社会福祉は必要か
社会福祉は不要である。安心して暮らすことができる社会を作る上で必要なのは保険であり、保険は営利企業に委ねることができる。社会福祉の機能を民間の保険会社に代行させ、社会保障の分野に市場原理を導入することは、大きな政府の弊害を是正する上で重要である。私たちは、政府が強者から税を徴収して弱者にばらまく福祉中心型社会から、幸運な者と不幸な者がリスクヘッジのコストを分担し合う保険中心型社会へと移行するべきである。
1. 保険は福祉を代替する
社会福祉(公的扶助を含める)とは、未成年者、障害者、病弱者、失業者など、自立できない弱者を公的に援助することであり、従来、市場原理には馴染まない、政府や政府に準ずる公的機関の仕事とみなされてきた。弱者には、保険料を支払うだけの経済的能力がないのだから、民間の保険会社に福祉の代替をさせることは不可能だというわけである。こうした議論は、本末転倒である。保険料を支払うこともできないような状態になることに対して、保険をかければよいのだ。
例えば、重度障害児は、生まれながらの弱者だから、社会福祉でなければ救済できないとこれまでは考えられてきたが、この場合でも、婚姻届を出す前に一定金額の保険料を支払って養育保険へ加入することを義務付けておけば、出産と育児にまつわる様々な予想外の支出リスクに対して保険金による支払いが可能となる。保険金を支払わずに、私生児を産むことは、処罰の対象としなければならない。この保険への強制加入は、結婚あるいは婚前交渉の自由に対する不当な制限にはならない。これは、子供という第三者の人権に関わる問題であって、婚姻の当事者だけの問題ではないからだ。
日本にも、強制加入の社会保険がいくつか存在するが、加入者に運用機関を選ぶ権利がないところに欠陥がある。加入者に選ぶ権利がなくて、公的機関が運用を独占すると、支持基盤に利益還元しようとする政治屋や天下り先を確保しようとする官僚たちが積立金にたかって、加入者は搾取され放題になってしまう。グリーンピア事業の失敗などで巨額の損失を出した厚生労働省主管の特殊法人、年金資金運用基金(旧年金福祉事業団)は、その一例である。たとえ加入が強制的であったとしても、保険会社を被保険者が選ぶことができるなら、非効率な運用機関を淘汰することができる。
「保険への加入を強制すれば、日本での少子化はさらに深刻となり、公的年金の崩壊を加速させるのではないか」と言って反論する人もいるかもしれない。後で説明するように、少子高齢化は、公的年金破綻の本当の原因ではない。環境問題や資源問題を考えるならば、少子化は望ましいことである。人口構成が一時的にアンバランスになるというのであれば、年齢制限付きで移民や帰化を認めればよい。少子化は日本にとって、なんら深刻な問題ではない。
世界的に深刻な問題は、人口の急激な増加である。福祉政策の国際版として、これまで先進国は発展途上国に援助を行ってきたが、発展途上国の貧困を解決しようとする先進国の援助が、発展途上国の人々をさらなる貧困に追いやるという皮肉な結果を生み出している。先進国が、食糧や医療など人道的な分野で援助をすればするほど発展途上国の人口は増え、その結果食料がさらに不足し、援助しなければならない医療の負担も増えるという悪循環が生じ、さらに援助物資や資金の配分をめぐって内紛が起き、戦火が途上国の人々を苦しめるということもしばしば起きている。もしも、本当に発展途上国を豊かにしようとするのなら、弱者救済のイデオロギーと決別して、養育保険制度を導入し、人口を減らし、集約的な教育投資により労働生産性を上げるべきだ。
2. 逆選択を防ぐには
養育保険は、未成年者を養育する上での予想外の支出をファイナンスする。では、成人の社会保障はどうすればよいだろうか。自由主義者の中には、「年金や医療保険や雇用保険などの社会保険は、民営化するのであれば、任意加入にするべきで、加入しなくて困窮する人が出てきても、それは自業自得でやむをえないことだ」と考える人もいる。しかし、任意加入にすると、逆選択という問題が起きる。
逆選択とは、次のような現象である。保険料が平等である保険では、リスクの低い人は、リスクの高い人よりも割高感のある保険料を支払わされることになるので、リスクの低い順に保険から脱退する。そうして、被保険者の平均的なリスクが高まると、保険者(保険会社)は、保険料を引き上げて、それに対処しなければならなくなる。そうすると、リスクが中程度の被保険者までが、割高感からさらに脱退する。この悪循環を繰り返すことにより、最終的に保険が成り立たなくなる。最良の者だけが残る自然選択の場合とは逆に、保険者の利益からすれば最悪の被保険者だけが残る選択という意味で、逆選択というわけだ。
逆選択によって淘汰されないためには、保険者は、リスクに応じて保険料を差別化するしかないが、これを厳密に押し進めると、保険の意味がなくなってしまう。つまり、高リスクの被保険者は、高額な保険料を支払わなければならないので、自分で貯金して、リスクに備える場合と大差がなくなってしまう。雇用保険の場合、保険料を差別化すると、高リスクの人ほど低所得・低資産であることが多いため、高額な保険料が支払えなくて、無保険者になってしまう。これでは、保険は、幸運な者と不幸な者がリスクヘッジのコストを分担し合うという理想を実現できない。保険を必要とする人ほど入りにくい保険ばかりになることは、被保険者にとって好ましくない選別である。だから、保険料の差別化を、「被保険者にとっての逆選択」と名付けよう。これに対して、狭義の(最初に説明した方の)逆選択を「保険者にとっての逆選択」と呼ぶことにしよう。
「保険者にとっての逆選択」は、被保険者が知っているリスクの情報を保険者が知らないという情報の非対称性から生じる。情報の非対称性が是正されると、「被保険者にとっての逆選択」が生じる。保険者が被保険者のリスク情報を知ろうとすると、調査のために余分な費用がかかる上に、場合によってはプライバシーの侵害にもなりかねない。では、被保険者のリスク情報の秘匿性を守りながら、逆選択を防ぐにはどうすればよいか。一番確実な方法は、保険を強制加入の皆保険にすることである。強制加入が無理な場合には、後ほど説明する保険のパッケージ化が有効である。
私は自由主義者であるが、保険金の支給に人の命が懸かっているような類の保険は、社会の治安を守るために、強制加入の皆保険にするべきだと考えている。社会の治安は、死刑を最高刑とする刑罰によって保たれているが、金がなければ死んでしまうという状況下の人には、そうした刑罰は、なんら犯罪抑制効果を持たない。座して死を待つよりも、犯罪的方法で金を奪って、活路を開くことに賭けた方が、たとえ逮捕される確率が高くても、合理的ということになる。
そうした選択を迫られる人は二種類いる。無収入・無資産の生活困窮者と支払い不可能な高額治療を受けなければ余命いくばくもない病人である。だから、強制加入にしなければならない皆保険は、生活保険と医療保険の二種類である。この観点から、現在強制加入となっている社会保険、すなわち、年金保険、雇用保険、医療保険、労災保険をどう改革するべきか検討してみよう。
3. 公的年金はなぜ行き詰まっているのか
まずは、今話題の公的年金制度から話を始めよう。なぜ今話題になっているかと言えば、制度が破綻の危機に瀕しているからである。その原因は少子高齢化だと政府は言っているが、そうではなくて、根本的な問題は、公的年金が社会福祉であって、保険ではないというところにある。予想以上に長生きして、資産を食い潰し、生活費に困るという不測の事態に対して、積み立てられた保険料に応じた支払いを受けることができるのなら、年金制度は保険であるということができる。しかし、日本の公的年金制度は、そうした積立方式ではなくて、賦課方式を採用しており、形式的には保険だが、実質的には、高所得者である現役世代から税を徴収して、それを「弱者」である高齢者へとばらまく社会福祉である。
私は、以前(2000年8月5日)発行したメルマガで、前の世代を次の世代が支える賦課方式の公的年金を、年功序列やネズミ講とともに、非対称的贈与システムと名付けた。その後、「非対称的贈与システム」という造語ははやらなかったが、年金をネズミ講に喩えることは、2ちゃんねるなどで流行し、最近では、木村剛のような有名人までが「厚生年金はネズミ講か? 」というコラムを書いて、この比喩を使ってくれている。
では、公的年金というネズミ講はいつから始まったのか。現在の公的年金の原型は、1942年からスタートした労働者年金保険なのだが、当初、その財政方式は積立方式だった。そのまま積立方式を守ってくれれば、少子高齢化がどんなに進もうと公的年金制度が崩壊することはなかったはずなのだが、福祉国家のイデオロギーが蔓延した戦後の高度経済成長期に、政府が高齢者に大盤振る舞いをしたために、次の世代の積立金にまで手をつけてしまうこととなった。特に、「福祉元年」と呼ばれた1973年に、田中角栄が年金給付水準を大幅に引き上げて以来、公的年金は完全に賦課方式になってしまった。
おかげで、戦前派の老人たちは、支払った保険料をはるかに超える給付をもらうことができた。厚生労働省は、今でも、年金に加入すれば、負担以上の給付が受けられると宣伝している。2003年に発表された厚労省の試算によれば、平均寿命まで生きた場合、厚生年金の給付総額は、最低でも保険料負担の総額の2.1倍受け取れるとのことである。超低金利のこの御時世、もしも本当に負担以上の給付が受けられるのならば、江角マキコを起用した広告に6億2000万円を投じて宣伝しなくても、国民は自発的に加入するはずなのだが、実際には、保険料の未納率は年々上昇し、現在では4割近くに達する。「入会すれば、投資した額以上の収入を手にすることができる」と騙る、ネズミ講まがいの勧誘文句は、賢明な国民には通用していないようだ。
ネズミ講を英語でピラミッド・スキーム(pyramid scheme)という。ネズミ講は、親会員、子会員、孫会員と末端に行くほどねずみ算式に、つまりピラミッド型に数が増えていかないと成り立たない。子会員が親会員(もしくはそれより上位の会員)に支払った金以上の金を孫会員(もしくはそれより下位の会員)から取らなければいけないからだ。人口構成がピラミッド型で、経済が右肩上がりの時は、公的年金という国営ネズミ講はうまくいった。しかし、ピラミッドの最下層を形成してきた団塊の世代が、負担者から受給者になろうとしたとたん、国営ネズミ講は破綻する。破綻を回避しようとするならば、国庫負担あるいは事業主負担を増やすしかないが、どちらも国民の負担を増やすことには変わりがないのだから、「支払い以上の給付」が幻想に過ぎないことが暴露される。
国は、「無限連鎖講の防止に関する法律」を作って、民間人がネズミ講をすることを禁止している。この法律の第1条には、次のように書かれている。
この法律は、無限連鎖講が、終局において破たんすべき性質のものであるのにかかわらずいたずらに関係者の射幸心をあおり、加入者の相当部分の者に経済的な損失を与えるに至るものであることにかんがみ、これに関与する行為を禁止するとともに、その防止に関する調査及び啓もう活動について規定を設けることにより、無限連鎖講がもたらす社会的な害悪を防止することを目的とする。[3]
厚労省の役人は、この条文をよく読んでみる必要がある。賦課方式の公的年金が「終局において破たんすべき性質のものであるのにかかわらず」、支払った保険料以上の過大な給付を約束して「いたずらに関係者の射幸心をあおり」、戦前生まれの老人を除く「加入者の相当部分の者に経済的な損失を与えるに至るもの」ではないかと自問しながら。
今の若い人たちは、過剰な年金給付を受けた戦前派の老人に憎悪を抱くかもしれない。だが、怒りをぶつける対象を間違えてはいけない。戦前生まれの老人たちは、戦争中、国のためにすべてを捧げ、すべてを失った被害者たちなのであり、過剰な年金給付は、その被害に対する賠償である。真に憎むべきは、国民から預かった金を太平洋戦争やグリーンピア事業などの博打的公共事業に湯水のごとく使う官僚や政治屋たちの浪費体質である[*]。年金官僚たちは、賦課方式の年金の理念を「世代間の支えあい」と呼んでいる。しかし、ごまかされてはいけない。公的年金制度は、現役の世代が高齢の世代を支えるための制度ではなくて、国民が官僚と政治屋を支えるための制度なのである。
[*] 1942年に施行された労働者年金保険法は、軍部が成立に反対していたぐらいだから、もともとは戦費調達のために作られたわけではないと言える。だが、結果としてその積立金の大半が、直接にか間接にかは別として、戦争遂行に使われたことは否めない[4]。
4. 公的年金保険の改革
破綻しつつある公的年金保険を、国民のためになり、かつ持続可能な社会保険にするには、どうすればよいのか。改革のために必要な要点は、1.賦課方式を積立方式に改めること、2.被保険者が運用機関を選べるようにすること、そして、給付総額を減らすために、3.すべての高齢者を弱者扱いしないことの三つである。
三番目の改革は、定年制の廃止を含意している。定年制には、定年までは不必要な人材を解雇できず、定年後には必要な人材までを解雇してしまうという二つの弊害がある。これらの弊害を是正することになるのだから、定年制の廃止は、定年制のたんなる延長とは異なって、企業の負担を増やすことにはならない。
定年制は、「高齢者は使い物にならないから、隠退するべきだ」という考えに基づいているが、真実はこの逆で、「高齢者は隠退するから、使い物にならなくなる」のである。私事で恐縮だが、私には、65歳になる母がいる。長い間、靴下製造工場で働いていたが、60歳を越えた時、定年退職となった。すると、たちまちいろいろな病気が現れて、寝たきり状態になった。ところが、その後、冬になって工場が忙しくなったり、新人教育のためにベテランが必要になったりすると、再雇用の声がかかった。明日から仕事となると、それまでの病気が嘘のように治って、翌日から元気に出かける。今でも、レイオフと再雇用を繰り返しているが、同じような現象が起きる。本人も不思議がっている。
日本には、寝たきりの痴呆老人が多い。だが、年齢による雇用差別が行われていない、エイジレス社会の国では、そうした老人はほとんどいない。寝たきりや痴呆は、自然発生する生理的現象というよりも、定年制によって人為的に生み出される社会的病理なのだ。生涯現役社会を作れば、たんに年金の給付額を抑えることができるだけでなく、老人医療費をも抑制することができる。
エイジレス社会を目指すのであれば、65歳以上の被保険者全員に保険金を支払う年金制度は、少なくとも社会保険としては、不要である。保険金の支給は、年齢とは無関係に、無職・低資産の生活困窮者に限定するべきだ。政府・与党は、高齢者でも高所得者の場合は年金給付を減額する方針を打ち出しているが、これだけでは、働かないことを推奨しているようなものである。給付減額は、所得の高さだけでなく、資産の多さをも基準にしなければならない。
私は、現行の公的年金と雇用保険と生活保護を一つの社会保険(生活保険)へと統合することを提案したい。この保険なら、明日にでも必要になるかもしれないのだから、若者も加入に納得するだろう。もちろん、これまでまじめに支払ってきた人が損をしないように、支払った保険料の多さに応じて、支給の基準を緩めたり、支給する金額を上乗せしたりするなどの移行措置も必要である。
5. 医療保険の改革
強制加入にしなければならないもう一つの社会保険は医療保険(介護保険や労災保険なども医療保険の一種と考えることにしよう)である。とはいえ、現行の公的医療保険(健保・国保など)をそのまま追認するわけにはいかない。社会保険の趣旨からすれば、医療保険の適用は、生命に関わる高額医療への支払いに限定するべきであって、日常的・恒常的にかかる小額の医療費のディスカウント制度であってはいけない。公的医療保険は、医療費を額の多少に関わらず割り引くことで、医療の需要を必要以上に押し上げ、結果的には、国内医療機関を保護する制度となっている。
社会保険をミニマムにするならば、任意加入の私保険の役割が大きくなる。そして、私的保険で逆選択が起きないようにするには、保険の単品化を阻止しなければならない。政府は、従来、保険会社に生命保険と損害保険の兼業を禁止し、どちらにも属さない第三分野(がん保険や医療保険)を外資系に開放するという、縦割り共存型の規制を行ってきた。近年、金融自由化の流れを受けて、業態間の垣根は取り払われつつあるが、保険のパッケージ化を可能にするためにも、縦割り共存型から横割り競争型への移行を今後も推進していくべきだ。
なぜパッケージ化が望ましいのかを、具体例を使って説明しよう。今、病弱だけれども、特殊な技能を持ち、高収入であるA氏と、健康以外にとりえのないB氏がいるとしよう。私保険の医療保険と雇用保険が別々ならば、A氏は医療保険にだけ入り、B氏は雇用保険にだけ入るので、逆選択が起きる。二つの保険を合併すれば、A氏は、医療保険ではハイリスク、雇用保険ではローリスクで、B氏は、医療保険ではローリスク、雇用保険ではハイリスクで、全体としてリスクが中程度になる。すべてにおいてハイリスクである被保険者は、すべてにおいてローリスクである被保険者と同様に、被保険項目の数が増えるにしたがって、ゼロに近づくので、保険者にとっての逆選択と被保険者にとっての逆選択の両方を防止できる。
「最終的にすべての保険を民間の保険会社に任せることは不安だから、せめて保険会社の保険だけでも政府がするべきではないのか」と考える人がいるかもしれない。だが、保険会社の保険、すなわち再保険も、高度な金融テクノロジーを有する再保険専門会社に委ねた方が安心である。世界には、ミュンヘン再保険会社やスイス再保険会社など数百社の再保険専門会社が存在する[5]。政府は、生産業務からはすべて撤退するべきであり、保険会社に情報を開示させるなど、政府本来の仕事に専念するべきである。
6. 結論
最後に結論をまとめよう。社会福祉による所得の再配分よりも保険によるリスクファイナンスの方が優れているのは、個人単位での負担と受益の関係が明確で、市場原理を導入しやすく、その結果、掛け金が効率的に運用されるからである。ミニマムな社会保険でリスクヘッジをする小さな政府は、モラルハザードを許容する大きな政府やハイリスク過ぎる無政府状態とは異なる、最も望ましい選択肢である。
7. 参照情報
- ↑社会保障担当参事官室. “社会保障の給付と負担の現状と国際比較." 2009/09/03.
- ↑Security and Exchange commission, U.S. Federal Govt. “The unsustainable geometric progression of a classic pyramid scheme.” Licensed under CC-0.
- ↑「無限連鎖講の防止に関する法律」昭和五十三年法律第百一号.
- ↑鍾 家新.『日本型福祉国家の形成と「十五年戦争」』ミネルヴァ書房 (1998/10/1).
- ↑上山 道生. 『保険経済論』中央経済社 (1999/04).
ディスカッション
コメント一覧
保険のパッケージ化によって逆選択が回避されることはわかりましたが、当人にとって必要の無い部分についても保険料を払わせることは、更なるモラルハザードを招くのではないでしょうか?
私保険の場合、どのようにパッケージ化するかは、各保険会社の自由ですから、多様な組み合わせの中から自分に一番適しているものを選べばよいのです。ただ、自分には縁がないと思えるリスクでも、確率がゼロでない限り、保険をかけておいた方が、後悔しなくてすみます。個別に手続きすることが面倒で入り忘れることを防ぐのも、パッケージ化のメリットの一つです。
といわれています。しかし、現実には、こうしたハイリスクで不運な人たちは、自殺するか、病死しており、犯罪にはしる危険はないのではないですか。一方、ノーリスクの役人連中は、ハイリスクを彼らに肩代わりをさせることに大成功しています。しかもこうした不当な仕組みを見抜くことができる能力のある人たちは、どちらかと言えば、ローリスクハイリターンの側にいる人たちです。要するに、情報処理能力の格差を是正することの方が急務な気がします。
衣食足りて礼節を知るという故事成語があります。衣食が足りていて礼節を知らない人もいますが、衣食が足りなくなればなるほど、礼節を知らない人が増えることも事実です。例えば、北朝鮮には、死刑を覚悟で法を犯す人がたくさんいます。しかし、それは、北朝鮮の人々の遵法精神が低いからではなくて、少しでも可能性のある生を選んでいるに過ぎません。
北朝鮮において、死を賭した犯罪行為が狂気の沙汰とは言いがたいどころか、極めて妥当な選択であり得るということについては、まったく賛成です。むしろもっとやろうぜといいたいぐらいです。 問題は、にもかかわらず長期にわたって、リスクを分散するのではなく、隠蔽し、転嫁しうるということです。良く分からないのは、この仕組みです。明らかに、リスクの分散(保険)よりは、隠蔽や転嫁を選好しているように思えます。なぜなんですか?北朝鮮にとってさえというか、北朝鮮にとってこそ、この選択は、決して安い選択ではないはずです。
「リスクの分散(保険)よりは、隠蔽や転嫁を選好」するというのはどういうことですか。
例えば、三菱自動車は、欠陥があり脱輪のリスクがあるトラックであるにもかかわらず、このリスクを隠蔽していました。この隠蔽のため、リコールが延期され、それが結局バレて、三菱自動車のブランド価値は低下しました。前にも似たようなことをしています。つまり、リスクを明示して、それに対してコストを払う方が、ブランドの崩壊リスクを賭してリスクを隠蔽するより安いと、なぜ判断できないのでしょうか。本田やトヨタのように。また、最近森ビルで小学生が回転ドアに挟まれて死にました。森ビルと三和シャッターとの間で責任のなすりあいをしています。何とかして経営責任のリスクを相手に転嫁しようとしていますが、両者のブランド価値の低下というリスクは視野に入っていない気がします。こうした組織は、リスクを認め、明示し、リスク分散や、リスクを低減させる代わりに、リスクを隠蔽したり、転嫁するという大きなリスクを選好しているように思えます。
リスクという言葉の使い方がおかしいです。それなら「リスクの隠蔽」「リスクの転嫁」と言わずに、「過失の隠蔽」「責任の転嫁」と言うべきでしょう。「リスクの分散(保険)よりは、隠蔽や転嫁を選好」するというのは、モラル・ハザードのことを言っているのですか。
過失の隠蔽や責任の転嫁にはリスクが伴いますよね。つまり、隠蔽がばれれば、より大きなリスクを背負いますし、責任の転嫁に失敗するとやはり大きなリスクを背負うことになります。つまり、小さなリスクの回避のために、比較できないほどの大きなリスクを取っているように思えます。モラルハザードの場合は、確かに、当人にとっては、ノーリスクあるいはローリスクのように思えても、社会的には、非常に大きなリスクを取っていることになると思います。(こういうリスクの使い方って変ですかね)リスクを限定、確定する代わりに、リスクを不確定、増大させる方を選好するように思えます。それが分かりません。馬鹿げているように思います。
保険学では、保険金詐欺などをモラルハザードと呼んでいます。保険金詐欺は犯罪です。犯罪が発覚するかもしれないというリスクは、もちろん、保険の対象にはなりません。保険の対象となっているリスクとそれ以外のリスクを区別しましょう。
わかりました。過失は保険によりカバー可能ですが、過失の隠蔽は犯罪であり、保険でカバーできないリスクを取ることになります。これが、モラルハザードなんですね。要するに私の質問は、モラルハザードを保険よりなぜ選好するか?ということです。
モラルハザードが保険の悪用だとするならば、「モラルハザードを保険よりなぜ選好するか」という問題の立て方でもまだおかしいことになります。「なぜ保険を悪用する人がいるのか」という質問ならわかります。この質問に対する答えは、「なぜ刑罰があるにもかかわらず、犯罪を犯す人がいるのか」という問いに対する答えと同様です。ばれなければ大きな利益を手に入れることができるからです。
自由主義的な思想に基づいた論理構成を展開すれば、必然的な論理的帰結はもちろんこうなると思います。それについては異論はありません。ただしこれを社会政策として果たして実施できるかどうかになると、少なからず疑問があります。それらは主に、純粋な意味での保険として国民一人一人が保険料を支払うという形式そのものに付随して想定される事態です。思いつくままに感じた疑問点は以下のとおりです。
1 保険としての強制加入をどう担保するか?
一例を挙げましょう。DQNである一組の夫婦がいたとします。妻は専業主婦で、子供が2人いますが、夫婦が離婚しました。妻が子供を引き取りましたが、夫は保険料を支払っていませんでした。このケースにおいて離婚後に夫を逮捕したとしても、妻の問題解決には何も役立ちません。妻に身寄りがなければ、親の援助を仰ぐこともできません。強制加入は法律上は可能かもしれませんが、夫が保険料という金を払っていなければ絵に書いた餅に過ぎません。そもそもDQNの夫婦が保険によるリスク回避の意義を理解するでしょうか?これはいわゆるバカの壁について指してます。またえてして生活困窮者ほど生命保険さえ加入していません。さしあたって生活するための金にも困っているのだから、保険になんて入れないのです。
2 (改革の要点1と3に関連して)積立方式とは具体的に何を指すのか?
これは年金部分についてのみ適用するものと解釈しました。ただし高額所得者はこれを楯に保険料の掛け込み額に相当する給付を要求するのではないでしょうか?彼等はなにも老人になってまであくせく働く必要性がありません。すべての高齢者を弱者扱いしないことにはもちろん賛成ですが、こと高額所得者についてとなると論理の不整合性を感じます。
3 保険給付の判定のありかた。
「保険金の支給は、年齢とは無関係に、無職・低資産の生活困窮者に限定するべきだ。」趣旨はよく分かります。ただし実務的にはとても難しい問題です。まず収入の正確な把握ができるかどうか。自営業者は特にそうです。また低収入でも親から相続した土地の資産がある人もいます。でもこのバブルがはじけた時代に買い手自体が現れないこともありますね。ここの項目は民間がどうだとか国がどうだとかいう問題ではないですが、ここの項目は言葉で言うほど簡単な問題ではないことについて留意してください。
なお私考としては、消費税の福祉目的税化が一番導入しやすく、また制度としての破綻がないと思います。確かに社会保険庁は解体したほうがましかもしれませんが、ただ保険の強制加入を前提としたこの論旨の展開には大いに疑問を感じます。そもそも現在の社会保険の理念自体が国民皆保険であり、それが現実に崩壊しているのですから。保険料の徴収の確実性・コストも加味した論議が欲しいですね。学問においては誤りはあとから正すことができますが、こと国の施策となると、いったん導入した制度についての根本的な欠陥は取り返しがつきません。これは現在の国民皆保険制度がまさにそうなのですけどね。
4 民間保険会社への強制加入の是非について。
論考によると新たな保険について国民全員が民間の保険会社に強制的に加入することになるわけですが、これは基本的に民法の契約行為にあたらないと考えられます。当事者の自発的意思によって、書面ないしは口頭で同意すれば契約行為が成立するというのが民法の規定です。また罰則規定をどうするのか。保険料未払いを理由にまさか逮捕するわけにもいきません。それこそ国家による国民への不当な介入であるといえないでしょうか。その時点で自由主義的な思考ではありえません。
5 現行の社会保険制度の崩壊の一因について。
保険料未納者に対する強制徴収がなされていない。換言すると社会保険庁には強制徴収をするためのノウハウもなく、またキャパシティがないというのが事態の悪化に拍車を掛けています。また全体の4割にあたる保険料の未納者がいれば、どんな民間保険会社でも倒産するでしょう。いくら民間だからといっても、強制的に加入させられてみんなが喜んで保険料を支払うでしょうか?保険会社にしてもそんな保険なんて引き受けたくないでしょう。民間だったら何事もうまくいくというレッセ・フェールの考え方はあまりに事態を楽観視しすぎであるにも受け取れます。
6 現行の社会保険制度による資金の運用について。
なんといっても断罪されるべきは社会保険庁の高級官僚です。これまで資金の運営があまりに不透明すぎたことは間違いないでしょう。ただし、資金を全額国債購入にあてていれば、少なくともグリーンピアのような問題は起こらなかったとも考えられます。
これまで長々と述べてきましたが、保険者が民間か国家かという問題ではなく、むしろ問題の本質は国民皆保険という曖昧な制度自体にあると考えます。もちろんそれがすべてであるとは言いませんが。
現在の保険料の徴収方法よりも消費税方式の方が、徴税コストが低いという点で優れているという考えには賛成ですが、給付と負担の個人単位での責任関係が不明確となるため、運用面でのモラルハザードを防ぐことはできません。「資金を全額国債購入にあてていれば、少なくともグリーンピアのような問題は起こらなかった」とありますが、国債で集めた金をグリーンピアの建設に使うなら、同じことです。
「賦課方式を積立方式に改める」ということは、福祉方式から保険方式へと改めるということを、すなわち、給付と負担の個人単位での責任関係を明確にするということです。もっとも、私が提案しているように、公的年金と生活保護を廃止して、雇用保険に統合してしまうと、貯蓄型というよりも掛け捨て型になるので、積立方式という言葉は不適切ですね。積立方式は、厳密には、「支払った保険料の多さに応じて、支給の基準を緩めたり、支給する金額を上乗せしたりするなどの移行措置」にしかあてはまりません。
保険料を個人から徴収しようとすると、ご指摘のように、いろいろな問題が出てきます。ただし、「生活するための金にも困っているのだから、保険になんて入れない」という問題点は、本文で既に取り上げられています。「保険料を支払うこともできないような状態になることに対して、保険をかければよい」のです。
徴税の技術的な問題は、本文で取り上げませんでしたが、私は、「電子マネー導入による経済の安定化」で提案した電子マネーのシステムにより、解決できると考えています。このシステムは、マネーサプライの自動調節や貨幣偽造防止という点で優れていますが、低コストで確実な徴税という点でも威力を発揮します。
このシステムでは、すべての貨幣取引のログが中央銀行のサーバーに残るので、個人単位での所得と消費を把握したり、自営業者の所得から税を天引きしたりすることができます。もちろん、物々交換までは把握できないので、所得と消費の差の累積をそのまま資産とみなすことはできませんが、一般に資産は大きければ大きいほど隠しにくいので、高資産の失業者に保険金を支払わないことは、技術的にそれほど難しくはないでしょう。
私が提案した電子マネーのシステムは、プライバシーの侵害に当たると危惧する人もいるでしょうが、プライバシーの権利には脱税の自由が含まれていないのですから、個人情報を守らなければならないのは当然としても、それを徴税のために使うことは許されるでしょう。
国の強制保険事業に参入する民間の保険会社が本当にあるのかという点についても、楽観しています。いかなる被保険者をも拒めないというデメリットがある反面、客を保険に加入させる勧誘コストを大幅に減らすことが出来るというメリットがあるからです。
私が重視したいのはいわゆるバカの壁に象徴されるように、国民ないしは一般大衆が必ずしも全員賢明なわけではなく、また同様に理性的に行動するわけではないという経済モデルの構築などにありがちな前提の落とし穴について言及したかったのですが、ややこれは運用面での実務的な話に過ぎたようです。
むしろ論考を再読して、国家がなすべきこととは何か?という深遠なる問いに対して、社会保険事業も決して聖域であるわけではないというテーゼなのであると理解しました。当然ご承知のように、いわゆる警察業務もまた民間にアウトソーシングできる部分があるでしょう。「19世紀のアメリカの警察は、街路に落ちている馬糞を拾う一方で犯罪捜査は民間に任せていた」(警察のことがよく分かる事典 日本実業出版社 P40)論考のタイトルを見る限りではこれまで警察業務を取り扱っていないようにも見受けられますが、いつか警察業務のアウトソーシングについても言及していただけたらと思います。
>>発展途上国を豊かにしようとするのなら、弱者救済のイデオロギーと決別して、養育保険制度を導入し、人口を減らし、集約的な教育投資により労働生産性を上げるべきだ。
「発展途上国が先進国となる過程においては一旦国民の人口が減少する事象が不可欠である」
という事が証明されなければ、たとえ”(国民生活を)豊かにする”という名目でも発展途上国の人口を減らす事は人道的にはしてはならない事の様に思えるのですが。
生きている人を見殺しにするというのなら人道的に問題がありますが、教育コストを上げることで出生率を低下させるということには、人道的な問題はないと思います。
返答ありがとうございます。
死亡数を減らしながら出生数をそれ以上に減らせば確かに人口は減りますねえ・・・・・・。
前近代社会は、多産多死、近代社会は多産少死、ポスト近代社会は少産少死です。人口が停滞もしくは減少するといっても、前近代社会とポスト近代社会とでは、その原因が異なるのです。
「保険料を支払うこともできないような状態になることに対して、保険をかければよい」とありますが、この制度を適用しようとする段階で既に保険料を支払えない状態である人からどのように保険料を徴収すれば良いのでしょうか?
また、「保険金を支払わずに、私生児を産むことは、処罰の対象としなければならない。」とありますが、犯罪などにより望まない出産をした人は処罰されるのでしょうか?その子どもが重症心身障害児だった場合、養育費はどこからも支払われないのでしょうか?
現在保険料を払うことができないような経済水準の人々に対して、これまでの社会保険と福祉の制度を過渡的部分的に存続させる移行措置を取れば、問題はないでしょう。社会福祉を廃止するといっても、すべてを一度に廃止するということではなくて、段階的に廃止することで、ご指摘のような問題は解決されます。また、保険金を支払わずに、私生児を産むことを処罰の対象とすることは、本人の自由意志で産むことが前提になっています。自由なくして責任なしはあらゆる法の大前提です。強姦で子供が生まれた場合、全ての責任は、強姦した側に帰されます。しかし、中絶することができるにもかかわらず、中絶しない選択肢を選んだ場合は、産む側にも、保険金を支払うなどの責任が生じてきます。
なぜ貧乏人や病気の人を社会が助けなくてはならないのでしょうか?
生きててもなんの貢献も出来ないから、死にますって、当人の方から言い出すべきだと思います。
そのためのコストを若者の教育や子育てにあてがった方が、社会全体のためだし。
なので、社会の落伍者は山で死にましょうってモラルというか社会通念を形成させていくべきだと思います。
もちろん、ボクが老人になった時は潔く死にます。みじめに涎や糞尿を垂れ流して生きていたくありませんし。
それが嫌なら民間の保険に入ったり、家族に依存したらいいんですよ。
生活保護を貰うのは恥だ!って意見の人は多いと思いますが、年金は意地でも多く貰ってやる!って人が多いです。
この違いは何なんですかね?
社会的セイフティ・ネットは、社会的多様性を維持するために必要です。多様性がなくなると、社会システムは、環境適応ができても変化適応ができなくなってしまいます。
子育てや教育に公的支出が行われるのも同じ理由によります。つまり、多様性を維持することによる変化適応力の保持です。これについては、「教育を無償にすることは可能か」を参照して下さい。
年金では、加入者が保険料を払っているので、保険金を受け取ることに対して権利意識を持っているのに対して、生活保護の場合はそうではないという違いによります。生活保護も、税金を保険料とした保険という性格を持っており、その点をはっきりさせようというのが、本稿の趣旨です。
多様性が多い方が良いってのはなぜですか?
仮に、10歳の女の子をボコボコにしばいて性欲処理をしているお父さんがいるとします。
永井先生はその子に、性癖の多様性があるってことは楽しいねえ!とでも言いますか?
それを言われたらボクはのけ反るしかないですが。
なんでこんな極例を言うかというと
自分の欲求のために、他人に苦痛を強いているという形では同じと思うからです。
ボクには社会の落伍者も強姦父さんも、生きてる価値が分からない。
ホームレスによる変化適応とか、こんな多様性いりますか?
「社会の落伍者」は刑罰に処せられませんが、「強姦父さん」には重罰が科せられます。法的扱いが全然異なる二つの事例をなぜ一緒にするのですか。
法律なんてものは、たまたま社会の意識の流行がそうであったから、にすぎないと思うからです。
今日、同性愛が合法化されりゃ、明日死刑が禁止される世の中です。
近未来の、人類が5万人にまで減少した地球では
極潰しこそ重罪で、近親強姦なんてとるにたらない行為とみなされる世界がくるかもしれません。
ボクは、哲学思考で遊ぶ者として、
現行の法律じゃダメだからダメなのだ!みたいな意見には納得できないな・・・
繰り返しますが、社会の落伍者を救おうなんてのは、
どこぞの裕福な人道家の道楽で、ボクらまでつき合わされてるのだと思います。
多様性なんか意味わからない。
社会の富に余剰があるから、まぁまだ文句が噴出してないんじゃないですかね。
刑務所暮らし以下の生活をしている貧困者を救わないと、貧困者は刑務所に入るために殺人をするようになりますが、それでよいのですか。
いい考えですね。
いっそ全国にある老人ホームと刑務所を合併してしまいましょうよ。
現在の介護業界って、誰もが嫌がる、ほかに採用されるところがない人の
最後に行きつくところだと思います。
介護行くくらいなら生活保護貰おうぜ!って考えの貧困者がどれほどいるか。
だから強制労働させたらいいんですよ。
生活保護を貰っているような貧困者に必要なのは、スキルや社会参加への意欲ではなく
ムチ持って背中を蹴り飛ばす人間です。政府がそれをやりゃあいい。
そいつらに老人の世話をさせることによって、今の介護をせざるを得ない
本来は他に未来があったかもしれない若者の人生を救う事にもつながります。
老人のうんちを嗅ぎたいがために、殺人を犯す人も出て来ないだろうし。
若年の受刑者が刑務作業として高齢受刑者の介護を行うということなら、もうすでに行われていて、ほとんど介護施設のようになっている刑務所もあります。近年特別養護老人ホームに入居できない待機高齢者が増えており、刑務所で介護サービスを受けるために罪を犯す待機高齢者もいます。しかし、刑務所の方がコストがかかるのだから、これは社会にとって好ましいことではありません。
実はボク、ある地方政府で禄を食んでいる者です。
2017年1月から401k(個人型)に加入できるようになりました。でも、ボクは加入しません。その理由は4点。
(1)支払手数料よりも減税額のほうが大きくなるというが、なぜか損をするような気がすること。(ボクのアタマが弱いせいですね。すみません。)
(2)社内預金の利率が1%程度なので、そっちのほうが得ではなかろうか、と思うこと。(共済組合の社内預金は、なぜ こんなに高金利なんだろう。税金が投入されているんだろうか?)
(3)60歳以上にならないと引き出せないこと。
(4)金融リテラシーのない者には、現行の財形年金で充分と思われること。
社内預金には、法律上下限金利があって、現在は年0.5%です。福利厚生が目的だから、通常、それ以上に設定されています。共済組合貯金の場合、リスクの低さを考えるなら、もっと引き下げるべきでしょう。日本の公務員は恵まれすぎています。
くやしかったら公務員になれ
こういうことを言う人は、社会レベルの問題と個人レベルの問題とを混同しています。自分は公務員ではないから公務員に嫉妬するとか、自分は公務員だから公務員の既得権益を擁護するとかいったポジション・トークは、個人レベルの問題であって、公務員を優遇し、その結果優秀な人材が公務員に集中することが社会全体にどのような影響を与えるかといった社会レベルの問題は区別する必要があります。私が問題にしているのは後者の方です。
介護保険を廃止して、安楽死を合法化しよう。
ボクは孤独死することが確実なので、介護保険は払い損です。介護保険の保険料は、死ぬまで支払い義務があります。国民年金は60歳で払い終わるのに。