このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

エビデンスに基づく教育政策

2016年4月14日

従来の日本の教育改革は、政策立案者の個人的体験に基づく人生論、精神論、感情論で行われることが多かった。中室牧子の『「学力」の経済学』は、教育を人的資本への投資とする経済的アプローチをとり、医療行政で行われているようなエビデンス(科学的根拠)に基づく政策立案を提案する。その方向は正しいが、中室が言っていることには同意できない点もあるので、それも併せて指摘することにしよう。

Photo by Vasily Koloda on Unsplash

1. 子供をご褒美で釣ることは有害か

インセンティブで人々を望ましい方向に誘導することは経済政策ではオーソドックスな方法だが、教育の分野ではしばしば顰蹙を買う。馬の鼻面に人参をぶら下げて、馬を走らせるというようなことを子供にするべきではないと言う教育者が多いのだ。動物に芸を仕込ませる調教に餌を褒美として使うことに反対する人はいないのに、子供の教育となると、目くじらを立てる人が多いのは、きっと教育は調教とは異なり、高尚なものだという思い込みがあるのだろう。だが教育に経済的なインセンティブを利用することは本当に非教育的なのだろうか。

米国のフライヤーとアランは、教育生産関数のアウトプット、すなわち、学力テストや通知表の成績などをよくすることに金を与える場合と、インプット、すなわち、本を読む、授業に出席する、宿題を終えるなどのことに金を与える場合のどちらが、子供たちの学力を上げるのかを検証する実験を行った[1]

2011年に公開された報告によると、実験が行われた場所、対象学年(日本の学年に換算)、実験内容は以下のとおりである。

  • インプット実験
    • ダラス(小2):本を1冊読んで、内容を問う短いテストに正答できれば2ドルを受け取る。
    • ワシントンDC(小6~中2):学校での態度、出席、行動に対してあらかじめ決められた基準をクリアすれば2週間で100ドルを受け取る。
    • ヒューストン(小5):算数の練習問題を解いて、小テストに合格するごとに親と子どもの両方に2ドルを稼ぎ、親がPTA会合に出席すれば20ドルを稼ぐ。
  • アウトプット実験
    • ニューヨーク(小4と中1):試験の点数に応じて、テストごとに小4は最高25ドル、中1は最高50ドルまで稼ぐことができる。
    • シカゴ(中3):通知表の成績により、A=$50, B=$35, C=$20, D/F=$0 が与えられる。

これらの実験で、1%水準で有意な肯定的結果を出したのは、ヒューストンの実験だけであった。但し、州レベルの試験では、10%水準でしか有意でない。ダラスでの実験は、ITBS(Iowa Tests of Basic Skills)の読解力テストでは、5%水準で有意な肯定的結果を出したが、Logramos の読解力テストでは、10%水準で有意な否定的結果を出した。それ以外は対照群との間に統計的に有意な差はなかった。

中室は実験結果を、フライヤーたちの見解に従って、以下のようにまとめている。

直感的には、アウトプットにご褒美を与えるほうがうまくいきそうに思えます。しかし、結果は逆でした。学力テストの結果がよくなったのは、インプットにご褒美を与えられた子どもたちだったのです。とくに、数あるインプットの中でも、本を読むことにご褒美を与えられた子どもたちの学力の上昇は顕著でした。[2]

この結果に基づいて、中室は「ご褒美は、「テストの点数」などのアウトプットではなく、「本を読む」「宿題をする」などのインプットに対して与えるべきだ[3]」と提言する。しかし、中室の(したがって、フライヤーたちの)解釈と結論には問題がある。Logramos の読解力テストの結果には目をつぶることにしても、統計的に有意な肯定的結果を出したダラスとヒューストンの実験をインプットにご褒美を与えて成果があった事例とするのはいかがなものか。

ダラスの実験では、たんに本を読むというインプットに対して報酬を与えたのではなくて、その理解を確かめる小テストにパスをするというアウトプットに対して報酬を与えていたことに留意しなければならない。もしもたんに本を読むことに対して報酬を与えていたならば、子供は本を読むふりをするだけよいから、学力の向上にはつながらなかっただろう。ヒューストンの実験でも、苦手分野の算数の問題を解くというインプットに対して報酬を与えたのではなくて、その理解を確かめる小テストにパスをするというアウトプットに対して報酬を与えているのだから、同じことが言える。

純粋にインプットに対して報酬を与えていると言えるのは、ワシントンDCでの実験である。通学して、制服を着て、お行儀良くして、宿題に取り組んでといったインプットに対して報酬を与えたが、統計的に有意な違いは現れなかった。内容を理解するというアウトプットに対して報酬を与えなかったのだから、当然と言えるだろう。

では、アウトプットに報酬を与えたニューヨークやシカゴの実験は、なぜ成果が出なかったのか。子供たちは、ご褒美が欲しいとは思っていたが、そのためには何をするべきかがわからなかったようだ。ここで、この実験の対象となった子供たちが非常に特殊であったことに注目したい。中室は触れていないが、この実験の被験者の圧倒的多数は、黒人やヒスパニックといったマイノリティで、しかも食費が免除されているような最貧困層であった。こうした底辺層は、親の学力も低く、成績を向上させるために何をするべきかすらわかっていない。ヒューストンの実験が成果を出したのは、子供だけでなく親の教育も同時に行ったからだろう。

ロドリゲスは、米国においても、子どもの学習の面倒をみる指導者や先輩がいる場合には、アウトプットにご褒美を与えても学力が改善することを示した[4]。日本の底辺層は、米国の底辺層よりも学力が高く、成績を上げるためには何をするべきかぐらいはわかっている。また日本では、米国とは異なり、塾や家庭教師といった私教育が発達しているので、経済的障害がなければ、ロドリゲスが謂う所の「学習の面倒をみる指導者や先輩」を見つけることには苦労しない。いずれにせよ、米国の底辺層という日本にはほとんどいない種類の人たちを対象にした実験の結果をそのまま日本の教育一般に当てはめようとする中室の議論には無理がある。

フライヤーとアランの実験から得られる結論は、インプットに対する報酬には効果がないのに対して、アウトプットに対する報酬は、そのための方法を学習者が知っているのなら効果があるというものになる。フライヤーとアランの論文には、オハイオ州の僻地、ケニヤ、イスラエルで行われたアウトプットに対する報酬の効果を測定する外部の実験結果も挙げられているが、いずれも統計的に有意な肯定的結果を出している。

教育者の中には、ご褒美のような外的なインセンティブを用いると、短期的には子どもを勉強に向かわせることができるとしても、長期的に学習を動機付けるような好奇心などの内的インセンティブを失わせてしまうので、弊害の方が多いと言う人も多い。実学なら、学校を卒業した後も労働報酬という形で外的インセンティブが与えられるが、教養的な学問は、学問それ自体の面白さがわかっていないと長続きはしない。そこで、フライヤーたちは、実験の後に行ったアンケート調査の中で、心理学の手法を用いて内的インセンティブを計測した。すると、処置群と対照群の内的インセンティブには統計的に有意な差が観察されないという結果だった[5]

登山の経験がない人は登山の楽しみも知らない。登山に外的インセンティブを与えると、最初はそれ目当てで山を登る。しかし山に登って、素晴らしい見晴らしに感動すれば、次からは外的インセンティブなしで山に登るということもあるだろう。つまり、食わず嫌いの人に外的インセンティブを与えれば、それは内的インセンティブを持つようになるきっかけを与えうるということだ。

2. 教師へのインセンティブは有効か

フライヤーとアランは、2011年の報告の中で、教師にインセンティブを与える実験では、教師の振る舞いや学生の成績にほとんど変化をもたらさないという結論を出していた。類似の研究は他にもあるが、結果はあまり芳しくない。ところがフライヤーの別のチームが2012年に公開した論文によると、「損失回避 loss aversion」の力を利用することで、教師へのインセンティブが成果を出したという。

この実験で、フライヤーたちは、ボーナスを受け取る権利を持つ教員を、ランダムに以下のような処置群と対照群の二つに分けた。

  1. 処置群:教師は最初にボーナスを得られるが、教えた生徒の成績が上昇しなければ、学年末にボーナスを返還しなければならない。
  2. 対照群:教えた生徒の成績が上昇すれば、学年末に教師がボーナスを得る。

どちらのグループもボーナスの金額は同じなので、条件としては同じであるのにもかかわらず、成績が上昇したのは、処置群の教員に教わった子どもたちだった。この結果は、人間がいったん得たものを失うのは嫌だと思う気持ちを利用して、教員の質を高めることに成功したとフライヤーたちは考えた(プロスペクト理論によると、人には新たな利益を得ることよりも損失を回避することを選好する傾向がある)。

中室もそれに同意しているが、科学では理論の普遍的妥当性が要求されるので、「アウトプットに対する報酬は、そのための方法を学習者が知っているのなら効果がある」という前項の仮説がここでも適用できないかを考えてみるべきだろう。

すなわち、これまで得たことがないボーナスを得ることができるという条件を与えられた教師は、これまでにない新しい方法を試さなければならないという気になるものの、その方法がわからず、ボーナスを断念し、特別なことは何もしなくなる。

これに対して、既にもらっているボーナスを失うと聞かされると、教師は保守的になり、既得権益を失うまいとして、普段行っている授業を手を抜かずに熱心にやるようになり、これが生徒の成績向上につながったと考えることはできないだろうか。現状維持は、新しいことに挑戦する場合と違って、何をするべきかが明白なので、インセンティブが努力につながったと見るなら、前項の仮説を適用したことになる。

3. 遠い未来に与えられる報酬は無意味か

馬の鼻面に人参をぶら下げる方法を中室が推奨するのは、人は遠い将来の満足よりも近い将来の満足を優先する傾向があるからだ。大きな人参でも、遠くに置けば小さく見え、馬にとっては魅力的には見えなくなる(あるいは臭いがかげなくなる)。

中室は、しかしながら、マダガスカルで行われた実験[6]を引用して、遠くに置いた大きな人参でも効果はあるという指摘もしている。この実験では、ランダムに分けられた小学生のうち、あるグループ(処置群)に択り分けられた子どもと親は、 家計調査から学歴と年収のデータを用いて算出された教育の収益率を知らされ、五か月後、教育の収益率の情報を知らされた子どもたちは、知らされなかった子どもたち(対照群)よりも学力が高くなったことが示されたというのだ。

中室は、これを費用対効果が最も高い政策として紹介している。確かに、学習に対する本物の「ご褒美」は政府が財政出動しなくても、学習者が手にすることができるのだから、それがインセンティブとして機能するのなら、政府からすれば安くつくことは確かだ。中室は、高卒よりも大卒あるいは大学院卒の方が生涯年収は1億円高いという事実を指摘して、「教育を受けることの経済的な価値」を説明していると言う[7]。一億円という大きな人参なら、遠い未来に置いても馬は走り出すということだ。

もっとも生涯年収で一億円の差がつくといっても、それはあくまでも現在定年を迎えている世代について当てはまる話だ。大卒がまだエリートだった時代に大学を卒業し、終身雇用制度の下で正社員として働くことができた時代に当てはまることが、大学が大衆化し、終身雇用制度が崩壊しつつある現在に当てはまるかどうかは不確かだ。大学や大学院を出ても正社員になることができずに、奨学金の返済に追われて極貧生活を送っている大卒あるいは大学院卒が増えるなら、遠くに置かれた人参はかすんで見えることだろう。だから、馬の鼻面に人参をぶら下げる方法は依然として必要ということになる。

4. 幼児教育はどうあるべきか

教育を人的資本への投資とみなす時、いつどの程度投資するべきかが問題となる。中室は、ノーベル経済学賞を受賞したヘックマンの著作[8]を引用しながら、人的資本への投資において「もっとも収益率が高いのは、子どもが小学校に 入学する前の就学前教育(幼児教育)[9]」だと言う。

ヘックマンが根拠としているのは、米国で行われたペリー就学前教育プログラムとアベセダリアン・プロジェクトの結果である。ペリー就学前教育プログラムは、1962年から始まった調査で、貧困の家庭に育つアフリカ系の子どもたちを処置群と対照群にランダムに振り分け、処置群に手厚い幼児教育を行い、その結果を追跡調査したものだ。アベセダリアン・プロジェクトも、貧しくて、家庭に問題を抱えたアフリカ系を中心とした子供たちを対象に、1972年から開始した研究で、ペリー就学前教育プログラム以上に処置群に対して徹底した教育と健康管理を施した。

二つの実験の結果、処置群の子供は対照群と比べ、認知能力(IQやテストの成績)での優位は長続きしなかったものの、非認知能力(自制心、忍耐力、リーダーシップ、創造性など)での優位は長く続き、その結果、学業や就職などでより成功した[*]

[*] 教育ではともすれば認知能力にばかり注目が集まるが、人生での成功という点では、非認知能力の方が重要である。微積分の難しい問題を解いたり、源氏物語を原文で読んだりする認知的能力が企業の実務で要求されることはほとんどないにもかかわらず、そうした能力のある志願者を入学させる大学から企業が人材を採用しようとするのは、難関大学の入試を突破できる認知能力そのものを評価しているからではなくて、そうした能力を獲得するために継続的に努力をする非認知能力が従業員の資質として必要だからだ。体育会系が評価されるのも同じで、スポーツの技能そのものが評価されているのではなくて、チームワークや忍耐力が評価されるのである。

処置群の子供は、生活保護の受給や逮捕の割合も低く、教育を受けた本人のみならず、社会全体にとってもよい影響を及ぼすとヘックマンは主張する。

幼児期の丁寧な教育によって、犯罪を減らし、その子たちの人生を前向きにする可能性があります。よりスキルアップした彼らの稼いだお金は、税収になって将来政府に戻ってきます。またこれまでご紹介したような教育効果により、自分の健康にもより気を付けるようになるので、医療費を削減することにつながり、自己抑制する力や良心を育て、社会に安定をもたらします。[10]

ヘックマンは、就学前の人的資本への投資の社会収益率は7-10%にも上るとして、幼児教育の重要性を説いている。ヘックマンの主張に基づいて、保育園の義務教育化を提案する人もいるが、公的に制度化された幼児教育に成果があるかどうかに関しては賛否両論がある。

米国にはヘッド・スタート(Head Start)という、米国政府の健康及び人的サービス省(Department for Health and Human Services)が1965年から恵まれない児童のために行っている就学前教育プログラムがある。

ヘッド・スタートの画像の表示
ヘッド・スタートの学校で子供たちの本を読んで聞かせるジョンソン大統領夫人(1966年の写真)[11]

健康及び人的サービス省は、ヘッド・スタートの効果を検証するべく大規模な調査、ヘッド・スタート・インパクト研究[12]を行った。ペリー就学前教育プログラムとアベセダリアン・プロジェクトでは、処置群と対照群合わせて百人程度とサンプル数が少なかったが、このコホート研究では、処置群と対照群合わせて4667人になるので、よりリアルな成果を検証することができる。

ヘッド・スタート・インパクト研究では、三歳または四歳でヘッド・スタートに参加した子供(処置群)とそうでない子供(対照群)をランダムに選び、調査開始前の両群の能力が同じであることを確認した後、両者の能力差を子供たちが小学三年になるまで追跡調査した。対照群は、幼児教育を全く受けていないということはない。約六割はヘッド・スタート以外の就学前教育サービスや保育サービスを初年から受けたが、「質はヘッド・スタートにおけるよりも低かった[13]」。

ヘッド・スタート・インパクト研究が、ヘッド・スタートの認知的影響、社会的感情的影響、健康への影響、親や教師との関係への影響について調べたところ、当初処置群が優位にあったが、その優位は時間とともに減り、小学一年生の段階ではほとんど優位がなくなってしまった。対照群の多くが私的な教育もしくは保育のサービスを受けていたことを考慮に入れるなら、この実験結果は、幼児教育が無意味であることを実証したと結論付けることはできない。しかしながら、幼児教育を政府主導の公教育として提供しなければならない必然性はないと言うことはできる。

ヘッド・スタート・インパクト研究は、私教育の「質はヘッド・スタートにおけるよりも低かった」と言っているが、結果に違いがないのなら、「質が低い」とは言えないだろう。公教育は、以下の写真にあるような立派な施設を使い、学位や資格を持った教育者を雇う。

ヘッド・スタートの学校の画像の表示
ミシガン州にあるヘッド・スタートの学校[14]

そうしなければ「質が低い」というのは官僚(あるいは官僚的な学者)の偏見だ。規制に従って立派な校舎を建て、教員免許を持った教師を雇う公教育が、教員免許を持たない塾講師がビルの一室を借りて行う私教育よりも必ずしも「質が高い」とは限らないのと同じことだ。

5. 教員免許は教師の質を保証するか

日本の学校の教員になるためには教員免許状が必要である。教員を目指すものは、文部科学省が認可した大学・短期大学等で必要な単位や学位を得て、都道府県の教育委員会から教員免許状を授与され、公立学校であれば都道府県や政令指定都市の教育委員会が実施する教員採用試験に合格して採用されることが、私立学校であれば学校法人等が行う採用試験等に合格し採用されることが必要だ。

だが教員免許は教育の質を高めるために本当に必要なのだろうか。デッカーたちは、米国内の一流大学の卒業生が、教員免許を保有していないのにもかかわらず、卒業後二年間、低学力に悩む公立学校に教員として派遣されるプログラム、ティーチ・フォー・アメリカに着目し、教員免許の有無が生徒の成績にどのような影響を与えるかを調査した。すなわち、全米の5都市で17校に在籍する2000人の小学生を対象に、免許を保有する教員と保有しないティーチ・フォー・アメリカの教員をランダムに割り当て、教員免許が教員の質に与える影響を検証した。この結果、免許を持たないティーチ・フォー・アメリカの素人教員に教わった生徒は、免許を保有するプロの教員に教わった生徒と比較して、算数の点数が高く、国語では差がなかったことがわかった[15]

また、ケインらの研究[16]によると、生徒の成績を上げる能力という点で、免許を取得している教員同士の差は、免許を取得している教員とティーチ・フォー・アメリカの教員の差の10倍にもなる。要するに、教員免許を持っているかどうかよりも一流大学を卒業しているかどうかの方が生徒の学力を向上させる上で重要であるということだ。日本の私塾経営者は、教師を採用する際、教員免許の有無よりも学歴を重視するものだが、それは合理的な事であるということだ。

教育の質を向上させるために、これまで教師の待遇の改善や教員研修などが提案されてきたが、中室によれば、参入障壁を低くする方が効果があると言う。

これまでの海外における研究蓄積をみる限り、「給与を上げる」「研修を受けさせる」「免許制度を撤廃する」という3つの選択肢の中では、教員免許制度を変更し、能力の高い人が教員になることの参入障壁を低くすることが有力な政策オプションなのではないかと、私は思っています。[17]

私も同じ意見である。竹中平蔵を師と仰ぐだけあって、中室は市場原理の重要性をよく理解している。報酬を増やしても、教師の質の向上につながらないという結果は既に紹介したので、次の項では、研修が役に立たないという実験結果を取り上げよう。

6. 教員研修に効果はあるのか

米国イリノイ州のシカゴでは、1996年以降、標準テストの成績が悪い生徒が多い学校は「保護観察校」に指定され、教員研修が行われている。保護観察校に指定されるような地域はもともと生徒の成績が悪く、ジェイコブらは、保護観察校に指定される境界線付近の学校では、保護観察校に指定されるかどうかはほとんど偶然によって決まっていたと考えて、保護観察校にギリギリで指定された学校(処置群)とギリギリで指定されなかった学校群(対照)を比較し、教員研修は教員の質に影響しなかったという結論を導いている[18]。ハリスたちが行ったフロリダ州の業務データをもとにした追跡調査でも、フォーマルな教員研修よりも、仕事をしながらインフォーマルに技能を向上させる方が効果があるという結論が出ている[19]

教員免許にも教員研修にも意味がないにもかかわらず、安倍晋三首相(第1次安倍内閣時)は、2007年6月に教育職員免許法を改正し、30時間以上の免許状更新講習の受講を義務付ける教員免許更新制を始めた。文部科学省は、教員免許更新制の目的を次のように説明している。

教員免許更新制は、その時々で求められる教員として必要な資質能力が保持されるよう、定期的に最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すものです。※ 不適格教員の排除を目的としたものではありません。[20]

免許更新のたびに不適格教員を排除するのなら、この制度にもまだ意味はあるのかもしれないが、それをしないというのなら、時間と金の無駄以外の何物でもない。では、このような無意味な制度はなぜ作られたのだろうか。その本当の目的は、文部科学省が中央教育審議会を通じて教員に修士課程の履修を義務づけようとしたことから窺い知ることができる。詳細はリンク先を読んでもらいたいが、要するに、文部科学省は自分たちの利権を拡大したがっているということである。役所だけでなく、自民党文教族や日教組の支援を受ける野党が公教育利権を守り続け、教育サービスの消費者の利益を無視し、生産者の既得権益を守る政治を行ってきた。日教組が推進した少人数学級の実現についても同じことが言える。

7. 少人数学級の費用対効果は高いのか

民主党政権の時代に、民主党の支持母体である日教組の要請[21]を受け、2011年度より公立小学校の1年生から35人学級が導入された。しかし、その後民主党が下野したこともあって、財務省が反撃に出て、2014年10月、財政制度等審議会財政制度分科会で、公立小学校の1年生に導入されている35人学級を40人学級に戻すべきだとする案を提示し、論争になったが、自民党は、文教族が中心となって現状を維持する意向だ。

少人数学級の推進者は、日本の一学級当たりの生徒数が他の OECD 諸国と比べて多いことを引き合いに出して、OECD 諸国並みの少人数にしろと主張する。しかし、日本人の学力は OECD 諸国の中では最高水準にある。教育成果が低い国に高い国々を模倣しろと言うのならわかるが、高い国に低い国々を模倣しろと言う主張はいかがなものか。もちろん、費用対効果が高いことを実証するエビデンスがあるなら話は別だ。予算を増額してでも少人数学級を実現しろと言うのであれば、安易に他国のまねをしろと言う前に、その効果を科学的に検証する必要がある。

少人数学級の効果といっても、学級のサイズと学力の上昇度合との間に観測される負の相関性を指摘するだけでは、エビデンスにはならない。たんに裕福なあるいは教育熱心な保護者が少人数の学校を選んでいるだけかもしれないからだ。とはいえ、教育の場合、人為的なランダム化比較試験は難しい。そこで、赤林英夫らは、現行の40人を基準とする学級編制では、一学年40人までは一学級だが、転校生が一人入って41人になると二学級に分割され、一クラス当たりの児童・生徒数が半減することに注目して、半減に伴う学力の変化を調べる自然実験を横浜市で行った。

その結果、小六と中三の国語と算数(数学)の四つの分析中、小学校の国語だけ、学級規模が一人小さくなると偏差値が0.1上昇する効果が確認できたが、他の学年と科目の組み合わせでは効果が確認できなかった[22]。クラスサイズを半分にすると、人件費が二倍になることを考慮に入れると、費用対効果は大きくないという結論になる。海外の研究でも、学級のサイズと学力の上昇度合との間にある程度の負の相関性があることが指摘されているが、それはコスト高を正当化するほど強いものではない。

中室は、国内外の研究成果を引き合いに出して、少人数学級を積極的に推し進める理由はないと言う。

巨額の財政赤字を抱えている日本で、「少人数学級になるときめ細かい指導ができる」などという根拠のない期待や思い込みで、財政支出を行うのは極めて危険だといわざるを得ないのです。[23]

少人数学級よりももっと効果があるのは、習熟度別学級である。小学校の段階で導入するのは早すぎるが、中学校では、習熟度別学級と学力には正の相関関係がある[24]。中室は、原因として、正のピア・エフェクトと教師にとっての指導のしやすさを挙げている[25]

8. 教育の成果は公開するべきか

2007年に文部科学省は、43年ぶりに全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)を復活させた。テストの結果を公表するべきかどうかをめぐっては今日に至るまで議論がある。大阪府の橋下徹知事(当時)は、2008年度の全国学力テストの結果を開示するように市町村教育委員会に対して強く求めたが、「序列化や過度な競争[26]」が発生することを懸念する文部科学省は学校の自主的公表以外は認めていないこともあって、大阪の市町村教育委員会は、知事の要求を拒否した。これに対して橋下は「くそ教育委員会」と罵倒して、話題になった。

文部科学省が「序列化や過度な競争」が発生することを懸念したのは、英国での先例があるからだ。英国のサッチャー政権は、日本の全国学力テストと同様の全国共通テストを実施し、成績によって学校をランク付けした。その結果学校間での競争が激化し、ランクの低い学校には生徒が集まらず、低ランク校の教育環境が悪化するという問題が生じた。

中室も、学力テストの結果は必ずしも学校の責任ではないと言って、次のように提案する。

学力には、家庭の資源と学校の資源の両方が影響を与えており、そして家庭の資源の影響はかなり大きい ―― このことを正しく理解せずに、学力テストの結果を学校名とだけ紐づけると、本来学校や教員が負うべきでない責任を、彼らの責任にしてしまいます。これでは、正しく学校や教員にプレッシャーをかけ、学校間や教員間での健全な競争をもたらすことにはなりません。むしろ、有害である可能性すらあります。[中略]もしも順位を公表するなら、学校名だけでなく、その学区の生活保護率、就学援助率、学習塾等事業者の数や売り上げなど、家庭の資源を表す情報も紐づけて公表すべきです。[27]

だが一般の人はそうした雑多なデータを与えられても、どう判断してよいかわからない。研究者向けにはそれでも良いのかもしれないが、生徒や保護者にとって、選択の基準となりうるわかりやすい形にデータを加工して公開するべきではないか。ではどのようなデータを提供するべきなのか。

公開するべきデータは学力の高さよりも高さがどう変化したかがわかる変化率である。また学校間の競争にならないように、教員単位のデータを出すべきだ。中室は「遺伝や家庭の資源など、子ども自身にどうしようもないような問題を解決できるポテンシャルを持つのは、「教員」だ[28]」とした上で、チェテイらの研究[29]に基づき、教員の質を評価する上で極めてバイアスの少ない方法は、教師の付加価値、すなわち教師が担当することによる生徒の学力の変化を計測することであると言う。

チェテイらは、全米の大都市圏の学校に通う百万人の小・中学生のデータと納税者記録の過去二十年分のデータを用いて、付加価値の高い教員は、ただたんに子どもの学力を上昇させているだけでなく、十代での望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率、将来の収入を高めているということを明らかにした。

日本では考えられないことだが、米国では教師の付加価値は公開されている。米国カリフォルニア州のロサンゼルス・タイムズは、ウェブサイト上で、教師の名前を入力すると、どの学校のどの学年を担当しているかだけでなく、その教員の付加価値とカリフォルニア州での付加価値分布での位置までがわかるようにしている。「付加価値でみたときに下位5%に位置する教員を、平均的な教員に置き換えるだけで、子どもの生涯収入の現在価値を、学級あたり2500万円も上昇させることができる[30]」のだとするなら、日本でも同じことを、つまり教員の付加価値の測定とそれに基づく選択をするべきだということになる。

それならば、中室が学力テストの公開問題に対して行うべきアドバイスは違ったものにならなければならない。すなわち、現行の学力テストは、小中学校の最高学年(小学6年生、中学3年生)しか対象にしていないが、これを全学年に拡大し、各教員の担当教科の一年単位の付加価値を計測し、これを公開するというものになるはずだ。英国での失敗は選択対象を学校にしたところにある。教育において選択するべきは、教員であってハコモノとしての学校ではない。学校は低付加価値の教員を新人に置き換えればよいのだから、学校自体は荒廃することはない。

9. 私の結論

以上、教育の成果を高めるための方法を検証する様々な実験の結果を見てきた。これらからいくつかの結論を導くことができる。

最初の結論は、教育の質を高めるには市場原理を導入するべきであるということだ。市場原理を導入するということは、大量参入、大量淘汰にするということだ。できるだけ参入障壁を低くし、多くの教員にチャレンジしてもらって、付加価値という観点から選別を行う。そうすれば付加価値の高い教員が生き残り、教育の質が向上する。

ところが、日本で行われている公教育の現状はこれとは程遠いし、市場原理を導入する方向で教育改革が行われていない。教員免許取得に修士課程修了を義務付けるなど参入障壁を高くする、免許更新制を導入して、更新のたびに指定した教育機関で教員に講習を受けさせる、少人数学級にするといった日本の教育行政が行ってきた、あるいは行おうとしている「教育改革」には効果がない、あるいは、少なくとも費用対効果が低い。

では、なぜこのようなエビデンスを無視した、たんに公教育利権を強化するだけの「教育改革」が試みられるのか。それは、業界利権を守ることが第一の族議員や労働貴族の既得権益を守ることが第一の組合政党や自分たちの予算と権限と天下り先を確保することが第一の官僚たちは、口では「子どもたちの笑顔のために」などと言っていても、本当に子どもたちのためになる教育行政を行おうという気がないからだ。

政治家と官僚が、消費者のための行政ではなくて特権的保護産業のための行政をするのであるならば、その犠牲者である一般消費者が利権政治家を落選させるしかない。目指すべきは公教育の廃止であり、教育への市場原理の導入であり、消費者第一の教育行政である。日本の教育の質が高まれば、教育産業の国際競争力が高まり、それで外貨を稼ぐことも可能になる。消費者第一の産業政策は、結果として生産者の利益にもなるのだ。

もう一つの結論は、教育の開始時期を六歳よりも前にするべきであるということである。「三つ子の魂百まで」あるいは「鉄は熱いうちに打て」といった経験に裏付けられた諺には科学的根拠があることがわかった。それも認知的能力よりも非認知的能力を身に付けることが重要であるということだ。但し、既に述べた通り、幼児教育を公教育という形で提供する必要はない。私教育で十分である。

次に、教育のアウトプットに対する経済的インセンティブが有効であることが判明した。従来政府は公教育に税金をつぎ込んでいたが、金の使い方を考え直した方がよい。すなわち、教育そのものに金を出すのではなくて、教育の成果に金を出すべきだ。政府の役割は自ら公教育という形で教育サービスを提供することではなく、それは民間に任せ、その評価だけを行い、成果に対しては報酬を出せばよい。

こうした主張は、これまで私がしてきたものだが、今回、『「学力」の経済学』を読んで、教育経済学のエビデンスは自分の主張に合致していると感じた。もちろん、これからも様々な実験や調査が行われることであろうから、その結果を参考にして、政策提案に役立てたい。

10. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. Bradley M. Allan, Roland G. Fryer, Jr. The Power and Pitfalls of Education Incentives. The Hamilton Project, September 2011. p.8.
  2. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.34-35.
  3. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.36.
  4. Rodríguez-Planas, Núria. “Mentoring, Educational Services, and Economic Incentives: Longer-Term Evidence on Risky Behaviors from a Randomized Trial.” SSRN Scholarly Paper. Rochester, NY: Social Science Research Network, June 29, 2010.
  5. Bradley M. Allan, Roland G. Fryer, Jr. The Power and Pitfalls of Education Incentives. The Hamilton Project, September 2011. p.18.
  6. Nguyen, Trang. “Information, Role Models and Perceived Returns to Education: Experimental Evidence from Madagascar”. Unpublished manuscript, 2008, 6.
  7. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.108-109.
  8. Heckman, James J., Alan B. Krueger, and Benjamin M. Friedman. Inequality in America: What Role for Human Capital Policies? (Alvin Hansen Symposium on Public Policy at Harvard University). Revised 版. The MIT Press, 2005.
  9. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.76.
  10. “「5歳までのしつけや環境が、人生を決める」ノーベル賞経済学者、ジェームズ・ヘックマン教授に聞く.” 聞き手: 広野彩子『日経ビジネスオンライン』2014年11月17日(月)accessed 2016/4/10.
  11. White House Photograph Office, Robert L. Knudsen. “The photograph shows Lady Bird Johnson, the First Lady, reading to children enrolled in Project Head Start at Kemper School in Washington, DC.”. 19 March 1966.
  12. Puma, Michael, Stephen Bell, Ronna Cook, Camilla Heid, Gary Shapiro, Pam Broene, Frank Jenkins, et al. “Head Start Impact Study. Final Report.” Administration for Children & Families, 2010.
  13. Puma, Michael, Stephen Bell, Ronna Cook, Camilla Heid, Gary Shapiro, Pam Broene, Frank Jenkins, et al. “Head Start Impact Study. Final Report.” Administration for Children & Families, 2010. Chapter 9. Conclusion. p.7.
  14. Washtenaw County Head Start school, 1661 Geddes Road, Superior Township, Michigan 48198” by Dwight Burdette. Licensed under CC-SA.
  15. Paul T. Decker. Daniel P. Mayer. Steven Glazerman. “The Effects of Teach For America on Students – Findings from a National Evaluation.” University of Wisconsin–Madison, Institute for Research on Poverty, 2004.
  16. Kane, Thomas J., Jonah E. Rockoff, and Douglas O. Staiger. “What Does Certification Tell Us About Teacher Effectiveness? Evidence from New York City.” Economics of Education Review Volume 27, Issue 6, December 2008, Pages 615-631.
  17. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.158.
  18. Jacob, Brian A., and Lars Lefgren. “The Impact of Teacher Training on Student Achievement: Quasi-Experimental Evidence from School Reform Efforts in Chicago.” Journal of Human Resources 39, 1 (2004): 50-79.
  19. Douglas N. Harris, Tim R. Sass, “Teacher training, teacher quality and student achievement”, Journal of Public Economics, Volume 95, Issues 7–8, August 2011, Pages 798-812, ISSN 0047-2727.
  20. 文部科学省. “教員免許更新制.” accessed 2016/4/12.
  21. 日本教職員組合. “少人数学級の実現に向けた教職員の定数改善等を求める要請書.” 2010年11月17日.
  22. 赤林英夫. “少人数学級政策の教育効果の不都合な真実 / 教育の経済学.” SYNODOS -シノドス. 2015.02.04 Wed. Accessed April 13, 2016.
  23. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.113.
  24. 北條雅一. “学力の決定要因–経済学の視点から (特集 仕事に「学力」は不要か?–学力研究の最前線).” 『日本労働研究雑誌』53, no. 9 (September 2011): 16–27. p.23.
  25. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.70.
  26. 文部科学省. “平成20年度全国学力・学習状況調査に関する実施要領(抜粋).” 平成19年11月14日文部科学省事務次官通知. accessed 2016/4/13.
  27. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.124-125.
  28. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.142.
  29. Chetty, Raj, John N. Friedman and Jonah E. Rockoff. 2014. “Measuring the Impacts of Teachers I: Evaluating Bias in Teacher Value-Added Estimates." American Economic Review, 104(9):2593-2632. DOI: 10.1257/aer.104.9.2593
  30. 中室牧子.『「学力」の経済学』東京: ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2015. p.146.