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マルチメディアがもたらす私たちの暮らしの変革

1998年3月30日

政治システムであれ、経済システムであれ、文化システムであれ、従来のヒエラルヒー型社会の上下を差異化してきたものは、《たんなる中間情報媒介業》の高コスト性である。インターネットは《たんなる中間情報媒介業》を極めて低価格で時間がかからないものにし、こうしたピラミッド型社会の弊害を取り除いてくれる。

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1. マルチメディアがもたらす私たちの暮らしの変革

パソコンを始めとする一連の通信機器の目覚しい発達は、たんに便利になったという以上の構造的変革を社会にもたらす。現在世界は、人類史上第三の革命である情報革命によって、工業社会から情報社会へ移行しつつあるのだが、このマルチメディアによる情報革命は、一方向のヒエラルヒー型社会を双方向のネットワーク型社会にする。

工業社会では個人は機械の部品のようにヒエラルキー型の組織に埋没し、そして組織は画一的な製品(人間を含めて)を大量に生産する。個人は自分の判断で行為することなく、ただ組織の論理に従えばよいのであり、また組織の外部とコミュニケーションする必要もない。自由はないが、その代わり組織内部での安定した地位が保証される。

情報社会では、他人と同じ物を大量に生産しても評価されない。独創的生産によって希少価値を生み出さなければならない。個人は組織に対して自立性を持ち、他の個人と緩やかなネットワークを形成して、双方向のコミュニケーションを行う。個人の地位は不安定ではあるが、それは自由と多様性の代償である。世界最先進国である合衆国では、すでにこうした社会になりつつある。もしヒエラルヒー型社会からネットワーク型社会へという世界の潮流に乗り遅れたなら、日本は世界の後進国となるであろう。

ヒエラルヒー型社会は、農業革命(食料生産革命)によって登場し、工業革命(産業革命)以後の近代化の中で、ヒエラルヒー内部は流動化しつつあるものの、ヒエラルヒーそのものは依然として残存している。このエッセーでは、一方向のヒエラルヒー型工業社会から双方向のネットワーク型情報社会への改革に論点を絞って、1.政治システム、2.経済システム、3.文化システムの構造変革の必要性を順に論じたい。

1.1. 政治システムの構造変革

かつての日本語では、「知る」は「支配する」を意味した。その名残は「知事」などの言葉に見られる。実際「知っている」ということは「できる」ということであり、認識と権力は深い関係にある。だから、モノメディアからマルチメディアへの移行は、モノパワーからマルチパワーへの移行に対応しているといえる。

前近代社会では、支配階級と被支配階級との間の権力関係は、双方向ではなく、上から下へ一方向であった。近代からポスト近代へと時代が成熟していくにつれて、一方向のヒエラルヒーから双方向のネットワークへと社会の在り方は変化していくのだが、この視点からすれば、近代議会制民主主義は、完全に双方向な政治ネットワークへの過渡的形態であるといえる。代議士は選挙民の意志を代表していることになっているのだが、しばしば特定業界や特定地域の利害しか代弁していないといった弊害が指摘される。現代の日本人の間でも、自分達が政治に参加できるという意識は希薄であるし、だからこそ投票率も低下していくわけである。

この政治不信と政治的無関心の問題を解決するには、代議士は、インターネットを用いて国民と双方向のコミュニケーションを行わなければならない。一方で支持団体以外からも政策と法案を公募することが、他方で法案の可決に有権者の判断を仰ぐことが必要である。後者に関しては、衆議院との差がほとんどなくなった参議院を廃止し、国民投票で以ってその機能を代替させることを提案したい。国民投票とは人の選挙ではなく、法律の選挙なのであるから、国民の政治参加は間接的ではなく、直接的になる。国民の政治に対する関心は必ず高まる。

これまで直接民主主義の導入は、一つには技術的理由、もう一つにはイデオロギー的な理由によって反対されてきた。国民投票の技術的困難さは、今やインターネットによって克服されつつある。パスワードの制度を確立すれば、有権者をアイデンティファイできるし、有権者は投票に際して、法案の趣旨が分からなければ、内容解説や賛否両論のページにジャンプして参考にすることができる。自宅にパソコンがなければ、市役所設置のパソコンで投票すればよい。ハッカー対策などが課題として残るものの、現在一回につき600億円かかる選挙費用は大幅に縮減されるし、開票作業も極めて容易になるなど利点は大きい。

それにもかかわらず直接民主主義が認められないのは、大衆に政治を任せられないとエリートが考えるからである。大衆はしばしば判断を誤る。しかしエリートもまたしばしば判断を誤る。重要なことは、大衆が判断を誤った時、それが自分達の責任であるということを自覚させることである。大衆が政治に参加しない限り、大衆は政治に責任を感じない。特に日本人は、何かあるとすぐに政府の責任を問う。日本国民のこの政府への甘えを解消するには、国民は自分達の判断の成功と失敗を通して、政治的判断を学習していかなければならない。その時、国民は一人一人が政治の主体であることを自覚するであろう。

参議院の廃止は、参議院で可決されなければならない以上、実現は極めて困難である。永田町の論理でではなく、国民の声に耳を傾けて行動すると自称する国会議員も、自らの失業につながることはできないのが本音である。もちろん議員職が不要なわけではない。民意の集約という役割は残る。だが民意の伝達という《たんなる中間情報媒介業》はパソコンの仕事に譲ればよいのである。

情報社会は行政にどのような変革を求めるのだろうか。日本経済が行政主導の統制経済であることの弊害が、80年代から指摘されている。明治維新以来の官を頂点とするピラミッド型の社会が、自由と多様性を求める新しい時代の流れに合わなくなってきているからだ。東側の社会主義国家であれ、西側の福祉国家であれ、大きな政府は工業社会では効率よく機能できたものの、東西を問わず、オイルショック以降の世界的な長期不況の中で、相次いで破綻しつつある。日本でも上意下達の一方向なピラミッド型官僚組織を解体しない限り、脱工業社会への展望は開けない。

日本の行政改革で重要なことは、たんに肥大した行政組織を縮減するだけでなく、行政が市民社会と双方向のコミュニケーションを行い、社会の実態と要望に対して柔軟に対処することである。たんに従来の官報の内容をウェブ上に載せるだけでなく、情報公開の質を上げることが必要である。公共事業の入札情報から補助金の交付先、金額、交付理由といった細かい情報までオンラインで公開しない限りは、国民の不透明な行政に対する不信感はぬぐえない。

モノパワーからマルチパワーへの分権の段階は三つに分けることだできる。第一段階は中央から地方への分権であり、これはバブル膨張期に行うべきことだった。第二段階は、官主導から民主導への権力譲渡であり、これは現在の課題である。しかしそれだけではまだ十分ではない。第三段階として、組織から個人への分権が行われなければならない。

視点を日本から世界に広げてみると、グローバルな政治活動がインターネット上で展開されていることに気がつく。グローバル(地球的)はインターナショナル(国際的)と同じではない。国際交流は国家を前提にしている。国家と国家ではなく、地方と地方が国際交流することが新しい傾向と言われた時期もあった。しかし今では個人と個人が国境を越えてコミュニケーションできる時代である。国家単位で政治的問題を解決することがますます難しくなる中で、インターネットを武器にしたNGOの活動は、一段と重要なものになっていくであろう。

1.2. 経済システムの構造変革

工業社会では、ビッグ・イーツ・スモール(大が小を呑み込む)であった。情報社会では、ファースト・イーツ・スロー(速が遅を呑み込む)である。伝統的大企業が必ずしも競争に強いわけではなく、小さくとも時代を先取りしたベンチャー企業の方が収益性が良かったりするのである。前者はむしろリストラによって後者に近づこうとしているぐらいである。

パソコンを中心とする情報関連機器の発達は、中高年の中間管理職と伝統的に女性によって担われてきた事務員や秘書をリストラの対象にする方向で企業組織の在り方を大きく変えつつある。イントラネットは、経営者と第一線で働く労働者を直接結びつけ、中間管理職を不要にする。役員は、本社/支社といった空間的制約を越えて、末端にまで経営方針を伝えることができるし、現場の声は直ちに中枢に集められることができる。ワープロの普及はタイピストを不要にし、パソコンの導入は業務をペーパーレス化し、書類整理やコピーの仕事を簡素化し、携帯電話の一般化は電話の留守番役を無用にするなどなど事務職員/秘書の仕事はますますなくなっていく。

アメリカでは、経営不振の企業のみならず、業績良好の企業までが大胆なリストラをやっている。だからリストラは不況期の一時しのぎの策なのではなく、新しい時代の到来を告げるグローバルな動きなのである。ちょうど産業革命が、人間の肉体労働を化石燃料を動力源とする機械労働に置き換えていったように、情報革命は、《たんなる中間情報媒介業》をパソコンの仕事に置き換えていくのである。ゴア副大統領はインフォメーション・スーパーハイウエイの話をするときに、電話が開通したためにゴーストタウン化してしまった西部の“飛脚の中継所の町”の話をしたそうであるが、これもそれにあたる。

今企業のリストラについて語った。経済全体がリストラされる時何が起きるのか。言うまでもなく、需要と供給の情報が自由に流れることによって、宅配などの輸送業を除く流通産業、この生産者と消費者を結び付ける《たんなる中間情報媒介業》が没落する。もちろん消費の主力とでもいうべき家庭の主婦の圧倒的多数がパソコン音痴であるから、インターネット通販実用化への道のりはかなり長い。だけれども、日本の流通システムは複雑で高コストだから、流通産業のリストラには期待して良いであろう。

労働力という生産商品の売買であれ、財やサービスといった消費商品の場合であれ、組織・系列や国境を越えて自由に売買できるシステムを、インターネットは少なくとも技術的には可能にするのである。経済のグローバル化は、長い年月を経てではあるが、コスモポリタンな世界政府を成立させるであろう。

1.3. 文化システムの構造変革

インターネットは流通に革命をもたらすのであるが、この革命の影響をもっとも大きく受けるのが、出版産業であろう。商品についての情報のみならず、商品そのものがインターネットで移動可能であるからだ。もし出版産業の流通が完全にオンライン化するならば、書籍・CD・ビデオの販売/レンタル店は廃業に追いやられることになる。しかし消費者にとっては望む情報を自宅で即座に入手できるという点では理想的である。料金は印税のみで、場合によっては無料ということもありうる。保管するのにかさばらず、引用(サンプリング)や編集(リミックス)も容易で、不用になった時の処分も簡単である。テクスト情報の場合、パソコンが音読までしてくれる。ハイパーリンクも便利である。まさにこれこそ未来の読書のあるべき姿である。

もっとも課題はいくつかある。シェア・ウェアの場合、デジタル情報はコピーが容易なので著作権が保護されないとか、現在の回線は低速でダウンロードに時間がかかるとか、支払いの際クレジットカードの情報が盗まれるのではないのかなどのセキュリティ上の問題がある。しかしこれらはすべて技術的に解決すべき問題に過ぎない。

フリー・ウェアーの場合、お金をめぐる問題は起こらないが、出版の動機付けの問題が生じる。学術書の場合、営利目的で出版するわけではないのでフリーウェアでかまわないのだが、アカデミズムからは業績としてみとめられないので、多くの学者はウェブ上で研究成果を発表したがらない。なぜ業績にならないかと言えば、レフェリーがいないこととともに、発表後の訂正が容易なので、新説の一番乗りをめぐる問題が決定しがたくなることが理由としてあげられる。しかし学術書は、世界中に希薄な密度で分散している読者のために非営利的に書かれるという性質からしても、電子メールによる意見交換の必要性という点からしても、紙の本として発売するよりオンライン上で発表する方がずっと目的に適っている。だから今後学会誌上に掲載する論文は、学会のウェブサイトで公表するということが必要になってくる。特に大学の紀要論文など紙資源の無駄使いなのだから、大学のウェブサイト上の発表で十分である。

私は大学と大学院で哲学の研究をしたのだが、これまで書きためて来た論文をすべて私のウェブページに掲載している。日本の大学で哲学の研究をやっていて一番不満に思うことは、いくら業績を上げても全人類の哲学の発展には寄与できないということである。日本では、西洋の哲学の輸入・翻訳・解釈に終始しており、世界に向けて自分の哲学を発表することがほとんどない。そこで私は現在、日本の大学から離れて、英語で自分の哲学を展開したページ作りに励んでいる。世界の研究者と草の根の学術交流ができることを楽しみにしている。

現在インターネット上の情報の圧倒的多数が英文である。このままでは他の言語は英語によって駆逐されるかもしれないと危惧する人がいる。そうした人々によれば、英語が唯一の言語になることは、民族の個性を奪うので反対だということだ。しかしこうした地方言語擁護論は間違っている。言語は個性を表現する媒体であって、言語自体が個性を持つと個性が伝達できなくなるという逆説がある。世界共通語は英語でもフランス語でもエスペラント語でもなんでも良いのだが、デ・ファクト・スタンダードという点では英語が最有力候補である。

インターネットがテレビ並みに普及した時、出版文化はマルチメディア化する。但しここで言うマルチメディアとは、文字情報のみならず音声や写真や動画をも伝達できるメディアなどという軽薄な意味の言葉ではない。もしマルチメディアがそのようなものならば、映画やテレビがとっくの昔にマルチメディアを実現していたことになる。マルチメディア化とは、すべての情報受信者が送信者にもなりうるというメディアの担い手が多数化することである。それは本格的な民主主義社会の到来を告げるものである。

マルチメディア社会は、プロとアマの格差を縮める。従来の出版形態では、出版のコストとリスクがあまりにも大きいので、出版のチャンスという点で無名人は著名人に比べてきわめて不利な立場に立たされていた。同じ価格ならば、消費者は、無名ミュージシャンのCDよりも有名ミュージシャンのCDを購入するであろう。だがインターネット上で、閲覧者が著名人の有料サイトと無名人の無料サイトのどちらをダウンロードするかは微妙なところである。インターネットが出版文化の中心となる21世紀は、文化創造者にとっては実力だけがものを言う時代となる。文化貴族達はこれまでの名声に安住できなくなるが、文化平民にとっては自分の実力を世に問いやすくなるであろう。同時に消費者には、肩書きやネームヴァリューに惑わされることなく、自分の目で中身を見極める姿勢が要求されてくるのではないだろうか。

1.4. 結語

最後に結論をまとめたい。政治システムであれ、経済システムであれ、文化システムであれ、従来のヒエラルヒー型社会の上下を差異化してきたものは、私が《たんなる中間情報媒介業》と名付けた産業の高コスト性である。有権者は代議士を通して国政に参加し、平社員は中間管理職を通して経営者に接し、文化消費者はメディアを通して著作物を視聴読するが、選挙には金がかかるので一般国民は国会には直接出られないし、中間管理職を上り詰めて役員入りすることは極めて困難であるがゆえに、平社員にとっては経営に直接関わることは遠い目標に過ぎず、出版には多くの費用がかかり、リスクがあるので、文化平民にとっては自分の作品を発表することは高嶺の花である。だから一般国民には参政意欲がないし、一般労働者には創業意欲がないし、一般文化平民には創作意欲がない。一方向システムの底辺で受動的になってしまうのである。

インターネットは《たんなる中間情報媒介業》を極めて低価格で時間がかからないものにし、こうしたピラミッド型社会の弊害を取り除いてくれる。おかげで失業する人もでてくるであろうが、それを理由にパソコンを憎むとしたら、それはかつてのラッダイト運動の二の舞である。産業革命が人類を単純肉体労働から解放してくれたように、情報革命は人類を単純頭脳労働から解放してくれるのだ。

双方向のネットワーク社会の中で、各個人は、支配しかつ支配され、商品を売りかつ買い、文化を創造しかつ享受する存在者として、自主的に自立する。私たちは、新しい時代を迎えるに当たって、組織に従属することなく、自分の個性を追求しなければならない。

2. 追記

本稿は、財団法人2001年日本委員会(現:財団法人21世紀日本委員会)主催の第9回懸賞論文「マルチメディアがもたらす私たちのくらしの変革 – 技術やシステムから人々の生活へ」で平成9年に受賞し、以下の媒体に掲載された私の論文を、日本委員会の許可を得て転載したものです。

媒体:『マルチメディアがもたらす私たちのくらしの変革 – 技術やシステムから人々の生活へ – 第9回懸賞論文受賞論文集』50-57頁,財団法人2001年日本委員会,1998年3月.

内容は、情報革命がもたらす政治システム、経済システム、文化システムにおける中抜きと脱中心化を論じたもので、それぞれの構造変革の提案は、後に「インターネットによる直接民主主義」「ネット通販はどうすれば普及するのか」「定額式超流通の提案 」で詳しく論じられることになりました。