5月 132000
 

カオスは日本語の混沌に相当する。しかし、カオスはたんなる無秩序ではない。カオスとは何か。非線形で非決定論的であるにもかかわらず、なぜカオスは不可知論を帰結しないのかを考えよう。

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カオス性を持つローレンツ方程式の解軌道。“Projection of trajectory of Lorenz system” by Wikimol is licensed under CC-BY-SA.

1. なぜ自然科学は決定論的であったのか

ある晩のこと、一人の酔っぱらいが電灯の下で何かを探していた。

通行人:何か探しているのですか?

酔っぱらい:財布を落としたので探しているのだよ。

通行人:電灯の下で落としたのですか?

酔っぱらい:いや、そういうわけではないのだが、電灯の下は明るくて探しやすいから、電灯の下で探しているのだよ。

近代の自然科学は、この酔っぱらいと同じようなことをやってきた。しばしば自然科学は人文科学や社会科学よりも厳密だと言われるが、自然科学は厳密な数学的分析ができる分野でしか研究をしてこなかったというのが実態である。しかし近年のカオスの科学は、そうした視野の狭さを超えて、理系と文型の壁を崩しつつある。

2. カオスは非線形である

まずカオスとは何かから説明しよう。カオス(混沌)という言葉は、日常的には、たんに無秩序を意味する言葉として使われるが、複雑性の科学では、確定的な非線形の規則にしたがって、予測不可能な不規則な振る舞いをするシステムのことを表す専門用語として使われる。複雑系とカオスを同一視する研究者もいる。

非線形とは、1次関数のような線形ではない関数のことを言う。例えば、

f(x)=4x(1-x) (ただし0≦x≦1)

というロジスティック方程式は、2次関数であり、放物線を描くので、非線形である。このロジスティック方程式は、限られたある領域に分布する生物のある世代の個体密度x(満員は1、絶滅は0)が、次の世代にはどうなるかを表した写像である。4xは、平均4の子供を産むということであり、(1-x)が掛けられているのは、個体密度が高くなると、資源の不足や争いの増加などで増殖が妨げられるということを表している。この単純な写像を何世代にもわたって適用すると次のような結果が得られる。

ロジスティック方程式のカオス的振る舞い
世代個体密度 1個体密度 2
00.400000.40001
10.960000.96001
20.153600.15357
30.520030.51995
40.998400.99841
50.006410.00636
60.025470.02526
70.099280.09850
80.357680.35518
90.918980.91610
100.297820.30743
110.836500.85167
120.547070.50531
130.991140.99989
140.035140.00045
150.135610.00180

これを見てわかるように、個体密度は一定の値に収斂することもなければ、周期性を見せることもない。この世代数を無限に大きくしていくと、スーパーコンピュータですら個体密度を予測することができなくなる。このように、単純な確定的規則に従いながら、無秩序で予測不可能な振る舞いを見せるシステムがカオスと呼ばれるのである。

3. カオスは非決定論的である

カオスのもう一つの特徴は、初期値敏感性である。個体密度1と個体密度2では、初期値が0.00001しか違わない。通常この程度の誤差は有効数字外として無視されるのであるが、15世代目を見てみると、まったく違う結果が帰結していることに気が付く。こうした初期値敏感性はバタフライ効果とも呼ばれている。蝶々が羽をパタパタしたことで、そうでなければ、発生しなかったであろう台風が発生するというわけである。これはやや誇張されすぎだが、気象現象は典型的なカオスで、天気予報官が、明日の天気を高い確率で予測できるのに対して、10日以上先の天気となるとまったく予測できないのは、バタフライ効果のおかげである。

このバタフライ効果は、近代的な決定論を突き崩すことになる。ガリレオやニュートンを嚆矢とする近代自然科学のパラダイムは機械論的決定論であった。19世紀のフランスの数学者ラプラスは、自然界はすべてニュートン力学的運動をする粒子から構成され、厳密な因果法則によって縛られていて、現在の初期条件と束縛条件をすべて認識する悪魔的能力があれば、未来の任意の時点におけるすべての粒子の状態を予測できると考えた。人間が未来を正確に予測できないのは、そうしたラプラスの悪魔ほどの認識能力がないからで、自分は自由に行為しているという人間の幻想とは裏腹に、すべてはあらかじめ決定されているのだというわけである。ニュートン力学は、現在でも限定的な妥当性が認められているが、ニュートン力学を不当に拡張するとこうしたラプラスの悪魔を生むことになる。

機械論的決定論は、人文科学や社会科学にも大きな影響を与えた。観念論的哲学者は、自然の必然性から自由意志を守ろうとあらゆる抵抗を示した。社会科学者は、自分たちが蓋然性に基づく議論しかできないことに劣等感を抱き、歴史の必然的「法則」を見つけようとやっきになっていた。近代ブルジョア科学のイデオロギー性を批判していたマルクスも、決定論的パラダイムからは抜け出せなかったのである。

機械論的決定論は、20世紀になって徐々に崩れていく。量子力学における不確定性原理は、ミクロのレベルでの決定論を否定し、複雑性の科学におけるバタフライ効果は、マクロのレベルでの決定論までを否定した。

量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、ミクロなシステムは本来存在が不確定な波動で、波動が収縮して確定的になるのは、認識という主観の干渉のおかげである。だから、対象は確定的で、人間の認識能力が不十分であるから不確定に見えるだけだという決定論者の議論は成り立たなくなる。

量子力学が登場しても、マルクス主義者は、ミクロなレベルでの偶然性は、マクロなレベルでの必然性へと止揚されると主張した。ちょうど、高速道路を走る自動車には、車線を変更したり、スピードを調整したりする自由があるが、最終的に到着する地点はあらかじめ決定されているように、歴史においても、途中で多少の紆余曲折があるにしても、最終的に人類社会が向かっていく方向が共産主義革命によるプロレタリア独裁であることは必然であるというわけだ。

しかしもしミクロのレベルでの不確定性が、バタフライ効果により、マクロのレベルでの不確定性へと拡大されるとするならば、こうした議論も成り立たなくなる。決定論的パラダイムは、共産主義の崩壊と時を同じくして瓦解し、代わって登場したのが、不確定性に満ちたグローバルな市場経済であり、複雑系の科学である。

4. カオスは不可知論を帰結しない

カオスが、決定論的な規則にしたがっているにもかかわらず、予測不可能な不規則な振る舞いをするということは、逆にいえば、予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もあるということである。複雑系の研究者の中には、そうした試みは古い還元主義の残滓だとして、複雑性を複雑なまま捉えようとする人たちもいるが、それでは、それこそ太古から存在する神秘的な不可知論と変わらないことになる。カオスの斬新さは、自然法則は確定的で未来は予測可能とする決定論とも、自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論とも違って、自然法則は確定的だが未来は予測不可能とする新しい立場を打ち出したところにある。

「自然法則は確定的だが未来は予測不可能」というテーゼが理解できないという人のために、メタファーを使ってカオスの本質を説明したい。スポーツの試合では、あらかじめ選手が従うルールが確定的に決まっているが、選手の振る舞いはカオス的に不規則であり、試合の勝ち負けをあらかじめ予測することは困難である。もしあらかじめ勝ち負けがわかっていたら、誰も試合など観戦しないであろう。はじめから勝敗がわかっていると思われる試合でも、最初のちょっとしたミスが、番狂わせによってとんでもないハプニングを次々と生み出し、負けるはずのないチームが負けるというバタフライ効果もしばしば見られる。試合が人々を魅了するのは、それがカオス的な複雑系であるからである。

読書案内
書名カオス的世界像―非定形の理論から複雑系の科学へ
著者イアン スチュアート 他
出版社と出版時期白揚社, 1998/10
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私が書いた本

  33 コメント

  1. 線形(リニア)非線形(ノンリニア)はグラフの形状のような幼稚な話ではなく、ベクトルやテンソルが重ね合わせ可能かどうかという議論だったと思いますよ。大昔に大学で習った記憶ではそうです。カオスの文脈ではAという行為とBという行為を行ったときA+Bという結果になるのが線形で、そうならないのが非線形という話じゃないのでしょうか?

  2. 日本語では「線形関数」と「1次関数」は言葉としては別ですが、英語にすると、どちらも”linear function”です。つまり線形関数とは1次関数に他ならないということです。ご指摘の f(a+b)=f(a)+f(b) という関係は、1次関数では当てはまりますが、それ以外の関数、例えば、2次関数では、成り立ちません。直線か否かは、直観的な問題だから、概念的には、こういう定義をしなければいけないのでしょうが、1次関数はグラフが直線だから線形という説明の方がわかりやすくて良いと思います。

  3. いつも大変お世話になっております。
    常日頃Webの更新大変ご苦労されていると思います。
    カオス理論を文系の立場から言わせていただきますと、自転公転をしている地球で静止物理学の範囲で移動物理学を解明しようとするからカオスが生まれると思っています。気象に致しましても、重力、地磁気など位置エネルギー他、熱エネルギ、運動エネルギーなどを考慮すればどの方向に気象が動いていくのか解明できると思っています。たまたま今日は雨が降っているのですが、それは気象庁の予測に反してアメリカの戦闘機30台が訓練飛行をしたから雨が降ったかもしれないのです。全ては時間が未来に向けて考慮されていないために多くの科学者は移動物理学をカオスに責任転嫁していると思っています。物理現象は磁気フィールドの中で行われるのであって影でこそこそやっていないと思っています。
    突然のコメントで大変失礼を致しました。

  4. 通りすがりで、読ませていただき、勉強させていただきましたついででコメントしてみます。つっこみいただき、不勉強さを確認させていただければと思います。
    JI 様
    >A+Bという結果になるのが線形で、そうならないのが非線形という話じゃないのでしょうか?
    永井俊哉様 のコメントの言い換えですが、A+B(「重ね合わせの理」でしたっけ)が成り立つ場合には、その系は、必ず、直線のグラフで表される写像に置き換えられると聞いたことがあります。なので、線形=グラフが直線 (の写像に置き換えられる) というのはあっているのではないでしょうか?
    >NET検察 様
    >・・・・・などを考慮すればどの・・・・・
    という、文に対して横から意見ですが、カオス理論のそもそもの衝撃は、きわめて決定論的な、「すべてが明白に考慮された、非常に単純なモデルというか決定論的数式レベル のモデル や 実験装置」であっても、解くことができない系があるということだと思います。(解けない=実際におっかけないかぎり任意時点の姿を確定させられない)それでいながら、ランダム過程でなくある種の秩序や法則を内在していると。
    おしゃるような、観測精度向上による予測精度向上は常にありますが、それと別に本質的に、気象は最初にローレンツが数値モデルで実証したようなカオス系ですので、神の視点でもラプラスの悪魔の視点でも、完全に予測することができない対象になると思います。
    ・・・あってますかね、この理解。

  5. カオス理論のご説明については、「カオスということ自体を何ら知らない方に対しても(その方に文章読解力さえあれば)非常に理解し易いご説明をなさっていらっしゃる」と感じました。
    また、仰るように「気象は最初にローレンツが数値モデルで実証したようなカオス系である」ということもその通りであると思いました。
    さて、「カオス」がこうで、「カオス理論」がこうで、それは所謂「複雑系」に属する以外にない対象様相で、従来における「決定論」さえも為すすべ無き次元にその存在を存在足らしめる代物であるということそのものはさておき、私が個人的に興味を持ちますことは、『バタフライ効果における「とあるバタフライ」-それが-「効果に及ぶバタフライであることの未然的見極め」は可能か?』という点であります。

  6. カオスの初期値鋭敏性とは、特定の特殊な初期値でないと異なった結果が出ないということではなくて、どの初期値でも異なった結果が現われるということです。例えば、バスケットボールの真上にピンポン玉を置く場合、ちょっとした位置のずれから、転がり落ちる経路が全く異なったものになりますね。そういう例で考えてみてください。

  7. 私の書き方が良くなかったようで、伝わりにくかったことにはお詫び申し上げます。
    先に記させていただきましたところの『バタフライ効果における「とあるバタフライ」-それが-「効果に及ぶバタフライであることの未然的見極め」は可能か?』という問いの中にある「効果に及ぶバタフライであることの」という部分につきましては、ご返信くださった内容の言葉にもある【ちょっとした位置のずれ】←の【「ちょっとした」という部分に対する疑問】でありましたので、
    つまりが、【バタフライ効果における「とあるバタフライの羽微動」-それが-「効果に及ぶバタフライ羽微動であることの未然的見極め」は可能か?】という問いであったわけです。
    ですのでこの問いは、【「バスケットボールの真上にピンポン玉を置く場合、ちょっとした位置のずれから、転がり落ちる経路が全く異なったものになる」現象における「経路別・ピンポン玉を置く位置加減」-その-「未然的見極め」は可能か?】ということにも対応する問いであるとも思います。

  8. 同じ場所に置けば、同じ経路を辿るはずなのですが、問題は、私たちがピンポン玉を同じ位置に置いたつもりでも、私たちには認知できない「ちょっとした位置のずれ」があるということです。

  9. >同じ場所に置けば、同じ経路を辿るはずなのですが、問題は、私たちがピンポン玉を同じ位置に置いたつもりでも、私たちには認知できない「ちょっとした位置のずれ」があるということです。
    はい。
    その「ちょっとした位置のずれ(=ピンポン玉を置く位置のずれ)」があるがゆえに、いくら同じ場所に置いたつもりでも「ピンポン玉は置く都度に別の経路へ転がりゆく」ということは私にもわかります。
    そして、その「ちょっとした位置のずれ自体」が私たちには認知できないというのも「現時点では当然ながら」わかります。
    しかし、【認知できない】←ということに話が終わってしまったら、こちらのサイト【4. カオスは不可知論を帰結しない】にもありますところの【カオスが、決定論的な規則にしたがっているにもかかわらず、予測不可能な不規則な振る舞いをするということは、逆にいえば、予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もあるということである。】←とのコトガラそのものが、永井俊哉氏ご自身により「本末転倒になってしまう」のではないでしょうか。

  10. ルールが確定的でも、そのルールに従った振る舞いは不確定であるということです。つまり、ピンポン球に働く重力、抗力、摩擦力などの力は、確定的な物理の法則に従うけれども、初期値が正確に把握できないから、落下経路を確定的に予測できないということです。

  11. ご返信有り難く存知ますが、再度、下記の内容に戻らせていただいた上で再度問わせていただきます。
    先ず、下記内容から、
    A 永井俊哉氏による論説内容 :カオスが、決定論的な規則にしたがっているにもかかわらず、予測不可能な不規則な振る舞いをするということは、逆にいえば、予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もあるということである。
    B このたびにおける永井俊哉氏によるご返信内容 : ルールが確定的でも、そのルールに従った振る舞いは不確定であるということです。つまり、ピンポン球に働く重力、抗力、摩擦力などの力は、確定的な物理の法則に従うけれども、初期値が正確に把握できないから、落下経路を確定的に予測できないということです。
    私が問わせていただきましたのは、上記A内容における【逆にいえば、予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もあるということである。】←ということについての問いなのであります。
    ですが、このたびのご返信B内容では、A内容の前半部分【カオスが、決定論的な規則にしたがっているにもかかわらず、予測不可能な不規則な振る舞いをする】←ということを尚も繰り返していらっしゃるだけの内容でしかなく、【予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もある】という後半部分には何ら触れられていないわけであります。
    「カオスというのはつまりカオスなのである」というような帰結の仕方ではなく、私が(あるいは「カオス」研究者が)興味を持つに値する考察方向というは、それこそ永井俊哉氏仰るような【4. カオスは不可知論を帰結しない】といった「逆説的考察方向に対して」なのではなかろうかということをここに僭越ながら申し上げたいわけでありまして、つまりがこれも永井俊哉氏仰るような【予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もある】という考察方向に対してにこそ興味を持つべきと感じましたことから、このたびのご返信内容における【逆説考察性への皆無さ】には、正直申しまして少々気抜け致しました次第でございます。

  12. 「逆にいえば」の後の命題は、たんに同じことを別の表現で言い換えただけのものです。「カオスは不可知論を帰結しない」というときの「不可知論」とは、本文中にある「太古から存在する神秘的な不可知論」や「自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論」を指しています。また、そもそも私は、自分の結論が逆説的であるというようなことは言っておりません。

  13. >カオスは不可知論を帰結しない」というときの「不可知論」とは、本文中にある「太古から存在する神秘的な不可知論」や「自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論」を指しています。
    では、ご自身がお書きになった【カオスは不可知論を帰結しない】というその-「不可知論」-という部分に、ご自身仰る-『自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論』-という文を代入してみていただければ、永井俊哉氏ご自身がご自身の矛盾にお気付きになられるとも思われます。
    早速代入してみます。
    【カオスは『自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論』を帰結しない】
    尚、「帰結しない」とは、『最終的にある結論・結果に落ち着かない』という意味の言葉ですので、この言葉の意味も上記に代入し、永井俊哉氏ご自身が一体何を仰っているのかその詳細を明らかにさせていただきますが、つまりが、永井俊哉氏仰ることというのは「下記内容である」ということになるわけです。
    【カオスは『自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論』に結果として落ち着かない。】
    重ね重ね申し訳ありませんが、続けさせていただきます。
    【永井俊哉氏が論じておられる内容自体には『逆説的な部分など一切見当たらない』わけでありますが、その-『逆説的内容など何らお述べになっていない永井俊哉氏』が、何故、【敢えて、『単に逆説を述べる』などという形式的なこと】をなさり、そればかりかご主張内容では【『不確定ゆえ予測も不可能な不可知論に落ち着かないのがカオスである』とも仰っている】のも何故だろうか。と私は思うわけであります。
    私はこのたび、このような矛盾が文章中に生じてしまっておられる永井俊哉氏におき、【ご自身には認識なされていないところの「無意識的な逆説への欲動」】を見させていただきました次第であり、私からの問いはむしろ、その-「無意識下にいらっしゃる永井俊哉氏に宛てたものである」-と、ご理解くだされば幸いで御座います。

  14. “永井俊哉氏ご自身がご自身の矛盾にお気付きになられるとも思われます”
    どこに矛盾があるのですか。嘘つきのパラドックスと同じようなパラドックスがあると言いたいのですか。正直言って、私は、石黒さんが何が理解できないかがよく理解できません。もっと疑問点を明確にして質問してくれないでしょうか。

  15. >「太古から存在する神秘的な不可知論」
    >「自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論」
    【カオスというものが、「上記不可知論を帰結しない=上記不可知論に落ち着かない」ということが逆説としてご自身にも表現され得る事実をよそに、永井俊哉氏は現実として「カオスを上記不可知論に落ち着かせている(帰結させている)】←という部分に、永井俊哉氏における【表現形式と表現内容とに矛盾がある】ということが、これまでにおき私が述べた要点です。
    つまり、永井俊哉氏のお書きになっている内容は、
    【逆説では確かにこうであるが、それはあくまで逆説であるだけで実際はこうである】という内容でしかなく、私が「永井俊哉氏ご自身における自己矛盾」と表現致しましたのは、【独自的理論展開が、さも「ある」かのように見せかけて実は独自的理論展開など全くない偽独自理論性】に対してであります。
    早い話が、「カオス」についてを永井俊哉氏は、【実際として認識不可能な対象である】←と述べているに過ぎないということ。
    尚、(「不可知論を帰結しない」などというカタチで以って)読み手に向けては、「思わせぶり」な方式をお取りになりながら、(実は)従来から謂われている『カオス=不可知』を主張した内容に過ぎないのが永井俊哉氏の当サイト内容であるということが、当初の問いかけへのご返信内容やその後のご返信内容から充分確認できましたので、現在の時点では全く以って疑問が残らなくなりました。
    かなりすっきり致しました。
    色々とありがとうございました。

  16. 相変わらずよくわかりませんね。石黒さんの言っていることを理解することは断念して、一般の読者向けに、想定される可能的批判に対して反論しておきましょう。
    1.「カオスは不可知論を帰結しない」と言いつつ、不可知論を帰結しているという批判
    不可知論(Agnosticism)はもともと神学上の概念で、神が存在しているか否かはわからないという主張なのですが、哲学では、神の存在に限らず、いろいろな対象の認識に関して、何もわからないという時に使われます。
    さて、カオスにおいては「自然法則は確定的だが未来は予測不可能」というのが本論における結論ですが、これは「何もわからない」という不可知論とは異なります。なぜならば「わかる」とは「分かる」、すなわち「分けることができる」ということであり、カオスにおける確定的な部分と不確定的な部分とを分けることができるのであれば、それは「何も分からない」とする不可知論、本文で謂う所の「自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論」とは明らかに異なるからです。
    こういう私の主張が詭弁だと感じる人は、ハイゼンベルクの不確定性の原理が不可知論かどうかを考えてみてください。この原理は、決して何も分からないということを主張しているわけではなくて、確定性と不確定性を確定的に分割しているという点で、物理法則としての価値があります。カオスについての私たちの認識についても同じことが言えます。
    2.「カオスは不可知論を帰結しない」という命題が自己言及のパラドックス(逆説)に陥っているという批判
    自己言及のパラドックスとは、クレタ人が「すべてのクレタ人は嘘吐きである」というように、自己言及的に自己否定することで発生します。クレタ人が「あるクレタ人は嘘吐きである」と言っても、パラドックスにはなりません。
    私の命題が自己言及のパラドックスとなるためには、カオスについての認識それ自体がカオスでなければいけませんが、すべてがカオスというわけではないし、この認識がカオスというわけでもないから、そのようなパラドックスは発生しません。
    そもそも「帰結」という言葉は、論理的な帰結のことを言っているのであって、因果的な帰結ではありません。初期値鋭敏性ゆえの予測不可能性も、初期値を正確に認識できないレアールな世界での因果的な帰結関係に関して当てはまるのであって、初期値を精確に設定できるイデアールな世界には当てはまりません。例えば、コンピューター上のシミュレーションでは、初期値を精確に設定できるので、カオスの振る舞いを確定的に再現できます。

  17. 【思わせぶりである】と【パラドックスである】とは、全く異なるさまを表す言葉でありまして、私は後者を一切口に致しておりません(=一切投稿上に記しておりません)。
    永井俊哉氏は永井俊哉氏としてのプライドもそりゃあおありになるとは思いますが、【石黒が自分に対し「パラドックスに陥っていると批判した」】などどいうことを勝手にご妄想なさりつつ、さらにはそのご妄想に対し「取って付けたようなご釈明」などをお書きになられても、僭越ならがら私にとっての「確認事項」には何ら関係ありませんですので、悪しからずお静まりくださいませ。
    ありがとうございました。

  18. 「パラドックス(逆説)」とわざわざ書いたけれども、気がつきませんでしたか。「パラドックス」というのは「逆説」のことです。辞典で調べればわかるように、「逆説」は“paradox”の定訳です。石黒さんは、これまで「パラドックス」という言葉は使っていないにしても、その和訳である「逆説」は何度も使っています。
    “「カオスというのはつまりカオスなのである」というような帰結の仕方ではなく、私が(あるいは「カオス」研究者が)興味を持つに値する考察方向というは、それこそ永井俊哉氏仰るような【4. カオスは不可知論を帰結しない】といった「逆説的考察方向に対して」なのではなかろうかということをここに僭越ながら申し上げたいわけでありまして、つまりがこれも永井俊哉氏仰るような【予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もある】という考察方向に対してにこそ興味を持つべきと感じましたことから、このたびのご返信内容における【逆説考察性への皆無さ】には、正直申しまして少々気抜け致しました次第でございます。”
    私はこれに対して、「そもそも私は、自分の結論が逆説的であるというようなことは言っておりません」と書きました。すると、石黒さんは、
    “【永井俊哉氏が論じておられる内容自体には『逆説的な部分など一切見当たらない』わけでありますが、その-『逆説的内容など何らお述べになっていない永井俊哉氏』が、何故、【敢えて、『単に逆説を述べる』などという形式的なこと】をなさり、そればかりかご主張内容では【『不確定ゆえ予測も不可能な不可知論に落ち着かないのがカオスである』とも仰っている】のも何故だろうか。と私は思うわけであります。
    私はこのたび、このような矛盾が文章中に生じてしまっておられる永井俊哉氏におき、【ご自身には認識なされていないところの「無意識的な逆説への欲動」】を見させていただきました次第であり、私からの問いはむしろ、その-「無意識下にいらっしゃる永井俊哉氏に宛てたものである」-と、ご理解くだされば幸いで御座います。”
    と言うので、私自身は、逆説のつもりで書いたのではないのに、無意識のうちに他者が逆説と受け取るようなことを書いたのだろうか、私の命題を逆説とする解釈は可能かということを自分なりに考えてみました。そして謂う所の「逆説」が「自己言及のパラドックス」なのかどうなのかを確認するために、「嘘つきのパラドックスと同じようなパラドックスがあると言いたいのですか」と質問したのです。ところが、石黒さんは、その問いに答えなかったので、「石黒さんの言っていることを理解することは断念して、一般の読者向けに、想定される可能的批判に対して反論」を試みた次第です。
    私は、石黒さんが「パラドックス=逆説」という言葉を通常の意味で理解しているという前提で考えてきたのですが、この前提が怪しくなってきました。もしかすると、石黒さんは、「逆にいえば」を「逆説的にいえば」と誤解し、さらに「逆説」ということで「独自的理論展開」のようなものを勝手に期待して、勝手に失望したということではないのですか。
    なお、本文における「逆にいえば」というのは、論理学的な意味での逆に相当し、一般に、“P⇒Q”に対して、“Q⇒P”を逆と言います。「逆は必ずしも真ならず」ですが、
     ((∀x)(Px⇒Qx))⇒((∃x)(Qx⇒Px))
    ということなら言えるので、「予測不可能な無秩序と思われる現象も確定的な規則に還元できる場合もあるということである」と書いたのです。「場合もある」という表現が“∃x”に相当すると考えてください。
    陳腐な逆説や逆説的でない「独自的理論展開」があることからもわかるように、「逆説」と「独自的理論展開」との間には、必然的な結び付きはありません。【独自の理論展開があるように「思わせぶりである】と【パラドックスである】とは、全く異なるさまを表す言葉」であることは、指摘されるまでもありません。そこで、本ページにおける私の主張が、逆説ではないことだけでなく、独自の理論展開でもないことも改めて再確認しておかなければいけません。
    本サイトには、(1) 世界で誰もこれまでに提示したことがない(と思われる)独自の理論を提示したページもあれば、(2) 学界では周知だが一般にはまだ知られていない理論を紹介する啓蒙的なページもあります。このページは、(2)に相当します。もともと私は、本ページで独自の理論を展開するという宣言はしていませんから、「思わせぶり」な方式といった批判も的外れです。
    さて、日本では、カオスは混沌と訳されます。『明鏡 国語辞典』は、混沌を次のように定義しています。
    [1] 天地創世の神話で、天と地がまだ分かれていない状態。カオス。
    [2] (形動,ト,タル) 入りまじって区別がつかないさま。また、なりゆきが分からないさま。 「―とした世界情勢」
    そして、システム論におけるカオスも、このように定義された混沌と同じものと思っている人が、専門家以外の一般の人々には多数います。このように、混沌とは《何も分けられない=何も分からない》状態と一般的には思念されているのだから、こうした常識に対して、システム論におけるカオスは、確定的な部分と不確定的な部分を確定的に分割できると主張する本ページには啓蒙的価値があると判断しました。

  19. >そこで、本ページにおける私の主張が、逆説ではないことだけでなく、独自の理論展開でもないことも改めて再確認しておかなければいけません。
    はい。ですから、まさに、この↑確認ができましたことを、私は申し上げております。
    【本ページにある永井俊哉氏の主張というのは、「さも逆説についての研究・考察がまさに為されるかの如くに科白表現だけ逆説を書いてはいるが、その内容は何ら逆説に対する研究や考察ではない」ので、科白に騙されて期待を持った私が馬鹿だった」】
    といういことに尽きると思います。
    つまり、上記にてご本人も書いておられるように、【当サイト(ページ)は、何ら「独自の理論展開でもない」場である】ということを、私は確認できました。ということであります。
    尚、その-【何らの「独自展開も無き」当サイト(ページ)】に、一体どんな【啓蒙的価値があるというのだろうか?】-ということについては甚だ疑問でありますが、まあ、ご本人がご本人で以って「自分のページには他を啓蒙する価値がある」とお思いになることについては、【その傲慢性による独自のご悦り】に水を差すようなことなど致しませんので『どうぞご自由に』と申し上げておきます。
    追記ですが、「パラドックス」と「逆説」とは同義ですが、「クレタ人の嘘然り、嘘つきのパラドックス」と「単なる逆説」とは意味が異なります。
    因みに永井俊哉氏が最初に「パラドックス」という語をお使いになったのは『>嘘つきのパラドックスと同じようなパラドックスがあると言いたいのですか。』←という使用の仕かたでした。
    それをいつしか『パラドックスという語単体』に摩り替えつつわけわかめなことを仰り出したのは永井俊哉氏のほうですので、どうぞご確認くださいますよう、謹んでお知らせ申し上げます。

  20. “さも逆説についての研究・考察がまさに為されるかの如くに科白表現だけ逆説を書いてはいるが、その内容は何ら逆説に対する研究や考察ではない”
    「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いが分かった上で、このようなことを言っているのですか。本ページは「カオスと決定論についての/に対する研究や考察」だから、「逆説についての/に対する研究や考察」を期待するのは明らかにおかしいでしょう。後者に興味があるのなら、例えば「確率の認識と認識の確率」のような、パラドックスをテーマにしたページをお読みください。このページは(1)に相当し、自己言及のパラドックスに対する私独自の理論があります。
    “「パラドックス」と「逆説」とは同義ですが、「クレタ人の嘘然り、嘘つきのパラドックス」と「単なる逆説」とは意味が異なります。”
    意味が異なるというよりも、自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう。石黒さんが指摘する「逆説」の意味が不明なので、たくさんある逆説のうちのどの逆説のつもりで言っているのかを確かめようとして聞いたのです。
    なお、その際たんに「パラドックス」と書いて、「パラドックス(逆説)」と書かなかったのですが、それは、わざわざそう書かなくても「パラドックス」=「逆説」ということぐらいはわかるだろうと思っていたからです。でも、わかっていないようだったから、「パラドックス(逆説)」と書き、それでもまだわかっていないようだったから、さらに初歩的な説明をした次第です。

  21. 再度申し上げますが、「パラドックス」という語を日本語に訳すと「逆説」なのであります。
    尚、「逆説」と「パラドックス」とは同義ですが、「単なる逆説(という語)」と「クレタ人の嘘然り嘘つきのパラドックス」とは、片や「逆説(パラドックス)形式であるということ」、もう片や「どのようなパラソックス(逆説)が種類としてあるかに関わるところの一種」ということであるわけです。
    さて、ここまでの話は下記です。
    ①永井俊哉氏のお書きになっていることというのは、単に形式が逆説であるということだけで何らの「逆説内容独自考察」も無い内容であるということを確認できた。・・・石黒談
    ②自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう。・・・永井俊哉氏談
    要するに永井俊哉氏は、【自分は逆説(パラドックス)に陥ってはいない】と仰りながら、【自分は単に逆説(パラドックス)形式で『4. カオスは不可知論を帰結しない』と書いただけだ】と仰り、さらには【自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう】などと、【はたして永井俊哉という人物は単に形式的な人物でしかないのか否か】という石黒による考察とは対義的な方向へ(故意的且つ逃げるかの如くに)話を摩り替えているということが起きているというわけです。
    以上のことから、永井俊哉氏の場合、「ご自分を客観視できていない」という批判をここに私は初めて書かせていただきます。
    【>自己言及のパラドックスは、たくさんの種類があるパラドックス(逆説)のうちの一つというべきでしょう】などということは、この場においての「私による-永井俊哉氏-確認には何ら関係無いことなのであります。
    ですので、再々ながら、【確認できてすっきりした】と私は申し上げておりますわけで。
    それに、そのような【パラドックスの種】についてなど、それこそ他の書物を当たったほうが当然ながらいいわけで。
    当ページへの「(私による)確認事項」は、以上を持ちまして終了とさせていただきますが、まだ、何がしかの「屁理屈」が仰りたいのでしたら(それは読んでいるこちらとしても大層イタい永井俊哉氏のさまを見せられることにもなりますが、それでもよろしかったら)、勿論どうぞどうぞ。
    私は単なる論客で、ここは永井俊哉氏のページですので。

  22. 「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いを理解したようですね。ただ、「逆に言う」と「逆説的に言う」と「独自の理論を言う」の違いはまだわかっていないようです。
    言葉を正しく理解し、正しく使うことは、まともな議論をする上で必要不可欠な前提条件です。私は、この点で、石黒さんには、まだまだ改善の余地があると思います。だから、私は、石黒さんに、国語と論理学を基本から勉強し直すことをお勧めします。
    なお、私は、逃げるために「話を摩り替えて」いるのではなくて、石黒さんが言っていることがわからないから、「こういう意味で言っているのか」「ああいう意味で言っているのか」といろいろ聞かなければいけなかったというだけのことです。私の主張自体は、最初から一貫しています。

  23. 先の投稿にて最終とさせていだたつもりで御座いましたが、何やら、このたび、また、ご返信をいただきましたので、放置するのも心もとなく(あるいは痛々しくもしくはお可哀想に)思いまして、書き込ませていただきます。
    さて、「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いをご理解くださいただけましたでしょうか?
    もし、このたびの件により永井俊哉氏ご自身が何がしかの「気付き」にご至りでしたら大変嬉しく存知ます。(永井俊哉氏による、悉くイタいご投稿内様によりそれ-つまりが-自己保存のためそのヤバさからのあらすじ捏造心理-がはっきりと現れておりますわけですが)
    しかし、「逆に言う」と「逆説的に言う」と「独自の理論を言う」の違いのほうはどうでしょう?
    おわかりになりましたでしょうか?
    まあいいです。
    言葉を正しく理解し、正しく使うことは、マトモな議論をする上で必要不可欠な前提条件であることは周知の事実です。
    尚、『石黒の言っていることがわからない』のでしたら、勉強し直すのは私(石黒)ではなく永井俊哉氏ご自身であられますことを、僭越ながらご理解なさるべきと存知ます。
    因みに、私には支離滅裂であられる永井俊哉氏が「何故・支離滅裂なのか」ということも、これまで流れから大いに読めます。
    永井俊哉氏 : 私はただA形式の文をただ書いただけだ。
    石黒 : はい。それをこのたび確認しました。
    永井俊哉氏 : Bのことを知りたいのなら他を当たってくれ。
    石黒 : ええ。Bのことを知りたいのなら勿論他を当たったほうが意義があるでしょう。しかし、私が確認したかったのは「あなたが書いていることがA内容ではなくA形式文である」ということでしたので、AとBとが異なるにも拘わらず地続き的に活字化している永井俊哉氏に対し『AとBとは異なる』ということの突っ込みをいれさせていただいたのであります。
    永井俊哉氏 : ふふふ。AとBとの違いがやっとわかったようだな。
    石黒 : ですからww。その違いがわからず、だからして地続き的に活字化していたのはあなたですからww
    永井俊哉氏 : 石黒くん、きみに国語と論理学を基本から勉強し直すことをお勧めするっ!
    石黒 : 国語や倫理学以前に、あなた(永井俊哉氏)には-『どうやら自分という人間は倫理的な人間ではなさそうだ』-ということを学んでいただきたく存知ますが、、、おそらく無理でしょうwww
    ですので、もういいです。私のほうは既に「確認事項」に対する解決をしておりますから。

  24. 匿名とはありますが、上記投稿者も、(いわずと知れた)私-石黒-の投稿でありました。また、訂正箇所もありましたので訂正を入れます。
    失礼しました。
    ×さて、「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いをご理解くださいただけましたでしょうか?
    ○さて、「逆説についての研究・考察」あるいは「逆説に対する研究や考察」と「逆説的な研究や考察」の違いをご理解いただけましたでしょうか?
    *と、いうように、私の場合はこの件における投稿にて「自分サイドの不備ないしはミスタイプ」には必ず一言侘びを居れ訂正致しておるわけです。
    永井俊哉氏も、「ご自分サイドに(形式表現上などの)落ち度のある場合」には、『一言侘びを入れる』という倫理性がおありになってもよさそうなものである。と私は思うわけです。

  25. “永井俊哉氏も、「ご自分サイドに(形式表現上などの)落ち度のある場合」には、『一言侘びを入れる』という倫理性がおありになってもよさそうなものである。と私は思うわけです。”
    たしかに、自分の間違いに気がついたときには、それを正直に認め、訂正することが学者の倫理です。しかし、相手に迎合するために、間違っていないと自分が思っていることを間違っていると言うことは、むしろ倫理に反することではないのですか。
    さて、石黒さんが謂う所の形式表現上の落ち度とは何のことでしょうか。おそらく“単に形式が逆説であるということだけで何らの「逆説内容独自考察」も無い内容である”ということでしょう。では、石黒さんが逆説的な表現形式と考えている箇所はどこでしょうか。これまでのコメントから判断すると、「カオスは不可知論を帰結しない」という第四節のタイトルのようです。
    「カオスは不可知論を帰結しない」が矛盾を含んでいない、したがって逆説ではないことは、すでに説明したとおりですが、まだ納得していないようなので、改めて説明しなおしましょう。
    まずは、基本的な概念の意味の説明から始めます。「逆説」という言葉は、一般には、以下のような事柄を意味します。
    “1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。パラドックス。
    2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、結論で矛盾をはらむ命題。逆理。パラドックス。
    3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。逆理。パラドックス。”[出所:デジタル大辞泉
    ここからもわかるように、逆説が成り立つためには、「真理にそむいている」または「矛盾をはらむ」または「事実に反する」、包括的に言うならば、矛盾を孕んでいることが必要条件となります。しかしこれだけではまだ十分条件ではなくて、逆説が成り立つためには、「一面の真理を言い表している」または「正しい推論によって導き出されているようにみえる」または「それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい」といった条件が必要です。
    以上のことを理解したとして、「カオスは不可知論を帰結しない」が逆説的表現でないことを説明しましょう。もしもこの命題が「カオスは非決定論を帰結しない」であったとするならば、それは矛盾を含んでいることになります。その前の節のタイトルにあるように、私は「カオスは非決定論的である」と書いたから、私は「カオスは非決定論を帰結し、かつ帰結しない」と言ったことになり、これは明らかに矛盾です。
    もしも矛盾した表現が用いられていても、そこに何らかの真理があるならば、それを逆説(パラドックス)と呼ぶことができるでしょう。そして、その逆説が世界で初めて発見されたものであるならば、それを独自理論と呼ぶことができるでしょう。また、逆説的な命題を掲げながら、なぜその命題が成り立つのかを十分に説明していないとするならば、石黒さんの批判はもっともだということになるでしょう。
    しかし、私が書いたのは「カオスは不可知論を帰結しない」であって、「カオスは非決定論を帰結しない」ではありません。後者は矛盾を含んでいますが、前者はそうではありません。私は、「カオスの斬新さは、自然法則は確定的で未来は予測可能とする決定論とも、自然法則は不確定で未来は予測不可能とする不可知論とも違って、自然法則は確定的だが未来は予測不可能とする新しい立場を打ち出したところにある」と本文で書きました。つまり、
    (1) 自然法則は確定的+未来は予測可能 :決定論
    (2) 自然法則は確定的+未来は予測不可能:カオスの理論
    (3) 自然法則は不確定+未来は予測不可能:不可知論
    ということです。これを見ればわかるように、カオスの理論は、(1)ではないという点で非決定論であり、(3)ではないという点で、非不可知論であります。そして、(2)と(3)が異なるのだから、「カオスは不可知論を帰結しない」と言っても、それは矛盾を孕むことになりません。
    最初に確認したように、矛盾を孕むことは逆説が成り立つための必要条件です。
    「逆説である」⇒「矛盾を孕む」
    これは、以下の対偶と論理的に等値です。
    「矛盾を孕まない」⇒「逆説ではない」
    よって、「カオスは不可知論を帰結しない」が矛盾を孕まない以上、それは逆説ではないということになります。この命題は、その形式においても、内容においても、逆説ではないのだから、私の命題の「形式が逆説である」という前提の上に成り立っている石黒さんの批判は成り立ちません。
    “永井俊哉氏は、【自分は逆説(パラドックス)に陥ってはいない】と仰りながら、【自分は単に逆説(パラドックス)形式で『4. カオスは不可知論を帰結しない』と書いただけだ】と仰り”云々という石黒さんの認識が間違っていることがわかりになりましたか。
    “尚、『石黒の言っていることがわからない』のでしたら、勉強し直すのは私(石黒)ではなく永井俊哉氏ご自身であられますことを、僭越ながらご理解なさるべきと存知ます。”
    相手が言っていることが意味不明である時、最初から相手の言語能力を疑うのは失礼にあたるので、まずは、相手の言っていることを理解するために、さまざまな解釈を用意して、それが当てはまるかどうかを一つ一つテストするのが礼儀というものでしょう。あなたは、それを、逃げ回るために論点を掏り替えていると誤解しているようですが、こちらは、あなたの意味不明な文章を理解するためにそれなりの努力をしてきたのです。そして、対話を重ねるにつれて、原因が私の側ではなくて、あなたの側にあることに気付いたので、もっと言葉を正しく理解し、正しく使うようにアドバイスを申し上げた次第です。

  26. 『石黒の謂っていることがわからない。意味不明だ。』と仰りつつ『原因は石黒にある』と仰るのが永井俊哉氏であるわけですが、
    永井俊哉氏のそのさまは、まるで、
    『 石黒さんの謂うことなんて全然わかんないよ! 石黒さんなんか大っ嫌いだ! みんな石黒さんのせいだ! 』
    というさまと等しいように感じました。
    *面倒を見てあげられないでごめんなさい。
    *私はあなたのママじゃあないので。
    *【ご自分による「ご自分の行為性に対する理解力」の無さ】を石黒のせいにすることによっても、永井俊哉氏にとっての精神的自己保存は(わけわかめながら)可能なのでしょうから、それでもいい(どうでもいい)と思います。
    *ただ、「アカラサマに論点を摩り替えつつ必死に逃げ惑うそんな永井俊哉氏」を石黒から見れば、「逃げているように見える」ことなど当たり前なのであり、むしろ「逃げている以外の何ものでもなく永井俊哉氏は逃げている」のであります。
    *尚、そのように、無自覚にも主観主義的精神に在る永井俊哉氏には、私が述べたことなど(おそらく)一生理解できないのではないかとさえ思います。
    *永井俊哉氏における、その-『アカラサマに逃避しつつの責任転嫁現象』-を、【(極度のナルティシズムから端を発した)無自覚性幼児化現象】と、私はここに命名したいと存知ます。
    楽しい人間観察のひとときを、ありがとうございました。
    お陰様をもちまして、永井俊哉氏の(ホニャララな)人間性をきっちり確認できました。

  27. どうやら理論的反論を断念したようですね。理論的反論の断念は、石黒さんの理論的な敗北の宣言を意味します。石黒さんが感情的な誹謗中傷を行うのは、他に反撃の手段がなくなったということでしょう。
    私は、たしかに、石黒さんの言っていることがわからないと書きましたが、それは「石黒さんにはまともな国語力と論理力がある」と仮定していたからです。初対面の相手に対して、最初から相手の国語力と論理力を疑うことは失礼だから、相手にはまともな国語力と論理力があるという前提で対話を始めるのが礼儀というものです。
    しかし、対話を重ねるにしたがって、石黒さんは、国語力と論理力という点で問題があることに気が付きました。そして、「石黒さんにはまともな国語力と論理力がある」という当初の仮定を否定することで、石黒さんが言っていることが理解できるようになりました。
    結局のところ、石黒さんは、誤読と誤解から勝手に期待を抱き、私にその間違いを指摘されて、期待が裏切られると、逆上し、私に「責任転嫁」して、人格攻撃を始めたというのが実情でしょう。「悉くイタいご投稿内様(ママ)」をする「ご自分を客観視できていない」のは、石黒さんの方です。

  28. >結局のところ、石黒さんは、誤読と誤解から勝手に期待を抱き、私にその間違いを指摘されて、期待が裏切られると、逆上し、私に「責任転嫁」して、人格攻撃を始めたというのが実情でしょう。
    ああ、それは全く違いますね。解釈が。
    まるで「コメディー・ネタ」か「パロディー・ネタ」レベルの解釈違いです。
    私としては、ハナッから、
    【この人物は眉唾者だ】←と、永井俊哉氏を見ておりましたわけです。
    そして、その-「私自身の読み」-を【確認】するために、直で永井俊哉に話しかけてみたというわけですから。(「確認目的」ということについては再々に渡り一貫して述べてきていたのが私であります。)
    先に書いた-【期待した私が馬鹿だったということでOK】-との内容は、
    【永井俊哉氏を極力傷付けぬようにするために書いた言葉だっただけ】ですので。
    【ああ、やっぱこの人(当初の読みどおり)似非じゃん。】←などと書くよりも【期待した私が馬鹿だったということでOK】ということにしておいたほうが、【ふんずり返るの大好き人間である永井俊哉氏にとっては「さも-自分側に責任無き表現」をされたほうが「俺のせいではない」という得意の自己保存だって可能】でしょうに。
    つまり、永井俊哉氏は、このたび、
    【石黒から与えられた逃げ道どおりに逃げた】ということ。
    それはそれは面白いほど、私のシナリオどおりにレスを返してくれるので、その点でも面白かった(楽しかった)です。
    まあ、永井俊哉氏にわかり易い部分だけをピックアップして種明かししてみれば、つまりが、【私のほうが、ここはひとつ大人になって、「期待していたことにして差し上げた」】というのが当からくりです。

  29. 永井俊哉氏には、
    『まあ、そう感情的にならずに。。。(笑)』
                   とも、申し上げておきます。

  30. さて、観察のオプション的なコトガラに対する御礼も少し書かせていただきます。
    「それは石黒さんの方(ほう)です」というカタチで以って、『石黒が書いた内容をオウム返しなさるしかない-永井さんの-その行為性』もわからなくも無いです。
    「他者(要するに私・石黒の文)をそっくりそのまま盗み且つ自分の言葉として書いた本人へ返す」という、その-永井さんの行為性-のことを申し上げています。
    「学ぶ」ということの元は「真似る」から始まって然りです。
    【「永井さんとしても使用したくなる文(ないしは文脈)」を私(石黒)は書けている】
    【それというのは「オウム返し」を行う永井さんの行為性でわかる】
    ということ。
    勿論わかっております。
    永井さんという方が「オリジナリティー無き方である」ということは。
    しかし、何事も「確認」せぬことには「事実」としてはっきりしないというもの。
    そもそも「その確認」のためにここに書き込ませていただきましたのが私であるわけですが、
    まさか、「ここまで永井氏-その-オリジナリティーの無さ」を確認させていただけるとは思ってもみないところの収穫でした。
    本当にありがとうございました。

  31. 石黒さんが途中から学問的な議論を放棄し、「人間観察」へと話を逸らそうとしたことは、明らかです。いまさら見え透いた嘘をついても誰も信じないでしょう。「ウェブサイト再編成のお知らせ」のコメントでも書いたことですが、話題を変えることで元の議論から逃げようとしているのは、石黒さんの方です。
    石黒さんがしている人間観察自体は、正しいと思います。但し、石黒さんが観察している人間性は、私の人間性ではなくて、石黒さん自身の人間性です。石黒さんは、鏡に映し出された自分の醜さを見て嘲笑しています。私は、そのことに気付いてもらうために、わざわざ石黒さんが私に対して用いている表現を使って、石黒さんの行為を描写しているのですが、本人はそのことに全く気付いていないようです。
    石黒さんが行っている人格攻撃は、私に対して成されているようでいて、実は石黒さん本人に対して成されています。これ以上、パラノイア的な自分自身に対する人格攻撃を続けることは、本人のためにもならないので、ここでの対話は、これを以って強制終了とさせていただきます。

  32. 永井さん
    キチガイに粘着されてご苦労さまです。

  33. 永井と石黒のやり取り見て思うのは
    学説という学説は潜在的に権威争いを内包する可能性があるというとこだよね

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