皮膚によって境界付けられた生物的個体としての私ではありません。特に母にとっての子は、他人とは言いがたく、自分の一部と認識されていることが普通であると思います。極端な場合、特攻隊など、国のために命を捧げる愛国主義者のように、自分の概念を自民族にまで拡張する場合もあります。なお、カントの定言命法は、理性的な法則に基づいているので、直感的な感情に基づく、母の献身的な子供救済の説明には使えません。
色んなコメントがあるんですね。
そりゃそうだな~。皆生きてきた環境が違うんだからなぁ
どんな意見を言ったって必ず反対派はいる。
こう言う問題は話し合ったって結局は自殺者の判断でしょ?
という事はここで自殺は善だの悪だの話してもしょうがない
んだ。
別に俺は哲学とか否定するわけじゃないよ。
だけどなんかここのコメントを見ると自分が勉強したこと
の発表会みたいなきがすんだよね。
正直いって死にたい奴は死ねば善いんだよ。
だって生きてけないんだろ?
そりゃ目の前で飛び込もうとしてる人を見たらちょっと待て
よ!!くらいは言ったるけど、人間マジで考えてるときってだ
いたい正しい事を考えてるよ。
それでおかしい方向に行くやつは死ぬんだよ。
でもしょうがないよ。それがそいつの受けた教育であり生き
てきた環境だからさ。
所詮人間だ。
今哲学の発表会してる奴も所詮人間で結局は感情にコントロ
ールされるわけだよ。
永井さんだって行くところまで行ったらコロっていってしま
うかもしれない。ワラ でもそれはしょうがないんだよ。
俺らは自分が一番可愛い人間なんだから。
哲学の発表会をしたい奴はここで永遠としてればいい。
きっと自己満足は申し分なくしてるだろうけど、社会に何の
影響もないとおもうよ。。
イデオロギーね・・・ワラ
自殺って本人にとっては別に悪くも良くもなく
「今日はパンにしようか、ご飯にしようか」
なんて選択を、人生や命に置き換えただけなんじゃないかな。
そこにいたる経緯について、社会の問題・・・・と言う人が多いけど
生きていれば誰だってそれなりの悩みや苦悩はあるのだから
その自殺の責任の全てを、本人以外に持たせるのは変だね。
まぁイジメや迫害からの自殺は社会の問題だけどね。
ただ、自殺に善悪つけるのは、おかしいように思う。
そこに追い詰めた行為があるならば、その行為が悪かもしれないけど
その人の自殺を選択した行動につういては
ただそれを選択したってだけじゃないかな。
そして、それによって周囲の悲しみが生じたとしても
それは、周囲に悲しみを生じさせたことが悪いといえても
それで自殺を悪とするのは、間接的すぎるきがする。
いまさらですが、人間以外にも自殺する動物はいたはずです(レミングとか)。
レミングが集団自殺をするというのは嘘です。[Great Moments in Science – Lemmings Suicide Myth]
自殺は現住所があるから悪である。行旅死亡人は住所が無いから善である。
一読させて頂きました、貴君は自殺したことが有りますか。
もし有ったとしても、成功していればこんな事も書けないんだよね。
自殺もしたことの無い人に、自殺者の気持ちが分かるか。
権助は死んだ、ペー子は今教会に通ってる、そのうち死ぬ(自殺)。
資源問題と環境問題を解決するために人口を減少させる必要があるのだから、自殺は善ではないのですか。
私は、教育投資への増加が結果としてもたらす少子化を推奨しているのであって、すでに生まれた人々を殺すことで人口を減らすことには反対です。一人の人間を育てるのにどれだけ多くの資源が使われているかを考えてみてください。自殺したら、その人へのそれまでの投資が無駄になってしまいます。資源の有効利用という観点からしても、推奨できません。しかし、最初から産まないならば、無駄になる資源はありません。
>私の結論は、売買春の合法化は人口増加を抑制し、種の存続を危うくする(あるいは少なくともそう信じられている)から非難されるというものだ。(試論編「なぜ売買春をしてはいけないのか」から引用)
「自殺はなぜ悪なのか」という問いに対する答えも、「人口増加を抑制し、種の存続を危うくするから」でよいのではありませんか。
なお、『私は、教育投資への増加が結果としてもたらす少子化を推奨しているのであって、すでに生まれた人々を殺すことで人口を減らすことには反対です。』との御高説に異存はございません。
人口には、環境との関係で適正水準があり、この水準を上回れば減少させ、下回れば増加させる必要が出てきます。デフレで人口が余剰と感じられるようになると、戦争が起きて、「命の尊さ」といった徳目よりも「戦場での勇気」といった徳目が強調され、「正義」や「愛国心」の名のもとに、相互的な人口の削減が行われます。戦争が起きなくても、疫病や飢餓などにより、人口の調節が行われるでしょう。こうした野蛮な方法による人口削減は望ましくないので、それを防ぐためにも、事前に理性的な手段による人口増加の抑制が必要と考えているわけです。
本稿は、もっと哲学的、かつ根本的な問題を扱っていまして、その答えに対しては「では、なぜ私たちの種を存続させる必要があるのか」という問いが、さらに立てられることになります。
11年連続で日本の自殺者数が3万人を超えて、2009年は最悪の場合で5万人を超えると言う、「個人的な予測」が当たりそうな予感がします。これは日本の歴史上で長期的な「自殺大流行」と言えます。
歴史的な観点では、戦国時代は平均寿命が現代の半分以下なのに、「合戦で負けた」、「謀反が起きた」と言う理由以外で、戦国武将で自殺した人なんかあまりいません。戦国時代の武士の発想は「落ち度のある主君に逆らってもいいが、死んではいけない」です。反対に江戸時代の武士は「自害する事は武士として美しい。しかし、落ち度があろうとも主君に逆らってはいけない」と言う「江戸時代流・武士道美学」に変化して、切腹などの自殺が急増しました。「平均寿命が延びたのに、江戸時代の武士(中・下級旗本・御家人、藩士)は長生きする事を嫌ったのか?」と言いたくなります。
これは余談ですが、戦国時代は短命だったせいか、高齢者特有の病気の「神経痛」や「脳梗塞」、「心臓病」や「痴呆(認知)症」などが一般社会にあまり実例がなかったのです。これらの病気は平均寿命が延びた江戸時代に急増しました。今もそうですが、高齢化社会になると、これらの病気が増加するのは「避けては通れない」のです。
この様に戦国時代と江戸時代では「死生観」が根本的に違うため、「自殺を美しい」と考えるようになり、それが現代社会の死生観にも若干影響していると言えます。
「景気の変動」が自殺に影響しないのは、2001年以降の自殺者の統計を見ればわかります。むしろ「自殺しても文句を言われない」意識が固定されたと言えます。
最近心配な事は30代の自殺が急増している事です。いわゆる「団塊ジュニア世代」を含む30代の自殺急増が、社会に大きな損失をもたらす事にあまり警鐘を鳴らす人はいません。これは意外です。この様な現状を踏まえて「小学校から自殺防止対策をとらないと、もう間に合わないのではないのか?」と最近考えています。うつ病も最近では大きな自殺の理由です。20代の私は「上記の対策」を文科省に提唱したいくらいです。
「自殺は良くない」と考える人は多いんですが、有名人の人が「自殺未遂をした」、「かつて自殺を考えた事がある」と告白する事が意外に少ない。「自殺カミングアウト」が日本に浸透していないせいか、こういう姿勢に対する偏見が未だに根強い。
この5年間で自殺した国会議員経験者が複数いるのに、「政権政党」たる自民党では、全くと言っていいほど自殺対策法の「進展議論」にすらなりません。2年前に現職閣僚が自殺したのは記憶に鮮明に残るのに、「わずか死後半年」で彼の自殺が政府・与党内では風化されました。これには激しい憤りを感じました。昨年5月の彼の1周忌の時はTV取材やニュース報道どころか、全国紙政治面の記事にすらなりませんでした。これには未だに違和感を感じます。「政治家の自殺」に対する社会の意識の低さには呆れます。今年5月の3回忌ではどう取り上げるのでしょうか?それとも「無視」するのでしょうか?以上で質問を終わります。先生のご回答をお待ちしています。
一応、政府は、自殺対策をするそうですが、抜本的な解決策ではないので、税金の無駄という気がします。
韓国ではこの2、3年で若手の芸能人が自殺する事が多く、大問題になっています。
インターネットによる誹謗中傷を韓国の芸能人は重く受け止める傾向があり、精神的にショックを受ける事が最大の理由と聞きます。日本芸能界ではこういう事(誹謗中傷を苦にする自殺)はほぼ100%ありえません。
同国は儒教とキリスト教の考えが「うまくミックス」している文化です。「自殺はいけない」という意識があると思うのですが、芸能人に限らず若者の自殺も大変深刻と聞きました。先生は日本人と韓国人の「悪口に対する受け止め方の違い」はどこにあると思いますか?日本人は「他人の失敗を大げさに言いふらす」という悪い国民性がありますが。
日本の芸能人、スマイリーキクチにネット上で誹謗中傷を繰り返していた人たちが、名誉毀損や脅迫容疑で書類送検されました。警察もようやく本腰をあげたようです。ネット上での誹謗中傷は、記録がしっかり残るし、身元判定も容易なので、警察にとっては摘発が容易です。むしろ問題は、表に出にくい、リアルワールドでのいじめでしょう。
保守的な人などに「死は美しく、生は穢れている」(=「死に際の美学」)という発想があるのは武士道思想の名残りでしょうか?また、歴史研究家などに「切腹は日本人として理想の死に方」という意見が一部であるのは、時代劇で若い俳優の切腹(忠臣蔵など)の場面が「絵になるため」でしょうか?確かに、歌舞伎以外では高齢の俳優の切腹の場面はありませんね。本気で日本人は「死ぬ事はうつくしい」(=「長生きはみっともない」と言う、うがった見方でもある。また、「あの人は10年前に死ねば、英雄になったのになぁ」と言う、生きながらえた人に対する軽蔑もある。「生き損」、「死に得」と言う発想)と考えているのでしょうか?「死に際の美学」(=「いまここで腹を切って、あの世でご先祖様に土下座をしよう」と言う考え)になるといかにも「武士道精神」ですが。また、武士道では殉死をいい事であるという発想もありますが、日本人の死生観の本質はどうでしょうか?
(病気で)「美しいまま死にたい」、「人生の全盛時代にポックリ死にたい」(=「人生は腹八分で終焉を迎えるのが理想」という意見)と言う意見は私も少しわかるのですが。
ただ、病気や処刑などの「自殺ではない死に方」をした短命の人は、「本当に悔いのない人生を送る事ができたのか?」と言えば、やはりちがいます。
日本人は短命の偉人に惹かれる傾向(時々過大評価もある)があります。反対に長寿の偉人を無視(過小評価)する傾向が多いです。よく「天才は短命」と言うジンクスがありますが、でも、「1850年以降に死んだ人」だと日本人の比率が比較的多く、外国人は75歳以上まで長生きした人が多い。外国ではこのジンクスはあまり通用しません。
(善悪と権利を混同しすぎたかもしれません)
Wikipediaによると、「権利とは、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格」だそうです。
死ぬ権利の否定は、生きる権利の否定でもあるのです。
社会が死ぬ権利を否定するなら、「生きる権利」とはとても虚しい言葉です。
納税の義務を、納税の権利と言い換えるようなものです。虚しい以前に、意味が違います。
社会にとっても、望む人に安楽死する環境を用意するのも、良い選択のはずです。
鉄道の惨状も減るでしょうし、新鮮な臓器を得られるかもしれません。
本人も、悲惨な状態の死体をさらさずにすみますし、死の際の苦痛もありません。
無産者の場合、労働力の損失にもなりません。周囲から目障りに思われながら生き続けるよりも、臓器提供して少しでも社会に貢献して死ぬ事を選ぶNEETも少なくないと思います。私だけということもないでしょう。
善悪の問題から脱線しました。
とりあえず、
>「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。
トートロジーのループを根拠にするのは賛成できません。反対です。自殺が悪であるという前提に、こだわりすぎではありませんか。
この主張を逆に言うと、もしもニートが、働くことができるようになって、周囲から目障りに思われないようになったならば、その人は死ぬことよりも生きることを選択するべきだということですね。それならば、社会はニートがより自殺しやすい環境を作るべきだという結論ではなくて、社会は、ニートが持っている潜在的能力を引き出して、働くことができるようになる環境を作るべきだという結論を導くべきではないのですか。
返事を頂けて嬉しいです。
「ニートがより自殺しやすい環境」と、「ニートが持っている潜在的能力を引き出して、働くことができるようになる環境」は両立できるはずです。
どんなに働きやすい環境を整えても、働くことを選ばない、もしくは選べない人間は存在するはずです。
私も、少しだけ働いたことがありますが、得られた金銭以上に、費やした労苦のほうが遥かに多く、労働はとても割に合わないと感じました。社への貢献以上の報酬を受け取ったにもかかわらずです。
NEETとは、“Not currently engaged in Employment, Education or Training”の略ですから、失業していても、教育や職業訓練を受けていれば、ニートではありません。「得られた金銭以上に、費やした労苦のほうが遥かに多く、労働はとても割に合わない」と感じるのであれば、費やした労苦以上に金銭が得られる労働ができるように、教育や職業訓練を受ければよいではないですか。
NEETといいましたが、「求職しておらず、教育も職業訓練も受けていない若年の無職」は「社会に貢献しない人物」のあくまで一例にすぎません。重要なのは、完璧な体制の下であっても、必ず少数の落ちこぼれが出るということです。遺伝子調整技術の進展によって、いくらか解決されるかもしれませんが。
教育や職業訓練を受ければいいのは当然ですが、いかなる働きかけにも応じずにニート等のままでいる人物などもいるでしょう。無視できる程度の人数でしょうけども、0ではないはずです。病気や怪我、老いのために社会にとって有益ではなくなってしまう人もいます。ジョージ・イーストマンの最後は衝撃的でした。
私の場合ですが、才能がありません。おそらく、これっぽちも。凡人並みならばまだいいのですが、高専に入学してたった半年で、学力不足のために、進学を断念するほどです。いわゆる不良ではないのです。とにかく驚異的なまでにとりえがありません。やたらとあごが強かっただけです。イヌイットには負けますが。
診察を受けていないため、推測なのですが、人格障害もかかえています。決して教育や職業訓練に耐えうるほどの知的、人格的水準ではないのです。
ですが、できないからしない、というよりはする気がないと言ったほうが正しいかもしれません。バッテリーのつきた自動車のような感じです。気力ややる気、または努力として現れるものが、備わっていないのです。生命の多様性が生み出す結果は、良いものだけではないのです。利点のほうが多いにしても。
もちろん、失業者や自殺者の数は、社会がどのように改善されようが、ゼロになることはないでしょう。しかし、事実と当為は異なるのであって、事実がそうであるからこそ、失業者や自殺者をゼロに近付けるための努力を行うべきだということが私たちの当為となるのです。
もしもあなたが、生命を無条件に否定するというのなら、私は何も反論できません。本文で述べたように、生きることを選んでいる私が「生命は善で、自殺は悪である」と言うことは、トートロジー的であり、根拠がないからです。しかし、あなたは生命を無条件に否定しているのではなくて、むしろ逆に肯定しています。「臓器提供して少しでも社会に貢献」するというこの考え方自体が、生命の肯定に基づいています。生命を肯定する者が、手段として自分の生命を否定するという場合、別の手段で以って、生命の肯定という目的をよりよく実現する代替策を提案することができます。
あなたは、人格障害を抱えているといっていますが、特異な性格というものは、環境しだいで有利にも不利にもなります。性格や才能を変えるということは容易ではないので、無理に自分の周囲に合わせることなく、むしろ自分の短所が長所となる特異な環境(ニッチ)を見つけて、そこで活躍することをお薦めします。私もアカデミズムの落ちこぼれですが、自分のニッチを見出したことで、人生に満足できるようになりました。Gary 89 さんもがんばってください。
この一連のコメントにおいて、私が肯定しているのは、個人の生命というよりは社会の生存、発展です。私は国家を個人に優先させるべきと考えていますし、永井氏もそう考えているとの前提で書き込みをしています。国家や社会の都合からいって、自殺は労働力、税収を減少させるために歓迎できず、全力を持ってとは言いませんが、コストパフォーマンスに見合う程度の力をつぎ込んで阻止するべきです。ですが、私は個人の意思に価値が無く、常に社会に支配されるべきだと考えているわけでもありません。さらに、私が国家や文化に価値を認めるのは単なる個人的な嗜好であり、哲学的な思索によるものではないのです。
私は生命を無条件に否定しませんが、無条件に肯定することもありません。ただ本人が自身の人生に満足しているか、社会に貢献していないならば、その時点での、その人物の人生、生命に大した価値は認められないと考えています。
仏教的な価値観から考えるならば、「転生」が無いなら、ただ死によって現世と苦痛から開放されるということになるため、転生防止の修行よりも、自殺こそが救いへの道となるでしょう。仏教に対する誤解が無ければ、自殺は転生を否定した場合には、(仏教的に)善とすらいえそうです。
生命それ自体には価値が無いという立場からすると、自殺自体にも善悪が認められないでしょう。哲学的には、自殺によってもたらされる影響と自殺自体は区別して考えるべきでは無いでしょうか。
生きることを選んだとしても、自分が生きることと他人が生きること、有意義に生きることと無為に生きることは区別して考えるべきだと思います。「自分が生きることを選んだ」としても、そう判断するのは条件が整っていたからです。「今は生きることを選ぶが、周囲の状況の変化によっては死を選ぶ」と考えるのであれば、「生を選んだ」からといって、自殺を悪だとする必要は無いはずです。
収集のつかない駄文になってしまいましたね。あと、ニッチを見つけろ、とは昔から両親にも言われていました。たしかに私にも、なにか才能があって、どこか活躍のできるところがあるのかもしれません。仮にそうだったとしても、そのようなところが見つかるようには、とても思えないのです。
役に立たない人間を殺すあるいは自殺させることが、国家のため、社会のためになると思っているのですか。ある人が役に立つかどうかは、環境との相関で決まる相対的な問題で、特定の環境を基準にして、特定の優秀な人間ばかりを選ぶと環境の変化に対応できなくなってしまいます。人間が、一見すると役に立たない、あるいは劣っていると判断されるような人たちを生かし続けるのは、多様性を維持することで、予期せざる環境の変化に備えようとするからでしょう。各人が、自分に適合的なニッチを見つけて、そこで生き延びようとすることは、その人の幸福にとってのみならず、種全体の生存にとっても有益なことなのです。
多様性の減少という不利益があることは認識しています。しかし、元々死を望む人間は極少数ですし、社会の働きかけ次第では、現在以上に減ることになるでしょう。現在日本では年間三万人程が自殺で死亡していまが、政策等でこの値が減少している場合、社会や種の多様性に与える損害は、許容範囲内に留まるのではないでしょうか。
自死幇助機関にについても、なにも無条件で希望者らに死を提供するべきと考えてはいません。対象者が有意義に生きる手助けをしつつ、それでも自身の生を選択しなかったなかった者にのみ安楽死の機会を与えるべきでしょう。
最後の手段としての死を、たとえ限定的な形であっても選択できるようにしたなら、(しばし苦痛に満ちた)迷惑な死に方(鉄道への投身の経済的損失が多大である事は万人の知るところです)の防止効果等、少なくないメリットがあるはずです。
各人が、自分に適合的なニッチを見つけて、そこで生き延びようとすることは、成功したなら当然その人の幸福となるでしょうが、誰もが必ずしも自身のニッチを見つけうる訳ではない以上、自分のニッチを見つけられなかった者への対応もあるべきではないでしょうか。私は所謂優生学の信奉者というやつですが、以下に無能であっても、(多様性を守るためにも)有害でもない人間を殺傷、迫害するべきだとは考えていません。自分の生死は自分で選択するべきだと思うです。
日本の自殺率は、先進国の中では最も高く、日本よりも自殺率が高い国は、社会主義の崩壊で経済が混乱した国々ばかりです[自殺率の国際比較]。日本ではドロップアウトした者に再チャレンジのチャンスを与えない事が最大の原因でしょう。この点は変えなければいけません[どうすれば労働者の待遇は良くなるのか]。
日本は、一方で自殺を容認する文化を持つ反面、周囲に迷惑をかけることを恥とする文化も持っており、後者が自殺の抑止要因の一つとなっています。自殺は社会に経済的損失を与えるし、損害を被った人は自殺した人を恨むでしょう。自殺を減らすための社会構造変革を何も行わないうちに、この抑止要因を取り除くということはできません。日本では、医療現場での合理的理由がある安楽死ですら法制度化されていないのですから、ましてや、あなたが考えている、拡大解釈された安楽死までを容認する自殺幇助の合法化は、多分あなたが生きている間は実現することがないでしょう。
現状ではデメリットの方が大きいというわけですか。自殺が周囲にもたらす害が、抑止力となるというのは、余り意識していませんでした。
確かに、自殺幇助サービスは、私が生きている間に、実現することがないでしょう。社会は人道性よりも経済的利益を重視しますからね。面倒臭がりだし。
現状において、経済的な側面からメリットがデメリットに勝たないようだということはわかりました。では、「生きる権利」と並ぶ最も基本的な権利としての「死ぬ権利」を設定するというのはどうでしょう。以前書いた、死ぬ権利の否定は生きる権利の否定にも繋がるという考えです。
生きることは法的権利であって、法的義務ではありません。法的義務ならば、それを遵守しなければ、法によって処罰されるはずですが、法による処罰には死刑以上の刑がないのですから、自殺した者を刑で処罰することはできません。法は、せいぜい自殺幇助者を処罰することしかできないのです。安楽死や尊厳死の合法化をめぐる問題も、もっぱら自殺幇助に関する問題です。患者が、自分で勝手に生命維持装置を外しても、誰かが処罰されることはありません。ここで扱っている「自殺はなぜ悪なのか」という問題は、法の問題ではなくて、道徳の問題です。
では、本題に戻ることにします。永井氏は「「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真である」、「生の内部にとどまる限り、生には絶対的な価値があるし、生のルールに従って行動しなければなりません。」と上で書いていましたね。生のルールというのは良くわからないのですが(現在生きていて、これから生き続けるのに有用なルールといったところでしょうか?)、要は「生きている=生に価値を置いている」であるということですよね。我々は生の内部にとどまっていますが、完全に無条件で生を選んだわけではないでしょう。普段意識することはありませんが、条件次第では死にたくもなるはずです。そこを「生の内部にとどまる限り、生には絶対的な価値がある」とするのは、論理の飛躍があるのではないでしょうか。
はい、そうです。しかし、「死にたくなる人」は高い確率で死ぬので、多数派にはなりえず、したがって、「自殺は善だ」という主張は、いやそれどころか「自殺は悪ではない」という主張ですら、いつまでたっても少数派の意見で、多数派による承認を得られません。それが「自殺は悪だ」という価値観が現世で支配的である理由です。
大方納得しました。永遠に「自殺が悪だ」という価値観が、多数派の意見であり続けるとは限らないと思いますが。しかし、これからも長い間、多数派の意見であり続けるので、今のところどうでもいいことですけどね。
先日発表された、2008年の自殺者統計で50歳代の自殺者がこの10数年で最少になり、30歳代の自殺者が過去最多を更新したと聞きました。
今の50代の人の方が60歳代の人よりも、物事の発想が大らかかつ楽天的で、前向きで辛抱強いのでしょうか?また、30代の人は物事を悲観的に考えるのでしょうか?ちょうどこの世代の半数は「団塊ジュニア世代」になります。また、「人命」に関しての発想が違うのでしょうか?
10~30歳代(つまり39歳以下)の自殺者の数は07年よりも増えております。
10代の自殺の要因で、「いじめ」が最大要因と考えるのはもう改めるべきでしょう。経済的要因と心身的要因もかなりのウェートを占めています。
余談ですが、経済統計などでの「無職」は政府の定義では、定年退職者が含まれているです。「無職(つまり大多数は「失業者」)の自殺者がかなり増えた」と言いますが、定年退職者は「無職=失業者」から外すべきだと思います。「完全失業率」はこの人たちを入れているらしいです。近年は団塊の世代の定年退職があって、これらを除くと去年や一昨年の「失業率の実質水準」は3%台前半~4%ではないでしょうか?
それは、団塊の世代(1947-1949年生まれ)が、50歳代から60歳代に移行しているからでしょう。この世代は、過剰な競争に晒されてきたので、昔から、他の世代より自殺率が高いといわれています。団塊の世代の子供が団塊ジュニアで、この世代も層が厚いので、過剰な競争に晒されています。特に、大学を出た時が就職氷河期であったために、正社員になりそこなった人たちが多数います。
団塊ジュニア世代に自殺者が多い傾向は、当面続くでしょうね。
ただし、今の団塊の世代がリストラや倒産による失業で苦しんでいた、平成10年代初頭で見ると「当時の50代」の自殺者が多いのは事実です。数が多いですからね。今の50代前半の人は数が減っている時期の世代です。
ただ、「自殺者の平均年齢」が若くなる事が懸念されます。年配者が減る一方で30代以下が「カバーする」様に増加していますからね。
どちらにしても今後の統計が心配です。今年は4万人を超える可能性もあります。
NHK教育では今年月に1回~2回の頻度で自殺問題を取り上げてきます。
若い世代が「将来に不安を持つ」のはいつの時代(戦国時代や戦争中にもそういう風潮はある)でもありましたが、ただ「デフレ人生」になりがちな世の中の風潮の中で、若い世代が「生きる糧」を見つける手段はありますか?特に高校・大学時代で。
高校生と大学生に対するアドバイスとしては、自分の長所を見極めて、早くから専門的能力を鍛えるということと、選挙権を手に入れたら、自分たちの権利が政治的に損なわれないように、これを行使するということです。
色々試してみても、長所が見極められなければ、どうすればいいですか。
「好きこそ物の上手なれ」ということわざにあるように、まず自分の好きなことを集中的にやりましょう。何であれ、その分野を極めれば、そこからプロになる道が開けてくるものです。
「自殺は悪」の結論が、「自らの生命を価値判断の基準」であるならば、年間の殺人被害者が1500人ほどであるのに対して、年間自殺者が3万人を超えるのはどうしてなのでしょうか。
「殺人を犯してはいけない」ことが「自殺は悪」という論理から帰結されるのであれば、現実とかけ離れている気がします。
私の認識が間違っているのでしょうか。ご意見を伺わせてください。
自殺する人の圧倒的多数は、生命に価値を認めない人ではなくて、生命には価値があるけれども、苦痛に満ちた人生は生きるに値しないと考えて自殺を選んでいるのでしょう。だから、生命そのものに価値があるかどうかという議論と、生命と快楽のどちらにより多くの価値があるかという議論は区別して考えるべきでしょう。
哲学的にいえば、自殺が悪かという問いの先には、悪とは何かという問いが出てくることになり、永遠に収束しない議論の連鎖に陥っていくでしょう。神という存在を絶対なものとして定義したとき、その前提における世界のなかで、自殺は罪であることは間違いありません。罪であるが、悪ではないといえるかもしれません。殺人よりも、自殺が多い日本においては、他人に対して何かすることよりも、自分に対して何かする方が、楽であり罪の意識が低くなるからだといえるでしょう。でも、神の視点でみると、どちらも同じ殺人です。罪の重さに変わりはないということになるでしょう。そして、それを認知するのは、死という扉の先でしかありません。
生命システムの維持発展に役立つものが善で、そうでないものが悪です。自殺が許容されるのは、他の生命システムの維持発展に役立つと判断されるときであって、自殺一般が善いということにはなりません。
「戦没者慰霊祭」や、警察や消防などの「殉職者供養式典」、また「殉職建設作業員慰霊祭」などが行われていますが、3万人を超える自殺者は供養されません。これは何故でしょうか?「良くない死に方をした人を、きちんと供養しないと良くない事が続く」と言われます。自殺者は「供養しなくてもよい対象」なのでしょうか?大げさに言うと、「国や官庁を挙げて丁重に供養」してほしい(公人の場合でも同じです。2007年5月に自殺した松岡利勝元農水大臣は、没後わずか半年弱で自殺が風化されています。今、自民党や農水省では松岡氏の一件を「タブー視」しているようです。松岡氏の死後に補選で当選した後継議員が、とんでもない発言をしても旧後援会や遺族が抗議しないから)のですが、現実にはそうはうまくはできません。また諸外国では「自殺急増」と言う事態に、どういう対策を執るのでしょうか?外国は学校教育での取り組みが、日本とは全然違うと聞きます。個人的希望としては「NPO団体レベル」でもいいので、年1回供養式典をしてほしいです。特に「鉄道自殺」した人こそ丁重に供養すべきだと感じるのですが。「自殺者の親族や知人がきちんと供養すればよい」と言う考えなのでしょうか?最後に余談ですが、現在の葬儀会社は葬儀の前に故人の死因を遺族から聞く事はありますか?
「良くない死に方をした人を、きちんと供養しないと良くない事が続く」というのは、日本の伝統的な怨霊信仰ですね。
自殺者の数を減少させる効果的な対策はありますか?
「失業者の数が減ると自殺者の数を減らせる」と言われますが、それ以外で効果的な手段はありますか?極論になる「自殺禁止法を制定する事」は除いて。ただ、選挙マニフェストでは(おかしな話ですが)「税金の無駄遣い」と言う批判が来るので、与野党ともに提示できないと言われます。社会構造的な問題が絡むので、「これだ!」と言える対策ができないのが事実です。
自殺者減少は不可能ではありません。交通事故死者数はこの10数年で、官民上げての「国民的努力」で、1990年代半ばの半数以下に減りました。対策での「具体的成功例」があります。
自殺者の数を減少させるのに必要なことは、選択の自由を増やすことです。追加的な財政支出は不要です。これについては、また改めて詳しく書きます。
後日の追加記載の予告、ありがとうございます。選択の自由とは「職業的な意味」ですか、「ライフスタイル全般」ですか?
最近この項目にちょくちょくコメントをしたのは、今年上半期の自殺者数が1万7000人を超えてしまい、「過去最悪更新」のペースになっている事です。
地域的に見ると沖縄県が前年(08年)比50%増など、と極端に増加している所が目立ちます。沖縄県の場合は自殺動機のうち、「経済的要因」のウェートが急増したと思います。一般的には「寒い地域の人は自殺するが、暖かい地域の人は自殺しない」と言われていました(これは「県民性」が影響しているか?)が、これはもはや当てはまらないと思います。永井先生の分析を後日見てみます。
改めて投稿します。9月に政権交代があり、自民党主導から民主党主導の政策へ以降しました。今年になってから1ヶ月単位での自殺者数を公表していますが、下半期になってから急に新聞での扱いが小さくなりました。世論が不況で大型経済対策を求める中、社会が自殺問題に関心が薄いのでしょうか?「男女別・世代別の自殺者減少策」としてどういう事を実行すればいいでしょうか?案として政府広報や「公共広告機構」で自殺防止に向けたCMを(日中に)もっと放送するべきです。20歳代男性と70歳代女性とでは経済、健康、家族構成などに違いがあるので、ひとくくりに考えるのは難しいです。総務省や厚生労働省が与党と連携して自殺者を減少させるべきですが、1990年代半ば(この時期はいじめによる子供の自殺が多く起きた)まで日本社会が自殺に対して、真剣に向き会っていなかったと言う指摘もあります。ただ、「子供の自殺」には対策を立てても「大人の自殺」に無関心だったとの指摘も。
「平成21年の月別の自殺者数について」によると平成21年の3月と4月に自殺者が3000人を超えましたが、その後は、減少しています。それでメディアも取り上げなくなったのでしょう。景気回復が大きな要因のようです。景気以外に重要な要因としては、前回書いたように、選択の自由があります。現状からの脱出口が見つからないとき、人は、あの世という最後の脱出口に逃げようとします。だから、自殺を防止するには、この世にたくさんの脱出口を用意しておくことが重要です。
以下は、WHO(世界保健機関)の統計による、世界103か国中、自殺死亡率が最も高い10カ国のリストです。
1. ベラルーシ(03年) 35.1(男性63.3、女性10.3)
2. リトアニア(07年) 30.4(男性53.9、女性9.8)
3. ロシア(06年) 30.1(男性53.9、女性9.5)
4. カザフスタン(07年) 26.9(男性46.2、女性9.0)
5. ハンガリー(05年) 26.0(男性42.3、女性11.2)
6. 日本(07年) 24.4(男性35.8、女性13.7)
7. ガイアナ(05年) 22.9(男性33.8、女性11.6)
8. ウクライナ(05年) 22.6(男性40.9、女性7.0)
9. スロベニア(07年) 21.5(男性33.7、女性9.7)
10. エストニア(05年) 20.3(男性35.5、女性7.3)
[出典:日本の「自殺率」は世界6位 – ニュース-BNNプラス北海道365,参考:WHO | Suicide rates per 100,000 by country, year and sex]
これを見ると旧社会主義の国が多いことに気が付きます。ほとんどが、旧ソ連邦構成国であるし、南米のガイアナも社会主義政策を推進していました。選択の自由が少ない社会主義システムが、経済的に崩壊するとき、自殺者が増えるということができます。日本における自殺者の急増に関しても、同様のことが言えます。
自殺とは一種の自然淘汰なのですから、その善悪を議論しても無意味です。
私の私見ですが、自殺=悪・罪になった根拠って、美しい道徳感や哲学や宇宙観、理念などからでは無いと思います。
単純にキリスト教の影響からではないでしょうか?
奴隷船でアフリカから連れて来られた奴隷達は苛酷な労働、環境を強いられ、又、奴隷達は競り落とされた所へそれぞれ連れて行かれた為、家族が離れ離れになってしまい、もう生涯会えないと悟った奴隷達は生きる望みを失って自殺したくもなっただろうと思う。
しかし、せっかく奴隷商人から奴隷を買い取った農園主にとっては買い取った奴隷に死なれては困るのである。
当時は政教分離ではなく教会と政治と大商人がタッグを組んでルールを決めていたから大農場主達の要望か何かでキリスト教を黒人奴隷達に広めて心の慰めにさせたのと同時に自殺禁止にしたのではないでしょうか?
アメージンググレース(黒人哀歌)という曲は、理不尽に奴隷船に乗せられアフリカ
の地から連れて来られて苛酷な生涯を送り死んでいった黒人達を悼む歌だと聴いたことがあります。
だから黒人哀歌を白人(奴隷扱いしてきた者達の子孫)に歌われても、黒人さん達(奴隷の子孫)は癒されるどころか複雑で苦しい思いに駆られるのではないでしょうかね~
だから・・・何故、「自殺=悪」なのかは「自殺=悪」と決め、ルールに従わせる事が決めた人間達にとって好都合だったからでしょう。
僕は正直、自殺する人、馬鹿じゃないの?
って思ってます。確かに苦しみから解放されたい気持ちになる人もいると思います。それはしょうがないと思います。
もし誰かが自殺したとします。
そうしたら誰かがその死体を処理しなければなりません。
もしビルから飛び降り自殺したら、ビルの人が困ります。
死ぬときまで人に迷惑をかけることになります。
死んだ人はすっきりでしょうが、それのせいで迷惑をかけられた人は、うっとうしいだけです。
変な日本語ですいません。
自殺を肯定するような社会(=生命に価値を置かないような社会)は自殺者が頻発して社会を維持できなくなるので、現在観測される社会は自殺を悪とする社会となっているというだけなのではないでしょうか。
そのような社会が淘汰されるのに十分な時間が、人間が社会を作り始めてから経過しているのか?といわれそうですが、そこはそういうことなんだと思っております。
自殺を考えてる中年男です。
読ませていただきましたが、人生を知らない幼い論説ですね。結構笑えました。
無意味な思索に罪はないと思いますけど、お好きなんですね。考えることが(笑)
では、さようなら。。
昨日、年間自殺者が12年連続で3万人を超えた事が確定しました。「自殺率」で見ると若い世代の自殺率が過去最悪を更新しました。自殺動機はまちまちですが、若い世代は自殺に対してためらいを感じないのでしょうか?欧米では学校や教会などで低年齢のうちから自殺防止の指導をしていると聞きました。以前にもご回答いただきましたが、若い世代の自殺対策で民間レベルでできる事はありますか?例えば学校・公民館などでの自殺防止の講演会などがあります。日本の社会は「自殺をしようかどうか悩んでいる」と言う相談を、あまり他人(第三者)にできないのも影響していますか?自殺した人は他人に打ち明けないと聞きます。
2009年に自殺者が増えたのは、リーマンショックによるリセッションが原因です。
うつ病の原因をさらに探ると、職場での成績不振や、経済的な将来不安もあるでしょうから、健康問題に分類されている場合でも、経済問題が本当の原因ということもあるでしょう。
ところで、警察庁の調査結果によると、各年代別の人口10万人当たりに占める自殺者の割合は20歳代が24.1人で、30歳代も26.2人と、前年に続き過去最悪を更新したとのことですが、この年代は、非正規従業員の割合が高いから、真っ先に解雇されたり、企業が新卒採用を縮小することで、就職浪人になったりして、不況のしわ寄せを集中的に受ける年代なのです。
素朴な疑問ですが、昭和50年代初頭まで警察庁が自殺者の統計を発表しなかった理由はなぜですか?「統計としての必要性がない」からですか?もしかすると1970年は自殺者の数より交通事故死者の数の方が多いと思います。
自分は子供の時にあることがきっかけで脅迫神経症になり以降そのまま成長していきました子供時はとにかくこの恐怖で頭の中が支配されていて1日中365日起きている限り恐怖の中にいました。そしてその恐怖がどんどん悪化していき大きくなるころには幻覚や目眩なども起きていてもう生きていること自体が罪であるかの用に感じられるほど精神はめちゃくちゃでした。
そんな時に図書館で精神病の本見つけてと読んだときに初めて自分が病気なのだと知りました。
自分が病気だと知ったことでなぜ今までこのこと知れなかったのかという今までの自分の人生の恐怖絶望後悔がやってきて死ぬことに頭が支配されましたがなんとかこれに耐えることができ今の状態をどうすれば改善できるかを考えることで最悪の状態からは抜け出すことはできました。
その後自衛隊に入隊しましたが精神は最悪の状態を抜け出しているだけで根本的に今までの自分と向き合える状態でなく幾分脅迫観念が弱くなった感じでしたが何とか5年間勤めることができました。
その5年間で自分の心に前を向いて歩いて行こうという思いが強くなっていましたがそれでも脅迫観念が消えることなくあり続けていて病院などにも通いましたがなかなかうまくいきませんでしたそこで自分と向き合おう考え半年間自分と対話していきだんだんと自分の中に入っていける用になりましたそして気がついてしまったのです今までの人生について自分と向き合う前までは過去のを気にする余裕も無く恐怖と戦うことで一日が過ぎていましたしかし向き合ったことで自分の人生の意味無さ・恐怖・後悔・絶望が自分に襲いかかってきたのです。
それは前に自分が病気だと感じた時に感じたものを遥かに凌駕するもので死ぬことしか考えられないほどでした。
そうして死ぬためにどうすればいいのか調べ始めました死ぬことを調べている時は心が落ち着きます楽になれる今までの人生の意味無さ・恐怖・後悔・絶望から開放されるそして首吊りが一番簡単で苦痛も少なく成功率も高いと知り早速ロープを購入して家の周りの山や土手に行きいい感じの木を探しましたがなかなか無く最終的に家に植えてある木で実行しようとしました家の木にロープをかけて首を入れて体重をかけると数秒で意識が遠のいていくのを感じましたしかしそこで思いとどまりましたここで首つってももしかして一定時間内に見つかり蘇生され障害が残る形で意識が戻る可能性あるのとここで死ねば家族が遺体を見つける確率が高いのでそのことに少し抵抗を感じました家族は嫌いではありませんしただ馬鹿ですが(涙)
しかし他に首吊りができそうな場所も無いのでしょうがないのでぶら下がり健康器を購入これでいつでもこの世界から開放されると思うと気持ちが楽になり心が楽になったそこで死ぬこと自殺について考える気になったのでいろいろ考えた自殺は悪いことなのかと?生きることは善なのかと?それは絶対的な答えはないと思うそんなもの在ったらとっくに答え出てるだろうしそれに人は60億人いれば皆違う遺伝子で皆違う環境で育った以上答えは出るはずがない60億人いれば60億の世界があるのだから要する人は自分を中心にした世界で生きているのだからその自分が善だと思え思えば善で悪と思えば悪になる
社会的観点とか観点を広げればまた違う答えも出るだろうが善悪は自分で決めるものだと思うそして俺は自殺は悪ではないと思うこれは自分の人生をを振り返った自分の結論だし自分の世界は唯一無二であり全く同じ経験したことのあるものは存在しないのだから否定することはできないと思う
世の中答えのない問題に絶対的答えををだそうとしすぎな気がする
よろしかったら自殺の相談窓口や電話相談があるのでそちらへどうぞ。
単なる言葉遊び。
自己満足。
蘭丸さん、あさん、ここは、なぜ自殺をしてはいけないか、その根拠を哲学的に考えるページで、自殺志願者の悩みに答える場所ではありません。後者の方は、こういうところに来ないで、日本いのちの電話連盟とかに電話してください。
ツッコミ その2
自殺の問題も重要なテーマだと思いますので、真面目に投稿させて頂きます。
1.私は自殺の自由は保障されるべきだと思っています。
同様に安楽死の自由も保障されるべきであると思います。(本人の意思が証明される必要がありますが。)
生まれながらにして社会/集団の中に居る以上、その社会/集団の一員として自動的に契約していることになりますが、自殺のために他人を巻き添えにしたり、他人の財産を損なったりするのでなく、自己責任の範囲における行為としての自殺や安楽死の自由は保障されるべきだと思うのです。
この点を説明する上で、持論「生命階層論」に触れさせてください。生命と一口に言いますが、三つの階層(細胞、個人/多細胞個体、社会/集団)が認められると思います。それぞれの階層において、生命の特性として、仰せの「エントロピ-縮減」が営まれているはずです。善悪の概念についても、それぞれの階層において分離して考えるべきであると思います。即ち、社会レベルにおいて好ましいかどうかと、個人レベルにおいて好ましいかどうかは異なるはずです。
例えば、無国籍の無人島に一人で行ったとします。(そのとたんに有人島になってしまいますが。)その島の域内に限れば、また持続可能な範囲において、その人は独裁者であり、社会からは完全に自由であり、強いていうなら、個人レベルにおいて好ましいかどうかが善悪の基準になることでしょう。そうして、個人レベルの「エントロピ-縮減」となることでしょう。
社会の中にあって、契約による様々な束縛があるとしても、自己責任の範囲における行為であるかぎり、禁じるべきではないと思います。若干の後始末が必要な場合もありますが、自殺が悪なのではなく、自殺の要因を生み出している社会こそが悪であり、改善を求められるべきであると思います。そうしてこそ、社会レベルの「エントロピ-縮減」となることでしょう。
日本の法律は、自殺を禁止していません。「自殺を望む者は、罰として死刑にする」というような刑法は、罰するどころか望みをかなえてやっているのだから、どう考えてもおかしいでしょう。だから、自殺をする法的自由自体はあるのです。もっとも、自殺は、法律で禁止されていなくても、道徳的には許容されていません。あなたは、自殺は道徳的に許容できると言いたいのですか。
ツッコミ その2 の続き
大韓機爆破事件の容疑者(当時)は、逮捕された時、自殺させないための拘束措置が取られたはずです。それにはもっともな理由があったからです。このように自殺の自由が制限されることもあります。道徳が自殺を良くないこととしているとしても、何故そう言えるのか、納得できる理由を説明していませんし、当てはまらない場合もあります。そもそも根拠が無いからです。科学的な根拠に基づいた納得できる説明が必要とされていると思います。持論「生命階層論」がそれを可能にすると思っています。自殺が道徳的にも許容されるべき例を一つ挙げましょう。親子で深い海中にダイビングしていました。残りの酸素が海上へ帰還するだけしか無くなったので、帰還を始めようとしたところ、子の装備の残量メータの故障が発覚し、残量がゼロであることが判明しました。一つの装備を二人で交互に使うことでこの危機を乗り越えようかと対策を考えているうちに、それも絶望的な残量となり、一人帰還出来るかどうかの瀬戸際となりました。このままでは二人とも死ぬことになると考え、その親は自分の装備を子に譲り、別れを告げて離れ去ったというものです。これは道徳的にも許容される自殺ではありませんか?
例外的な状況があるからといって、「自殺をしてはいけない」という規範の妥当性が失われるわけではありません。例外的な状況は、「他者を殺してはいけない」という最も普遍的な規範と言われる規範にすらあります。例えば、戦場での敵国の兵士の殺害、正当防衛、安楽死や死刑の執行などです。こうした例外があるからといって、「他者を殺してはいけない」という規範がその妥当性を失うわけではありません。それと同じことです。
ツッコミ その2 の続き2
私が言いたいのは、自殺というのは、(他者との利害を別として、)個人レベルの権利であるので、基本的には、他者から「いけない」とされたり「禁止」されたりすべきものでは無いということです。法律にしても道徳にしても、社会レベルでの規範である以上、個人レベルの権利を大義なしに侵害すべきでは無いと言いたいのです。もしそうするなら、人権侵害に相当すると言わねばなりません。
「自殺をしてはいけない」が基本なのではなく、自殺の自由が基本なのであって、例外とされるのは、「大義」≒「公共の福祉」≒「社会レベルのエントロピ-縮減」が優先される場合に限るべきであると思います。
「他者を殺してはいけない」というのは、自殺の場合と異なります。それ(いけない)が基本的に社会レベルでの規範だからです。この場合も例外とされるのは「社会レベルのエントロピ-縮減」が優先される場合に限るべきであると思いますが、戦争そのものも悪とされてますし、死刑制度にも批判がありますので、現実にそうなっているかには疑問が残ります。
では、別の質問をしましょう。あなたは、麻薬の使用を合法化することに賛成ですか。他人に迷惑をかけない限り、自殺は本人の自由意志に委ねるべきだという議論が成り立つのなら、麻薬中毒で廃人状態になることも、他人に迷惑をかけなければ、個人の権利として認めるべきだということになりますが、これに賛成しますか。
ツッコミ その2 の続き3
麻薬の使用を合法化することには限定付きで賛成いたします。実際すでに米国のある地域では合法化されているようです。(最近のNHKドキュメンタリ番組で放映されました。)限定と言いましたが、特定の人たちに限るなど厳重に管理しているようです。麻薬の生産にも経済効果を期待しているようです。無制限に誰にでも認めることには反対です。理由は自殺とちがって「他人に迷惑をかけない」ことが防げないからです。もし完璧に防げるのなら賛成しますよ。
なお、安楽死は、本人の意思によるなら自殺のほう助とすべきですし、本人の意思によらないなら殺人という犯罪となり、「他者を殺してはいけない」の例外とは言えないと思います。
正当防衛には、殺す意思は無かったが結果的に致死となった、というものや、殺さねば殺されると思って意図をもって殺した、というものがありますが、たしかに「他者を殺してはいけない」の例外があると思います。警察がやむを得ず、銃を持った凶悪犯を射殺する場合も正当防衛の部類に含めるとしたら、唯一の確かな例外ではないでしょうか?
オランダでは、安楽死は合法的ですし、最近では、自殺幇助も部分的に認めようとしています。
オランダは自由な国で、麻薬に関しても、ソフト・ドラッグ(マリファナなど比較的害の少ない薬物)の使用を合法化しています。とは言っても、オランダは、もちろん、自殺や麻薬が望ましいと思っているわけではありません。
オランダは、ソフト・ドラッグを違法にすると、ドラッグの闇市場が大きくなって、ソフト・ドラッグのユーザがハード・ドラッグ(コカインなどの害が大きい薬物)にまで容易に手を伸ばしてしまうことを防ぐために、いわば強固な防波堤を築くために、ソフト・ドラッグの使用を政府の厳重な管理下で認めているのであって、そこにはむしろ、薬物依存による廃人の数を増やすまいとする国家の強固な意思を見て取ることができます。
自殺幇助法に関しても、自殺が認められているのは、70歳以上であることに注目してください。安楽死の合法化と共に合わせ考えると、オランダは、治療の見込みの無い末期患者や70歳以上の高齢者といった、国家にとって労働力として役立たない人間に関しては、自殺を容認すると言えそうです。逆に言うならば、オランダは、国家に役立つ人間の自殺は認めないという意思を持っているわけです。
国家は、一つの生命体で、国家が、その細胞である個人の自殺や準自殺である薬物中毒を防ごうとするのは、細胞の自殺が、生命体の自殺につながるからです。逆に言うならば、細胞の自殺が生命体の自殺につながらないなら、それを容認するということです。こう考えれば、なぜ戦時中の日本が特攻隊の自殺行為を容認したかを理解することができます。一種の国家版アポトーシスというところです。
あなたは、個人の自由意志は尊重しなければならないという原則を自明のものとして前提していますが、哲学では、いかなる前提も、その理由を問わなければいけないので、なぜ個人の自由意志は尊重されなければいけないのかについて考えてみましょう。
私も、個人の自由意志は尊重しなければならないと考えていますが、それは、自己目的的にそうなのではなくて、それが社会の利益に貢献する、すなわち、個人の自由を最大限認めた方が、社会のイノベーションが促進され、社会が進歩すると考えるからです。逆に言うと、社会に貢献しないと判断するならば、自由は制限されるべきだということになります。
私は、個人が自由にかつエゴイスティックに行動した方が、国家の利益になるし、国家が自由にかつエゴイスティックに行動した方が、人間という種全体の利益になるし、種が自由にかつエゴイスティックに行動した方が、生命全体の利益になると考えています。
生命は、個人、国家、種、どのレベルでも、自己保存を目指しています。それは、生命ができたときからそうプログラムされているからで、それ以外に根拠はありません。そして、それが本文における結論なのです。
自殺したいとする欲求が、自殺したくないそれ(例えば、想像する自殺の苦痛など)を上回ればするだけだ。自殺をしたくない欲求が高いため、現在に至るまでしないだけだ。
本当にそうかな? 「生命ができたときからそうプログラムされている」を裏付ける主張が見たい。自殺したいと考えている生命体を見てしても、「生命ができたときからそうプログラムされている」と飽くまで主張するんだろうか。自己の主張を遮るものを「例外」として、否定されってか? 「自己保存を目指して」いるとする根拠なりってのが明らかにされんならそれを見せてほしいね。少なくとも、情報源を見たところで胡散臭いと私は考えるんだがな。胡散臭いとな。
どうやって、死にし人が意見する機会が与えられるか。どんな技術でもって、意見を問うことができるだろうか。ってか、死にし人から反論が聞けたら、そりゃびっくりするわ。ん? 仮にも自殺した人から意見を聞く機会が与えられたとき、ひとつ、意見でも聞いてみるか。
>もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。
あぁ、なるほど。自殺した人から自殺の善悪が問えないのか。自殺者に対するインタビューに成功した話を聞いたことがない。なんだかな。
自殺の善悪の基準を問うのに、自殺の価値判断を問うことがやっぱり議論の邪魔なんかな。排斥されてナンボかな。
ふんふん。面白そうな主張だな。「自殺は悪」ではないことが多数派にするように圧力をかければ、それこそ、「自殺が悪じゃない」とする規範が形成されやすくなるのか。面白そうだ。でも、予防線のために「『自殺は悪だ』という価値観は、自明である」としているのか。がっかり。
自己保存しないようにプログラムされた生命が過去に存在した可能性は論理的に排除できませんが、仮にそういう生命が存在したとしても、まさに自己保存を目指していないのだから、すぐに消滅したことでしょう。
違います。本稿は「自殺は悪だ」という価値観は自明ではないと主張しています。だから「自殺は良い」という価値観もありうるが、その価値観は、その価値観を持っている人が自殺することで消滅してしまうということです。
自分が自殺するか否か と 他人が自殺するのを是とするか非とするかを分けて考えてみますね。
前者、自分が自殺するか否か ですが、現状ではまず自殺しないだろうと思います。しかし、自殺された方々もずっと自殺願望を持っていたワケでなく、何かのきっかけなり要因があって、徐々に自殺に近づいていったのでしょうから、私がそのような状況にならない保証はありませんし、近づいていく過程において、今の自分の判断と変わらない判断ができるという保証もありません。私の親戚(特に母方の祖母方面)は自殺された方も多いので、私自身自殺しないという保証はないなと考えています(遺伝的要素が強いという仮定ですけど)。
後者は私の中で単純明快です。ある2つの集団がいます。片方は自殺肯定、もう一つは自殺否定。どちらの個体数がより増え多数派となり得るのでしょう。私は後者だと思います。自殺否定が自殺抑止力となり、その分個体数の減少を防げるからです。その多数派が今日いる方々と考えたら、自殺否定が「常識」なんじゃないでしょうか。
自分が自殺しないという保証はない と書きましたけど、多くの方は他人の自殺を食い止めようとするでしょうから、結果的に自殺する確率はある程度は低くなるんでしょうね。
遺伝的要因ならば、その遺伝子が後世に受け継がれなければいいだけなんですけどね。何かしら生存に寄与する側面もあるということなんでしょうかね?鋭敏さが過ぎると自殺するとか?ちょっとしたさじ加減なのかも知れませんね。
神風特攻は、ちょっと違う類のお話かと思います。ハチは外敵に針を刺して自分は死にます。外敵に対しての徹底的な警告です。何年か前ハチに刺されましたけど、未だに恐怖心が残っています(笑)。集団(巣)が守られることで、種が受け継がれていくのでしょう。
善か悪かって難しい問いですね。生命は生命を受け継ごうとしますし、受け継ぐことに長けた生命が(世代を超えて)生き続けているとも言えます。個々の生命はそれだけです。善も悪もなく、単純にそれだけなんだと私は思います。
違うことを思いついたので、書き残しておきます。
種を残したあとの自殺は、自分が消費する予定だったリソースを子孫へ提供し、結果、子孫のその後の生存確率を上げる可能性があるのかもしれません。
人間が、生殖能力を失った後も生き続けるのは、子供の教育に時間がかかるからでしょう。高齢者には人生経験と言うリソースがあり、そのリソースを子孫に伝えることで、子孫の生存確率を高めるという考え方もあると思います。
コメントありがとうございます。確かにその通りですね。
あとは、どちらのリソースがその局面においてより重要なのかだと思います。例えば食料が極めて残り少ない状態の場合、人生経験というリソースの重要度は相対的に下がるのではないかと思います。今よりずっと苛酷だった頃(例えば氷河期)は、苦渋の選択を迫られる場面もあったのかもなぁと思いました。
「子孫のために」となると世の中的には美談の類に扱われることが多いので、我々の常識的な部分で、このような行動を容認する節があるように思われます。
「人間とは何か」を問われれば「人間とは自殺する動物である」と定義したいほど、事情次第で自殺はだれにでも実行し得る身近な問題だと思います。 一口に自殺といいましても、実行にいたる過程には「経済的」「社会的」「精神的」各自なりのやんごとなき事情が背景にあり、生きる側の論理のみで、その是非を問うことなどできようものか、おおいに疑問を感じます。 一時期“同情するなら金をくれ”という言葉が流行りましたが「自殺は悪だ」とする世論に対し、その防止のために何をする意思がありや、問いたい。 情緒に支配された多くの良心が、呵責を無関心に追いやるに違いありません。
肯定はしないまでも、自殺容認派として意見を述べさせていただけば。 事情はともかく、自殺が社会悪として扱われる理由のひとつに、不特定多数の平穏な日常に突発的かつ衝撃的に持ち込まれる、その凄惨さがあると思います。 緊急避難的に与えられた人間の最たる特権とはいえ、それさえも人迷惑を考えて思い止まり、生死の間をさ迷う自殺予備者も実行者の十倍、二十倍、あるいはそれ以上に達するのではないでしょうか。
思想の自由が保証され、利便性がこれほど進歩した今日においても、受け入れざるを得ない誰にでもかならず訪れる死をハッピーエンドとする努力が、なぜこれまで宗教界や思想界でなされてこなかったのか不可解でなりません。 今日の意識レベルで実現を期待するのは到底無理とはいえ、公認安楽死(自死)施設なるものを世界に先立って整備する努力に着手することを切に望みます。 それにより実行者の再考を促す最後の機会も得られます。 人間、世間に醜態をさらす迷惑を回避し、いつでも安心して死ねる、という保証があれば、かなりの人たちが、もう一頑張りしてみようという意欲を再起する可能性も多分にあると思います。
東日本大震災が今年の自殺統計にどのような影響を及ぼすでしょうか?被災者には高齢者の人が多いそうなので気になります。
阪神大震災の1995年当時は全国的に自殺者が急増した(自殺者が急増したのは3年後の金融危機だった1998年)と言うような統計は出ていないです。局地的な自殺者増加はありえそうです。ただ、今回は東日本が(経済的・気分的に)沈滞する影響はまだ尾を引きそうです。
ニュースとかで耳にしますが「地震うつ」と言う言葉があり、最近自殺した女性タレントがそれに該当するとの噂があります。必ずしも日本国民全員に該当しませんが。
ここは、「自殺はなぜ悪なのか」を議論するページであって、「人はなぜ自殺をするのか」を論じるページではありません。
自殺が「善」であるならば人類はみな自殺してしまい滅んでいるのではないでしょうか?
「絶対精神」というものが存在するのであれば、地球誕生から現在までを見ても、人類が進化することは望んでいても滅ぶことは望んでいないように思います。
つまり、「エントロピーの増大」は「悪」であり、「エントロピー縮減」が「善」であるとするならば、人類の進化を阻害することは「悪」であり、助長することは「善」である、でよいのではないでしょうか。
将来、人類の進化に良い方向に関係する人間が自殺するのは「悪」であり、悪い方向に関係する人間の死は自殺に限らず「善」である、とか・・。
自殺であろうと他殺であろうと、エントロピーの増大に加担する人間の死は「善」、エントロピ-縮減を助長している、あるいは将来そうなるかもしれない人間の死は「悪」ということでよいような気がします。
自殺の善悪、他殺の善悪という観点を変えてみてはどうでしょうか?
システムは、自らのエントロピーを縮減するには、環境のエントロピーを増大させなければいけません。エントロピーを縮減するためのエントロピーの増大は、そのシステムにとっては良いということになります。”「エントロピーの増大」は「悪」であり、「エントロピー縮減」が「善」である”という単純な話ではありません。
そーゆーのを埋没費用(サンクコスト)と呼ぶのでしょう?
自殺志願者に告ぐ。自殺するかしないかを決断する際に、サンクコストを考慮する必要はない。
引用された文章は、他人の自殺を容認してはいけない理由であって、自分の自殺の話ではありません。自殺する人の中には、自殺する瞬間に後悔する人もいます。本当に生き続けることが嫌なのか、立ち止まって考える必要があります。
本来、生物の進化の途上においては、突然変異的に『自殺は悪である』と考えた個体も、『自殺は悪ではない』と考えた個体も、どちらも同様に存在したはずです。
しかし後者のような個体は、前者のような個体よりも、生存する確率及び子孫を残す確率が低くなることでしょう。
疑う余地なき絶対的真理として『自殺は悪である』と、それこそ狂信的に信ずる個体でなければ、厳しい自然環境を生き残ることは出来なかったはずです。
仮に、自然環境が『自殺は悪ではない』と考えた方が生存確率が上がるような、そんな環境だった場合には、『自殺は悪ではない』という価値観こそが、絶対的真理になっていたはずです。
つまり、今日我々が『自殺は悪である』と認識している理由の大本を辿れば『偶発的な突然変異』と『それにたまたま合致した自然環境』というものに帰着するように思います。
そして、自殺の善悪に限らず、全ての価値基準は、偶発的に自然環境と合致した結果の産物であるように思います。
偶発性というものに『何故そうであったか』という理由は存在しません。サイコロを振って1が出たとして、そこに1が出た理由は存在しないのと同様です。
ただ「1が出たから、1が出た」だけなのです。別に、2でも3でも4でも5でも6でも構わなかったが、とにかく何れかの目は出なければならない。そこでたまたま1が出た。そこに理由は存在しないように思います。
ですから、全ての価値基準には、納得できる論理的な理由など存在しないのではないでしょうか。
偶発性が理由である以上、『自殺は悪であるから、自殺は悪である』という閉ざされたループを打ち破ることは、やはり不可能であるように思います。
自殺が悪であるのは、みんなが頑張って苦しい中で頑張って生きてるのに、世の中自殺してもいいという風潮になると精神的な悪影響が出るからでしょうか?
日本人は、集団行動を好みます。
最近、疑問に思ったのですが、確かに少数に自殺を肯定する人はいますが、やはり大多数は自殺を止めるのに、自殺者が出ると天国で安からに眠ってとか苦しみから解放されて良かったねと言う人が多いようですが、そういう人は自殺を肯定してるのかよく分かりません。かわいそうだからと言いますが、自殺願望や志願者には甘えるな、生きたくても生きれない人もいるんだと厳しい意見なのに、なんで自殺後には急に優しくなるのでしょうか?
あと、自殺を認めたら他人に自殺するように言ったり、殺人にも抵抗がなくなっていくような気がします。
生きている間は「良薬は口に苦し」ですから、相手に改善の努力を促すために厳しいことを言うことに意味があります。しかし、いったん死んでしまうと、もう生き返ることができない以上、厳しいことを言っても無意味になります。「死屍に鞭打つな」と言うのはそのためです。自殺した人が、努力して生き返ることができるようになるなら、話はまた別になるでしょう。
安楽死を容認すると、人口が減少し、GDPも減少するから、ニッポンで安楽死が合法化されることはない。ただし、あと5年で團塊の世代が後期高齢者となり、社会保障関係費が激増していく。財政破綻を回避するために、安楽死の6条件が緩和される可能性はある。
人生は辛い事の方が多い。だから「自殺もアリ」と公言してしまうと皆自殺してしまう。だから便宜上「自殺はダメ」と言わざる得ない。だが生と死の境には、生物システム的な苦痛や恐怖がある。だから「人には内緒だが本当は自殺もアリ」が今の私の考え方です。
2018年6月ごろに、東海道新幹線の車中で無差別殺人がありました。犯人には自殺願望があり、刑事訴訟法による死刑の執行を受けたかったのでしょう。拙者がこの事件を憂慮するのは、被害者の中に東大出の前途有為の中年男性がいたことです。これは国民経済的損失であります。このような事件の再発防止には、自殺志願者の安楽死を合法化することが最も適当なのであります。
安楽死を合法化しても、道連れ自殺を防ぐことはできないでしょう。
自殺は悪か?
もう答えは出ています。
何故みんな気付かない?
昔、自殺したかったボクは、ともだちに打ち明けた。
返ってきた言葉。
自殺は、人殺しより悪い。
そのともだちは、ボクの自殺を止めようと思って言ったのだろうが、未だにボクは、彼を許さない。
しかし、自殺が、一番の悪、だと、思う者もいる。
だったら、そのもの同士集って、自殺を悪人とする、デモでも起こせばいいのに。
そんな、動かずして、軽いコトバで、自殺を否定する。
自殺が一番の悪か? ではないですね。
自殺は悪か?
で、考えるから、なかなか終わらない。
自殺者は、悪人か?
そう、問わねば。
そして、
殺人者は、悪人である。
という、当然の事実に至る。
自殺者は、殺人者と同じ、悪人か?
もし、悪だとするならば、
自殺未遂者すべてを、法で裁き、刑務所に入れ、ただちに殺さねばならない。
しかし、それは違う、と、ほとんどの皆は言う。
なにが違かろうが?
悪人は裁くべきである。
当然のことだ。
悪を行う人を殺したり傷つける者と、自殺に至る者を、比べたりするのは、愚行だ。
そういう意味ではない。と。おまえが、すり替えて結論づけようとしているだけだ、と、人は、言おう。
しかし、自殺は悪か? という問い自体、同じことだ、と、言わせてもらいたい。
そして、今度は、自殺未遂者を、死刑にすることの悪や、正しさを、論じてもらいたい。
結果は、無論、分かるが。
それは、善し悪しでなく、ワタシの思考を、侮辱することに、方向性が進むだろうから。
自殺は、悪か? と、問われれば、ワタシは、迷わず、その問いが、余計、事態を、悪化させる。
と、答える。
「自殺は人間の特権である」。進化の臨界点を超えたホモ・サピエンスの大脳は、ついに自己破壊を命令してしまった。
これは 糞の意見‼️
生きるか 死ぬは人間の自由だぞ‼️
思慮が浅い事を承知の上で意見を残しておきます。
まず、私は自殺が善悪のどちらかと問われれば「結果的に」悪であるとする立場の人間です。しかし、あくまでその行為が行われてしまう状態を悪とするに留まり自殺者を悪呼ばわるする事は出来ないと思うのですが、そこを区別化して考える事は出来ないのでしょうか?何故そこが同一視されているのか疑問です。そして、自殺という行為自体に善悪をつけることは不可能です。そもそも判断を下す
場所が間違ってるというのが私の根本的な考えなので。
本題ですが、私は自殺について考えるなら自殺の原因を考察する事は避けて通れないと思っていて、そしてそこに真理があると思います。原因、それが全てなのではないかと。
人間本来誰しも自殺をするために生まれてきたわけではないですよね。もしそれを肯定するなら理性を持った時点でみんな自殺しているので今頃人間は滅んでいますよ。自殺を望む人間には必ず原因があります。私は、追求するべき論点はその原因であり、自殺という結果についてこれ以上論じてもなんの解決にもならないと思います。何らかの原因によって精神を追い込まれ正常な判断が出来ずに楽を求めて結果的に死を選ぶ、それだけの話なので。しかし、これはあくまで現象の実態の把握に過ぎず、精神に異常をきたしている人間の判断に正当性を見出して肯定することは出来ません。精神がおかしいのだから自殺してしまうのは納得できるけど、自殺は精神がおかしいから選択するのであって人間としての本来の姿からは肯定できないよねって事です。つまり、自殺は否定しなければならない、これが自殺という結果に対する私の中の結論です。
そうすると、やはり目を向けるべきは原因であり、私は自殺という結果を通してその原因を悪と呼びます。人間を精神異常に追いやるその原因が悪なのであると。そして、その原因を考えているうちに、またひとつの考えが生じました。自殺なんてものは無いのではないかと。自殺者を殺しているのは本人ではなく紛れもなくその原因であり、それが人に由来するのであればそれは殺人であり、社会であれば社会に殺されたという表現が正しく、自分が愚かである事が原因であるならば酷ではあるがただの自然淘汰では無いか。「自ら命を絶つという行為」という意味では否定出来ないが、「原因が人を精神的に追い込み、健全な判断力を奪い、自ら死に追いやる」これを自分の意思による命の諦めと見ることは絶対にあってはならないと思うのです。根源である原因に全ての悪は帰着し、それに殺される被害者が善悪を問われることはおかしくありませんか?つまり、自殺というのは原因による殺人という考え、及び人間は本来自ら命を絶たないという点を認め、それらを踏まえて自殺は否定されるべきである。というのが私の意見です。
自分の思ったように解釈を進めており、また、確証を持たせる検証を何も行っておらず、しかも抽象的かつ空想的な稚拙な考えかもしれません。しかし、私なりに意見を出してみることで誰かの考えに良い意味で影響を与えられる可能性もあると信じてコメントさせてもらいました。長文になってしまい申し訳ないのですが私の考えに対してどのような意見があるのか知りたいので返信お待ちしております。
本ページのタイトルは「自殺はなぜ悪なのか」ですが、この問いは、裏返すと「生きることはなぜ善なのか」でもあります。そして、後者の問いで問題となるのは、必ずしも自殺に限定されないことに注意してください。
不可抗力で命を落とす場合はともかく、回避できる原因で人が死ぬ時、私たちは「こうすれば、命を救うことができた」といったことを後になってよく言います。しかし、そうした主張は、「人はできるだけ生き続けるべきだ」という価値観を自明の前提としています。
私がこのページで問題としていることは、多くの人が疑うことすらしないその自明の前提の根拠です。自殺には原因があって、回避可能という主張では、本ページが提起する問いに答えたことにはなりません。
昆虫を含む様々な生物の中には同種の生命体の多数を生きながらえさせるために自らの個の命を投げ捨てたり、傷ついた他の個体を癒そうとする行動をとったりするようです。理性のない(と言っていいのかは分かりませんが)昆虫などがこういった行動を取るのは遺伝子レベルで同種の生命を助け、種全体の繁栄に寄与するようにプログラミングされているように感じます。
人間もこれと同じで、傷つき倒れている人がいれば助けたいという欲求が生まれやすく、また死のうとする他者についても、それは止めなければならないという感情が生まれるのかと思います。その遺伝子のプログラミングによる本能について反応し、言葉として顕在化した結果の一つが、自殺は悪である、とか命や生きることは素晴らしい、という考え方なのかもしれないと考えました。
ですので、これは単に生命としての本能を自殺は悪であるという表現にすり替えてあるだけで、自殺は倫理的な悪ではなく、結果の複雑さを度外視して、単純なその種の個体数が減るという繁栄の観点から見た損失だということだと思いました。
この損失が悪か否かということについては、人類など滅亡したほうが良いと思っている者には善であるし、人類は素晴らしく今後も繁栄していくべきだと考えるものにとっては悪であると思います。
自殺は人類を憎むものにとっては善であり、人類を愛する者にとっては悪である、という結論を考えました。
高齢者の自殺について。高齢者は信仰心が高い(=信心深い。主に仏教)と言われています。しかし、小さいころに当人の親や祖父母、あるいは寺の住職から「自殺をしてはいけない」、「命を粗末にするのは良くない」と繰り返し言われていたはず、かつ若い世代に「自殺をしてはいけない」と日ごろ言っているはずの信仰心の高い高齢者が、最近は介護心中(夫婦や兄弟・姉妹の2人)などで自殺する事例が多く起きています。信仰心が高い人は自殺をしないとは言い切れない事例です。これに関してどう思いますか?また、夏場以降に若い女性の自殺が増加しているにもかかわらず、自殺防止を呼び掛ける啓発CMが思っているほどTVで流れていません。また、仏教系の団体が「自殺の増加に大変強い懸念を抱いている」というメッセージも聞きません。これは自殺防止の観点で言うと「社会全体に危機意識が薄い」と言う意味で問題であると思います。誰かが公の場で「自殺をするのをやめましょう」と声高に今すぐ言うべきです。
仏教は、キリスト教とは異なり、自殺を明確に禁止していません。女性の自殺が増えたのは、コロナ禍で打撃を受けているサービス産業の担い手に女性が多いことが原因とされています。不況は自殺数を増やすことが経験的に知られており、重要なことは、啓発活動よりも、経済を成長させることです。
先ほどの投稿の前半に書いた高齢者の介護心中についてはどのように思われますか?
高齢者の自殺に関しては信仰心や信心は高い・低いが特別関係ない、が結論でしょうか?
老人性うつ病が原因の1つとよく言われます。
生活支援のために特に体の不自由な高齢者への金銭支給は必要と思います。
個人的には「金銭的に豊かになれば自殺は防げる」という単純な理屈が成立しにくい社会環境になっていると感じていますが、大人の場合は金銭が生死に影響されると思いますが、子供の場合は個人的な金銭問題が原因(大金を失う、あるいは突然大金の支払いが生じたといったこと)で自殺することがほぼありえない(学業や人間関係が原因の自殺が多い)ため、相談窓口の拡充が必要と思います。学校教育においては自殺防止啓発は一定頻度は必要と思います。
もしお金があるなら、介護を施設に委託することもできるでしょうが、それができないなら、大きな負担を抱えることになります。もちろん、自殺は経済的動機だけで起きるわけではありません。学校のいじめのようなスケープゴーティングで起きることもあります。これを防ぐために必要なことは、転校の自由やネットにおける忘れられる権利などです。行政は啓発活動をやりたがりますが、電通のような事業者が儲かるだけで、あまり効果は期待できません。
著名人の自殺後の後追い自殺をなくす方法として報道形式を変える方法があります。WHO指針は自殺報道に関して厳密な抑制基準を設けています。海外の人は「日本はこのWHO指針を守っていない」と嘆きます。例えばニュースを見ていて著名人が自宅、または滞在先のホテルで急逝した際に、ニュース文中で仔細に触れず病死の可能性が現時点でやや低い場合(ニュース文中に「ベッド(またはふとん)の上であおむけに横になったまま意識がない状態で見つかった」で、首を絞められた痕跡がなく、毒薬を飲んだ痕跡もないならば病死の可能性が高く、文末の方に「病院・警察によると病死とみられる可能性が高い」と記載するはず。この状況ではない現場状況から自殺の可能性が一定数あり、死因を記載したくない場合が後述の番号が出る。浴槽の中で意識不明の状態で見つかった場合は、首を絞められた痕跡がなく、切り傷もなければ入浴中に心不全になった。または一酸化炭素中毒の可能性と書かれるので自殺ではない)は、「いのちの電話」の番号を出しますが、これは「自殺をした可能性が高い」と言っているようなものです。かえって出さない方がいいです。病死であればこれは出しません。
著名人が自宅か滞在先のホテルで死亡したというニュースとして取り上げる際に、死因に関係なく単純に「自宅(ホテル)で亡くなられた」ではいけないのでしょうか?こう感じる理由に、著名人で長年闘病していた人が自宅で病没(当人の希望で「自宅で生涯を終えたい」という申し出があった時)して家族・主治医に看取られた場合は、当たり前ですがちゃんと報道でも「病死」として認定されます。
追記。「人の命を救うはずの宗教がかえって人の命を奪う」という悲しい現状が国際社会で起きていることを考えると、宗教の教義の力で自殺をなくすことは不可能でしょうか?昔の日本でも仏教界内部の対立、あるいは宗旨の問題で武士を巻き込んで多くの人の命が奪われたこともあります。
余談ですが、町田で絵本を使って学校で自殺防止啓発をしていると今日のニュースで聞き、これは大変にいいことだと感銘を受けました。
そういう質問は、私にではなくて、報道機関にしてください。いずれにせよ、ここのテーマは、「自殺はなぜ悪なのか」であって、「自殺を止めるにはどうすればよいか」ではありません。
この項目に関してこれで最後の質問にいたします。
古い時代にもし僧侶が自殺をした場合は、連座と言う意味で寺に厳罰が出た可能性があります。
江戸時代だと寺社奉行が処分を下したでしょう。さらに昔だと朝廷から処分が出たと思います。
教義上、「命を大事にする考えの」仏教で、仏道修行で命を失うかもしれないことをやる僧侶がいます。滝行、長時間の座禅、長期間の断食など。
今は法律上できませんが古い時代には「即身仏」になることもありました。
身分に関係なくあらゆる人間の模範になるべき存在で、命を大事にする教義なら僧侶自身が命を失いかねない危険なことをするのは世間的に考えられないです。たとえ修行とはいえ僧侶自身が命を失うことはよくありません。人材損失です。
「命を大事にしなさい」と一般の人には絶えず説法する一方で、自身は生死を脅かす苦行を日常的にしている。
現在、僧侶の間ではこれに関して矛盾を感じる人がいないのでしょうか?
可能性とか推測とかではなくて、信憑性のある記録とかはないのですか。
律令時代に自殺を禁止する法令が存在していたことを知りました。飛鳥・奈良時代は日本社会全体が現代よりも仏教の信仰心が強く、「自殺を悪」と考えていたと思います。昔の日本人ははっきりと「自殺は罪」と考えていました。この時代に自殺を禁止する法令ができたのは、実は仏教の教義を誤解したために自殺が頻繁に起きたからではないかとも言われています。この法令によるとかなり厳しい処罰があります。よくよく考えてみると仮に僧侶が自殺をするということが起きようものなら、古代仏教界にとって絶対タブーです。「物故者永久破門処分」レベルの行為と思います。現代仏教界にとっても絶対にあってはならないことと思うのです。いまでも僧侶の自殺は「永久破門」レベルのことと思います。現代でも宗派の中には実際にそういった処分を出した前例があるのでは?
ただ、この自殺を禁止する法令はいつ廃止・自然消滅したのかはわかりません。たぶん自殺者が激減したから廃止になったというわけではありません。
明治になってからキリスト教が合法宗教になったのですが、キリスト教の教義である「自殺は悪」という理念がこの時代には一般社会に広く浸透しませんでした。明治期に政府の西欧化政策やキリスト教会の道徳啓蒙運動により自殺は良くない・悪い行為と社会が十二分に認識できていれば、今日の日本において自殺が深刻な社会問題にならずに済んだのではと思いました。
明治維新のミスは西欧の哲学・理念・思想・人生観(「自殺は悪」と言う概念を含め)を完全には吸収していない点です。これは戦後改革の社会政策においても同じと思います。戦後間もない時代にGHQ主導でYMCAあたりが「自殺は悪」という全国的な啓発をしていればよかったと思います。なぜ日本においては前述の律令時代と江戸時代の一時期を除いて自殺が深刻な社会問題になっても自殺禁止法ができないのか?おそらく「自殺者=被告人」と位置付けても被告人が故人だから被告人に当たる人が裁判時には存在しない、あるいは自殺禁止法に連座適応の規定(自殺者の親族・関係者など。自殺禁止法に「なぜ自殺を防げなかったのか」と言う理由の連座起訴規定が法律上にあると想定)があって法律上「代理被告」を設置しても、その「代理被告」になってしまう人が、「あまりに理不尽な法律だ」などとの理由で出廷を拒絶することが起きそうだから裁判ができないためか?
かなり長い文章になりましたが律令時代には自殺を禁止する法律があったことをご報告いたします。
僧尼令にある焚身捨身の禁のことを言っているのですか。
先日わかったことですが、仏教における破門の対象となる言動に関して「自殺したこと」がないことを知り驚きました。僧侶であるかないかに関係なく「仏教を信仰する人物が自殺した場合は破門する」との規定がないことを知り驚きました。ただ、今日の日本仏教界が遠い昔のとある高僧に関して「本当の死因が自殺であること」が最近になってわかったとして、故人である高僧に対して破門処分を決める(破門対象の条項に自殺がないため、「仏教の教義に反する行為をした」という理由)ことがあるのでしょうか?あと、今の日本仏教界で最近自殺をした僧侶または檀家の人を破門処分・檀家追放にすることがあるのでしょうか?
捨身飼虎を美談とするような宗教が、自殺で破門にすることはないでしょう。
仏教において自殺者を破門対象にしていない理由はなぜでしょうか?宗派の修行方式によって今は法律上不可能ですが、「即身仏になること」が「自殺そのものが修行」と言う修行方式の1つでもあるためか、自殺は仏教の教義に反する行為との認識が仏教界にはないのでしょうか?これはある意味矛盾しています。
仏教が説くように煩悩を捨てることは、生物としては半ば自殺行為です。実際には在家信者がお布施を渡してくれるので、死ななくても済むのですが、もしも誰もお布施を渡してくれなければ、出家信者は死んでしまうかもしれません。この場合、死を回避するか、それとも還俗するかという選択を迫られることになります。仏教としては、死の回避を選ぶことは自己否定につながるので、そこはなかなかむつかしいところかと思います。