なぜ日本人は短い文章を好むのか
日本人は、外国人と比べて長文が嫌いな人が多い。ブログでも、文章は1600字以内が好ましいというルールすらあって、短文が投稿される傾向がある。短文化の傾向は、Twitter のようなソーシャル・メディアの普及でさらに促進されている。他方で、海外では、グーグルが長文のウェブページを重視するなど、逆の傾向がある。日本人がなぜ短文が好きで、長文が苦手なのかを考えたい。

1. ブログは短い方が好ましいのか
日本人には、長い文章よりも短い文章を好む傾向があります。簡潔な文が好まれるのは、世界中どこでも同じですが、日本人は、たとえ密度が高くても、長い文章は読みたがならいようです。それゆえ、ブログは短い方が良いというのが日本でのコンセンサスです。
まとまった、短文の、平易な文章は、読者にとっては心地よいものであるし、理解しやすいものとなる。読もうとするインセンティヴが働き、さらにブログの機能からして、ひとびとがこのブログの存在に気づきやすくもなり、読む機会も増える。機会が増えかつ読みやすい配慮がなされた記事は、読者をひきつける。読者にとって、そのような記事は魅力的であろう。
書き手にとってもメリットがある。自分の主張点を自分で理解しやすくなるばかりでなく、注目されやすい形式にすることができれば、重要なことを相手に的確に伝えることができるようになるのである。自分の言いたいことが、誰にも見向きもされないというのでは悲しいだろう。[1]
ネットでは、自覚的に短い文を書こうとする人が多い。確かに、長文を低い更新度で書くよりも、短文を高い更新度で書くほうが、アクセス数は増えます。ただ私は、情報価値のほとんどない短文のブログがウェブ上に増えることを嘆かわしく思っています。
密度の低い文章よりも密度の濃い文章のほうが好ましいとは思いますが、それと文章の長さは関係がありません。長くて密度の濃い文章もあれば、短くて密度の低い文章もあります。
もしも、みんなが短文しか読まなくなるのなら、本(短編集を除く)を読む人がいなくなります。パソコンの画面は、目が疲れるから、長文を読むのには適さないと言う人もいますが、現在主流の液晶は、紙と同様に、長時間見つめていても目が痛くならないし、実際に、何時間も画面を見続けている人はたくさんいます。
団塊ジュニアをターゲットにしている雑誌の編集者が、若い世代は短文でないと読んでくれないと語っていたのを思い出します。確かに、日本の若者の間では、短文を好む傾向があります。ユネスコが、2000年に27カ国の15歳を対象に調査を行ったところ、日本人は、74.4%が短文を頻繁に読むと答え、長文を頻繁に読むと答えたのは、たったの3.0%でした[2]。74.4%という割合は、27か国中最も高く、3.0%という割合は、27か国中最も低く、他の国では、最低でも12.3%は長文を頻繁に読んでいます。
「「縮み」志向の日本人」には、もともと、短歌や俳句など、短文を好む伝統があるのでしょうが、若者の場合、それ以上に漫画の影響が大きいと思います。漫画ばかりを読んでいると、ふきだしの中に納まる程度の短文しか読めなくなるのでしょう。
長文を読む人の割合の多い国には、英語圏の国が多い。長文が好きな私は、日本語よりも英語で執筆活動をしたほうがよいのかもしれません。
2. 追記(1)なぜ日本語のブログ投稿数が世界一なのか
世界のブログをトラックしている Technorati の CEO である David Sifry によると、2005年9月以降、言語別で最も投稿数が多かったのは、日本語でした(ただし、フランス語と韓国語に関しては、トラック漏れがある)。

なぜ日本語のブログが世界で一番数が多いのかに関しては、David Sifry は、次のような考察が加えています。
日本語のブロッガーは、短編の投稿文をより頻繁に書くように見える。これは、携帯からブログする結果という可能性があり、この分析で全投稿数をトラックしていると仮定しても、なお結果を歪めているのかもしれない。[4]
これ以外にも、日本人が短い文章を好むことを付け加えるべきです。そもそも、日本人が携帯を好む理由の一つとして、携帯メールが短文のコミュニケーションをするツールとして適していることをあげることができます。
ちなみに、日本語のネット人口は、世界第四位で、決して多数派ではありません。

90年代前半と古い時期のデータですが、以下は、世界で毎年出版される書籍の言語別割合を示すチャートで、これを見ると日本語の本は、世界第6位です。日本の経済的実力を考えると情けない結果です。

以上のデータからも確かめられることだが、やはり日本人は、本のような長い文章を読むことは嫌いだけれども、ブログのような短い文章を読むことは好きなようです。
日本人が短い文章を好む文化的背景として、その多神教志向をあげることができます。日本人は、多様性を統一することを好みません。雑多なアイデアを統一すると体系的な長い文章になるが、多くの日本人はそれを好まず、断片的なものをあえて雑多なままに放置します。
では、なぜ日本人は一神教を好まないのか、これについては、「なぜ日本人は幼児的なのか」を参照してください。
3. 追記(2)長文のブログは検索する上で不便か
「ner式:長文失礼。」に対するコメント。ブログの普及で、ウェッブ1ページあたりの文章の量が減っているのは、SEOのためなのかどうかについて。
何かと忙しい現代人が、貴重な時間をドブに捨てるリスクを冒してまで初見の長文記事に手を出すのは愚だからよそう、と考える。このことに多くの説明は不要だろう。極めて正常な価値判断であることは言を待たない。キーワード検索で辿り着いたブログが非常な長文であり、調べ物をするためにやむを得ず全文を読む、という事態は頻繁に起こるけれども、それとて好んで長文を読んでいるわけではない。[7]
私は、検索にはいつも Google Toolbar を使っているのですが、ヒットしたページが長文で不便と思ったことはありません。Google Toolbar を使ってキーワード検索をすると、キーワードに簡単にジャンプできるので、その前後だけ読めば、キーワードに関する情報を即座に得ることができます。そして、読んだ箇所が面白ければ、文章全体を読みます。長文のほうが、辞書的にも読み物的にも使えて便利です。
もとより、こうした機能のない検索エンジンを使っている場合や、他のサイトのリンクから飛んできた場合、必要とする情報を即座に求めることができないという欠点があります。それでも、私は、調べ物で飛び込んでくる新しいお客さんよりも、長文をじっくり読んでくださる固定読者のほうを大切にしたいので、私のブログでは、今後も長文を厭わずに投稿していこうと思っています。
長文のブログは読まれない傾向にある。このテーゼは、ブログオーナーの間ではもはや一つの常識として定着しつつある[8]
ブログに関しては、むしろ「1ページ1テーマ」の原則をよく耳にします。「1ページ1テーマ」の原則には、私も賛成です。そして、一つのテーマを深く掘り下げたいときには、長文になってもやむをえないでしょう。
4. 追記(3)さらに進んだ日本における短文化の傾向
この記事を書いてから15年以上が経過した。2005年当時は、ブログが流行した時期だったが、その後、ソーシャル・メディアが台頭し始めた。2021年現在、個人がオンライン上で情報を発信する主要舞台は、もはやブログではなくて、ソーシャル・メディアである。そして、ソーシャル・メディアの普及に伴って、日本における短文化の傾向がさらに進んだ。世界最大のソーシャル・メディアは、Facebook だが、短文が好きな人の多い日本では、140文字の字数制限がある Twitter の方がユーザー数が多い。
但し、海外では、必ずしも短文が評価されるということはない。追記(2)で、短文の方がSEOに有利ということを書いたが、実際には逆で、グーグルのジョン・ミューラーは、「大量のページをサイト内に作って分散させるよりも、少数ページにまとめて本当に強いページを作ることを推奨する[9]」と言っている。長ければよいということではないが、1ページの中身を充実させようとすれば、自ずと長文になるものだ。
私は、かつては短文の方が歓迎されると思って、薄い記事をたくさん書いたけれども、今では、このアドバイスに従って、このページがそうであるように、複数の短い記事を1ページにまとめるようにしている。長文が嫌いな読者は、検索を使って、興味のある所だけを読めばよいだろう。グーグルも一方で長文化を推奨しつつも、他方でページ内の特定の部分だけをランキングの対象にする"Passage-Based Indexing" をも始めるらしい[10]。私としては、これからも長文ブログを書き、そしてそれよりもさらに長い電子書籍も書いていくことにしたい。
5. 参照情報
- 李御寧『「縮み」志向の日本人』講談社 (1984/10/15).
- 島田雅彦『簡潔で心揺さぶる文章作法 SNS時代の自己表現レッスン』KADOKAWA (2018/3/29).
- 浅田すぐる『すべての知識を「20字」でまとめる 紙1枚!独学法』SBクリエイティブ (2018/11/20).
- ↑もんてすQ「1600字ルールのメリットなど」『現代思想の泉・社会哲学』2005/06/23.
- ↑UNESCO Institute for Statistics.Literacy Skills for the World of Tomorrow – Further Results from PISA 2000. 01 Jul 2003. p. 297.
- ↑“The following charts show the relative volume of blog posts based on the primary language of the post, on a month by month basis." ― David Sifry. “State of the Blogosphere, April 2006 Part 2: On Language and Tagging" Sifry’s Alerts May 01, 2006.
- ↑“Japanese bloggers appear to write shorter posts more often. This could be a result of blogging from mobile phones, and may be skewing the results, given that we are tracking the total number of posts in this analysis.” ― David Sifry. “State of the Blogosphere, April 2006 Part 2: On Language and Tagging" Sifry’s Alerts May 01, 2006.
- ↑Global Reach. “Global Internet Statistics (by Language)." Last revised on 30 Sept., 2004.
- ↑David Graddol (1997) The Future of English? The British Council (English Language publications (1998/1/1).(オンライン版)p. 9.
- ↑ner式「長文失礼」2005年10月30日 11:00.
- ↑ner式「長文失礼」2005年10月30日 11:00.
- ↑Kenichi Suzuki. “内容が薄いページはまとめて本当に強い少数のページを作るべき、とGoogle社員がアドバイス .” 『海外SEO情報ブログ』2020年4月23日.
- ↑Kenichi Suzuki. “Passage-Based IndexingをGoogleが導入。ページ内の特定の部分だけをランキングの対象に。検索結果の 7 %に影響。”『海外SEO情報ブログ』2020年10月19日.
ディスカッション
コメント一覧
もんてすQです、いつもお世話になっております。トラックバックありがとうございました。
永井さんのこの記事も、興味深い論点がいくつも内蔵されていて、わたしとしても論点ごとに整理して考察したいとは思っております。ただ、現在は別の課題に取りくんでおりますので、後日自分のブログで記事にできればと考えております。
そこで、論点をあきらかにするため、永井さんのお考えを伺いたく、ふたつ質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。
1.「情報価値のほとんどない短文のブログ」を嘆かわしいとお考えですが、いったい誰が≪情報価値≫があるかどうかを決定するのか。
2.議論の密度と文の長さとのあいだに関連がないとのことですが、≪時間≫の要素についてどうお考えか。
端的に言って、「長くて密度の濃い文章」を書くためには、それだけ長い時間を要します。とりわけ、更新頻度が「読まれるかどうか」に影響するブログの世界において、「密度、長さ、時間」の相関がどのようなものとなるのかについて、そしてフィードバックの機能が紙媒体以上に顕著なインターネットにおいて、この三者の相関が書き手と読み手とにどう影響するのかについて、永井さんのお考えをお聞かせ願えればと思います。そしてこのことは、「情報価値」なるものの意味内容を定式化することにもつながるでしょう。もちろん日本の傾向と外国の傾向との比較にもなると思います。
ほかにも、マンガがなぜ日本で発達し好まれるようになったのか、日本人と欧米人とのあいだで生活・労働環境にいかなる差があり、それがいかに長文を読む頻度に影響しているのか等々、興味が尽きません。が、これについては今後の課題としましょう。
わたしは、すべての長文が悪であるとか、長文が好きなひとは日本から出て行けとか、そんなことを主張しているのではありません。わたしも長文は嫌いではないのです。
ただ、自分自身の生活様式と、日本のブログ形式とを複合的に判断した結果、短文ルールで連載した方が良いと考えたまでです。
1.「情報価値のほとんどない短文のブログ」を嘆かわしいとお考えですが、いったい誰が≪情報価値≫があるかどうかを決定するのか。
情報価値があるかどうかの判断は、読み手によって異なります。「ただ私は、情報価値のほとんどない短文のブログがウェブ上に増えることを嘆かわしく思っています」というのは、たんなる私の愚痴です。私の主観的な(学術的観点からする)判断では、本→ウェブ→ブログ/掲示板と平均的な長さが短くなる媒体ほど、平均的な情報価値が低くなっているような気がします(もちろん、例外はたくさんありますが)。
2.議論の密度と文の長さとのあいだに関連がないとのことですが、≪時間≫の要素についてどうお考えか。
断片的な情報が無秩序に並んでいるよりも、整理され、体系化されているほうが、読者にとって情報収集の時間効率はよくなります。
日本の若者が短文しか読まないからといって、彼らの読書の時間の合計が短いとは限りません。漫画の場合、ふきだしの中の文は短文だけれども、漫画自体は長文であったりするし、掲示板の場合、一つ一つの書き込みは短いけれども、スレッド自体は長いということもあります。
短文しか読めない人に長文を読んでもらうテクニックとして、長文を分割して、小見出しを付けるという方法があります。形式的には、短文の集まりのようにして、つまみ読み型と熟読型の両方のタイプの読者に対応しようというわけです。長文を複数ページに分割することは、SEO的には効果的ですが、通信速度が遅い場合、読者のストレスが高くなります。
私のように、超領野的な研究を目指している場合、たんに議論を簡潔にまとめるだけでなく、議論と議論の関係を議論する問うためのメタレベルの議論が必要になってくるので、どうしても分量が膨らんでしまいます。しかし、議論というものは他の議論との反照的規定のうちに深化するものだと思っていますので、体系化は必要だと思います。
ご解答ありがとうございました。今後の考察課題とさせていただきます。
日本語フォントの視覚的負担が大きくて、長文読みに適していないというのもありそうだ。デフォルト設定ではゴシック体やサンセリフ体であり長文読みには適さない。長文読みには、明朝体やセリフ体が適している。書籍や教科書に明朝体や教科書体が使われているのはそのためだ。そこで、英語の新聞社サイトの長文記事などを覗いてみるとほぼ、長文読みに適しているとされるセリフ体で表示されていた。視覚的負担が少なさのおかげでスラスラ読めるのだろう。もし世の中の長文がすべて、モリサワUDデジタル教科書体のような読みやすいフォントで表示されていれば、長文読みは楽になるだろう。
サンセリフ体は小さな文字でも読めるように設計されたフォントです。スマホなどのような小さな画面で読むのには適しています。結局のところ、なぜ日本人はスマホのような小さなデバイスを使いたがるのか、なぜ日本人は「縮み志向」なのかという所に帰着します。
貴著「浦島伝説の謎を解く」にて、死への欲動と生への欲動をそれぞれ浦島的、桃太郎的と分類されていた。日本人の短文志向は、学校や受験で長文を読まされ続けた日本人の浦島的願望だと思う。
日本の文章は結論が最後にくる書き方をするからではないだろうか。それでいて強い主張を好まず、言いたいことをはっきりさせない傾向にあり、言いたいことを判断するのにコストがかかるからかもしれません。
英語の場合は結論を先に書き、それをあとから展開し、意見もはっきりしていますから、読者が快適に読み進められるのだと思います。
どうでしょうか。
日本は「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」という国ですから、本音では異論があっても建前上はそうではないように取り繕うため、表現があいまいになります。また、結論を先に述べてしまうと、すべて言い終わる前に紛糾して、和が乱れてしまうので、結論を先送りして、天気など言い争いにならない話題から始めて、相手をクール・ダウンさせようとします。しかし、それだと、結論だけを述べる場合と比べて、話は長くなりますから、日本人が短い文章を好む理由は他に求めなければいけません。
話は長くなりますから、日本人の聞き手は長い話を避け、短い文章を好む
ではだめですか?
僕に対する反論ではなく違う線上の議論に聞こえます。どうでしょうか?
外国で長い文章を書くのは、より多くのあるいはより深い情報を与えるためであって、結論を先送りにするためではありません。