自殺はなぜ悪なのか

2018年1月4日

「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。

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我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(1897 – 1898年)。ゴーギャンは、この作品を描き上げた後、自殺を試みた。

1. 不公平な多数決

生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言いがたい。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言いがたい。

もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。

規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。

自殺は、常に悪とされてきた。神風特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、一見自殺を奨励していたようにも見えるが、彼らは「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。問題は、なぜ生命には一般に価値があるのかということである。

2. 善悪の基準は何か

生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力といった低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私(たち)のシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのネゲントロピーは私たちの価値の基準である。

自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で1/299792458秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復(トートロジー)に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。

3. 閉ざされたトートロジーのループ

「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーのループを超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命は善である。ゆえに生命は善である」というトートロジーを繰り返しているのである。

トートロジーのループから抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。

石原慎太郎が、戦争放棄を放棄するには、憲法を改正するよりも破棄しろと言ったことがある。日本国憲法は、自らを最高法規と規定し、憲法を改正するには、衆参両議院での2/3以上の賛成と国民投票での1/2以上の賛成が必要と定めている。もし、日本国憲法を最高法規として認め、それに従うなら、面倒な国会対策や世論操作が必要になる。しかし、クーデターを起こして憲法それ自体を否定するならば、憲法第98条に記されている最高法規の条項は、たんなる紙の上にあるインクのしみになってしまう。

「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。

もし、誰かが「自殺したい」と言い出すなら、私は、あらゆる手段を尽くして、その人に断念するように説得するだろう。しかし、それは、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はない。

読書案内
書名 自殺のコスト
媒体 単行本
著者 雨宮 処凛
出版社と出版時期 太田出版, 2002/01