5月 032002
 

「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。

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我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(1897 – 1898年)。ゴーギャンは、この作品を描き上げた後、自殺を試みた。

1. 不公平な多数決

生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言いがたい。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言いがたい。

もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。

規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。

自殺は、常に悪とされてきた。神風特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、一見自殺を奨励していたようにも見えるが、彼らは「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。問題は、なぜ生命には一般に価値があるのかということである。

2. 善悪の基準は何か

生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力といった低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私(たち)のシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのネゲントロピーは私たちの価値の基準である。

自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で1/299792458秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復(トートロジー)に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。

3. 閉ざされたトートロジーのループ

「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーのループを超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命は善である。ゆえに生命は善である」というトートロジーを繰り返しているのである。

トートロジーのループから抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。

石原慎太郎が、戦争放棄を放棄するには、憲法を改正するよりも破棄しろと言ったことがある。日本国憲法は、自らを最高法規と規定し、憲法を改正するには、衆参両議院での2/3以上の賛成と国民投票での1/2以上の賛成が必要と定めている。もし、日本国憲法を最高法規として認め、それに従うなら、面倒な国会対策や世論操作が必要になる。しかし、クーデターを起こして憲法それ自体を否定するならば、憲法第98条に記されている最高法規の条項は、たんなる紙の上にあるインクのしみになってしまう。

「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。

もし、誰かが「自殺したい」と言い出すなら、私は、あらゆる手段を尽くして、その人に断念するように説得するだろう。しかし、それは、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はない。

読書案内
書名自殺のコスト
媒体単行本
著者雨宮 処凛
出版社と出版時期太田出版, 2002/01
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私が書いた本

  90 コメント

  1. 私も、やはり、自殺と言うのは結局生に対する善悪の判断であると思います。自殺という行為において重要なのはやはりその人が生きることに死よりも苦を感じるというその考えでしょう。そうあるのならば、個人の問題だからこれは個人に任せるのがもちろん普通のことではないのでしょうか?
    しかし、社会としては、何故かそれを制止する方向にある。他にも、途上国の子供達が餓死していく…それを悪と受け止め、様々な援助が考案されます。もちろんこれらの姿勢は美しいものです、とおそらく多くの人がそう考えていると思います。私は、こういう死に対する否定的な考え方は、慣習的なものではないかと思います
    後、もう一つ重要なのは、母と話すときに非常に思うのが、家族関係と言うものです。これは、『自殺は残された家族に対する最大の復讐だ』という言葉に象徴されると思います。結局両者とも非常に密接な関係にあると思いますが、要は道徳観念がポイントにあるのでしょう。道徳をこの善悪の判断にはさむかどうかは様々な意見があると思いますが、私ははさみ得るものだと考えています。何故なら、この基準を抜け得る人はなかなかいないと思うからです。
    その上にあるのは教育です。この価値基準に基づいた教育を受けた人々が自殺をすることに悪を感じないとは思えません。そして周りの人もその自殺に対して、この価値基準で判断するのでしょう。
    この基準こそが慣習だと思うのです。古代、日本は食糧不足のために間引きなどをとみに行ったのことですが、おそらく、食糧難の場所では、きっと今でもそういうことがあると思います。そして、選ばれた子供達の完全な発育を望むのです。これが、子供を生かしたいと思う家族の気持ちに直結するとは考えていませんが、このような昔からの慣わしから人の生に対する価値が今ならば『道徳』という言葉で表現されていくのではないでしょうか。
    しかし、その昔の間引きを例に取るのならば、もう一方の面からもひとつのことを考えていけるでしょう。間引きーつまり人殺しといっしょですが、それをできたというのはやはり昔は生に対する判断が今よりももっと否定的であったのではないかと思います。否、生と死の格差がもっと小さかったといえるのではないでしょうか。これは興味深い事です。日本の昔だってそうでしょうが、ヨーロッパの中世史でも、暴力などという言葉に象徴されるように人の死はかなり身近にあったものだと考えられます。そのときに、死に対してどう思っていたのでしょうか…恐怖?それとも諦め?
    今の発展途上国の人々だって、『毎日ー人の人が死んでいきます』なんて放送されているけど、現地にいって彼らの意見を私は聞きたいのです、死が怖いのか、或いはそれをあなた方は受容しているのか?…こんな風に言うと私は冷血漢のように自分でも感じてしまいますが、死に対しての判断をするのはムづかしい、生きることになれているから、このように死に対する恐怖が倍増しているだけかもしれないと、思わなくもないのです。そう、生が普通だというものが根底にあるのです、私たち達の生活には…生を普通の基準とするために民主主義など様々な試みがあったのでしょうか?わかりません。
    意見するにはまだまだ早かったみたいです。最終的には、私は今の道徳価値に肯定ですし(もう抜け出せないのだろうと思います)、何より家族という関係の習慣から出て行くつもりもありません。でも、恵まれて、色んなことに対して、鈍感になり、当然と思っているような今の状態にはあまり納得いきません…そういえば、自殺する動物は人間だけだと聞きました。これも一つのキーポイントのような気がします。

  2. 今回私が主張しようとしたことは、哲学的に考察すると、「自殺は悪だ」には根拠がないということであって、「自殺は悪ではない」と主張しているわけではありません。生の内部にとどまる限り、生には絶対的な価値があるし、生のルールに従って行動しなければなりません。
    自殺は社会的現象であり、個人の問題ではないのだから、「自殺するかどうかは、個人の自由」ではすまされないでしょう。自殺の増加は、社会にとって、資源の浪費であり、社会は、「自殺は悪だ」というイデオロギーとともに、あらゆる手段を用いて自殺を防止しなければなりません。
    経済的な理由から、発展途上国における人間一人あたりの生の価値は、先進国におけるそれと比べて、低くなっていますが、決して生に価値がないわけではなく、自分たちの生よりも神に価値をおく一部の社会を除けば、人間の生が究極的な目的です。もっとも、究極的な目的は、究極的に基礎付け不可能なのですが。

  3. 日本で自殺が絶対悪であるかのように扱われている理由は、殺人が絶対悪として扱われている影響がもっとも強いと思います。日本では、患者を苦しみから解放するために安楽死を施した場合、たとえ安楽死要件を満たしていても、殺人罪に問われます。殺人を禁止する刑法に対し、容認する特別法が存在しないからです。殺人罪は「人を殺したるもの…」と書いてあるはずです。傷害罪は「人を傷つけたるもの…」。一方で「他人を…」と書いてある法律もあります。「人を…」と表記している法律は、自分も含めると警察が言ってました。私が無茶な運転をして、勝手に事故を起こし自分のみが怪我をしたときに、「傷害罪を適用してもいいんだぞ」的なことを言われました。単なる脅しかもしれませんが、あんまり頭がよくなさそうな人だったのに、妙に論理的だったので本当のような気がします。その真偽はとりあえずいいとして、殺人の是非をまず問うべきであるように感じます。今後殺人の是非を取り上げてほしいです。

  4. 他者を殺すという意味での殺人が悪なのは、自殺が悪であることから簡単に証明できます。もし私が「他者を殺してもかまわない」と主張したとすると、それを聞いた他者は「そうか、他者を殺してもかまわないのか」と納得し、他者にとっての他者である私を殺すことになるでしょう。つまり、殺人を許容することは自殺行為なのです。このように、あらゆる価値の問題は、なぜ自分の生に価値があるのかという問題に帰着します。

  5. 教育と洗脳、私は同じ事だと思っています。どちらも、一定の統治に重要なカテゴリーです。イスラム原理主義では生きているときの性的欲求を締め付けるだけ締めつけて、命を捧げれば天国で女(男)を抱き放題とかなんとか言って教育(洗脳)して、自爆を助長しているとか。だから自爆する人は進んで自爆しているらしいですよね。これは止めようがありません。止めるにはその上から全く違う価値観を上書きするしかありません。この件、非常に重要だと思いますが、考えていると実は時間が無駄に過ぎてしまいますよね(笑)。
    現実だけを直視すると、義務教育受ける国民の割合が99・8%を誇る世界一の教育先進国である我が国。統治に必要な最重要課題をクリアできるわが国。教育の元々の目的は単なる個人のレベルアップではなくて統治の充実であり、その結果、個人のレベルアップに結ばれるということに立ち返って教育を議論して欲しい物です。ちなみに、私は自殺とか(浮気とかって)自由だと思っていますが、それを布教するとみんなやってしまう。そうすると統治が成り立たなくなってしまうと危惧して、他人には志雄らしく「自殺はいけない!」「浮気はいけない!」って言っております(大笑)。

  6. 私たちには、この世に生まれるがどうかを選ぶ権利がないし、幼少時にどのような教育を受けるかを選ぶ権利も普通ありません。その意味で、私たちの自由は、かなり限られています。しかし、私たちには、その事実に気付くぐらいの自由はあります。「自分は、実は洗脳されていたのだ」と気付く人は、気付いた瞬間、洗脳から自由になります。逆に「洗脳とは何事だ。けしからん」と言って怒る人は、洗脳されたままです。これは洗脳のパラドックスです。

  7. 永井様の言われることは、もっともですが、なぜ自殺が悪であるかの本当の原因は、残された人を不幸のどん底に陥れるからです。ストーカーに娘を殺された親も、自殺で息子を失った親も、子供が死んでしまったことに対する悲しみは同じ。自殺をした人の意見が聞けないように、自殺した人が、取った道が正しいかどうかは関係なく、その行為によって周りの人を悲しませる。その人を愛する人々をこのような形で苦しめる、だから、悪なのです。ロジックな解説は、意味がない、と私は思います。では、誰からも愛されてない人がする自殺は悪ではないのか。と、すぐに質問されそうですが、私の答えは、YESです。まったく、誰からも愛されていない人、そんな人がいるとは思えませんが、その人の自殺は悪ではありません。以上が私の意見です。

  8. 自殺しようとする人は、自分の自殺で心を傷めるであろう人のことを考えて心を痛めます。そして、それで思いとどまる人もいます。しかし、もしも、生き続けることで自分が耐えなければならない苦痛が、自殺することで生じる自他の苦痛以上であると自殺願望者が判断するならば、どうでしょうか。一つアナロガスな例を挙げると、あなたが会社の命令で、遠いところへ転勤しなければならなくなったとします。それを聞いた周囲の友人が、「あなたがいなくなるとさびしいから、ここにいてちょうだい」と懇願したとします。しかし、会社の命令を拒否し、その結果解雇されるとするならば、その苦痛は、転勤することで生じる自他の苦痛よりも大きなものとなるとあなたが判断するとします。その場合、転勤は悪ではありません。これと同じ論理を自殺には当てはめることができず、したがって、自殺は絶対に悪だと言うことができるのか、それが私の問題提起です。

  9. 自殺に対する規範意識について考えてみますと、この行為が行われた場合極めて嘆かわしいことであると考えられているようです。しかしそれを「禁止」するまでの強い忌避の念が一般的な規範意識に含まれるものであるかどうかはすこし疑問であって、むしろこれを大っぴらに推奨することから、これの是非を論じたり、このサイトにおけるようにこれを「悪」とする観念のよって立つ由来を議論したりするような、寛容さの幅があると思われます。
    これはひとえには、個々の事例において自殺を実行する者が、自殺をもってする他には耐えることの出来ない程度の苦悩のもとにあることが多く、なおかつ多くの場合においてはその事情を知る者においてその受苦の程度と自殺との間に自然な関連を見い出すことができるということ、すなわち「自殺するのも無理もない」と感想することから、そのような場合において自殺者を「悪人」とするに忍びないという事情があるものと思われます。これは「悪」をなしたものは「悪人」として非難されるであろうという前提を含んでおりますが、このような前提はほぼ一般的に承認されている考え方であると仮定しています。つまり自殺を「悪」であると言い切るには自殺者を「悪人」であるとしなければならず、「気の毒な」自殺者を「悪人」として非難することへの躊躇いが上記の寛容さの幅である、ということになります。
    したがって、一方では宗教的な規範、あるいは法的強制力をもって自殺を「禁止」する場合もあり、そのような規範が存在することをもって「自殺は悪である」という規範があるのだとすれば、通常人の自然な観念というものを仮定してそこからこれを導き出すことは困難であると思われます。
    そのように考えると、自殺を「禁止」するところのこのような規範がある種「人為的」に「作られた」ものなのではないかと仮定することができるでしょう。ここで歴史を遡って自殺そのものの禁止が明示されたのはいつどこの話であるかということを明らかにする方向で考えるのもひとつの道でありますが、どうもそれは私の手にはあまるようです。そこでこれ以上は勘のようなもので申し上げますが、自殺の禁止は所有関係の発達にともなって経済的な動機で設定されたものではないでしょうか。すなわち支配階層にとって自殺は、もし集団的に行われるときには江戸時代の農民の逃散、もしくは近代労働者のストライキに相当するような、経済的不利益をもたらすところの不服従の身振りとされ、それゆえの「禁止」なのではなかったかと予想されます。そしてむしろこの「禁止」を正当化するためにいつの間にか動員されたのが「悪」の観念だったのではないでしょうか。

  10. 生命の持続は自己目的的であって、自殺が悪であることを手段レベルで説明することはできません。支配者階級が、生産手段を失うことを恐れて被支配者階級に自殺を禁止したとするならば、支配者階級の人間も自殺してはいけないという規範意識を持っていることをどのように説明するのですか。「江戸時代の農民の逃散」や「近代労働者のストライキ」を容認することは、支配者階級にとって自殺行為ですが、なぜそうした自殺行為をしてはいけないのかという問題を考えてください。

  11. 自殺は何故悪なのだろうか。
    何故悪と断定されているのでしょうか。
    仮に悪なら、誰にとって悪なのでしょう。
    言葉遊びのような気がします。
    これを考えてる人は、私を含めて、とりあえずまだ生きていようとしている人だと思います。
    自殺しょうとする人が、善いことだと考えて死ぬとは思えません。
    生きていたいけれど生きていけないから死を選ぶのではないのでしょうか。
    死を決意した人に自殺は悪いことだから止めろと言ったら、聞いてくれるのでしょうか。
    社会規範?その手のものを持ち出したとて、死への決意が鈍るとは思えません。
    善し悪しではなくて、止むに止まれぬ事情があるから自殺しようとするのであって、出来れば生きていたいのが人です。
    死を決意した人の環境やその人の資質を問うのが先だと思います。
    私には自殺するのは悪である、と決め付ける事はできません。
    人は種を残すための、遺伝子の入れ物といった考え方があります。
    種のバトンを手から手へ渡すのが生物ならば、それが終えたら死ぬのも自然なことのように思われます。
    私には、自殺するのは悪である、と壇上で居丈高に叫ばれているように聞こえます。

  12. 「生きていたいけれど生きていけないから死を選ぶ」ことは自殺なのですか。例えば、治る見込みのない末期がんの患者が、「生きていたいけれど生きていけないから死を選ぶ」なら、それは、自殺ではなくて、安楽死と呼ばれ、普通は、非難されることはありません。生きていけないからではなくて、生きていけるのに死を選ぶことが自殺であり、そうした安易な選択をすることは「命を粗末にしている」といって非難されます。
    「種のバトンを手から手へ渡すのが生物ならば、それが終えたら死ぬのも自然なこと」というのは、そのとおりですが、「死は悪ではない」ということを認めたからといって「自殺は悪ではない」という結論は出てきません。また、社会が自殺を容認し始めると、「種のバトンを手から手へ渡す」ことに支障をきたします。
    私は、この文章を、自殺は悪だとお説教をするために書いたのではありません。「自殺しょうとする人が、善いことだと考えて死ぬとは思えません」とあなたも認める常識の根拠を哲学的に問うために書いたのであり、その結論は、自殺を悪とする根拠は何もないというものです。

  13. この前の投稿は早とちり、浅慮で失礼いたしました。
    こんなことを考えました。
    ある人物が自殺しようとしましが、どうにも決行できません。
    そこで画策したことは、自分と何の関わりのない複数の人の命を奪い、捕まって死刑になることでした。
    実際に行動し、望み通り死刑になった場合、
    この犯人は自殺したと言えるのでしょうか。
    屁理屈のような設問で申し訳ありませんが、先生の考えをお聞かせいただければと思いまして投稿します。

  14. 宅間守のように「自殺をしても…らが喜ぶのみだ。自分が死ぬくらいなら、自分が味わっている絶望的な苦しみをできるだけ多くの被害者とその家族に味わわせてやろう」と言って無差別殺人をする場合は、一種の自殺でしょう。死刑が最高刑である法体系は、道連れ殺人を防ぐことはできません。

  15. 自殺は、絶対にやってはいけない事であると思います。「思う」というかいけない事なのです。どういう星の下に生まれてきたのかは人それぞれですが、自殺はその言葉自体が悪であると認識されなければならない。死んでから人は楽になれると考えているでしょうが、それは大きな間違いであると言わせてもらう、地獄や天国が本当には無くて死ぬとただ消えるだけなんて心のどこかで思っているとしたら大違いです。なぜ地獄を語る人がいるのでしょうか。なぜ霊が見える人がいるのでしょうか。本当に、本当に無いのであればこの長い歴史の中で説は消えていくでしょう。地獄はあります。自分を殺す?そんな事ができる人は地獄をわかっていないからしてしまうのだ(普通人は地獄を知らないから)。地獄はもし人間が生きて体験する事ができたとして、世界中で一番苦しんでいる人の30倍以上苦しいものだと考えてほしい。いやもっとかもしれない。人生に疲れた?死んでしまいたい?死んで楽になりたい?死んだらその人の本来生きるはずだった寿命の何十倍もの時間を苦しみぬかなくてはいけなくなるんだと思ってほしい。今苦しくて自殺したいと思っても、その今の苦しみの何十倍もの苦しみを何千年もかけて味わう事になるのです。生きていれば、本来の人生の中でいい事が見つかる可能性はあるのです。死んだらその可能性をも絶つことになるのだと思ってほしい。自分自身の人生を絶つということは、どんな罪よりも重いのだと思ってもらいたい。今までの投稿を内容を見てコメントしたのではなく、神道に基づいて述べたまでです。

  16. 「神道」というのは、日本神道のことですか。日本神道では、仏教やキリスト教といった世界宗教とは異なり、地獄の思想は明確ではありません。冥界や根の国といった死後の地下世界は、それほど悲惨なところではありません。珠月さんは、宗教的にはどういうポジションの方なのですか。

  17. 「自殺がなぜ悪なのか」という問いは人が生まれながらにして善か悪かという問いと同種の哲学的問題であると思う。
    人が善であるか悪であるかについてですが、それは個々人が育ってきた環境、周りとの関わりで形成していくものだと考えます。
    いかにして人は善になるか悪になるかということです。
    私は、自殺が善であるか悪であるかもそれと似通っているのではないかと考えます。ある社会が「自殺は悪いことだ」と、倫理規範、国益、政策的観点から定め、その環境で育まれたからそのような意識が生まれたのだと解します。ですから自殺が特段悪とはしない社会も存するものと考えます。
    それでは「自殺はなぜ悪なのか」ではなく「自殺は悪なのか」という問題提起を考えてみたいと思います。
    自殺が悪だとする社会で自殺者を処罰できるのか考えてみる。日本では自殺を悪とし、積極的に推奨する社会ではないものの、社会通念上違法だとは解されていない。それはおそらく自殺は自己決定権の問題、死が人にとっての終局的な現象であることから法規範違反としては定められないことに起因しているものだと思います。
    それでは自殺を幇助・教唆した者はどうだろうか。これも上記同様に処罰根拠がないように思われるが私は以下の理由で裁かれるものだと考える。生命の放棄という自己決定は違法ではないが、好ましくないものであり、それを助長する行為は禁止すべきものとするのである。これは、生命の軽視を否定する道義観の保護に通じ、生命の支配権は個人のみに存するとする(つまり生命に関してはすべて本人が司らなければならないと考える)抽象化した法益概念を承認することになる。これと同じように殺人罪等についてもそれぞれの社会で価値が異なるのではないかと思います。
    しかし日本でも例外的に安楽死が認められています。安楽死といっても尊厳死と狭義の安楽死に大別できますが、ここでは狭義の安楽死について取り上げます。狭義の安楽死は厳格な要件のもとにおいてのみ認められています。
    判例の引用ですが「①耐え難い肉体的苦痛が存在し、②死が回避不能でかつ死期が差し迫っており、③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がなく、④患者の明示の意思表示が存在する時には、積極的に死期を早める安楽死も例外的に許容されうる」としています。これほどまでに生命を尊いものだとする社会であればこそです。
    結論としては環境の問題で決まるのだと思います。
    上記のコメント内において永井教授が
    ”死刑が最高刑である法体系は、道連れ殺人を防ぐことはできません。”
    と発言しておられますがどのように解釈したらよいのでしょうか。
    死刑が最高刑である法体系であるから道連れ殺人を防ぐことができない(だから死刑は廃止すべきだ)という意味なのか、
    それとも死刑が最高刑であろうとなかろうと道連れ殺人を防ぐことができる法体系は存しないという意味なのか、またはそれ以外の意味があるということなのか教えてください。お願いします。

  18. 宅間守を例にしたのでわかりにくかったのではないかと思います。もっとわかりやすい例を挙げましょう。ある自殺志願者が、「オレと一緒に死んでくれ」と叫びながら、電車のホームに立っていた人に飛びかかり、そのまま、二人とも通過電車に轢かれて死んだ場合、この自殺志願者は、殺人の罪を犯したことになりますが、被疑者死亡で、裁くことはできません。
    自殺志願者の家族には、損害賠償を求められるなどのペナルティがあるでしょう。だけれども、それは、家族が受けるペナルティであって、本人が受けるペナルティではありません。周囲に迷惑をかけずに死にたいという人もいるでしょうが、そうでない人もいるわけで、後者を罰する刑罰が存在しないことが問題です。
    宅間守は、死刑という手段で自殺したわけですから、形式的には、裁かれ、罰せられたことになります。しかし、死刑が目的ですから、なんら刑罰に抑止力がなかったということです。通常の死刑よりも重い刑罰として、残虐な死刑を導入しても、宅間守は、捕まる前に自殺したでしょうから、残虐な死刑の導入によりあの事件を防ぐことができたとは断言できません。
    死刑があるおかげで、抑止できる犯罪もあるので、自殺志願者の殺人を防ぐことができないからといって、死刑を廃止するべきだということにはなりません。死刑の是非は、また別の問題です。

  19. はじめまして。一つ質問があります。
    “規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。”
    たしかにその通りだと思います。善か悪かを最終的に決めるのは社会であって、個人ではないと思います。では、自殺は悪という社会の規範がある以上、自殺は悪なのではないでしょうか。
    またその際、”私たちの生命に価値があるのかと問うことと”はあまり意味がないような気がします。私たちの生命に価値が有る無いにかかわらず、そういう個人の考えとは関係なく、社会では自殺は悪だとしているからです。
    ネゲントロピーという単語がこの質問な答えになるような気がして、いろいろ調べたのですが、結局分かりませんでした。実は僕はまだ大学一年生で、頭もあまり丈夫ではありません(笑)先生の論文をすみずみまで理解したいので、分かりやすい言葉で説明してもらえるとうれしいです。

  20. “善か悪かを最終的に決めるのは社会であって、個人ではないと思います。”
    社会は個人を離れてどこかにあるわけではありません。また、本文に「重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない」と書いたように、生命は価値なのではなくて、価値の基準です。

  21. 初めて投稿させていただきます。
    この文章を読み、「親が自分より子供の命を守ろうとする」行動に疑問を持ちました。もし趣旨がずれていたら申し訳ありません。
    親が子供のために己を偽性にすることは、価値の基準であるはずの自分の命よりも、社会を優先させる行為であり、「自殺はなぜ悪なのか」で述べられている内容と整合しないと思いました。
    価値の基準である自分の命よりも、他のものを優先しているからです。
    生きている者にとって、命が価値の基準である以上、自分の命を他の命よりも優先させると思います。あらゆる存在にとって、(種など関係なく)全ての生命の価値が同じであるならば、他の生命を糧として生きることはないと考えます。
    自分の命を優先しているからこそ、他の生命を偽性にして、己のエントロピーを低減させることによって生き延びていると思います。
    私はこの事実から、価値の基準は「自分の」命に限定されると考えました。
    そして社会秩序や道徳については、
    —————————————————-
    カントが主張したように、道徳的に悪しき行為は、その格率(主観的な行為の規則)を普遍化すると、概念的な矛盾に陥る。例えば、他人の利益を尊重せず、自分の利益のみを考えるエゴイストが、その格率を言語で表現する(普遍化する)と、周囲の人も、その人の利益を尊重しなくなるから、「自分の利益のみを考える」という当初の格率に矛盾してしまう。
    —————————————————-
    (永井先生の「価値とは何か」より)
    などから、「社会秩序や道徳は、各々自身の命のため」と考えていました。当人以外の命を尊重するのは、当人が命を尊重されたいからだという意味です。
    種の保存は、その種が生きる社会にとっては有益と考えます。しかし善悪の基準が当人の命であるならば、「親は他人である子供よりも、自分の命を尊重すべき」という結論になる気がします。
    価値の基準を「自分の」命に限定することがおかしいのか、あるいは親と子供は一体と捉えるべきなのか、いろいろ考えましたが、よくわかりませんでした。
    永井先生はどのようにお考えでしょうか?
    浅学のため、読みにくい文章で申し訳ありません。返答をお待ちしております。

  22. 「自分の」命と言うときの「自分」は、必ずしも皮膚によって境界付けられた生物的個体としての私ではありません。特に母にとっての子は、他人とは言いがたく、自分の一部と認識されていることが普通であると思います。極端な場合、特攻隊など、国のために命を捧げる愛国主義者のように、自分の概念を自民族にまで拡張する場合もあります。なお、カントの定言命法は、理性的な法則に基づいているので、直感的な感情に基づく、母の献身的な子供救済の説明には使えません。

  23. 色んなコメントがあるんですね。
    そりゃそうだな~。皆生きてきた環境が違うんだからなぁ
    どんな意見を言ったって必ず反対派はいる。
    こう言う問題は話し合ったって結局は自殺者の判断でしょ?
    という事はここで自殺は善だの悪だの話してもしょうがない
    んだ。
    別に俺は哲学とか否定するわけじゃないよ。
    だけどなんかここのコメントを見ると自分が勉強したこと
    の発表会みたいなきがすんだよね。
    正直いって死にたい奴は死ねば善いんだよ。
    だって生きてけないんだろ?
    そりゃ目の前で飛び込もうとしてる人を見たらちょっと待て
    よ!!くらいは言ったるけど、人間マジで考えてるときってだ
    いたい正しい事を考えてるよ。
    それでおかしい方向に行くやつは死ぬんだよ。
    でもしょうがないよ。それがそいつの受けた教育であり生き
    てきた環境だからさ。
    所詮人間だ。
    今哲学の発表会してる奴も所詮人間で結局は感情にコントロ
    ールされるわけだよ。
    永井さんだって行くところまで行ったらコロっていってしま
    うかもしれない。ワラ   でもそれはしょうがないんだよ。
    俺らは自分が一番可愛い人間なんだから。
    哲学の発表会をしたい奴はここで永遠としてればいい。
    きっと自己満足は申し分なくしてるだろうけど、社会に何の
    影響もないとおもうよ。。
    イデオロギーね・・・ワラ

  24. 自殺って本人にとっては別に悪くも良くもなく
    「今日はパンにしようか、ご飯にしようか」
    なんて選択を、人生や命に置き換えただけなんじゃないかな。
    そこにいたる経緯について、社会の問題・・・・と言う人が多いけど
    生きていれば誰だってそれなりの悩みや苦悩はあるのだから
    その自殺の責任の全てを、本人以外に持たせるのは変だね。
    まぁイジメや迫害からの自殺は社会の問題だけどね。
    ただ、自殺に善悪つけるのは、おかしいように思う。
    そこに追い詰めた行為があるならば、その行為が悪かもしれないけど
    その人の自殺を選択した行動につういては
    ただそれを選択したってだけじゃないかな。
    そして、それによって周囲の悲しみが生じたとしても
    それは、周囲に悲しみを生じさせたことが悪いといえても
    それで自殺を悪とするのは、間接的すぎるきがする。

  25. いまさらですが、人間以外にも自殺する動物はいたはずです(レミングとか)。

  26. レミングが集団自殺をするというのは嘘です。[Great Moments in Science – Lemmings Suicide Myth

  27. 自殺は現住所があるから悪である。行旅死亡人は住所が無いから善である。

  28. 一読させて頂きました、貴君は自殺したことが有りますか。
    もし有ったとしても、成功していればこんな事も書けないんだよね。
    自殺もしたことの無い人に、自殺者の気持ちが分かるか。
    権助は死んだ、ペー子は今教会に通ってる、そのうち死ぬ(自殺)。

  29. 資源問題と環境問題を解決するために人口を減少させる必要があるのだから、自殺は善ではないのですか。

  30. 私は、教育投資への増加が結果としてもたらす少子化を推奨しているのであって、すでに生まれた人々を殺すことで人口を減らすことには反対です。一人の人間を育てるのにどれだけ多くの資源が使われているかを考えてみてください。自殺したら、その人へのそれまでの投資が無駄になってしまいます。資源の有効利用という観点からしても、推奨できません。しかし、最初から産まないならば、無駄になる資源はありません。

  31. >私の結論は、売買春の合法化は人口増加を抑制し、種の存続を危うくする(あるいは少なくともそう信じられている)から非難されるというものだ。(試論編「なぜ売買春をしてはいけないのか」から引用)
    「自殺はなぜ悪なのか」という問いに対する答えも、「人口増加を抑制し、種の存続を危うくするから」でよいのではありませんか。
     なお、『私は、教育投資への増加が結果としてもたらす少子化を推奨しているのであって、すでに生まれた人々を殺すことで人口を減らすことには反対です。』との御高説に異存はございません。

  32. 人口には、環境との関係で適正水準があり、この水準を上回れば減少させ、下回れば増加させる必要が出てきます。デフレで人口が余剰と感じられるようになると、戦争が起きて、「命の尊さ」といった徳目よりも「戦場での勇気」といった徳目が強調され、「正義」や「愛国心」の名のもとに、相互的な人口の削減が行われます。戦争が起きなくても、疫病や飢餓などにより、人口の調節が行われるでしょう。こうした野蛮な方法による人口削減は望ましくないので、それを防ぐためにも、事前に理性的な手段による人口増加の抑制が必要と考えているわけです。
    “「自殺はなぜ悪なのか」という問いに対する答えも、「人口増加を抑制し、種の存続を危うくするから」でよいのではありませんか。”
    本稿は、もっと哲学的、かつ根本的な問題を扱っていまして、その答えに対しては「では、なぜ私たちの種を存続させる必要があるのか」という問いが、さらに立てられることになります。

  33. 11年連続で日本の自殺者数が3万人を超えて、2009年は最悪の場合で5万人を超えると言う、「個人的な予測」が当たりそうな予感がします。これは日本の歴史上で長期的な「自殺大流行」と言えます。
    歴史的な観点では、戦国時代は平均寿命が現代の半分以下なのに、「合戦で負けた」、「謀反が起きた」と言う理由以外で、戦国武将で自殺した人なんかあまりいません。戦国時代の武士の発想は「落ち度のある主君に逆らってもいいが、死んではいけない」です。反対に江戸時代の武士は「自害する事は武士として美しい。しかし、落ち度があろうとも主君に逆らってはいけない」と言う「江戸時代流・武士道美学」に変化して、切腹などの自殺が急増しました。「平均寿命が延びたのに、江戸時代の武士(中・下級旗本・御家人、藩士)は長生きする事を嫌ったのか?」と言いたくなります。
    これは余談ですが、戦国時代は短命だったせいか、高齢者特有の病気の「神経痛」や「脳梗塞」、「心臓病」や「痴呆(認知)症」などが一般社会にあまり実例がなかったのです。これらの病気は平均寿命が延びた江戸時代に急増しました。今もそうですが、高齢化社会になると、これらの病気が増加するのは「避けては通れない」のです。
    この様に戦国時代と江戸時代では「死生観」が根本的に違うため、「自殺を美しい」と考えるようになり、それが現代社会の死生観にも若干影響していると言えます。
    「景気の変動」が自殺に影響しないのは、2001年以降の自殺者の統計を見ればわかります。むしろ「自殺しても文句を言われない」意識が固定されたと言えます。
    最近心配な事は30代の自殺が急増している事です。いわゆる「団塊ジュニア世代」を含む30代の自殺急増が、社会に大きな損失をもたらす事にあまり警鐘を鳴らす人はいません。これは意外です。この様な現状を踏まえて「小学校から自殺防止対策をとらないと、もう間に合わないのではないのか?」と最近考えています。うつ病も最近では大きな自殺の理由です。20代の私は「上記の対策」を文科省に提唱したいくらいです。
    「自殺は良くない」と考える人は多いんですが、有名人の人が「自殺未遂をした」、「かつて自殺を考えた事がある」と告白する事が意外に少ない。「自殺カミングアウト」が日本に浸透していないせいか、こういう姿勢に対する偏見が未だに根強い。
    この5年間で自殺した国会議員経験者が複数いるのに、「政権政党」たる自民党では、全くと言っていいほど自殺対策法の「進展議論」にすらなりません。2年前に現職閣僚が自殺したのは記憶に鮮明に残るのに、「わずか死後半年」で彼の自殺が政府・与党内では風化されました。これには激しい憤りを感じました。昨年5月の彼の1周忌の時はTV取材やニュース報道どころか、全国紙政治面の記事にすらなりませんでした。これには未だに違和感を感じます。「政治家の自殺」に対する社会の意識の低さには呆れます。今年5月の3回忌ではどう取り上げるのでしょうか?それとも「無視」するのでしょうか?以上で質問を終わります。先生のご回答をお待ちしています。

  34. “この5年間で自殺した国会議員経験者が複数いるのに、「政権政党」たる自民党では、全くと言っていいほど自殺対策法の「進展議論」にすらなりません。”
    一応、政府は、自殺対策をするそうですが、抜本的な解決策ではないので、税金の無駄という気がします。
    “政府は、それぞれの地域の実情にあわせた自殺対策が重要だとして、都道府県ごとに対策の実施に必要な経費を盛り込んだ基金を設ける方針で、向こう3年間の経費として総額でおよそ100億円を盛り込む方針を固めました。そして、相談に訪れる人への窓口での応対業務や、電話による相談体制の充実、それに自殺を考えている人が訪れる危険の高い場所のパトロール活動の支援など、5つのメニューを示し、その中から都道府県ごとに効果的な施策を選ぶことにしています。 ”
    [NHKニュース(2009年4月27日 )政府が自殺対策に100億円投入へ]

  35. 韓国ではこの2、3年で若手の芸能人が自殺する事が多く、大問題になっています。
    インターネットによる誹謗中傷を韓国の芸能人は重く受け止める傾向があり、精神的にショックを受ける事が最大の理由と聞きます。日本芸能界ではこういう事(誹謗中傷を苦にする自殺)はほぼ100%ありえません。
    同国は儒教とキリスト教の考えが「うまくミックス」している文化です。「自殺はいけない」という意識があると思うのですが、芸能人に限らず若者の自殺も大変深刻と聞きました。先生は日本人と韓国人の「悪口に対する受け止め方の違い」はどこにあると思いますか?日本人は「他人の失敗を大げさに言いふらす」という悪い国民性がありますが。

  36. 日本の芸能人、スマイリーキクチにネット上で誹謗中傷を繰り返していた人たちが、名誉毀損や脅迫容疑で書類送検されました。警察もようやく本腰をあげたようです。ネット上での誹謗中傷は、記録がしっかり残るし、身元判定も容易なので、警察にとっては摘発が容易です。むしろ問題は、表に出にくい、リアルワールドでのいじめでしょう。

  37. 保守的な人などに「死は美しく、生は穢れている」(=「死に際の美学」)という発想があるのは武士道思想の名残りでしょうか?また、歴史研究家などに「切腹は日本人として理想の死に方」という意見が一部であるのは、時代劇で若い俳優の切腹(忠臣蔵など)の場面が「絵になるため」でしょうか?確かに、歌舞伎以外では高齢の俳優の切腹の場面はありませんね。本気で日本人は「死ぬ事はうつくしい」(=「長生きはみっともない」と言う、うがった見方でもある。また、「あの人は10年前に死ねば、英雄になったのになぁ」と言う、生きながらえた人に対する軽蔑もある。「生き損」、「死に得」と言う発想)と考えているのでしょうか?「死に際の美学」(=「いまここで腹を切って、あの世でご先祖様に土下座をしよう」と言う考え)になるといかにも「武士道精神」ですが。また、武士道では殉死をいい事であるという発想もありますが、日本人の死生観の本質はどうでしょうか?
    (病気で)「美しいまま死にたい」、「人生の全盛時代にポックリ死にたい」(=「人生は腹八分で終焉を迎えるのが理想」という意見)と言う意見は私も少しわかるのですが。
    ただ、病気や処刑などの「自殺ではない死に方」をした短命の人は、「本当に悔いのない人生を送る事ができたのか?」と言えば、やはりちがいます。
    日本人は短命の偉人に惹かれる傾向(時々過大評価もある)があります。反対に長寿の偉人を無視(過小評価)する傾向が多いです。よく「天才は短命」と言うジンクスがありますが、でも、「1850年以降に死んだ人」だと日本人の比率が比較的多く、外国人は75歳以上まで長生きした人が多い。外国ではこのジンクスはあまり通用しません。

  38. (善悪と権利を混同しすぎたかもしれません)
    Wikipediaによると、「権利とは、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格」だそうです。
    死ぬ権利の否定は、生きる権利の否定でもあるのです。
    社会が死ぬ権利を否定するなら、「生きる権利」とはとても虚しい言葉です。
    納税の義務を、納税の権利と言い換えるようなものです。虚しい以前に、意味が違います。
    社会にとっても、望む人に安楽死する環境を用意するのも、良い選択のはずです。
    鉄道の惨状も減るでしょうし、新鮮な臓器を得られるかもしれません。
    本人も、悲惨な状態の死体をさらさずにすみますし、死の際の苦痛もありません。
    無産者の場合、労働力の損失にもなりません。周囲から目障りに思われながら生き続けるよりも、臓器提供して少しでも社会に貢献して死ぬ事を選ぶNEETも少なくないと思います。私だけということもないでしょう。
    善悪の問題から脱線しました。
    とりあえず、
    >「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。
    トートロジーのループを根拠にするのは賛成できません。反対です。自殺が悪であるという前提に、こだわりすぎではありませんか。

  39. “無産者の場合、労働力の損失にもなりません。周囲から目障りに思われながら生き続けるよりも、臓器提供して少しでも社会に貢献して死ぬ事を選ぶNEETも少なくないと思います。”
    この主張を逆に言うと、もしもニートが、働くことができるようになって、周囲から目障りに思われないようになったならば、その人は死ぬことよりも生きることを選択するべきだということですね。それならば、社会はニートがより自殺しやすい環境を作るべきだという結論ではなくて、社会は、ニートが持っている潜在的能力を引き出して、働くことができるようになる環境を作るべきだという結論を導くべきではないのですか。

  40. 返事を頂けて嬉しいです。
    「ニートがより自殺しやすい環境」と、「ニートが持っている潜在的能力を引き出して、働くことができるようになる環境」は両立できるはずです。
    どんなに働きやすい環境を整えても、働くことを選ばない、もしくは選べない人間は存在するはずです。
    私も、少しだけ働いたことがありますが、得られた金銭以上に、費やした労苦のほうが遥かに多く、労働はとても割に合わないと感じました。社への貢献以上の報酬を受け取ったにもかかわらずです。

  41. NEETとは、“Not currently engaged in Employment, Education or Training”の略ですから、失業していても、教育や職業訓練を受けていれば、ニートではありません。「得られた金銭以上に、費やした労苦のほうが遥かに多く、労働はとても割に合わない」と感じるのであれば、費やした労苦以上に金銭が得られる労働ができるように、教育や職業訓練を受ければよいではないですか。

  42. NEETといいましたが、「求職しておらず、教育も職業訓練も受けていない若年の無職」は「社会に貢献しない人物」のあくまで一例にすぎません。重要なのは、完璧な体制の下であっても、必ず少数の落ちこぼれが出るということです。遺伝子調整技術の進展によって、いくらか解決されるかもしれませんが。
    教育や職業訓練を受ければいいのは当然ですが、いかなる働きかけにも応じずにニート等のままでいる人物などもいるでしょう。無視できる程度の人数でしょうけども、0ではないはずです。病気や怪我、老いのために社会にとって有益ではなくなってしまう人もいます。ジョージ・イーストマンの最後は衝撃的でした。
    私の場合ですが、才能がありません。おそらく、これっぽちも。凡人並みならばまだいいのですが、高専に入学してたった半年で、学力不足のために、進学を断念するほどです。いわゆる不良ではないのです。とにかく驚異的なまでにとりえがありません。やたらとあごが強かっただけです。イヌイットには負けますが。
    診察を受けていないため、推測なのですが、人格障害もかかえています。決して教育や職業訓練に耐えうるほどの知的、人格的水準ではないのです。
    ですが、できないからしない、というよりはする気がないと言ったほうが正しいかもしれません。バッテリーのつきた自動車のような感じです。気力ややる気、または努力として現れるものが、備わっていないのです。生命の多様性が生み出す結果は、良いものだけではないのです。利点のほうが多いにしても。

  43. もちろん、失業者や自殺者の数は、社会がどのように改善されようが、ゼロになることはないでしょう。しかし、事実と当為は異なるのであって、事実がそうであるからこそ、失業者や自殺者をゼロに近付けるための努力を行うべきだということが私たちの当為となるのです。
    もしもあなたが、生命を無条件に否定するというのなら、私は何も反論できません。本文で述べたように、生きることを選んでいる私が「生命は善で、自殺は悪である」と言うことは、トートロジー的であり、根拠がないからです。しかし、あなたは生命を無条件に否定しているのではなくて、むしろ逆に肯定しています。「臓器提供して少しでも社会に貢献」するというこの考え方自体が、生命の肯定に基づいています。生命を肯定する者が、手段として自分の生命を否定するという場合、別の手段で以って、生命の肯定という目的をよりよく実現する代替策を提案することができます。
    あなたは、人格障害を抱えているといっていますが、特異な性格というものは、環境しだいで有利にも不利にもなります。性格や才能を変えるということは容易ではないので、無理に自分の周囲に合わせることなく、むしろ自分の短所が長所となる特異な環境(ニッチ)を見つけて、そこで活躍することをお薦めします。私もアカデミズムの落ちこぼれですが、自分のニッチを見出したことで、人生に満足できるようになりました。Gary 89 さんもがんばってください。

  44. この一連のコメントにおいて、私が肯定しているのは、個人の生命というよりは社会の生存、発展です。私は国家を個人に優先させるべきと考えていますし、永井氏もそう考えているとの前提で書き込みをしています。国家や社会の都合からいって、自殺は労働力、税収を減少させるために歓迎できず、全力を持ってとは言いませんが、コストパフォーマンスに見合う程度の力をつぎ込んで阻止するべきです。ですが、私は個人の意思に価値が無く、常に社会に支配されるべきだと考えているわけでもありません。さらに、私が国家や文化に価値を認めるのは単なる個人的な嗜好であり、哲学的な思索によるものではないのです。
    私は生命を無条件に否定しませんが、無条件に肯定することもありません。ただ本人が自身の人生に満足しているか、社会に貢献していないならば、その時点での、その人物の人生、生命に大した価値は認められないと考えています。
    仏教的な価値観から考えるならば、「転生」が無いなら、ただ死によって現世と苦痛から開放されるということになるため、転生防止の修行よりも、自殺こそが救いへの道となるでしょう。仏教に対する誤解が無ければ、自殺は転生を否定した場合には、(仏教的に)善とすらいえそうです。
    生命それ自体には価値が無いという立場からすると、自殺自体にも善悪が認められないでしょう。哲学的には、自殺によってもたらされる影響と自殺自体は区別して考えるべきでは無いでしょうか。
    生きることを選んだとしても、自分が生きることと他人が生きること、有意義に生きることと無為に生きることは区別して考えるべきだと思います。「自分が生きることを選んだ」としても、そう判断するのは条件が整っていたからです。「今は生きることを選ぶが、周囲の状況の変化によっては死を選ぶ」と考えるのであれば、「生を選んだ」からといって、自殺を悪だとする必要は無いはずです。
    収集のつかない駄文になってしまいましたね。あと、ニッチを見つけろ、とは昔から両親にも言われていました。たしかに私にも、なにか才能があって、どこか活躍のできるところがあるのかもしれません。仮にそうだったとしても、そのようなところが見つかるようには、とても思えないのです。

  45. 役に立たない人間を殺すあるいは自殺させることが、国家のため、社会のためになると思っているのですか。ある人が役に立つかどうかは、環境との相関で決まる相対的な問題で、特定の環境を基準にして、特定の優秀な人間ばかりを選ぶと環境の変化に対応できなくなってしまいます。人間が、一見すると役に立たない、あるいは劣っていると判断されるような人たちを生かし続けるのは、多様性を維持することで、予期せざる環境の変化に備えようとするからでしょう。各人が、自分に適合的なニッチを見つけて、そこで生き延びようとすることは、その人の幸福にとってのみならず、種全体の生存にとっても有益なことなのです。

  46. 多様性の減少という不利益があることは認識しています。しかし、元々死を望む人間は極少数ですし、社会の働きかけ次第では、現在以上に減ることになるでしょう。現在日本では年間三万人程が自殺で死亡していまが、政策等でこの値が減少している場合、社会や種の多様性に与える損害は、許容範囲内に留まるのではないでしょうか。
    自死幇助機関にについても、なにも無条件で希望者らに死を提供するべきと考えてはいません。対象者が有意義に生きる手助けをしつつ、それでも自身の生を選択しなかったなかった者にのみ安楽死の機会を与えるべきでしょう。
    最後の手段としての死を、たとえ限定的な形であっても選択できるようにしたなら、(しばし苦痛に満ちた)迷惑な死に方(鉄道への投身の経済的損失が多大である事は万人の知るところです)の防止効果等、少なくないメリットがあるはずです。
    各人が、自分に適合的なニッチを見つけて、そこで生き延びようとすることは、成功したなら当然その人の幸福となるでしょうが、誰もが必ずしも自身のニッチを見つけうる訳ではない以上、自分のニッチを見つけられなかった者への対応もあるべきではないでしょうか。私は所謂優生学の信奉者というやつですが、以下に無能であっても、(多様性を守るためにも)有害でもない人間を殺傷、迫害するべきだとは考えていません。自分の生死は自分で選択するべきだと思うです。

  47. 日本の自殺率は、先進国の中では最も高く、日本よりも自殺率が高い国は、社会主義の崩壊で経済が混乱した国々ばかりです[自殺率の国際比較]。日本ではドロップアウトした者に再チャレンジのチャンスを与えない事が最大の原因でしょう。この点は変えなければいけません[どうすれば労働者の待遇は良くなるのか]。
    日本は、一方で自殺を容認する文化を持つ反面、周囲に迷惑をかけることを恥とする文化も持っており、後者が自殺の抑止要因の一つとなっています。自殺は社会に経済的損失を与えるし、損害を被った人は自殺した人を恨むでしょう。自殺を減らすための社会構造変革を何も行わないうちに、この抑止要因を取り除くということはできません。日本では、医療現場での合理的理由がある安楽死ですら法制度化されていないのですから、ましてや、あなたが考えている、拡大解釈された安楽死までを容認する自殺幇助の合法化は、多分あなたが生きている間は実現することがないでしょう。

  48. 現状ではデメリットの方が大きいというわけですか。自殺が周囲にもたらす害が、抑止力となるというのは、余り意識していませんでした。
    確かに、自殺幇助サービスは、私が生きている間に、実現することがないでしょう。社会は人道性よりも経済的利益を重視しますからね。面倒臭がりだし。
    現状において、経済的な側面からメリットがデメリットに勝たないようだということはわかりました。では、「生きる権利」と並ぶ最も基本的な権利としての「死ぬ権利」を設定するというのはどうでしょう。以前書いた、死ぬ権利の否定は生きる権利の否定にも繋がるという考えです。

  49. 生きることは法的権利であって、法的義務ではありません。法的義務ならば、それを遵守しなければ、法によって処罰されるはずですが、法による処罰には死刑以上の刑がないのですから、自殺した者を刑で処罰することはできません。法は、せいぜい自殺幇助者を処罰することしかできないのです。安楽死や尊厳死の合法化をめぐる問題も、もっぱら自殺幇助に関する問題です。患者が、自分で勝手に生命維持装置を外しても、誰かが処罰されることはありません。ここで扱っている「自殺はなぜ悪なのか」という問題は、法の問題ではなくて、道徳の問題です。

  50. では、本題に戻ることにします。永井氏は「「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真である」、「生の内部にとどまる限り、生には絶対的な価値があるし、生のルールに従って行動しなければなりません。」と上で書いていましたね。生のルールというのは良くわからないのですが(現在生きていて、これから生き続けるのに有用なルールといったところでしょうか?)、要は「生きている=生に価値を置いている」であるということですよね。我々は生の内部にとどまっていますが、完全に無条件で生を選んだわけではないでしょう。普段意識することはありませんが、条件次第では死にたくもなるはずです。そこを「生の内部にとどまる限り、生には絶対的な価値がある」とするのは、論理の飛躍があるのではないでしょうか。

  51. “我々は生の内部にとどまっていますが、完全に無条件で生を選んだわけではないでしょう。普段意識することはありませんが、条件次第では死にたくもなるはずです。”
    はい、そうです。しかし、「死にたくなる人」は高い確率で死ぬので、多数派にはなりえず、したがって、「自殺は善だ」という主張は、いやそれどころか「自殺は悪ではない」という主張ですら、いつまでたっても少数派の意見で、多数派による承認を得られません。それが「自殺は悪だ」という価値観が現世で支配的である理由です。

  52. 大方納得しました。永遠に「自殺が悪だ」という価値観が、多数派の意見であり続けるとは限らないと思いますが。しかし、これからも長い間、多数派の意見であり続けるので、今のところどうでもいいことですけどね。

  53. 先日発表された、2008年の自殺者統計で50歳代の自殺者がこの10数年で最少になり、30歳代の自殺者が過去最多を更新したと聞きました。
    今の50代の人の方が60歳代の人よりも、物事の発想が大らかかつ楽天的で、前向きで辛抱強いのでしょうか?また、30代の人は物事を悲観的に考えるのでしょうか?ちょうどこの世代の半数は「団塊ジュニア世代」になります。また、「人命」に関しての発想が違うのでしょうか?
    10~30歳代(つまり39歳以下)の自殺者の数は07年よりも増えております。
    10代の自殺の要因で、「いじめ」が最大要因と考えるのはもう改めるべきでしょう。経済的要因と心身的要因もかなりのウェートを占めています。
    余談ですが、経済統計などでの「無職」は政府の定義では、定年退職者が含まれているです。「無職(つまり大多数は「失業者」)の自殺者がかなり増えた」と言いますが、定年退職者は「無職=失業者」から外すべきだと思います。「完全失業率」はこの人たちを入れているらしいです。近年は団塊の世代の定年退職があって、これらを除くと去年や一昨年の「失業率の実質水準」は3%台前半~4%ではないでしょうか?

  54. “2008年の自殺者統計で50歳代の自殺者がこの10数年で最少になり、30歳代の自殺者が過去最多を更新したと聞きました。”
    それは、団塊の世代(1947-1949年生まれ)が、50歳代から60歳代に移行しているからでしょう。この世代は、過剰な競争に晒されてきたので、昔から、他の世代より自殺率が高いといわれています。団塊の世代の子供が団塊ジュニアで、この世代も層が厚いので、過剰な競争に晒されています。特に、大学を出た時が就職氷河期であったために、正社員になりそこなった人たちが多数います。

  55. 団塊ジュニア世代に自殺者が多い傾向は、当面続くでしょうね。
    ただし、今の団塊の世代がリストラや倒産による失業で苦しんでいた、平成10年代初頭で見ると「当時の50代」の自殺者が多いのは事実です。数が多いですからね。今の50代前半の人は数が減っている時期の世代です。
    ただ、「自殺者の平均年齢」が若くなる事が懸念されます。年配者が減る一方で30代以下が「カバーする」様に増加していますからね。
    どちらにしても今後の統計が心配です。今年は4万人を超える可能性もあります。
    NHK教育では今年月に1回~2回の頻度で自殺問題を取り上げてきます。
    若い世代が「将来に不安を持つ」のはいつの時代(戦国時代や戦争中にもそういう風潮はある)でもありましたが、ただ「デフレ人生」になりがちな世の中の風潮の中で、若い世代が「生きる糧」を見つける手段はありますか?特に高校・大学時代で。

  56. 高校生と大学生に対するアドバイスとしては、自分の長所を見極めて、早くから専門的能力を鍛えるということと、選挙権を手に入れたら、自分たちの権利が政治的に損なわれないように、これを行使するということです。

  57. 色々試してみても、長所が見極められなければ、どうすればいいですか。

  58. 「好きこそ物の上手なれ」ということわざにあるように、まず自分の好きなことを集中的にやりましょう。何であれ、その分野を極めれば、そこからプロになる道が開けてくるものです。

  59. 「自殺は悪」の結論が、「自らの生命を価値判断の基準」であるならば、年間の殺人被害者が1500人ほどであるのに対して、年間自殺者が3万人を超えるのはどうしてなのでしょうか。
    「殺人を犯してはいけない」ことが「自殺は悪」という論理から帰結されるのであれば、現実とかけ離れている気がします。
    私の認識が間違っているのでしょうか。ご意見を伺わせてください。

  60. 自殺する人の圧倒的多数は、生命に価値を認めない人ではなくて、生命には価値があるけれども、苦痛に満ちた人生は生きるに値しないと考えて自殺を選んでいるのでしょう。だから、生命そのものに価値があるかどうかという議論と、生命と快楽のどちらにより多くの価値があるかという議論は区別して考えるべきでしょう。

  61. 哲学的にいえば、自殺が悪かという問いの先には、悪とは何かという問いが出てくることになり、永遠に収束しない議論の連鎖に陥っていくでしょう。神という存在を絶対なものとして定義したとき、その前提における世界のなかで、自殺は罪であることは間違いありません。罪であるが、悪ではないといえるかもしれません。殺人よりも、自殺が多い日本においては、他人に対して何かすることよりも、自分に対して何かする方が、楽であり罪の意識が低くなるからだといえるでしょう。でも、神の視点でみると、どちらも同じ殺人です。罪の重さに変わりはないということになるでしょう。そして、それを認知するのは、死という扉の先でしかありません。

  62. “哲学的にいえば、自殺が悪かという問いの先には、悪とは何かという問いが出てくることになり、永遠に収束しない議論の連鎖に陥っていくでしょう。”
    生命システムの維持発展に役立つものが善で、そうでないものが悪です。自殺が許容されるのは、他の生命システムの維持発展に役立つと判断されるときであって、自殺一般が善いということにはなりません。

  63. 「戦没者慰霊祭」や、警察や消防などの「殉職者供養式典」、また「殉職建設作業員慰霊祭」などが行われていますが、3万人を超える自殺者は供養されません。これは何故でしょうか?「良くない死に方をした人を、きちんと供養しないと良くない事が続く」と言われます。自殺者は「供養しなくてもよい対象」なのでしょうか?大げさに言うと、「国や官庁を挙げて丁重に供養」してほしい(公人の場合でも同じです。2007年5月に自殺した松岡利勝元農水大臣は、没後わずか半年弱で自殺が風化されています。今、自民党や農水省では松岡氏の一件を「タブー視」しているようです。松岡氏の死後に補選で当選した後継議員が、とんでもない発言をしても旧後援会や遺族が抗議しないから)のですが、現実にはそうはうまくはできません。また諸外国では「自殺急増」と言う事態に、どういう対策を執るのでしょうか?外国は学校教育での取り組みが、日本とは全然違うと聞きます。個人的希望としては「NPO団体レベル」でもいいので、年1回供養式典をしてほしいです。特に「鉄道自殺」した人こそ丁重に供養すべきだと感じるのですが。「自殺者の親族や知人がきちんと供養すればよい」と言う考えなのでしょうか?最後に余談ですが、現在の葬儀会社は葬儀の前に故人の死因を遺族から聞く事はありますか?

  64. 「良くない死に方をした人を、きちんと供養しないと良くない事が続く」というのは、日本の伝統的な怨霊信仰ですね。

  65. 自殺者の数を減少させる効果的な対策はありますか?
    「失業者の数が減ると自殺者の数を減らせる」と言われますが、それ以外で効果的な手段はありますか?極論になる「自殺禁止法を制定する事」は除いて。ただ、選挙マニフェストでは(おかしな話ですが)「税金の無駄遣い」と言う批判が来るので、与野党ともに提示できないと言われます。社会構造的な問題が絡むので、「これだ!」と言える対策ができないのが事実です。
    自殺者減少は不可能ではありません。交通事故死者数はこの10数年で、官民上げての「国民的努力」で、1990年代半ばの半数以下に減りました。対策での「具体的成功例」があります。

  66. 自殺者の数を減少させるのに必要なことは、選択の自由を増やすことです。追加的な財政支出は不要です。これについては、また改めて詳しく書きます。

  67. 後日の追加記載の予告、ありがとうございます。選択の自由とは「職業的な意味」ですか、「ライフスタイル全般」ですか?
    最近この項目にちょくちょくコメントをしたのは、今年上半期の自殺者数が1万7000人を超えてしまい、「過去最悪更新」のペースになっている事です。
    地域的に見ると沖縄県が前年(08年)比50%増など、と極端に増加している所が目立ちます。沖縄県の場合は自殺動機のうち、「経済的要因」のウェートが急増したと思います。一般的には「寒い地域の人は自殺するが、暖かい地域の人は自殺しない」と言われていました(これは「県民性」が影響しているか?)が、これはもはや当てはまらないと思います。永井先生の分析を後日見てみます。

  68. 改めて投稿します。9月に政権交代があり、自民党主導から民主党主導の政策へ以降しました。今年になってから1ヶ月単位での自殺者数を公表していますが、下半期になってから急に新聞での扱いが小さくなりました。世論が不況で大型経済対策を求める中、社会が自殺問題に関心が薄いのでしょうか?「男女別・世代別の自殺者減少策」としてどういう事を実行すればいいでしょうか?案として政府広報や「公共広告機構」で自殺防止に向けたCMを(日中に)もっと放送するべきです。20歳代男性と70歳代女性とでは経済、健康、家族構成などに違いがあるので、ひとくくりに考えるのは難しいです。総務省や厚生労働省が与党と連携して自殺者を減少させるべきですが、1990年代半ば(この時期はいじめによる子供の自殺が多く起きた)まで日本社会が自殺に対して、真剣に向き会っていなかったと言う指摘もあります。ただ、「子供の自殺」には対策を立てても「大人の自殺」に無関心だったとの指摘も。

  69. 平成21年の月別の自殺者数について」によると平成21年の3月と4月に自殺者が3000人を超えましたが、その後は、減少しています。それでメディアも取り上げなくなったのでしょう。景気回復が大きな要因のようです。景気以外に重要な要因としては、前回書いたように、選択の自由があります。現状からの脱出口が見つからないとき、人は、あの世という最後の脱出口に逃げようとします。だから、自殺を防止するには、この世にたくさんの脱出口を用意しておくことが重要です。
    以下は、WHO(世界保健機関)の統計による、世界103か国中、自殺死亡率が最も高い10カ国のリストです。
    1. ベラルーシ(03年) 35.1(男性63.3、女性10.3)
    2. リトアニア(07年) 30.4(男性53.9、女性9.8)
    3. ロシア(06年) 30.1(男性53.9、女性9.5)
    4. カザフスタン(07年) 26.9(男性46.2、女性9.0)
    5. ハンガリー(05年) 26.0(男性42.3、女性11.2)
    6. 日本(07年) 24.4(男性35.8、女性13.7)
    7. ガイアナ(05年) 22.9(男性33.8、女性11.6)
    8. ウクライナ(05年) 22.6(男性40.9、女性7.0)
    9. スロベニア(07年) 21.5(男性33.7、女性9.7)
    10. エストニア(05年) 20.3(男性35.5、女性7.3)
    [出典:日本の「自殺率」は世界6位 – ニュース-BNNプラス北海道365,参考:WHO | Suicide rates per 100,000 by country, year and sex
    これを見ると旧社会主義の国が多いことに気が付きます。ほとんどが、旧ソ連邦構成国であるし、南米のガイアナも社会主義政策を推進していました。選択の自由が少ない社会主義システムが、経済的に崩壊するとき、自殺者が増えるということができます。日本における自殺者の急増に関しても、同様のことが言えます。

  70. 自殺とは一種の自然淘汰なのですから、その善悪を議論しても無意味です。

  71. 私の私見ですが、自殺=悪・罪になった根拠って、美しい道徳感や哲学や宇宙観、理念などからでは無いと思います。
    単純にキリスト教の影響からではないでしょうか?
    奴隷船でアフリカから連れて来られた奴隷達は苛酷な労働、環境を強いられ、又、奴隷達は競り落とされた所へそれぞれ連れて行かれた為、家族が離れ離れになってしまい、もう生涯会えないと悟った奴隷達は生きる望みを失って自殺したくもなっただろうと思う。
    しかし、せっかく奴隷商人から奴隷を買い取った農園主にとっては買い取った奴隷に死なれては困るのである。
    当時は政教分離ではなく教会と政治と大商人がタッグを組んでルールを決めていたから大農場主達の要望か何かでキリスト教を黒人奴隷達に広めて心の慰めにさせたのと同時に自殺禁止にしたのではないでしょうか?
    アメージンググレース(黒人哀歌)という曲は、理不尽に奴隷船に乗せられアフリカ
    の地から連れて来られて苛酷な生涯を送り死んでいった黒人達を悼む歌だと聴いたことがあります。
    だから黒人哀歌を白人(奴隷扱いしてきた者達の子孫)に歌われても、黒人さん達(奴隷の子孫)は癒されるどころか複雑で苦しい思いに駆られるのではないでしょうかね~
    だから・・・何故、「自殺=悪」なのかは「自殺=悪」と決め、ルールに従わせる事が決めた人間達にとって好都合だったからでしょう。

  72. 僕は正直、自殺する人、馬鹿じゃないの?
    って思ってます。確かに苦しみから解放されたい気持ちになる人もいると思います。それはしょうがないと思います。
    もし誰かが自殺したとします。
    そうしたら誰かがその死体を処理しなければなりません。
    もしビルから飛び降り自殺したら、ビルの人が困ります。
    死ぬときまで人に迷惑をかけることになります。
    死んだ人はすっきりでしょうが、それのせいで迷惑をかけられた人は、うっとうしいだけです。
    変な日本語ですいません。

  73. 自殺を肯定するような社会(=生命に価値を置かないような社会)は自殺者が頻発して社会を維持できなくなるので、現在観測される社会は自殺を悪とする社会となっているというだけなのではないでしょうか。
    そのような社会が淘汰されるのに十分な時間が、人間が社会を作り始めてから経過しているのか?といわれそうですが、そこはそういうことなんだと思っております。

  74. 昨日、年間自殺者が12年連続で3万人を超えた事が確定しました。「自殺率」で見ると若い世代の自殺率が過去最悪を更新しました。自殺動機はまちまちですが、若い世代は自殺に対してためらいを感じないのでしょうか?欧米では学校や教会などで低年齢のうちから自殺防止の指導をしていると聞きました。以前にもご回答いただきましたが、若い世代の自殺対策で民間レベルでできる事はありますか?例えば学校・公民館などでの自殺防止の講演会などがあります。日本の社会は「自殺をしようかどうか悩んでいる」と言う相談を、あまり他人(第三者)にできないのも影響していますか?自殺した人は他人に打ち明けないと聞きます。

  75. 2009年に自殺者が増えたのは、リーマンショックによるリセッションが原因です。
    “昨年一年間の県内の自殺者数は千七百九十六人(前年比百四十三人増)で、統計を取り始めた一九七八年以降、過去最多だったことが県警のまとめでわかった。自殺の理由別では失業、倒産などの「経済・生活」が前年比六十人増の四百十一人に上っており、県警生活安全企画課は「各年代とも最も多い理由は健康問題だが、経済状況の悪化も影響しているのでは」と分析している。”
    [東京新聞(2010年5月14日)昨年の自殺者 過去最多の1796人 『経済・生活』理由が急増]
    “遺書などから動機を特定できたのは2万4434人。52項目(複数選択可)に分けられた動機のうち、健康問題が1万5867人と最多で、中でも「うつ病」は6949人で全項目中トップ。2番目に多かった経済・生活問題を動機とした8377人の分析では、「失業」が前年より65・3%増の1071人。「就職失敗」354人(前年比39・9%増)、「生活苦」1731人(34・3%増)も含めると全体の約4割を占め、雇用や家計の深刻さもうかがえる。”
    [読売新聞(2010年5月13日)20~30代自殺率、最悪…動機に生活苦]
    うつ病の原因をさらに探ると、職場での成績不振や、経済的な将来不安もあるでしょうから、健康問題に分類されている場合でも、経済問題が本当の原因ということもあるでしょう。
    ところで、警察庁の調査結果によると、各年代別の人口10万人当たりに占める自殺者の割合は20歳代が24.1人で、30歳代も26.2人と、前年に続き過去最悪を更新したとのことですが、この年代は、非正規従業員の割合が高いから、真っ先に解雇されたり、企業が新卒採用を縮小することで、就職浪人になったりして、不況のしわ寄せを集中的に受ける年代なのです。

  76. 素朴な疑問ですが、昭和50年代初頭まで警察庁が自殺者の統計を発表しなかった理由はなぜですか?「統計としての必要性がない」からですか?もしかすると1970年は自殺者の数より交通事故死者の数の方が多いと思います。

  77. 自分は子供の時にあることがきっかけで脅迫神経症になり以降そのまま成長していきました子供時はとにかくこの恐怖で頭の中が支配されていて1日中365日起きている限り恐怖の中にいました。そしてその恐怖がどんどん悪化していき大きくなるころには幻覚や目眩なども起きていてもう生きていること自体が罪であるかの用に感じられるほど精神はめちゃくちゃでした。
    そんな時に図書館で精神病の本見つけてと読んだときに初めて自分が病気なのだと知りました。
    自分が病気だと知ったことでなぜ今までこのこと知れなかったのかという今までの自分の人生の恐怖絶望後悔がやってきて死ぬことに頭が支配されましたがなんとかこれに耐えることができ今の状態をどうすれば改善できるかを考えることで最悪の状態からは抜け出すことはできました。
    その後自衛隊に入隊しましたが精神は最悪の状態を抜け出しているだけで根本的に今までの自分と向き合える状態でなく幾分脅迫観念が弱くなった感じでしたが何とか5年間勤めることができました。
    その5年間で自分の心に前を向いて歩いて行こうという思いが強くなっていましたがそれでも脅迫観念が消えることなくあり続けていて病院などにも通いましたがなかなかうまくいきませんでしたそこで自分と向き合おう考え半年間自分と対話していきだんだんと自分の中に入っていける用になりましたそして気がついてしまったのです今までの人生について自分と向き合う前までは過去のを気にする余裕も無く恐怖と戦うことで一日が過ぎていましたしかし向き合ったことで自分の人生の意味無さ・恐怖・後悔・絶望が自分に襲いかかってきたのです。
    それは前に自分が病気だと感じた時に感じたものを遥かに凌駕するもので死ぬことしか考えられないほどでした。
    そうして死ぬためにどうすればいいのか調べ始めました死ぬことを調べている時は心が落ち着きます楽になれる今までの人生の意味無さ・恐怖・後悔・絶望から開放されるそして首吊りが一番簡単で苦痛も少なく成功率も高いと知り早速ロープを購入して家の周りの山や土手に行きいい感じの木を探しましたがなかなか無く最終的に家に植えてある木で実行しようとしました家の木にロープをかけて首を入れて体重をかけると数秒で意識が遠のいていくのを感じましたしかしそこで思いとどまりましたここで首つってももしかして一定時間内に見つかり蘇生され障害が残る形で意識が戻る可能性あるのとここで死ねば家族が遺体を見つける確率が高いのでそのことに少し抵抗を感じました家族は嫌いではありませんしただ馬鹿ですが(涙)
    しかし他に首吊りができそうな場所も無いのでしょうがないのでぶら下がり健康器を購入これでいつでもこの世界から開放されると思うと気持ちが楽になり心が楽になったそこで死ぬこと自殺について考える気になったのでいろいろ考えた自殺は悪いことなのかと?生きることは善なのかと?それは絶対的な答えはないと思うそんなもの在ったらとっくに答え出てるだろうしそれに人は60億人いれば皆違う遺伝子で皆違う環境で育った以上答えは出るはずがない60億人いれば60億の世界があるのだから要する人は自分を中心にした世界で生きているのだからその自分が善だと思え思えば善で悪と思えば悪になる
    社会的観点とか観点を広げればまた違う答えも出るだろうが善悪は自分で決めるものだと思うそして俺は自殺は悪ではないと思うこれは自分の人生をを振り返った自分の結論だし自分の世界は唯一無二であり全く同じ経験したことのあるものは存在しないのだから否定することはできないと思う
    世の中答えのない問題に絶対的答えををだそうとしすぎな気がする

  78. 自殺したいとする欲求が、自殺したくないそれ(例えば、想像する自殺の苦痛など)を上回ればするだけだ。自殺をしたくない欲求が高いため、現在に至るまでしないだけだ。

  79. 自分が自殺するか否か と 他人が自殺するのを是とするか非とするかを分けて考えてみますね。
    前者、自分が自殺するか否か ですが、現状ではまず自殺しないだろうと思います。しかし、自殺された方々もずっと自殺願望を持っていたワケでなく、何かのきっかけなり要因があって、徐々に自殺に近づいていったのでしょうから、私がそのような状況にならない保証はありませんし、近づいていく過程において、今の自分の判断と変わらない判断ができるという保証もありません。私の親戚(特に母方の祖母方面)は自殺された方も多いので、私自身自殺しないという保証はないなと考えています(遺伝的要素が強いという仮定ですけど)。
    後者は私の中で単純明快です。ある2つの集団がいます。片方は自殺肯定、もう一つは自殺否定。どちらの個体数がより増え多数派となり得るのでしょう。私は後者だと思います。自殺否定が自殺抑止力となり、その分個体数の減少を防げるからです。その多数派が今日いる方々と考えたら、自殺否定が「常識」なんじゃないでしょうか。
    自分が自殺しないという保証はない と書きましたけど、多くの方は他人の自殺を食い止めようとするでしょうから、結果的に自殺する確率はある程度は低くなるんでしょうね。
    遺伝的要因ならば、その遺伝子が後世に受け継がれなければいいだけなんですけどね。何かしら生存に寄与する側面もあるということなんでしょうかね?鋭敏さが過ぎると自殺するとか?ちょっとしたさじ加減なのかも知れませんね。
    神風特攻は、ちょっと違う類のお話かと思います。ハチは外敵に針を刺して自分は死にます。外敵に対しての徹底的な警告です。何年か前ハチに刺されましたけど、未だに恐怖心が残っています(笑)。集団(巣)が守られることで、種が受け継がれていくのでしょう。
    善か悪かって難しい問いですね。生命は生命を受け継ごうとしますし、受け継ぐことに長けた生命が(世代を超えて)生き続けているとも言えます。個々の生命はそれだけです。善も悪もなく、単純にそれだけなんだと私は思います。

  80. 違うことを思いついたので、書き残しておきます。
    種を残したあとの自殺は、自分が消費する予定だったリソースを子孫へ提供し、結果、子孫のその後の生存確率を上げる可能性があるのかもしれません。

  81. 人間が、生殖能力を失った後も生き続けるのは、子供の教育に時間がかかるからでしょう。高齢者には人生経験と言うリソースがあり、そのリソースを子孫に伝えることで、子孫の生存確率を高めるという考え方もあると思います。

  82. コメントありがとうございます。確かにその通りですね。
    あとは、どちらのリソースがその局面においてより重要なのかだと思います。例えば食料が極めて残り少ない状態の場合、人生経験というリソースの重要度は相対的に下がるのではないかと思います。今よりずっと苛酷だった頃(例えば氷河期)は、苦渋の選択を迫られる場面もあったのかもなぁと思いました。
    「子孫のために」となると世の中的には美談の類に扱われることが多いので、我々の常識的な部分で、このような行動を容認する節があるように思われます。

  83. 「人間とは何か」を問われれば「人間とは自殺する動物である」と定義したいほど、事情次第で自殺はだれにでも実行し得る身近な問題だと思います。 一口に自殺といいましても、実行にいたる過程には「経済的」「社会的」「精神的」各自なりのやんごとなき事情が背景にあり、生きる側の論理のみで、その是非を問うことなどできようものか、おおいに疑問を感じます。 一時期“同情するなら金をくれ”という言葉が流行りましたが「自殺は悪だ」とする世論に対し、その防止のために何をする意思がありや、問いたい。 情緒に支配された多くの良心が、呵責を無関心に追いやるに違いありません。
    肯定はしないまでも、自殺容認派として意見を述べさせていただけば。 事情はともかく、自殺が社会悪として扱われる理由のひとつに、不特定多数の平穏な日常に突発的かつ衝撃的に持ち込まれる、その凄惨さがあると思います。 緊急避難的に与えられた人間の最たる特権とはいえ、それさえも人迷惑を考えて思い止まり、生死の間をさ迷う自殺予備者も実行者の十倍、二十倍、あるいはそれ以上に達するのではないでしょうか。 
    思想の自由が保証され、利便性がこれほど進歩した今日においても、受け入れざるを得ない誰にでもかならず訪れる死をハッピーエンドとする努力が、なぜこれまで宗教界や思想界でなされてこなかったのか不可解でなりません。 今日の意識レベルで実現を期待するのは到底無理とはいえ、公認安楽死(自死)施設なるものを世界に先立って整備する努力に着手することを切に望みます。 それにより実行者の再考を促す最後の機会も得られます。 人間、世間に醜態をさらす迷惑を回避し、いつでも安心して死ねる、という保証があれば、かなりの人たちが、もう一頑張りしてみようという意欲を再起する可能性も多分にあると思います。

  84. 東日本大震災が今年の自殺統計にどのような影響を及ぼすでしょうか?被災者には高齢者の人が多いそうなので気になります。
    阪神大震災の1995年当時は全国的に自殺者が急増した(自殺者が急増したのは3年後の金融危機だった1998年)と言うような統計は出ていないです。局地的な自殺者増加はありえそうです。ただ、今回は東日本が(経済的・気分的に)沈滞する影響はまだ尾を引きそうです。
    ニュースとかで耳にしますが「地震うつ」と言う言葉があり、最近自殺した女性タレントがそれに該当するとの噂があります。必ずしも日本国民全員に該当しませんが。

  85. ここは、「自殺はなぜ悪なのか」を議論するページであって、「人はなぜ自殺をするのか」を論じるページではありません。そういう話題で議論したいのであれば、システム論フォーラムで「日本人はなぜ自殺するのか」といったスレッドを立てて投稿してください。

  86. 私は、教育投資への増加が結果としてもたらす少子化を推奨しているのであって、すでに生まれた人々を殺すことで人口を減らすことには反対です。一人の人間を育てるのにどれだけ多くの資源が使われているかを考えてみてください。自殺したら、その人へのそれまでの投資が無駄になってしまいます。資源の有効利用という観点からしても、推奨できません。

    そーゆーのを埋没費用(サンクコスト)と呼ぶのでしょう?
    自殺志願者に告ぐ。自殺するかしないかを決断する際に、サンクコストを考慮する必要はない。

  87. 引用された文章は、他人の自殺を容認してはいけない理由であって、自分の自殺の話ではありません。自殺する人の中には、自殺する瞬間に後悔する人もいます。本当に生き続けることが嫌なのか、立ち止まって考える必要があります。

    13階から飛び降り「直後に後悔」自殺未遂者語る. 下地毅. 2016年9月11日10時44分. 朝日新聞デジタル.

    いち、にの、さん――。大阪市内のマンション13階の通路に腰掛けていた女性は心の中で数をかぞえ、重力に体を任せた。覚悟を決めたはずだったが、ゆっくりと落ちていく感覚の中、恐怖と後悔、絶望が襲ってきた。「死にたくない」

    数日後、意識が戻ったのは病院のベッドだった。骨盤を含む下半身の骨はすべて砕けていた。医師によると、たたきつけられた所が砂地で、クッションのような役割を果たしたという。手のひらには、多数の擦り傷。落ちていく時に近くの木の枝をつかんだことも、一命を取り留めることにつながったかもしれないとのことだった。

  88. 本来、生物の進化の途上においては、突然変異的に『自殺は悪である』と考えた個体も、『自殺は悪ではない』と考えた個体も、どちらも同様に存在したはずです。
    しかし後者のような個体は、前者のような個体よりも、生存する確率及び子孫を残す確率が低くなることでしょう。
    疑う余地なき絶対的真理として『自殺は悪である』と、それこそ狂信的に信ずる個体でなければ、厳しい自然環境を生き残ることは出来なかったはずです。
    仮に、自然環境が『自殺は悪ではない』と考えた方が生存確率が上がるような、そんな環境だった場合には、『自殺は悪ではない』という価値観こそが、絶対的真理になっていたはずです。
    つまり、今日我々が『自殺は悪である』と認識している理由の大本を辿れば『偶発的な突然変異』と『それにたまたま合致した自然環境』というものに帰着するように思います。
    そして、自殺の善悪に限らず、全ての価値基準は、偶発的に自然環境と合致した結果の産物であるように思います。
    偶発性というものに『何故そうであったか』という理由は存在しません。サイコロを振って1が出たとして、そこに1が出た理由は存在しないのと同様です。
    ただ「1が出たから、1が出た」だけなのです。別に、2でも3でも4でも5でも6でも構わなかったが、とにかく何れかの目は出なければならない。そこでたまたま1が出た。そこに理由は存在しないように思います。
    ですから、全ての価値基準には、納得できる論理的な理由など存在しないのではないでしょうか。
    偶発性が理由である以上、『自殺は悪であるから、自殺は悪である』という閉ざされたループを打ち破ることは、やはり不可能であるように思います。

  89. 自殺が悪であるのは、みんなが頑張って苦しい中で頑張って生きてるのに、世の中自殺してもいいという風潮になると精神的な悪影響が出るからでしょうか?
    日本人は、集団行動を好みます。

    最近、疑問に思ったのですが、確かに少数に自殺を肯定する人はいますが、やはり大多数は自殺を止めるのに、自殺者が出ると天国で安からに眠ってとか苦しみから解放されて良かったねと言う人が多いようですが、そういう人は自殺を肯定してるのかよく分かりません。かわいそうだからと言いますが、自殺願望や志願者には甘えるな、生きたくても生きれない人もいるんだと厳しい意見なのに、なんで自殺後には急に優しくなるのでしょうか?

    あと、自殺を認めたら他人に自殺するように言ったり、殺人にも抵抗がなくなっていくような気がします。

  90. yuna67さんが書きました:

    大多数は自殺を止めるのに、自殺者が出ると天国で安からに眠ってとか苦しみから解放されて良かったねと言う人が多いようですが、そういう人は自殺を肯定してるのかよく分かりません。かわいそうだからと言いますが、自殺願望や志願者には甘えるな、生きたくても生きれない人もいるんだと厳しい意見なのに、なんで自殺後には急に優しくなるのでしょうか?

    生きている間は「良薬は口に苦し」ですから、相手に改善の努力を促すために厳しいことを言うことに意味があります。しかし、いったん死んでしまうと、もう生き返ることができない以上、厳しいことを言っても無意味になります。「死屍に鞭打つな」と言うのはそのためです。自殺した人が、努力して生き返ることができるようになるなら、話はまた別になるでしょう。

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