このウェブサイトはクッキーを利用し、アフィリエイト(Amazon)リンクを含んでいます。サイトの使用を続けることで、プライバシー・ポリシーに同意したとみなします。

地球の砂漠化を阻止するための人間の役割

2006年7月12日

現在、地表面の約4分の1が砂漠となっており、さらに毎年約600万ヘクタールの割合で砂漠化が進行している。このまま砂漠化の進行を放置すれば、私たちの食料基盤と居住基盤はどんどん減っていくことになる。砂漠化を食い止めて、地球を緑化するにはどうすればよいのか。この問いに答えるには、そもそも人間はエコシステムにおいてどのような役割を果たしていたのかというところから考え直さなければならない。[1]

Photo by Frederik Löwer on Unsplash

1. 人間は水産物を食べて進化した

アクア説によれば、人類の祖先は、水中の環境に適応し、魚や貝などの水産物をとって生活することで、チンパンジーと分岐する独自の種となった。私は、エレイン・モーガンのように、人類の祖先が海中で暮らしていたとは考えず、アフリカ大陸の淡水湖の水辺で暮らしていたと考えている[2]

アクア説は、かつては異端の説だったが、現在では、初期人類が水産物を食べて、脳を巨大化させたという説に関しては、多くの科学者が同意している。

人類の祖先として、サバンナで、ヌーを狩って持ち帰り、石器で肉を切り分けたり、死肉をあさったりする、筋骨たくましいハンターの絵がよく描かれるが、もっと正確なイメージは、静かな湖や波の穏やかな海に入って、魚、海鳥の卵、軟体動物やその他の海産物を捜し求める漁夫(漁婦)かもしれない。[3]

人間の脳の約60%は、ドコサヘキサエン酸(DHA)とアラキドン酸(AA)から成り立っているが、人間は、これらのもととなるオメガ-3とオメガ-6の不飽和脂肪酸を自分で合成できない。オメガ-6は植物油などからも摂取することもできるが、オメガ-3を十分に摂取しようとするならば、魚介類や海草を食べないといけない。初期人類が、脳を巨大化させたとするならば、魚介類や海草を食べていたはずである。

その後、乾燥化に伴う湖面の縮小により、人類は水辺から離れるようになり、今日では、牛肉や豚肉といった陸上動物の肉をも食べるようになった。しかし、牛肉や豚肉の脂肪は、コレステロールを多く含むが、魚油は、逆にそれを減らしてくれる。鯨は魚ではないが、鯨肉は、牛肉や豚肉や鶏肉よりもコレステロールの含有量が少ない。

私たちの体は、水産物を食べたほうがより健康に生きられるように作られているのだが、水産物を食べることは、実は、人間の健康にとって良いだけでなく、エコシステム (生態系)全体の健康にとっても良い。このことを次に詳述しよう。

2. 人間がエコシステムで果たす役割は何か

一般に、人間を含めて、動物は、植物が光合成によって作り出した栄養を直接的または間接的に搾取するだけの寄生的存在に過ぎないと思われているが、実は、動物、なかんずく人間には、エコシステムを維持する上で重要な役割がある。

植物は、生きていく上で、16の元素を外部から取り入れなければいけない。水素、炭素、酸素、窒素、カリウム、リンは大量に必要だが、カルシウム、マグネシウム、イオウは少量でよく、さらにモリブデン、銅、亜鉛、マンガン、鉄、ホウ素、塩素はごく微量でかまわない。このように必要な量に差はあるものの、どれか一つでも欠くならば、正常な成長ができないという意味で、これらの元素は必須元素と呼ばれる。

必須元素のうち、水素、炭素、酸素は、空気と水から直接補給できる。窒素は、自力で取り入れることはできないが、共生微生物の力を借りて、空気中から固定できる。これら四つの元素は、動物がいなくても、微生物と自然の循環があれば、摂取できる。

だが、これ以外の元素は、動物がいないと供給が難しくなる。なぜなら、こうした土の中にある必須元素は、時間とともに、雨水によって洗い流され、海や湖沼に不可逆的に蓄積し、陸地では不足するからだ。しかし、実際には、水の中に流出した栄養塩(水に溶けている必須元素の化合物)は、プランクトンなど微生物に摂取され、さらにそれらを食べる魚など、大型の動物の体内に蓄積される。そして、それらを食べる人間や鳥などの陸上動物が排泄物や死体を陸上に還元することで、必須元素の水陸にまたがる循環が形成される。そのおかげで、植物は、陸上で繁栄できる。

では、水産物を食べない動物は、エコシステムの維持に役立っていないのかと言えば、そうではない。水産物を食べる動物は少数なので、排泄物や死体は特定の場所に偏る。陸上の植物や動物を食べ、他の場所で排泄物や死体を残すことで、動物は、水の中から取り返した必須元素を薄く広く拡散する働きをしている。

動物がいなくても、陸地が陥没して海底になったり、海底が隆起して陸地になったりして、必須元素の移動が起きることもある。しかし、これは稀な現象で、時間のかかる。それゆえ、必須元素を水中から陸上に取り戻す上で、動物が重要な役割を果たしていることにかわりがない。

3. 回収型農業と流出型農業

生態系において人間が果たす役割は、水中から栄養塩を回収して陸上に還元することである。この役割を果たしているか否かという観点から、農業(漁業や牧畜も含めた広い意味での農業 )を回収型農業と流出型農業という二つの理念型(イデアール・テュプス)に分類してみたい。理念型はあくまでも理念的な典型であるから、現実の農業には中間的なものが多いのだが、大まかに言って、小麦栽培と牧畜から成り立つ西洋の農業は流出型農業であり、米と豆の栽培から成り立つ東洋の農業は回収型農業である。この違いの発祥を、私たちは四大文明の時代にまで遡らせられる。

紀元前3500年から紀元前2300年にかけて、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、長江文明など、旧大陸に集権的な文明が現れた。これは、そのころ、北緯35度以北の地帯が湿潤化したのに対して、北緯35度以南の地帯が乾燥し、北緯35度以南に住む人々が、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、長江に水を求めて集まったからだと考えられている [4]

これら四大文明のうち、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明の三つの文明は、西洋文明と呼べる。インドは普通東洋と呼ばれているが、インダス文明は、メソポタミア文明の影響を受けてできたので、西洋に分類することにしたい。三つの文明での農業のあり方は、後に、私たちが典型的な西洋だと考えているヨーロッパに受け継がれる。

西洋文明では、小麦栽培と牧畜をセットにした農業が行われた。小麦は、必須アミノ酸のうち、リジン、メチオニン、スレオニンが少ないので、肉や乳製品で、不足したアミノ酸を補わなければならない。このため、これらの西洋文明は、家畜の肉を入手するために、森林を大規模に伐採し、牧畜用の草原を作った。

メソポタミア文明では、人々は、神殿建設や交易船の建造のために、多くの森林を伐採した。それは『ギルガメシュ叙事詩』に描かれている森の神フンババの殺害から窺い知ることができる。エジプト文明もまた森林資源を必要とし、両者とも争ってレバノン杉を伐採した。メソポタミア文明は、インダス文明の町ロタールからも木材を輸入していた。

西洋文明は、森を伐採し、麦畑を作り、家畜を飼った。彼らは小麦と家畜の肉を食べてできた人糞尿を有効活用することなく、ごみとして捨てていた。インダス文明のモヘンジョ・ダロは、世界初の高度な下水処理施設で有名だが、最終的には、それはインダス川に捨てられていた。今でも、インド人は、家畜の糞を肥料として使うことはあっても、人間の屎尿を肥料として使うことはない。

インド諸地域での家畜糞の絶対量は屎尿をはるかに凌駕しており、家畜糞のみに依存する形態が展開したものとおもわれる。集約的な庭畑地の経営にも通常屎尿は使用されず、家畜糞のみに依存してきた。都市近郊農家による都市廃棄物の利用は長い歴史を持つが、屎尿は蔬菜栽培人カーストを例外として活用されていなかったものとおもわれる。[5]

家畜の糞を肥料として土地に還元しても、それだけでは、たんに栄養塩が陸の中で循環しているだけで、水中から陸上への回収をしたことにはならない。それゆえ、しだいに地力が落ちていくのである。

流出型農業による土地の疲弊は、現在これらの文明が存在した地域が砂漠となっている原因の一つとされている。もちろん、エジプトを除くアフリカ大陸北部のように、これといった文明のないところも砂漠化した[*]から、北回帰線付近の砂漠化は自然現象だと言えるが、人間がそれに対して、ポジティブ・フィードバックをした、あるいは少なくとも防ぐことはしなかったと言うこともできる。

[*] アルジェリア南部のタッシリナジェール山脈の壁画には、カバの親子やワニの絵が描かれている。7000年前のヒプシサーマル期においては、サハラ砂漠の降水量は年間400ミリほどあり、夏の気温も今より約2度低く、現在のサバンナ気候に近かった。[6]

森林を伐採し、麦畑と牧草地を作り、小麦と家畜の肉を食べ、糞尿をごみとして流しさる西洋文明の歴史は砂漠化の歴史である。流出型農業の伝統は、古代エジプト・メソポタミア文明から、古代ギリシャ・ローマ文明を経て、近代ヨーロッパ へと受け継がれ、アメリカ大陸やオーストラリア大陸といった新大陸に広がり、現在急速な勢いで地球を砂漠化している。

これに対して、東洋の長江文明では、稲と豆が栽培された。米は、必須アミノ酸のうち、リジンだけ足りないが、リジンは豆で補える。今でも中華料理には、豆腐を始め豆料理が多いが、その起源は長江文明にまでさかのぼるのかもしれない。

長江文明でも、人々は豚をはじめとする動物の肉を食べていたが、西洋文明のように、大規模な森林伐採を伴う本格的な牧場開拓は行わなかった。栄養学的に言って、陸上動物の肉を食べる必要がなかったからである。米と豆と魚介類と野菜を食べれば、必要な栄養はすべて摂取できる。

長江文明の人たちがどのように屎尿を処理していたかは不明だが、中国語の古語(豚の旁を囲った象形文字)に視覚的に表現されているように、豚小屋が便所を意味することから、豚の餌にしていたのではないかと推測される。実際、代表的な長江文明である河姆渡文化では、豚が家畜化されていた。

人糞を豚の餌にする習慣は、つい最近まで中国に残っていた。今もまだ残っているのかもしれない。中国に出征した日本兵は、用便中に、いち早く餌を食べようと寄ってきて尻をなめる豚に悩まされた。そこで、豚を追い払うための棒が用便の必携の具であった[7]。この習慣は、沖縄やフィリピンやその他東南アジアの一部の地域にも見られたが、地理的な近接性を考えれば、これは多分中国の影響であろう。

人糞を食べた豚の糞は、土に還元されるから、長江流域では、水産物の栄養塩が陸上に回収される循環ができていた。長江流域は、宋の時代に「蘇湖熟、天下足」(蘇州と湖州の農産物が実れば、国中を賄うのに十分である)と称されたほどの「魚米の郷」であった。長江文明消滅後、中国南部は、小麦栽培と牧畜を中心とする中国北部の政権の支配を受けるが、現在砂漠化が進行する中国北部とは対照的に、いまだに緑を失わずに多くの人口を養っている。長江流域は、他の四大文明と同様に北回帰線下にあるにもかかわらず、砂漠化していないということを考えると、回収型農業の果たす役割は大きいと言わなければいけない。

4. 日本の回収型農業

中国では、糞便を豚の餌にするという方法以外にも、醗酵させて肥料にするという方法が古くから行われていた。いつから行われるようになったのかはよくわかっていないが、中国の習慣が日本に伝来した可能性がある。

便所は、日本の古語で「かわや」と呼ばれ、漢字で便所を意味する「厠」もそう訓じられた。「かわや」の語源は何だろうか。「かわや」を、川の上に作られた便所という意味での「川屋」とする説と母屋とは別に作られた便所という意味での「側屋」とする説がある。

「川屋」説は、『古事記』にある丹塗矢伝説を根拠にしている。

ミシマノミゾクヒの娘は、名をセヤダタラヒメという。その容姿は美しかった。そのため、美和の大物主神がそれを見て気に入って、その美人が用を足そうとした時に、丹塗矢に変身して、大便が垂れる溝を流れ下って、その美人の陰部を突いた。するとその美人は驚いて、立ち上がると走って慌てふためいた。[8]

よく読むと、セヤダタラヒメ が川で用便したとは書いていない。天然の川は「溝」とは呼ばない。たんに下水溝に便を落としたと解釈すべきだ。そもそも「厠」という漢字には、側(かたわら)という意味はあっても川という意味はない。

インドネシアやタイなど、東南アジアでは、川に用便する風俗が広く見られ、中国南部や日本にも部分的にあったと考えられるので、「川屋」説もあながち否定できないのだが、日本の家屋が伝統的に便所を母屋から切り離してきたことを考えると、「側屋」説にも可能性がある。

人糞尿の肥料としての活用は、古代から行われていたかどうかはともかくとして、文献上では、927年の『延喜式』が初出で、播種前の施肥として使われていたとのことである。鎌倉時代になって、二毛作が行われるようになると、肥料の需要がさらに増え、人糞尿は追肥用にも使われるようになった。

1563年に来日したルイス・フロイスは、『日欧文化比較』の中で「欧州人は糞尿を汲み取り、便所を掃除してくれる人に金を払うが、日本では汲み取り人が糞尿を買い、米と金を支払っている」と書いている。人糞尿は、安土桃山時代には、既に商品になっていたのである。

人糞尿の商品化は江戸時代に本格化する。江戸は、18世紀初頭には人口の多さで世界最大級の大都市になったが、この巨大都市は環境破壊をもたらさなかった。海から陸への、そして陸から海への栄養還元により、江戸湾はすしの新鮮なネタとなる海産物であふれ、江戸周辺の田畑は、地力を衰えさせることなく、高い生産力を誇っていた。

日本人は、縄文時代から、魚介類やイルカや鯨を盛んに食べていたが、仏教が盛んになって肉食禁止令が出されるようになると、陸上の動物を食べることが少なくなり、ますます水中の動物を食べるようになった。江戸時代の農業は、水産物を食べ、排泄物を肥料として陸上に還元する回収型農業のもっとも純粋な形態である。

人糞は、窒素とリン酸を豊富に含むが、カリウムが不足しているので、カリウムが豊富な灰を混ぜて使われた。また、灰はアルカリ性なので、人糞尿だけだと酸性化しやすい土壌を中和化する働きもあった。干し鰯が肥料として使われることもあったが、人糞尿の方がはるかに安かったので、主流にはならなかった。

日本は、明治維新後、西欧諸国のまねをして、下水道法を作り、糞尿を生活廃水と一緒に管渠に集め、海域に捨てる計画を立てた。

この計画を知った当時の東京帝国大学農学部長の麻生慶治郎は「人糞尿は日本の農業にとって欠かすことのできない重要な肥料源である。これを海などに流し去るようなことになったら、日本農業の将来はどうなるのか」と政府に強く反対を申し入れた。政府もこの麻生教授の意見に耳を傾け、下水道法案の内容を見直すこととなる。[9]

こうして、人糞尿の堆肥化は、明治維新後も続けられた。しかし、都市部での人口増加と農地の縮小に伴い、需給が悪化し、人糞尿の価格が下落し始めた。戦後は化学肥料が普及したこともあり、人糞尿の堆肥化は、昭和30年ごろには終了した。

現在の日本は、もはや江戸時代の日本のようなエコロジカルな国ではなくなっている。食生活が西洋化され、人々は魚肉に代わって、牛肉を食べるようになった。人糞尿はごみとして処分されて、海に流され、農地には大量の化学肥料と農薬がまかれている。それでもまだ日本に緑が多く残っているのは、輸入を通じて海外の資源を収奪しているからである。

人糞尿を堆肥化しなくても、化学肥料を使えば、土地がやせることはないから、何も問題はないと反論する人がいるかもしれない。そう言う人は、化学肥料の材料がどこから来ているかを考えてみるべきだろう。化学肥料の主要な成分である、窒素とリンとカリウムのうち、窒素は空気中にほぼ無尽蔵にあるが、リンとカリウムは鉱山から採掘している。したがって、化学肥料を使うことは、陸上から水中への栄養塩の流出を促進することになる。

カリ鉱石は比較的まだ資源が豊富であるが、リン鉱石は資源が枯渇しつつある。化学肥料は、石油と同様、無尽蔵な資源ではない。リン鉱石が枯渇したら、人類は、海に流出したリンを回収しなければなくなるだろう。そうした回収を機械で直接やろうとすれば、莫大な費用とエネルギーが必要になるが、心配は無用である。魚や鯨が代わりにやってくれる。魚や鯨の骨には大量のリンが含まれているから、それを農地に還元すればよいのだ。

化学肥料のもう一つの問題点は、主要な必須元素を含んではいるものの、微量の必須元素までは含んでおらず、長期的に化学肥料ばかりを用いていると、田畑が植物の育たない土地になってしまうということである。この点からも、有機肥料、なかんずく人糞尿の利用を見直したいものである。

5. 欧米人の無理解を象徴する捕鯨禁止運動

流出型農業は砂漠化をもたらし、回収型農業は緑化に貢献する。この見解は、まだ一般的には認知されていない。それを象徴するのが、欧米の自称「環境保護団体」が行っている捕鯨禁止運動である。彼らは、牛食文化の方が鯨食文化よりも優れていると考えているのだが、実はまったくその逆であることを示そう。

日本人は、有史以前から捕鯨に携わってきた。三内丸山遺跡など縄文時代の遺跡から多数の鯨やイルカの骨が見つかっている。当初は、漂流した鯨やイルカを食べていただけなのかもしれないが、根室市の弁天島貝塚からは、綱のついた銛を使って、舟と同じぐらいの大きさの鯨を捕まえようとしている様子を描いた骨片が出土しており、かなり早い時期から、船を使って積極的に捕鯨を営んでいたことがわかる。

江戸時代になると、従来の弓取り法や突き取り法よりも確実な捕鯨方法である網捕り法が普及し、商業的組織による鯨の大規模な捕獲・解体・流通のシステムが確立された。しかし、江戸時代の日本人の捕鯨が鯨資源を枯渇させることはまったくなかった。江戸時代の日本人は、陸地から目撃できるほど沿岸に近づいた鯨しか捕獲しておらず、そうした鯨は黒潮に乗って日本近海を回遊する鯨のごく一部でしかなかったからだ。

ところが、江戸時代も末期になると、鯨資源は急速に枯渇していった。アメリカを中心に、イギリスやフランスの捕鯨船が日本の近海にまで進出し、鯨を乱獲したからである。彼らは鯨を捕獲すると、油だけを取って、それ以外は海中に捨てていた。利用効率が低いので、船いっぱいの商品を生産するためには、大量に捕獲しなければならなかったわけだ。

欧米の荒っぽい捕鯨とは対照的に、江戸時代の日本人は、「鯨は棄てるところがない」と言って、鯨資源を完全に利用していた。鯨の肉のうち、赤肉は地元で刺身として消費され、それ以外は、塩蔵や釜茹でにされ保存食となった。皮、骨、内臓は釜で煮詰めて油をとり、油は灯油や農薬として利用し、残り粕の皮と内蔵は食用とし、骨は砕いて肥料にした。ひげ、筋、歯は加工されて、工芸品などに利用された。

日本は、近代捕鯨に乗り出した後も、鯨体を完全利用する伝統を守り続けた。否、むしろ鯨体は、近代化によりさらに用途が拡大した。鯨肉は、ハム、ソーセージ、ベーコン、大和煮、缶詰などにも加工されるようになった。骨や内臓から薬品やホルモン剤の原料が、油からは石鹸やマーガリンやクリームの材料が、皮や筋からは写真フィルムや医薬品のカプセルの原料が取り出されるようになった。こうした鯨体の完全利用は、資源の有効活用という点でだけでなく、海中に流出した栄養源を陸上に還元するという点においてもエコロジカルである。

他方で、西欧人は、20世紀になっても、鯨体の完全利用しなかった。以下の引用文は1960年ごろの話である。

欧州の捕鯨は鯨油生産である。IWCは、戦前の捕鯨条約や協定でうたっていたように鯨体の完全利用を常に強調してきた。しかし、監視員制度のなかったこのころの南氷洋では、油脂の少ない赤肉は、搾油の効率が悪すぎるという理由でほとんどが投棄されている。鯨肉に比重が移っている当時の日本の船団は、外国母船の近くに操業しているとき、たえず立ち昇る赤肉投棄の水煙を目撃していた。[10]

欧米人は、鯨油を灯油として使った。鯨油を取っても、それを燃やしてしまうなら、海中から陸上への栄養塩の還元には貢献しない。また鯨体を海中に投棄すると、せっかく集積された栄養塩が海底に沈んでしまう。死骸はバクテリアによって分解され、一部の栄養塩は海水表面に浮上し、プランクトンや魚の餌になるが、かなりの部分は海底に沈んだまま有効に活用されない。この意味で、西洋の捕鯨は、生態系を破壊している。

鯨資源が希少になっていくにつれて、捕鯨の規制が厳しくなってきた。安価な石油が出回るようになったこともあって、西洋諸国は次々に捕鯨から撤退していったが、日本の捕鯨船は、鯨体を完全利用しているため、生産効率が良く、捕鯨を続けた。相変わらず操業を続ける日本の捕鯨に対して、捕鯨をあきらめた西洋諸国からバッシングがおきるようになった。そして捕鯨全面禁止を求める国際世論が高まるようになる。

捕鯨禁止が環境保護の象徴となったのは、1972年にストックホルムで開かれた国連環境会議においてである。

当時のニクソン大統領は、地球上の環境破壊の中で最大といわれる戦争、とくにベトナム戦争における枯葉作戦で、ホスト国スウェーデンのパルメ首相に厳しく批判されていた。国連主催のこの会議が、アメリカ批判の集会になっては困る。また大統領選挙を控え、対立候補の民主党マックガバンが草の根運動でじりじり人気をあげている時期でもあった。政治家は政敵を倒すために手段を選ばない。ニクソンは大選挙区のカリフォルニア州で大量得票を得るため、環境保護運動、なかでも反捕鯨運動の女性旗手であったマッキンタイヤーと手を結ぶ。そしてこの繋がりを通じ、地方的運動であった環境問題、とりわけ捕鯨禁止が世界的な問題に浮上するのである。[11]

もっとも、アメリカ政府は、60年代から野生動物保護に取り組んでいたので、72年になって突然捕鯨禁止を主張したというわけではない。ニクソンも、国際的な面子を重視したというよりも「むしろ、新しく台頭した環境問題に関して国民と敵対した立場を取ることにより国内の分裂をさらに深めることを恐れていた結果だと見るべきであろう[12]」。

もう一つのうがった見方として、アメリカやオーストラリアなどが日本の捕鯨に反対しているのは、これらの牛肉輸出国が、日本人に鯨肉の代わりに牛肉を食べさせ、日本への牛肉の輸出を増やそうとしているからだという国内産業保護説がある。反捕鯨運動に携わっている人の中には、こうした不純な動機に基づいている人もいるのだろうが、大部分の人は、たんなる無知に基づいて、捕鯨禁止が環境保護になると信じて、捕鯨反対を叫んでいる。

反捕鯨運動家の中には、鯨は知能の高い動物で、人間に近いから、殺すべきではないという人もいる。鯨は、たしかに水中で生活しているから、人間と同様に、嗅覚が衰退し、聴覚が発達している。しかし人間との類似点はその程度だ。鯨は、牛と同様に、偶蹄類の祖先から進化した動物で、その知的水準も牛と同じである。鯨を殺すことはかわいそうだが、牛を殺すことはそうではないといった議論はナンセンスである。

また、牛は飼えるが、鯨は養殖できないから、牛食文化が管理された責任ある食文化なのに対して、鯨食文化は収奪するだけの無責任な食文化だという主張もある。しかし、もしも欧米人が、家畜の餌を自力で与えていると思っているなら、それは誤解である。欧米人は、家畜を食べることで陸上の栄養塩を一方的に収奪し、地力を回復させないのであるから、これこそ収奪するだけの無責任な食文化ではないのか。それに対して、江戸時代の日本人は、陸を豊かにすることで海を豊かにしたのであるから、これは一種の養殖であったと言える。

よく「森は海の恋人」と言われる。森が豊かだと、陸から海に流れ出る川の水も栄養分が豊かになり、海の生物も繁栄する。逆に森が破壊されると海もやせてくる。地中海がやせた海になったのも、古代ギリシャ・ローマ文明が、地中海沿岸で大規模な森林破壊をしたからであると言われている [13]。古代ギリシャ・ローマ文明が、地中海で小規模にやったことを、近現代の西洋文明は、世界の海で大規模にやっている。

鯨を増やすためには、餌となる魚やプランクトンを増やさなければいけない。そのためには、砂漠化を阻止し、陸上を緑化しなければならない。したがって、遠まわりではあるものの、牛肉を食べるのをやめて、牧場を縮小することが、鯨を救うことになるのである。鯨を保護しても、いつかは寿命を迎えて死ぬ。死んで海底に沈むと、栄養塩が有効に活用されなくなる。それゆえ、そうなる前に、鯨を捕まえて、食べて、陸上の緑化に役立てるべきである。

商業捕鯨を再開するにせよ、もちろん、絶滅に瀕している種に対しては特別な配慮が必要である。ただ、捕鯨全面禁止は、絶滅種を救う上で、逆効果だ。たとえば、シロナガスクジラは絶滅に瀕しているが、シロナガスクジラとクロミンククジラは、南極海において同じ餌のナンキョクオキアミを主とする動物プランクトンをめぐって競合する関係にある。クロミンククジラは、体が小さいので、シロナガスクジラとは異なり、捕獲の対象にはならなかった。このため、乱獲でシロナガスクジラの数が減った時に、クロミンククジラの数が急増し、その結果、いくら保護しても、シロナガスクジラが増えないという事態が生じている [14]。シロナガスクジラを増やすためには、クロミンククジラを間引く必要がある。

2006年6月18日に開かれた国際捕鯨委員会(IWC)の年次総会は、日本などの捕鯨支持国が共同提案していたIWCの活動正常化を求める宣言を、1票差で可決した。まだまだ捕鯨再開に対する国際世論の風当たりは強いが、鯨肉を食べることのエコロジカルな意義が理解されれば、国際世論の風向きも変わることだろう。

6. 砂漠を緑化するためのプロジェクト

現在急速に進行している砂漠化を阻止しなければ、人間だけでなく、地球上の生物全体の生存が危うくなる。私たちは、砂漠化を阻止するだけでなく、積極的に砂漠の緑化を進めるべきだ。

そのために必要なことは、水産物を食べ、人糞尿を肥料とすることである。もちろん、直接施肥すると根腐れをおこすので、醗酵させなければならない。醗酵させると、メタンが発生するので、そのメタンを水素に改質し、水素を燃料電池で水とエネルギーにする。そして、その水とエネルギーと、醗酵の残りかすである栄養塩を用いて、砂漠を緑化すればよいのである。

私たちは、ともすれば、人間を自然にとって有害な存在とみなし、人間の影響を最小にすれば、それで自然が守られると考えがちである。そして、環境保護運動家は、そうした考えに基づき、自然を守るために私たちに自己犠牲的な禁欲を求める。しかし、人間は、本来エコシステムを破壊する存在ではなくて、それを維持する存在である。人間が本来のライフスタイルに戻るなら、むしろ欲望を満たすことで自然を守れる。

人間が、自己犠牲的なボランティア活動によってではなくて、普段の生活を通じて、知らないうちにエコシステムの保護に貢献しているというのが一番長続きのする、その意味で一番望ましい環境保護のあり方である。

7. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. 本稿は、2006年07月12日に『連山』で最初に公開した「沙漠を緑化するにはどうすればよいのか」を、2021年6月19日に加筆と修正を施した上で再公開したものである。
  2. 永井俊哉『縦横無尽の知的冒険』プレスプラン (2003/7/15). p. 32-35.
  3. “Illustrations of human ancestors routinely show brawny hunters bringing home the wildebeest, butchering meat with stone tools, and scavenging carcasses on the savanna. But a more accurate image might be ancient fishermen–and fisherwomen–wading into placid lakes and quietly combing shorelines for fish, seabirds’ eggs, mollusks, and other marine food." ― Gibbons, Ann. “Humans’ Head Start: New Views of Brain Evolution.” Science 296, no. 5569 (May 3, 2002): 835–37.
  4. 安田喜憲『日本文化の風土』朝倉書店 (1992/5/1).
  5. 篠田隆「西部インドの屎尿処理とバンギー」in『アジア厠考』勁草書房 (1994/1/1). p. 177.
  6. 内嶋善兵衛『地球温暖化とその影響―生態系・農業・人間社会』裳華房 (1996/10/1). p. 74.
  7. 小島麗逸「便所の昭和経済史」in『アジア厠考』勁草書房 (1994/1/1). p. 38.
  8. “三嶋湟咋之女。名勢夜陀多良比賣。其容姿麗美。故美和之大物主神見感而。其美人爲大便之時。化丹塗矢。自其爲大便之溝流下。突其美人之富登爾其美人驚而。立走伊須須岐伎乃將來其矢。" 山口佳紀他集『新編日本古典文学全集 (1) 古事記』小学館 (1997/5/22). 中巻. 神武天皇.
  9. 楠本正康『こやしと便所の生活史―自然とのかかわりで生きてきた日本民族』ドメス出版 (1981/4/1). p. 95.
  10. 板橋守邦『南氷洋捕鯨史』中央公論社 (1987/6/1). p. 179.
  11. 板橋守邦『南氷洋捕鯨史』中央公論社 (1987/6/1). p. 190-191.
  12. 高橋順一『鯨の日本文化誌―捕鯨文化の航跡をたどる (日本文化のこころ その内と外)』淡交社 (1992/2/1). p. 147.
  13. 安田喜憲『森と文明 (NHK人間大学)』NHK出版 (1997/10/1). p. 15.
  14. 大隅清治『クジラと日本人 (岩波新書)』岩波書店 (2003/4/18). p. 11.