愛国心や愛郷心はどうあるべきか
「外国人は出ていけ」と叫ぶことは愛国心ではない。むしろ、外国人が日本に来たいと思うほど日本を魅力的な国にすることが本当の愛国心である。「可愛い子には旅をさせろ」という諺があるが、同じことは国や郷土についてもあてはまる。もしも本当に自分の国や郷土を愛しているならば、それらを盲目的に愛してはいけないのである。[1]

1. 問題提起
2011年3月に福島第一原子力発電所事故が起き、放射線被曝を恐れて日本あるいは東京を離れる人が続出した。この人たちは、ラモス瑠偉がそう考えるように、愛国心あるいは愛郷心が欠けていると言うことができるだろうか。
Jリーグ選手OB会(柱谷哲二会長)が29日、長居スタジアムで募金活動を行い、元日本代表のラモス瑠偉氏、武田修宏氏ら12人が約3時間協力を呼び掛けた。
ラモス氏は「小さな力が大きなエネルギーに変わる。日本は必ず復活できる」と目頭を熱くした一方で「買い占めするヤツとか小さすぎるヨ!東京から逃げるヤツや海外に逃げるヤツも。2度と来るんじゃねぇよ」と怒りをぶちまけるシーンも。[2]
もしも愛国心や愛郷心が、祖国や故郷を良くしたいという気持ちなら、このような発言は、愛国心や愛郷心の表れとは言えない。悪いのは、不安を感じて東京や日本から逃げ出した人たちではなくて、情報隠蔽によって不安を増幅させた政府の方である。
福島第一原子力発電所事故以来、六重苦(円高、高い法人税、対日関税、製造業への派遣禁止、温暖化対策、電力不足)から逃れるために、日本の自動車メーカーが生産施設を海外に移転しているが、そうしたメーカーに対して、「売国奴」だの「二度と日本に戻ってくるな」だのと言っている自称「愛国者」も、同様の理由で愛国心があるとは思わない。もしも本当に日本を愛しているのなら、なぜ日本を、逆に外国の企業が進出したいと思うほど魅力的な国にしようと思わないのだろうか。
愛国心の問題を愛社精神の問題に置き換えて考えてみよう。あなたが、携帯電話のユーザだとして、電話会社のカスタマー・センターに電話したとする。
客 「もしもし、携帯電話の解約をしたいのですが … 」
スタッフ 「解約理由は何でしょうか」
客 「最近つながらないことが多いので、他社に乗り換えたいと思っています」
スタッフ 「その程度のことで我が社を捨てるのですか。見損ないましたね。他社に乗り換えるのはそっちの勝手ですが、二度と我が社には戻ってこないでください」ガチャーン
こういう対応をするスタッフを見て、あなたは「なんと愛社精神に溢れた素晴らしい会社なのだろう」と感心するだろうか。顧客のニーズに応えない企業は顧客を失い、消滅するだろう。それを放置する従業員に愛社精神があるとは言えない。
国家は運命共同体であり、客に選ばれなければ存続できない営利企業とは異なると反論する人もいるかもしれない。しかし、国家が運命共同体であったのは過去の話である。現代においては、国家もまたグローバルなマーケットにおいて選別される対象であり、国家を繁栄させようとするのであれば、国家がそうした選別の中で生き延びることができるようにしなければならない。
「可愛い子には旅をさせろ」という諺がある。自分の国や郷土を愛することは、自分の子供を愛することと同じで、たんなる溺愛であってはならない。子供が可愛いからといって甘やかしておくと、子供が育たない。同じことは国や郷土についてもあてはまる。もしも本当に自分の国や郷土を愛しているならば、それらを盲目的に愛してはいけないのである。
永井俊哉 さんが書きました:
もしも本当に自分の国や郷土を愛しているならば、それらを盲目的に愛してはいけないのである。
永井さんは「連山」でも、過去に同じことを仰っていらっしゃいましたが、その根拠がこの文章でより理解できました。
永井俊哉 さんが書きました:
国家が運命共同体であったのは過去の話
ここで永井さんが仰る「過去」とは、1970年代以前を指すと思いますが、現代でも、国家と個人を運命共同体としなければならない人が多数派であると、私は考えています。日本から出られるだけのスキルがない人は、特に高齢者に多く、そうした人が多数の票を持つ選挙制度が維持される中では、「もしも本当に日本を愛しているのなら、なぜ日本を、逆に外国の企業が進出したいと思うほど魅力的な国にしようと思わないのだろうか」という考えは、既得権を手放したくないが故に、なかなか表に出ないでしょう。
選択主体が個人であれ企業であれ、愛国心によって魅力的な国作りを目指すか、あるいは別の魅力的な国に移るかという選択が迫られるのでしょう。情報社会の発展に伴い、個人(家庭)が海外に移転する障壁は過去よりは低いのでしょうが、それでも、世界的にデ・ファクト・スタンダードな地位にある英語を操れる人は少なく、「この国から出たいが、出るだけの力がない」という層の自助努力(競争)を阻む壁は、まだまだ高いものと考えます。
成人が居住する国を選ぶことはまだ可能としても、システムの構造と環境の視点レベルを変えてみると、たとえば「家族」は(少なくとも子供の立場からは)、自由に選べないのが通常です。
話が戻りますが、「国家が運命共同体であったのは過去の話」という点では、そう言い切れない一面も、今尚残っていると思いますが、よろしければご意見をお聞きしたく、お願いします。
R.Haya さんが書きました:
日本から出られるだけのスキルがない人は、特に高齢者に多く、そうした人が多数の票を持つ選挙制度が維持される中では、「もしも本当に日本を愛しているのなら、なぜ日本を、逆に外国の企業が進出したいと思うほど魅力的な国にしようと思わないのだろうか」という考えは、既得権を手放したくないが故に、なかなか表に出ないでしょう。
退職した高齢者の方が、国内で正規労働に就いている若者よりも、海外に行くハードルは低いです。実際のところ、日本は物価が高く、年金だけでは豊かな老後を送ることができないので、海外移住あるいはロングステイをするシニアはたくさんいます。近隣のアジア太平洋地域の途上国も、日本のシニアの受け入れに前向きで、税制上の優遇や日本語のサポートに力を入れています。日本人会での交流も活発で、言葉の問題はそれほど大きくないようです。詐欺業者によるトラブルとかもたくさんあるようですが、「苛政は虎よりも猛なり」で、こうした流れは今後も続くでしょう。
低所得・低資本のシニアによる海外移住/ロングステイは、日本の財政にとってはむしろ負担の軽減になるのですが、富裕層が所得税対策あるいは相続税対策のためにシンガポール等に移住することは、日本経済にとってはマイナスです。彼らが税の負担者、国債の引き受け手として大きな割合を占めていることを考えるなら、富裕層の大量流出は日本の財政に危機をもたらすことになるでしょう。この他、日本の優秀な技術者が海外企業によってヘッドハンティングされるケースも多くあるようです。優れた技能があれば、外国語が苦手でも、転職はできるものです。
R.Haya さんが書きました:
「国家が運命共同体であったのは過去の話」という点では、そう言い切れない一面も、今尚残っていると思いますが、よろしければご意見をお聞きしたく、お願いします。
それは、「国家を運命共同体とみなす価値観は時代遅れ」という意味で、「国家を運命共同体とみなす人がいない」という意味ではありません。実際、そう思っている人は、依然として多くいるのですから。
では、国家を運命共同体と感じているのはどのような人たちでしょうか。
一つの類型としてまず考えられるのは、政府から補助金や規制によって守られている保護産業の従事者です。彼らは、貿易の自由化や保護政策の縮小に反対し、それらを促進しようとする自由主義者を「売国奴」と呼んで罵倒します。しかし、彼ら、自称「愛国者」が愛しているのは、日本という国ではなくて、自分たちの権益です。私益に対する愛を公益に対する愛へとすり替えているところに彼らの議論の偽善性があります。だから、彼らの場合、運命共同体であるのは、国家というよりも、国家によって保護された自分の職場ということになります。
もう一つの類型として、海外どころか国内でも就職できない生活保護受給者もしくはその予備軍の人たちを挙げることができます。もしも国家財政が破綻して、生活保護の支給が停止したならば、彼らの運命もそこまでですから、彼らは、国家を運命共同体と感じるでしょう。
ラモスのように、こうした類型に該当しない愛国者もいるでしょう。経済的な利害からではなくて、もっと純粋に精神的な動機から国を愛し、自国を運命共同体と感じている人も多いと思います。そういった人たちはともかくとして、国家財政に寄生しているような人たちは、日本が存在しなくても稼ぐだけの能力がある人あるいは企業を売国奴呼ばわりせずに、日本に居続けてもらうように努力するべきです。そして、そのための最も良い方法は、自分自身が、国家財政に寄生しなくても生き延びることができるほどのグローバルな競争力を身につけ、自立することです。
ご回答ありがとうございます。
私は一部で「市場原理で得た富」と「保護産業が既得権益で得た富」を、不可分なものと誤解していたようです。
永井俊哉 さんが書きました:
日本の優秀な技術者が海外企業によってヘッドハンティングされるケースも多くあるようです。優れた技能があれば、外国語が苦手でも、転職はできるものです。
私が香港の企業にヘッドハンティングの声をいただいた時も、英語能力を聞かれることはありませんでした。表に統計がなく裏付けに乏しかったため、例外的なケースだと思っていたのですが、そうでもないということなんですね。(私は本業の能力不足で、その後落とされましたが・・・)
ひとつ、疑問が残っております。よろしければお答え願います。
R.Haya さんが書きました:
成人が居住する国を選ぶことはまだ可能としても、システムの構造と環境の視点レベルを変えてみると、たとえば「家族」は(少なくとも子供の立場からは)、自由に選べないのが通常です。
親が盲目的に子供を愛してはならない点、同感ですが、逆の立場で、子供は親を選べません。
これを「不幸」として、片づけてもよいものなのでしょうか?
イノベーションが多様性を原点とすることが多いこと、システムの中心より周縁から革新が生まれやすいことを差し引いても、「不幸」の一言で片づけては、逆に市場原理の否定につながってしまうような気がしています。(もちろん、均質性を過度に求めている訳ではありません)
R.Haya さんが書きました:
親が盲目的に子供を愛してはならない点、同感ですが、逆の立場で、子供は親を選べません。これを「不幸」として、片づけてもよいものなのでしょうか?
家族に限らず、出生地、出生時期、性、母国語など様々なものを選ぶ自由がありません。そうした出生時の環境要因を物心がついてから変えることはできませんので、それらが気に入らなければ、不幸と感じるでしょう。しかし、人間万事塞翁が馬で、何が幸福で、何が不幸なのかは、後になってみないと分からないものです。「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法」ですでに述べたことですが、重要なことは、自分のデメリット(と勝手に思い込んでいる特殊性)をメリットに変換する努力です。
R.Haya さんが書きました:
「不幸」の一言で片づけては、逆に市場原理の否定につながってしまうような気がしています。
前近代的システムや社会主義的システムなど、市場原理が機能しないシステムにおいては、たんに出生時の環境要因を変更することができないだけでなく、職業や住居といった、市場原理が機能する自由な社会では出生後に変更が可能な要因まで、選択する自由がない、もしくは、制限されているので、選ぶ自由がないがゆえの不幸感はさらに強いのではないでしょうか。不満を訴える言論の自由がない、もしくは制限されているのであればなおさらです。自由がなくても豊かであるならば不満を抑えることができるかもしれませんが、自由がない社会は、石油が取れるといった特殊事情がないなら、自由がある社会よりも貧しいのが普通です。社会主義は平等であることを標榜していますが、実際に存在する社会主義国家には官僚的な階層構造があって、平等ではありません。だから、「市場原理の否定につながってしまう」ということはなく、むしろ、出生時の環境要因にふまんがあるのなら、なおさらその不幸を幸福に変えるための自由が最大限与えられるべきでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
重要なことは、自分のデメリット(と勝手に思い込んでいる特殊性)をメリットに変換する努力です。
というご指摘で、頭の中がすっきり致しました。
北朝鮮のような国や、児童虐待の親元に生まれてしまった子供には、私は悲愴な思いを抱いておりましたが、それは市場原理が働くこととセーフティーネットの拡充で解消される問題であるのですね。
ご回答ありがとうございました。
中国でも同じような意見を表明した人がいる。日本の店舗を襲撃したり、日本車を叩き潰すといった行為は、中国人の民度の低さを世界に晒すことで中国を貶めており、愛国とは反対の行為であることに気付く人がどれぐらいいるだろうか。
中国のインターネット上では愛国心の強い若者を中心に、日本製品の不買が今なお叫ばれているが、中国版ツイッター・微博ユーザーの1句実話(アカウント名)さんが、「真の愛国とは日本人にわが国を羨望させることだ」とつぶやいたところ、大きな反響が見られた。
1句実話さんは、反日は愛国ではないと主張している。むしろ、「日本人に中国製品を使わせること、日本人が喜んで中国に留学に来るようになること、中国の給与や福祉が羨ましいと思われること、中国の制度を日本人が学ぶようになることこそが愛国だ」と主張している。
中国のネット上で散見される“日本車を破壊すること”、“日本製品をボイコットすること”などといった幼稚な“愛国行為”と異なり、1句実話さんの主張は日本人から見ても、極めてまっとうな意見と言えよう。
1句実話さんの主張に同意する微博ユーザーは非常に多く、「まったくそのとおりだ」、「よく言った」などのコメントや「日本人に中国を愛させ、尊重させることこそ愛国だな」などの意見も寄せられた。
しかし、「どうせ戦争になるんだ。意味があるか? やはり反日は必須だ」という反論や、「日本に対して意見があるなら、日本車と日本の店を破壊するだけだ」という主張もあり、なかなか理性的になれない中国人も少なくないようだ。
香港メディアの鳳凰網がこのほど30万人の中国人を対象に行った調査によると、全体の約6割の中国人が“日本車の破壊は愛国行為”と考えていることが判明した。1句実話さんのような正常な思考を持つ中国人が増えれば、中国はさらに発展していくことだろう。[3]
1句実話(アカウント名)さんのつぶやきに感心した一方、そのつぶやきの意味を全く理解せず、中国人だからと一纏めにして罵る者が大勢居たことに腹が立ちました。腹立たしい。
こういった、愛国を盾にしたレイシストの連中に向けたつぶやきだろうに。
今年の9月16日に、台風の影響で増水した大阪の淀川で、川に転落した小学生を救出した中国人留学生の厳俊(イエン・チュイン)さんを例に挙げるまでもなく、立派な中国人もいるので、中国人をひとまとめにして非難することをしてはいけないことは言うまでもありません。ところで、
ゲスト さんが書きました:
1句実話(アカウント名)さんのつぶやきに感心した一方、そのつぶやきの意味を全く理解せず、中国人だからと一纏めにして罵る者が大勢居たことに腹が立ちました。
とありますが、「中国人だからと一纏めにして罵る者」とは具体的に誰のことですか。このつぶやきに対する日本人の反応は記事中には書かれていません。“「どうせ戦争になるんだ。意味があるか? やはり反日は必須だ」という反論や、「日本に対して意見があるなら、日本車と日本の店を破壊するだけだ」という主張”は中国での書き込みです。そうした「愛国を盾にしたレイシスト」は日中双方にいるということでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
「中国人だからと一纏めにして罵る者」とは具体的に誰のことですか。
あるYahoo!ブログの利用者や、上記ツイート内容について書かれたまとめサイト?へのコメントの書き手などです。
今考えると、その情報のみから大勢と表現したのは大げさだったと思います。
前者は個人の場所なので、要望がない限り載せるのは控えますが、後者のリンクは貼っておきます。
どやさ速報 真の愛国とは日本人にわが国を羨望させること、反日は愛国ではない!=中国版ツイッター・微博のつぶやきが話題に
ゲスト さんが書きました:
今考えると、その情報のみから大勢と表現したのは大げさだったと思います。
リンク先を読みましたが、「中国人だからと一纏めにして罵る」に該当するのは、「どやさ速報」のこの書き込みのことでしょうか。
名無しだけど…どやさ!?(2013年09月23日 03:04)さんが書きました:
中共は嫌いだが支那人は嫌いじゃない っていう者がいるが
中共を飼ってる是認してる支那人がそれを捨てたとして
日本人が肯定できるような国になるとは到底思えない
本当に根本から我々とは相いれない存在だと認識して行動しないと 将来 後悔する日が必ず来る
究極の利己主義者の集団
西村眞悟が、2012年11月11日に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」で、「中国人には二種類あります。悪い中国人と、非常に悪い中国人」と発言していましたが、これなどは、明確に民族差別的な発言と言えるでしょう。
2. 参照情報
- 安田浩一『ネットと愛国』講談社 (2015/11/19).
- ケント・ギルバート『ついに「愛国心」のタブーから解き放たれる日本人』PHP研究所 (2017/8/8).
- 王敏『中国人の愛国心 日本人とは違う5つの思考回路』PHP研究所 (2005/10/14).
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「愛国心や愛郷心はどうあるべきか」からの転載です。
- ↑ラモス氏怒りぶちまけ「逃げるやつ2度と来るな」『スポニチ』2011年3月30日.
- ↑“真の愛国とは日本人にわが国を羨望させることだ=中国版ツイッター.”『サーチナ』2013年9月21日.
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コメント一覧
実は寄生的な生き方をするなら組織を破壊する生き方をしてはいけない
寄生虫やウイルスに弱毒が多い理由はそのため
人工的に毒性を強めたウイルスが弱毒に変化するのはそのため
企業を売国奴呼ばわりする人は企業が嫌う傾向ある経営者も人
能力はあるものの社会的排除によるものはどうすれば良いのですか
こうした類型に該当しない愛国者もいるでしょう。経済的な利害からではなくて、もっと純粋に精神的な動機から国を愛し、自国を運命共同体と感じている人も多いと思います。そういった人たちはともかくとして、国家財政に寄生しているような人たちは、日本が存在しなくても稼ぐだけの能力がある人あるいは企業を売国奴呼ばわりせずに、日本に居続けてもらうように努力するべきです。そして、そのための最も良い方法は、自分自身が、国家財政に寄生しなくても生き延びることができるほどのグローバルな競争力を身につけ、自立することです。
なら精神障害者は金持ちの足を引っ張らないという消極的愛のみになる
学校の入学式・卒業式では国歌を歌う場面はありますが都道府県の歌を歌う場面がありません。
小学校の音楽の授業の時間に自分が住む「都道府県の歌」を教わることがありません。
学校の校歌は学校の各式典・および体育会系部活の試合(卒業後では同窓会で歌う事もある)などでよく歌われます。
国家・君が代と校歌は歌えるが、自治体の歌は歌えない。
よくよく考えるとこれはある意味おかしい事だと思います。
都道府県の歌は国民体育大会などでは歌う場面があると思いますが、それ以外の自治体の式典などはまず歌いません。
「国歌・君が代は歌えるが自分の出身県の歌を知らない」という人がかなり多いです。
都道府県の歌が軽視される事情は何でしょうか?
愛国心や愛郷心があるかどうかは、どれだけ運命共同体と感じているかによります。日本のように、サラリーマンが強制的に転勤を命じられるような国だと、愛郷心は育ちにくいでしょう。
都道府県民歌の中には、もともと地元で愛されていた民謡を採用するというケースがあります。沖縄県の「てぃんさぐぬ花」などはその一例です。こういう場合は、地元の人も歌うことは多いのではないでしょうか。