鏡像はなぜ左右だけ逆なのか

2016年10月22日

鏡は、左右を逆にするのではなくて、逆になった左右をそのまま映しているだけである。私たちが、自分と鏡像を重ね合わせる時、左右を逆にするのは、私たちの身体が左右対称に近いからである。

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1. なぜ鏡に映る私は左右逆なのか

鏡に映った像は、なぜ実像と左右だけが逆で、上下は逆ではないのか。昔から問われてきた、そして今でも子供たちがよく問う問いである。しかし、この問いに答えようとする前に、本当に鏡は左右を逆にしているのかと問い直す必要がある。鏡に向かって右手を挙げてみよう。すると鏡の中の私も、私から見て右側の手を挙げている。鏡象の頭と私の頭が上どうし対応しているように、鏡象の右側の手と私の右側の手は対応している。そもそも光学的に考えるならば、鏡が逆にするのは、左右や上下といった鏡に対して平行な向きではなく、前後、すなわち鏡に対して垂直な向きだけである。前後が逆になっていることは、鏡と私の間に何か障害物を置くと、障害物は私の前にあるにもかかわらず、鏡象の私は鏡象の障害物の後ろにあることから明らかである。

では、なぜ私たちは、「鏡は左右を逆にする」と意識しているのか。それは、私たちは、鏡像を見るとき、鏡像と自分とを重ね合わせ、鏡像の視点から左右を語るからだ。だが、鏡像関係にある3次元の二つの物体をぴったりと重ね合わせることができない。このことは、カントの「右手と左手」の議論以来よく知られている。右手と左手のような、鏡に対して面対称な関係にある二つの鏡像体は、平行移動や回転移動で完全に重ね合わせることはできない。

類似の現象は異次元でも見られる。1次元の直線上に存在する二つの記号"-・"と"・-"は、0次元の点に対して対称で、直線上をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、2次元平面上で180度回転すれば、完全に重なり合う。2次元の平面上に存在する二つの文字"p"と"q"は、1次元の線に対して対称で、平面上をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、3次元空間上で180度回転すれば、完全に重なり合う。同様に、3次元の空間内に存在する右手と左手は、2次元の面に対して対称で、空間内をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、4次元の未知の世界で180度回転すれば、完全に重なり合うと考えることができる。しかし、残念ながら、そのような4次元の世界を私たちは直観することができない。

私を鏡の中の私に平行移動で近づけて重ねようとすると、左右と上下は同じで、前後だけ異なる重なり方になる。その私を垂直方向に180度回転させると、左右と前後は同じだが、上下だけ異なる重なり方になる。最初の私を水平方向に180度回転させると、上下と前後は同じだが、左右だけ異なる重なり方になる。このように、鏡像体を重ね合わせようとすると、前後・左右・上下という三つの座標軸のうち、どれか一つを逆方向にしなければならない。

では、私たちは、どの方向を逆にしているだろうか。普通、私たちは、無意識のうちに左右を逆にして重ね合わせている。人間は、ほぼ左右対称だから、左右を逆にすると、相違を最小限にして重ね合わせることができる。つまり、鏡が私を左右逆に映しているのではなく、私が、自分の身体を左右逆にして、鏡像の立場に身を置いているだけなのだ。

2. なぜ鏡に映る文字は左右逆なのか

こう言うと、読者の中には、「鏡の中の文字は、私が鏡の向こうから見ようとしているわけではないのにもかかわらず(厳密に言えば、鏡の向こうから見ようとしていないがゆえに)左右逆になるのは、なぜか」と反論する人もいることであろう。確かに、鏡の中の文字は、想像上の平行移動や回転をするまでもなく、左右逆に見える。そして、多くの人は「鏡は文字を左右逆にする」と信じている。しかしこの常識は間違っている。

実際には、鏡は文字を左右逆に反転させたりはしない。そのことを確認するために、ひとつ実験をしてみよう。ガラスの板(あるいはサランラップやビニール)などの透明な媒体に、上下左右非対称な文字を書いて、鏡の前に持っていく。すると、透明な媒体に、私から見て正しい方向で書かれた文字が、鏡に正しい方向でそのまま映っていることに気が付く。鏡の中だというのに、左右逆ではない。しかしこれは驚くべきことではない。鏡と平行に位置する透明な媒体に書かれた文字は、2次元の図形として見るならば、前後を入れ替えても何も変化しない。鏡が、前後だけを逆にして、左右と上下をそのままにすることを思い出すならば、鏡が文字を直接見える通りに映し出すことは当然の結果である。

次に、透明な媒体の代わりに不透明な媒体を用いてみよう。白い紙に文字を書いて、それを自分の方に向けても、鏡には白い背が写るだけで文字が写らない。そこで、私は、文字が鏡に写るように、水平方向に紙を回転させる。そして、この無意識のうちに行う回転に手品もどきのトリックが隠されている。鏡には、左右が逆になった文字が映るが、それは鏡が文字の左右を逆にしているからではなく、私が文字の左右を逆にしたからだけなのだ。文字を鏡に映すために行う回転は水平方向でなければならないというわけではない。垂直方向に回転しても、鏡に文字が映る。その場合、文字は上下だけが逆で、左右は逆ではない。

文字ではなくて私の身体を回転させる場合もある。鏡を見ると、自分の背後に左右が逆になった文字が書かれた看板があることに気付いたとする。振り返ると看板には正しく文字が書かれているのが見える。すると「直接見ると、看板には正しく文字が書かれている。左右が逆なのは、鏡のせいだったのだ」と思ってしまう。しかし、この場合、振り向くという身体運動にトリックが隠されている。看板には、もともと私から見て左右逆に文字が書かれていたのであって、180度水平方向に振り向くという身体運動によって、それがもとに戻っただけのことなのだ。鏡の中で、左右は正しく上下だけが逆になった文字が書かれた看板を背後に見つけたときは、180度垂直方向に身体を回転すれば、その文字を正しく見ることができる。だがそうした看板はあまり見かけない。それは、私たちにとって、逆立ちすることよりも振り向くことの方が簡単だからだ。

鏡は、文字を左右逆にするのではなく、左右逆になった文字を忠実に映し出しているだけである。では、なぜ私たちは、看板に文字を書く時、掲げる方から見て文字を左右だけ逆に書くのだろうか。それは、何度も言うように、私たちは垂直方向に逆立ちするよりも、水平方向に振り返るほうが得意だからだ。友人に背後から声をかけると、その友人は振り返ってこちらに顔を向けるのが普通である。二人の人間が対面する時、両者は、左右の方向は逆だが、上下の方向は同じである。看板を掲げる時、看板を見る人と看板を掲げる人は、対面する時と同じ身体関係にある。だから、看板を掲げる人は、自分から見て、上下は同じで、左右だけ逆の文字を書かなければならない。もし人間が、振り返りよりも逆立ちのほうが得意な動物ならば、友人に「やあ、こんにちは」と後ろから声をかけると、友人は逆立ちをして顔をこちらに向けるのが普通となるに違いない。そのように二人の人間が対面する時、両者は、左右の方向は同じで、上下の方向は逆となる。そして、看板を掲げる人は、自分から見て、左右は同じで上下だけ逆の文字を書かなければならないようになる。いかにも奇妙な世界だが、もし人間が上下対称・左右非対称の動物であるならば、それほど不自然ではない。

3. 結論

鏡像が左右だけ逆で上下が逆ではないのは、鏡の向こうにあると想定できる他者の位置に自分を仮想的に移し置く時、自分の身体を水平方向に回転させるからだ。にもかかわらず、多くの人は、鏡像が左右だけ逆であることをあたかも鏡像の客観的性質であるかのように誤解している。他者の立場に立つ主観的容易さをその他者の客観的性質として物象化する例は他にもある。例えば、人間の命は動物の命よりも高貴であるといった常識がそれである。動物に対してよりも人間に対しての方が、相手の立場に立つという仮想的な運動が容易である。だから、動物が殺されても平気でいられる人も、人間が殺されることに対しては、我が身のことのように悲しみを感じる。人間の命は動物の命よりも高貴であるといった常識は、こうした同情という、相手の立場に立つ仮想的な身体運動の容易さから帰結するのであって、命の客観的性質に基づくのではない。

読書案内

鏡像論に関しては、これがお薦め。

書名 新版 自然界における左と右
媒体 単行本
著者 マーティン ガードナー 他
出版社と出版時期 紀伊国屋書店, 1992/05

最新版を読みたい方は、以下の英語の本を読んでください。

書名 The New Ambidextrous Universe: Symmetry And Asymmetry From Mirror Reflections To Superstrings: Revised Edition
媒体 ペーパーバック
著者 Martin Gardner
出版社と出版時期 Dover Pubns, 2005/06/09

私が参考にしたのは、この本です。現在品切れのようです。

書名 鏡の中のミステリー
媒体 単行本(ソフトカバー)
著者 高野 陽太郎
出版社と出版時期 岩波書店, 1997/10