喫煙率を低下させるにはどうすればよいか
喫煙禁止年齢の上限を時間とともに引き上げることを提案したい。現在、日本では、未成年者喫煙禁止法により、「満二十年ニ至ラサル者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス」と規定されているが、これを誕生年月日が平成XX年1月1日以降の者に限定して、一生喫煙を禁じるという内容に変更するのである。[1]

1. 問題提起
世界の多くの政府は、喫煙による害悪(喫煙者本人と受動喫煙者の健康被害、火災、環境汚染)を減らすために様々な努力をしている。禁煙場所を拡大したり、たばこ税を値上げしたり、名称や広告を規制したり、タバコを吸い続けるとどうなるかを警告するグロテスクな写真をカートンに貼ることを義務付けたりとあらゆる手段を講じている。
そこまでするなら、いっそうのことタバコの製造と販売それ自体を法で禁止すればよいではないかと思うかもしれない。しかし、各国とも、そうしたラディカルな手段を取ろうとしない。かつて米国が禁酒法を制定して、酒の製造と販売を全面的に禁止したところ、酒の密売がマフィアの資金源となり、禁止を徹底できないまま廃止に追い込まれたという過去の苦い経験があるからである。
常習的に喫煙を行うと、ニコチン依存症となり、喫煙者自らの意思で禁煙をすることが困難となる。これに対して、喫煙経験がない者、またはまだ依存症になっていない喫煙経験者の場合、禁煙はさほど困難ではない。この点に注目するならば、ニコチン依存症の喫煙者に禁煙させるよりも、そうでない人たちに禁煙させる方が、喫煙者を減らす政策としてはより実現が容易であるということになる。
そこで、私は、喫煙禁止年齢の上限を時間とともに引き上げることを提案したい。現在、日本では、未成年者喫煙禁止法により、「満二十年ニ至ラサル者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス</ref>」と規定されているが、これを誕生年月日が平成XX年1月1日以降の者に限定して、一生喫煙を禁じるという内容に変更するのである。
喫煙者を減らす試みは世界的なトレンドなのだから、一生喫煙を禁止する誕生年月日を、同意できる国々の間で国際的に統一して設定することが望ましい。これにより、旅行者や移住者による混乱をかなりの程度低下させることができる。
喫煙禁止年齢の上限が時間とともに引き上げようとすると、年齢確認が従来よりも困難になると思うかもしれないが、実際はそうでもない。例えば、客に運転免許を提示してもらって、たばこを販売する場合、従来は、運転免許所に書かれている誕生年月日から現在の年齢を計算し、それが満20歳以上であるかどうかの確認が必要だったが、この制度では、誕生年月日が固定された年月日以降かどうかだけを確認すればよいのだから、確認はかえって容易になる。自動販売機に導入されている成人識別システム、taspo は、改造が必要になるが、この程度は、制度変更に伴うコストとして容認される。
喫煙禁止年齢の上限が時間とともに引き上げられても、それより年齢が高い層は、これまで通り、合法的にタバコを入手できる。しかし、タバコの需要が年々減るのだから、それに伴ってタバコの単価が上昇し、販売場所も商品の品揃えも徐々に減っていく。だから、タバコ税の値上げや販売規制等を行わなくても、喫煙が許可された人たちに対して禁煙の圧力がかかることになる。違法に喫煙している現在の未成年者にとっても、入手のハードルがさらに上がることになる。
厚生労働省が 2008年に行った調査では、日本人の喫煙率は 21.8% で、年々減少している[2]。喫煙率をいきなり 0% にしようとすると、禁酒法実施の時と同じ弊害が出てくるので、時間をかけて少しずつ減らしていかなければならない。ここで提案した喫煙禁止年齢漸次引き上げ策は、その点で有効な政策である。
無政府的なリバタリアンの中には、タバコどころか麻薬もすべて合法化するべきだと主張する人もいる。この考えをさらに推し進めるならば、毒キノコや毒フグの販売も法で禁止するべきではないというところまで行く。
たしかに、もしもすべての消費者に完全な情報収集力と判断力があるなら、毒キノコや毒フグが店頭に並んでも、買う人はいないのだから、法で禁止しなくても実害はない。しかし、実際はそうではないから、間違って食べて命を落とす人が出てくる。これは、所謂《情報の非対称性による市場の失敗》である。
一般の消費者よりも専門的な業者の方が情報収集力と判断力があるので、情報収集力と判断力がある側に、有害な食品が出回らないようにすることを義務付けることは理にかなっている。
同様に、麻薬やタバコのように、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと考えられる嗜好品の場合も、情報収集力と判断力が十分でない消費者が興味本位で手を出して、その有毒性に気付いた時には、依存症になって、手放せなくなるという事態を避けるための努力が必要である。
もとより、タバコにも全くメリットがないわけではない。タバコに含まれているニコチンがパーキンソン病の予防になるという研究結果がある[3]。さらには、ラットを用いた実験[4]から、ニコチンは、初期段階のパーキンソン病の治療に使えるかもしれないという言う研究者もいる[5]。
将来、パーキンソン病の予防や治療にニコチンが使われる時代が来るかもしれない。しかし、だからといって嗜好品としてのタバコを規制するべきでないということにならないのは、大麻が米国等で医療用に使われることがあるからといって、嗜好用の大麻も規制しなくてもよいということにはならないのと同じことである。タバコには、ニコチン以外にも有害な成分がたくさんあり、やはり喫煙にはメリットよりもデメリットの方がはるかに多いと言わざるをえない。
酒に関しては、飲みすぎは健康に悪影響を与えるものの、消費量が適量なら、むしろ全く飲まないよりも健康に良いという意見もあるが、それを否定する意見もある。このようにメリットとデメリットのどちらが大きいかに関して意見が分かれるものに関しては、法で一律に禁止せず、各自の判断に委ねたほうが良い。
永井俊哉 さんが書きました:
しかし、だからといって嗜好品としてのタバコを規制するべきでないということにならないのは、大麻が米国等で医療用に使われることがあるからといって、嗜好用の大麻も規制しなくてもよいということにはならないのと同じことである。
米国等では、どのような疾病を治療するために、大麻が医療用に使われているのですか?
嘔吐の緩和、抗癌、エイズ患者/化学療法患者の食欲増進、緑内障患者の眼圧低下、疼痛などに効果があるとして、使われています(ただし、効果に関しては異論もある)。その他、詳しいことは、NPO法人医療大麻を考える会の「大麻の医療効果」をご覧ください。これは推進派の主張なので、効用が過大評価されており、割り引いて読む必要がありますが、副作用や依存性が低いので、医療用大麻に関しては、日本でも導入を検討してもよいかもしれません。
煙草1箱あたりの たばこ税を、毎年10円ずつ上げていく、という案は いかがですか。
そういう方法でも同じような政策効果が出ますが、毎年増税を繰り返すという政策には政治的な持続性という点で不透明さが残るし、業者や税務署にも変更コストが毎年かかることになります。
永井俊哉 さんが書きました:
そこで、私は、喫煙禁止年齢の上限を時間とともに引き上げることを提案したい。
私は非喫煙者ですし、元々父親が喫煙者だったこともあり、周りで喫煙されようが別に気にいたしません。「喫煙率を低下させるにはどうすればよいか」、なぜ喫煙率を低下させなければならないのか?という疑問はありますが、低下させるにはどうすべきか?というテーマに沿えば、私は違う意見を提案したいと思います。
ニュースで聞いたようなお話を元に反論するのは恐縮なのですが、タスポの導入によって未成年者にタバコを買わせないような仕組みになりましたが、運用上いろいろ抜け道をぬって、やはり極一部の未成年者なのかもしれませんが、タバコを手に入れることができした。100%実現できないものは、失敗だと言うつもりもなく、それはそれで成果を上げているとは思います。ただ、子供と大人の違いは、見た目でだいたいわかりますが、何年か経ち、この大人は何歳より上か下かという区別は困難になり、いずれ問題を引き起こすと思います。また、何歳より上か下かで区別されるのは、やはり世代間の不公平感が生まれ、それを上手に説得し納得させるのは困難だと思います。
そこで、私的に提案したいのは、喫煙場所の届出制による、喫煙面積の管理だと思います。私は製造業にいて、喫煙による製品への影響から基本的には喫煙はよろしくないのですが、社長が非喫煙者だと禁煙活動には熱心ですあ、喫煙者だとあまり熱心ではありません。とはいえ、喫煙場所という無駄なスペースを作りたくないというのもあって、喫煙者を押し込めているように思えます。そこで喫煙者から出て来た意見の中に、こんなに煙たい所で吸いたくないと逃げ出す人もいましたので(笑)
非喫煙者から喫煙者に対しタバコの害悪を問いて納得させるよりも、喫煙がひどいとこんな状態なんだと自主的に辞める方向へと誘導した方が良いと思うし、喫煙スペースを提供することに対して税金がかかるとなれば、企業は非喫煙の方向に向かわざろう得ないし、喫煙者向けのサービスは生まれるかもしれませんが、喫煙者・非喫煙者の住み分けも進み、無理なく喫煙率の低下を促進されるかと思います。永井先生の提案よりもメリットが多いかと自分的には思っていますが、永井先生のご意見をお願いいたします。
あおはばぺん さんが書きました:
非喫煙者から喫煙者に対しタバコの害悪を問いて納得させるよりも、喫煙がひどいとこんな状態なんだと自主的に辞める方向へと誘導した方が良いと思うし、喫煙スペースを提供することに対して税金がかかるとなれば、企業は非喫煙の方向に向かわざろう得ないし、喫煙者向けのサービスは生まれるかもしれませんが、喫煙者・非喫煙者の住み分けも進み、無理なく喫煙率の低下を促進されるかと思います。
私の提案では、「非喫煙者から喫煙者に対しタバコの害悪を問いて納得させる」必要はありません。なぜなら、現在合法的に喫煙している人は、そのまま喫煙を続けることができるからです。私の提案は、タバコを吸っている人にタバコをやめさせるよりも、タバコを吸わない人にその状態を続けてもらう方が簡単であるという発想に基づいています。もっとも高校生あたりだと、数年で合法的に吸えるようになることを見込んで吸っている人も多いでしょうから、法律を施行する時は、一生禁止する世代をその時点での小学生あたりに設定するべきでしょう。
喫煙スペースを提供することに対して税金を課すと、御指摘のようにただでさえ「喫煙場所という無駄なスペースを作りたくない」企業にとっては、ますます喫煙スペースを作りにくくなり、喫煙者と非喫煙者の棲み分けはかえって難しくなります。それとも「喫煙スペースを提供することに対して補助金を出す」の書き間違えだったのでしょうか。
タスポは、社団法人日本たばこ協会や全国たばこ販売協同組合連合会といったタバコ業界が中心となって、自主的に取り組んでいる施策で、泥棒に泥棒の取り締まりを任せている状態ですから、抜け穴だらけになるのは当然のことです。国に法律遵守を徹底させる意思があるのなら、バイオメトリクス(生体認証)を義務付けるなど、成人識別カードの貸し借りができないような仕組みを導入するべきでしょう。
最後に「世代間の不公平感」に関してですが、一生タバコと無縁でいられる世代は、むしろ自分たちがラッキーだったと感じるのではないでしょうか。直接/間接の喫煙の健康に及ぼす害が実証されるようになったのは比較的最近のことであり、年配の喫煙者は、そうしたことも知らずに、「かっこいいから」あるいは「大人になりたいから」という動機からタバコに手を出し、依存症になって止められなくなったという人が大部分であると思います。もちろん、過去の無知を反省し、努力して禁煙に成功した中高年の方も多数いますが、それよりも初めから依存症にならないように防止策を練ることの方が賢明だと思います。
永井俊哉 さんが書きました:
酒に関しては、飲みすぎは健康に悪影響を与えるものの、消費量が適量なら、むしろ全く飲まないよりも健康に良いという意見もあるが、それを否定する意見もある。このようにメリットとデメリットのどちらが大きいかに関して意見が分かれるものに関しては、法で一律に禁止せず、各自の判断に委ねたほうが良い。
酒が、煙草ほど忌み嫌われないのは、なぜだろうか。それは、一般的な傾向として、インテリやエリート階層ほど喫煙率が低いからだ。
欲望を現実に満たすことができない人ほど、酒、タバコ、薬物などで偽りの幸福を手に入れようとするのではないでしょうか。カリフォルニア大学サンフランシスコ校のウルリケ・へーベルライン教授らの実験によると、メスに交尾を断られ欲求不満になったオスのハエは、そうでないハエよりもアルコールを含んだ餌を好んで食べる傾向があるそうです。ハエも失恋するとヤケ酒に走るというわけです。
オスのミバエに、アルコールに浸した餌とノンアルコールの餌のどちらを選ぶかを尋ねたところ、最近交尾をしたか、あるいはメスに拒絶されたかによって、オスのミバエの判断が変わるという。冷遇されたことのあるミバエは、酒を飲みに行く可能性が高いことが判明した。これは、将来の行動に影響を与える社会的相互作用をミバエで発見した初めての例である。[6]
だから、依存症患者を減らそうとするならば、たんにそれらを禁止するだけでは不十分であり、より抜本的な解決策としては、欲望を満足させることができる社会を作るということが必要です。
もし、読者が男性で、終身雇傭がまだ残っているような、古い体質の事業場(官公庁など)のホワイトカラー正社員ならば、ゴルフ、麻雀を覚えるのは当然として、煙草を吸えるようにしておきましょう。以下はその理由。20年ほど前までは、自分の机に灰皿を置いて喫煙することができましたが、現在では、喫煙したければ喫煙所へ行かなければなりません。喫煙所では、他の喫煙者と雑談するうちに親しくなり、人脈が広がっていくこともあるでしょう。幹部ともお近づきになれるかもしれません。非喫煙者の部長が知らない情報を、喫煙者の平社員が知っている、ということもありうるわけです。煙草は健康に悪影響を及ぼす(、といわれている)けれども、「いじめの標的」になって自己都合退職するよりは有益でしょう。
そうやって出世した人が部下に対して同じことを勧めて…という悪循環を断ち切るために喫煙禁止年齢漸次引き上げ策を提案しているのです。
永井俊哉 さんが書きました:
一般の消費者よりも専門的な業者の方が情報収集力と判断力があるので、情報収集力と判断力がある側に、有害な食品が出回らないようにすることを義務付けることは理にかなっている。
食品に限らず、そうでない商品などほとんどありません。
永井俊哉 さんが書きました:
同様に、麻薬やタバコのように、メリットよりもデメリットの方がはるかに大きいと考えられる嗜好品の場合も、情報収集力と判断力が十分でない消費者が興味本位で手を出して、その有毒性に気付いた時には、依存症になって、手放せなくなるという事態を避けるための努力が必要である。
「やめたいのにやめられない。煙草なんてこの世になかったら良かったのに。」と、すべての(100歩ゆずって大多数の)喫煙者が、嘆いているのであれば、まだ言っていることがわかりますけど。
永井俊哉 さんが書きました:
やはり喫煙にはメリットよりもデメリットの方がはるかに多いと言わざるをえない。
永井さんがそう思うのであれば、永井さんは吸わなければ良いだけのことです。
永井俊哉 さんが書きました:
メリットとデメリットのどちらが大きいかに関して意見が分かれるものに関しては、法で一律に禁止せず、各自の判断に委ねたほうが良い。
その通りです。喫煙者のほとんどは、自分にとってはメリットのほうが大きいと思っているから吸っているのです。その商品が自分にとって好ましいものか否かは、消費者が自分で判断すべきことです。政府が判断していいことではありません。そもそも、もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、禁止する理由がありません。
私は喫煙者ですが、もし非喫煙者であったとしても、まったく同じことを言います。
私が、「煙草なんてこの世になければいいのに。誰も煙草なんて吸わない社会になればどんなにいいだろう。」と強く願い、「皆さん、煙草はやめましょう。」という運動をしていたとしても、やっぱり同じことを言います。
もちろん、ほかの麻薬についても同様です。人間は、国家のために生きているのではありません。
muu さんが書きました:
食品に限らず、そうでない商品などほとんどありません。
つまり、食品を含めて、一般の商品の売買に際して、一般の消費者よりも専門的な業者の方が情報収集力と判断力があるという《情報の非対称性による市場の失敗》を認めるということですね。
muu さんが書きました:
永井さんがそう思うのであれば、永井さんは吸わなければ良いだけのことです。
まずは、私が個人的な嗜好からではなくて、全人類的な利益という観点から提言をしているということを確認しましょう。間接喫煙の問題もあるので、「タバコが嫌いな人は、本人が吸わなければそれでよい」というわけにはいきません。また、日本は健康保険に関しては皆保険制度を採っており、タバコや麻薬を吸わずに健康に配慮している人の健康保険料がそうでない人の治療費に使われることは不公平だという問題もあります。それらよりももっと本質的な問題は、さもなくばもっと有効活用されるはずの人的資源が、タバコや麻薬のおかげで無駄に劣化しているという事実です。
muu さんが書きました:
喫煙者のほとんどは、自分にとってはメリットのほうが大きいと思っているから吸っているのです。
依存症になっている愛煙家の場合、そう思っている人は多いでしょう。信念のある愛煙家を説得することは困難であり、だから私の提案は、そうした人たちに禁煙を強制させることはしていないのです。私の提案は、喫煙にどのようなメリットあるいはデメリットがあるかもわかっていない子供たちが対象になっています。
muu さんが書きました:
その商品が自分にとって好ましいものか否かは、消費者が自分で判断すべきことです。
あなたは情報の非対称性による市場の失敗に同意しているのではなかったのですか。個人差が大きい場合やメリットとデメリットのどちらが大きいかに関して専門家でも意見が分かれる場合は別ですが、専門家の大半が健康に有害と認定している商品に関しては、販売に規制をかけることは正当化されるでしょう。
muu さんが書きました:
そもそも、もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、禁止する理由がありません。
それならば、毒キノコや毒フグの販売も法で禁止する理由はないということですか。
muu さんが書きました:
人間は、国家のために生きているのではありません。
国家は人間のために存在しているとして、では人間は何のために存在していると考えますか。私は、人間を含め、すべての生命は、生きるために生きていると考えています。生が自己目的的であるなら、生は少なくともその総体性において肯定されるべきであり、だから「自殺は悪である」という価値観が共有されます。「なぜタバコや麻薬を吸ってはいけないのか」という問題は「自殺はなぜ悪なのか」と同じ問題と考えることができるでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
《情報の非対称性による市場の失敗》を認めるということですね。
逆です。「その理屈で規制を認めたら、すべての商品が規制されてしまうでしょう」ということを述べたのです。
永井俊哉 さんが書きました:
間接喫煙の問題もあるので、「タバコが嫌いな人は、本人が吸わなければそれでよい」というわけにはいきません。また、日本は健康保険に関しては皆保険制度を採っており、タバコや麻薬を吸わずに健康に配慮している人の健康保険料がそうでない人の治療費に使われることは不公平だという問題もあります。それらよりももっと本質的な問題は、さもなくばもっと有効活用されるはずの人的資源が、タバコや麻薬のおかげで無駄に劣化しているという事実です。
問題として意味があるのは、間接喫煙の問題だけなのです。
法で制限することが正当化されるのは、他者への危害だけですから。
保険は民営化すればよいだけの話です。当然、喫煙者に対する保険料は高く設定されるでしょう。
人的資源うんぬんは余計なお世話というものです。
自分が自分を無駄に劣化にしているかどうかは、本人が判断すべきことです。
永井俊哉 さんが書きました:
依存症になっている愛煙家の場合、そう思っている人は多いでしょう。信念のある愛煙家を説得することは困難であり、
永井さんは、あきらかに
「この消費者にとって好ましい商品かどうかを、私はこの消費者本人よりも正しく判断できるのだ。」
という立場で書かれていますね。
ハイエクの言葉を借りれば、「致命的な思い上がり」というものです。
永井俊哉 さんが書きました:
専門家の大半が健康に有害と認定している商品に関しては、販売に規制をかけることは正当化されるでしょう。
いいえ、不当です。
そもそも専門家ってなんのことですか?
ここでの問題は「一部の限られた人間の独善的な計画により、喫煙という文化を、人類から消滅させて良いのか?」ということですよ。
今ちょっと思いつくだけでも、
・子供の耳の中に虫が入ったときに、周囲に喫煙者がいれば、煙草の煙を吹き込んで、即座に容易に追い出すことができます。
・喫煙者が一人もいない職場では、何かで火が必要になったときに、バタバタすることがけっこうあるものです。
・阪神淡路大震災のときに、避難者の中に何人かポケットにライターが入っていた人(もちろん喫煙者でしょう)がいて、それで火をつけて焚き火をして、避難者たちは暖を取る事ができたそうです。
こういった直接的なメリットのほかにも、煙草がなければ生まれなかったであろう芸術作品は数知れません。
人類のうち何パーセントかは喫煙者であったほうが、全体としての生存力は増すのではないでしょうか?
単純に考えても、全員が非喫煙者であるという均質化された集団よりも、喫煙者もいれば非喫煙者もいるという多様性のある集団のほうが、変化適応性が高いのではないでしょうか?
こういった効用面もすべて計算しつくして、これから千年先、二千年先までに人類に何が起きるかを予想して、全員非喫煙者にすべきか?どの地域に何パーセントの喫煙者を残すべきか?を判断できる「専門家」とやらがいるのですか?
で、その専門家が立てた、「この地域からは絶滅させる」「この地域には何パーセント残す」という中央計画で管理したほうが、個々の消費者の自由な判断にまかせるよりも、より良い未来になるのですか?
まさに「致命的な思い上がり」そのものです。
永井俊哉 さんが書きました:
それならば、毒キノコや毒フグの販売も法で禁止する理由はないということですか。
毒キノコや毒フグを買う人は、誰かを殺すために買うのでしょう。それは、その人を殺すことが自分にとってメリットがあると思っているからです。したがって「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反しています。
もし、「ちょっと舐めて痺れてみたい」とか「自殺したい」という目的で購入するならば、それも、そのことが自分にとってメリットがあると思っているからです。したがって、その場合も「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反しています。もっとも、そういう目的の購入ならば、法で禁止する理由にもなりませんが。
もし情報の非対称性の問題、つまり毒キノコや毒フグだとは知らないで購入された場合のことならば、それは、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断できなかった商品であり、この場合もやはり、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反しています。
永井俊哉 さんが書きました:
人間は何のために存在していると考えますか。私は、人間を含め、すべての生命は、生きるために生きていると考えています。生が自己目的的であるなら、生は少なくともその総体性において肯定されるべきであり、だから「自殺は悪である」という価値観が共有されます。
「私はAだと考えています。だからBという価値観が共有されます。」
この論法は変ですよ。なぜ永井さん個人の考えから導かれる価値観が、共有されることになるのですか?
私が「人間は、国家のために生きているのではありません。」と書いたのは、
何のために生きるか(どうあることが自分にとって幸せなのか)は、個人の問題であり、他者が強制することはできない。
という意味です。
少なくとも法は、そういう立場であるべきです。
他者の自由に対する侵害のみが禁じられるべきであり、ましてや法が個人の自由を侵害して良いわけがありません。
もちろん、「私は国家のために生きている」という人がいても、他者にそれを強制しない限り、それはその人の自由です。
自殺することが幸せだと、本人が判断するのであれば、他者はそれをやめるようにお願いすることはできても、強制することはできません。
先にも述べたように、もし私が、「みんなに煙草をやめさせるために生きている」人であったとしても、法でそれを強制することには反対します。
喫煙でも麻薬でも自殺でも、永井さんがそれを無くそうという呼びかけを行うことは自由ですし、永井さんの私有地において禁止することも自由です。
ただ無関係の他人に、自分の価値観を法によって強制することは間違っています。
許される唯一の強制は、「強制するな」という強制(メタ強制)だけです。
muu さんが書きました:
逆です。「その理屈で規制を認めたら、すべての商品が規制されてしまうでしょう」ということを述べたのです。
その通り。ほとんどの先進国では、生命に害を及ぼす商品は、食品であろうがなかろうが、すべて規制されています。そうした現状はおかしいと言いたいのですか。
muu さんが書きました:
保険は民営化すればよいだけの話です。当然、喫煙者に対する保険料は高く設定されるでしょう。
皆保険を廃止し、営利企業だけが保険を行うようになると、御指摘のように喫煙者に対する保険料は高く設定されるでしょう。そうすると、喫煙者たちは高い保険料に辟易して、医療保険に加入しなくなります。すると彼らは、全額負担の医療費が高いことを理由に病院に行こうとしなくなるので、必要な治療を受けることなく寿命を縮めることになります。
muu さんが書きました:
人的資源うんぬんは余計なお世話というものです。自分が自分を無駄に劣化にしているかどうかは、本人が判断すべきことです。
結局この問題は「社会は自殺を放置するべきか」という問題に帰着します。「生きるか死ぬかを決めるのは本人の自由なのだから、自殺者が増えているからといって、他者がそれを防止する必要はない」というのが muu さんの考えなのでしょうが、私はそうは思いません。
なぜなら、自殺する人は、自殺が好きで自殺しているのではなくて、欲望を満たすことができない苦しい現実からあの世へと逃避したいという動機に基づいているケースが圧倒的に多いからです。酒、タバコ、麻薬も現実逃避という点では同じような目的を持っているということができます。
したがって、現実逃避を減らす最も建設的な方法は、現実において欲望を満たすことができるようにすることです。これは、決して異なる価値の押し付けではありません。むしろ逆に本人の価値の肯定であるということができるでしょう。本当の自由主義者なら、《現実における不自由から逃避するための自由》よりも《逃避する必要がない現実における自由》を第一義的に求めるべきでしょう。
もちろん、欲望が常に満たされるはずはないし、いくら社会が改善されたところで、苦しい現実から逃避し、偽りの幸福であってもそれに一時的に浸りたいという欲望もなくなることはないでしょう。だから、手術を受ける際の麻酔のように、過大なショックやストレスから身を守るための癒しのテクノロジーというものがあってよいと思います。
タバコもそうした癒しのテクノロジーの一つですが、苦しい現実から逃避するためにタバコを吸い、それによって健康を損ねて現実がさらに苦しくなるならば、手段が目的と矛盾していると言わなければなりません。最近は電子タバコなど、健康被害を最小化しようとする工夫もあるようですが、まだまだ改善の余地はありそうです。
考えてみると、酒もタバコも麻薬も未開社会の時代からあまり進歩していないのですが、これだけ科学技術が進歩しているのだから、癒しのテクノロジーももっと技術革新を遂げるべきだし、またそうした技術革新を促す方向で規制の圧力もかけていくべきでしょう。
muu さんが書きました:
永井さんは、あきらかに「この消費者にとって好ましい商品かどうかを、私はこの消費者本人よりも正しく判断できるのだ。」という立場で書かれていますね。ハイエクの言葉を借りれば、「致命的な思い上がり」というものです。
もし私がそう思っているのなら、依存症になっている愛煙家に対しても禁煙するように説得するでしょうが、そうではないから、これは言い過ぎです。
muu さんが書きました:
そもそも専門家ってなんのことですか?
喫煙が健康に害を及ぼすことを実証した科学者たちのことです。もちろん、彼らが言っていることが正しいとは限りません。だけれども、もしも彼らが間違っていると言いたいのなら、muu さん自身が、動物を用いた実験をするなり、喫煙者/非喫煙者のデータを用いた統計分析をするなりして、喫煙が健康に害を及ぼさないことを実証しなければなりません。そういうことは何もせずに、自分の主張が科学者の主張と同様の説得力があると思っているなら、それこそ「致命的な思い上がり」というものです。
muu さんが書きました:
阪神淡路大震災のときに、避難者の中に何人かポケットにライターが入っていた人(もちろん喫煙者でしょう)がいて、それで火をつけて焚き火をして、避難者たちは暖を取る事ができたそうです
喫煙者がいることによるメリットを探せば、そういうようにいくつか例外的なケースを見つけることができるでしょう。しかし喫煙を正当化するために必要なことは、メリットがあるということではなくて、デメリット以上のメリットがあるということであって、この点について示せていません。
総務省の調査によると、タバコの火は火災原因の約10%を占め、放火、コンロに次いで三番目に多い[7]。これとは別に、ライターを使った子どもの火遊びによる火災などもあります。放火もライターを使って行われることが多いようです(マッチは面倒なうえ、遺留品として残ってしまう)。喫煙を正当化したいなら、こうした健康被害以外にもいろいろあるデメリット以上のメリットがあることを示してください。
muu さんが書きました:
もし情報の非対称性の問題、つまり毒キノコや毒フグだとは知らないで購入された場合のことならば、それは、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断できなかった商品であり、この場合もやはり、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反しています。
話を簡単にするために、すべての消費者が「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断していて、かつ毒キノコの販売を禁止する法律がないと仮定します。可食キノコと毒キノコの区別は専門の採取業者にとってもかなり難しく、そのため、現在でもまれに中毒事件が起きたりします。毒キノコの販売を禁止する法律がなければ、業者は無駄なコストを省こうとするので、選り分けはずさんになるでしょう。一般の消費者は「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断することはできても、「このキノコは毒キノコかそれとも可食キノコか」を判断する能力がなく、そのため、間違って毒キノコを食べてしまう可能性があります。だから、すべての消費者が「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断している場合、毒キノコと可食キノコの識別力のある専門業者に販売を禁止することは合理的なのです。
muu さんが書きました:
「私はAだと考えています。だからBという価値観が共有されます。」この論法は変ですよ。なぜ永井さん個人の考えから導かれる価値観が、共有されることになるのですか?
ある人が、自分が抱く目的 P1 との因果的適合性から手段 M1 に価値を見出したとします。その人に、M1 よりも大きな因果的適合性を持つ手段 M2 を教えたら、その人は、M2 により大きな価値を見出すでしょう。これは価値の押し付けではなくて、その人の目的を尊重した結果の価値の変更なのです。また、目的 P1 も、より上位の目的 Px の手段であることに気付けば、P1 より有効な手段である目的 P2 が新たな目的となるでしょう。このように価値を価値たらしめている目的を遡り、目的のシステムを吟味することで、既存の価値の肯定/否定を決める手法を私はかつて目的論的還元・構成・破壊と名付けました[8]。
そこから導かれる基本的な考えは、欲望それ自体に良し悪しはなく、良かったり悪かったりするのはその欲望の満たし方であるというもので、相手の欲望を否定するのではなくて、欲望のより良い満たし方を提案することで価値的な合意に至ろうとする方法だと言ってもよいでしょう。タバコが有害なら、タバコは規制されるべきですが、タバコを吸うことで満たされる欲望自体は否定されるべきではなく、健康に害を与えることなくその欲望を満たす方法が開発されるべきです。
これまで様々な農薬が人体や環境に悪いという理由で製造が禁止され、その都度科学者たちは知恵を絞り、人体や環境に悪影響を与えない代替品を開発してきました。同じことがなぜ嗜好品産業、娯楽産業で起きないのでしょうか。より安全で、より楽しい体験ができる嗜好品、娯楽が開発されることが一番望ましいのではないのですか。そしてそういう方向に嗜好品産業や娯楽産業が努力するように、法的規制は圧力をかけるべきではないのですか。
永井俊哉 さんが書きました:
皆保険を廃止し、営利企業だけが保険を行うようになると
皆保険と保険の民営化は矛盾しません。これは永井さん自身が御提案されていたと思いますが。
永井俊哉 さんが書きました:
「生きるか死ぬかを決めるのは本人の自由なのだから、自殺者が増えているからといって、他者がそれを防止する必要はない」というのが muu さんの考えなのでしょうが、
違います。
政府に対して「○○する必要はない」というときは、「政府が(その暴力による脅迫により)○○する必要はない」という意味で言っているのであり、「○○が社会に必要ない」という意味ではありません。
リバタリアンに対するこういうパターンの誤解はうんざりするほど多いですから、永井さんなら、そういうことは熟知されているものと思い、つい言葉足らずになってしまいました。
民間が「児童労働を減らそう」とすることは正しいことですが、政府が「児童労働を禁止する」のは間違っています。
民間が「失業者を減らそう」とすることは正しいことですが、政府が「解雇を禁止する」のは間違っています。
それと同じことです。
民間が「自殺を減らそう」とすることは正しいことですが、政府が「自殺を禁止する」のは間違っています。
永井俊哉 さんが書きました:
喫煙が健康に害を及ぼすことを実証した科学者たちのことです。もちろん、彼らが言っていることが正しいとは限りません。だけれども、もしも彼らが間違っていると言いたいのなら
そんなことは何も言っていませんよ。
ぜんぜん意味が通じていなかったようですね。
「一部の限られた人間の独善的な計画により、喫煙という文化を、人類から消滅させて良いのか?」という大問題を、単なる健康問題に限って「大多数の専門家が」なんて言うのはおかしいということです。
永井俊哉 さんが書きました:
喫煙者がいることによるメリットを探せば、そういうようにいくつか例外的なケースを見つけることができるでしょう。しかし喫煙を正当化するために必要なことは、メリットがあるということではなくて、デメリット以上のメリットがあるということであって、この点について示せていません。
「ヨットで太平洋を横断することには、生命の危険がある」ことならば簡単に示せるでしょう。
「だからと言って、それを禁止するべきではない」と主張するひとが、「そのデメリット以上のメリットがある」ことを科学的に示す必要がありますか?
「すべての人がヨットで太平洋を横断するべきだ」と主張するなら、必要でしょうけどね。
そもそも「禁止する」ことを正当化できる根拠は、「他者に対する危害」以外はありえないのです。
永井俊哉 さんが書きました:
すべての消費者が「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断している場合、毒キノコと可食キノコの識別力のある専門業者に販売を禁止することは合理的なのです。
「これは毒キノコです」と明示すればいいのです。誰も買わないでしょう。
私が「禁止する必要はない」と述べたのは、そういう意味ですよ。
永井俊哉 さんが書きました:
これまで様々な農薬が人体や環境に悪いという理由で製造が禁止され、その都度科学者たちは知恵を絞り、人体や環境に悪影響を与えない代替品を開発してきました。
失礼ながら農薬について不勉強でよく知らずに書きますが、正直胡散臭いですね。
そのような進歩があったのは、ほんとうに禁止のおかげなのでしょうか?
禁止せずに放っておいて市場にまかせていたら、何の進歩も起きずに、今でも人体に有害な農薬だらけだったのでしょうか?
そうだとしても、それは、農業自体が保護産業で、まともに市場原理が機能していないからではないですか?
(もっとも、環境汚染の部分に限れば外部不経済ですから、法で禁止する根拠があります。)
自由主義経済による経済発展で労働条件が良くなったのに、「我々の闘争により、労働法を認めさせ、労働条件改善を勝ち取った」などと言っているのと似たような印象を受けます。
「派遣を禁止すれば、みんな正社員になる」と、思い込んでいるとか。
「何かを禁止することで、それより良いものが生まれる」なんて、楽観的過ぎませんか?
そのような方法には危険なものを感じます。
たいていは裏目に出て、現状より悪い結果になるものです。
工場の劣悪な労働環境を禁止したら、そこで働いていた少女たちが売春婦になり、さらにそれを取り締まったら、殺されて臓器を売られたり。
もちろん「政府の判断だから必ず間違う」とは言えませんし、タイミング良く上手くいくこともあるでしょう。
しかし、「禁止ではなく自由の拡大で、より良いものが選択されるようにする」のが本筋だと思います。
最初の質問を見落としていました。
永井俊哉 さんが書きました:
その通り。ほとんどの先進国では、生命に害を及ぼす商品は、食品であろうがなかろうが、すべて規制されています。そうした現状はおかしいと言いたいのですか。
銃、爆薬、劇薬などの規制は認めます。
しかしこれは「情報の非対称性」が理由ではありません。治安上の問題です。
失礼、どうやら永井さんがお訊きのことは、
「情報の非対称性は販売規制の理由にはならないのか? たとえそれがフグでも。」
ということだったようですね。
私の答は、「販売規制の理由にならない」です。
民間の自主性にまかせるべきです。
フグの販売を法で規制して、政府がらみの機関に検査などさせたら、食べた人が死んでも責任の所在を曖昧にされるだけです。
純粋な民間会社ならば、責任者は業務上過失致死罪、もし悪質ならば殺人罪に問われるかも知れません。
会社は倒産、経営者一家は首をくくるかも知れません。
にもかかわらず、なぜ民間を信用せず、何でもかんでも政府の規制に頼ろうとするのかが、私には実に不思議です。
muu さんが書きました:
皆保険と保険の民営化は矛盾しません。これは永井さん自身が御提案されていたと思いますが。
皆保険なら、たとえ保険料の運用が民営化されたとしても、私が最初に指摘した「タバコや麻薬を吸わずに健康に配慮している人の健康保険料がそうでない人の治療費に使われることは不公平だという問題」は依然として解決されません。
muu さんが書きました:
民間が「自殺を減らそう」とすることは正しいことですが、政府が「自殺を禁止する」のは間違っています。
政府は自殺を禁止していません。「自殺を試みた者は、罰として死刑に処す」といったナンセンスな法律を作っている国が世界のどこかにあるのですか。muu さんは存在しない敵と戦っているようです。
muu さんが書きました:
「一部の限られた人間の独善的な計画により、喫煙という文化を、人類から消滅させて良いのか?」という大問題を、単なる健康問題に限って「大多数の専門家が」なんて言うのはおかしいということです。
かつて舞台化粧のおしろいとして鉛白が使用されていた時代がありました。そのため、日常的に多量の鉛白を使用していた舞台俳優は、鉛中毒となって夭折していました。そこで1934年に、政府は鉛を使用したおしろいの製造を禁止しました。
この時、「一部の限られた人間の独善的な計画により、舞台化粧という文化を、人類から消滅させて良いのか?」と異論をはさんだ人がいたかどうかはわかりませんが、鉛白のおしろいが最も美しかったことから、製造禁止後も非合法に使用されることがあったようです。
もちろん現在では、健康に害を与えない高品質のおしろいが開発されたおかげで、鉛白が使用されることはなくなりました。舞台化粧という文化もなくなっていません。鉛白の製造禁止は「独善的な計画」だったと言えるでしょうか。
政府が鉛白の製造を禁止しなくても、そうなっていたと思うかもしれませんが、専門家が鉛白は人体に有害であることを実証し、それに基づいて政府が製造を禁止していなければ、代替は実際より遅くなっていたことでしょう。
同じことが「喫煙文化」に関しても言えるでしょう。煙らしきものを出しながら、吸っている本人にも周囲にも悪影響を与えないタバコが開発されたら、それによって喫煙文化は維持されることになります。
muu さんが書きました:
「ヨットで太平洋を横断することには、生命の危険がある」ことならば簡単に示せるでしょう。「だからと言って、それを禁止するべきではない」と主張するひとが、「そのデメリット以上のメリットがある」ことを科学的に示す必要がありますか?
ヨットによる太平洋横断は成功確率が高く、それでいて成功すれば名声を手に入れることができるから、挑戦者にとってデメリット以上のメリットがあるということでしょう。
muu さんが書きました:
「これは毒キノコです」と明示すればいいのです。誰も買わないでしょう。私が「禁止する必要はない」と述べたのは、そういう意味ですよ。
スーパーで可食キノコと毒キノコを並べて売ったら、「このキノコは食べられません」という注意書きを読まずに間違って買って食べてしまう消費者が出てくるでしょう。その場合でも、それは本人の不注意が原因であり、販売者側には何の法的責任もないということになります。それでよいのですか。
muu さんが書きました:
もっとも、環境汚染の部分に限れば外部不経済ですから、法で禁止する根拠があります
環境汚染は、最終的には人体に悪影響を与えるから問題なのです。このように、人体への悪影響は、広い意味で解釈してください。
muu さんが書きました:
自由主義経済による経済発展で労働条件が良くなったのに、「我々の闘争により、労働法を認めさせ、労働条件改善を勝ち取った」などと言っているのと似たような印象を受けます。「派遣を禁止すれば、みんな正社員になる」と、思い込んでいるとか。
私は解雇規制等は撤廃するべきだと考えています。なぜなら、解雇したぐらいでは人は死なないからです。雇う側も雇われる側も、自分たちが満足する相手を見つけるまで試行錯誤を繰り返せばよいでしょう。
これに対して、毒フグや毒キノコの場合、間違って食べたら死んでしまいます。死んでしまえば、やり直しがきかないのだから、試行錯誤で最適な食材を見出すというわけにはいきません。このように命にかかわる事柄に関しては、事前防止型の規制を行うことは合理的です。
muu さんが書きました:
「何かを禁止することで、それより良いものが生まれる」なんて、楽観的過ぎませんか?
一般的に言って、人間の欲望は、高級になればなるほど内容は多様となり、個人差が大きくなります。逆に、低級になればなるほど内容は画一的になり、個人差が小さくなります。「死にたくない」とか「病気になりたくない」といった基礎的欲望は、後者に属し、万人に共通だから法律で画一的にその欲望を満たす方が効率的なのです。これに対して、高級な欲望に関しては、個人差が大きいので、その欲望の満たし方に政府は介入するべきではありません。個人の自由な選択に委ねるべきです。
muu さんが書きました:
フグの販売を法で規制して、政府がらみの機関に検査などさせたら、食べた人が死んでも責任の所在を曖昧にされるだけです。純粋な民間会社ならば、責任者は業務上過失致死罪、もし悪質ならば殺人罪に問われるかも知れません。会社は倒産、経営者一家は首をくくるかも知れません。にもかかわらず、なぜ民間を信用せず、何でもかんでも政府の規制に頼ろうとするのかが、私には実に不思議です。
政府が毒フグの販売を禁止せず、またいかなる管理もしていないと仮定しましょう。ある料理屋の店主は、フグ料理を注文されたが、フグ料理の安全性に自信がなく、客に「このフグには毒があるかもしれない」と正直に言い、客がそのリスクを理解して食べたとしましょう。この場合、たとえ客が食中毒で死んでも、業務上過失致死罪に問えないでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
保険料の運用が民営化されたとしても、私が最初に指摘した「タバコや麻薬を吸わずに健康に配慮している人の健康保険料がそうでない人の治療費に使われることは不公平だという問題」は依然として解決されません。
いいえ解決されます。
喫煙者の保険料は割高に設定されるでしょうから。
差を付けていない保険会社を、非喫煙者は選択しないことでしょう。
喫煙者専用の喫煙者用としては保険料が割安な、ただし定期的に禁煙指導プログラムへの参加が加入条件になる保険商品とか、民間の創意工夫で様々な保険商品が生まれることでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
政府は自殺を禁止していません。「自殺を試みた者は、罰として死刑に処す」といったナンセンスな法律を作っている国が世界のどこかにあるのですか。muu さんは存在しない敵と戦っているようです。
「政府は自殺を禁止しています。」なんて誰も書いていませんよ。
私が書いていないことを、さも書いているかのようにでっちあげて反論しないでください。
誰も書いていないことに反論している人が、人に対しては「存在しない敵と戦っている」とは、けっこう笑わせていただきました。
永井俊哉 さんが書きました:
専門家が鉛白は人体に有害であることを実証し、それに基づいて政府が製造を禁止していなければ、代替は実際より遅くなっていたことでしょう。
鉛白は人体に有害であることが実証されたならば、べつに政府の禁止がなくても、そこに市場原理が機能していれば代替は起きたことでしょう。
もちろん政府の禁止によって、それが早まったことも確かでしょう。
すでに結果が出ている(その市場介入が上手くいくことが実験済みである)ことについては、そう言えます。
「政府の判断は必ず間違う」とは私は言っていません。。
間違った場合が問題なのです。
市場は間違いをすぐ認め修正しますが、政府は間違いを認めず、間違いに間違いを重ねていく結果になりがちです。
それと、この事例は先進国における「児童労働の禁止」と同様に思われます。
つまり、もう児童労働がなくなることが十分予想できる状況、禁止されたからといってもう大した問題など起きないであろう状況(鉛白の例で言えば、すぐに何らかの代替物が見つかることが予想できる状況)で、禁止によって早まったのであり、もしまだ経済が多くの児童労働に依存しているような状況、なくなることが予想もできない状況で禁止していたなら失敗していたことでしょう。
(もちろん私は、児童労働も禁止すべきではないと思っていますが。)
さらに、政府のお抱えの「専門家」とやらが、もし正しい報告をしていたとしても、鉛白の業者と癒着した官僚がその情報を握りつぶすかもしれません。それ以前に、それを予想できる「専門家」は、官僚の都合のいいようにデータを書き換えてしまうかもしれません。
もっと穿った見方をすれば、官僚は癒着している業者に鉛白代替物を研究させておいて、完成の目星が付いてからデータを発表して禁止させたのかも知れませんね。
重要なデータを捏造したり隠していたりしたら、それが純粋な民間業者ならば倒産のリスクを負います。
政府や官僚が絡んでいると、責任の所在を曖昧にされてしまい、損害賠償が起きたとしても、国民から取り上げた税金で補填されるだけです。
「原発事故など絶対に起きない」というのが、大多数の「専門家」の意見でしたよね。
永井俊哉 さんが書きました:
ヨットによる太平洋横断は成功確率が高く、それでいて成功すれば名声を手に入れることができるから、挑戦者にとってデメリット以上のメリットがあるということでしょう。
その通りです。「自分にとってデメリット以上のメリットがある」と思う人がやっているのです。
みんながそう思うならば、みんながやっていることでしょう。
やっていない人は、そう思わないからやっていないのです。
ですから、自分がそう思わないからといって、他人がやることを禁止するのは間違っています。
(「誰も太平洋横断を禁止していません。muu さんは存在しない敵と戦っているようです。」なんて、また言い出さないで下さいね。)
「そんな名声よりも、みなさん、命のほうを大切にしましょう」と考える人が、その意見を表明し、人々に呼びかけることはその人の自由です。
ただし、政府に規制してもらおうとするのは間違っているのです。
永井俊哉 さんが書きました:
スーパーで可食キノコと毒キノコを並べて売ったら、「このキノコは食べられません」という注意書きを読まずに間違って買って食べてしまう消費者が出てくるでしょう。その場合でも、それは本人の不注意が原因であり、販売者側には何の法的責任もないということになります。それでよいのですか。
ですから永井さんが言っていることは、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断できずに買った場合の話なんですよ。
「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反していますよ。
ということを言っているのです。
「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば買うはずがないのです。
私が
muu さんが書きました:
もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、禁止する理由がありません。
と書いたのは、
禁止しなくても、絶対に誰も買わない商品は、禁止する理由がない。
という、アタリマエのことを述べているだけなんですよ。
永井俊哉 さんが書きました:
環境汚染は、最終的には人体に悪影響を与えるから問題なのです。
そうです。
取引の当事者でもない、無関係の第三者の人体に悪影響を与えるから問題なのです。
永井俊哉 さんが書きました:
毒フグや毒キノコの場合、間違って食べたら死んでしまいます。
そんな重要なことですから、なおさら政府になど絡んで欲しくないものです。
それが福島の教訓です。
永井俊哉 さんが書きました:
一般的に言って、人間の欲望は、高級になればなるほど内容は多様となり、個人差が大きくなります。逆に、低級になればなるほど内容は画一的になり、個人差が小さくなります。「死にたくない」とか「病気になりたくない」といった基礎的欲望は、後者に属し、万人に共通だから法律で画一的にその欲望を満たす方が効率的なのです。これに対して、高級な欲望に関しては、個人差が大きいので、その欲望の満たし方に政府は介入するべきではありません。個人の自由な選択に委ねるべきです。
申し訳ありませんが、この文章のいったいどこが、
muu さんが書きました:
「何かを禁止することで、それより良いものが生まれる」なんて、楽観的過ぎませんか?
に対する答になっているのか、まったくわかりません。
永井俊哉 さんが書きました:
政府が毒フグの販売を禁止せず、またいかなる管理もしていないと仮定しましょう。ある料理屋の店主は、フグ料理を注文されたが、フグ料理の安全性に自信がなく、客に「このフグには毒があるかもしれない」と正直に言い、客がそのリスクを理解して食べたとしましょう。この場合、たとえ客が食中毒で死んでも、業務上過失致死罪に問えないでしょう。
そうですね。
死んだ方はお気の毒ですが、これは素人が自分で勝手にフグを釣ってきて、自分で食べて死んだのとほとんど同じことなので、仕方がありませんね。
ただ、店主は刑事罰は免れたとしても、市場からは厳しい評価を受けそうですね。
毒フグに対する政府規制がなくなれば、毒フグ情報サイトはかなり進化しているでしょうし、この料理屋に関連する業者名などもたちまち伝わることでしょう。
客は来なくなり店は潰れますし、店主はもうどこの料理屋にも雇われない状態になるでしょうね。
もう御理解いただけているとは思いますが、こんな悲しいことが起きないようにという啓蒙活動を否定しているわけではありません。そういう啓蒙活動は良いことだと思います。ただし、強制はできないということです。
それにしても、あのサンデル教授とかもそうですけど、政府の規制を正当化したがる人は、「規制がないとこんなことが起きるかも知れないぞ」と、確かに絶対にいないとは言い切れませんが、そんな人はまずいないだろうという例を出してくるものですね。
何か事故が起きるたびに、「これは規制緩和のせいだ」と、何でもかんでも規制緩和に結び付けて騒ぐ人たちも実に多いですね。
muu さんが書きました:
いいえ解決されます。喫煙者の保険料は割高に設定されるでしょうから。差を付けていない保険会社を、非喫煙者は選択しないことでしょう。
私が「社会福祉は必要か」で提案した皆保険制度では、リスクに応じた保険料の差別化を認めていません。これが徹底されると保険の意義が薄れてしまうからです。
muu さんが書きました:
喫煙者専用の喫煙者用としては保険料が割安な、ただし定期的に禁煙指導プログラムへの参加が加入条件になる保険商品とか、民間の創意工夫で様々な保険商品が生まれることでしょう。
これは、タバコ税の引き上げなど、金銭的なインセンティブにより喫煙者を減らそうとする政府の既存の政策と大差ないと思うのですが、muu さんは賛成なのですか。
muu さんが書きました:
「政府は自殺を禁止しています。」なんて誰も書いていませんよ。私が書いていないことを、さも書いているかのようにでっちあげて反論しないでください。誰も書いていないことに反論している人が、人に対しては「存在しない敵と戦っている」とは、けっこう笑わせていただきました。
もう一度自分が書いたものを読み直してください。
muu さんが書きました:
政府に対して「○○する必要はない」というときは、「政府が(その暴力による脅迫により)○○する必要はない」という意味で言っているのであり、「○○が社会に必要ない」という意味ではありません。
muu さんは、「○○する」に「自殺者の数を減らす」を入れた場合の命題は、「児童労働者数を減らす」「失業者数を減らす」を入れた場合の命題と同様だと主張しました。しかし、私は前者と後者二つは異なると思います。「その暴力による脅迫により」というのは政府の場合刑罰による強制に相当します。政府が児童労働や解雇を刑罰の脅しにより禁止することは可能ですが、自殺を刑罰の脅しにより禁止することは不可能です。自殺を刑罰で禁止することが原理的にできない以上、“政府が「自殺を禁止する」のは間違っています”などと言う必要はなく、そのような主張をする muu さんは「存在しない敵と戦っている」と評されてもしかたがないでしょう。
muu さんが書きました:
鉛白は人体に有害であることが実証されたならば、べつに政府の禁止がなくても、そこに市場原理が機能していれば代替は起きたことでしょう。
一般にある企業の製品が有害であるという疑いが生じると、その企業は御用学者を雇い、自分がスポンサーを務めるメディアに登場させ、因果関係はないと宣伝させます。こういう工作活動に対抗しようとするならば、消費者は、少しづつ金を出し合って、利害関係のない科学者を雇い、真実を解明させなければなりません。そして、政府とは、本来そのためのフレームワークです。
ここでそもそも政府は社会においていかなる機能を果たすべきなのかを考えてみましょう。陳腐な比喩ですが、私は政府はスポーツ競技における審判+ルール制定者の役割を果たすべきだと考えています。競技者は営利企業、監督は経営者に相当します。審判が公平な判定を下すためには、審判自身が競技者としてプレーしたり、監督として采配を振るったりしてはいけません。また彼らから賄賂をもらってもいけません。
これは「小さな政府」を理想とするリバタリアンの考えですが、無政府主義的なリバタリアンの中には、審判すら不要だという人もいるでしょう。たしかに、誰が見ても汚いと感じるプレーは、観客からのブーイングで牽制されるでしょうが、微妙な判断を要する場合では、観客の間でも意見が割れ、観客どうしがけんかを始めて、収拾がつかなくなるでしょう。だから、専門的な判断力を持った審判が必要なのです。
審判を演じるのが特定の個人なら、その個人が特定競技者に買収されるという可能性は依然として残ります。だから私は「民主主義はどうあるべきか」でハイブリッド民主主義を提案し、政府が特定の利害集団と癒着しない仕組みを提案したのです。
muu さんが書きました:
政府や官僚が絡んでいると、責任の所在を曖昧にされてしまい、損害賠償が起きたとしても、国民から取り上げた税金で補填されるだけです。「原発事故など絶対に起きない」というのが、大多数の「専門家」の意見でしたよね。
これは、私に対する批判だとするなら、的外れです。私は、送電網分離、電力自由化を主張しています。発電は営利活動であり、政府が直接/間接に従事するべきものではありません。もしも政府が各発電会社に対してニュートラルなら、特定の発電会社に有利な判断を下すということがないでしょう。また、私の考えでは、原発は高コストであり、市場原理が機能するなら、そもそも日本のような核兵器を開発する必要のない国では普及することすらなかったでしょう。
muu さんが書きました:
「自分にとってデメリット以上のメリットがある」と思う人がやっているのです。みんながそう思うならば、みんながやっていることでしょう。やっていない人は、そう思わないからやっていないのです。ですから、自分がそう思わないからといって、他人がやることを禁止するのは間違っています。(「誰も太平洋横断を禁止していません。muu さんは存在しない敵と戦っているようです。」なんて、また言い出さないで下さいね。)
たとえ今誰も「政府は太平洋横断を法で禁止するべきだ」と主張していなくても、この主張は「政府は自殺を法で禁止するべきだ」とは異なり、理論的には可能であり、将来誰かが言い出す可能性があります。だから、私はそういう主張がナンセンスだとか存在しない敵との戦いだとかと評することはしません。
その話はともかく、私は太平洋横断を法で禁止する必要はないと思っています。二番目の投書で書いたように、「メリットとデメリットのどちらが大きいかに関して意見が分かれるものに関しては、法で一律に禁止せず、各自の判断に委ねたほうが良い」というのが私の考えだからです。これに対して、毒フグや毒キノコの販売は、デメリットの方が明らかに大きいということで合意できるのだから、法で禁止するべきなのです。
muu さんが書きました:
「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反していますよ。
今、メリット/デメリットの判断が、価値に関する全称判断のみならず、事実に関する特称判断をも含めた広義の意味での判断と仮定しましょう。そして各消費者がこうした判断力を完全に持ち、その判断力の行使にいかなるコストをもかけうると仮定しましょう。この場合、たしかにいかなる毒物の販売も禁止しなくてもよいということになります。
しかし、この仮定は現実に反しています。私たちは飲食する時、いちいち食材の成分表示一覧に目を通し、有毒物が含まれていないかどうかをチェックするということはしません。見てもよくわからないし、第一面倒です。だから、毒物が一般の市場に出回らないように、販売段階で規制することは合理的なのです。
要するに、たとえ「すべての消費者に完全な判断力と判断力を行使する十分な時間があるなら、有害物の販売を禁止する必要はない」という命題が正しくても、「すべての消費者に完全な判断力と判断力を行使する十分な時間があるとはかぎらない」というのが現実なら、「有害物の販売を禁止するべきである」という結論になるということです。
muu さんが書きました:
「何かを禁止することで、それより良いものが生まれる」なんて、楽観的過ぎませんか?
説明が不十分だったようなので、これに対する答えの続きを書くと、高級な欲望は個人差が大きいから、望ましくないものを政府が禁止するべきではないが、低級な欲望は個人差がないので、望ましくないものを政府が一律に禁止すれば、その禁止による社会の変化は望ましいということで同意が取れるということです。
muu さんが書きました:
毒フグに対する政府規制がなくなれば、毒フグ情報サイトはかなり進化しているでしょうし、この料理屋に関連する業者名などもたちまち伝わることでしょう。客は来なくなり店は潰れますし、店主はもうどこの料理屋にも雇われない状態になるでしょうね。
ネットでは成りすましによる工作活動が頻繁に行われており、デマとかも少なくないようで、ネット上での評判はあまりあてになりません。
永井俊哉 さんが書きました:
私が「社会福祉は必要か」で提案した皆保険制度では、リスクに応じた保険料の差別化を認めていません。これが徹底されると保険の意義が薄れてしまうからです。
喫煙者と非喫煙者の差別化だけならば、双方どちらの側からも大きな同意が得られると思います。
際限なく、「あれも差別化しろ、これも差別化しろ」とはならないように思えます。
永井俊哉 さんが書きました:
これは、タバコ税の引き上げなど、金銭的なインセンティブにより喫煙者を減らそうとする政府の既存の政策と大差ないと思うのですが、muu さんは賛成なのですか。
いろいろな保険商品が考えられるという一例として思いついたことを書いただけで、私がそういう保険に入りたいというわけではありません。
でもせっかくですから、御質問にお答えします。
これは結局、道州制が実現するかどうかに関わってきます。
州税として、州が独自の設定をするのであれば、反対ではありません。
高額納税者なのに肩身が狭い思いをさせられる州からは、喫煙者は逃げ出すでしょうが。
タバコ税は高額にして所得税を廃止するとか、それぞれの州に独自の戦略があってよいと思います。
マナーの悪い喫煙者に辟易としている喫煙者は多いものです。
これを言い出せばすべての政策について全部同じことが言えてしまうわけですが、州政府のあいだで住民獲得競争の市場原理が働く中での政策ならば、問題ありません。
道州制とかではなく、今の国家体制においてどうなのか?という意味でしたら、タバコ税の増税だけなら反対です。
タバコ税を増税する替わりに、他の税がそれ以上に減税になるなら賛成です。
これは喫煙問題とは、まったく無関係です。
「あらゆる増税に反対し、あらゆる減税に賛成する」という、リバタリアンの基本態度に基づくものです。
永井俊哉 さんが書きました:
自殺を刑罰の脅しにより禁止することは不可能です。
もちろん現実問題として不可能だからこそ、現実には存在しないのです。
非現実的な方法ならあります。一族皆殺しだぞと脅迫して相互監視を高めるとか。
「同意による善は好ましいが、政府による善の強制は間違っている」という主張をしていたのであって、その中で列挙した強制が、すべて現実に可能かどうかなど、主張内容の本筋から外れたどうでもいい話です。
永井俊哉 さんが書きました:
一般にある企業の製品が有害であるという疑いが生じると、その企業は御用学者を雇い、自分がスポンサーを務めるメディアに登場させ、因果関係はないと宣伝させます。こういう工作活動に対抗しようとするならば、消費者は、少しづつ金を出し合って、利害関係のない科学者を雇い、真実を解明させなければなりません。そして、政府とは、本来そのためのフレームワークです。
おっしゃっている内容が、20世紀マスメディア時代的ですね。
少数の情報発信者が、情報を独占していた時代のお話という印象を受けました。
インターネットの進化により、マスメディア時代はもう終わるでしょう。
私は、現在の議会制民主主義全盛も、マスメディア時代の産物と思っていますので、これももう終わると予想しています。
もはや消費者の「社会運動」など不要です。企業の工作活動は、内部から崩壊していくのです。
解雇規制が撤廃されたならば、企業の工作活動はほぼ完全に崩壊することでしょう。
このちきりんさんの記事が参考になります。
永井俊哉 さんが書きました:
ここでそもそも政府は社会においていかなる機能を果たすべきなのかを考えてみましょう。陳腐な比喩ですが、私は政府はスポーツ競技における審判+ルール制定者の役割を果たすべきだと考えています。競技者は営利企業、監督は経営者に相当します。
その競技の勝敗は、「どれだけ有益な商品やサービスを提供したか」で、決まるのではないでしょうか?
ならば、審判を下すのは消費者です。
ルールは、「他者の自由を侵害するな」だけで十分です。
政府の役割について、私の考えを書きますと、
政府とは、もともと暴力団でした。
今でもその本質部分は何も変わっていないと思います。
「暴力=他者の自由に対する侵害」です。
暴力団など世の中に無いに越したことはありません。
しかし、残念ながら人間社会には、必ず暴力団が生まれてしまうのです。
したがって悲しいことですが、私たちは暴力団の存在自体は認めるしかないのです。
その暴力を正しいことにしか使わせないように、常に警戒するしかありません。
しかし、暴力とは常に間違っているものです。
したがって正しい暴力というものがもしあるとするならば、それは暴力に対する暴力しかありえません。
「暴力を防ぐ」ということだけが、暴力団に認めてもいいたった一つの役割です。
それ以外の仕事からは、暴力団は徹底的に排除しなければなりません。
何も悪いことをしていない真面目に働いている人たちを、暴力で脅迫してお金を取り上げるという、本来、許されるはずがないことをしているわけですが、そのお金が「暴力を防ぐ」という目的に使われている場合だけ、仕方がないからそれを認めます。
最も良い暴力団は、(暴力を防ぐという役割以外は)何もしない暴力団です。
普通に暮らしている善良な人々は、そんなものがあることをほとんど意識しないで済むのが、暴力団のあるべき姿です。
人に暴力を振るおうとする連中だけが、その存在を恐れるというのが、暴力団のあるべき姿です。
絶対にやってはいけないことは、「私は世の中をこうしたい」という希望を叶えるために、暴力団を利用することです。
暴力で何かを実現しようとすること自体が間違っているからです。
誰もが、暴力団を利用した「他者の自由の潰し合い合戦」に巻き込まれていきます。
暴力団は際限なくのさばり出し、すべての自由が失われ、最終的には誰もがその奴隷にされてしまうことでしょう。
暴力団を利用しようなんて気持ちが起きたら、自分自身に問いかけてみましょう。
あなたのせいで、真面目に働いている善良な人々が、暴力で脅迫されてその大事なお金が取り上げられるのです。
暴力団を利用するとは、そういうことなのです。
あなたの希望する未来は、そんなことをしなければ実現できないのですか?と。
永井俊哉 さんが書きました:
誰が見ても汚いと感じるプレーは、観客からのブーイングで牽制されるでしょうが、微妙な判断を要する場合では、観客の間でも意見が割れ、観客どうしがけんかを始めて、収拾がつかなくなるでしょう。
なんの比喩なのかどうもよくわかりません。「観客」は試合結果に賭けをしている投資家ですか?
永井俊哉 さんが書きました:
私は「民主主義はどうあるべきか」でハイブリッド民主主義を提案し、政府が特定の利害集団と癒着しない仕組みを提案したのです。
御提案のハイブリッド民主主義は、最良の民主主義かと思います。
しかし民主主義は、その最良の場合においてさえ、多数派による少数派への暴力です。
(今ある現実の民主主義は、少数派による多数派への暴力ですから、もっと悪いわけですが。)
一億人の国民がいたとして、そのうち一人だけが年収千億円を超えているとしましょう。
もし、「年収千億円以上ならば、所得税率99%とする」という法案が出されたとして、良識がある人は反対するでしょうが、賛成が過半数を超えてしまう危険性が高いです。
もっともこれも、道州制ならば問題ないことですね。
永井俊哉 さんが書きました:
私に対する批判だとするなら、的外れです。
永井さんが原発の関係者だなんて思っていません。
「専門家」とやらの意見がいかに政府や官僚に都合のいいように捻じ曲がっているかという、例を挙げただけです。
なお、原発に対する私の考えは、永井さんと全く同じです。
永井俊哉 さんが書きました:
「すべての消費者に完全な判断力と判断力を行使する十分な時間があるとはかぎらない」というのが現実なら、「有害物の販売を禁止するべきである」という結論になるということです。
「誰も完全な情報を持ち得ないからこそ、市場が判断すべきだ。」というのが私の考えです。
スーパーの例に戻りますが、
永井俊哉 さんが書きました:
スーパーで可食キノコと毒キノコを並べて売ったら、「このキノコは食べられません」という注意書きを読まずに間違って買って食べてしまう消費者が出てくるでしょう。その場合でも、それは本人の不注意が原因であり、販売者側には何の法的責任もないということになります。それでよいのですか。
可食キノコと毒キノコを並べて売っていたら、それだけで(被害者が誰も出ていなくても)、そのスーパーは市場から淘汰されます。
もし被害者が出たならば、警察が調査にやってきて、店主に質問することでしょう。
「毒キノコだとちゃんとわかったら誰も買わないのに、なぜ売っていたのですか?」
永井さんがそのスーパーの店主なら、何と答えますか?
永井俊哉 さんが書きました:
低級な欲望は個人差がないので、望ましくないものを政府が一律に禁止すれば、その禁止による社会の変化は望ましいということで同意が取れるということです。
「禁止する」というのは、それが故意に選択されている場合に意味があるのです。
「望ましくない」ということは、故意に選択されているわけではないということです。
「死にたくない」とか「病気になりたくない」とかいった欲望に個人差がないからといって、
「死を禁止する」とか「病気を禁止する」とか言われても困りますね。
永井俊哉 さんが書きました:
ネットでは成りすましによる工作活動が頻繁に行われており、デマとかも少なくないようで、ネット上での評判はあまりあてになりません。
それにも関わらず、少なくとも、「専門家」がよく出てくるマスメディアよりはあてになります。
市場がそう判断しています。
新聞はもう老人しか読まず、急速にテレビ離れが進んでいます。
muu さんが書きました:
喫煙者と非喫煙者の差別化だけならば、双方どちらの側からも大きな同意が得られると思います。
そうでしょうか。たぶん喫煙者たちは「なぜ喫煙だけが差別されるのか」と言って憤ると思います。
muu さんが書きました:
「あらゆる増税に反対し、あらゆる減税に賛成する」という、リバタリアンの基本態度に基づくものです。
皆保険の保険料は税金と同じだから、純粋なリバタリアンは、皆保険自体に反対するでしょう。
muu さんが書きました:
もちろん現実問題として不可能だからこそ、現実には存在しないのです。非現実的な方法ならあります。
非現実的であることを認めたから、それでよしとします。
muu さんが書きました:
この、ちきりんさんの記事が参考になります。
リンク先を見てみたけれども、食品偽装にせよ、社会保険庁による年金記録問題にせよ、八百長相撲にせよ、科学者が費用をかけて調査しなければならない専門的な案件ではありません。私は「誰が見ても汚いと感じるプレーは、観客からのブーイングで牽制されるでしょうが、微妙な判断を要する場合では、観客の間でも意見が割れ、観客どうしがけんかを始めて、収拾がつかなくなるでしょう」と書いたけれども、これらは前者に該当するケースです。
私が後者に該当するケースとして念頭に置いているのは、例えば、2009年以降米国で顕在化したトヨタの急加速問題のようなものです。電子制御装置に欠陥があるのではないかという疑惑は、米高速道路交通安全局(NHTSA)と米航空宇宙局(NASA)による10ヶ月の調査の結果、否定されました。こういう調査は、トヨタが御用学者を雇ってやっても信用されないし、かといって、在野の学者が自分のポケット・マネーを使ってできるほど簡単でもないので、結局は、第三者の立場にある政府が、NASAエンジニアのような専門家に、費用と時間をかけて検証させることが望ましいということになります。
muu さんが書きました:
政府とは、もともと暴力団でした。
政府がかつてどうだったかということと政府が今後どうあるべきかはまた別の話です。リバタリアンの中には、市場経済対政府=市場原理対非市場原理という図式で、政府が小さくなればなるほど市場原理が機能すると考えている人もいますが、私は政府それ自体に市場原理を導入することで、市場原理の適用範囲を広げようとしています。その点で私は普通のリバタリアンとは異なります。
muu さんが書きました:
「誰も完全な情報を持ち得ないからこそ、市場が判断すべきだ」というのが私の考えです。
「どれがおいしい食材か」に関しては、生産者よりも消費者の方が判断力があり、かつ判断に多様性があるので、消費者の判断に委ねることでよいと思います。
しかし「どれが有毒な食材か」に関しては、消費者よりも生産者の方が判断力があり、かつ消費者に「有毒物を食べたい」という需要がないので、流通の上流で毒物が混入しないように規制することが合理的です。
muu さんが書きました:
可食キノコと毒キノコを並べて売っていたら、それだけで(被害者が誰も出ていなくても)、そのスーパーは市場から淘汰されます。もし被害者が出たならば、警察が調査にやってきて、店主に質問することでしょう。「毒キノコだとちゃんとわかったら誰も買わないのに、なぜ売っていたのですか?」永井さんがそのスーパーの店主なら、何と答えますか?
例えば、毒キノコのクサウラベニタケは、スーパーで売っているシメジとそっくりで、一般の消費者はもちろん、普通のスーパーの販売員も見分けることができません。見分ける能力がない以上、中毒事故が起きても彼らに責任を問うことができません。
そういう中毒事故が頻発した場合、市場から淘汰されるのは、販売店ではなくて、キノコ一般です。消費者は、どの店でも毒キノコが混入しているリスクを意識し、あらゆるキノコを買わなくなるでしょう。食べられるキノコまでが売れなくなるのは、困ったことです。
こうした事態を防ぐには、フグの販売と同様の制度を作るとよいでしょう。現在、ふぐ調理師は、都道府県知事が行うふぐ調理師試験において免許を取得し、ふぐの調理や販売を行っています。キノコに関しても、キノコ識別の公的試験に合格し、免許を取得した専門家が、キノコの採取から販売の途中で毒キノコの排除を行うように義務付けるべきです。
毒フグや毒キノコは、食べてすぐ症状が出るのでわかりやすいのですが、中にはすぐ症状が出ない毒物もあるでしょう。長い時間をかけて蓄積した結果発病するというような場合、被害者は原因がどこにあるのかわからず、その結果、市場原理による淘汰が働きにくくなります。未知の毒物なら仕方がないのですが、既知の毒物に関しては、事前予防型の対策を採るべきです。
muu さんが書きました:
「死を禁止する」とか「病気を禁止する」とか言われても困りますね。
「死をもたらす行為を禁止する」あるいは「病気をもたらす行為を禁止する」と言うべきでしょう。
muu さんが書きました:
少なくとも、「専門家」がよく出てくるマスメディアよりはあてになります。
発言の信用性を決める基準として、マスメディアかネットかといった媒体の違いよりも重要なのは、実名か匿名かという点です。もちろん、これはたくさんある基準の一つにすぎず、実名だから必ず信用できるというわけではありませんが、少なくとも、成りすましをすることなく、自分の発言に責任を取ろうとしている姿勢を読み取ることができます。
永井俊哉 さんが書きました:
そうでしょうか。たぶん喫煙者たちは「なぜ喫煙だけが差別されるのか」と言って憤ると思います。
政府が意図的に喫煙者に対する保険料を吊り上げているならともかく、単に「喫煙・非喫煙による差別化は認める」とだけ言って、あとは民間保険会社の市場競争で決まった商品価格ですよ。
それに対して文句を言うなら、文句を言うほうがおかしいです。
それこそ「嫌なら煙草やめなさい」で良いと思いますよ。
永井俊哉 さんが書きました:
皆保険の保険料は税金と同じだから、純粋なリバタリアンは、皆保険自体に反対するでしょう。
他の社会保障を全部無くして、これ一本にするなら減税になりませんか?
ほとんどのリバタリアンにとって、永井さんの政策提言の多くは、「現状よりはマシ」というレベルで賛成できる話でしょう。
あと、「純粋なリバタリアンは、これに反対するはず」「純粋なリバタリアンは、あれに反対するはず」という調子でいけば、
「純粋なリバタリアン」=「アナルコ・キャピタリスト(の中でも一気に現状をひっくり返すべきという過激派)」
ということになってしまうと思いますが。
永井俊哉 さんが書きました:
米高速道路交通安全局(NHTSA)と米航空宇宙局(NASA)による10ヶ月の調査の結果、否定されました。
「どうだ、政府がやったから、こんなすごいことができたんだぞ」というのは、公共事業バンザイ論と似たようなものです。
そのために使われた費用は、空から降ってきたのではありません。国民から盗み取ったお金が使われていることを、無視しているのです。
バスティアの言葉を借りれば、
「ちょっと待て!あなたの理論は見えるものに限定されている。それは全く見えないものを考慮していない。」(見えるものと見えないもの)
ということです。
「国民のお金を盗んで何が悪い。盗んだ政府と盗まれた国民で、社会全体ではプラスマイナス0じゃないか。」
と、開き直った屁理屈を言う人がたまにいますが、プラスマイナス0ではないのです。
盗んだ側は盗むことに時間や労力を費やしています。
そして盗まれた側は、なんとか被害を最小限に食い止めようと、やはり時間や労力を費やしているのです。
盗みがなければ、より生産的なことに使えたであろうこれらの時間・労力の分だけ、社会全体ではマイナスになっているのです。
しかも、政府がやることには市場原理が働いていませんから非効率です。
それよりも、もっと重大なマイナスがあるのです。
真面目に働いて稼いだお金を泥棒どもに盗まれていく状況、しかもその泥棒どもは市場競争もない安定した御身分で、足りなくなったら「予算が足りません」といってまた盗めばいいのですから、ジャブジャブと盗んだお金を使いまくる状況。
これでは国民は誰もが、勤勉に努力して働くことが馬鹿馬鹿しくなるのです。
つまり、泥棒どものために国民の勤労意欲が大きく損なわれていくのです。
トータルでは、どれほどのマイナスになっているかは、もちろん計算のしようがありません。
これは、文字通り「計り知れない」ものなのです。
この事例は上手くいったほうの事例でしょう。
失敗した事例も多いことでしょう。
何しろ失敗しても、なんら倒産や失業のリスクがない人たちがやっているのですから。
全国民を暴力で脅迫してかき集めたお金を使えば、大きな仕事ができるのはあたりまえです。
それは「見えるもの」です。
対して上述した計り知れないマイナス、もしそれがなければどれほど民間の経済が発展していたか、失業者が減っていたか、過労で倒れたり病気になったりしないで済んだ人がいたのか、(例えば、より安全性の高い車が作れる)新技術が誕生していたかは、まったく計算できない「見えないもの」です。
見えないものだから無視して良いのですか?
「泥棒が社会を良くしている」などという話は、私は信じません。
永井俊哉 さんが書きました:
私は政府それ自体に市場原理を導入することで、市場原理の適用範囲を広げようとしています。
それは内的には地方分権、外的にはグローバル化の促進ということではないのですか?
それなら、リバタリアンとして普通の主張だと思いますが。
永井俊哉 さんが書きました:
流通の上流で毒物が混入しないように規制することが合理的です。
別に暴力団に命令されなくても、流通の上流で毒物が混入しないようにすることでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
既知の毒物に関しては、事前予防型の対策を採るべきです。
そうですね。市場はもちろん、そのように対策を採ることでしょう。
ところで、
muu さんが書きました:
永井さんがそのスーパーの店主なら、何と答えますか?
の答を教えてほしいのですが。
私は、そのスーパーがなぜそんなことをしていたのか?実に不思議でしかたがないのです。
永井俊哉 さんが書きました:
「死をもたらす行為を禁止する」あるいは「病気をもたらす行為を禁止する」と言うべきでしょう。
「即死する行為(これは、刑罰で禁止できないことはわかって書いていますよ)」「即、病気になる行為」ならともかく、「死や病気の危険がわずかでも高まる行為」ならば、多々あるでしょう。
その中には、人によっては、「そのリスクよりも大きなメリットがある」と思う行為もあることでしょう。
「死にたくない」とか「病気になりたくない」とかいった欲望に個人差がないからといって、
「死や病気の危険が高まる行為」に対する欲望には、個人差がないなどとは言えませんね。
政府が意図的に喫煙者にだけ保険料に差別を認める例外作ったら、喫煙者は反対するんじゃないでしょうか?
例えば飲酒をしている人を見て
あの人は肝臓を壊す程に飲んでいるのに、自分より保険料を払ってない
自分は嗜む程度にしか喫煙していないのに、どうしてあの人よりも保険料を多く払わなければいけないんだ となるんじゃないかと思います。
そして飲酒している人は、太っている人を見て・・・となると思います。
それから永井さんの言われた米高速道路交通安全局と米航空宇宙局の調査云々というのは、政府がどうと言うよりも、利権に関係のない第三者 公正にゲームを審判できる立場の者が入った事が重要なんじゃないでしょうか。
タバコを吸う事で健康を害するという事はわかりきった事で、それでもどうして吸いたいと思うのでしょうか。
他に色々な趣味 選択肢があれば、わざわざ健康リスクのある物を選ぶんでしょうか?
死の危険のあるスポーツ、職業は競技者が限られているし、誰にでもなれる訳ではないですが、タバコは誰にでも手が届くもので麻薬と大差ない中毒性がある毒物ですよ
タバコに固執するのは、タバコの快感から抜け出せないからではないのですか。
初めに立場が違っても同じ主張をすると書いておられましたが、議論を見ていても、どうしても前提に喫煙を悪とされる事が気に食わないという思いが透けて見えます。
それと、永井さんが例として出した抽象的な問題に余り熱を入れると議論が逸れてしまいませんか。わかりやすくする為に出した例であって、齟齬を増やす為に出したんじゃないと思います。見える者とか見えない者とか自分は学が無いのでわかりませんが、引用を増やしすぎるのもどうかと思います。
まるこめのすけ さんが書きました:
政府が意図的に喫煙者にだけ保険料に差別を認める例外作ったら、喫煙者は反対するんじゃないでしょうか?
喫煙者がどういう反応をするか?という問題についての推測ですよね。
私は喫煙者です。私は反対しません。他の多くの喫煙者も反対しないと思います。
まるこめのすけさんが「私も喫煙者ですけど、私だったら反対しますよ。」というのでしたら、それなりの説得力がありますが、どうなのですか?
まるこめのすけ さんが書きました:
それから永井さんの言われた米高速道路交通安全局と米航空宇宙局の調査云々というのは、政府がどうと言うよりも、利権に関係のない第三者 公正にゲームを審判できる立場の者が入った事が重要なんじゃないでしょうか。
政府の役割についての議論で、出された例ですよ。
まるこめのすけ さんが書きました:
タバコに固執するのは、タバコの快感から抜け出せないからではないのですか。
タバコに固執するのは、トピックのテーマに合わせて書いているからです。
トピックのタイトルをよく読みましょうね。
muu さんが書きました:
政府が意図的に喫煙者に対する保険料を吊り上げているならともかく、単に「喫煙・非喫煙による差別化は認める」とだけ言って、あとは民間保険会社の市場競争で決まった商品価格ですよ。
まるこめのすけさんが指摘する通り、他にもリスク要因はいくらでもあるのに、なぜ政府は他を禁止し、喫煙の有無による差別化だけを認めるのかという疑問の声は当然上がるでしょう。
muu さんが書きました:
他の社会保障を全部無くして、これ一本にするなら減税になりませんか?
一本化するからといって保険料の総額が小さくなるとは限りません。高負担で保険の内容を厚くする低負担で薄くするかという問題は、それとは無関係の問題です。
オバマ大統領がやったように、米国で医療の皆保険を提案すると、米国のリバタリアンは皆反対します。それが普通のリバタリアンの反応です。
muu さんが書きました:
そのために使われた費用は、空から降ってきたのではありません。国民から盗み取ったお金が使われていることを、無視しているのです。
これも、まるこめのすけさんが指摘する通り、重要なことは、政府が審判として公平な判定をすることであって、そのための費用は必ずしも税金で捻出する必要はありません。例えば、トヨタの急加速問題の場合、トヨタから政府が調査費を受け取って、その金で中立な立場の研究機関に調査を依頼するという方法でもよかったと思います。その方が、トヨタが直接研究機関に金を支払うよりも、中立性を維持することができるからです。
製薬会社が新薬の治験を行う教授を買収するといった問題も、政府が間に入り、政府が製薬会社から治験費用を受け取り、政府がその金を政府が選んだ教授に払って治験させることで解決します。製薬会社は誰が治験しているのかわからないし、教授はどこの製薬会社の新薬を治験しているのかわからないので、両者の癒着が防止されます。
2005年に耐震偽装問題が発覚し、社会問題化しましたが、これも工事監理者を務める建築士が施工業者に雇われ、経済的に従属関係にあることで起きた問題でして、政府が媒介をする必要があります。この場合でも、政府が建築士を公務員として税金で恒常的に雇う必要はありません。あくまでも直接の癒着を防ぐために間に入ればよいだけのことで、そのために必要な税金はごくわずかです。
muu さんが書きました:
永井さんがそのスーパーの店主なら、何と答えますか?
私が店主なら、毒キノコと知りつつそれを売ることはしません。私がそんなに邪悪な人間に見えますでしょうか。
私は、キノコの識別に関しては素人ですから、毒キノコと知らずに売ることはありえます。その場合、警察には「毒キノコとは知りませんでした」と言うことで、無罪となります。
もちろん、そうした事態が好ましくないからこそ、私は免許制度を提案しているのです。私の提案が実現するならば、私は、公的検定に合格し、免許を持った業者から仕入れることで、事故を防ぐことができます。
muu さんが書きました:
別に暴力団に命令されなくても、流通の上流で毒物が混入しないようにすることでしょう。
具体的なケースで muu さんの考え方の問題点を指摘しましょう。ある人が小遣い稼ぎのために、週末に近くの山に行き、キノコを採取して、旅行者が多く通る道路の脇でキノコ販売の直売店を開くというサイドビジネスを始めたとします。
この人は、ウラベニホテイシメジを販売していましたが、その中には、ウラベニホテイシメジと同じ時期に同じ環境で育つクサウラベニタケが混じっていました。両者の外観はそっくりで、販売者にも区別がつきません。そのため、それを食べた旅行者が食中毒を起こしたとしましょう。
この場合、販売者に刑事罰が科せられることはありません。被害者は、せいぜい不法行為で訴えることができるだけですが、原告側に立証責任があるので、損害賠償は難しいでしょう。もちろん、その直売店は、評判が悪くなって、商売が続けられなくなるということがあるでしょうが、零細兼業農家にとって、サイドビジネスを失うことは大きな痛手ではありません。食中毒という結果に対して、ペナルティが小さすぎると言わざるをえません。
muu さんが書きました:
「即死する行為(これは、刑罰で禁止できないことはわかって書いていますよ)」「即、病気になる行為」ならともかく、「死や病気の危険がわずかでも高まる行為」ならば、多々あるでしょう。
私の原文には「危険が高まる」という表現はありません。
永井俊哉 さんが書きました:
なぜ政府は他を禁止し、喫煙の有無による差別化だけを認めるのかという疑問の声は当然上がるでしょう。
少しはブツブツ言う人もいることでしょうね。
永井俊哉 さんが書きました:
一本化するからといって保険料の総額が小さくなるとは限りません。
そうなんですか。てっきり小さくなる話だと思っていました。大きくなるのでしたら反対します。
永井俊哉 さんが書きました:
そのための費用は必ずしも税金で捻出する必要はありません。
ならば、その仕事をするのが政府である必要もありません。
永井俊哉 さんが書きました:
私が店主なら、毒キノコと知りつつそれを売ることはしません。私がそんなに邪悪な人間に見えますでしょうか。
はぐらかさないでください。
muu さんが書きました:
私は、そのスーパーがなぜそんなことをしていたのか?実に不思議でしかたがないのです。
と書いたはずです。
この疑問には、まったく答えていません。
永井俊哉 さんが書きました:
食中毒という結果に対して、ペナルティが小さすぎると言わざるをえません。
私は別に小さいとは思いませんけどね。
運よく損害賠償を免れただけで、かなりの賠償金が取られるリスクがありましたね。
「危ないところだった」という話は、仲間の農家にも伝わり、誰もが注意するようになるでしょう。
それにこのストーリーも、またまた実に不自然ですよ。
ちょっとウラベニホテイシメジについて、グーグルでも検索してみて下さい。
「よく似たクサウラベニタケという毒きのこがあるため注意」とぞろぞろと出てきますよ。
おそらくどんな図鑑を見ても、はっきり注意されていることでしょう。
ウラベニホテイシメジについて知っていて、それを採取して売る人が、クサウラベニタケについて知らないなんて、ちょっと想像もつきませんね。
「そんな人は普通いないだろう」という話を持ち出して、国民の健康を守るためと称して、規制を正当化するなんて、厚生労働省のお役人にそっくりですね。
薬のネット販売について、最近ようやくまともな判決が出ましたが。
永井俊哉 さんが書きました:
私の原文には「危険が高まる」という表現はありません。
では、「死をもたらす行為を禁止する」あるいは「病気をもたらす行為を禁止する」とは、具体的にはどんな行為を禁止するということですか?
muu さんが書きました:
永井俊哉 さんが書きました:
私が店主なら、毒キノコと知りつつそれを売ることはしません。私がそんなに邪悪な人間に見えますでしょうか。
はぐらかさないでください。
永井さんは「毒キノコと知りつつそれを売ること」を選択しないので、「なぜ売ったのですか?」と尋ねても動機がないとしか言えないと思います。ただ、「毒キノコと知りつつそれを売ること」を選択する人の動機として考えられるのは
・毒キノコに需要があると思ったから
・食用だと思って購入した人が苦しむことを期待したから
などが挙げられると思います。他にも、特殊な動機を含めれば様々あると思います。
muu さんが書きました:
ちょっとウラベニホテイシメジについて、グーグルでも検索してみて下さい。
「よく似たクサウラベニタケという毒きのこがあるため注意」とぞろぞろと出てきますよ。
おそらくどんな図鑑を見ても、はっきり注意されていることでしょう。
ウラベニホテイシメジについて知っていて、それを採取して売る人が、クサウラベニタケについて知らないなんて、ちょっと想像もつきませんね。
ほとんど全ての人がスマートフォンを所持して、自分が購入/販売するものについてグーグルで調べるようになれば、政府が毒キノコの販売を禁止しなくても問題は起きにくいと思います。現時点でそのような状況は考えにくいですが、将来的にそういう社会が実現できるのかについては興味があります。
イス. さんが書きました:
・毒キノコに需要があると思ったから
途中から読まれると、わからないかも知れませんが、「すべての人にとってデメリットのほうが大きい」すなわち「需要がない」ということが、この話の前提になっているのです。
イス. さんが書きました:
・食用だと思って購入した人が苦しむことを期待したから
わたしが警察官ならば、当然、それを疑います。その場合は、
永井俊哉 さんが書きました:
それは本人の不注意が原因であり、販売者側には何の法的責任もないということになります。
法的責任がないどころか、はっきり傷害罪です。
イス. さんが書きました:
ほとんど全ての人がスマートフォンを所持して、自分が購入/販売するものについてグーグルで調べるようになれば、政府が毒キノコの販売を禁止しなくても問題は起きにくいと思います。
まさにその通りなんですよ。
ただグーグルではなく、自分が信頼する食品安全度評価会社に画像を送れば、専門家(永井さんが言うような政府べったりの「専門家」ではなく、市場で通用する本物の専門家)が、
「それは、食用のウラベニホテイシメジだと思いますが、よく似たクサウラベニタケという毒きのこがあるため注意して下さい。見分け方は○○ですが、難しいので怪しいと思ったらまた画像を送ってください。おすすめの調理方法は、…」
と、アドバイスしてくれることでしょう。そのための専用ソフトも生まれることでしょう。
食品安全度評価会社にとっても、自社の宣伝になるので、それぐらいのサービスはたぶん無料で行うだろうと思います。
グーグルもそのサービスに進出してきそうですが。
食品でも自動車でも、政府の規制がなくなれば、市場はその安全性について判断する第三者機関を強く求めます。
生産者にとっても消費者にとっても、それがあることが利益になるので、食品安全度評価会社に対するニーズが生まれるというわけです。キノコやフグなどについては、高いニーズが見込めます。
必ず、多くの食品安全度評価会社が誕生します。
そう断言できる理由は簡単、それが儲かるからです。
生産者・消費者の双方にとって好ましい食品安全度評価会社が、市場原理によって選択されるのです。
その基準も、甘すぎても不必要に厳しすぎても経済不合理ですので、淘汰されます。
第三者機関とその基準そのものが、市場原理によって、より良いものが選ばれるのです。
永井さんが言う「政府が規制すべきだ」という考えに対して、私の言う「規制は不要、市場にまかせるべきだ」という考えは、以下のような利点があります。
1.業者との癒着が起きにくい。
政府の規制は、まずその規制そのものが癒着業者に有利になるように作られがちです。
そして政府がらみの検査機関は、検査結果を誤魔化していてもバレにくいのです。
テレビ局なども官僚の規制によって保護されている仲間ですから、官僚の犯罪は、ほとんど報道しません。
誤魔化しきれずにバレたとしても、責任の所在は曖昧にされ、結局誰も責任を取りません。
「だって規制を誰も守らないんだもん。」などと、子供みたいな言い訳を平気でします。
対して、民間の食品安全度評価会社の評価基準は、特定業者に有利に作られていたりすると、他の業者は他の評価会社を選択してしまいます。
そして「あの評価会社は基準が不公正だ」という情報は、消費者にも漏れるでしょう。
独占企業ではないので、そもそも癒着するメリットに乏しく、そして癒着もバレやすく、検査結果の偽装などがバレた場合は、両者とも倒産に追い込まれるかもしれません。
癒着のデメリットのほうが、大きいのです。
2.基準が最適化する。
政府の「専門家」が作る規制は、それが甘すぎて事故が起きても、責任の所在が曖昧にされます。
逆に不必要に厳しすぎて、経済活動を阻害していたり、反対に誰も守っていない状態でも、やはりその責任を誰も取りません。
民間の食品安全度評価会社の評価基準は、それが甘すぎて事故が起きれば、経営に大きなダメージを受けます。
逆に不必要に厳しすぎると、生産者側から無視されてしまいます。
最適な基準が、市場原理によって選択されるのです。
3.低コストである。
政府がらみの検査機関は税金が使われるため、検査する側・される側の双方がコスト感覚が麻痺してしまいます。
民間の食品安全度評価会社は、より早く、より確実に、より低コストの検査方法を常に研究していなければ、市場で生き残れません。
4.時代の変化に即応できる。
もう時代に合わなくなった規制や、それを作るもう不必要になった「専門家」も、政府はいつまでも抱えがちで、無駄に税金を使い続けることになりがちです。
逆に新しい商品に、事故が起きるまで対応できなかったり、新商品やそれを生み出すベンチャー企業を無闇に規制し、経済活動の活力を奪ってしまいます。
民間の食品安全度評価会社は、時代に合わないものは切り捨て、新商品に即対応し適切な評価ができなければ生き残れません。
5.消費者の意識が高まる。
民間の食品安全度評価会社の、食品そのものや、その生産者・流通業者・小売店やレストランに対しての評価は、あくまで選択のための基準を提供するのであり、それに対する評価は消費者に委ねられています。
消費者が食品の安全性について無関心では、商売になりません。
消費者の意識を高めることが、自社の利益となるのですから、様々な啓蒙活動を行うことでしょう。
例えば、子供たちに対する食品安全学試験などを行い、成績優秀者に賞金を出すなどです。
永井さんが御提案の公教育の廃止が行われれば、学校も作るかもしれません。
何でも政府が安全の面倒をみてやり、何か起きれば「政府は何をやっているんだ。ちゃんと規制しろ。」と言い出す国民だらけにするなど、まさに愚民政策そのものです。
政府が独占的な基準で規制し、政府がらみの組織が検査をしたりしているから、民間の食品安全度評価会社が生まれてこないのです。
もし生まれてきたら、たちまち厚生労働省の官僚たちがそれを規制して、徹底的にイジメて潰してしまうことでしょう。
政府規制をなくし、すべてを市場に委ね、第三者機関そのもの、基準や検査そのものに市場原理が適用されるべきなのです。
muu さんが書きました:
ならば、その仕事をするのが政府である必要もありません。
もう一度私が書いたことを読み直してください。トヨタが直接検証機関に金を渡す、製薬会社が直接教授に金を渡す、施工業者が直接建築士に金を渡す、一般的に言って、検査を受ける側が検査する側を選んで直接報酬を渡すと、両者の間に癒着が生じ、検査が甘くなります。たとえ実際にはそうでなくても、そういう疑念が生じやすいので、それを防ぐためには政府が間に入るべきだと言っているのです。
muu さんが書きました:
はぐらかさないでください。
muu さんが書きました:
私は、そのスーパーがなぜそんなことをしていたのか?実に不思議でしかたがないのです。
と書いたはずです。
この疑問には、まったく答えていません。
こちらこそ「はぐらかさないでください」と言いたいところです。店主が毒キノコを毒キノコと知りつつ売るという仮想ケースは、muu さんが最初に言い出したものでしょう。過去のログを読み直してください。
私は、毒キノコの販売を規制しない問題点を、当初、以下のように説明しました。
Re: 喫煙率を低下させるにはどうすればよいか (date) 2012年5月08日(火) 00:25 (author) 永井俊哉 さんが書きました:
話を簡単にするために、すべての消費者が「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断していて、かつ毒キノコの販売を禁止する法律がないと仮定します。可食キノコと毒キノコの区別は専門の採取業者にとってもかなり難しく、そのため、現在でもまれに中毒事件が起きたりします。毒キノコの販売を禁止する法律がなければ、業者は無駄なコストを省こうとするので、選り分けはずさんになるでしょう。一般の消費者は「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断することはできても、「このキノコは毒キノコかそれとも可食キノコか」を判断する能力がなく、そのため、間違って毒キノコを食べてしまう可能性があります。だから、すべての消費者が「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断している場合、毒キノコと可食キノコの識別力のある専門業者に販売を禁止することは合理的なのです。
これを読めば分かる通り、店主が毒キノコを毒キノコと知りつつ売るというケースを私は当初念頭に置いておりませんでした。これに対して、muu さんは以下のように答えました。
Re: 喫煙率を低下させるにはどうすればよいか (date) 2012年5月08日(火) 04:42 (author) muu さんが書きました:
「これは毒キノコです」と明示すればいいのです。誰も買わないでしょう。
ここで、初めて店主が毒キノコであることを明示して販売する、つまり、店主が毒キノコを毒キノコと知りつつ売るという仮想ケースが登場します。
以上からも明らかなように、muu さんは自分で勝手に非現実的なケースを想定し、そしてそれが非現実的だと批判しています。そういう muu さんの一人相撲になぜ私が説明責任を果たさなければならないのでしょうか。
muu さんは、おまけに、その店主が私だったら何と答えるのかとまで聞いてきました。そういう失礼な仮定に対しては、毒キノコと知りつつ毒キノコを売るほど私は邪悪ではありませんとしか答えようがありませんでしょう。
muu さんが書きました:
ちょっとウラベニホテイシメジについて、グーグルでも検索してみて下さい。「よく似たクサウラベニタケという毒きのこがあるため注意」とぞろぞろと出てきますよ。おそらくどんな図鑑を見ても、はっきり注意されていることでしょう。ウラベニホテイシメジについて知っていて、それを採取して売る人が、クサウラベニタケについて知らないなんて、ちょっと想像もつきませんね。
キノコの識別は、図鑑があればできるほど簡単なものではありません。キノコの識別を三段論法風にまとめると、以下のようになります。
【大前提】 クサウラベニタケは毒キノコである。
【小前提】 このキノコはクサウラベニタケである。
【結 論】 このキノコは毒キノコである。
このうち、大前提に当たる知識は誰でも簡単に身につけることができます。問題は小前提に当たる知識です。目の前に生えているこのキノコがウラベニホテイシメジなのかそれともクサウラベニタケなのかを識別することはプロでもかなり困難で、素人が図鑑だけ見てできることではありません。食用キノコと紛らわしい毒キノコは他にもたくさんあります。これらを識別することができるようになるには、相応のトレーニングを行う必要があります。
なお、農産物直売所などで毒キノコが誤って販売されるケースは実際に頻発しています。厚生労働省によると、キノコは魚介類や食肉とは異なり、食品衛生法で定められた許可を必要としていないので、毒キノコを食べて被害者が出た場合も罰則規定がないそうです。
muu さんが書きました:
「死をもたらす行為を禁止する」あるいは「病気をもたらす行為を禁止する」とは、具体的にはどんな行為を禁止するということですか?
意図的なら「死をもたらす行為」は殺人罪、「病気をもたらす行為」は傷害罪となります。過失によるものなら、過失致死罪と過失傷害罪となります。具体的にどういう行為であるかは、法学書を参照してください。
永井俊哉 さんが書きました:
トヨタが直接検証機関に金を渡す、製薬会社が直接教授に金を渡す、施工業者が直接建築士に金を渡す、一般的に言って、検査を受ける側が検査する側を選んで直接報酬を渡すと、両者の間に癒着が生じ、検査が甘くなります。
どの例も、その背景には政府の規制が存在しています。
政府の規制とまったく無関係な民間評価会社であれば、癒着は起きにくいことは上述したとおりです。
永井俊哉 さんが書きました:
これを読めば分かる通り、店主が毒キノコを毒キノコと知りつつ売るというケースを私は当初念頭に置いておりませんでした。
そうです。その通りです。
つまり、永井さんは、
muu さんが書きました:
もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば
という、この議論のそもそもの前提となっている条件を無視して書いているのです。
この議論を初めから並べますと、
muu さんが書きました:
もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、禁止する理由がありません。
永井俊哉 さんが書きました:
それならば、毒キノコや毒フグの販売も法で禁止する理由はないということですか。
これを読んで私は、
「どうも永井さんは、私が書いた前提条件の意味がわかっていないのではないか?」
「ひょっとすると、判断できずに間違って買われる場合のことを想定しているのかも知れない。」
と思ったので、
muu さんが書きました:
毒キノコや毒フグだとは知らないで購入された場合のことならば、それは、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断できなかった商品であり、この場合もやはり、「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、という仮定に反しています。
と答えました。
それなのに、まだ永井さんは、
永井俊哉 さんが書きました:
話を簡単にするために、すべての消費者が「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断していて、かつ毒キノコの販売を禁止する法律がないと仮定します。可食キノコと毒キノコの区別は専門の採取業者にとってもかなり難しく、そのため、現在でもまれに中毒事件が起きたりします。毒キノコの販売を禁止する法律がなければ、業者は無駄なコストを省こうとするので、選り分けはずさんになるでしょう。一般の消費者は「毒キノコは自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断することはできても、「このキノコは毒キノコかそれとも可食キノコか」を判断する能力がなく、そのため、間違って毒キノコを食べてしまう可能性があります。
と、「判断できずに間違って買われる場合」の話をしています。
そこで、私は、「勝手に前提条件を無視しないでください。毒キノコだと判断できるという前提なのです。」ということを強調するために、
muu さんが書きました:
「これは毒キノコです」と明示すればいいのです。誰も買わないでしょう。
私が「禁止する必要はない」と述べたのは、そういう意味ですよ。
と書きました。
つまり、
muu さんが書きました:
すべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、禁止する理由がありません。
というのは、「誰も買わないものを売る馬鹿なんていないでしょう。」という意味なのだ。
ということです。
そうすると、今度は永井さんは、
永井俊哉 さんが書きました:
スーパーで可食キノコと毒キノコを並べて売ったら、「このキノコは食べられません」という注意書きを読まずに間違って買って食べてしまう消費者が出てくるでしょう。その場合でも、それは本人の不注意が原因であり、販売者側には何の法的責任もないということになります。それでよいのですか。
「誰も買わないものを売る馬鹿」の話をしだしたので、「なぜそのスーパーはそんなことをしていたのですか?」と訊いたのですよ。
永井俊哉 さんが書きました:
意図的なら「死をもたらす行為」は殺人罪、「病気をもたらす行為」は傷害罪となります。過失によるものなら、過失致死罪と過失傷害罪となります。
つまり他者の自由に対する侵害行為に含まれますね。
「自分の自由を侵害されたくない」という欲求があることには、(その強さについては程度の差がありますが)個人差がないので、他者の自由に対する侵害行為は禁止すべきことです。
政府の規制は、他者の自由に対する侵害行為ですので、可能な限りなくすべきです。
もちろん、暴力に対する暴力だけは別であることは、以前述べたとおりです。
永井俊哉 さんが書きました:
目の前に生えているこのキノコがウラベニホテイシメジなのかそれともクサウラベニタケなのかを識別することはプロでもかなり困難で、素人が図鑑だけ見てできることではありません。
グーグルで調べても、消費者が毒キノコと可食キノコの識別力を得られないから、問題が残るのですね。
永井さんは「識別力のある人が存在しなくなるケース」を想定していて、
muuさんは「識別力のある人が流通の上流で選別を済ませてあるケース」を想定していた、
ということでよろしいでしょうか。
ところで、毒キノコを見た目そのままでスーパーで販売しているという仮定は、非現実的です。粉末にして箱に詰めるなどして、消費者の識別力が不要になるケースを想定した方が、分かりやすいかと思います。毒キノコを見た目そのままで販売することは、消費者の識別力を考慮していない危険行為だから禁止すべきです。同様に、識別力のない者がキノコの出荷に関わることも禁止すべきです。しかし、「毒」と太字で書かれた箱につめられた毒キノコの販売を禁止すべきか否かは、これとは別の問題だと思います。
また、この議論では毒キノコの需要がないことが前提となっていますが、どこかに需要がなくては選別へのモチベーションが下がって、選別が雑になるのではないでしょうか。そうなると、流通の上流での選別を機能させるために、毒キノコの販売を政府が禁止する必要性が出てきます。
「会社が倒産する」というリスクを負うだけで、選別コストをかけずに大量のキノコを販売して一時的にでも利益を得られるならば、そうする人は多いのではないでしょうか。
muu さんが書きました:
どの例も、その背景には政府の規制が存在しています。政府の規制とまったく無関係な民間評価会社であれば、癒着は起きにくいことは上述したとおりです。
法的規制が全くないなら、民間評価会社に評価してもらう義務もないということですね。義務でなくてもそうしないと売れないと思うかもしれませんが、広告に力を入れれば、商品は売れるものです。
今、企業が意図せずして欠陥商品を作ってしまい、それにより死傷者が出たと仮定しましょう。意図的ではないなら、その企業の経営者たちは殺人罪や傷害罪には問えません。では、業務上過失致死傷罪に問えるかと言えば、法的規制がない場合、ある場合と比べてかなり困難になります。
なぜなら、法における過失とは注意義務に違反する不注意な行為のことですが、法的規制がない以上、法的に成文化された注意義務というものもなく、注意義務に違反していることを示す成文法上の根拠がなくなるからです。もちろん、社会的通念上の注意義務を根拠に立証することもできますが、それだと主観的で曖昧になるので、立証が困難になります。
欠陥商品のおかげで死傷者が出れば、その会社の評判は悪くなり、淘汰圧力がかかることでしょう。でもそれだけなら、その会社がもたらした重大な結果と比べて、ペナルティが小さすぎるのではないでしょうか。
muu さんが書きました:
永井さんは、
muu さんが書きました:
もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば
という、この議論のそもそもの前提となっている条件を無視して書いているのです。
無視してはいません。前提条件に対する muu さんの理解が間違っているのです。
消費者が有毒物を拒否する判断を三段論法風にまとめると以下のようになります。
【大前提】 私は有毒物を食べたくない。
【小前提】 この食材は有毒物である。
【結 論】 私はこの食材を食べたくない。
生産者や販売者の判断は、
【大前提】 私は有毒物を売りたくない。
【小前提】 この食材は有毒物である。
【結 論】 私はこの食材を売りたくない。
となります。
このように、実際に有毒物を売らない/食べないようにするには、価値に関する全称判断の能力のみならず、事実に関する特称判断の能力も必要です。「有毒物は私にとってデメリットの方が大きい」という判断は、大前提における価値に関する全称判断であって、小前提における事実に関する特称判断は含んでいません。
私の議論は、消費者と販売者の圧倒的多数は、価値に関する全称判断の能力を持っているが、事実に関する特称判断の能力は持っていないという仮定を前提にしています。この仮定は、現実に最も近いものです。前提が現実的だから、私が指摘する問題は現実的なのです。
これに対して、muu さんは二つの判断を混同し、価値に関する全称判断の能力を持っているなら、事実に関する特称判断の能力も持っているはずだという短絡的で非現実的な仮定を前提にしています。前提が非現実的だから、muu さんがする議論は非現実的になるのです。
muu さんが書きました:
「誰も買わないものを売る馬鹿」の話をしだしたので、「なぜそのスーパーはそんなことをしていたのですか?」と訊いたのですよ。
実は私も内心馬鹿馬鹿しい話だと思いつつも、無視したら失礼かなと思って、付き合ってあげたのですよ。馬鹿馬鹿しい話の相手をして私自身が馬鹿だと思われるのは馬鹿馬鹿しいので、これからはそういう馬鹿なことはしないようにします。
永井俊哉 さんが書きました:
義務でなくてもそうしないと売れないと思うかもしれませんが、広告に力を入れれば、商品は売れるものです。
それが、以前にも述べましたが、20世紀マスメディア時代という、特殊な時代のお話ということです。
マスメディアが寡占的に情報を握って広告するということ自体が、政府の規制があるから起きることなのです。
(これは、「ニワトリが先か、タマゴが先か」的なのですが、どちらも衰退していくことは間違いないでしょう。)
既に述べたように、もうそうしないと売れない時代になるのです。
政府権力なき自由市場は、信用ネットワーク社会です。他者からの信用を失うと終わりなのです。
一度失った信用を回復することは困難であり、一時的なメリットのために信用を失うことは、デメリットのほうが大きすぎるのです。
「市場は万能であり、市場の判断は常に正しい」と言っているわけではありません。
しかし、それより正しいものを知らない以上、それに委ねるべきなのです。
「解雇規制は必要だ」という人は、「だってああだから、こうだから」と、いろいろ言いますが、その理由自体が解雇規制によって生まれていることに、気が付いていません。
永井さんの「政府の市場介入は必要だ」も、それと同じです。
その理由として述べている内容自体が、政府の市場介入によって起きていることなのです。
永井俊哉 さんが書きました:
前提条件に対する muu さんの理解が間違っているのです。
その前提条件は私が書いたことですよ。
私が書いたことに対して、「その前提条件は非現実的ですよ」というだけならまだしも、「理解が間違っている」と言われても困りますね。
公園で誰かの前に落ちている小石を拾って、「この小石を買ってください」といえば、誰もが「自分にとってデメリットのほうが大きい商品」と判断して買わないと思います。
「判断力が低くて、買ってしまう人だっているかも知れないだろ」なんて言うのは、ほとんど子供じみた反論としか言いようがありません。
永井俊哉 さんが書きました:
馬鹿馬鹿しい話
馬鹿馬鹿しい話になるのは当然なのですよ。
muu さんが書きました:
もしすべての人が「自分にとってデメリットのほうが大きい」と判断する商品ならば、禁止する理由がありません。
これは、
「誰も買わないものを売るなんて非現実的で馬鹿馬鹿しい話だから、禁止する理由がない。」
という意味で書いたのですから。
muu さんが書きました:
20世紀マスメディア時代という、特殊な時代のお話ということです。マスメディアが寡占的に情報を握って広告するということ自体が、政府の規制があるから起きることなのです。
広告が重要であることは、ネット時代においても変わりがありません。広告に効果がないなら、インターネット上にこれほど多くの広告が存在するはずがないでしょう。あるいは欠陥商品はいくら広告しても売れないとでも思っているのですか。
muu さんが書きました:
永井さんの「政府の市場介入は必要だ」も、それと同じです。その理由として述べている内容自体が、政府の市場介入によって起きていることなのです。
政府が致死傷欠陥商品の販売を予防する法的規制をやめれば、法的規制の理由である致死傷欠陥商品の販売自体がなくなると思っているのですか。muu さんは、あいかわらず非現実的な空想が好きなようです。
muu さんが書きました:
公園で誰かの前に落ちている小石を拾って、「この小石を買ってください」といえば、誰もが「自分にとってデメリットのほうが大きい商品」と判断して買わないと思います。
いつまでたっても私が言っていることを理解できない人とこれ以上議論しても時間の無駄ではないかという気がしてきました。
永井俊哉 さんが書きました:
広告が重要であることは、ネット時代においても変わりがありません。広告に効果がないなら、インターネット上にこれほど多くの広告が存在するはずがないでしょう。あるいは欠陥商品はいくら広告しても売れないとでも思っているのですか。
私は広告業です。欠陥商品は宣伝できません。
常に、自分が広告している商品についての情報に目を光らせています。
問題ありという情報が確認できたら、即、消費者にその情報を発信し、謝罪しています。
共倒れは御免だからです。
消費者の信頼を失ったならば、私も終わりだからです。
ネット時代の広告は、どんどんそういう方向になってきています。
情報発信者が増えれば増えるほど、企業が意図的に情報を捻じ曲げることは困難になります。
政府規制がなくなれば、広告という概念そのものが、もっと大きく変わっていくことでしょう。
「良い商品を作り、多くの評価会社から高い評価を得る」ことが、絶対必要かつ最も効果的な広告となることでしょう。
評価会社は保険会社とも、緊密な情報交換をするようになるでしょう。
信用を失ってしまうと、企業は終わりなのです。
どうも永井さんには、消費者と直結している商売人としての、こういったリアル感が欠落しているように思います。
信用を失った企業が、のうのうと生き延びれるのは、そこに政府権力が絡んでいる場合だけなのです。
永井俊哉 さんが書きました:
政府が致死傷欠陥商品の販売を予防する法的規制をやめれば、法的規制の理由である致死傷欠陥商品の販売自体がなくなると思っているのですか。muu さんは、あいかわらず非現実的な空想が好きなようです。
何度も述べていますが、市場は万能とは言っていません。政府より遥かにマシだと述べているだけです。
「情報の非対称性」にしろ「独占・寡占」にしろ、暴力なき自由市場で自然に起きるものは、大したことはないのです。
「情報の非対称性」にしろ「独占・寡占」にしろ、そこに政府という暴力団が絡んだときに、社会に深刻なダメージを与えるのです。
大量の放射性物質を撒き散らし、社会に多大な深刻な被害をもたらした企業が、のうのうと生き残り、幹部が高給を得ているなどという状態は、そこに政府権力が絡んでいるからこそ起きていることなのです。
暴力団は市場から排除すべきものなのです。
muu さんが書きました:
私は広告業です。欠陥商品は宣伝できません。常に、自分が広告している商品についての情報に目を光らせています。問題ありという情報が確認できたら、即、消費者にその情報を発信し、謝罪しています。
ということは、問題ありという情報が確認できないうちは宣伝して売るということですね。私が想定しているのはそういうケースです。もう一度私が書いた文章を引用しましょう。
喫煙率を低下させるにはどうすればよいか (date) 2012年5月13日(日) 05:59 (author) 永井俊哉 さんが書きました:
法的規制が全くないなら、民間評価会社に評価してもらう義務もないということですね。義務でなくてもそうしないと売れないと思うかもしれませんが、広告に力を入れれば、商品は売れるものです。
今、企業が意図せずして欠陥商品を作ってしまい、それにより死傷者が出たと仮定しましょう。意図的ではないなら、その企業の経営者たちは殺人罪や傷害罪には問えません。では、業務上過失致死傷罪に問えるかと言えば、法的規制がない場合、ある場合と比べてかなり困難になります。
ここからもわかるように、私が想定しているケースは、企業も消費者も欠陥に気が付かずに売買する場合で、この場合、広告を出せば商品は売れます。結局これも、作り手、売り手、買い手に価値に関する全称判断の能力はあっても、事実に関する特称判断の能力がないという場合で、ここから先はまた同じ議論の繰り返しになります。
同じ議論を繰り返すことは私にとって苦痛だし、読者にとっても退屈でしょうから、そろそろこの議論を終わらせましょう。
永井俊哉 さんが書きました:
企業も消費者も欠陥に気が付かずに売買する場合で
それは、大したことではありません。
もし大したことならば、市場がそれを減らすからです。
それを理由にして、暴力団が市場に関与してくるマイナスのほうが大きいのです。
過失によって他者に危害を与えた人に「強制できること」は、損害賠償だけであるべきです。
(これにしても自動車のような商品ならば、暴力団が関与せずとも、保険会社の保証付き商品しか購入されないと思いますが。)
その加害者の誠実・不誠実を判断し、それに応じたペナルティならば、市場が下します。
政府の規制はプラスよりマイナスのほうが大きい理由は、
既に述べた通りです。
私のほうも同じ話の繰り返しになってしまうので、もうやめますが、私がここで主張していた内容は、きわめて単純なことです。
認められる唯一の暴力(=他者の自由に対する侵害)は、「暴力に対する暴力」のみだということです。
それ以外の暴力は、すべて間違っている(マイナスのほうが大きい)ということです。
永井俊哉 さんが書きました:
そこで、私は、喫煙禁止年齢の上限を時間とともに引き上げることを提案したい。現在、日本では、未成年者喫煙禁止法により、「満二十年ニ至ラサル者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス」と規定されているが、これを誕生年月日が平成XX年1月1日以降の者に限定して、一生喫煙を禁じるという内容に変更するのである。
誕生年月日が平成XX年1月1日以降の者に限定して、満三十年ニ至ラサル者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス、という内容に変更するほうがよろしいと思います。以下はその理由。
日本人男性の場合、煙草を覚えるのは就職と同時に、あるいは大学在学中に、という事例が多いようです。この時期は、およそ二十歳前後に該当します。ですから、この年齢においては、煙草を禁止しておかなければなりません。
三十過ぎて、初めて喫煙するような男は、あまりいないでしょう。
ペンペン さんが書きました:
三十過ぎて、初めて喫煙するような男は、あまりいないでしょう。
もしも三十過ぎて初めて喫煙する人がいないなら、禁止を継続することに問題はないはずです。法はシンプルである方が覚えやすく、無駄に例外を盛り込まない方がよいでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
無政府的なリバタリアンの中には、タバコどころか麻薬もすべて合法化するべきだと主張する人もいる。この考えをさらに推し進めるならば、毒キノコや毒フグの販売も法で禁止するべきではないというところまで行く。
たしかに、もしもすべての消費者に完全な情報収集力と判断力があるなら、毒キノコや毒フグが店頭に並んでも、買う人はいないのだから、法で禁止しなくても実害はない。
麻薬合法化論とは、「政府は、人々のプライベートに干渉するな。他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいいんだよ。」という無政府主義的な思想(?)ではありません。
麻薬合法化論とは、麻薬を合法化すれば、
①薬物犯の逮捕、刑事訴訟手続き、服役等が不要となるため、それらに税金をつぎ込む必要がなくなる。
②麻薬取引が暴力団の資金源ではなくなって、合法的な経済行為となるため、それに対して課税することができる。
という理由で主張されているものです。
ペンペン さんが書きました:
薬物犯の逮捕、刑事訴訟手続き、服役等が不要となるため、それらに税金をつぎ込む必要がなくなる。
その代わり、薬物中毒者が惹き起こす危険運転致死傷罪などの犯罪が増えるので、その犯人の逮捕、刑事訴訟手続き、服役等が必要となります。
最近、こういう事件が起きました。
脱法ハーブを吸って車を暴走させて5人に軽傷を負わせたとして、大阪地検は8日、危険運転致傷罪で、茨木市立北中学校非常勤講師、西口馨容疑者(25)を起訴した。脱法ハーブの影響で意識がもうろうとし、正常な運転が困難だったと判断した。
起訴状によると、5月4日午後10時35分ごろ、摂津市千里丘の府道で、脱法ハーブを吸って乗用車を運転。急加速して電柱に衝突した上、信号待ちの乗用車に追突し、5人に軽傷を負わせたとしている。[9]
今年の6月には、こういう事件も起きました。
大阪・ミナミの繁華街で軽乗用車が暴走して女性2人が軽傷を負った事件で、大阪地検は24日、堺市堺区の土木作業員、拝藤(はいとう)俊一被告(26)=覚せい剤取締法違反罪で起訴=を危険運転致傷罪で追起訴した。脱法ハーブの吸引が異常運転につながったと判断した。地検は認否を明らかにしていない。
起訴状によると、拝藤被告は今年6月1日夜、大阪市中央区心斎橋筋1の路上で、脱法ハーブの影響で正常な運転が困難な状態で車を時速約9キロで運転、歩道に乗り上げて女性2人をはね、背中などにそれぞれ約10日のけがをさせた、とされる。関係者によると、脱法ハーブは車内で吸引していたという。
拝藤被告は当時、自動車運転過失傷害容疑で逮捕、送検された。車内から脱法ハーブが見つかり、拝藤被告が「(事件の)直前にミナミで買った脱法ハーブを吸引した」と供述したため、大阪府警南署が危険運転致傷容疑で追送検していた。[10]
飲酒運転も同様のリスクを高めますが、酔いから醒めれば、正常な判断力を取り戻すことができるので、飲酒自体を禁止する必要はありません。しかし、薬物中毒は脳神経を減らすので、より長期的に持久する影響を及ぼします。薬物を服用しても、車を運転しなければよいという分別自体が期待できなくなります。法は、分別のある個人を前提としているので、分別を失う前の段階でそうなることを禁止しているのです。
永井俊哉 さんが書きました:
その代わり、薬物中毒者が惹き起こす危険運転致死傷罪などの犯罪が増えるので、その犯人の逮捕、刑事訴訟手続き、服役等が必要となります。
薬物中毒者が惹き起こす犯罪に費やされる歳出よりも、暴力団の弱体化のために費やされている歳出のほうが、桁違いに大きいのです。
ヤクザのシノギは他にいくらでもあるのだから、薬物を合法化したぐらいでは暴力団は弱体化しません。
薬物中毒者が惹き起こす犯罪の件数よりも、違法薬物の所持、販売、運搬等の犯罪の件数のほうが、はるかに多い。そのため、後者を取り締まらずに、前者だけを取り締まったほうが、政府の歳出が少なくなる。
薬物中毒で心神喪失に陥っているなら、その人の法的責任を問うことはできないので、彼らが惹き起こす犯罪を直接取り締まることはできません。
刑法:
第三十九条 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
だから、心神喪失/耗弱になる前の、まだ責任能力のある段階に遡って処罰しなければなりません。これは、「原因において自由な行為」と呼ばれる理論に基づいています。
アルコールまたは薬物の飲用等により自己を責任無能力の状態におとしいれ,その状態で犯罪を行った場合でも,原因となった飲酒,薬物服用等の行為の時点で責任能力があれば刑事責任を問いうるという理論。しかし他方で,責任能力は犯罪の実行行為の時点に存しなければならないというのが刑法上の原則(行為と責任の同時存在の原則)であり,〈原因において自由な行為〉の理論はこの原則に矛盾することになる。[11]
この矛盾を解消するには、原因となる自由行為を違法としなければなりません。だから、日本では、飲酒運転や薬物の服用を違法としているのです。
ペンペンさんは、財政の観点から薬物の合法化を主張していますが、薬物の服用を合法化すると、働く能力のない(つまり納税能力のない)中毒患者が増え、彼らを治療したり介護したりするための支出も増える、つまり、歳入が減り、歳出が増えるので、トータルで考えれば、財政を悪化させるでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
飲酒運転も同様のリスクを高めますが、酔いから醒めれば、正常な判断力を取り戻すことができるので、飲酒自体を禁止する必要はありません。しかし、薬物中毒は脳神経を減らすので、より長期的に持久する影響を及ぼします。薬物を服用しても、車を運転しなければよいという分別自体が期待できなくなります。法は、分別のある個人を前提としているので、分別を失う前の段階でそうなることを禁止しているのです。
オランダでは、大麻・マリファナの使用が許されています。
日本でも、戦前までは、大麻草の栽培は合法でした。しかも、大麻は「日本薬局方」に登載されていたのです。
戦後、日本で大麻が禁止されたのは、米国の陰謀です。どういうことか というと、米国は、太平洋戦争における、日本海軍の軍用機のパイロットの技量を恐れていました。日本人を全員、近視、緑内障等の眼病にしてしまえば、日本人が飛行機を操縦することができません。これが、日本で大麻が禁止された真相なのです。
ペンペン さんが書きました:
オランダでは、大麻・マリファナの使用が許されています。
オランダはマリファナ(日本語名「大麻」)の使用を認めていますが、コカインのようなハードドラッグの使用は禁止しています。オランダは、薬物の被害を最小限にしようとする点で他の国とは異ならず、その目的を達成するための手段という点で違いがあるだけです。すなわち、マリファナのような、その害が他の薬物より小さい薬物(ソフトドラッグ)を許可することで、害がより大きいハードドラッグの使用を減らそうという目論見でソフトドラッグの使用を合法化しているだけのことです。
ペンペン さんが書きました:
日本でも、戦前までは、大麻草の栽培は合法でした。しかも、大麻は「日本薬局方」に登載されていたのです。戦後、日本で大麻が禁止されたのは、米国の陰謀です。どういうことかというと、米国は、太平洋戦争における、日本海軍の軍用機のパイロットの技量を恐れていました。日本人を全員、近視、緑内障等の眼病にしてしまえば、日本人が飛行機を操縦することができません。これが、日本で大麻が禁止された真相なのです。
マリファナの嗜好品としての使用は米国でも禁止されています。医療目的での大麻の使用も大半の州では禁止されています。これは、その州の米国人を全員、近視、緑内障等の眼病にし、彼らが飛行機を操縦することができないようにするための陰謀によるというのでしょうか。
以下の提案は、喫煙禁止年齢漸次引き上げ策と似た発想である。いきなりすべての配偶者控除を廃止しようとすると専業主婦になった人たちが猛反発するので、20歳以下限定で配偶者控除を廃止すれば、時間がかかるにしても、何十年か経てば事実上全廃になる。
配偶者控除の廃止に反対する側の心情は、これまでの制度を前提に主婦であったのに、今さらなんだということだろう。
大学が多すぎるという田中真紀子文部科学相の問題意識に賛同する人は多かったが、いきなり3大学認可拒否はおかしいというのが良識ある世間の大勢だった。いきなり変えれば混乱が大きいのは当然である。
であるなら、すでに専業主婦である人の配偶者控除を認め、これから働きに出る若い人から変えていけば良い。多くの人は、既得権を打破しなければ改革は行えないという。私は逆だと思う。既得権を認めてしまえば、反対が減って改革ができる。
配偶者控除は、すでに何十年も前から議論しているが、いまだに廃止できていない。20年前に、20歳の人から廃止していれば、もう改革ができていたのだ。[12]
もっともこの提案は時機を失しているような気もする。主婦の労働力を活用しなければならない時代背景には少子高齢化があるのだが、現時点でこれがもう相当に進んでいるからだ。配偶者控除を廃止しても、専業主婦になることが法的に禁止されることはないのだから、喫煙の禁止に際して必要な程度の既得権者に対する配慮は不要だと思う。
永井俊哉 さんが書きました:
もとより、タバコにも全くメリットがないわけではない。タバコに含まれているニコチンがパーキンソン病の予防になるという研究結果がある。
80歳になる拙者の舅は、高い煙草代を払うのがバカバカしくなって禁煙したところ、パーキンソン病が進行し、痴呆となってしまった。金に困っていなければ、高齢になってからの禁煙は、やめたほうがよいだろう。どうせ、老い先が短いのだから。
また、喫煙者のほうが、非喫煙者よりも自殺率が低い、という説もある。憂鬱な気分のときは、飲酒よりも喫煙をお勧めする。
ペンペン さんが書きました:
80歳になる拙者の舅は、高い煙草代を払うのがバカバカしくなって禁煙したところ、パーキンソン病が進行し、痴呆となってしまった。金に困っていなければ、高齢になってからの禁煙は、やめたほうがよいだろう。どうせ、老い先が短いのだから。
コーヒーに含まれるカフェインにパーキンソン病を予防する効果があると考えられています。だから、お金をかけずにパーキンソン病の予防をしたいなら、コーヒーを飲むことをお勧めします。コーヒーの適度の摂取は、これ以外にもさまざまな健康保持機能があります[13]。
ペンペン さんが書きました:
また、喫煙者のほうが、非喫煙者よりも自殺率が低い、という説もある。憂鬱な気分のときは、飲酒よりも喫煙をお勧めする。
他人の説を引用するなら、ソースを明記してください。飲酒よりも喫煙を勧める理由は何なのですか。気晴らしの目的なら、他にもっと健康な方法があるにもかかわらず、なぜ喫煙を勧めるのでしょうか。
ところで、最近、喫煙者を採用しない企業が増えているようです。
会社が「たばこを吸わない人」を求める理由は、大きく3つ。一つは「作業効率」。喫煙者は血液中のニコチン含有量の多少によって集中力が低下する例が少なくない。また、喫煙する社員がより頻繁に休憩をとることから生じる社員の不公平感がある。たばこの臭いでお客などを不快にさせることや、「喫煙スペース」を設けることで施設の運用効率が悪くなることもマイナス点だ。もちろん、社員の健康への影響(職場環境)もある。[14]
喫煙の習慣ゆえに就職できなくなったら、かえって自殺のリスクが増えるでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
他人の説を引用するなら、ソースを明記してください。
こちらが参考文献です。「武田邦彦(中部大学)健康シリーズ:タバコと自殺」平成24年12月25日
リンク先にある武田邦彦の「タバコと自殺」を読みましたが、あまり説得力がないように感じました。まず「この40年間、喫煙率は2分の1になって、肺がんは約10倍になっている」という事実の指摘ですが、死亡者の数自体がこの40年で2倍になっている[平成23年(2011)人口動態統計の年間推計|厚生労働省]こと、以下の図に示されているように、癌(悪性新生物)による死亡率自体が増えている(他の病気の予防が進んでいる)こと、その下の図に示されているように、一人あたりの喫煙量(喫煙率ではない)の変動と一人あたりの癌の発生確率との間には20年のラグがあることなどが考慮されていません。肺癌がラドン、アスベスト、大気汚染などによっても惹き起こされることは事実ですが、だからといって、喫煙が肺癌の原因になることが否定されるわけではありません。


本題の喫煙と自殺の相関関係ですが、これは奥村康からの引用となっています。では、奥村康本人は何と言っているのかを調べてみたところ、以下の文章を見つけました。
たばこはからだにいい点がいろいろある。たとえば、人の脳の細胞は毎日数十万、数百万という単位で減っていく。といっても問題はなくて、脳細胞はお互いびっしりつながってネットワークを形成している。ある部分がスポンと抜けても、それを迂回したネットワークに回すことができる。物忘れをしても、しばらくして思い出すのは、ほかの回路が働くわけですね。脳に刺激を与えると、この回路がどんどん増えて記憶がよくなる。脳が若返るんです。
そのネットワークづくりを促進するのがニコチンです。だから、たばこを吸うと記憶がよくなるし、たばこを吸う人はボケが少ない。それから、たばこは気管支に悪いというのはウソで、むしろたばこを吸う人は風邪を引きにくい。たばこが適当な刺激になって、免疫が上がっているんです。もっと重要なのは、日本人は年に三万二千人が自殺する。そのうちの二千人くらいを調べたところ、たばこを吸う人が一人もいなかった。たばこは自殺防止にも役立つのではないか。
ある心理学者に聞いたところ、たばこを吸っているときは、いわば頭が「白く」なるという。ずっと同じ刺激のある状態より、ストレスをときどきぽっぽっと解放してやる。リズムをもって生活している人のほうが脳的には健康だというんですね。[15]
二千人の自殺者の過去を遡って喫煙の有無を調べるのは大変な作業だと思うのですが、誰がいつどのように調査したかが記されていないので、真偽のほどは定かではありません。もっとソースがはっきりした科学的調査では、「日本人中年期男性において、一日に吸う本数が多い喫煙者の自殺リスクが高い[16]」という結論が実証されています。海外での研究でも、以下のような結論が出ています。
筆者らは,1987年1月から1996年12月までの961,657人年にわたってプロスペクティブに追跡した30万人の男性米軍兵士を対象としたコホート研究を実施し,たばこの喫煙と自殺の関係を検討した。その結果,自殺のリスクは,1日の喫煙本数が多いほど有意に増加することがわかった(p for trend < 0.001)。多変量調整後の解析では,1日20本以上の喫煙者は,非喫煙者と比較して,自殺する可能性が2倍以上高かった。男性の現役軍人では,喫煙と自殺との間の用量相関関係は,喫煙者が白人であること,多量の飲酒をすること,教育を受けていないこと,運動をあまりしないことなどの傾向が強いことで完全には説明できなかった。[17]
永井俊哉 さんが書きました:
ところで、最近、喫煙者を採用しない企業が増えているようです。(中略)喫煙の習慣ゆえに就職できなくなったら、かえって自殺のリスクが増えるでしょう。
厚生労働省も、これを見習って、新たに厚生労働事務官・厚生労働技官を採用する場合には、非喫煙者に限定してほしいものです。でも、地方公共団体が同じことをすると、『憲法違反だ』と叫んで訴訟を起こすヤツが出てくるだろうな。
あ、申し遅れましたが、拙者は非喫煙者です。
厚生労働省自体が採用に際して考慮しているかどうかはともかくとして、厚生労働省の採用人権担当者は、喫煙を理由に採用を拒否することは必ずしも違法ではないという見解を持っているようです。
私は厚生労働省の採用人権担当の方とも話したことがあります。
その時は、「喫煙権もある一方で、最近では嫌煙権も強くなっているので、なんともいえないですね。」と、玉虫色の回答ながら、少なくとも、そういった喫煙者を排除する採用選考も違法とは断言できない、という回答でした。
しかし、本当に「喫煙者排除は違法ではない」と言ってしまって良いのでしょうか。
私はタバコを吸わないですし、好きか嫌いかで言えばタバコの煙やにおいは嫌いです。タバコが無い世界の方が自分にとっては快適ですし、嫌煙権を振りかざして、会社にとっての効率だけを重視する立場に立ちたいと思うときもあります。
しかし、企業に「採用の自由」が認められるとはいえ、休憩時間に外に出て吸うという喫煙者側の行動だけでも受動喫煙が起きない状況が担保しうるのに、「彼・彼女はタバコを吸う人である」というだけで選考段階で排除するというのは、プライベートな時間における人の趣味嗜好まで口を出すような行為であり、認められるべきではないと思います。
それを合法と言うなら、タバコを吸う行為そのものを禁止する、すなわち、喫煙権を完全に否定することが先ではないでしょうか。
飲み屋でキューバリブレばかり選んで飲んでいるヤツは採用しない。
クラブに繰り出しHOUSEミュージックに身を任せて気持ちよくなっているようなヤツは採用しない。
太宰治の『人間失格』を家で読んでいるようなヤツは採用しない。
こういった職務遂行能力と関係の無い理由で応募者を排除することは不当な就職差別にあたると理解していますが、エスカレートするとこういう不当な就職差別すら肯定してしまいかねない、危険な考え方だと思います。[18]
勤務時間中に喫煙していなければそれでよいとは必ずしも言えません。「プライベートな時間における人の趣味嗜好まで口を出すような行為は認められるべきではない」というのは一見もっとものように思えるかもしれませんが、接客業の場合、タバコ臭いという理由で客に嫌われるということもあるからです。人伝に聞いた話ですが、「タバコ臭い」という理由でクビになったプロ家庭教師とかいるそうです。悪臭に苦しむ子供の気持ちを考えるなら、そういう解雇に合理的理由はないとは言えないでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
マリファナの嗜好品としての使用は米国でも禁止されています。医療目的での大麻の使用も大半の州では禁止されています。これは、その州の米国人を全員、近視、緑内障等の眼病にし、彼らが飛行機を操縦することができないようにするための陰謀によるというのでしょうか。
時機に後れた攻撃防禦方法(民事訴訟法157条1項)ではありますが、こちらに参考文献を明示させていただきます:高山正之「大麻と憲法」『週刊新潮』2008・12・18.
高山正之の「大麻と憲法」読んだのですが、この記事はかなり被害妄想の傾向があるようです。マッカーサーは、覚醒剤が日本人をダメにするのに有効と判断したから野放しにしたと書いてありますが、実際には、その薬害についての知識がなかったことが原因でしょう。当時ヒロポンなどと呼ばれた覚醒剤、メタンフェタミンは、除倦覚醒の薬として合法的に販売されており、その薬害が認知されるようになったのは1947年です。最初のうちは原因がわからず、1950年になってやっと薬事法で劇薬に指定され、翌年から覚醒剤取締法が施行されました。これに対して、メタンフェタミンが米国で規制されるようになったのは、1970年の Controlled Substances Act においてです。米国は1937年に連邦法によって大麻を非合法化しており、マッカーサーが戦後の日本で大麻を非合法化したのは、本国での方針をそのまま持ち込んだからでしょう。
紙巻き煙草は、確かに健康に悪い。だから、どうしても禁煙できない者は、葉巻かパイプに変更しよう。
タバコを値上げしても、あまり喫煙者が減らなくなりつつあると厚生労働省研究班が言っている。
3年前にあったたばこの値上げ額は1箱110円などと大幅だったにもかかわらず、値上げによる販売量の変化の度合いは20~30円ほどの値上げだった過去2回と変わらないことが、厚生労働省研究班の解析でわかった。「国民の健康のため、さらに思い切った値上げが必要」という。
たばこ税の引き上げなどに伴い、2010年秋に代表的な銘柄で20本入り1箱の価格が300円から410円になったりした。研究班は日本たばこ協会の統計データなどを使い、値上げがその年度の販売数量にどう影響したのか、過去の値上げと比べて検討した。
たばこの販売量は、健康への関心などのために減り続けているため、統計学的な手法で調整。値上げの影響だけを見られるようにした「価格弾力性」を算出した。この指標の数値が大きいほど、値上げによる影響力が大きくなる。
すると、10年の値上げのときの値は0・28。主な銘柄で20円の値上げだった03年の0・30、同様に30円の値上げだった06年の0・27とほとんど差はなかった。[19]
これまでのタバコの相次ぐ値上げにより、中途半端な喫煙者たちは次々にドロップアウトしていった。それでも吸い続けているのは筋金入りの愛煙家ぐらいなものだ。愛煙家の中には、死んでもやめないという人もいるので、そういう人たちは、いくら値上げをしたところで買うことを止めないだろう。だから、値上げをするごとに、タバコの価格弾力性は低くなっていくと考えられる。もとより、日本のタバコの価格は、先進国と比べてまだ低いから、さらに値上げをする余地はある。そして大幅に値上げをすると、私がここで提案している方法と似たような結果をもたらす。
なぜ欧州では日本以上にタバコの価格が高いのか。理由はタバコの値上げは収入が少ない若者の喫煙者から先に振り落とすことがわかっているからだ。
中年以上の喫煙者は値上げにも仕方なく付き合う、タバコを吸い続ける。しかしタバコをこれから吸おうという20歳の青少年や吸い始めて間もない若者はタバコが急激に値上がりすると、「だったら、吸うのをやめよう」という行動を起こす。この現象はどこの国でも共通らしい。
米国ではタバコの価格が10%値上がりすると喫煙者全体は4%減るが、10代の若者(吸っていいのかという話は別にして)については12%も喫煙人口が減ることがわかっている。[20]
たぶんね、タバコよりも、貨物自動車のジーゼルエンジンからの排ガスのほうが、健康に悪いと思うね。証明できないし、参考文献もないけどね。
というのは、タバコの煙よりも、ジーゼルエンジンからの排ガスのほうが、不快なニオイなんだよ。人間の嗅覚というのは、危険な物質に対しては、不快なニオイを感じるようにできているんだ。
嫌煙運動は、大気汚染という公害から 人々の関心をそらすための 政府主導のプロパガンダなのさ。
間接喫煙も自動車の排ガスもともに公害なのだから、両方規制すればよい。ちなみに、2009年の規制により、、粒子状物質と窒素酸化物の大幅な削減が義務付けられ、ディーゼル車の規制がガソリン車並みに厳しくなりました。
環境大臣は、大気汚染防止法(昭和43年法律第97号)第19条第1項に基づき、自動車が一定の条件で運行する場合に発生し、大気中に排出される排出物に含まれる自動車排出ガスの量の許容限度(昭和49年1月環境庁告示第1号)(以下「排出ガス許容限度」という。)を定めることとなっており、排出ガス許容限度を考慮して国土交通大臣が道路運送車両の保安基準(昭和26年運輸省令第67号)において必要な規制を実施していくこととなっている。この排出ガス許容限度は、中央環境審議会の答申を受けてこれまで累次にわたり強化を行っているところである。[21]
永井先生の喫煙禁止年齢漸次引き上げ策は大変い案だと思いました。それにもかかわらず、私はその他に投票しました。類似した他の案も考えられるからです。たとえば、喫煙禁止年齢を二年ごとにに1歳ずつ引き上げる案である。たとえば19歳の人が、20歳になったら喫煙が許可されると期待しているとすると、喫煙禁止年齢を毎年1歳ずつ引き上げる制度では、その人は一生涯、喫煙権利を奪われることになります。
二年ごとにに1歳ずつ引き上げる案では、権利を獲得するまでの時間が2倍になるだけです。私は、自分が煙草を吸わないので、喫煙が許可されるまでの時間には関心が無いけれど、制度変更のための副作用が小さく実施しやすいのではなかろうか。世代間の不公平とかタバコ会社の経営困窮などの反対意見を緩和できて早く実施できれば、結果の達成は早まるかも知れない。この案が10年ほども実施されれば、また状況が変わって、案を見直す必要が起きるかも知れない。
私が喫煙禁止年齢を一年ごとに一歳ずつ引き上げる案を出した理由は、喫煙をしてよいかどうかが、生年月日を見ることでたちどころに分かるという利点があるからです。例えば、西暦2000年1月1日以降に生まれたものは一生喫煙禁止ということになったとします。そうすると、2020年1月1日以降、タバコを吸ってよいかどうかが、身分証明者などに書かれている生年月日の最初の二けただけを見るだけで(つまり19XXか20XXかだけで)、すぐにわかります(ついでに、暦も国際標準となっている西暦に統一すればよい)。二年ごとに一歳ずつ引き上げると、判定プロセスが複雑になります。単純でわかりやすいことも制度設計をするうえで重要ではないでしょうか。
ニュージーランドは、2021年12月9日に、若者層に喫煙タバコ製品を販売または供給することを禁止する方針を明らかにしました[22]。この法律が施行される時点で14歳の人は、生涯にわたって、合法的にたばこを購入することができなくなります。また、新しい法律の施行で、それ以上の年齢層に対しても、ニコチンの含有量が非常に少ない喫煙用タバコ製品しか販売できなくなり、販売できる店の数も大幅に減ることになります。
ニュージーランドはすでに無地包装を義務付け、タバコに高い税金を課していましたが、厚生省は、禁煙の目標を達成するにはさらなる措置が必要だとして、この方針を決断しました。喫煙はニュージーランドにおける予防可能な死因の第一位であり、人口約500万人のうち4人に1人が癌にかかるとのことです。厚生省は、喫煙による害は、マオリ族、太平洋諸島、低所得者層に特に多く見られると述べています。日本でも、喫煙者が減りつつあるとはいえ、令和元年時点で、男性の27.1%、女性の7.6%が喫煙しています[23]。将来的に、喫煙者をゼロに近づけるために、日本もニュージーランドの取り組みに倣ってはいかがでしょうか。
2. 参照情報
- ↑ここでの議論は、システム論フォーラムの「喫煙率を低下させるにはどうすればよいか」からの転載です。
- ↑「成人喫煙率」 厚生労働省国民健康栄養調査.
- ↑Ritz, Beate, Alberto Ascherio, Harvey Checkoway, Karen S. Marder, Lorene M. Nelson, Walter A. Rocca, G. Webster Ross, Daniel Strickland, Stephen K. Van Den Eeden, and Jay Gorell. “Pooled Analysis of Tobacco Use and Risk of Parkinson Disease.” Archives of Neurology 64, no. 7 (July 2007): 990–97.
- ↑Toulorge, Damien, Serge Guerreiro, Audrey Hild, Uwe Maskos, Etienne C. Hirsch, and Patrick P. Michel. “Neuroprotection of Midbrain Dopamine Neurons by Nicotine Is Gated by Cytoplasmic Ca2+.” The FASEB Journal 25, no. 8 (2011): 2563–73.
- ↑FEDERATION OF AMERICAN SOCIETIES FOR EXPERIMENTAL BIOLOGY."Smoking’s up-side: Nicotine protects the brain from Parkinson’s disease." EurekAlert! August 2011.
- ↑“Offer a male fruit fly a choice between food soaked in alcohol and its nonalcoholic equivalent, and his decision will depend on whether he’s mated recently or been rejected by a female. Flies that have been given the cold shoulder are more likely to go for the booze, researchers have found. It’s the first discovery, in fruit flies, of a social interaction that influences future behavior." ― “Sexually Rejected Flies Turn to Booze." Science 15 March 2012.
- ↑「主な出火原因の推移(上位10位)」平成22年版消防白書
- ↑永井俊哉『現象学的に根拠を問う』Kindle Edition (2015/01/05).
- ↑「脱法ハーブ吸い運転の講師、危険運転致傷罪で起訴」『産経新聞』2012年8月9日.
- ↑「大阪ミナミ暴走:危険運転致傷罪で追起訴 脱法ハーブ吸引」『毎日新聞』2012年07月24日.
- ↑「原因において自由な行為」『世界大百科事典』第2版.
- ↑原田泰「主婦の既得権を認めれば 配偶者控除は廃止できる」『WEDGE』2012年12月7日.
- ↑“Why is Coffee Good For You? Here Are 7 Reasons" Authority Nutrition
- ↑“「喫煙者は採用しない」企業広がる 製薬会社に書店、靴店…“『J-CAST』2013年5月4日.
- ↑奥村康"現代を生きる「不良」長寿のすすめ 実践編“『愛煙家通信 Web版』喫煙文化研究会.
- ↑「たばこと自殺について」国立がん研究センター
- ↑“The authors examined the relation between cigarette smoking and suicide by conducting a cohort study of 300,000 male US Army personnel followed prospectively from January 1987 through December 1996 for 961,657 person-years. They found that the risk of suicide increased significantly with the number of cigarettes smoked daily (p for trend < 0.001). In multivariable-adjusted analyses, smokers of more than 20 cigarettes a day, compared with never smokers, were more than twice as likely to commit suicide. For male active-duty army personnel, the dose-related association between smoking and suicide was not entirely explained by the greater tendency of smokers to be White, drink heavily, have less education, and exercise less often." ― Miller, Matthew, David Hemenway, Nicole S. Bell, Michelle M. Yore, and Paul J. Amoroso. “Cigarette Smoking and Suicide: A Prospective Study of 300, 000 Male Active-Duty Army Soldiers.” American Journal of Epidemiology 151, no. 11 (June 2000): 1060–63.
- ↑「喫煙者を採用選考で排除することは合法か」『企業法務マンサバイバル』2009年04月26日.
- ↑「たばこ、大幅値上げでも禁煙者は増えず?」『朝日新聞』2013年12月16日.
- ↑「たばこ増税の不都合な真実」『日経トレンディネット』2013年03月11日. p. 3.
- ↑環境省「「自動車排出ガスの量の許容限度」の一部改正について」平成19年12月12日.
- ↑Hon Dr Ayesha Verrall. “Historic step towards smokefree future.” Beehive.govt.nz. 9 DECEMBER 2021.
- ↑厚生労働省. “最新たばこ情報|統計情報|成人喫煙率(国民健康・栄養調査).” 2020.12.8 更新.
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コメント一覧
タバコに対する規制を強化するならば、酒に対しても規制強化しないと不公平だ。禁止しろとはいはないが、満25歳から飲酒できるように法改正すべきだ。
酒がタバコほど規制されていないのは、少量の酒はむしろ健康に良いという説があるからです。
断酒したら鼾をかかなくなった。酒は猛毒だ。