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『市場原理は至上原理か』を出版しました

2016年3月7日

私の著作『市場原理は至上原理か』の解説動画、書誌情報、販売場所、概要、読者との質疑応答などを掲載します。本書に関してコメントがありましたら、このページの下にあるコメント・フォームに投稿してください。誤字脱字の指摘から内容に関する学問的質問に至るまで幅広く受け入れます。

1. 解説動画

このビデオでは、私の著作『市場原理は至上原理か』の要点を解説します。なぜ市場原理は至上原理なのか、なぜ市場経済と民主主義政治と表現の自由は同じ市場原理に基づいていると言えるのか、市場原理至上主義はリベラリズムや新自由主義とはどう異なるのか、市場原理は競争原理と同じなのか、なぜ情報革命の時代には小さな政府が必要なのかといった問いに答えます。

2. 表紙画像

画像
『市場原理は至上原理か』の表紙画像

3. 書誌情報

  • Title :: 市場原理は至上原理か
    • Furigana :: シジョウゲンリハシジョウゲンリカ
    • Romaji :: Shijogenri ha Shijogenri ka
  • Author :: 永井俊哉
    • Furigana :: ナガイトシヤ
    • Romaji :: Nagai, Toshiya
  • Author bio :: 著作家。インターネットを主な舞台に、新たな知の統合を目指す在野の研究者。専門はシステム論。1965年8月、京都生まれ。1988年3月、大阪大学文学部哲学科卒業。1990年3月、東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了。1994年3月、一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。1997年9月、初めてウェブサイトを開設。1999年1月、日本マルチメディア大賞受賞。電子書籍以外に、紙の本として『縦横無尽の知的冒険』(2003年7月, プレスプラン)、『ファリック・マザー幻想』(2008年12月, リーダーズノート)を出版。
  • Language :: ja
  • Page :: 291ページ
  • Publisher :: Nagai, Toshiya
  • ISBN :: 9781310457012 (Smashwords, Inc.)
  • BISAC :: Book Industry Standards and Communications
    • Nonfiction » Politics and Current Affairs » Economic policy
    • Nonfiction » Social Science » Political science » Political economy
    • 政治学 > 公共政策 > 経済政策
    • ビジネス・経済 > 商業政策
  • Tags :: キーワード
    • Japanese :: 市場経済、民営化、構造改革、規制緩和、小さな政府、リバタリアン、政策科学
    • English :: market, libertarianism, socialism, nationalism, collectivism, individualism, capitalism, decentralization, politics, economics

4. 販売場所

販売価格は小売店によって異なることもあります。リンク先で確認してください。

5. 短い概要

日本の国際競争力を低くしていると言われている、建設、金融、流通、農業、医療、教育といった保護産業の分野に市場原理を導入することは、社会にとって望ましいことなのか否かをめぐって、国家主義者、社会主義者、自由主義者の三人の論者が激論を戦わせる、バーチャル・ディベート・ショー。あなたは市場原理の導入に賛成か反対か。日本の将来を考えよう。

6. 長い概要

公共の利益は、公共心があるということになっている一人あるいは少数のエリートが中央集権的なシステムで意図的にそれを実現しようとすることで実現できるのか、それとも中央による統制を行わずに、諸個人を自由に利己的に振る舞わせた方が、「見えざる手」によってより良く実現できるのか。この問題はアダム・スミスの時代以来論じられてきた。

1929年に始まった世界大恐慌で、レッセ・フェールが世界的に疑われ、右の国家主義と左の社会主義が台頭したものの、冷戦終結後は市場経済が再評価され、自由主義が国家主義や社会主義よりも優れているとみなされるようになった。それでも、グローバル経済が危機に陥るたびに「市場原理主義は死んだ」と言われる。はたして市場原理は至上原理なのか。それとももっと優れた原理があるのか。

本書は、日本の国際競争力を低くしていると言われている、建設、金融、流通、農業、医療、教育といった保護産業の分野に市場原理を導入することは、社会にとって望ましいことなのか否かをめぐって、国家主義者、社会主義者、自由主義者の三人の論者が激論を戦わせる、バーチャル・ディベート・ショーである。自由主義者は著者の立場を代弁しているが、あなたはその主張に納得できるだろうか。

(*)本書は1999年にネット上で公開した『激論!市場原理は至上原理か?』の第二版です。本文の修正は最小限にとどめ、2016年時点での見解を注釈を加えるという形でアップデートが行っています。なお、本書は、DRMフリーです。

7. 質疑応答

本書の内容に関する読者からの質問への私の返答をここに転載します。

本書全体に関して
Morihino(2000/02/12 19:15:16)

I have read your text here in UK and am impressed. Your arguments of transformation in the postal service and education are suggestive and radical. They are radical because Japanese culture or labour ethics would not change over the night. Our culture has been cultivated for a long time. Even if business procedure or political system could be changed, our spirit could not change.

It seems that western way or so-calld global system is triamphant and effective. Japanese might intake its advantages as a form. But western way is effective because it is constructed on the foundation of liberalism and rationality, which were also developed for centuries. If we want to copy their way, we need to understand western spirit or liberalism. Our culture and disposition such as lack of subjectivity or dependent tendency, conventions and norms like respect for seniors, care too much about appearance and cleanness etc. should change. If we looked at only phenomena and did not pay attention to causes and reasons behind them, our proposition would lose its effevtiveness.

If you have time to reply, I prefer to read in Japanese.

永井俊哉(2000/02/13 1:20:17)

私は、大きな政府から小さな政府への流れは時代の必然であり、文化の相違はほとんど関係ないと認識しています。Morihinoさんが住んでおられるイギリスも、サッチャーが改革を始めるまでは、日本以上の福祉国家でした。アメリカもニューディール政策を始めてから、混合経済を続けました。1929年の大恐慌をきっかけに、文化の相違とは無関係にすべての先進国が、大きな政府となり、1973年のオイルショックをきっかけに、文化の相違とは無関係にすべての先進国が、小さな政府を目指さなければならなくなったと私は考えています。

mero(2005年4月2日 10:41 AM)

「市場経済は至上経済か?」を読ませていただきました。率直に言って自分は、永井さんの意見には否定的な見解を持っております。永井さんの主張の基本的な部分は、市場の「見えざる手」にかなり依存していると思います。しかしながら、市場経済は数字の世界です。その運用を誤ると、アジア経済危機や、最近のニューヨーク大停電など、大規模な問題に発展します。つまり、市場経済を正しいと言うには、それが正しく運用されているという前提がなくてはいけないのです。ニューヨークの大停電の問題は、システムを安定的に維持するためのコストを市場の数字に盛り込んでいなかったことです。つまり、適切な数値が盛り込まれなければ、市場経済といえども正しいとはいえないのです。

運用を誤れば、大きな問題が起きることは既にアジア経済危機やニューヨーク大停電などを見れば明らかです。しかも、それらがグローバルな規模で起きてしまう事のリスクを考えると、とても「至上」といえるほどの正当性があるとは言えないと思います。

また、市場経済こそベストな選択だと考え、その他のものが提示する問題点に対して、現実的な返事が出来ていない点も問題だと思います。例えば穀物は備蓄すればよいと考え、同時に2年以上問題が起きたときには、農地を拡大するなどの処置をすればよいと書いておられますが、実際問題として、そのような短期間に農地を拡大するのは難しいと思います。

私が永井さんの主張で最も危険な部分だと思うのは、他の者が唱える問題点を軽く捉えている所です。これは、過去の共産主義が「共産主義は理論は正しいから上手く行くはずだ」と言って失敗したように理論ばかりを見て現実を直視していない点です。

自由主義経済が共産主義に対して勝利したのは、共産主義よりも現実を直視した結果だと思います。しかし、自由主義経済が勝利した後、誰も逆らうものがいなくなったことで、自分のやり方こそが至上だと考え、まわりの意見を聞かなくなって(現実を直視しなくなって)しまうと、過去の共産主義と何ら変わらなくなってしまうのではないかと思うのです。

永井俊哉(2005年4月2日 10:42 AM)

1997年のアジア通貨危機の原因は、ドルペッグ制です。政府が為替レートを固定しようとするから、あのようなカタストロフィーが起きるのです。すなわち、アジア経済危機は、市場原理を導入したことによってではなくて、それを政府が拒否しようとしたことによって生じたのです。

2003年8月14日にニューヨークで起きた停電の原因は、現時点ではまだよくわかっていないようです。北米電力信頼性協議会(North American Electric Reliability Council)は、引き続き調査中と言っています(MSBlastワームによるという説あり)。

たぶん、この例でmeroさん言おうとしていることは、「市場原理の導入により、コスト削減の競争が激化すると、安全性が疎かにされるので、問題がある」ということだと思いますが、はたしてこの命題は正しいでしょうか。

もしも、消費者がコストよりも安全性を重視するならば、安全性を重視する業者が選ばれることでしょう。しかし、多くの人は、安全性のためならいくらコストがかかってもよいとは考えていません。どこでバランスを取ればよいかに関しては、消費者が決めるのが一番です。

プロバイダを選ぶ時、値段の安さの方を重視する人もいれば、接続の安定性の方を重視する人もいます。それと同じように、電力供給にも市場原理が機能すれば、手術を行う病院などは高くても安定した供給サービスを買うだろうし、イルミネーションを手がける娯楽産業は、安定性よりも価格の低さを重視するでしょう。

ところが、電力供給サービスには、通常、このような選択の自由がありません。それは、社会主義的で中央集権的な電力生産のあり方に原因があります。中央集権的な電力生産には、

  1. 発電所や基幹的な送電施設が故障すると、一度に広範囲な地域が停電するのでリスクが高い。
  2. 送電線が長くなって、ロスが大きくなる。
  3. 発電所間の競争が少なく、消費者の選択の自由が少ない。

といった問題点があります。電力生産を分散化するにはどうすればよいのか、将来の発電はどうあるべきかに関しては、「石油に代わるエネルギーは何か」を参照してください。

市場原理至上主義は、エリートによる中央集権的な管理への懐疑に基づいています。その懐疑主義が懐疑主義そのものに向けることができるのかというのが最後の質問の趣旨でしょう。私は、可能だと思います。疑うことは否定することではありません。ですから、懐疑主義者が懐疑主義そのものを疑っても、自己否定にはならず、パラドックスを帰結しないからです。

mero(2005年4月2日 10:43 AM)

ドルベッグ制による強制連動の仕組みが、アジア経済危機の主犯であると考えておられる点については、主因となる原因もさりながら、それを大規模にしたシステムに問題があると自分は考えます。ディリバティブ取引による為替取引が国家が対応できるキャパを越えてしまったために、以前までは対応できていた状況を破綻させてしまったと自分は考えています。

要するにデリバティブ取引というターボエンジンを入れたはいいが、それに相応する制御システムを搭載しなかったがために破綻に陥ったと考えています。システムに論理的な矛盾があると問題が問題を肥大化させる現象が起きる。しかしそれも、状況が限定できれば、被害は最小に抑えられる。自分の場合は、問題のあるデリバティブ取引を欠陥のあるシステムに流したことが今回のアジア経済危機の問題の核心だと思っています。

危機管理の基本として

  • 問題を最小化する(手段としては分離や規制(デリバティブ取引の規制)などがあげられる)
  • 問題の元を断つ(ドルペッグ制の修正)

ニューヨークの大停電を見ると、問題のある送電網から、他の送電網を切り離すことが出来れば、あれほどの問題にはならなかった。しかし、それが全て繋がってしまったために大規模な問題となった。それと同じように考えると、デリバティブ取引のような仮想的な資本の集中化(問題を連結してしまった)が問題を大規模にしてしまった。

大事なことは、ただアクセルを踏むことが正しいと考えるのではなく、ブレーキも必要だということだと思うのです。安全のために。それが現実的な対応だと思う。問題は多面的な要素の連なりから生まれる。特に大規模な問題は複数の要素の相乗効果から生まれていることが多い。たったひとつの理由で説明できるものではなく、複数の要因を一つ一つ潰していかないと、強固なシステムは作れない。

市場を拡大することも重要だが、安定させることも同じくらい大切だと思う。安定がなければ、発展が遅くなる。お金持ちがお金持ちな理由は、成金とは違う。資本を安定的に維持する技術を持っているから、彼らはお金持ちなのだ。自分は成金的発想ではない本当のお金持ちの論理で経済を語るべきだと思う。長期的に見るとそれが最善だと思う。

2003年8月14日にニューヨークで起きた停電の原因は、現時点ではまだよくわかっていないようです。北米電力信頼性協議会(North American Electric Reliability Council)は、引き続き調査中と言っています。

ただ、ハードウェア的に言うと、スペースシャトルの問題と同じようにエンジニアから、駄目だと言われているわけです。それは性能に余裕がないという事です。(性能が充分にあれば、対応できたわけです)それは、間違った市場経済を実践してしまったためです。安全を維持するためには、お金が必要ですが、ニューヨークの大停電の場合、送電網のコストを含んだ競争が行われなかった事が問題です。つまり、市場の見えざる手を使うためには、トータルな資本(コスト)を含んだ競争を行うべきなのです。電力危機は、そういうトータルな視点に欠けていたことが問題だと考えています。

性能に余裕のないハードは、遅かれ早かれ、何らかの問題を引き起こします。(その状態で負荷をかければ、壊れるのは当たり前です:ヒビの割れた器に重たいものを入れたら壊れますよね)最悪の場合は、問題が問題を拡大する事で破綻に陥る。そういう事を犯さないためには、充分に余裕のあるシステムを作らなくてはいけないのです。そのためには、トータルなコストを含んだ競争が必要です。偏った競争では、その偏りによる破綻が目に見えています。

例えば、政府が発電事業者にある程度の送電コストを負担させる規制を作ります。そうすると、発電事業者は、発電所を分散化し、送電距離を短くすることでコスト削減を計ります。送電距離が短くなれば、送電ロスを下げることも出来ますので、コスト的にも有利です。そういう正しい競争をさせるべき何です。(ただ、分散化しても、大規模な発電所の方が発電効率が高いわけです。つまり、規制がないと電力の分散化が難しいのです。また、安全な電力を手に入れるための送電網(インフラ)も手に入らないわけです)

規制によってリスクを分散化する事が重要です。市場経済には自由という側面と、それを安定化させるための規制の両面が必要だと思いますが、残念ながら、自由だけが強調され、規制は自由の敵のような扱いをされてしまっているように思えます。私が指摘したいのは、その自由と規制のバランス何です。それがなければ、見えざる手が正しく機能しないと言いたいわけです。

たぶん、この例でmeroさん言おうとしていることは、「市場原理の導入により、コスト削減の競争が激化すると、安全性が疎かにされるので、問題がある」ということだと思いますが、はたしてこの命題は正しいでしょうか。

それは、違います。自分はもうちょっと複雑です。そのような短絡的な批判はしませんので心配しないでください。耳にタコが出来るほど、そういう話しは聞いているでしょうから、そう考えるのも無理はないでしょうが。

もしも、消費者がコストよりも安全性を重視するならば、安全性を重視する業者が選ばれることでしょう。しかし、多くの人は、安全性のためならいくらコストがかかってもよいとは考えていません。どこでバランスを取ればよいかに関しては、消費者が決めるのが一番です。

消費者が決める以前に、システムには約束を守る義務があると思います。その前提の上で、競争するべきなのですが、その発想が制度的にニューヨークの自由化にはなかったと思うのです。つまり、偏った制度や老朽化した送電システムに欠陥があったわけですが、それを一般消費者が認知していなかったし、それは一部のエンジニアの間で問題視されていた程度でした。コストがかかるために、それを一般消費者に認めさせるのは難しい。しかし、電力を安定的に供給する為には、それが必要です。重要なのは、消費者の基本的なニーズを実現するための共通のルールだと考えています。消費者が世の中の全ての判断をするとしたら、それは膨大な労力が生じてしまいます。その様な瑣末なことは、専門家がやるべきことであって、基本的なバックボーンは、専門家が整備して、その上で競争をするべきです。具体的には、電力を安定させるインフラ(土台)は、専門家に任せて、その上で発電効率や送電効率の高さで競争をすればいいと思うのです。安全性の犠牲にした競争は駄目です。最低限の安定性を維持することが必要です。

プロバイダを選ぶ時、値段の安さの方を重視する人もいれば、接続の安定性の方を重視する人もいます。それと同じように、電力供給にも市場原理が機能すれば、手術を行う病院などは高くても安定した供給サービスを買うだろうし、イルミネーションを手がける娯楽産業は、安定性よりも価格の低さを重視するでしょう。

ニューヨークの場合、その類の発想で失敗したんですよね。それの何が問題というと、信頼性の確保を無視した競争だからです。例えば、車を作るときに安全基準がありますよね。そこの部分を市場に任せろと言っているわけです。でも、そういうことは、専門家が考えてやるべきことです。安全基準を作って、その上で競争するべきです。つまり、安全という基本的なニーズは、全体の利用目的に合致すると考え、そのコストを規制(1kwあたり数円とか)などで全体でシェアすることで、(薄利多売方式で)需要者あたりのコストを低くし、それから上の部分を競争する。二段階方式であるべきだと考えています。(現在の市場経済は、専門家の意見が通りにくい。なぜなら、全てを短期的なコストで判断してしまうから、でも、長期的なコストを考えると、専門家の主張も経済的合理性がある。そこが現在の市場経済では見過ごされている)

発電所や基幹的な送電施設が故障すると、一度に広範囲な地域が被害を被るのでリスクが高い。

自由化の前には、ニューヨークに発電所があったのです。しかし、自由化に対応するために効率の高い新しい発電所を作る必要に迫られ、結果としてニューヨークの電源は、送電網が破綻することで、全体がストップしてしまいました。

送電線が長くなって、ロスが大きくなる。

計らずも、今回の自由化が送電網のコストを含んだものではなかったので、大規模で効率の高い発電所が最もコスト的に有利となってしまった。その結果、中央集権的な電力供給システムが出来てしまいました。(ただ自由化すれば、分散化するわけではありません。企業は収益で動いているのですから。理屈の上では正しくても、現場に行くとひっくり返ることがあります)

発電所間の競争が少なく、消費者の選択の自由が少ない。

競争は大事ですが、競争の仕方に問題があったのです。

市場原理至上主義は、エリートによる中央集権的な管理への懐疑に基づいています。その懐疑主義が懐疑主義そのものに向けることができるのかというのが最後の質問の趣旨でしょう。私は、可能だと思います。疑うことは否定することではありません。ですから、懐疑主義者が懐疑主義そのものを疑っても、自己否定にはならず、パラドックスを帰結しないからです。

この文章の意味は難しいのでよく分かりませんが、自分が言いたかったのは、市場経済と言っても扱い方を間違えると大規模な問題を起こすので、「至上」といえるほど、大したものではないと言いたかったのです。そこで大切なのは、適切な運用であり、そのためには、己の意見を「至上」と考えるのではなく、まわりの意見をよく聞く(現実を直視する)努力が(謙虚さが)大切だと言いたかったのです。歴史を見ると、権力を握った指導者が逆らうものがいなくなった後で、現実を見失い没落していく姿を見るにつけ、「どんなときでも、現実を見失ってはいけない。特に逆らうものがいなくなったときは特に..」という主旨の意見です。

永井俊哉(2005年4月2日 10:43 AM)

「競争にはルールが必要だ」という主張は、市場原理至上主義とは全く矛盾しません。ルールは、民主主義的に決定されるべきであり、そして民主主義とは市場原理そのものですから、市場原理はやはり至上原理なのです。なお、なぜ民主主義が市場原理であるのかに関しては、「至上原理としての市場原理」を参考にしてください。

発電の話は、「石油に代わるエネルギーは何か」のコーナーに舞台を移すことにして、デリバティヴについて、コメントしましょう。デリバティヴを危険視する人が多いようですが、デリバティヴは、リスク・ヘッジのためにあるのであって、危険を増やすのではなくて減らす一種の保険と認識するべきです。安定性の保証は、政府の独占物ではなく、営利企業による代行が可能な商品であって、政府の仕事は、不正の監視や保険の保険に限られるべきでしょう。

meroさんは、市場原理至上主義を市場原理万能主義と誤解しているようですが、「市場原理は至上(supreme)である」という命題は、「市場原理は他の原理より良い」ということを言っているだけであって、決して「市場原理は完全である」とまでは言っていません。市場原理に基づく選択が間違いを犯すことはよくあることだし、事故も当然起きるでしょう。しかし、それでも、市場原理は他の原理よりましだということを、私たちは経験を通じて知っています。

私たち人間は、神ではないのですから、不完全です。市場原理至上主義は、自らの不完全性に対する自己認識に基づいています。だから、市場原理至上主義は傲慢とは対極にある思想なのです。

mero(2005年4月2日 11:34 AM)

100円のものを1万円で取り引きする仮想取引が結果として、政府が保証できる容量を越えてしまった事実を無視してます。そういう現実を直視してくださいといっているんです。目的がリスクヘッジの為にあっても、そのメカニズムを検証せずに目的だけ見て、正当化するのは、デリバティブという手段の問題点を無視していますね。数学者が理屈をこねて考えたシステムでしょうが、理屈と現実とは違いますよ。電気の話しでも言いましたけど。(理屈で正しくても、現場でひっくり返りますから、市場経済という荒馬を乗りこなすのならば、そういう現実を直視するべきだと言っているんです)数学の世界では、数値は無限にあります。しかし、現実の数値には限界があり、その限界を越えると、システムそのものが理論どおりに機能しなくなります。パソコンの中では機能しても、現実には機能しない場合がありますよ。

「市場原理に基づく選択が間違いを犯すことはよくある」それがでかいから問題視しているんだよね。市場経済に対して評価が甘いと思う。アジア経済危機のような巨大な問題が起こったことを忘れないでください。市場経済は、扱いには注意が必要な粗馬なんです。乗りこなすには、細心の注意が必要で、そんな甘い考えでは駄目だと思う。市場経済を本当に成長させたいと思うのならば、もうちょっと厳しい目で見たほうがいいと思います。

市場原理は手段に過ぎないんです。ですから、欠点も利点もあるわけです。他のやり方も同様です。ですから、もっと公平に物事を見なくてはいけません。だから、何事も市場原理で片付けるような無理な発想はやめた方がよいと言っている。他よりいいというような階級的なバイアスがかかっていると、物事を素直に見ることができないですよ。(多分、聞いてもらえないでしょうが)

欠点はあると自覚していると思っているようですが、その責任の追及はせず、「他よりいいから」という消極的な理由で正当化するのはどうかと思います。場合によっては、市場経済そのものを疑ってかかる柔軟性がないと、市場原理そのものを運用する事が出来ないでしょう。ニューヨークの大停電の様にね。何でも市場原理というちゃんぽんに入れれば、何事も解決すると思っているとしかみえません。でも、扱いの問題を考えれば、市場原理という道具は、工夫して使わないといけませんね。工夫するためには、市場原理の外に発想を巡らすことも必要ですよ。規制を悪だと考えるような考え方では、ニューヨークの大停電の様な事を繰り返しますよ。前にも書きましたが、アクセルも必要ですがブレーキも必要ですよ。

永井俊哉(2005年4月2日 11:34 AM)

グローバル経済が個別の政府の力量を超えて成長しないように規制するという主張は、ベッドの大きさに合わせて足を切る本末転倒の議論です。経済が、個別国家の範囲を超えているのなら、国際的なルール作りをすればよいだけの話です。

市場原理至上主義はすべての規制を悪とみなしているわけではありません。スポーツの競技にルールと審判が必要なように、市場での競争にもルールと政府が必要です。市場原理至上主義が「大きな政府」を批判するのは、審判が審判としての強い権限を発揮することではなくて、審判がプレーヤーとして試合に参加し、自分に有利な審判を下すことなのです。すなわち「小さな政府」の理念は、量的に政府を小さくすることではなく、政府や政府系法人には生産活動をさせないということです。

安定性の保証は政府の仕事とお考えのようですが、国民年金や簡保の悲惨な現状を見ると、保険(リスクヘッジ)ビジネスには、政府は直接携わるべきではないと言いたくなります。

市場原理の導入がもたらす被害が、他の手段の選択がもたらすどの被害よりも小さいとするならば、市場原理はベストであり、そして「ベストな手段を選択するべきではない」という主張は、「ベスト」という概念の自己矛盾であり、ナンセンスです。meroさんは、ニューヨークの大停電を人類史上最大の惨事と位置付けているようですが、市場原理を放棄すれば、停電はなくなるとでもお考えでしょうか。北朝鮮では、毎日停電が起きていますよ。

mero(2005年4月2日 11:35 AM)

「グローバル経済が個別の政府の力量を超えて成長しないように規制」そんな事を誰が言いました。問題は、ディリバティブで膨らんだ仮想マネーが市場を崩壊に導くという事です。つまり、実体のない数字によって、膨らんだ資産の存在そのものが危険であると言っているだけです。ものによっては、100倍に膨らむようなデリバティブ取引のようなものは、市場の均衡を乱すので規制するべきだと言っている。それを「成長」というには詭弁に過ぎると思います。つまり、あるはずのない数値が市場を破壊する。これほど不当なことはない。

永井さんのお聞きしたいのですが、「もし、30年後に石油やウランがなくなるとして、それを市場原理で対応するとしたら、どのようになさいますか?」日本社会がエネルギー転換に30年程度かかるとします。どのように市場原理で対応しますか?

日本の保険制度の問題点は、政府の失策(持続できない政策)であり、もっと言えば、失策を犯している政党を指示し続ける国民自体の判断力のなさが問題であって、政府というシステムの問題ではない。もっと言うと、基本的に国民の能力は高いのに、充分な情報が彼らに届いていない事が問題だ。それは、ある意味この国のジャーナリズムの問題であると言える。

市場原理の「見えざる手」の実体は、数値です。数値には判断力がありません。その判断力に相当する部分を政府が担うべきだと言っているのです。ジョージソロス氏などは、「市場原理は、私益の追及が公益になるという幻想を産み出してしまった」と述べています。全くその通りだと思います。ニューヨークの問題は、その市場経済の判断力のなさが露呈した事件なのです。つまり、これと同じ論理で他のことをやれば、同様の問題が起こりうることです。市場経済というのは、実質的には数値であり、数値には、送電線の技術的問題点などは入っていないわけです。これがいかに危険な結果をもたらすか、という事なのです。

永井俊哉(2005年4月2日 11:35 AM)

ヘッジファンドに投資を委託している人たちは、リスクが高いことをあらかじめ承知しているので、運用の失敗が直ちに深刻な社会不安をもたらすことはありません。もとより、資産デフレは、放置しておくと、デフレスパイラルを惹き起こすので要注意です。インフレの場合も、同様にポジティヴ・フィードバックが働くので、放置しておくと危険です。

ただし、こうした経済の自律性のなさは、市場原理ゆえにではなく、市場原理の不在ゆえに発生するということを認識しなければなりません。インフレもデフレもマネーサプライの問題なのですが、現在、ほとんどの国では、中央銀行がマネーサプライをコントロールするという官僚的な管理制度を採用しています。私は、マネーサプライのコントロールに、市場原理を導入すれば、経済は自律的に安定すると考えています。これについては、「電子マネー導入による経済の安定化」で、私独自の提案をしましたので、興味があれば読んでください。

「もし、30年後に石油やウランがなくなるとして、それを市場原理で対応するとしたら、どのようになさいますか?」と問われたならば、私は、「市場経済に任せなさい」と答えるでしょう。もしも本当に石油が足りなくなってきたなら、石油価格は上昇するでしょう。そうなれば、営利企業は、まさに営利を追求しているがゆえに、もっと安い代替エネルギーを探すことでしょう。

私は、「石油は30年後に枯渇する」という警告は、まゆつばもののアジテーションだと思っています。この30年説は、1973年の第一次石油危機のとき提唱されました。あれから30年になるというのに、まだ同じ説が唱えられています。ちなみに、他の鉱物資源の予想耐用年数も、何十年たっても変わらないのだそうです。

もしも、エネルギー源の選択を市場にではなくて、「石油はやがて枯渇するので、太陽光発電や風力発電に力を入れるべきだ」と信じているmeroさんのような一人の人間に委ねたらどうなるでしょうか。きっと税金と資源の浪費が公益の名の下に強行されることになるでしょう。市場原理の放棄ほど危険なことはありません。

meroさんは、ジョージ・ソロスの言葉を引用していますが、ジョージ・ソロスは、大きな政府の寄生虫だから、彼の市場原理批判は、日本の農協の市場原理批判と同様に、いかがわしいポジショントークと理解するべきです。私は、個人が、近視眼的に自分の利益を追求することで、期せずして公益に貢献するシステムが、最高のシステムだと考えています。

mero(2005年4月2日 11:36 AM)

投資家の問題ではなく、その投資が市場に与える影響が実体経済に及んだ場合、社会不安となりうることをアジア経済危機は物語っている。そして、一国の外貨準備高が一日で枯渇するほどの急激な市場変動は、市場全体の均衡を乱すのではないのではないですか?資産デフレを予防するためという大義があったとしても別の問題を引き起こしてしまったら、意味がないのではないですか?デリバティブ取引などは、自分は市場に過重なストレスを与えない様に総量規制をするべきだと思います。

私は、市場原理の均衡力は、限定的なものだと考えています。それが顕著に現われたのが、ニューヨーク大停電です。市場原理は、誤った使い方をすれば大きな被害になる恐れのある注意が必要な道具です。ですから、そういうものを過信するのは危険であると私は思っています。しかし、永井さんのよう市場原理主義者は、原理に従えば何もかもが上手く行くと信じておられるようです。まるでイスラム原理主義者のようです。私はこう思います。世界には人々を苦しめている二つの原理主義がある。それは、イスラム原理主義と市場原理主義だ。双方とも、原理を信じ、それ以外のものと認めない狭量さから、トラブルを引き起こす。 9.11は、言い換えれば、その原理主義同士の戦いなのかも知れません。昔は、民主主義と共産主義でした。今はイスラム原理主義と市場原理主義です。そういう意味では、9.11は、象徴的に見えてきます。

私は、原理主義というのは、傲慢主義と解釈しています。なぜなら、原理以外の全てのことを否定するのですから。恐らく、彼らは現実が目の前にあっても原理の方を信じるでしょう。

私は、地下資源はいずれは枯渇するという前提にたって考えています。つまり、IF(もし)の問題に対応しようとしているわけです。枯渇の根拠は、中国などの経済発展による急激な需要増加を想定して判断しています。もし、石油が未来永劫なくならないと考えてもよいのですが、もし、なくなった場合には、その石油を巡って戦争が起きかねないでしょう。また、もし、石油が使い続けられても、別のメリットがあります。日本はエネルギー自給率を上げることが出来るし、二酸化炭素削減も出来る。また、自然からエネルギーを抽出する技術があれば、地下資源の乏しい国にとって、福音となるのではないのですか?また、石油を巡って戦争を起こす必要もなくなるでしょう。
考えうる多くのメリットがあるので、そういう事を考えるわけです。どっちにしても、地下資源というものは、有限であることは確かです。それに早いうちから対応することは、何も悪いことではありません。

私一人ではなく、専門家が集まって、検討すればよいのです。私は、もし、石油がなくなったらという最悪の事態を想定して、資源のないこの国の行く末を考えたまでの事です。税金の浪費とはおかしいです。自然から電力を作ることが出来るので、その分、エネルギー資源を輸入する必要がない。資源の浪費は何を意味するのか分かりませんのでコメントは控えるとして、公益の名の元に税金が浪費されるというのは、何を前提にしているのかという事が曖昧なので分かりません。

また、太陽光は、2005年には、クロスポイントを越えるでしょう。つまり、自然エネルギーは、採算に合う選択肢となるでしょう。ですから、浪費に繋がることはないでしょう。だが、それが何を前提にして、浪費とするのかは、私には分かりません。まぁそれがわからないからこそ、永井さんの言っていることが分からないのですが。

meroさんは、ジョージ・ソロスの言葉を引用していますが、ジョージ・ソロスは、大きな政府の寄生虫だから、彼の市場原理批判は、日本の農協の市場原理批判と同様に、いかがわしいポジショントークと理解するべきです。私は、個人が、近視眼的に私利私欲を追求することで、期せずして公益に貢献するシステムが、最高のシステムだと考えています。

ソロス氏の個人攻撃ですか?私の経験上、私益はどこまで言っても私益です。市場原理というのは、そういう危うさの中にあるわけです。私は、ソロス氏が当事者であるからこそ、その言葉に説得力があると思っています。まぁこの程度の説明では、永井さんは納得しないでしょうが、私はそう思います。

最後に基本的にこの議論には不毛な点があります。というのは、曖昧な議論が多すぎる。条件を規定すれば、その条件自体を否定するような答え方をするのであれば、あまり、対等な議論は出来ないと思います。また、永井さんの様な徹底した市場原理主義者に私が何を言っても時間の無駄だと悟ったので、私は、この不毛な議論をおえたいと思います。

koji(2005年4月2日 11:38 AM)

『市場原理は至上原理か』を読みました。具体的にどうするということがないように思います。確かにタバコをやめたら良いということはわかっていますがそれができないにはそれなりに理由があると思います。やはり現実の政治集団などと共に、実際にそれを取り入れつつ修正をしていくという実験による実証が必要ではないかと思います。

永井俊哉(2005年4月2日 11:38 AM)

「大きな政府」の弊害は以前から指摘されていましたが、今後日本では「小さな政府」に向けての改革が進むと私は楽観しています。日本の選挙の指導権を握っているのは、団塊の世代で、これまで彼らは、職を失うことを恐れて、政府の浪費を黙認していました。しかし、団塊の世代は、現在定年を迎えつつあるので、雇用の確保よりも年金の受給に関心を持っています。2003年の総選挙の争点が、これまでのような景気対策ではなくて、年金改革であったことはそれを示しています。一般に年金生活者の投票率は高く、年金を効率的に運用せよという彼らの声を政治家たちは無視することができなくなるでしょう。

koji(2005年4月2日 11:39 AM)

先ほど、タバコは悪いが慣習を辞めるのは難しいと書きました。日本では民主的方法で改革が成功した事が過去一度もありません。
私は昔、総務課、財政課、選挙管理委員会という役所にいた役人です。今回、藤井総裁は「公表すれば死人が出る」とどう喝しました。これは実に真実です。万人によって良い物が選ばれるのではありません。また、政治家は自分で立法文章を構築できる程度の水準がなければ、既に脳内空洞化した役人に政策は作れません。つまり、大きな政府を辞めれば軍部(昔は軍事官僚、現在は経済官僚)が暴れまくり、手に負えない状態になっています。

私は現在、会社を経営しています。幾つかの大企業は改革ができずに倒産します。その多くにはヤクザが絡んでいます。命をかけてまで、ヤクザと戦い、尚且つ自分自身で立法作業ができる政治家を1人でもご存知でしょうか?これは政治家に問題があるのではなく、前線と後方の認識に乖離があるからだと考えています。中国では科挙の制度がありました。日本では武士の世襲によって科挙は戦後に行われました。科挙には武侠というヤクザがつき物です。素晴らしい政策は、まずその前にある障壁を排除しなければ、正しい政策とはいえなくなります。どうでしょうか?

永井俊哉(2005年4月2日 11:39 AM)

私が言っている「大きな政府」の「政府」には、立法はもちろんのこと、行政や行政に準じる法人(特殊法人・公益法人・第三セクターなど)も含まれています。大きな政府をやめれば、経済官僚が暴れまくり、手に負えない状態になるというのはどういうことでしょうか。

ヤクザや総会屋が絡んでいる企業が倒産するということは、市場経済の良いところです。政府にヤクザやヤクザのような利権屋が絡んでいる場合も、国家がいったん破産するまで待つという手もありますが、それでは社会的影響が大きすぎるので、どうすればよいのかというのが問題であるわけですね。

私は『市場原理は至上原理か』で、市場原理の導入を主張したわけですが、日本の社会に市場原理を導入するということは、たんに政府を小さくするということだけではなく、政府それ自体に市場原理を導入するということでもあります。

選挙は、政治に市場原理を導入した結果なのですが、現行の間接選挙は、市場原理という点では、不徹底であり、私は直接選挙にするべきだと考えています。インターネットが普及すれば、「人の選挙」から「政策の選挙」への移行は技術的には可能になるでしょう。残された問題は、「国民投票は衆愚政治をもたらす」と信じている人をどう説得させるかだと思います。

koji(2005年4月2日 11:40 AM)

「政府にヤクザやヤクザのような利権屋が絡んでいる場合も、国家がいったん破産するまで待つという手もあります」

基本的に私の元同僚は、財政が破綻するしか立ち直る方法がないと言っています。私も、基本的には同じ認識ですが、後ろ回し蹴りで速度をあげる計画です。

「それでは社会的影響が大きすぎるので、どうすればよいのかというのが問題であるわけですね」

(^^)はい。ソ連の崩壊と同じ事が起こるにしてもその被害を最小限度にしないと芸が無いと思います。今のロシアはプーチン(KGB)とマフィア(ヤクザ)の猛烈な抗争が発生しています。良いサンプルです。

「選挙は、政治に市場原理を導入した結果なのですが、現行の間接選挙は、市場原理という点では、不徹底であり、私は直接選挙にするべきだと考えています。」

まず、この場合、直接選挙を選択するのが政治家であるということがあります。また、法令を作るのが官僚であるという部分にも限界があります。つまり泥棒が自分を捕まえる方法を生み出すことはなく、大日本帝国の軍部(官僚)が自分自身を犠牲にしてまでも降伏という責任を取りたがらなかったことを見れば明らかです。あの時は既に消滅した海軍と天皇がそれを選択したのです。つまるところ鶏より、卵が先だという事です。現状、ソ連と同じ状態です。

私が考えているのが下記の方法です。

・ヤクザに不可視な部分で各種の準備する。

私の場合、現在は国内に本拠地がありますが、近くグリーンカードを確保して拠点を海外に移す予定です。そこから指揮と連絡的な役割をする予定です。

・メディアを空軍、知識人を海軍、企業を陸軍とする。

知的な裏づけをつけつつ、決定的な場面でメディアを活用する。このままでは壊死していく国内企業としても結局のところ動かざる得ないということです。

この準備は何も思い付きではなく、既にかなりの部分は進捗しています。しかし、陸に強く、海に弱いのが日本の歴史です。つまり、知識人層の制圧力をもう少し拡充できれば重畳ではないかと考えています。

この辺りはかなり具体的な話になるので講義などを行っているようでしたら直接、お話をしたくて当初メールをしたといえるとお考え下さい。

最後に、「「国民投票は衆愚政治をもたらす」と信じている人をどう説得させるかだと思います。」」という意見ですが、絶対民主主義は金持ちの支配です。私の部下は県会議員にでましたし、知事選、市議会選挙の宣伝担当でした。すべては「マネー」の力です。政治家の後ろの金持ちが賢明だとすれば、良い政治になりますし、そうでなければ悪い政治になります。

  • 独裁政治とは、大多数の人々の長期的願望が1人の人間の短期的願望によって駆逐されている状態
  • 寡頭制とは、大多数の人々の長期的願望が一握りの人間たちの短期的願望によって駆逐されている状態
  • 衆愚制とは、大多数の人々の長期的願望がその同じ大多数の人々自身の短期的願望によって駆逐されいてる状態

私の家は代々の武士です。100年前は203高地と奉天で予備将校として戦った家です。当時は国民投票ではありませんでしたが今よりは正常な国でした。現在の制度はアメリカが齎した制度です。そも日本を占領したのがソ連なら共産主義や社会党が政権政党だったと思います。制度を変えるより、制度を操作する事ができるかどうかがココ暫くの課題であるでしょう。

永井俊哉(2005年4月2日 11:41 AM)

間接民主主義から直接民主主義への移行が「金持ちの支配」をもたらすとは考えられません。特に、現在のように、終身雇用制度が崩壊すると、個人の組織への忠誠度が低下し、組織票が機能しなくなります。

むしろ問題なのは、ご指摘のとおり、有権者が目先の利益のことしか考えない選択をするかもしれないということです。しかし、だからといって、直接民主主義を行うべきだという結論にはなりません。人間は、失敗して、痛い目にあわなければ、賢くならないのですから、有権者が、学習効果によって賢くなることを期待しなければなりません。

私にできることは、ネットを通じて自分の考えを提示することぐらいしかありません。それをどう受け取るかは、読者が決めることです。私は、押し売りのようなことはしたくはありません。

koji(2005年4月2日 11:41 AM)

「間接民主主義から直接民主主義への移行が「金持ちの支配」をもたらすとは考えられません。」間接でも直接でも問題なのはその価値観を形成する歴史的意志であると考えます。その多くはスイスのような伝統です。価値観は多くは家庭や地域など、コミュニティーによって形成されます。しかし、日本では地方の過疎化が進み、核家族が進み、他人の子の悪事をしかる大人は少なくなりました。おしうりのような躾をしなくなり結果として暴力事件の多発と凶悪犯の逮捕率の減少へと論理的になります。

「人間は、失敗して、痛い目にあわなければ、賢くならないのですから、有権者が、学習効果によって賢くなることを期待しなければなりません。」この意見が正しければ、多くの西洋の植民地やアフリカなどは賢くなってしかるべきです。問題なのは民衆を正しく誘導する意志がある人間が行動でしめすかどうかです。力や知識、お金など方法はそれぞれに別れるでしょう。

ブッダは、「私がみんなに説いていることは、人が真実の次元に到達するためのイカダに過ぎない。つまりイカダは、川岸から反対の川岸に渡るための、便宜上の乗り物であり、渡ってしまえば、もはや必要ないものである。自分が日頃、言っていることもそれ以上のことではないよ。

方便を使わねば、法の道も「魔境」です。フランスでもド.ゴールが必要でした。況や、日本で自然発生的に改善した歴史は皆無です。

永井俊哉(2005年4月2日 11:42 AM)

コミュニティの崩壊は、個人が前近代的なしがらみからの自由を求めた結果と考えるならば、必ずしも悪いこととは言えません。学問を志すものは、自分の理論の妥当性に対して謙虚でなければなりません。自分の信念をドグマ化し、前衛として大衆を先導して革命を起こすといった方法には賛成できません。

koji(2005年4月2日 11:42 AM)

私は少しの間、アーバナシャンペインという場所にあるイリノイ大学にいました。当時はパパブッシュ、クリントン、ロス.ペローという三つ巴の選挙です。その時に私が見たのは日本の村祭りのような選挙態勢でした。

日本で一度でも政治に密接に関わったことはあるのでしょうか? 日本の政治はほんの一部の人間の世界す。ベンジャミン・フルフォードというカナダ人作家が書いているように世襲議員と試験に受かった科挙と呼ばれる人間の寡頭政治といってよい状態です。

次に私が申しているのは革命ではありません。私は代々武士の家系でした。明治以降は公務員家系です。つまり、最も保守的な家柄です。しかしながら、知識人が引きこもり、マスコミがゴシップ瓦版化した日本では腐敗はスパイラル的に堕ちていきました。役所時代に幾つかの改革はしましたがこれは陸軍が空軍(メディア)や海軍(知的裏づけ、知識人)の支援なくして戦うに等しい状態です。私が辞めてから堕ちる一方です。現在、会社を経営しており、私自身はそれなりの豊かな生活をしておりますが、周辺に横たわるは累々たる屍と特攻(特融)の繰り返しです。より悪くなる前兆に満ちています。

恐らく、私の計算では来年から日本は指数関数的に悪くなります。しかし、浮かび上がる前提としても浮上の準備をせざる得ない状態です。既に私は無料で与党の招待状がきたりG8の大使館からパーティに誘われたりする水準になってしまいました。四方の企業、役所、自衛隊に至るまで柵があり更に累代の天朝よりの恩顧があります。グリーンカードを取得するにしてもできる限りの改革の支援をするつもりです。

一度、鏡テストをして見てください。「鏡テストは職業人が正体性を測定できる有用な道具である。自身の価値観と組織または状況の要求が衝突する際、判断の基準に適している。ピーター・ドラカーが知識勤労者の‘倫理’に関する測定道具として提示する「鏡テスト(mirror test)」だ。倫理は一つの明確な価値システムである。そして価値システムの倫理はお互い大きく異ならない。ある組織またはある状況での倫理的な行動は、それと異なる組織または他の状況でも倫理的行動だ、とドラッカーは強調する。「朝に鏡を見る時、鏡の中の自分の顔がどんな種類の人に見えるのを望むのか」という質問は、あらゆる人に同一に適用できる簡単な倫理テストだ。」

私の意見を聞いた後、鏡の自分と話して見て下さい。我が子を衰弱死させるような自壊状態が何故に発生するのか、どうして日本人は近代的(コラプサ化)すればするほど治安が悪化し、失業が増加し、社会が壊れるのか。

鏡の中の1人の自立した大人の意見が聞きたいと思います。徳川の終焉から現在まで137年、第二次大戦が終結してから59年、ソビエト連邦が崩壊して13年です。力のある人間は非常に少数です。理由は子供には何の責任もなく、また、何の力も現状ではないからです。

永井俊哉(2005年4月2日 11:43 AM)

私は、政治家または政治家的な職業には最もむいていない人間ですから、政治の道を志さないことは正しい選択だったと思っています。今後も一匹狼的な生き方をしたいと考えています。

ところで、グリーンカードを取得するとのことですが、はたして、アメリカ合衆国は、日本よりもましな国なのでしょうか。現在、「大きな政府」や「無駄な公共事業」の弊害は、日本よりもアメリカの方が大きいと私は考えています。

koji(2005年4月2日 11:43 AM)

私は貴方に海(知的な影響力)で戦って欲しいと願っています。陸(経済)で私は戦います。既に手は打ってあります。空(メディア=政治家)と空と陸があって、改革は成功すると思います。幕末も、知識人は知識で戦い抜きました。人は、人と共に生きるべきです。

利害の調整が付く限りにおいて、最大限の効果を発揮するならば、その道を選びたい。まぁ、まだ時間は多少ありますのでお考え下さい。私もいろいろ勉強や断食をして、心身ともに鍛え抜く必要があるからです。

アメリカの支配層(元イギリスの支配層)はイナゴのように飛び回る人々です。規制があるとそれが不可能になります。日本は悪法と重税とヤクザの国にこれからなります。私はこの国の経営者、技術者、資産家をできる限り海外に逃がします。そうすれば悪法や重税から逃れることができるからです。その集まった資金で残存する日本の若いエリートを鍛え、また、ムスリムとEU(英国)と同盟を結んで、短期的願望の策源地(米国と中国)を封滅する計画です。私の会社は西日本で、一番大きなビルにありますのでもし近くに、こられたら一度おより下さい。

百聞は一見にしかずといいます。私にその力量、度量、器量があるかどうかを直接見て下さい。そして世界史に参加して下さい。

第一章 第一節 なぜ今市場原理の導入なのか
TS(2005年4月1日 11:25 PM)

永井さんは市場原理至上主義の立場でいらっしゃいますが、わたしも経済がうまく機能するためにはできるだけ小さな政府が望ましいと考えております。しかしそれは全ての国家を対象にはできないのではないかと思います。開発経済について以前、青木昌彦氏が述べられていた中にでてきた market enhancing view(市場補完論)で「経済の発展段階によって政府の役割は変化する」と書かれていたのをちょっと読んだことがあります。前回のメルマガで情報産業時代は知識集約型であり、この場合は小さな政府が望ましいと書かれていましたが、開発途上にある国でも、開発するうえで知識集約的産業は成立するのでしょうか?ある発展途上国の土台作りまでの段階では、小さな政府はむしろ妨げになるのではないでしょうか?

永井俊哉(2005年4月1日 11:25 PM)

私は、市場原理が超歴史的に望ましいシステムであるとは思っていません。もし私が50年前の日本に生まれていたとするならば、資本集約的な重化学工業を育成するために、大きな政府(福祉国家)の理念に賛成していたことでしょう。1973年以降時代が変わりました。今は小さな政府の時代です。それでも、市場原理は超国境的に望ましいシステムではないと言う人もいます。

「現在の発展途上国は、かつての日本と同じ発展段階にある。かつての日本で開発独裁的な大きな政府が成功したのだから、今の発展途上国には開発独裁的な大きな政府がベストである。」こうした考え方をする人がしばしば見落としている点は、発展段階の格差は、閉鎖系としての各国の経済システムに偶然的に現れるのではなく、中心/周縁という権力的な差異を伴ったグローバルな分業の結果として現れるということです。日米欧などの先進諸国=中心において、技術革新の結果、付加価値が低くなった製造業の空洞化が、発展途上国という周縁における工業化を引き起こしているわけです。発展途上国の工業化は、一見、南北格差を縮小させる働きがあるように見えますが、実際には雁行形態における分業的な格差の固定にしかならないのです。もちろん中には、「農業国がいきなり情報社会になるのは不可能だ。まず工業化からはじめるのが順番というものだ」と言う人もいるでしょう。

しかしこうした議論こそ、各国経済を閉鎖系と誤認している証拠です。アイルランドは、農業社会からいきなり情報社会に「飛び級」しました。アメリカのIT産業が、英語のできる安い人材が多数いるという理由で、ヨーロッパ進出の拠点としてアイルランドに投資した結果です。今ではアイルランドはヨーロッパ有数の経済優等生です。発展途上国の人々を先進国の惨めな下請けから解放するために必要なことは、OECD予算を橋やダムの建設にではなくて、教育、特に初等中等教育に使い、かつグローバルな労働市場を流動化することです。そうしなければ、発展途上国に生まれた人々は、いつまでたっても高収益な仕事につくことができません。以上の理由から、発展途上国には、その「発展段階」にふさわしい開発独裁体制が適切であるという主張には賛成できません。

TS(2005年4月1日 11:26 PM)

お忙しい中、ご丁寧なお返事をいただきましてありがとうございました。前回、社会主義についてわたしがメールをしたときもとても丁寧にわかりやすく説明していただいてどうもありがとうございました。今回のお返事を読みまして、各国経済が連鎖して国が発展していくのだということに改めて気づかされました。確かに、冷静になって考えてみると、そうですね。もうちょっと理論と現実の経済の動きがつながるような勉強の仕方をしなくては、と思います。

SK(2005年4月1日 11:35 PM)

カントの「判断力批判」についてサーチする中で永井さんのホームページに出会い、その該博な知識とデータに裏付けられた論証の精緻さに感嘆いたしました。これからも愛読させていただきたいと思います。

ところで、市場原理についての論争を、興味を持って拝見するうち、ひとつご意見を伺いたくなりました。それは南北問題に関する事柄です。掲示板の中に「飛び級」を行った「経済優等生」としてアイルランドについての指摘がありましたね。しかし問題はある特定の地域が「経済優等生」になりうるとしても、同時にそれが他の「経済劣等生」との関わりにおいてしか存立しえないと言うことです。というのは資本の増殖のためには、経済的発展の地域的不均衡が必要であり、「優等生」は必然的に安価な原料・安価な「下請け」労働力等を供給する「劣等生」を求め、固定化するだろうからです。

永井さんは教育への投資と労働市場のグローバル化によって世界的な機会均等を達成すべきだと考えておられるようですが、そうした施策も資本の要請に従って成されるである以上、経済効率のいい限定された地域に集中されるだろうし、「優等生」リストの入れ替えといった枠を超えて真にグローバルな機会均等を実現するかどうか疑問です。結局南北問題の解決のためには、世界資本主義の中心-周縁構造自体の是正を考えなければならないのではないでしょうか。

市場が、現在人類が知っているもっとも効率的に資源の分配を行うシステムであったとしても、現在その平等性は主に国家の枠内にとどまっており、国家間の格差を維持しつづけるという側面も無視することはできません。こうした観点は当然マルクス主義者の側から出されるべきだったのでしょうが、論争において「社会」氏は社会主義者と言うよりは社民主義者であり統制経済主義者であったために、そのような発言はなかったようです。

私自身経済には素人であり、明確な考えを持っているわけではありませんが、少なくとも統制経済よりは市場原理の方が望ましいと考えています。しかし一方、市場原理(というよりは資本主義)によっては内在的に解決できない問題のひとつが南北格差ではないかとも思います。永井さんはいかが思われますか。

永井俊哉(2005年4月1日 11:36 PM)

自由主義の理想は、労働力、商品、資本、情報といった経済活動の要素が、自由に移動できるグローバリゼーションです。もし私たちがどこに生まれても、学校や職場をグローバルな選択範囲で自由に選ぶことができるとするならば、そして「よそ者」であることのデメリットが何もないならば、世界の各地に地域差があることは何も問題ではないはずです。むしろ地球全体が金太郎飴みたいに画一化されているよりも、地域差があった方が選択の自由が増えるといっても良いぐらいです。

しかし実際には移民や移住の自由は制限されていて、多くの人は、たまたま生まれた地域に一生拘束されつづけます。そのため地域の不平等が人間の不平等と同一視され、地域間格差があたかも社会的不正義であるかのように誤解されるわけです。南北問題を解決するためには、まず労働力、商品、資本、情報のグローバルな自由化から始めなければなりません。そうすると一時的に先進国に人口が集中するでしょうが、先進国の地価が上昇し、コストが高くなるので、生産拠点の海外移転が始まります。すなわち、グローバリゼーションが進むと、世界で最もコストが安いところに投資がなされるので、地域間の不当な貧富の格差は是正されます。

もちろん人口移動による都市や先進国のスラム化は望ましくないし、そのためにも、教育への公的投資が必要なわけです。教育への公的投資によって、個人レベルでの貧富の格差がなくなるわけではありませんが、機会の平等は保証されます。社会正義にとって重要なことは結果の平等ではなくて公平さではないでしょうか。

第一章 第二節 市場原理の導入は望ましいか
R.Haya(2008年3月15日 3:17 PM)

永井さんの考えられる市場原理主義は、私も至上主義と感じますが、私はそれが抱えるジレンマに苦しんでおります。考えをお聞かせください。たとえば、政府の仕事として、永井さんの挙げられている、

7. 社会的公正の維持:教育の機会均等、法的平等の保証、相続税による不労所得の削減

は、市場原理主義の基では実現できないように感じてしまうのです。社会的公正によって、自らの経済的優位性を築き上げた者も、最後には保身に動くと思います。そのため、教育の機会均等、相続税の強化などは、経済的優位者が権力を握るという「ポジティブ・フィードバック」により、実現不可能なように思います。仮に日本が相続税を強化させた場合、富裕層は海外に流出し、国そのものが貧しくなると考えます。国同士の市場原理主義として考えることも試みましたが、結論が出ませんでした。永井さんはどうお考えになりますか?

永井俊哉(2008年3月16日 11:54 AM)

結婚するときに、養育(教育)保険に加入することを義務づければ、子供の教育の機会均等は守られます(その場合、保険料が支払えない貧困層は、子供を産まなくなるでしょう)。富裕層に重税を課すと、富裕層が海外に逃げてしまいますので、国内投資に応じて減税する仕組みを設け、富裕層と貧困層の間にWin-Winの関係を築く事が重要です。

R.Haya(2008年3月17日 9:36 PM)

いつもながら、素早いご返答、本当にありがとうございます。私はこれまで、富裕層と貧困層を、相対的な関係でしか見てきませんでした。富裕層と貧困層のWin-Winの関係の必要条件は、投資が十分であることに加え、資源が十分であることも含まれると思います。別論文で永井さんは、地球資源の消費を減らす少子化は望ましいと仰られましたが、資源の消費が減り、投資が活発化すれば、貧困層の生活水準も向上していくということなのでしょうか。だとすれば、私も「市場主義は至上主義」であると思います。ただ、政治的実現には、多々の問題が生じることと思います。半ば強制的な投資を嫌う富裕層からの圧力、格差を固定化できた方が有利な、相続税の納税者などからの圧力があると思います。これらを超えて、永井さんの仰るような仕組みをつくることのできるプロセスがもしあるならば、それをお示しいただければ幸いです。

永井俊哉(2008年3月19日 3:51 PM)

半ば強制的な投資を嫌う富裕層からの圧力、格差を固定化できた方が有利な、相続税の納税者などからの圧力があると思います。

一般的に言って、富裕層は、使い道を決める自由が自分にない税よりも、限定的ではあっても多少は選択の自由がある投資や寄付を好むので、投資や寄付を税制上優遇する制度は、彼らに歓迎されます。寄付者の名前を冠した財団の設立を容易にして、寄付の代わりに、寄付者の名誉が後世に残る制度というのも、有効でしょう。

ところで、子供が生まれ育つ家庭環境や経済的基盤を完全に平等にすることは、本当に理想的なことなのでしょうか。人類の種の存続という全体的な観点からすると、同じような条件で同じような個体が育てられるというのは、きわめてリスキーです。さまざまな条件でさまざまな個体が育てば、予測不可能な環境変動があっても、どれかが生き延びる可能性が高くなるので、種全体の絶滅のリスクが減ります。また、ニッチへの適応や分業も容易になります。

もちろん、各個体はそのようなことを意識していません。親は、我が子がかわいくて、遺産を子に残します。その結果、子供の経済的基盤に格差が生まれます。しかし、そうした各遺伝子の利己的振舞いが、当事者の意識を超えて、見えざる手に導かれて、種全体の利益に貢献します。このように、個々の自由で利己的な行為が、結果として公共の利益をもたらす点を、市場原理至上主義は重視します。

G41(2005年4月1日 11:29 PM)

私は現在普通(集配)郵便局に勤めるものですが、郵便事業が民営化された場合、内容証明の公証性はどうなってしまうのかと考えております。(通信の秘密は、民営化された方が競争原理により一層守られるでしょう)近年金融機関の内容証明引受数はもとより、一般市民の、特にクーリングオフなどその重要性と需要が高まってきております。利潤追求ならば、特定の企業にのみ有利な扱いをして、ペイしない(しかも書式を知らず、挙げ句の果てには文句を言い出す)一般市民を切ることは働く側にとっても利便性があるでしょう。

永井俊哉(2005年4月1日 11:30 PM)

郵便サービスを民営化しても、内容証明サービスだけを切り離して郵政省の仕事とすることができます。まず郵政省がインターネット上に内容証明専門のサイトを開設します。客が内容証明したい手紙を持ってきたら、窓口でその内容をスキャナで読み取り、そのデータを郵政省のサイトにオンライン登録しておきます。出した日付は自動的に記録されます。内容証明を要する手紙を受け取り手に手渡す時、配達人がモバイルコンピュータを用いて、受取人に受け取る日付と時間の確認をさせた上で、それを指紋など本人確認の機能をもつデータといっしょに郵政省のサイトに送ります。こうすれば、郵政省の方で、内容証明、日付証明、配達証明をすることができます。
郵政省は98年2月から1ヶ月、インターネットを使って内容証明郵便の申し込みを処理する実験を、札幌中央郵便局で実施したそうですね。現在の内容証明郵便は、差出人があらかじめ同内容の文面を3通用意して窓口で内容の確認を得る必要があるなど手続きが煩雑です。デジタル化すれば、利用者にとっての利便性も増えるし、コストが削減されるので、郵便サービス提供会社にとっても相応の利潤が期待できます(少なくとも1通420円もとれるなら)。

陸遜(2005年9月28日 8:46 PM)

どうも永井さん。陸遜と申します。以後お見知りおきを。

郵政民営化は今回の選挙で最も重要な争点となりましたが、実際のところ何が問題なのかよくわかっていない人が多かったように思います。

ユニバーサルサービスがなくなるという反対論がある一方で、民営化で効率化されるのでサービスが向上するなど、いろいろありますが、このような議論は本質ではない気がします。

私は最寄の金融機関までバスで30分かかる田舎に住んでいたことがあります。近所の公民館に郵便貯金のATMができたときは、それはもう喜んだものです。こんな便利な制度はなくしてほしくないと思いました。

しかし、よく考えて見ますと郵便貯金のシェアというのは、民営化反対論者が言うほど多くないんですね。農協とか労金とかは田舎でも結構窓口がありますから、金融機関をえり好みしなければ貯金に問題はないことに気づきました。また、今は電子メールで手紙を出すことができるわけですから、手紙でコミュニケーションをとる必要はないわけです。

コンビニなんかでも郵便物を出せる時代になってきましたし、必ずしも田舎だからサービスを受けられないわけではないのです。周囲の人は郵便局がないことになれてしまっているので、民営化で困ることはないといっていました。

1兆円近い補助を受けて商売をしているにもかかわらず、利益を上げている郵便局はほとんどないわけです。(たとえば札幌市で利益が出ている郵便局は1局のみだそうです。)国営であるがゆえに、国際物流に参入できず、国債と特殊法人の資金源と化している郵便貯金、簡易保険も新しいビジネスモデルを構築しなければジリ貧であり、このままでは早晩行き詰まります。

郵政の金融部門さえ完全な民営化ができれば、不健全な財政を支える必要がなくなるのですから、ここが一番の問題なのではないでしょうか。今回は長くなりましたので、申し訳ありませんがここで一度筆をおきます。後ほど金融部門のことについて、書きたいと思います。

第五章 第一節 農作物の輸入は自由化するべき
匿名(2008年2月14日 10:16 AM)

基本的に自由化の意味は何でしょうか。
食品の自由化反対の方にお聞きしたいことがあります。
輸入するのを自由にすると、どんなことになるのでしょうか。

永井俊哉(2008年2月15日 1:55 PM)

食品の貿易自由化のデメリットとしてよく挙げられるのは、

  1. 自給率の低下は、食料の安全保障という点で好ましくない。
  2. 輸送経路が長くなると、それだけ、燃料や資源が浪費される。
  3. 長期保存のために、好ましくない薬剤が使われたりする。

といったことです。これが、メリットを上回るかどうかというところが問題です。

2児の母(2008年2月19日 1:46 PM)

地球の人口は急激に増大し、2005年には60億人を超え、
2060年には100億人に達すると言われています。
たった50年後にはこんなに恐ろしい事態になっています。
一方地球が養える人口は90億人だとか。
50年後には世界規模で食料の争奪戦が怒ることが
とてもリアルに予想されます。
自由化するのは構いません。
ただ、食料自給率が下がることが私は怖いのです。
50年後も私のまだ幼い子供たちが安心して暮らせるのでしょうか。
一度放棄された農地がまた、作物を作れるようになるまで
10年かかるとか…。
確かに窮地に追い込まれれば
ゴルフ場を農地にするなどの市場原理が働くでしょうが
果たしてそれで間に合うのでしょうか?
農業は人気のない仕事ですが
50年後には、大金を手にできる仕事かもしれません。
国内の農業を盛んにして、
今は海外の裕福層に売って儲けて、
食糧難の時は国内でしのぐ糧にするべきだと思うのです。
ひとりのお母さんとして、人間として何かできないか
日々考えています。

匿名(2008年12月5日 9:21 PM)

米のみ特別扱いすることで、土地の効率的な利用が歪められています。政府が高い価格を維持しているため、例えば、野菜や他の穀物の方が向いている土地でも米を作っているといったことが考えられます。

また、関東近辺など、住宅地にしたほうが、住宅取得価格が下がりサラリーマンも喜ぶのではないでょうか。米作りの方が効率的なら、米を作ればよいのです。ただし、その判定は、自由競争の原理で決定すべきで、政府の思惑で決めるものではありません。

食料危機を持ち出す方もいますが、そういった危機のときに、米だけあっても何ができるのでしょう。今の食生活を見渡しても、米偏重ではなく、野菜やいも・穀物など、その土地土地でふさわしい農業をすべきです。

そして、食料危機になったらどこも輸出してくれないのでは、心配する気持ちもわかりますが、いざ、そうなれば、海外の農家は追加の生産に乗り出すでしょう。

海外の農作物は安全でない、おいしくないというならば、国民は輸入米を買わないから何の問題もありません。おそらく、海外の生産者は、日本の消費者が食べるとなれば、日本の消費者が求めに応じようと、品種改良や品質管理にもっと努力するはずです。

国内・海外に関わらず、努力したところ、コストを安く生産したところから、ものを買うべきではないでしょうか。なによりも、異常に高い米の値段が与える家計への影響は、毎日・家族全員のことですから、ガソリンの比ではありません。このことは、お金の資源配分も不当に歪められているということなのです。

カン(2008年12月5日 11:58 PM)

自由化を進めると、日本の車産業などに大きな影響を与える事になると思います。
今までかけてきた高い関税がなくなって、安いモノ達が店を占めるでしょう。
日本のものが安全だから、といって買う人も多いでしょうが、
やはり、国内産はとても高いと思います。
貧困層と裕福な層が離れていっている中、
最終的に、貧困層になった人達は外国産のモノを買うでしょう。
それは、日本の経済力のダウンに繋がると思います。
日本も機会や車などを安くたくさん売るでしょうが、
その利益は一般庶民まで回ってこないと思います。
その点で言えば、やはり自由貿易は、考えたほうがいいように思います。

永井俊哉(2008年12月6日 5:56 PM)

自由化を進めると、日本の車産業などに大きな影響を与える事になると思います。今までかけてきた高い関税がなくなって、安いモノ達が店を占めるでしょう。 日本のものが安全だから、といって買う人も多いでしょうが、やはり、国内産はとても高いと思います。

日本が輸入自動車に課す関税はゼロです。

貧困層と裕福な層が離れていっている中、最終的に、貧困層になった人達は外国産のモノを買うでしょう。 それは、日本の経済力のダウンに繋がると思います。日本も機会や車などを安くたくさん売るでしょうが、その利益は一般庶民まで回ってこないと思います。

自由化で、直接利益を得るのは、一般の消費者です。保護産業は打撃を受けますが、競争力のない生産者が退場した方が、国内の生産性は向上するので、長期的に見れば、生産サイドにも好ましい影響を与えるということができます。

第五章 第二節 農協は農業に必要なのか
みなとたやみより(2008年11月20日 2:01 PM)

農協支店に、経済口座、と普通口座をもっています。
売り上げは経済口座に入ります。農協で経費、公共料金を経済口座より引き落とし、しています。
しかし、農協は、”つみきん”と言う口座を勝手につくり、経済口座から印鑑なしで引き落としが出きることを悪用し月残金などを”つみきん”口座へ入金し、経済口座を赤字になる様にし、入金しろと強要。
公共料金が落ちないため、生命保険の解約をお願いすると、生命保険を担保にお金を融資し、別途、利息を請求。
”つみきん”口座のお金は、経済口座が赤字のとき、振り替え担保だといい、解約させない。
アリ地獄です。なにか解決方法はないものでしょうか。

農業転職局(2009年2月4日 3:33 AM)

たしかにつみきんは難しい問題ですねよね。
なんとかしてこういった問題を政治で解決してくれればいいんですけどね。
そして、今は世界的に大不況ですからみんなてんやわんやです。
しっかりと先を見据える対策を個なっていかないと行く先が不安ですね。

農好仁(2009年5月23日 6:13 AM)

全農・農協は資産を公表すべきであり、この当たり前の事が何故行われないのですか?

過疎化協力隊(2009年11月10日 4:06 AM)

親が亡くなったので故郷に帰って葬儀を行いました。村の区長というおっさんが、
このあたりはJAで葬儀をするからお前の親の葬儀もJAで施工しろ。JAで葬儀をしないなら村は葬儀の手伝いには出ない。
と、一方的に言われた。帰った時に親切に話しかけてきたおじさんが、
農協は安いから大丈夫。
というので、仕方なく言うとおりにした。(後でわかったがこの親切なおじさんがJAの職員だった)
何十人も手伝いに出てくるが、食事のときだけすごい数の近所の夫婦が食事に来て、ほとんど親戚の3倍の食費と、更に近所の手伝いに寸志と一軒当たり3000円を強制された。自宅に粗末な祭壇を飾られ供養やなんだかんだで200万円JAが持って帰った。お寺のお布施や食事代で総計300万円は余裕で掛った。
後になって高い高いと言われている地元の葬儀社に見積もりを出してもらったら100万円を切っていた。
ガソリンスタンドはJA ガスもJA 銀行もJA スーパーもJA。
田舎の人間はJAに コビうらないと 生きていけないのだろう。
親が死んだのを期に故郷を捨てようと決心した。
JAっていったいなんだ?
今の世の中、郵便局よりJAをどうにかしないと日本はダメになるに違いない。
マスコミも政治家も悪いのはJAって知っていながら知らんふり。
日本がそのうちJAに食われて終わり。
民主党も自民党もあったもんじゃない!
農林水産省。ええかげんにしろ!

タイガー(2009年12月12日 12:28 AM)

私は地方の小さい市町村の職員です。おもな基幹産業は農業です。ほとんどの若者は都会に出ていってしまい、市に残るのは農家の後継者かJA・市役所等の団体職員です。産業振興を図るには農業しかないと感じているのですが、農協が妨げになっているように感じてなりません。(市役所も偉そうなことはいえませんが)自由競争があたりまえの社会の中で農協の農家縛りは異常に感じます。まあ、そもそもが農家の協同組合なので農家の自業自得という感はありますが、市として農家に経営意識を持ってもらおうとするとどうしても農協がネックになっているように感じます。やる気のある農家が農協に出荷しても買い叩かれるので苦労して自主販路を開拓するとると村八分状態。経営努力が報われません。何かこのような状況を打開する良いアイデアがあれば教えていただきたいです。

永井俊哉(2009年12月12日 1:52 PM)

市町村の職員にこういう問題意識をお持ちの方がいることは、すばらしいことです。現在、小売業界の中には、産地直送を推進する動きが出ているので、市町村が仲介役になるというのも一つのアイデアだと思います。ただ、農協は、流通のみならず、金融から生活にいたるあらゆる分野で農家を支配していますから、農家が農協から独立することは、至難の業でしょう。やはり、日本の農業の社会主義的経営体質を根本的に転換するには、市町村レベルではなくて、国家レベルでの取り組みが必要になってきます。民主党は、自民党の集票マシーンである農協を切り崩すために、農家の戸別所得補償制度を始めようとしていますが、農協による支配から国家による支配になったところで、根本的な問題解決にはならないでしょう。むしろ、ますます農業の社会主義化が進むのではないかと危惧しています。

atom(2010年11月3日 1:01 PM)

頼むから本州中心で農協の話をするのはやめてくれ。
そもそも、本州に多い兼業農家を潰すのが一番話がはやいんじゃないの?。
それらを潰せば無駄な農協もなくなるんじゃ?。
片手間で米作って補助金もらって喜んでるような怠慢農家はいらないし。
そんな、まともに農業もできない底辺の農家に政策を合わせるから日本の農業全体が益々疲弊していく。
つみきんって営農貯金の事ですか?。<違うのかな?
もし営農貯金のことなら、
今後の営農に備えた貯金もできない農家経営なら農家をやめることを薦めます。

まる子(2011年1月6日 5:54 PM)

私も投稿者タイガーさん同様に地方の自治体職員で、同じ気持ちです。
JAは、農家のための組織とは思えません。
そして、現実、農家はJAに支配され、それに甘んじている農家さんが多いことも事実です。なので、どんぶり勘定・・・経営管理が全くできていない農家さんが大半・・・。
個々の農家がもっと危機感を持つべきです・・・。
と、いうか支配しているJAに危機感がない・・・。
自治体での農業政策を検討しても、結局、常にJAがネックになっています。
系統外出荷をしようとする農家さんは、JAからペナルティが課せられるんですよ!
例えば地元の物産館にJAが取らない、完熟のトマトをだすのもダメ・・。
ありえないです。
農家が独自で、販路を開拓して抜けていくことに対しては、危機感をもっています。
信じられないです。
例えば物産館は各市町村の直営だったり、指定管理下にもあるので、そこで大量に大手業者等と契約し、取り扱うと農家の所得は確実に増えます。
しかしそれもできない。
個人的には自治体がJAと決別してもいいと思っています。
結局は、お金です。
農業所得の減少、生活ができないというのが、農業が衰退していく一番の原因です!
言いたいことがありすぎて・・・書ききれません。
そして、まとまらない文章ですみません。

ryo3amuro(2011年1月24日 7:26 PM)

なんで農業がだめになったか。それはね、大学進学に偏差値で農業を敬遠したためなのよ。なんでか。偏差値の高い大学にいかに進学させることが出来るか。それで、教師の名誉職が決まるから。優秀な跡取りが自殺していったことか。
だから偉業種から参入した農業者が成功を収めている。だってね、社長ですよ。
アメリカでは、お金を貯めたら、農業がステータスシンボル。次に、大統領。覚えてます、ピーナッツ農場の経営者を。やっぱり、日本も大統領制度にして、農業から大統領を!!!

新人農協職員(2011年1月28日 11:12 PM)

私は、昨年4月から新卒として農協に勤める者です。
所属する農協(以下農協に省略)の実態は、みなさんの想像をはるかに超える異常地帯となっています。
私は経済事業に所属していますが、農協は農業振興に対する計画がなく、同じことを繰り返すことしかしていません。いや、同じことさえできなくなっているのが実態です。
毎年のように出荷物の減少と農薬肥料の販売高低下が続きます。その結果、支所の統合と人員削減が繰り返され、栽培指導にかける時間は縮小し、配達・推進におけるウェートが大きくなっているからです。合併による職員配置転換は、地域をよくしるベテラン職員を減らすこととなり、農家とのつながりは年々軽薄なものへとなっています。
また、農協職員の人間関係もかなりよいものとはいえません。一人ひとりが別々に仕事をしているため、相乗効果を得ることはできず、同じことを何度もしています。会議がなく、仲間のフォローがなく、失敗をすれば怒られ、うまくやったと思っても、誰も褒めてはくれません。
平均的な職員のやる気は著しく低く、やる気があるのは栽培指導が好きな人に限られます。
私の今、一番の仕事は職員と職員とをつなげていくことかもしれません。

ハリマ(2011年2月5日 6:34 PM)

新人農協職員さん、私は北陸のとある単位農協の営農経済センターで営農指導員をしているものです。
農協は農業振興に対する計画がなく、同じことを繰り返すことしかしていません。
自分の農協も同じ状況だと思います。役員は農家上がりの職員ではなく、販売・経営のプロを外部から招いて採用してもらいたいです。
その結果、支所の統合と人員削減が繰り返され、栽培指導にかける時間は縮小し、配達・推進におけるウェートが大きくなっているからです。
私の農協でも2年間で6支店が統合されました。車、農機、生活品のノルマに追われる毎日です。営農指導のついでに推進を行ってます(普段からマメに顔を出して営農指導や雑談をしている人じゃないと買ってくれませんし。)
また、農協職員の人間関係もかなりよいものとはいえません。
大変ですね。自分の事務所は人間関係や雰囲気は良いです。
それは農協の問題と言うよりかは、新人農協職員さんの職場の問題ではないでしょうか?

第五章 第三節 日本の農業は生き残れるか
D(2005年4月1日 11:28 PM)

市場原理に関し、永井様のお話を、共感を覚えながら読ませて頂いておりますが、「農地には転用ができない第一種農地と転用が可能な第三種農地、および両者の中間である第二種農地がある。この規制がある限り、…」との表現がありました。私は法律に関する知識は殆どなく、まとを外れた質問かもしれませんが、この文章は、永井さんらしくなく、土地に関する規制を容認している発想に取れました。多分、これらの土地の区分によって税金が違うのでしょうが、これこそ憎むべき規制の一つではないでしょうか?もちろん、都市計画上の必要からくる規制はある程度必要と考えますが、土地の利用方法も市場原理に任せるべきと思います。

永井俊哉(2005年4月1日 11:29 PM)

私は無政府主義者ではないので、「すべての規制は不要である」とは考えていません。例えば、環境保護のための規制は必要な規制の一つです。しかし実際には、「環境保護」という大義名分のもと、一部の利益団体が既得権益の保護を画す場合があるので、要注意です。「環境保護のために農業に補助金/減税措置を」といった主張はその典型です。農地法にある農地転用規制は、農業振興地域の整備が目的で、環境保護規制としての性格が薄いので、農地を含めた植物生育地面積の減少を防止する規制に変えるべきだと思います。なお農地法は最近改正されました。

第七章 第一節 公教育は本当に必要なのか
Tome(2005年4月1日 11:27 PM)

今、国立大学の1年生なのですが、大学の独立行政法人化が学内でも問題となっており、「3~5年で成果のでない基礎研究や文化系の研究が採算や効率を理由に切り落とされる」といった、声があがっています。僕も、学問、研究という、単純に金額に換算できないものを、そのように市場原理にゆだねる、というのには疑問を感じているのですが、それについてはどのようにお考えですか。僕自身、多分に「学生側の主張」に影響されている点があると思うので、この”大学の独立法人化”という問題そのものについても、そもそもどのような経緯で、どこから発生したのか、というような、解説をお願いします。

永井俊哉(2005年4月1日 11:27 PM)

私は市場原理という言葉と市場経済という言葉を使い分けています。市場原理は、必ずしも金額による評価に基づかなくてもよいわけで、例えば選挙では、候補者への評価は票数によって決定されます。学者の世界では、金銭よりも名声が富です。票田も名声も換金可能な富ですが、独立した種類の資本とみなすことができます。市場原理/非市場原理との区別は、拝金主義/非拝金主義という区別ではなく、多数の評価者が意思決定に加わる複雑系/一人の権力者が評価する単純系という区別なのです。
なお私は、国立大学を私立大学にするといった中途半端な民営化には反対です。私の主張はあくまでも公教育全体の廃止です。詳しくは、ここをご覧下さい。独立法人化反対が「学生側の主張」ということですが、学生は消費者なのですから、教師を選ぶ権利・評価する権利を主張するべきでしょう。それが大学に市場原理を導入する第一歩となるはずです。大学の独立法人化は、70年代から始まった大きな政府に対する批判の帰結である行政改革の一つと位置付けられます。

セルバ(2009年2月17日 3:51 PM)

永井氏に同感です。小中9年間の義務教育はセイフティネットという公立学校が必要ですが、高校・高等専門学校・大学・大学院は完全私立化が日本の学力論争に一定の方向性を示してくれるでしょう。もちろん現在行われている幼稚園・小学校・中学校の私立経営も従来通りで。
私立中高一貫校生さえ予備校とのダブルスクール生が多いのですから、学校という組織自体が生徒の知的欲求を満たしていないと思われます。大学院は授業料を払う学生という立場ではなく、「研究所として研究生を雇用」し、長い視点で人材育成を支えるシステムがほしいと思います。ここでいう研究生は気象大学校や防衛医科大学校のような公費待遇、従来の大学院生は私費+奨学金対応。このようなシステムでは文部科学省及び学校関係者の利権以外の何が問題なのでしょうか?

ダイ(2009年3月28日 4:21 AM)

落ちこぼれが出てくるのは、従来のように、すべての子供に同じ学習内容を同じスピードで教えようとするからだ。どの教科をどのペースで学ぶかを、学習者が自分で決めるシステムが必要だ。現在文部省は、学年制の弾力化を検討中だが、飛び級にせよ留年にせよ、それがフルセット式であるところに問題がある。フルセット式は、スペシャリストの時代にはふさわしくないし、生徒に不必要な優越感や劣等感を与えることになる。だから生徒の個性を尊重して、単位修得はアラカルト式にするべきだ。

永井さんは、履修科目を自由に選択でき、所定の単位を満たせば誰でも進級あるいは資格試験の受験資格が得られると主張されているのでしょうか?(例えば、大学のように教養科目が最低「 」単位、専門科目が「 」単位と)僕が理解できていない部分もあると思うのですが、説明して頂けないでしょうか。

永井俊哉(2009年3月28日 1:39 PM)

例えば、高校の卒業を認定する場合を考えて見ましょう。現在の日本の高校の単位履修には、あまりにも自由選択の余地がないので、学習者は自分の特性にあったカリキュラムを組むことができません。しかしながら、他方で、単位の合計数だけ一定の基準に到達すれば、卒業できるというようにしてしまうと、米国で実際に起きたように、生徒たちは、自動車免許の取得といった、非学問的な科目だけを履修してしまうということも起きうるので、語学や数学といった基礎的な分野で、さらにはそれを含めて学問的な分野で、それぞれ最低履修単位数を決めておくべきでしょう。そのルールは、ご指摘のように、大学で行われているような履修ルールと同じです。違いは、試験や審査が外部機関によってなされることと、特定の大学に所属する必要はないというところにあります。