ヒューマノイド・ロボットは必要なのか
2005年3月25日、愛知万博が開幕した。海外のメディアが注目しているのは、テーマである環境への取り組みではなく、日本の技術の粋を集めたヒューマノイド・ロボットである。開幕式では、トヨタ、ソニー、ホンダが開発したロボットたちによる歌と踊りの競演が披露された。はたして、日本が得意とするヒューマノイド・ロボットの製造は、21世紀の主要産業となりうるのだろうか。[1]

1. 盛り上がるヒューマノイド・ブーム
産業用ロボットとは異なり、人間を模範として、それに近づくことを目標に設計されたロボットをヒューマノイド・ロボットという。2000年11月20日にホンダが開発したヒューマノイド・ロボット・ASIMOは、滑らかな二足歩行を披露し、翌日ソニーが開発した人間版AIBOであるSDR-3Xは、パラパラを踊って見せた。

その後も各社は競って様々なヒューマノイド・ロボットを作った。愛知万博の実質的なホストであるトヨタは、開幕1年前に、人間の肺を模した機構を持ち、口で空気を吸ったりはいたりしてトランペットを演奏するロボットを開発した。
もっとも2005年3月の愛知万博で人々の注目を集めたのは、外見が人間そっくりで、人間らしい滑らかな動きをする接客ロボット「アクトロイド」だった。ココロが製作し、アドバンスト・メディアが音声認識と音声合成を担当し、人工知能に基づく音声対話機能を持つ。長久手会場では、日本語、中国語、韓国語、英語の四カ国語で会話が出来る案内役として四機が稼動した。
この他、日立製作所が、2005年3月15日に、マイクなしで人間と対話して行動ができるサポートロボット「EMIEW(エミュー)」を発表した。
声だけではなく、動作によるコミュニケーションも行える。6つの自由度をもつ腕と物をつかみながら運ぶことのできる手があるため、動作も自然だ。人間の動きをモーションキャプチャーで計測し、動作データとして活用することで表情豊かなボディコミュニケーションを実現している。[3]
翌日には、NECが、コミュニケーション能力を強化したパーソナルロボット「PaPeRo 2005」を発表した。このロボットは、漫才やコントができるのだそうだ[4]。
それにしても、このような、限りなく人間に近づいていくヒューマノイド・ロボットに、商業的な需要があるのだろうか。私が、そう心配するのは、現在のヒューマノイド・ブームが、かつての人工知能ブームとそっくりだからである。
2. 人工知能ブームの教訓
1980年代に人工知能(AI)ブームがコンピュータ業界を席巻したことがあった。まるで人間のように、自ら考える「第5世代コンピュータ」を作ろうというわけだ。通産省は、1983年から新世代コンピュータ技術開発機構を設立し、540億円の予算を出して、コンピュータの知能化を推し進めようとした。このプロジェクトは、アカデミックな成果をある程度もたらしたものの、商品化という点では失敗に終わった。
このプロジェクトが失敗したのは、考えてみれば当たり前のことである。コンピューターは人間の知的作業を補助するための道具であって、人間と同じように思考するコンピュータに商業的需要があるはずがない。日本が愚かなプロジェクトに時間と金を費やしている間に、コンピュータの主導権は、アメリカに奪われてしまった。
この失敗にも懲りずに、子供の頃見た「鉄腕アトム」や「鉄人28号」の夢を追って、エンジニアたちや役人たちは、あいかわらず、「人間のような機械」を作ることにこだわっている。現在、経済産業省は、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)という独立行政法人に交付金を支給し、「次世代ロボット実用化プロジェクト」の一環としてヒューマノイド・ロボットの開発を推進している。しかし、この国家プロジェクトも、かつての第五世代コンピュータのプロジェクトと同じ運命をたどるのではないだろうか。
3. 人間とは異なるロボットを作れ
ホンダが開発したASIMOは、日本科学未来館のロボットコーナーの解説員となった。だが、日本科学未来館がASIMOを採用したのは、そのアトラクション効果に期待したからであって、人件費を削除するためではない。愛知万博の案内ロボット、アクトロイドも同様である。
ヒューマノイド・ロボットはまだまだ高額である。大量生産すれば、一台あたりのコストが下がると思うかもしれないが、大量生産すればするほど、希少性、つまり集客力がなくなる。ちょうど、ペーパーフラワーには自然の花ほどのありがたみがないように、ロボットには人間ほどのありがたみがないようになるであろう。たんに人件費を削減するだけなら、会場に自動音声案内機を設置すればよい。ヒューマノイド・ロボットは、もし本当に普及するなら、人間の解説員ほどのありがたみはなく、自動音声案内ほど安くはないという中途半端な代物になってしまう。
経済産業省が、ヒューマノイド・ロボットの開発を推進するのは、エンタテインメントのためのロボットは、あくまでも過渡的段階での商品モデルであって、量産による低価格化が実現されれば、人間の代替として、安価な労働を提供してくれる実用的商品となると考えているからである。しかし、もし効率性と経済性を重視するならば、人間に代わって道具を使うロボットを作るのではなくて、道具そのものをロボットにするべきだ。例えば、介護ベッドで働くヒューマノイド・ロボットを作るよりも、介護ベッドそのものをロボットにした方が、合理的である。そして、それが産業用ロボットを開発してきたエンジニアたちの基本的な考えである。
2001年にニューヨークで起きた、世界貿易センター崩壊事件の際、瓦礫の下敷きになった人々の探索を行ったレスキュー・ロボットは、ヒューマノイド・ロボットではなくて、戦車のようなキャタピラー型ロボットだった。人間とは全く違った形をしているからこそ、レスキュー・ロボットは、人間が入れないような狭い隙間に入っていくことができた。
『旧約聖書』によると、神は、自らに似せて人間を造った[5]。ニーチェ以降、私たち人間は、神を殺して、自ら神になろうとした。そしてさらに、自らに似せてロボットを造ろうとしている。しかし残念ながら、私たち人間は神のような完全な存在者ではない。私たちは、完全な存在者ではないからこそ、その不完全性を少しでも補おうとして道具を作っている。人間を完全な模範とみなし、ロボットをそれに一歩でも近づけることが技術の進歩だと考えることは、道具の本質に対する誤解に基づいている。道具を開発する意義は、人間と同じ種類の不完全さを増やすことではなく、その不完全性を補って減らすところにあるのだから、いかに人間と同じロボットを作るかではなくて、いかに人間とは異なるロボットを作るかということこそ、ロボット開発の目標でなければならない。
4. 参照情報
- ↑本稿は、2002年にメルマガに掲載した文章「ヒューマノイド・ロボットは必要か」を愛知万博が開幕された2005年にアップデートしたものです(その後、2019年にも若干の修正をしました)。2002年の原文はリンク先を参照してください。
- ↑左の写真:Hatsukari715. “2005 3rd Honda ASIMO photographed in Honda Welcome Plaza Aoyama (Minato, Tokyo)." Licensed under CC-0. 中の写真:Dschen Reinecke. “Sony Qrio Robot at the RoboCup 2004." 右の写真:Gnsin. “Actroid-DER ." Licensed under CC-BY-SA.
- ↑エースラッシュ.「日立、人間と共存できるサポートロボット「EMIEW」を開発」CNET Japan. 2005年03月15日 17時34分.
- ↑エースラッシュ. 「NEC、コントや漫才ができるロボット「PaPeRo 2005」を開発」CNET Japan. 2005年03月15日 17時34分.
- ↑『聖書』創世記. 01:26.
ディスカッション
コメント一覧
人型ロボットをつくるのか、人型でないロボットを作るのかの判断は、未来に対するかなり重要な思想的な判断だと自分は思います。日本で人型ロボットをつくり、外国でそうでもないという事実は面白いですね。日本人は寂しがりやなのでしょうか? 自信がないのでしょうか? 話によると、人型ロボットは、ユーザーインターフェイスの機能だけの意義しかないそうです。
外国では、神は、被造物である人間に対して超越的です。だから、人間が神の位置を占める時、ロボットには道具的役割しか期待しません。しかし日本の神は超越的ではないので、人間とロボットの関係は、人間と神(あるいは異人)との関係と同様に、対等なものなのです。この現象は、日本人が召使いを家族の一員として扱ったのに対して、外国では奴隷を人間扱いしないことにも見て取れます。
人間にとっての未知は、世界・自己・絶対者であるという話をどこかで聞きました。人間は星や宇宙の行く末を知ろうとしていますが、それは商的利用や実用主義という視点からだけでは説明できません。世界の探求そのものが目的なのではないでしょうか。同様に、ロボット開発は人間自身への探求ということなのではないでしょうか。たしかに実現の順番は経済的な制約をうけるので、道具としてのロボット開発を優先するのは自然な流れだと思いますが、もともとの目指す先の「知の充足」を忘れては、人間そのものの問いを発する能力を放棄するものでしょう。副産物が目的ではないと思います。というわけで、ロボット開発のマイルストーンを定めるという意味であれば、同意いたしますが、最終目標ということであれば違和感をうけてしまいます。無論、何を充足することが人間にとって重要であるかという問いが先にあるべきではないかとは思います。
赤ん坊は親の顔を見て笑います。心理学的に顔の認知が優先される(かどうかはわかりませんが)とすれば、顔を持つ、人の身体性をもつ、身体性に根ざした認識と動作を持つということが、人間の本能に根ざす安心感につながっていると考えても、不思議ではありません。いま、社会の発展の上でコミュニケーションの空洞化が問題になっています。現代において人間はだれかに安心感を与える時間と能力を失ってしまいました。とすれば、それを補う存在を作り出すことを考えたとしても、ぜんぜん不思議ではないと思います。そのような目的のために人間のデザインを突き詰めることは、道具としても悪くない着想だと思います。効率よりも、安心を与えるデザインのための研究としてとらえるほうにこそ、ヒューマノイド・ロボットに実用的意味を与えられるのではないでしょうか。もちろん、デザインが先にあるだけでは意味がないので、こちらも優先順位の問題に帰着すると思いますが…。
大学の研究者の中には、「ヒューマノイド・ロボットを作るプロセスを通して、人間の仕組みがよくわかるようになった」と研究意義を語っている人がいます。人間が人間自身を知ることは重要なことですが、それは、ロボット開発やAI研究を通じてしか行えないことなのでしょうか。だいたい、なぜ営利企業がヒューマノイド・ロボットに多額の研究費を投じているのかわからなくなります。
ご指摘のように、ヒューマノイド・ロボットの最も有望な市場は、エンタテインメント市場でしょう。日本人は、少子化によって満たされなくなった欲望をペットで満たそうとします。ペットなら、人間と違って、気に入らなくなれば、いつでも捨てることができました。しかし、動物愛護運動の高まりで、それも難しくなりました。そこで、ロボットを飼おうということなのでしょう。でも、もしヒューマノイド・ロボットをいつでも捨てられる道具として扱うなら、心の通ったコミュニケーション効果は期待できないし、人間並みに扱うのなら、なぜ本物の人間を相手にしないのかということになるでしょう。
したがって、ヒューマノイド・ロボットの市場規模は、現在の模造品や玩具のそれと同じ程度ではないかと予想されます。
人間が他人を見て「その人は心を持っている」というのは主観的な判断であり、確かめたりすることはできません。「心を持っている」というのは単なる思い込みです。同様に、ロボットが人型であれば、「心を持っているかもしれない」と思い込みやすくなります。また、人型ロボットを作ろうとするのは、企業の宣伝があるためです。技術力の高さを見せてやろうと言うことです。リクルートにおいても効力を発揮できそうです。研究が進めば、性能の良い義手なんかもできるかもしれません。他の分野への応用が可能です。兵器としての研究も進んでいます。さらに、「ヒューマノイド保護団体」というものができたらどうするの?というのがすぐに頭に浮かぶ疑問です。アメリカとかだと設立されそうな気がしません?
ヒューマノイドロボットには、エンタテインメント以外の需要はありません。兵器が人間の形をしていなければならない理由は何もありません。義肢は、いくら技術が進んでも本物の四肢には及ばないので、ES細胞を用いた再生医療の方が有望です。
論点からそれるかもしれませんが、私のblogの拙文をもとに、世相に対する私の考えや感想を述べさせてください。
私のカミさんいわく、人々がペットロボットを可愛がるのは、
「いやしを与えてくれるからよ。それに糞の世話や散歩の面倒もないし。」
それに対して私は、
「そんなの絶対変だよ。いやしというものは、本物の動物や本物の植物と接して得られるものだよ。IT技術が人間の感性をおかしくしているんだよ。」
と笑って反論しました。
アトムは心を持つロボットでした。人間の気持ちの理解も共感もできて、笑ったり怒ったりすることができました。しかし私は、絶対的な自信を持って言いますけど、そういうロボットを作ることは、不可能です。いずれ、はっきり証明されます。
(「人間だって、高度なロボットだ」という人が意外に多くて、私はあちこちの議論サイトで、大論争を続けてきたのでした。)
私はロボットにいやしを求める現代人(日本人?)に、非常に精神の虚弱化と退廃を感じます。自分にとって、かわいくて、やさしくて、手間をかけさせないものが、いいのです。そういうものと一緒に、ストレスのない生活がしたいのです。
生身の人間や生身の動物は、自分に対して”やさしく”ない。一緒に生活することは、苦痛になることが少なくない。
ロボットに可愛さや優しさを求めたり、自分の言動に都合よく反応してくれることに満足したりするのは、私には不毛な自慰行為に思えます。
ロボットに人間の気持ちや感情が伝わることはありえないのです。
ヒューマノイド・ロボットは儲からない、というのは間違いだ。
高度な技術を用いた高性能なダッチワイフは間違いなく売れる。
また、単なるオナペットとしても売れるだろう。
二つ前のコメントで、「ヒューマノイドロボットには、エンタテインメント以外の需要はありません」と書きました。ダッチワイフはエンタテインメントでしょ。問題は、高級人形以上の需要があるかどうかです。
高級人形としての需要があればいいのではないのですか?
その点に関して、ダッチワイフという大きな需要があるではないか、ということを言っているのです。