資本主義の未来
アメリカでは、70年代以降、貧富の格差が広がっているが、日本でも80年代以降、同じ現象が起きている。社会主義経済が崩壊し、市場経済が勝利をおさめ、いまやグローバリゼーションの波が世界中を覆っている。他方で、これが人類にとって好ましい現象なのだろうかと首を傾げる人もいる。そうしたレスター・サローの『資本主義の未来』の問題提起に答えよう。
1. グローバリゼーションは貧富の差を広げるか
第一次石油危機のあった1973年という年は、福祉国家によるインフレ型成長が停止した年であり、また変動相場制の開始により、市場経済のグローバル化が始まった年でもある。
1973年から1994年にかけて、アメリカの実質的な一人当たりの国内生産高は33%増えたが、非管理職(部下を持たない男女)の実質的な時給は14%減り、実質的な週給は19%下落した。[1]
1973年から1992年にかけてのアメリカ人男性の年収を比べてみると、実質で(つまりインフレ率の影響を取り除いて)上昇しているのは、上位20%の階層だけで、残りの80%はすべて下落しており、かつ、年収の低い階層に行くにしたがって、下落率は大きくなる。但し、世帯の所得は、上位40%の階層で上昇していて、各階層とも、賃金よりも上昇率が高い[2]。
男性の賃金水準の上昇率よりも世帯所得の上昇率がよいのは、女性の社会進出のためだけではない。女性労働者の賃金水準もまた、四大卒以上のエリートを除けば、下落している。勤労所得よりも所得全体の上昇率がよいのは、働くよりも株などに投資したほうが儲かるということである。もちろん、株を買うことができるのは、上の階層に限られる。ここから、富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなっていくアメリカ経済の実態を読み取ることができる。
20年間にわたって、実質的な賃金が下落しているのは、アメリカの統計の歴史が始まって以来のことであった。そして、この20年間は、アメリカが日本との価格競争に敗れた20年間でもあった。その日本は、今かつてのアメリカと同様に、新興工業国の追い上げに苦しんでいる。経済のグローバル化が進めば進むほど、先進国における単純労働の賃金水準は、発展途上国の最低水準に向かって下落するようになる。
ほとんどの国民が、定年までの終身雇用が保証され、中流という意識を持っていた古き良き時代を懐かしむ日本人の中には、貧富の格差の拡大を憂い、グローバリゼーションに反対する人も少なくない。しかし、グローバリゼーションは本当に貧者の数を増やすものなのか。
レスター・サローは、一方で先進国の未来を悲観的に描きながら、他方で中国の未来をかなり楽観的に描いている。日本→アジアNIES→東南アジア→中国と広がる近代化と経済成長の波は、いまやインドにまで及んでいる。今後、東欧、旧ソ連、ラテンアメリカ、そして最後にアフリカへと、近代化と経済成長の波は地球の隅々にまで及ぶだろう。これは、グローバリゼーションのもう一つの側面である。
2. 国際社会からグローバル社会へ
高度成長時代の日本は、確かに今と比べれば、平等だった[3]。しかし、この時代の人類に貧富の格差がなかったわけではない。先進国と発展途上国との間に、南北問題と呼ばれる貧富の格差の問題があった。
1973年以降がグローバルな時代であるとするならば、それ以前はインターナショナルな時代であったと言うことができる。インターナショナルな時代では、ネイション(国家)単位で貧富の差が決まる。アメリカやヨーロッパや日本といった先進国では、人々は平等に金持ちになり、アフリカやラテンアメリカなどの発展途上国では、人々は平等に貧乏だった。自立的な国民国家が、それぞれ福祉政策を推し進める国際的分業社会では、平等であるがゆえに不平等であるというパラドックスが成り立つ。
ネイションとネイションの垣根が低くなり、ボーダレス化すると、企業は、高福祉高負担の国を捨て、よりコストパーフォーマンスの良い国に移動し始める。その結果、先進国は産業の空洞化を避けるために、福祉水準を切り下げなければならなくなる。一方で発展途上国に富裕階層が現れ、他方で先進国に貧困階層が現れる。グローバルなボーダーレス社会では、不平等であるがゆえに平等になるという逆のパラドックスが成り立つ。
国内が平等であるがゆえに世界が不平等であったインターナショナルな社会と国内が不平等になるがゆえに世界が平等になるグローバル社会とどちらが望ましいだろうか。私は、豊かになれるか否かが、どこで産まれるかといった先天的要素で決まる社会よりも、産まれた後の努力といった後天的な要素で決まる社会のほうが望ましいと思う。グローバリゼーションは、機会の均等という点では望ましいことである。
インターナショナルな社会では、国家が競争の主体であったのに対して、グローバルな社会では、個人が競争の主体となる。先進国の国民だから、あるいは大企業の社員だから豊かになれるという保証はどこにもない。個人は、自分にどれだけの市場価値があるのか、グローバルな視点で評価しなければならなくなっている。
3. 情報社会には比較優位がないのか
1900年1月1日の時点での全米最大手企業12社のうち、10社は天然資源関係の企業だった。その12社のうち、次の世紀までそのまま生き残ったのはジェネラル・エレクトリック(GE)だけである。工業社会から情報社会への変遷を示す象徴的な話である。
19世紀及び20世紀の工業社会においては、たいていの産業には、自然の、神から与えられた地理的本土があった。[…]これに対して、人的頭脳産業には、自然のあらかじめ決められた本土はない。[4]
産業が自然的制約を脱するにつれて、世界は地理的特殊性を無差別化する。だからといって、比較優位への特化が無意味になるわけではない。むしろ脱工業化により、個人の差別化が進むのだから、個人レベルでの比較優位への特化が必要になってくる。
比較優位を利用するすべての国の収入の合計は増大する。しかし、どの国にも利益を失う個人が存在するであろう。[5]
どうもレスター・サローは、リカードの比較生産費説が国際間分業にしか成り立たないと考えているようだ。国家だけでなく、個人もまた、何でも自分でやるよりも、比較優位のある分野に特化した方が全体の生産性が向上する。もちろん、グローバリゼーションと自由化によって過大な転職コストを払わなければならない個人も出てくるだろうが、その責任はグローバリゼーションと自由化そのものにあるのではなくて、比較劣位にある国内産業を規制や補助金で保護してきた政府にある。
4. 資本主義は民主主義的ではないのか
民主主義と資本主義は権力の適切な配分に関してとても異なった信念を持っている。民主主義は「一人一票」という完全に平等な政治的権力の配分をよしとするのに対して、資本主義は、経済的な適合者が、不適合者をビジネスから追い出し、経済的に淘汰するのが義務であると信じている。[6]
市場経済が競争そのものであるのに対して、民主主義政治では競争のルールを決めるので、より平等な権限が人々に与えられている。もっとも、民主主義政治が平等といっても、それは投票する機会が平等なのであって、投票の結果はすべての投票者を満足させるわけではないという意味で、結果の平等までは保証していない。同様に、市場経済も、競争に参入する機会は平等に与えられているが、競争の結果は平等ではない。
5. 長期的な投資は政府がするべきか
地球温暖化やオゾンの枯渇といった、長期にわたる環境問題に関して、資本主義社会が何をするというのか。どちらのケースでも、現在することは、50年から100年先の環境に影響を与えるものの、現在の出来事にはなんら顕著な影響をも与えない。[7]
このように、短期の利益を追求する資本主義は、リターンがあまりにも遅すぎる分野に投資できないとレスター・サローは主張するのだが、資本主義は本当にそのように近視眼的なのだろうか。そもそも、資本主義とは、それ以前の社会とは異なって、長期的なビジョンに基づいて、短期的な享楽を犠牲にし、禁欲的に蓄積をするプロテスタンティズムの倫理に基づいているのではないのか。
もちろん、現代の資本主義の参加者たちには、そのような精神はないと言うことは可能である。だが、投資家が短期的な利益を目指しているから、長期的な投資ができないというわけではない。
例えば、すべての投資家が10年以内に収益を確保したいと願っていると仮定しよう。その場合でも、今から50年後に消費者に売れて利益をもたらす商品は、40年後に資産として転売が可能であるから、それを考えれば、30年後にも資産として転売が可能であるから … というように、期待の期待の期待の … を続けていくことで、50年後にしか売れない商品でも、今すぐ資産として売ることができる。
資本主義の投資市場においては、むしろ長期的に有望な商品への投資が盛んに行われる。長期的な影響力を持つ商品ほど資産価値があるからだ。
私も、環境問題に関しては、政府が重要な役割を果たすべきだと考えているが、それは、環境問題の解決には長期にわたる投資が必要だからではなくて、良い環境という財が、公共財(非競合性と非排除性を持った財のこと)だからである。
6. 教育は政府の仕事か
レスター・サローは、教育投資の回収には時間がかかるから、ここでも政府が主導的な役割を果たさなければならないという。
人的頭脳労働の時代においては、政府は原則として、三つの入力を供給するために主要な役割を果たさなければならないだろう。その三つの入力とは、人間の技量、技術、インフラである。21世紀の資本主義が成功するか失敗するかはここにかかっていると言えるだろう。[8]
教育サービスは、非競合性も非排除性もないので、公共財ではないので、政府がやる仕事ではない。税金で教育を行うと、人口増加が加速されるので、子供を産む人の自己負担とするべきである。それだけで財源が足りないのなら、人材供給の直接的な受益者である企業から、従業員数に応じて税を課して、奨学金の制度を作ればよい。
7. 民主主義政治は近視眼的か
レスター・サローは、資本主義の未来だけでなく、民主主義の未来に対しても悲観的である。それは、彼によれば、民主主義政治は、市場経済と同様に、意思決定者が目先の自分の利益しか考えていないからである。
最近の最も劇的な、弊害の多い社会的対立の一例が、ミシガン州のカルカスカで起きた。ここは退職者の楽園で、そこでは高齢の有権者が、学校予算を、除雪作業など他の事業に支払うために事実上奪ってしまい、学校が最終学期まで授業を続けるために財源を使うことを拒否する票決をした。[9]
これは民主主義的多数決の欠陥だろうか。私はそうは思わない。ここで問題なのは、地方自治体は、教育へ投資するには小さすぎて、受益と負担が一致しないということである。人材を必要としている企業が多数含まれるほど選挙区を広域化し、受益と負担が一致するようになれば、こういうことは起きない。
8. 資本主義は終わりを迎えているのか
レスター・サローの『資本主義の未来』は、1996年に出版された。それから10年近くがたっているが、グローバリゼーションの進展、先進国における中産階級の没落、中国の台頭など、彼の予測の多くは、外れていない。本書がいまだに読まれているゆえんである。
現象の記述と予測から一歩進んで、解釈と政策提案となると、レスター・サローには賛成しがたくなる。先進国の国民にとって福祉国家の時代は、懐かしむべき良き時代だったのかもしれないが、大きな政府による量的拡大が資源問題と環境問題を惹き起こしたことを忘れてはいけない。
1973年以降、世界経済は量的拡大から質的選別の時代に向かっている。それは、人間という種が生き残るためにはやむをえないことであるが、私はこの量から質への、集団主義から個人主義への、大きな政府から小さな政府への転換を情報革命として前向きの受け止めている。
9. 参照情報
- レスター・サロー『資本主義の未来』阪急コミュニケーションズ (1996/10/1).
- Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books; Reprint (1997/4/1).
- レスター・サロー『知識資本主義』ダイヤモンド社 (2004/9/10).
- Lester C. Thurow. Fortune Favors the Bold. HarperCollins e-books; Reprint edition (October 13, 2009).
- ↑“From 1973 to 1994, America’s real per capita GDP rose 33 percent, yet real hourly wages fell 14 percent and real weekly wages 19 percent for nonsupervisory workers (those males and females who do not boss anyone else).” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 24.
- ↑U.S. Bureau of the Census. Current Population Report, 1973; Current Income, 1992.
- ↑勇上和史.「日本の所得格差をどうみるか-格差拡大の要因をさぐる-」『JIL 労働政策レポート』Volume 3.
- ↑“In the industrial societies of the nineteenth and twentieth centuries, most industries had natural, God-given homes geographically. […] In contrast, man-made brainpower industries don’t have natural predetermined homes. ” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 8-9.
- ↑“The total income of every country that takes advantage of comparative advantage grows, but there will be individuals within each country who lose.” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 69.
- ↑“Democracy and capitalism have very different beliefs about the proper distribution of power. One believes in a completely equal distribution of political power, “one man, one vote," while the other believes that it is the duty of the economically fit to drive the unfit out of business and into economic extinction.” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 242.
- ↑“What should a capitalistic society do about long-run environmental problems such as global warming or ozone depletion? In both cases what is done now affects the environment fifty to one hundred years from now on but has no noticeable effect on what happens today.” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 302-303.
- ↑“By default in an era of man-made brainpower industries, government will have to play a central role in supplying the three inputs – human skills, technology, and infrastructures – that will determine the success or failure of twenty-first century capitalism.” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 295.
- ↑“The most dramatic recent example of impeding social conflict occurred in Kalkaska, Michigan, a retirement haven, where elderly voters essentially robbed the school budget to pay for other things such as snow plowing and then refused to vote the funds to allow the schools to finish the school year.” Lester C. Thurow. The Future of Capitalism: How Today’s Economic Forces Shape Tomorrow’s World. Penguin Books (1997/4/1). p. 105.
ディスカッション
コメント一覧
これ合ってますか?
資本制の政治体制的区分と生態学的区分による全ての国家経済の実体の説明
序論
全ての国家経済は資本制である。
その主要な区分は、全体主義型資本制、自由主義型資本制、そして自然主義型資本制の三区である。 その理由は、国家経済の政治体制的説明と生態学的説明とが、主にその三区だけで可能な為である。
1、全体主義型国家経済-権力の、権力による、権力の為の経済
全体主義型国家経済の特徴は、単純化すれば、国家における資本の経路が
「政府→大企業→中小企業→家計→住民」
であり、政府が物財を配給する事で、国家権力を一手に握っている事である。
その為、政治的にも経済的にも、利益と呼べる利益を会得可能なのは、国内においては政府のみである。 無論、物財とサービスを生産しているのは住民とその労働であるが、そのほぼ全ての権力を政府が掌握し、住民によるその権力(権利)の強化と賃金の上昇は不可能である。
その為、全体主義型国家経済においては、全ての住民には、配給による必要最低限の消費財と、その事による他の全ての国家経済を上回る貧困しか与えられていないのが現状である。 そしてその経済の中心は、住民ではなく資本である。 即ち、全体主義型国家経済とは、全体主義型資本制として説明可能である。
2、自由主義型国家経済-資本の、資本による、資本の為の経済
自由主義型国家経済の特徴は、単純化すれば、国家における資本の経路が
「政府←大企業→中小企業→家計→住民」
であり、政府と大企業とが、政治と経済という二大国家権力を、文字通り二分して所有している事である。
その為、政府が政治的な利益(功績)を上げる為には、住民(有権者)への宣伝による支持の確保が必要となる。 そして、それが実現可能な資本(資金)を用意可能なのは、国内においては大企業のみである。 一方、大企業が経済的な利益(利潤)を上げる為には、住民(従業員)への賃金による労働が必要となる。 そして、それが実現可能な資本(安全)を用意可能なのは、国内においては政府のみである。 無論、建国過程等により、住民には法や私有財産による一定の権利が与えられているが、それには政府と企業の接近は阻止不可能である。
その為、自由主義型国家経済においては、全体主義型国家経済と比較すれば、政治的にも経済的にも豊かな生活が可能な住民は多いが、政府と大企業、いずれの傘にも入れない者には、やはり貧困が与えられているのが現状である。 故に、その経済の中心は、全体主義型国家経済と同じく、住民ではなく資本である。 即ち、自由主義型国家経済は、自由主義型資本制として説明可能である。
3、自然主義型国家経済-人命の、人命による、人命の為の経済
自然主義型国家経済の特徴は、単純化すれば、国家における資本の経路が
「政府←大企業←中小企業←家計←住民」
であり、五者が五様に私利を追求しても、それがそのまま公益となる事である。
その理由は、自然主義型国家経済では、労働とサービスを合一化したものを『活働』とし、それを物財(商品)と同じく売買可能な価値の一つとする為である。 尚、活働の種類を区別する場合は、支出となる『労働的活働』と、収入となる『サービス的活働』の二種類となる。 以後、活働を生産・分配する者を『上部活働者』とし、流通・消費する者を『下部活働者』とし、活働の代金を物価ならぬ『働価』とする。 尚、両方の要素を持つ活働者は『中間活働者』とするが、説明を簡略にする為に省く事とする。
前二型の国家経済においては、いずれも上部活働者(生産者・資産家・上司等)が下部活動者(消費者・労働者・部下等)に労働と賃金の二つを与えている。 それに対し、自然主義型国家経済では、上部活働者から商品(『商働』)として売却された活働を下部活働者が働価を支払って購買し、その活働の成果(収入)で損失を補填する。 その為、上部活働者が利益を上げたければ、下部活動者の雇用数を増やせば良いのである。
無論、それでは収入が支出(働価)より少ない下部活働者の資本(私有財産)が減るばかりであり、そもそも働価を持たない者には、活働の購買すら不可能である。 しかし、中央銀行から、国家の全住民分の口座に、住民一人に付き、一日当たりその発行する最高額の法定通貨(信用貨幣)一枚分の金額を入金すれば、社会における活働の購買に関する問題は解決する。 この場合、無政府状態にならない限り、全ての住民には、生きているだけで一日当たり国家の最高額に銀行券一枚分の収入が確保される為である。 尚、銀行券の発行により生ずる中央銀行の負債は、上部活働者の市中銀行への預金とそれによる信用創出、さらに中央銀行自身の「銀行の銀行」としての機能で賄う事で補填とする。
その為、自然主義型国家経済においては、全ての住民に、原則として貧困は存在しない。 そしてその経済の中心は、前二型の国家経済とは異なり、住民と一体化した資本である。 即ち、自然主義型国家経済は、自然主義型資本制として説明可能である。
4、結論-資本制の生態学的区分
全体主義型資本制では、自我を持ち私利の追求が強い住民は、癌細胞として除去される。 その為、その構造を、権力の主体である国家を個体、政治の主体である政府をその自我、 経済の主体である企業を内蔵、社会の基本である住民を細胞、価値の基本である貨幣を血液、 生活の基本であるインフラを血管、信用の基本である中央銀行を骨髄と例える事が可能である。 即ち、全体主義型資本制とは、個体型資本制である。
自由主義型資本制では、自我を持たず私利の追求が弱い住民は、劣位個体として淘汰される。 その為、その構造を、一国家を一種、政府をその習性、 企業を個体群、一住民を一個体、貨幣をその主食、 インフラを個体の移動能力、中央銀行を主食の主食と例える事が可能である。 即ち、自由主義型資本制とは、種型資本制である。
自然主義型資本制では、自我の有無や私利の追求の強弱に関係なく、住民は生きてさえいれば経済的に排除されない場所に自動的に納まる。 その為、その構造を、国家を生態系、政府を気候、 企業を食物網、一住民を一種、貨幣を総個体数、 インフラを地力、中央銀行を温帯の太陽又は砂漠地帯の雨雲と例える事が可能である。 即ち、自然主義型資本制とは、生態系型資本制である。
この様に、全ての国家経済は、政治体制的にも生態学的にも、資本制としての区分と説明が可能である。 故に、全ての国家経済は資本制である。 尚、生態系を株券と株式市場に応用すると、購買が収入となり、配当が支出となる為、株価のネガティブ・フィードバック・コントロールが可能となる。
参考http://tail.s68.xrea.com/html/movie/lab/wave/wave02.html
5、補論-国家経済の生態系化における利点と欠点
5・1、利点-可能性
・『需要と価格の反比例化』による物価の安定化による景気の安定化
・信用貨幣の付与による生命価値の保証による倫理の向上による犯罪率の低下
・貧困の消滅による社会保障費の削減による歳出の削減
・活働の成果の下部活働者からの付受による自発的失業者の減少
・活働の売買による雇用の増加による非自発的失業者の減少
・部下の収入と上司の収入の連動による従業員の待遇の向上
・労働とサービスの合一化による『良働』による『悪働』の駆逐
・良働による悪働の駆逐による年収の社会貢献値化による高所得者層への反感の減少
・企業の従業員からの働価の徴収による従業員の半客化による労働条件の向上
・人件費の消滅と全住民への収入の恒久的確保による先進国における物価の下落と好況の同時進行(フローデフレーション?)
・活働消費税の制定とそれによる歳入増加分の全額の公務員への平等な分配による景気と公務員の給与の連動化による公務の最良化
・物財における原材料費と輸送費の比率の増加による地産地消の自然的普及
・政府~企業間の『物働交換』による歳出の削減
・歳出の削減による租税の将来的な物財消費税と活働消費税への集約
・職業の選択の根本的自由化による環境保全の推進
5・2、欠点-危険性
・刑務所からの歳入の増加を意図した強権的政府による刑罰の増加による服役者の意図的増加
・人命の価値の同額化によるエリートのプライドと倫理の崩壊による経済の停滞
・『住民と資本の同一化』による国家間の経済戦争の激化による低所得者からの収奪の激増による貧困の絶望的深刻化
・地産地消の普及による経済規模の縮小による世界経済の自然分解
・貨幣供給量の増加による貨幣膨張による経済の崩壊
・世界規模の貨幣膨張による第二次世界恐慌
・低所得者の購買力の上昇による需要の上昇による物価の上昇
・需要の上昇による発展途上国からの輸出量の低下による先進国の成長率の低下
・大企業等の先物取引による消費財の買い占めによる物価の上昇
・全体主義国家の歳入の増加による強大化
・孤児院経営者等による孤児の意図的な増加
・理論の誤解と煽動による、無政府・無企業・無家庭主義の正当化
・同じく理論の誤解と先導による世界同時多発革命の正当化
・食料需要の増加による耕地面積需要の増加による森林破壊面積の増加による砂漠化面積の増加
・消費の世界的上昇による二酸化炭素排出量の増加による温室効果の上昇
自分でも論理が怪しいと思えるので、間違っていたら否定してほしいのですが・・・・・・。
このコメント欄は、私の記事に対するコメントを書く場所です。
あ、そうだった・・・・・・そもそもコメント欄でしたね。
すみませんでした。
資本主義社会には「チキン」「ジュグラー」「クズネッツ」「コンドラチェフ」の波があると経済学者は指摘する。また、それほど波を単純化しなくとも、歴史を紐解けば、不況期の方が新技術が発明・発見され、その後の生活レベルの向上につながっていることが多い。
我々が明らかに運転しやすくなった自動車に誰でも乗れ、古代人にとってみれば初乗車で卒倒しそうな新幹線を可能にし、さらにテレポーテーションともいえる航空機を利用して、格安の通話料で携帯電話を使いながら、このようにインターネットで情報交換ができる恵まれた世の中なのである。
自動車はヒトラー以降、アウトバーン整備という道路整備とセットで高速走行可能なエンジン開発をめざし“フォルクスワーゲン”化された。
ゼロ戦開発者が新幹線開発に従事して日本の技術力を世界に知らしめることになり、ヨーロッパでも日本に負けじと高速鉄道が開発された。
B29は日本の大都市を焦土と化したが、戦後ジェット機の登場・発展で不敗神話を誇るマッハ2以上の機動力を持つF15戦闘機が核兵器以上の抑止力を持つことは軍関係者の常識(日本人には非常識)である。
日露戦争を勝利に導いたものの、太平洋戦争では暗号が解読されていながらアメリカの思惑通りに行動させられてしまった無線通信。
原始的な自給自足生活を望む革命主義の皆様には資本主義は必要ない。飢餓と疫病に自らの力のみで対抗し、集団では権力闘争してもらい、短い生涯を太く生きてもらうのみである。農業機械は資本主義の賜物であり、生産物の流通もまた資本主義なくしてありえない。
人間には無限の欲望というものがある。ライオンやサメは空腹でなければ獲物を襲わない。しかし、人間は満腹というものを知らない唯一の動物だ。その欲望を満たすシステムとしての資本主義は悲惨と称されるべきものではない。民主主義同様、消去法的必要悪である。
資本主義にも欠陥がある。危機、つまり不況や恐慌の時は“ブレイクスルー(突破)”を必要としている時であるといえる。過去の資本主義の危機は「戦争」というリセットボタンを連打し続けて多くの尊い命を失った。ウィンストン・チャーチルの言葉を借りれば、「人類は自らを絶滅させる力を持ってしまった」と。このチャーチルの言葉は第1次世界大戦後の言葉である。第2次世界大戦は「人類は自らのみならず地球上のあらゆる生物を絶滅させる力を持ってしまった」といえるだろう。2回の大きな過ちは繰り返さないように繰り返し、何度も何度も、アメリカ人のように扇動に惑わされることなく冷静に判断したい。ヒトラーも演説でドイツ人を魅了した。戦争を欲している人々の挑発にのってはならない。挑発にのったふりをして専守防衛に徹するがいい。共産主義のゆくすえはソ連か、カンボジアか、中国か。いや朝鮮「民主主義人民」共和国であろう。
経済は好景気の時は市場経済に任せるべきである。しかし、不況あるいは2009年に迎えたといわれる大恐慌と判断された時は非常事態である。積極的に政府が介入し、新しい制度、新しいビジネスモデル、新しい市場に耐えうる技術を登場させる役割がある。
1919年8月、混乱する中国・上海で執筆された「日本改造法案大綱」はその指針とならないか。著者の北一輝自身は二・二六事件にかかわった。右翼として処刑された。それは象徴天皇という日本の統治形態を無視し、天皇親政を掲げた(巻一)からであった。
しかし巻二は「私有財産限度」、巻三は「土地処分三則」、巻四は「大資本の国家統制」、巻五は「労働者の権利」、巻六は「国民の生活権利」、巻七は「朝鮮その他現在及び将来の領土改造計画」、巻八は「国家の権利」の中に現代に採用できる制度がある。巻でいうと一・七・八は日本国憲法とは相容れないものがあり削除される。恐慌という不況時には私有財産限度(私は概ね個人資産の3倍程度を上限に)、大資本の国家統制(特に金融機関の監督強化、公的資金注入にともなう報酬の制限)、児童婦人人権の擁護(日本の母子家庭は貧困層を形成している現実を含めて)は大原則ではないか。
巻二 私有財産制限
改造号の私有財産超過者
国家改造計画後の将来、私有財産限度を超過したる富を有する者はその超過額を国家に納付すべし。(中略)
注三 前世紀的社会主義に対する一般かつ有利の非難、すなわち各々平等の分配のために勤勉の動機を喪失すべしというごとき非難をこの私有財産限度製に移し加売るを得ず。第一、私有財産権を確認するがゆえに平等的共産主義に傾向せず。しかして私有財産に限度ありといえどもいささかも勤勉を傷つけず。壱百万(※大正時代の基準)以上の富は国有たるべきがゆえに、工夫は多くの賃銀を要せず商家は広き買客を欲せずと思慮するものなし。
巻四 大資本の国家統一
私人生産業限度
私人生産行の限度を資本壱千万(※大正時代の基準)円とず。(中略)いかに発達するも公共的生産が国民生活の全部を蔽うあたわずして、現実的将来は依然として小資本による私人経済が大部分を占むるものなりというもその三。国民自由の人権は生産的活動の自由において表れたるもににつきて保護助長すべきものなりというもその四。(続く)
巻六
国民の生活権利
婦人人権の権利
その夫またはその子が自己の労働を重視して婦人の分科的労働を侮蔑する言動はこれを婦人人権の蹂躙と認む。婦人はこれを告訴してその権利を保護せらるる法律を得るべし。(中略)
注三 国民平等の自由が特権のあらざるごとく一夫一婦制は理想的自由恋愛論の徹底したる境地なり。(続く)
2009年は非常事態であり、GDPがプラスに転じ、日本を代表する新しい産業が創設された際はまた民営化の方向転換をすればよい。これを修正資本主義、名誉ある撤退、耐えがたきを耐え、というのだろうか?日本は国と地方あわせて1000兆円近い負債があるが、一方で1400兆円の個人預貯金があるという。残念ながら私にも私の親族にもこのような資産を持つものがいない。ここに企業の資本を加えれば、日本は破綻などするわけがない。このまま放置しておけば金融業もも製造業も、そしてあらゆる産業と消費、人間性と信頼が破綻する。
めざめよ、富めるものよ!不老不死の薬は日本のみならずどこにもない。日本の未来のために強欲から解放されよ!
デフレになると国家社会主義を唱えるものが出るようになります。今後、日本を始め、世界各国で全体主義が台頭することを危惧しています。
デフレになると、突然、政府や地方公共団体の財政政策に期待する国家社会主義的な民間企業の経営者がでるようになります。公的資金を期待する経営者は現代を代表する国家社会主義者です。経営者は従業員の生活を守るために、安直に国家に頼るのではなく、破綻を回避すべく行動するべき。資金は健全経営の企業や資産家を頼るなど民間同士、あらゆる努力を続けるべきです。
アメリカをはじめとした日本以外の各国の軍事力をともなう全体主義の台頭を危惧します。
一方、日本の若い男性は「草食系」と揶揄され、政治や経済で何が起こっても暴動も起こさず、もちろん武器を持つこともなく、資産も持てず、限られた環境での食物を反芻して味わう生きかたができるようになりました。戦争を熱狂的に歓迎する愚かな日本人は「若年層」には皆無です。日本では「若年層」はマイノリティ、民主主義的であればなおさら、高齢者の主張に数の論理として完全無力。せいぜい振り込め詐欺ぐらいの抵抗。もし徴兵されても、「知らない・行かない・進まない」の三無主義が予想されます。
日本は大丈夫です。
私は、必ずしもそうとは思っていないので、これについては、また別途一本書くことにします。
若い男性はともかく、元気なお年寄りの扇動が怖い。
「若いくせに戦えないのか!」
「爺ちゃんも一緒に戦えよ」
「俺は歳だから無理だ。男なら行け!」
しかしこのやりとりの結末は
「俺は若いけど戦わないよ」
確かに独身のキャリアウーマンと呼ばれる若い女性が負け組と呼ばれた経緯から名誉挽回とばかりに武器を手にする危険もある。現代の戦争はパソコンを操作するようなゲーム感覚なのだから。
米国の資本主義は、永遠に不滅です。ただし、パフェット太郎10銘柄のうち、買っていいのはPG、JNJ、MCD、T、コカ・コーラだけです。