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鏡像はなぜ左右だけ逆なのか

2002年6月28日

鏡は、前後を逆にするのであって、左右を逆にするのではない。それにもかかわらず、鏡が左右を逆にしているように見えるのは、私たちが、無意識のうちに左右を逆にして鏡像と自己同一しようとするからだ。そして、前後や上下ではなくて、左右を逆にしようとするのは、私たちの身体が、前後と上下には対称性がなく、左右が最も対称性が高いからだ。[1]

Image by Jill Wellington from Pixabay

1. なぜ鏡に映る人は左右逆なのか

今、あなたは右手に腕時計をはめているとしよう。鏡に正面から向かって、腕時計が付いている右手を挙げてみよう。すると鏡の中のあなたも、自分から見て右側の腕時計をはめた手を挙げている。鏡象の頭とあなたの頭が上どうし対応しているように、鏡象の右側の手とあなたの右側の手は対応している。そもそも光学的に考えるならば、鏡が逆にするのは、左右や上下といった鏡に対して平行なベクトルではなく、前後、すなわち鏡に対して垂直なベクトルだけである。

では、なぜ私たちは、「鏡は左右を逆にする」と思い込んでいるのか。それは、私たちは、鏡像を見る時、鏡像と自分とを重ね合わせ、鏡像の視点から左右を語るからだ。だが、鏡像関係にある3次元の二つの物体をぴったりと重ね合わせることができない。このことは、カントの「右手と左手」の議論以来よく知られている。右手と左手のような、鏡に対して面対称な関係にある二つの鏡像体は、平行移動や回転移動で完全に重ね合わせることはできない。これは、キラリティー(chirality 対掌性)と呼ばれ、化学では、以下の図にあるように、L-体とR-体の区別が重要な意味を持つ。

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左手と右手、アミノ酸のL-体(左)とR-体(右)。両者は鏡像異性体(enantiomer)の関係にあり、重ね合わせることができないという意味でキラリティーがある[2]

類似の現象は異次元でも見られる。1次元の直線上に存在する二つの記号「—・」と「・—」は、ゼロ次元の点に対して対称で、直線上をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、2次元平面上で180度回転すれば、完全に重なり合う。2次元の平面上に存在する二つの文字《p》と《q》は、1次元の線に対して対称で、平面上をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、3次元空間上で180度回転すれば、完全に重なり合う。同様に、3次元の空間内に存在する右手と左手は、2次元の面に対して対称で、空間内をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、4次元の未知の空間で180度回転すれば、完全に重なり合うと想定される。

4次元の空間は未知なので、話を3次元空間に戻し、簡単なモデル図で、キラリティーのある3次元物体を完全に重ね合わせることができないことを説明しよう。以下の図は、相互に直角をなし、先端に青色、緑色、赤色の球をつけた棒でできた、前後・左右・上下が非対称なモデルとその鏡像である。

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中央に鏡があるという想定で描いたキラリティーのある3次元モデル(右側)とその鏡像(左側)。

青玉の付いた棒と赤玉の付いた棒が重なるように鏡の中の像に平行移動で近づけて重ねようとすると、緑玉の付いた棒だけが逆向きの重なり方になる。

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左右と上下は同じで、前後だけ異なる重なり方。

ここからもわかる通り、鏡は前後だけを逆にしているのであって、上下と左右は逆にはしない。次に、この状態から、青玉の付いた棒を軸に緑玉の付いた棒が重なるように水平方向に180度回転させると、上下と前後は同じだが、左右だけ異なる重なり方になる。

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上下と前後は同じで、左右だけ異なる重なり方。

これは私たちが想像の世界で鏡像と自己同一するときの重ね方である。しかし、重ね方はまだある。この状態から緑玉の付いた棒を軸に赤玉の付いた棒が重なるように垂直方向に180度回転させると、左右と前後は同じだが、上下だけ異なる重なり方になる。

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左右と前後は同じで、上下だけ異なる重なり方

要するに、対掌性のある二つの鏡像体を重ね合わせようとすると、前後・左右・上下という三つの座標軸のうち、どれか一つを逆方向にしなければならないということだ。

では、私たちは、自分を鏡像と重ね合わせる時、どの方向を逆にしているだろうか。普通、私たちは、無意識のうちに左右を逆にして重ね合わせている。人間は、ほぼ左右対称だから、左右を逆にすると、相違を最小限にして重ね合わせることができる。つまり、鏡が私を左右逆に映しているのではなく、私が、自分の身体を左右逆にすることで、鏡像の立場に身を置いているだけなのだ。

2. なぜ鏡に映る文字は左右逆なのか

読者の中には、「鏡の中の文字は、私が鏡の向こうから見ようとしているわけではないのにもかかわらず(厳密に言えば、鏡の向こうから見ようとしていないがゆえに)左右逆になるのは、なぜか」と反論する人もいることであろう。確かに、鏡の中の文字は、想像上の平行移動や回転をするまでもなく、左右逆に見える。そのため、多くの人は「鏡は文字を左右逆にする」と信じている。しかしこの常識は間違っている。

実際には、鏡は文字を左右逆に反転させたりはしない。そのことを確認するために、ひとつ実験をしてみよう。ガラスの板などの透明な媒体に、上下左右非対称な文字(例えば、mirror)を書いて、鏡の前に持っていく。すると、透明な媒体に、私から見て正しく書かれた文字が、鏡にそのまま正しく映っていることに気が付く。

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ガラス板に書かれた“mirror”の文字(右下)とその鏡像(左上)。

鏡の中だというのに、左右逆ではない。しかしこれは驚くべきことではない。鏡と平行に位置する透明な媒体に書かれた文字は、2次元の図形として見るならば、前後を入れ替えても何も変化しない。鏡が、前後だけを逆にして、左右と上下をそのままにすることを思い出すならば、鏡が文字を直接見える通りに映し出すことは当然の結果である。

次にこのガラス板を水平方向に180度回転してみよう。すると、鏡の中の文字は左右逆になる。しかし、以下の図を見ればわかるように、鏡は左右逆になった文字をそのまま映しているのであって、鏡が左右を逆にしているのではない。

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左右逆に反転したガラス板(右下)とその鏡像(左上)。

次に、透明な媒体の代わりに不透明な媒体を用いてみよう。白い紙に上下左右非対称な文字(ここでは引き続き、mirror)を書いて、それを自分の方に向けても、透明な媒体の時とは異なって、鏡には白い背が写るだけで文字が写らない。

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紙に書かれた“mirror”の文字(右下)とその鏡像(左上)。

そこで、私は、文字が鏡に写るように、水平方向に紙を180度回転させる。

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左右逆に反転した紙(右下)とその鏡像(左上)。

相手に何かを見せる時に無意識のうちに行うこの回転に、トリックが隠されている。鏡には、左右が逆になった文字が映るが、それは鏡が文字の左右を逆にしているからではなく、私が文字の左右を逆にしたからだけなのだ。文字を鏡に映すために行う回転は水平方向でなければならないというわけではない。垂直方向に回転しても、鏡に文字が映る。その場合、文字は上下だけが逆で、左右は逆ではない。

文字ではなくて、私の身体を回転させる場合もある。鏡を見ると、自分の背後に左右が逆になった文字が書かれた看板があることに気付いたとする。振り返ると看板には正しく文字が書かれているのが見える。すると「直接見ると、看板には正しく文字が書かれている。左右が逆なのは、鏡のせいだったのだ」と思ってしまう。しかし、この場合、振り向くという身体運動にトリックが隠されている。鏡などなくても、看板にはもともと私から見て左右逆に文字が書かれていたのであって、180度水平方向に振り向くという身体運動によって、それがもとに戻っただけのことなのだ。

鏡の中で、左右は正しく上下だけが逆になった文字が書かれた看板を背後に見つけた時は、180度垂直方向に身体を回転すれば(つまり逆立ちすれば)、その文字を正しく見ることができる。だがそうした看板はあまり見かけない。それは、私たちにとって、逆立ちすることよりも振り向くことの方が簡単だからだ。

鏡は、文字を左右逆にするのではなく、私から見て左右逆になった文字を忠実に映し出しているだけである。では、なぜ私たちは、掲げられる方から見て正しく看板に文字を書く時、掲げる方から見て文字を左右だけ逆に書くのだろうか。それは、何度も言うように、私たちは垂直方向に逆立ちするよりも、水平方向に振り返るほうが得意だからだ。友人に背後から声をかけると、その友人は振り返ってこちらに顔を向けるのが普通である。二人の人間が対面する時、両者は、左右の方向は逆だが、上下の方向は同じである。看板を掲げる時、看板を見る人と看板を掲げる人は、対面する時と同じ身体関係にある。だから、看板を掲げる人は、自分から見て、上下は同じで、左右だけ逆の文字を書かなければならない。

もし人間が、振り返りよりも逆立ちのほうが得意な動物ならば、友人に「やあ、こんにちは」と後ろから声をかけると、友人は逆立ちをして顔をこちらに向けるのが普通となるに違いない。そのように二人の人間が対面する時、両者は、左右の方向は同じで、上下の方向は逆となる。そして、看板を掲げる人は、自分から見て、左右は同じで上下だけ逆の文字を書かなければならないようになる。いかにも奇妙な世界だが、もし人間が上下対称・左右非対称の動物であるならば、それほど不自然ではない。

3. なぜ自分を他者と重ね合わせようとするのか

私たちが、鏡に映った自分の像を見て問わなければならない問いは、「鏡像はなぜ左右だけ逆なのか」ではなくて、「なぜ私たちは、左右だけ逆にして、つまり差異を最小にして、鏡像と一体になろうとするのか」である。鏡像が私自身だからというのは、答えとしては不十分である。

私たちは、直接自分自身を見ることができない。だから、鏡を使って自分を見る。鏡に映った自分は、他者から見られた自分でもある。だから、鏡像の自分を見ながら、私たちは、空間的には鏡像の位置にいる他者へと想像的な自己同一を行いつつ、その視点から見える自分を見ようとする。

自分を鏡像に重ね合わせようとするのは、他者の視点から自分を見ようとするためなのだ。そして、自分と鏡像が完全に重ならないことは、他者の視点から見られていると私が想像する理想的な自我と実際に他者から見える現実的な自我の間には、永遠に埋まらないギャップがあるということを象徴している[3]

4. 参照情報

関連著作

鏡像論に関しては、マーティン・ガードナー著『自然界における左と右』がお薦め。原書が読める人は、The New Ambidextrous Universe: Symmetry And Asymmetry From Mirror Reflections To Superstrings を読んでください。高野陽太郎著『鏡の中のミステリー』も参考になります。

注釈一覧
  1. 本稿は、2002年6月28日発行のメールマガジンの記事「鏡像はなぜ左右だけ逆なのか」を改訂したものである。原文はリンク先を参照されたい。本稿はまた、拙著『縦横無尽の知的冒険』や『エントロピーの理論』にも収録されている。
  2. National Aeronautics and Space Administration. “Amino Acid Chirality.” Licensed with PD-USGov-NASA. Modified by me.
  3. ラカンの鏡像段階論の主題はこれである。詳しくは、拙稿「小文字の他者と大文字の他者」を参照されたい。