リサイクルはどうあるべきか
多くの人は、マテリアル・リサイクルこそが本物のリサイクルであり、サーマル・リサイクルは偽物のリサイクルだと思っている。しかし、もしもリサイクルを、バージン材料から作った製品と同じ品質の製品をもう一度作るという厳密な意味で理解するなら、私たちが本物のリサイクルと思っているものは偽物のリサイクルであり、私たちが偽物のリサイクルだと思っているものこそが本物のリサイクルであるということになる。それならば、マテリアル・リサイクルを補助金と規制で推進してきた従来のごみ行政のあり方を根本から見直さなければならない。
1. リサイクルの本質
私たちは、なぜリサイクルをする必要があるのか。普通の人は、こう問いかけられれば、「物を大切にするため」あるいは「エネルギーを節約するため」と答えるだろう。リサイクルでは、物を繰り返し使い、新品を作るエネルギーを節約しているように見えるから、こうした正当化は、直観的に受け入れられやすいが、物理学的には間違っている。熱力学第一法則が示すように、エネルギーが減ることはないし、物質もまた、原子核反応に伴う質量欠損(mass defect)でも起きない限り、減ることはない。私たちが、リサイクルにおいて節約しようとしているのは、エネルギーでもなければ物でもなく、資源価値、すなわちエントロピーの低さである。
私たちは、生き続けている限り、不可避的にエントロピーを増やす。物理的なエントロピーには、熱のエントロピーと物質散逸のエントロピーがあり、後者は前者とは異なり、宇宙に容易に捨てることはできない。もしも私たちが、廃棄物を処分せずに、自然が処分できる以上に大量に捨て続けるなら、物質散逸のエントロピーが増えて、地球内が住みにくくなる。そこで、熱のエントロピーを増大させることで物質散逸のエントロピーを縮減し、増大した熱のエントロピーを宇宙に捨てることで地球内における物質散逸のエントロピーを低く維持し続けなければならない。これがリサイクルの本質である。
ところが、リサイクルの推進者の中には、このリサイクルの本質がわかっていない人が多い。そういう人たちは、リサイクルとは物を繰り返し使うことであると素朴に考え、ごみとなったマテリアル(物質)を別のマテリアルに再加工して再利用するマテリアル・リサイクルこそが本物のリサイクルであり、サーマル・リサイクル、すなわち、廃棄物を燃焼させて、その熱で発電を行うエネルギー回収は偽物のリサイクルだと考える傾向がある。例えば、英国のリサイクリングエキスパートは、以下のように、サーマル・リサイクルはリサイクルではないのだから、この呼称は不当だと主張している。
サーマル・リサイクルというアイデア全体に対する主要な批判の一つは、たんなる焼却を別の名前で言い換えただけで、少しばかり受け入れやすく、エコな感じがするようにしようとする焼却支持者たちによる恥知らずな試みだというものである。[中略]たしかにそれは伝統的な意味でのリサイクルではない。物質は永遠になくなってしまい、再生紙や再生ガラスのように新しい何か別なものとして戻ってはこない。残るものは、熱と処分しなければならない相対的に小さな体積の灰だけで、しかも、何を燃やしたのかによるが、そこには汚染物質が濃縮されているかもしれないのだ。[1]
こういう理由から、英語圏では、"thermal recycling"という呼称に代わって"waste-to-energy(廃棄物からエネルギーへの変換)"あるいは、もっと広い意味を持つ"energy recovery(エネルギー回収)"という呼称が使われ、マテリアル・リサイクルよりも優先度の低い廃棄物処理方法として位置付けられている。例えば、以下の図は、社会的通念に従って、廃棄物処理における優先度の高さを示したヒエラルキーで、マテリアル・リサイクル (recycling) はエネルギー回収 (energy recovery) よりも上位に位置付けられている。
各国の政府がマテリアル・リサイクルを法律で義務付けたり、その事業に補助金を出したりしているのは、マテリアル・リサイクルの方が望ましいという価値観に基づいている。しかし、マテリアル・リサイクルは、政府がそのような形で関与しなければならないほど優先度の高い廃棄物処理方法なのだろうか。次に、現行のマテリアル・リサイクルの問題点を考えてみたい。
2. マテリアル・リサイクル
ここで謂う所のマテリアル・リサイクルは、サーマル・リサイクルの対義語で、多くの欧米人がそうするように、サーマル・リサイクルという呼称を拒否するなら、マテリアルという限定は不要になる。ヨーロッパでは、マテリアル・リサイクルを機械的リサイクル(mechanical recycling)と原料リサイクル(feedstock recycling)に分類しているのに対して、日本では、前者をマテリアル・リサイクル、後者をケミカル・リサイクルと呼んでいる。
ケミカル・リサイクル(原料リサイクル)とは、廃プラスチックの油化・燃料化、高炉還元剤化、解重合と再重合など、狭義のマテリアル・リサイクル(機械的リサイクル)のように機械的加工だけでなく、化学反応によって再商品化を行うリサイクルである。ここでは、リサイクルの手法よりも目的に重点を置いた分類を採用し、廃棄物からエントロピーの低いエネルギーを作り出すことを目的とするリサイクルをサーマル・リサイクル、低エントロピーなものを作ることを目的とするリサイクルをマテリアル・リサイクルと名付けることにしたい。
現在行われているマテリアル・リサイクルが、本当にすべて資源の節約になっているかどうかは、議論の余地があるところである。マテリアル・リサイクルをしようとするなら、廃棄物を洗浄し、加工施設まで運搬し、異物を取り除き、再加工し、消費地まで運搬しなければならないが、それらはすべて資源を消費する。建物、機械装置、器具備品、車両運搬具などのインフラも劣化し、最終的にはごみになる。問題はそれ以上に物質散逸のエントロピーを減らすことができるのかということである。
「アルミニウムのリサイクルは、ボーキサイト原鉱からアルミニウムを作るのに必要なエネルギーの 90-95%を節約するので[3]」、営利事業として採算が取れるし、資源の節約になっていることに異論を唱える者はいない。しかし、プラスチックのリサイクルのような、赤字事業に関しては意見が分かれる。日本では、槌田敦が、1992年に『環境保護運動はどこが間違っているのか?』で、リサイクル批判をして、世間の注目を浴びた。その後、武田邦彦がリサイクル批判論者として有名になった。一本のPETボトルを石油から作るのに80グラムに相当するエネルギーしかかからないのに対して、リサイクルする場合は140グラムに相当するエネルギーが必要だから、リサイクルは無駄だと武田は主張するが、リサイクル業者は、バージン樹脂から新しくプラスチックを作る場合と比べて、マテリアル・リサイクルでは1/6のエネルギーですむと反論している[4]。米国でも、「リサイクルはごみだ[5]」という主張に対して「リサイクルはごみではない[6]」という反論が出されるなど、コストのかかるリサイクルには、どこでも賛否両論がある。
もしもプラスチックのリサイクルが本当に資源の節約になっているなら、「ペットボトル 13 本のリサイクルで石油約1 リットルの節約に[7]」なるというのなら、なぜプラスチックのリサイクル事業は赤字になるのか。プラスチックに限らず、一般的に言って、マテリアル・リサイクルでは、バージン素材から新規に作る場合よりも天然資源の投入量が少ないにもかかわらず、営利事業としては採算が取れない。
経済的コストは環境負荷と同じではないと言って、採算の取れないリサイクル事業を擁護する人もいる。たしかに、商品の価格は、物理的エントロピーのみならず、情報エントロピーにも基づいており、後者の要因が大きいなら、使用している物理的資源の大きさを示す指数ではなくなる。例えば、一億円の鉄鋼と一億円の絵画では、価格は同じでも、それを作り出すことが与える環境への影響は大きく異なる。
もっとも、これは一億円の鉄鋼と一億円の絵画だけを比較した場合の話である。一億円の値打ちのある絵画一点を生み出すためには、多くの画家の候補を育て、多くの失敗作を破棄しなければならないから、それらを計算に入れると、環境負荷は決して小さくはない。これに対して、鉄鋼は、誰が作っても同じである。こうしたウォーレン・バフェットが言う意味でのコモディティ化した商品は、市場原理が機能している時、原価ぎりぎりまで価格が引き下げられる。だから、その価格は、消費している物理的資源の量に比例していると見て大過がない。
リサイクル事業にも、ブランドによるプレミアム価値はない。ごみを輸送する時にそれをファーストクラスに乗せることはしないし、ごみの回収をする作業員に学歴が要求されることもない。ホームレスが空き缶の回収で得ている報酬は、ホームレスの生命を物理的に維持することができる程度の金額である。このように、リサイクル産業では、素材、輸送手段、作業員といったすべての生産要素がコモディティ化している。こうしたコモディティ化した産業では、経済的コストは使っている物理的資源を反映していることが多く、一般的に言って、金銭的に高くつくことは、それだけ環境負荷も高いとみなすことができる。
環境問題は外部不経済の問題であり、廃棄物処理は、たとえ採算が取れなくてもするべきだと主張して、リサイクルを擁護する人もいる。たしかにそうだが、外部不経済も経済的損失としてその量を貨幣で示すことができるのであって、経済的尺度を無視してよいという結論にはならない。私たちは、外部不経済を含めて、どの選択肢が最もコストが低いかを考えなければならない。だから、リサイクル事業の経済的コストは、環境問題を解決するという観点からも、無視できる問題ではない。
そこで、なぜ資源が節約できるはずのマテリアル・リサイクルが赤字になりうるのか、その理由を考えてみたい。理由は、主に二つある。一つには、マテリアル・リサイクルでできる製品は、バージン材料から新しく作る製品よりも品質が低いからであり、もう一つは、マテリアル・リサイクルには人手に頼る作業が多く、人件費が高くつくからである。
現在、化学的[8]あるいは機械的[9]方法で、PET ボトルを固有粘度(Intrinsic Viscosity)において元と同じ質の素材にリサイクルする技術が開発されているが、これは例外的なケースで、大半のマテリアル・リサイクルでは、リサイクルのたびに製品の質が低下する。例えば、バージン・パルプ紙の繊維はリサイクルする度に短くなってゆくため、3~5回程度しかリサイクルできない。リサイクルの優等生と言われるアルミ缶ですら、胴体と蓋では違う合金が使われているため、完全なリサイクルは不可能である。これは、マテリアル・リサイクルは、ごみを中途半端な分解で再製品化しているため、物のエントロピーの縮減が不徹底になるからだ。
だから、マテリアル・リサイクルは、リサイクルというよりも、製品のカスケード利用(Downcycling ダウンサイクリング)であり、リユースと完全なリサイクルとの中間に位置する資源の再利用方法と言った方が適切である。そして、品質が下がるなら、新しく作る製品よりも高く売れないのだから、たとえ新規の資源の投入量が少ないとしても、事業として赤字になることは当然ありうることである。
リサイクルで品質が低下することは、たんに採算に悪影響を与えるだけでなく、健康被害をもたらす可能性も増大させる。すなわち、リユースについても言えることだが、マテリアル・リサイクルでは、廃棄物に毒がしみこんでいても、リサイクルのプロセスでは除去されず、リサイクルすればするほど毒物が蓄積するという問題がある。例えば、大学などで毒物や劇物を保管している冷蔵庫も、家電リサイクル法により、リサイクルが義務付けられており、リサイクルしなければいけないのだが、プラスチックにしみこんだ毒物は、洗ったり、加工したりしても、除去できず、残存したまま、再生品の材料に使われる[10]。
廃物を液化もしくはガス化すれば、有毒物を検知して、取り除くことができるが、そこまでしないマテリアル・リサイクルでは、固体のまま再生品の材料にするために、最先端の機器を使っても検知できない。また、廃物は品質が画一的ではないから、抜き取り検査もできない。リサイクルをすると、その安全性が保証できないような商品が市中に流通することになる。布団などの綿製品のリサイクルの場合には、細菌やウィルスなどが残存したまま再生品の材料になる危険がある。綿も細菌やウィルスと性質が良く似ているので、綿製品を破壊せずに完全に消毒することはきわめて困難である。
毒も、人間から隔離して一箇所に集めておけば、無害である。しかし、毒が分散し、どこにあるかわからないという不確定性、すなわち情報エントロピーが増大すると、それは人間にとって危険な存在となる。リユースやマテリアル・リサイクルで危険なことは、その循環が、毒の情報エントロピーを縮小させるのではなくて、増大させるところにある。このエントロピーの大きさゆえに中古品やマテリアル・リサイクルの製品は、安値でしか売れない。
この点で、リサイクルの循環は、体液循環とは全く逆である。日本では、天然資源から製品を作る産業を「動脈産業」と呼ぶのに対して、リサイクル産業のことを「静脈産業」と言う慣行があるが、静脈は、ゴミを資源として再生したりはしない。静脈は、体中から回収した老廃物を肝臓へもっていき、そこで分解処理して、腎臓で濾過し、尿として排出する。リサイクルがゴミを資源にするための循環であるのに対して、体液循環は、ゴミを捨てるための循環であるという点で両者は異なる。ごみを文字通り一つも出さないゼロエミッション・リサイクルを実現しようとすることは、人体で喩えるならば、糞尿だけを摂取して生きていこうとするようなもので、 そのようなことを続ければ、体中が毒だらけになって、死んでしまう。同様に、ゼロエミッション・リサイクルを続ければ、社会に死をもたらすことになる。
経済的に成り立たないもう一つの理由は人件費である。マテリアル・リサイクルのためにはごみの分別が必要であり、一部自動化されつつあるとはいえ、基本的には人間の判断に依存することが多いので、どうしても人件費が高くつく。マテリアル・リサイクルは、赤字であっても、ライフサイクル・アセスメント(LCA = Life Cycle Assessment)で高い評価を受けるなら、環境負荷が低いと判断され、政府や自治体によって規制や補助金で優遇される。ライフサイクル・アセスメントとは、ある製品が天然資源から製造されてから最終的に処分されるまでの全段階を通じて、どれだけの資源が投入され、どれだけの排出物が排出されるかを計測することで、環境に与えられる影響を評価する手法[11]のことである。ところが、この手法には盲点があって、ライフサイクル・アセスメントでは人件費は計測の対象外となっている。このため、ライフサイクル・アセスメントで高評価であったとしても、人件費がかかるため、規制や補助金[12]がなければ事業が赤字になるという場合が出てくるのである。
ではなぜライフサイクル・アセスメントは、資源を消費し、環境に負荷を与えている人間を評価の対象外にしているのか。それは、日本 LCA 学会副会長の安井至によると、環境負荷を減らすために人を殺すことはできず、いくらリサイクル産業で人手を省いても、その生存を保障するために、どのみち雇用機会を与えなければならないから[13]とのことである。もしもこのような論理で、マテリアル・リサイクルを正当化しようとするなら、同じ論理でもって、マテリアル・リサイクルが無意味であることを証明することができる。すなわち、たとえマテリアル・リサイクルで資源を節約しても、余った資源を捨てることはできず、どのみちその資源は他の用途で使われるから、全体としては資源の節約にはならない。
資源の節約にならないどころか、むしろ資源の消費を増大するという主張もある。これは、19世紀の英国において、蒸気機関のエネルギー効率の向上により、石炭の消費は減るどころかむしろ増える[14]と指摘したジェヴォンズに因んで、ジェヴォンズのパラドックス(Jevons paradox)と呼ばれている。
蒸気機関の改良でも、リサイクルでも同じことだが、以下の図が示す通り、資源が効率的に使用されるようになると、資源の供給が過剰となり、単価が下落することで、資源の需要が増大し、資源の消費が増加する。人的資源に関しても、浪費を避けようと自動化を進展させると、供給過剰となると、賃金が下落して、人的資源の消費が、したがって生産の規模がかえって増えるというパラドックスが考えられる。
こうしたジェヴォンズのパラドックスが起きることを防ぐには、物的および人的資源の生産に税金を課すことで、その生産コストを高め、その結果として供給量を減らせばよい。一般的に言って、リサイクル事業に補助金を出すといった外部経済の内部化よりも、こうした外部不経済の内部化の方が、資源問題と環境問題を解決する上で好ましい。廃棄物処理における優先度の高さを示したヒエラルキーでも、廃棄物を減らすことが、リユースやリサイクルよりも上位に挙げられている。
安井は、環境負荷を減らすために人を殺すことはできないというが、少子化を進めることで人口を減らすことならできる。それはいったん作った資源を利用せずに捨てることはできないが、新規の資源採掘を減らすことならできるのと同じことである。外部不経済の内部化とそれがもたらす資源価格の上昇は、たんに消費の量を減らすだけでなく、資源の有効活用に対する経済的なインセンティブを高めることになる。
以上、物的資源と人的資源をパラレルに語ったが、人的資源は生産要素であるだけでなく、生産目的でもあることを考えるなら、人口を減らすことは、物の消費を減らすより先に取り組まなければいけない課題であると言える。ジェヴォンズのパラドックスも、当時人口が爆発的に増えていた英国において起きた現象である。人口が増え続ける限り、いくら資源を効率的に使うようになっても、全体の資源の消費量を減らすことは難しい。
リデュースがリユースやリサイクルよりも優先されると言っても、人口が増える中で物の資源の消費量を減らすなら、それは個々人の生活水準の切り下げを伴うので、政治的に受け入れがたい。これに対して、人口を減らすならば、一人あたりの資源の消費量を減らさなくてもすむので、政治的に受け入れやすくなる。幸い、先進国では少子化が進み、人口増加には歯止めがかかりつつある。科学技術の進歩に伴い、オートメーション化が進み、単純労働への需要が減り、人間の労働は専門職に限定されつつある。要求される教育水準の切り上げにより、人的資源の生産コストが高まり、提案したような税金をかけなくても、供給量が減少しているのである。このトレンドは、発展途上国においても実現しなければならない。
ところが、廃棄物の処理に関しては、先進国でも、このトレンドに逆行する動きが起きている。すべてがどんどん便利になっていく時代の流れとは逆に、ごみの捨て方は面倒になり、より人海戦術的な労働に依存するようになっているのである。廃棄物処理を行っている政府や自治体は、環境負荷を下げるという大義名分の下、ライフサイクル・アセスメントから人件費を除外し、人的資源を浪費しているが、人的資源を節約することこそ、環境負荷を下げる最も根本的な方法であることを認識するべきである。
3. サーマル・リサイクル
サーマル・リサイクルは、マテリアル・リサイクルよりも人手を必要としないリサイクル方法である。ごみを分別する必要はないというよりも、むしろ分別してはいけない。プラスチックや紙などの可燃性のごみが混ざっていないと燃料不足になって、燃えにくくなるからだ。
ごみの焼却処分の始まりは意外と新しいが、サーマル・リサイクルの始まりは意外と古い。最初の本格的な焼却炉が英国のノッティンガムに建造されたのは、1874年のことである[16]が、その熱を利用した高圧蒸気による発電は、1899年から行われている[17]。
サーマル・リサイクルには、マテリアル・リサイクルにはない利点がいくつかある。ごみを細かく分別回収するマテリアル・リサイクルの場合、回収する材料が特殊であればあるほど、処理施設の数は全国で少なくなり、回収場所から処理施設までの平均的な距離は長くなり、輸送ロスが大きくなる。だが、分別しなくてもよいサーマル・リサイクルの場合、狭い範囲で大量のごみが出るので、近くの施設で処分できる。灰を捨てるための輸送距離は長くなるかもしれないが、減量されているので、大きな負担にはならない。
また、マテリアル・リサイクルが産み出す資源は特殊なので、消費地までの距離は長くなるが、サーマル・リサイクルで生み出される資源、すなわち電気は汎用性があるので、それを、ごみを出す近くの需要地に供給することができる。原子力発電所とは異なり、人口密集地の近くにあるという利点を利用して、コジェネレーション(Cogeneration 熱電併給)も可能である。サーマル・リサイクルによる発電は、送電ロスを少なくした分散型発電の一つとして注目されている。
私は、リサイクルとは、熱のエントロピーを増大させることで物質散逸のエントロピーを縮減し、増大した熱のエントロピーを宇宙に捨てることで地球内における物質散逸のエントロピーを低く維持し続けることであると定義した。マテリアル・リサイクルがこの定義に合致していることは明白であるが、ごみを燃やすことで発電を行うサーマル・リサイクルは、マテリアル・リサイクルとは逆のことをしているように見える。すなわち、それは物のエントロピーを増やすことで、熱のエントロピーを縮減しているのである。
ごみを燃やせば、ごみはバラバラになる。つまり物のエントロピーは増大する。燃焼によって温度が上昇すれば、外界との温度格差は広がる。つまり熱的なエントロピーは縮減される。そして、熱機関の高温熱源と低温熱源の温度格差が大きければ大きいほど、熱効率は改善し、より多くの発電をすることができる。物のエントロピーを増やすことで電気を生産するサーマル・リサイクルは、明らかに、電気を消費することで物のエントロピーを縮減しているマテリアル・リサイクルとはやっていることが逆である。
それでも、サーマル・リサイクルは、リサイクルなのであり、それもマテリアル・リサイクルより徹底的なリサイクルを行うことができる。燃焼は、その温度が高ければ高いほど、より多くの元素をバラバラにする。そのこと自体は、たしかに物のエントロピーを増大させる。しかし、このエントロピーの一時的増大は、それを避けようとするマテリアル・リサイクルよりもむしろより徹底的なエントロピーの減少をもたらす。それは、時代錯誤になった社会システムを弥縫策で温存しようとするよりも、創造的破壊によって抜本的に刷新する方がより徹底的なエントロピーの減少をもたらすのと同じことである。統制経済よりも自由な市場経済の方が、社会的エントロピーは大きいが、その自由がイノベーションを促し、生産性を向上させるなら、統制経済よりもエントロピーを縮減することが可能になる。
ごみが有機物の場合、モノマーにまで解重合するといったラディカルな分解を行わない限り、マテリアル・リサイクルをしても、低品位の製品しかできない。しかし、燃やせば、それらは分子レベルで分解され、水と二酸化炭素になる。植物は、燃焼とは逆の反応である光合成により、水と二酸化炭素から有機物と酸素を作り出す。これは有機物の完全なリサイクルであり、私たちはその有機物から高品位の製品を作ることができる。だから、サーマル・リサイクルでは、マテリアル・リサイクルとは異なって「物質は永遠になくなってしまう」というリサイクリングエキスパートの考えは正しくない。
有機物のマテリアル・リサイクルと言っても、それは食料や木材の生産に留まらない。例えば、バイオマスからポリ乳酸などのバイオプラスチック を作ることも可能である。バイオプラスチックの多くは生分解性を持ち、分解の時期を調節することができるので、医療用インプラント、農業用マルチフィルム、包装材など、使い捨てあるいはコンポスト化可能なプラスチックとして使われている。他方で、生分解性を持たないバイオプラスチックも開発されている[18]。有機廃棄物を発酵させ、触媒技術により、メタンからベンゼンやナフタレンを合成し[19]、そこから燃料電池の原料である水素とプラスチックをはじめとする様々な化学製品を作ることもできる。石油や石炭も、自然の力によりバイオマスから新たに作られているので、消費量が少量なら、持続可能な使用ができる。
有機廃棄物をメタン発酵させることで処分することは古くからおこなわれてきた。発酵は燃焼と同じ酸化であり、発酵で発生するメタンの燃焼熱を利用することはサーマル・リサイクルの一つであるということができる。現在では、メタン発酵よりも全体の処理時間が短く、かつエネルギー回収率も高い水素・メタン二段発酵技術が開発されている[20]。発生する水素やメタンは燃料電池によって電気と水に変えられるし、発酵残滓はリンなどを含むので、有機肥料として利用することができる。食料廃棄物、農業廃棄物、屎尿など、水分を多く含んだ有機廃棄物は、今後、二段発酵で処分すればよい。
有機物は、焼却や発酵で完全にリサイクルされるが、金属の廃棄物は、一部の沸点が低いものを除けば、燃やしても気化せず、混合物のままスラグになる。スラグの再資源化を自然に任せると、何億年もかかるので、人為的手段で混合物を分離し、再資源化しなければならない。これがサーマル・リサイクルの課題である。
焼却によるサーマル・リサイクルの仕組みを具体的に見てみよう。以下の図は、エコメイン社(ecomaine.org)が設計した廃棄物発電所の一例である。この図で典型的に示されているように、廃棄物発電では、ごみを燃やし、ボイラーで熱回収して、過熱器で過熱蒸気を作り、その蒸気でタービンを回して発電する。その際、気化した飛灰と残存する焼却灰をそれぞれ別個に回収して、処分する。
従来、サーマル・リサイクルの問題として指摘されていたのが、焼却に伴って発生する PCDD や PCDF といったダイオキシン類である。ダイオキシン類が一部の動物に猛毒として作用することは実験により実証されている。ダイオキシン類の人体に対する毒性に関しては、まだよくわからないことも多いが、「ダイオキシンは猛毒であり、生殖と発達に障害をもたらし、免疫システムにダメージを与え、ホルモンに干渉し、癌を発生させる可能性がある[21]」というのが、WHO の見解である。用心するためにも、その発生をできるだけ抑制することが望ましい。
ダイオキシン類の発生を防ぐには、ごみを 800 ℃ 以上の高温で完全燃焼させなければいけない。また高温で分解しても、冷却プロセスが緩慢であるなら、デノボ合成(de novo synthesis)により新たに発生することが知られている。実験によると、PCDD や PCDF のデノボ合成の速度が最大になるのは、325 °C 付近と 400 °C 付近で 30 分以上反応した時である[22]。だから、デノボ合成を防ぐには、ごみを 800 ℃ 以上の高温で完全燃焼させた後、急速に 300 ℃ 以下にまで冷却させなければならない。ボイラーを通じて水を蒸発させ、気化熱を奪うことは、たんに発電に必要なだけでなく、焼却炉から出る燃焼ガスを急速に冷やし、デノボ合成を防ぐためにも必要なことなのである。
ごみを 800 ℃ 以上の高温で完全燃焼させた後、ボイラー管で 300 ℃ 以下にまで冷却させることにはもう一つのメリットがある。ボイラー管の管壁温度が320℃を超えると、プラスチックの燃焼で発生する塩化水素 (HCl) が管の鉄と反応して塩化鉄 (FeCl3) を生成し、ボイラー管の腐食を引き起こすのだが、800 ℃ 以上の炉内を流れる排ガス温度を、ボイラー管に供給する水量を調節することによって、外側表面温度を 150 ~ 320 ℃ に保てば、ボイラー管の腐食を防ぐことができる[23]。
従来、プラスチックなどの塩化有機物を焼却炉に入れると焼却炉が傷むという理由が、プラスチック類のごみを、焼却炉に送る「燃えるごみ」に混ぜずに「燃えないごみ」として分別したり、あるいはマテリアル・リサイクルのために分別回収したりすることを正当化してきた。しかし、現代の廃棄物発電は、この問題を既に解決しており、マテリアル・リサイクルでは採算がとれないようなプラスチック類は「燃えるごみ」に混ぜて捨てる方が望ましい。
なお、ボイラー管の外側表面温度を 300 ℃ 以下にすると、発電効率は 10 % 前後ときわめて低いので、発電効率を上げるために、320 ℃ 以上の高温でも塩化水素による腐食に耐えられる耐熱耐食合金(例えば、高ニッケル高クロムのステンレス鋼、SUS310)を使う試みがなされているが、ダイオキシン類のデノボ合成を惹き起こすので、好ましくない。廃棄物発電の効率を上げたいのなら、廃棄物発電に火力発電で使われているガスタービン発電を組み合わせ、ゴミ焼却により得られた蒸気の温度をガスタービンからの高温排熱で高めればよい。この複合型発電システムは「スーパーごみ発電」と呼ばれ、発電効率を 30 % 程度にまで引き上げ、廃棄物発電と火力発電を別々に稼働させるよりも多くの電気を生み出す。また、既に述べたとおり、コジェネレーションを採用することで、エネルギー効率をさらに高めることができる。
ごみを 800 ℃ 以上の高温で完全燃焼させると、水や二酸化炭素以外にも、様々な物質が気化する。その中には有害な物質もある。有害な物質の代表は、水銀、ヒ素、カドミウム、鉛、スズなどの重金属である。一気圧下での沸点は、水銀が 357 ℃、ヒ素が 613 ℃、カドミウムが 767 ℃で、これらは 800 ℃ 以上で気化するため、飛灰に含まれるが、鉛の沸点は 1750 ℃、スズの沸点は 2603 ℃ で、これらは主として焼却灰に含まれる。ごみに大量に含まれる金属は、鉄、アルミ、銅であるが、沸点はそれぞれ、2862 °C、2519 °C、2562 °C であり、大部分は焼却灰に含まれる。
飛灰は、有毒な金属の溶出を防ぐために処理剤を加えて固形物にされ、管理型最終処分場に埋め立て処分される。これに対して、スラグとして残存する焼却灰は、組成が岩石に近く、比較的安全なため、路盤材やコンクリート用骨材として再利用されている。しかし、沸点が高く気化しきれなかった有害な金属が依然として含まれている。安全性の問題とともに、資源の持続的利用という点でも、従来型のサーマル・リサイクルには問題がある。金属をエントロピーが高いまま埋めてしまうと、それが再び利用可能になるまで途方も長い年月がかかる。金属を再利用するにはどうすればよいかを次に考えてみたい。
4. ハイブリッド・リサイクル
現在実用化されている最先端のサーマル・リサイクルは、ガス化溶融炉によって行われている。ガス化溶融とは、低酸素濃度の還元雰囲気下で廃棄物を可燃性ガスと未燃分へと熱分解し、金属を還元された状態で回収しつつ、残りの未燃分を可燃性ガスで完全燃焼させ、その熱で発電を行う廃棄物処理方法である。1970 年代の石油危機をきっかけに、廃棄物の資源化のニーズが高まり、数種類のガス化溶融方式が開発され、2000年以降普及するようになった[24]。
サーマル・リサイクルでは、焼却であれ、発酵であれ、廃棄物は酸化される。しかし、ガス化溶融炉では、サーマル・リサイクルで酸化する前に、酸化とは逆の反応である還元を行う。錆びているなど、化合物を形成している金属は陽イオンなので、還元、すなわち、電子を付与されることで、金属廃棄物は単体に還元され、再商品化される。ガス化溶融炉は、サーマル・リサイクルのみならず、マテリアル・リサイクルも行っており、その意味でハイブリッド・リサイクルと名付けることができる。ガス化炉を「偽装された焼却炉[25]」と呼んで非難する人もいるが、少なくともガス化炉がやっていることは、焼却炉がやっていることは全く逆である。
これまでも、ケミカル・リサイクル(原料リサイクル)の一つとして、廃プラスチックを高炉で製鉄するための還元剤として使われることがあったが、ハイブリッド・リサイクルでは、プラスチックをそのためにわざわざ分別しなくてもよく、一緒にごみの中に混入している金属の還元のために使われるので、より人手のかからないリサイクル方法であるということができる。
ガス化溶融炉には、シャフト方式、キルン方式、流動床式など、いろいろな方式がある。シャフト方式は外部からの燃料(コークス)の投入が必要であるため、運転コストが高く、また、スラグ成分のみならず金属成分も溶融メタルとして回収するため、金属単体の分離ができない。キルン方式は技術的に未熟であり、製造元であるシーメンスは、ガス漏れ事故を起こし、既にキルン方式から撤退している。これに対して、流動床式のガス化溶融炉は、シャフト方式とは異なって外部からの燃料投入が不要であり、マテリアル・リサイクルに優れている。また、キルン方式とは異なって、流動床式ガス化炉と旋回流溶融炉という長年の実績がある既存の技術を組み合わせているので、比較的事故が少ない。
もちろん、それは全く事故を起こさないということはない。どんな技術開発でも、黎明期には事故はつきものだ。しかし、それはガス化溶融炉の開発を否定する理由にはならない。そもそもマテリアル・リサイクルでも、異物の除去を手作業で行っているため、ビニール袋の中に入っている剃刀など鋭利な廃棄物で作業員が手を負傷するといった事故は頻繁に起きている。絶対に安全な廃棄物処理方法というものはないのである。
現時点では、流動床式ガス化溶融炉が最良のようである。そこでその仕組みを具体的に見てみよう。以下の図にあるように、ガス化溶融炉は、ごみを受け入れ、それを炉に供給する設備、流動床式ガス化炉と旋回流溶融炉からなる燃焼設備、ボイラーによって排ガスを冷却し、エネルギー回収を行う設備、排ガスを処理する設備から成り立っている。
以下の図は、流動床式ガス化溶融炉における物質とエネルギーの流れを示した図である。これを用いて、プロセスを詳しく説明しよう。
まず、廃棄物は、600 ~ 800 °C 程度の温度に保たれた砂が床で旋回流動するガス化炉の中に投入される。廃棄物は流動媒体に破砕されながら効率良く加熱されるので、破砕など前処理を簡素化することができる。廃棄物中の有機物は、低酸素状態の中、水素や一酸化炭素などの可燃性ガス(syngas = synthesis gas)と炭状のチャーに熱分解される。典型的な反応は、炭素と水蒸気が反応して一酸化炭素と水素を作り出す反応である。
C + H2O → H2 + CO
これら水素や一酸化炭素などによって還元された金属は、流動媒体である砂との比重差により、他の廃棄物の成分から分離して沈み、ガス化炉の底から砂に磨かれた状態で取り出される。
ガス化によるマテリアル・リサイクルは、ごみに多く含まれている鉄、アルミ、銅などのメジャー・メタルの回収にふさわしい。これらは、その用途の広さゆえに、単体の方が、市場で高く売れるからだ。これに対して、用途が限定されるマイナー・メタル(所謂レアメタル)の場合、単体に還元するよりも、化合物あるいは合金のままマテリアル・リサイクルした方がよい。例えば、コバルトはコバルト酸リチウムという化合物の形で、ネオジムはネオジム磁石という合金の形で使われるし、その形態の方が単体よりも市場価格は高く、それらは業者によって自主的に回収されている。だから、ハイブリッド・リサイクルをするからと言って、従来型のマテリアル・リサイクルやリユースが完全に不要になるということはない。
ガス化後、残りの廃棄物と可燃性ガスは、空気が十分に供給されている溶融炉に送り込まれ、1200 ℃ 以上の高温で可燃性ガスによって完全燃焼する。溶融炉内では旋回流が形成され、廃棄物の灰は旋回による遠心力で壁面にぶつかり、溶融状態のスラグになって壁面を流下する。溶融炉内は 1200 ℃ 以上の高温であるが、壁面をスラグがコーティングするので、溶融炉の耐久性を高める。これも一種のマテリアル・リサイクルである。流下した溶融状態のスラグは溶融炉下部から出滓し、アスファルト混合材やインターブロック用混合材などの土木資材として利用されている。
ダイオキシン類の生成やボイラーの腐食の原因となる塩素は、ガス化炉内部でチャーに固定される。ガス化炉内での脱塩素化のおかげで、溶融炉ではダイオキシン類の発生が抑制される。たとえ生成しても、1200 ℃ 以上の高温により完全に分解される。また、デノボ合成の触媒となる銅やコバルトは、ガス化炉の金属あるいは溶融炉のスラグとして大部分が取り除かれているので、冷却時でのデノボ合成も抑制される。脱塩素化は、ボイラーの腐食防止にも貢献している。従来材のボイラーで蒸気の温度を高めることができるので、高効率発電が可能である。
溶融飛灰には有害物質が含まれている。そこで、バグフィルタで集塵した後、二酸化炭素や水蒸気といった無害な排ガスを煙突から放出する。一般の焼却炉と同様に、集塵した溶融飛灰は、無毒化処分を行った後、埋め立て処分されるのだが、溶融飛灰は、ごみの 2-3 % 程度の量しかないとはいえ、金属によっては天然鉱石よりも含有率が高い場合もあるため、資源の有効利用という観点から、山元還元、すなわち金属を分離回収し、再利用することが試みられている。山元還元の方法としては、溶媒抽出法、浸出・溶解法、中和沈殿法、硫化物沈殿法、セメンテーション法などの湿式処理方法、熱プラズマ、還元揮発、真空揮発、塩化揮発などの乾式処理方法が提案されている。これらはまだ開発中の技術であり、どれが最も良い方法かに関してはまだ結論が出ていない。
山元還元の試みに対して、水銀、ヒ素、カドミウム、鉛、スズ、アンチモンといった有害な金属は、今後の生産に用いるべきではないのだから、リサイクルする必要はないという考えもあるだろう。実際、これらの有害金属を使わなくてもよいように、代替金属の開発が進んでいる。しかし、溶融飛灰には、例えば亜鉛のような無害で有用な金属も含まれている。亜鉛の沸点は、907 °C と低いので、溶融炉では気化し、溶融飛灰に比較的高い濃度で含まれている。亜鉛は、金、銀、銅、鉛、スズ、アンチモンなどとともに、近い将来(2050年頃)枯渇が予想される金属である。鉛、スズ、アンチモンは有毒なので、再資源化する必要はないが、亜鉛は山元還元する方法を考えるに値する金属である。溶融飛灰の山元還元をどのような方法で実現するかが、ガス化溶融炉によるハイブリッド・リサイクルに残された課題である。
以上、ガス化溶融炉によるハイブリッド・リサイクルを説明した。ごみに含まれる有機物は、最初は還元剤として使用され、次に燃料として使用された後に、水と二酸化炭素に分解されて、空気中に放出され、植物によってふたたび有機物にリサイクルされる。金属は、ガス化炉で還元され、マテリアル・リサイクルされる。場合によっては、溶融飛灰も山元還元される。溶融スラグの成分は、SiO2, Al2O3, CaO など、岩石の成分に近く、どの元素も地殻中に豊富に存在し、希少価値がないので、建築資材としての利用で十分である。
ここで、リサイクリングエキスパートによる常識的なサーマル・リサイクル批判を再検討してみよう。従来のリサイクルは、循環のたびに品質が低下するダウンサイクルである。これに対して、ガス化溶融炉で行われているサーマル・リサイクルは、より根本的な分解をすることで、品質を低下させないマテリアル・リサイクルを可能にする。つまり、私たちが本物と思っているマテリアル・リサイクルは偽物のリサイクルで、私たちが偽物思っているサーマル・リサイクルの方が本物のリサイクルということなのである。
リサイクリングエキスパートは、燃やした後にできる灰には汚染物質が濃縮されているかもしれないという問題を指摘しているが、濃縮されているということはエントロピーが小さくなっているということであって、濃縮されている方が処分する上で都合が良い。リユースや中途半端なマテリアル・リサイクルがやるように、中古素材を使いまわすと、そこに混入した汚染物質が商品とともに拡散してエントロピーが増大するので、かえって困ったことになる。
5. リサイクルでの政府の役割
現在、ほとんどの先進国で、政府や自治体が規制や補助金などの手段でリサイクル事業を推進している。それは、営利企業に自由に営利を追求させ、消費者に欲望が赴くままに消費活動をさせると、資源が浪費されるので、資源を守るためには、政府が営利を度外視した公共性重視のリサイクル事業を実行しなければならないという前提による。営利を追求する欲望の肯定ではなく、その否定こそが資源を守るというのが現代の常識だ。だから、話が資源問題となると、人々は禁欲主義的な道徳家気取りとなり、政府による市場経済への介入が公然と支持されるようになる。
しかし、リサイクルを推進する上で重要なのは、本当に営利を追求する欲望の否定であって、肯定ではないのか。実は人々が環境に目覚めるよりもずっと前から、リサイクルは行われていた。特に前近代社会では、現代よりも徹底的に資源が再利用されていた。もとよりそれは、人々が地球を守るといったような崇高な道徳的理念を抱いていたからではない。当時は生産力が低く、資源が入手困難であったから、様々な資源の再利用法が工夫されていたのだ。つまり、この時代のリサイクルは、「資源をもっと消費したい」という欲望の肯定によって行われていたのであって、そうした欲望を否定する「資源をもっと節約するべきだ」という道徳的責務によって推進されていたのではなかった。それでも、生産力の低さゆえに、道徳的規範がなくても、資源の消費量には限度があった。
産業革命が起きると、人類の生産力は飛躍的に増大し、大量生産、大量消費、大量廃棄の時代が到来する。しかし、公害の多発や石油危機をきっかけに、環境破壊や資源の枯渇が社会的な関心となった 1970 年代以降、リサイクルを推進しようとする市民運動が起きた。この運動を先導した市民活動家たちは、反資本主義的、反市場経済的なイデオロギーの持ち主で、営利企業にも営利に反するリサイクル事業をさせなければならないと考えていた。こうした考えを持つ人たちがリベラルな政治家に働きかけ、その結果、政府がリサイクルを規制で義務付けたり、補助金で誘導したりする「循環型社会」が誕生した。だから、現代の官製リサイクル事業は、前近代社会で行われていた営利を追求するリサイクルとは異なり、営利を否定するリサイクルとなったのである。
しかし、資源問題と環境問題を解決する上で、市場経済での営利の追求を敵視することは適切ではない。なぜなら、既に述べたとおり、コストと環境負荷には密接な関係があり、コストを削減して、利益を出そうとする営利企業の努力は、資源の節約に貢献するからである。むしろ、政府が、資源の節約になると思い込んでいる理想を、コストを度外視して実現しようとすると、実際には資源の節約にならないようなリサイクルが強制的に実行され続けるという弊害が生じる。私が特に問題と思うのは、政府が、天然資源の節約にばかり邁進し、人的資源の浪費に無頓着になっていることである。否、それどころか、政府はリサイクルの推進で雇用が増えたと言って、人的資源の浪費を自慢すらしている。
市場原理のもと営利を追求する企業にとって、人的資源は、天然資源とともに節約に努めなければいけないコストである。また他社との競争に勝つために、顧客の満足度を高めなければならない。そこで、企業は、人件費を最小にし、顧客の利便性を最大にするように進化を遂げてきた。ところが、政府主導のリサイクル産業は、これとは逆の方向に進んでいる。政府にとって、人件費は、雇用の拡大という大義名分のもと増やすことが正当化できるコストであるし、住民の労働は、法律で強制することでタダでいくらでも使える資源である。その結果、政府は人海戦術的なリサイクル産業を肥大化させ、住民には不便な方法を強要するようになったのである。
政府がリサイクルを強制する以前、廃棄物処理はそれほど人手のかかる仕事ではなかったし、住民にとってもごみを捨てることはそれほど骨の折れる作業ではなかった。以下の写真は、かつて日本の自治体が廃棄物回収のために設置していた「ダストボックス」と呼ばれるごみ箱である。
市民は、24時間365日、いつでもごみをこの鉄のコンテナの中に捨てることができた。ごみの回収車は、コンテナの屋根の中央に付いているフックをクレーンの鍵爪で引っ掛けて吊り上げ、作業員が底に付いているレバーを引くと、底面が開いて、ごみが回収車に投入された。異臭を放つとか、野良猫やカラスがゴミを漁るとかいった問題も起きなかった。
ところが、リサイクルのためのごみの分別が推進されるようになると、ダストボックスは時代の流れにそぐわないと非難を浴びるようになった。鉄の不透明な箱だと、中にごみが不法投棄されていても外部からはわからない。そこで、現代の日本では、以下の写真にあるように、ごみは透明な袋に入れ、外部から中身がわかるように捨てなければならないようになった。
ネットが被されていても、これでは野良猫やカラスがゴミを漁ることは防げない。長時間放置すると周囲に悪臭が漂うこともあって、ごみは回収直前の指定された日時にしか捨てられないようになった。これまでのように出かけるついでに捨てるということもできなくなった。ごみ置き場の清掃は、ごみの分別、資源ごみの洗浄、自治体指定の有料袋による包装とともに、地域住民の義務となっている。
ごみの回収作業員にとっても作業は面倒になった。ごみ袋を一つ一つ手でつかんで、回収車に放り込まなければならないのだ。たくさんの作業員が必要であり、また作業中にごみ袋の中に入っている鋭利なもので手を負傷するという事故も頻発している。ダストボックスの時と比べて、明らかに不便で原始的なやり方に後退している。
たとえ面倒であっても、持続可能な資源の利用をリサイクルによって可能にするためには、ごみの分別は必要ではないのかと反論する人もいるだろう。しかし、ガス化溶融炉の実用化により、人間が手作業で分別とリサイクルをしなくても、自動的に分別とリサイクルをすることが可能となった。もはや、ごみを分別し、資源ごみを洗浄し、透明な袋に詰め、指定した日時に持っていく必要はない。いつでもごみを分別せずにダストボックスに放り込めばよいのだ。
もちろん、ごみを分別する必要がなくなったと言っても、放射性廃棄物のような特殊な有毒物を含むごみは別である[26]。また、屎尿や農業廃棄物は、既に述べたような発酵によってサーマル・リサイクルすればよい。これらのごみは、まとまって出るので、分別が面倒ということはない。そうした場合を除けば、都市部で出る廃棄物は、家庭や事務所から出る一般廃棄物と工場や病院から出る産業廃棄物を区別することなく、その大部分をすべてまとめてガス化溶融炉で処分し、ハイブリッド・リサイクルをすることができる。
もとより私は、従来型のマテリアル・リサイクルをすべて否定するつもりはない。しかし、資源の節約にならないリサイクルを淘汰するためにも、政府が規制や補助金などの手段で保護することは止めるべきだ。もしもマテリアル・リサイクルが本当に資源の節約に貢献するなら、節約した分をリサイクル資源の提供者に金銭で還元できるはずだ。実際、デポジット制によるガラス瓶の再利用にせよ、チリ紙との交換による新聞紙の回収にせよ、リユースやリサイクルは市場原理で成り立っていた。今でも、例えば、携帯機器のリサイクルは、採算が取れるので、業者によって自主的に行われている。政府が介入しなくても成り立つリサイクルは健全なリサイクルである。
一般的に言って、政府は経済活動を監視する存在であって、自ら経済活動をするべきではない。経済活動は原則として市場原理に委ね、政府は、政府でなければできない仕事だけをすればよい。廃棄物処理に関しても、黒字化可能なリユースやリサイクルは民間に任せ、民間では採算が取れない廃棄物の最終処分だけをすればよい。政府が規制や補助金でリサイクルを強制すると、人々は資源を節約するにはどうすればよいかを自分で考えなくなり、補助金を手にするにはどうすればよいかということしか考えないようになる。これでは民間の知恵と工夫を生かすことができない。
政府が民間で行われるリユースやリサイクルを促進する上でするべきことは、規制や補助金によるリユース/リサイクル事業への直接介入でもなければ、「地球を救え」だの「子供たちに明るい未来を」だのといったキャッチフレーズで啓蒙活動して、営利追求を否定する利他心を人々に涵養させることでもなく、既に提案したように、外部不経済を内部化すること、すなわち、廃棄物の最終処分にかかるコストを資源の価格に税として上乗せすることである。資源に課税しても、補助金を減らすなら、他の税を減らすことができるので、納税者には負担増にならない。資源の価格が上昇すれば、人々は、資源を節約するにはどうすればよいかを考えるようになり、民間の知恵と工夫を生かすことができるようになる。
もちろん、政府が引き受けざるを得ない廃棄物の最終処理にも、民間の知恵と工夫を生かすことが必要である。ここでは、実用化されている最先端の方法として、流動床式ガス化溶融炉によるハイブリッド・リサイクルを紹介したが、これも決定版と言えるほどの技術ではなく、克服するべき課題がまだある。ハイブリッド・リサイクルのイノベーションを促進するためにも、PFI(Private Finance Initiative 民間資金活用による社会資本整備)の手法を取り入れ、廃棄物の最終処分方法を進化させるべく、技術と経営の両面において、民間の知恵と工夫を生かすことができるようにしなければならない。
民間の知恵と工夫を生かすためには、営利を追求する利己心が市場メカニズムを通じて公益を帰結する制度を作ればよい。営利を追求する利己心は人間本性であり、人間本性に逆らった不自然な制度は、道徳的に美しくても、長続きしない。「文明の長期的な持続可能性のために、欲望を抑制せよ」と説教を垂れて言うことを聞く人がどれだけいるだろうか。みんな目先の利益の追求に忙しいのだ。それが現実なら、その現実をそのまま肯定して、それをうまく活用する制度を作ればよい。人間本性を肯定する制度は自然だから、長続きする。持続可能性を実現する欲望は、欲望自体の持続可能性があって初めて実現する。
リユースやリサイクルよりも優先順序が高いのが、リデュースであった。従来のごみ行政は、ごみを捨てにくくすることで、ごみの量を減らそうとしてきた。しかし、分別のルールを複雑にするとか、ごみを有料化するとかいった方法でごみを捨てにくくしても、ごみの不法投棄が増えるだけで、不法投棄分を含めたごみの総量が減ることはない。また、不法投棄が増えると、それを防ぐための監視コストが増加する。いくらリユースやリサイクルを推奨したところで、物を大量に作れば、それは最終的には必ずごみになるのだから、ごみの総量を減らし、不法投棄をなくそうとするなら、ごみとなって出ていく出口の敷居を高くするのではなくて、物が作られて入ってくる入り口の敷居を高くするべきである。
それなのに、なぜ従来の行政は、出口の敷居を高くして、入り口の敷居を低いまま放置したのか。それは、政治家というものは、資源価格の上昇が国民生活を苦しめ、消費を悪化させ、景気を後退させることを懸念して、資源価格ができるだけ上がらないように努めるものだからだ。実際、どの国でも、エネルギーの安定供給のために公的資金を投入したり、リサイクル事業に補助金を出したりして、資源価格を低めている。資源価格が下がれば下がるほど、資源は浪費されるのだが、このことに多くの人は気が付かない。他方で、ごみの分別回収の徹底やごみの有料化は、国民や企業に大きな負担を強いるにもかかわらず、それを実施した政治家は「環境問題に熱心な政治家」として高く評価される。不満を口にすると「お前にはモラルがあるのか」と周囲から白い目で見られるので、国民も反対しにくい。これが、入り口の敷居が低いまま、出口の敷居ばかりが高くなる理由である。
もしも人々に高い公共意識と利他の精神があるなら、資源価格がいくら安くても、資源の枯渇を防ぐために、それを大切に使用し、ごみを処分するコストがいくら高くても、他人に迷惑をかけないように、ごみを捨てる時にその全額を払うだろう。しかし、実際には、資源価格が下がれば下がるほど、資源の浪費が増えるし、ごみを捨てるコストが高くなればなるほど、不法投棄が増える。この現実をよく認識したうえで、国民は、入り口の敷居を高くし、出口の敷居を低くする現実的な政策を掲げる政治家を選ぶべきなのだ。
入り口の敷居を高くしなければならないのは、天然資源の生産のみならず、人的資源の生産にも当てはまることである。先進国では、既に少子化が進んでいるが、途上国では、相変わらず人口が増えている。人口増加を抑制し、さらには人口を減らすには、育児や教育にかかる公的費用を、出産前に課金すればよい。すなわち、結婚と出産に際して、生まれる子供の将来を保証する保険に加入することを義務付けることで、結婚と出産の入り口の敷居を高くすればよい。導入を先進国が途上国を支援する条件とすれば、この制度は普及するだろう。この制度は、たんに人口を減らす効果があるだけでなく、生まれてくる子供の教育水準を高める効果がある。
現在、米国では、学歴格差による所得格差が年々広がっているが、この傾向は遅かれ早かれ全世界に広がっていくだろう。オートメーション化の進展に伴って、単純労働の需要が減り、高度な知識を必要とする専門職では人手不足が続いている。多くの子供を産んで、人海戦術的な労働をさせるよりも、少なく産んで、希少な教育資源を集中的に投下する方が、生産性が高くなる。一人あたりの資源消費量を減らさなくても、人口が減れば全体の資源消費量を減らすことができるし、人材の教育水準が高くなれば、資源を節約する技術も発展する。従来、資源問題と環境問題に対して、環境よりも豊かさを重視するか、それとも豊かさよりも環境を重視するかという不毛な二者択一が論じられてきた。私たちが選ぶべきは、資源問題と環境問題を解決しつつ、個人単位での豊かさを維持するという第三の道である。
6. 参照情報
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- ↑Drstuey, Stannered. “The waste hierarchy." 2006-08-17, 2008-02-07. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑“Recycling aluminum saves 90-95 percent of the energy needed to make aluminum from bauxite ore."
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- ↑日本では、容器包装リサイクル法(容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律)第二十三条により、特定事業者に容器をリサイクルすることが義務付けられている。リサイクル義務は、リサイクル業者に再商品化実施委託料や拠出委託料を支払うことで代行できるが、この場合、特定業者にとって委託料は事実上の税金であり、リサイクル業者にとっては事実上の補助金である。
- ↑“人間の生存が環境負荷を掛けていること、これはすべての人の共通的理解である。食糧は食べるし、排泄はするし、エネルギーは使うし、ということだからね。でも、それでは、環境負荷を減らすために、人を殺すことはできるのか。そんなことはできない。となれば、生存を保障するために雇用機会を与えることは必須だ。" 安井至. “反リサイクル論の誤謬." 09.02.2000.
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- ↑“Besides the known maximum of formation of PCDD/Fs around 325 °C generally found on experiments with incinerator fly ash, a second maximum of formation around 400 °C is observed on the sinter fly ash used in this study. DSC measurements on the fly ash show that the oxidative degradation of carbon appears at these two different temperatures confirming that the de novo synthesis on this kind of fly ash take place at two different optimum temperatures. About the reaction time, already after 30 min, an important quantity of PCDD/Fs is formed; the fast increase in PCDD/Fs amount is followed by a slower formation rate between 2 and 4 h." Xhrouet, Céline, Catherine Pirard, and Edwin De Pauw. “De novo synthesis of polychlorinated dibenzo-p-dioxins and dibenzofurans on fly ash from a sintering process." Environmental science & technology 35.8 (2001): 1616-1623.
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- ↑1968年に起こったカネミ油症事件をきっかけに、日本では、1975年にポリ塩化ビフェニル (PCB) を含む製品の製造と輸入が原則禁止された。しかし、今でもポリ塩化ビフェニルを含む廃棄物が出ている。ポリ塩化ビフェニルは、微量なら流動床式ガス化溶融炉で処理できるが、高濃度に含む製品の場合、プラズマ溶融分解炉を使うなど、特別の処置が必要である。これ以外にも、有毒物質を高濃度に含む廃棄物は、溶融不適物とされ、除外されているが、生産段階での排除が進んでいるので、今後は分別の必要性はなくなるだろう。
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コメント一覧
リサイクルの全貌を俯瞰しながら経済原理的に現実的な提案をされており、広く読まれるべき論考であると思いました。
しかしながら、経済合理性のある案が政治的に実現されない点が我が国の病巣の根元であり、その点を打破するための方策がありましたら是非お聞かせいただきたく思います。
遅かれ早かれ、日本の財政は破綻するのでいずれ経済合理的な政策をとらざるを得ないと思いますが、そうなる前に対策をとることは可能でしょうか。
ソ連崩壊後のロシアでそうなったように、経済が破綻すれば、環境に対する負荷は減ります。日本が将来財政破綻をするかどうかという話は措くとしても、経済の崩壊による環境負荷の低減は望ましいことではなく、本文に書いたように、私たちは現在の豊かさと持続可能性の両方を追求しなければなりません。
日本は、民主主義政治と市場経済を採用している国なので、有権者の選択が政治のあり方を決めるし、消費者の行動が企業のあり方を決めます。持続可能な社会を実現するためには、迂遠な方法のように思えるかもしれなせんが、まず、有権者であり、消費者である一般の国民が正しい認識を持たなければなりません。
企業が「環境にやさしい製品」といったキャッチコピーを使うのは、イメージ戦略だけのためのこともありますし、政治家が「ゼロ・エミッション」を公約に掲げるのも、たんに印象を良くしようとするためだけであったりします。本当に持続可能性の実現に有効なのか、それとも見せ掛けだけのものなのかを、国民が見抜くことができるかどうかが重要なのです。
重厚な考察で、すべては理解できてないのですが興味深く読みました。一つ疑問として残ったのは、手作業による選別が必要=人的資源を節約できないゴミ分別システムは、環境負荷を増加させてしまうというご指摘ですが、この点をもう少し噛み砕いて説明して頂くことはできるでしょうか?私個人としては、人間自身の手作業や歩行での移動が、エンジン駆動の機械・装置を使うよりもエントロピーの増加も少ない気がして自然環境にも良いのでないかと予想しています。経済成長の観点からは、何かと人力作業に頼るのは良くないかと思いますが。。。地球生態系、エントロピーの観点から、手作業分別は(家庭のゴミ捨て時にも行うわけですが)悪いと論証できるでしょうか?私も基本的にはリサイクルよりリデュースに期待はしています。
たしかに一人の人間がリサイクル作業に従事している間に消費するエネルギーや増大させるエントロピー自体は小さなものです。しかし、人間の場合、機械のように、仕事をしていない時は電源を切って休ませ、エネルギーの消費/エントロピーの増大を停止させるということはできません。そのようなことをすると、人間は死んでしまい、機械のように再稼働させることができなくなってしまいます。だから、仕事外の時間を含めてトータルで計算すると、人間の方が機械よりもエネルギーの消費/エントロピーの増大が大きくなるというのが普通なのです。一般的に言って、機械ができる仕事を人間にやらせるとコストが高くつきます。そしてその理由は、人間と機械との間にあるそうした違いに求めることができます。