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進行形はなぜ使われるようになったのか

2009年12月6日

英語における進行形は、継続や進行や反復を表す相と一般には認知されているが、もっと本質的なことは、他のようでもありうる不確定性を示すための相であるということである。英語における進行形の現代的用法は、18世紀の末、産業革命が進行する中、確立され、かつその使用頻度が急速に伸びた。これは、社会が急激に変化し、他のようでもありうる不確定性が増大するにつれて、それを表現する言語需要が増えたからである。

alan9187によるPixabayからの画像を加工

1. 進行形の本質

英語で「進行形」と呼ばれているものは、学校教育では、時制の一種として扱われることもあるが、言語学的には、相(aspect)の一つと位置付けられている。相とは、動詞の対象となっている事態の完結や継続などの度合いを表す文法形式のことで、英語の進行形は、「…している」という非完結的な継続を意味する継続相、「…しつつある」という完結に向けての進行を意味する進行相、「繰り返し…している」という反復相に相当するといわれている。

だが、英語の進行形には、継続相としても進行相としても反復相としても解釈しにくい用法がある。例えば、次のような文例がそうである。

(1) He was drowning.

彼は溺れかけていた。

英語の“drown”は「溺れ死ぬ」という意味の動詞である。しかし、(1) の意味するところは、「溺れ死んでいた」という溺死の継続ではないし、ましてや溺死の反復ではない。また、「溺れ死につつあった」という溺死に向けての進行でもない。実際、この表現は、「溺れ死にそうになったが、助かった」という時にも使うことができる。

(1) の進行形は、むしろ、溺死するかもしれないが、溺死しないかもしれないという不確定性を表している。この点、進行形は、「…でありうる」という意味の“can”に近い。文法用語を使って言うと、進行形には、法性(modality)を与える役割があるということである。法性とは、陳述される事態に与えられた様相(確実性の度合い)のことである。不確定性を表す助動詞は法助動詞(modal auxiliary)と呼ばれるが、それに倣って命名するならば、進行形とは法相(modal aspect)ということになる。

“can”のような法助動詞が、逆に進行形的な意味を表す場合もある。例えば、以下のような場合である。

(2) I hear knock at the door.

(3) I can hear knock at the door.

(4) I am hearing knock at the door.

(2) は、「ドアをノックする音が聞こえる」という意味で、単純形はノックの音が聞こうとしなくても聞こえてくることを示している。これに対して、(3) は、「ドアをノックする音が聞こえている」という意味で、(4) の進行形を用いた表現と同じ意味を表している。この場合、(2) とは異なり、ドアをノックする音は、耳を澄まして聞かないと聞き取れないような音であることが表現されている。

“can”という助動詞は、「…できる」という能力を表す助動詞としても使われるが、この用法は、可能性/不確定性を表す用法と無関係ではない。私たちは、誰もができることについて、わざわざ「…できる」とは言わない。例えば、特殊な状況を除けば、「私は呼吸することができる」などということは言わず、たんに「私は呼吸する」と言う。進行形を使うか否かは、能力の助動詞を使うか否かと同じで、不確定性が大きいか否かに依存している。

2. 継続相としての進行形

進行形は不確定性を表すという仮説に基づいて、単純形と進行形の基本的な相違を考え直してみよう。

(5) The church stands on a hill.

教会は丘の上に立っている。

(6) The boy is standing on a hill.

その少年は丘の上に立っている。

(5) と (6) は、ともに、「丘の上に立つ」という行為の継続を表現しているが、(5) は、(6) とは異なり、継続相の進行形が使われていない。これは、少年の場合、座ったり、丘の上から降りたりしうるが、教会の場合、そういう他のようでもありうる可能性が皆無だからである。

しばしば、永続的な状態には単純形が用いられ、一時的な行為には進行形が使われるというような説明がなされるが、こうした区別は不正確である。少年が、結果として一時的にではなくて、長時間にわたって丘の上に立っていたとしても、発話の時点において、その少年が丘の上に立たないという可能性が十分ある限り、進行形は使われる。だから、正確に言うならば、進行形が使われるのは、行為が一時的な場合ではなくて、一時的でありうる場合なのである。

意志のある動作には進行形が用いられるというよくなされる説明も皮相で、本質的ではない。そもそも、意識とは、不確定性を縮減するための情報システムなのである。意志によって左右されない知覚や心の働きは、不確定性が低いからこそ進行形にならないのであり、意志のある動作は、意志によって他のように変えうるからこそ進行形が使われるのである。今の文例の場合、教会には意志がないから単純形で、少年には意志があるから進行形というわけではない。崩壊寸前の教会がかろうじて立っている場合なら、立つことが教会の意志に基づいているわけではないが、進行形を使うことができる。

3. 進行相としての進行形

進行形は、進行相として、確定的な近接未来を表すことがある。しかし、近接未来が確定的であることは、意志未来との比較において言えることであり、単純形との比較においてではない。このことを具体例で確かめよう。

(7) I will leave for Tokyo tomorrow.

私は明日東京に向けて出発するつもりだ。

(8) I am leaving for Tokyo tomorrow.

私は明日東京に向けて出発することになっている。

(9) I leave for Tokyo tomorrow.

私は明日東京に向けて出発する。

(7) は、私の主観的意思を述べただけであり、本当に明日東京に向けて出発するかどうかは不明である。これと比べると、(8) は、客観的に、明日の予定を述べているから、その点では、確定的である。“will”は「…だろう」という単純未来の助動詞としても使えるが、この助動詞は、推測の助動詞でもあるから、その場合でも、確定性は高くない。(8) は、しかしながら、(9) のように、単純形を用いた表現と比べると、不確定性があると言わなければならない。要するに、(7) は主観的不確定性を、(8) は客観的不確定性を、(9) は客観的確定性を表しており、他のようでもありうる不確定性は、(7) > (8) > (9) の順に高い。法助動詞でも、こうした区別は可能であり、例えば、

(10) It may be true.

それは本当かもしれない。

(11) It can be true.

それは本当でありうる。

(12) It is true.

それは本当である。

は、それぞれ、主観的不確定性、客観的不確定性、客観的確定性に対応させることができる。他のようでもありうる不確定性は、(10) > (11) > (12) の順に高い。(10) は、(11) とは異なり、疑問文にすることはできないが、それは、主観的不確定性は、主観の不確定性だから、他人に聞くまでもないが、客観的不確定性は、他人に聞くことに意味があるからだ。同様に、(7) は、単純未来ならともかく、意志未来のときには、疑問文にできないが、(8) は疑問文にできる。進行形が不確定性を表すといっても、それは客観的不確定性であって、主観的不確定性ではないし、その意味でも、法助動詞の中では“can”に一番近い。

4. 反復相としての進行形

進行形は、行為や出来事の反復を表す場合がある。例えば、

(13) He is kicking a ball.

彼はボールを何度も蹴っている。

というように。但し、ここでも、行為や出来事が反復されているからといって、無条件に進行形が使われるわけではない。ボールを蹴るといった、いつでも止めようと思えば止めることができる、他のようでもありうる不確定性が存在することが、進行形を用いる大前提である。

反復相としての進行形は、しばしば非難の感情を伴って使われる。

(14) My daughter always goes out at night.

娘はいつも夜外出している。

(15) My daughter is always going out at night.

娘はいつも夜外出ばかりしている。

(14) は、感情的に中立だが、(15) には「いつも夜外出ばかりしてけしからん」という感情が込められている。これは、以下のような、原形/現在分詞という区別によっても表される。

(16) I won’t have my daughter go out at night.

私は娘に夜外出させない。

(17) I won’t have my daughter going out at night.

私は娘に夜外出なんかさせない。

では、なぜ非難の感情を込める時に、進行形を使うのだろうか。非難の感情を込めているということは、「止めてほしい」ということであり、それは止めることができるということを前提にしている。カント的に言うならば、「汝なすべきが故になしあたう」である。こう考えれば、他のようであってほしいとき、他のようでありうる不確定性を示す進行形が使われる理由がわかる。

進行形は、この点でも法相と呼ぶにふさわしい。英語文法では、法には、直説法、仮定法、命令法の三つがあるとされるが、現実である確率は、直説法では1、仮定法では0またはそれに近い値、命令法では、1と0の間の値である。命令法は、たんに、現実とは他のようでもありうるということを示すのみならず、他のようであれという願望をも表現している。そして、反復相としての進行形は、命令法に近い働きをしているという意味で、法相と言うことができる。

5. 進行形普及の歴史的背景

進行形という相は、インド・ヨーロッパ語族にもともとあった相の形態ではない。現在、インド・ヨーロッパ語族の言語のうち“be+現在分詞”が進行形の意味を持つのは、英語、イタリア語、スペイン語など、ごく少数の言語に限られるし、これらの言語にしても、最初から進行形を使っていたわけではなかった。

英語で、“be+現在分詞”が進行形として使われるようになったのは、1800年前後である。“be+現在分詞”という形態そのものは、古英語の頃からあったが、その使用は稀で、かつ、意味も現在の進行形とは異なっていた。例えば、

(18) Hie waeron huntende.

彼らは猟をしていた。

は、現代の英語に直すと、“They were hunting. ”に相当するが、その意味は「彼らはいつも狩をしていた」つまり「彼らは猟師だった」というもので、今なら、単純な過去形を使う。これに対して、「彼らはその時猟をしていた」という過去進行形的な意味の文は、

(19) Hie waeron on hunting.

というように、“be+前置詞+動名詞”という形で表された(古英語では、現在とは異なり、動名詞と現在分詞の語尾は同じではなかった)。ドイツ語では、今でも、“an”や“bei”といった前置詞を使って、“sein+前置詞+不定詞” という形で進行形的な意味を表すが、同じゲルマン語派の英語もかつては、前置詞に、“on”や“in”を使って、進行形的な表現をしていた。“on”や“in”は、やがて“an”や“an”となり、最終的には消滅し、かくして、“be+現在分詞”が進行形の形態となった。

進行形の現代的な用法は、18世紀の末から19世紀の初頭に確立し、かつその使用頻度が急速に伸びた。この時代は、産業革命によりイギリスの社会構造が急激に変化し、また、イギリスが、ナポレオン戦争に勝利し、覇権国として世界に君臨した頃に符合する。かつて、イギリスは、ヨーロッパの僻地だった。大英帝国が急膨張し、社会が急激に変化し、他のようでもありうる不確定性が増大するにつれて、それを表現する言語需要が生じ、進行形の使用頻度が増加したと解釈することができる。