なぜいじめは起きるのか
多くの日本人は、いじめというと学校でのいじめを思い浮かべる。実際には、いじめは、学校に限らず、社会のいたるところに存在するのだが、範例として学校でのいじめを取り上げながら、なぜいじめが起きるのかをシステム論的に分析しつつ、その解決策を探る。

1. いじめのシステム論的解釈
いじめられる子供は、どのような共通属性を持っているだろうか。不潔だとか、動作がのろいとか、転校生で訛りがきついとか、外国人あるいは混血児であるなどの異質性は、しばしば、いじめの口実になる。優等生とか美人といった嫉妬の対象もいじめられる。要するに、価値的に高いか低いかを問わず、何らかの点で他の同級生と異なっているこどもがいじめの対象となる。
異質の存在者がいると、社会システムのエントロピーが高くなる。そして、エントロピーの高さは、穢れとして意識され、社会システムは、エントロピーを縮減するために、穢れを清めようとする。具体的な事例を見てみよう。以下は、京都市の12歳の女子小学生の証言である。
私の家はお金持ちではありません。だから同じ服を三日間ほど続けて着ることもよくありました。でも下着は毎日替えていました。ただそれだけで、「わァ、三日も着たはる」「きたなァ。さわんな、くさるぞ」と言われました。ある日、学校に登校してくるといつのまにか一番うしろになっていて、机には、「あほ、ふけつ、おまえがさわったものは全部くさるわ、どっかいけ」などと油性のペンで書き込んであったのです。[1]
こうしたどの学校でも見られるいじめの風景の中にも、子供なりの触穢思想を見て取ることができる。彼女は、下着の方は取り替えているのだから、衛生上問題はない。しかし、みんなと異なって、三日続けて同じ服を着るという異質性ゆえに、学級のエントロピーを増大させ、同級生から汚いと感じられてしまう。
ここから、いじめの本質がスケープゴートであることが分かる。スケープゴートとは、システムと環境の境界線上に存在し、システムと環境の差異を不明確にする両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である。同級生は、《自分たちとは異質であるにもかかわらず、自分たちと同じクラスに存在する》中間性ゆえに、両義的存在者を排除しようとする。
この点で、学校におけるいじめは、裏切り者の粛清に似ている。裏切り者は、《味方なのに敵》という両義性を持ち、敵と味方の区別をあいまいにする。裏切り者は、敵以上にシステムのエントロピーを増大させるので、敵に対する以上の憎悪をもって抹殺される。「敵ながらあっぱれ」と、敵の勇敢な行為が褒め称えられることはあるが、「裏切り者ながらあっぱれ」と、裏切り行為が褒め称えられることは絶対にない。
2. いじめの構造主義的解釈
菅野盾樹は、彼が謂う所の「構造主義の見地」に立って、E.リーチとM.ダグラスの理論をまとめつつ、「曖昧なものを産出することをつうじて秩序が作られるという、いじめの基本的戦略[2]」を説明する。
リーチのいう、中間的な範疇の創出により分類が実施されるという見地は、ダグラスのいう、秩序化が汚れを要求するという見地と立派に両立する。それだけではない。ふたつを一緒にして、一つの社会理論へ統合することができる。リーチが発見した、多少なりとも儀礼的価値を担った中間者と、ダグラスがいう汚れとは、広く存在論の用語でいえば、いずれも「曖昧なもの」に含められる。彼らから学びうることは、存在論に即していうと、秩序は曖昧さの創出をつうじてもたらされるという命題なのである。[3]
「中間者」「汚れ」「曖昧なもの」は、私が「境界上の両義的存在者」と呼んだものに相当する。菅野は、いじめにおいて曖昧なものが産出されるというのだが、むしろ逆に、曖昧なものが排除されると言うべきではないのか。いじめという動的プロセスを説明する時には、秩序と無秩序を示差的関係で静止的に対置するだけでは不十分である。もしも、曖昧なものが秩序を作る上で必要ならば、なぜいじめをする者たちは「どっかいけ」と言って、曖昧なものを抹殺しようとするのか。
もう一例を挙げて、曖昧なものの産出が秩序の形成に要求されるさまを観察してみたい。日本語では、「暖かい」と「冷たい」が対立する。それぞれが意味するのは、アルコール温度計の目盛りに代表される連続的な量に、暖かくもなければ冷たくもない中性点、<生ぬるい>がもちこまれてはじめて分節化してくる質である。我々の温度感覚を秩序づけ構造化するのは、この曖昧な<生ぬるさ>なのだ。[4]
おかしな議論である。菅野の論法を使うならば、「合法」と「違法」の間に、裁判官の恣意的な判断でどちらにでも解釈できる「曖昧」なグレーゾーンが存在した方が、白黒がはっきりしている場合よりも、法的秩序が形成されるということになってしまう。
[この]観察は、ある種のいじめに光を投げかける。一九八四年に東京都教育委員会が都内の小、中、高校の生徒を対象に調査した結果では、いじめの動機の首位に「弱い子や鈍い子を面白半分に」があげられている。[…]なぜ彼らはいじめられるのだろうか。曖昧さを背負っているからだ。いや、正確にいうと、彼らに曖昧さが付与されることによって、集団の同一性が集団外のものに対立するかたちで確保されるのである。[5]
菅野は、このように、いじめられやすい属性である「弱い」と「鈍い」を「暖かい」と「冷たい」の中間である「生ぬるい」に対応させようとする。しかし、「弱い」も「鈍い」も平均から離れているという意味で、菅野が説明するような、連続している量の中間値ではない。
現実には、ふたつのタイプの子がいじめの対象になりがちである。ひとつは過小タイプ、ふたつは強意タイプである。[6]
「過小タイプ」とは「弱い子や鈍い子」といった平均以下の存在者で、「強意タイプ」とは、「体格がよく成績も良い」平均以上の存在者である。平均以下と平均以上がいじめられやすいという主張は、菅野の《いじめられる対象=曖昧なもの=中間者》というテーゼと矛盾している。以下の図は、菅野が謂う所の「世界帽子」であるが、むしろ平均に近い中間者ほど階層は高くなり、平均から外れるほど階層が低くなり、いじめの対象となりやすくなる。

いじめられる対象としての中間的存在者とは、《自分の近くにいる同質者》と《自分の遠くにいる異質者》という《排除する必要のない存在者》と《排除することが不可能な存在者》の中間に位置する《自分の近くにいる異質者》という《排除する必要があり、かつ排除することができる存在者》である。つまり、件の中間性とは、性質の平均性ということではなくて、不可能性と不必要性の間に存在する地平的中間性なのである。
3. いじめをなくすにはどうすればよいのか
なぜいじめが起きるかという話はこれぐらいにして、どうすればいじめがなくなるのかという話に移ろう。これまで述べてきたように、いじめは、社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではないのだから、いじめの問題を解決するうえで、「思いやりの心を育む」とか「心と心のふれあいを大切にする」といった、NHK で教育評論家が口にするようなキャッチフレーズを持ち出しても的外れである。
また、学校や警察や政府がいじめ問題を解決してくれることを期待することも、場合によっては逆効果である。徹底した管理教育を行い、「我が校にはいじめは全くありません」と校長が胸を張る学校ほど、見えないところでいじめが行われているものである。学校の名声が汚されないように、ケガレをキヨメようとすることが、いじめの温床になるのである。
皮肉なことに、しばしばいじめ問題の解決を期待される学校や警察や政府の内部では、子供間のいじめに勝るとも劣らぬ陰湿ないじめが行われている。学校の職員室では、嫌われている教師が当番でお茶を入れると、同僚教師たちは、みんなでいっせいにそのお茶を飲まずに捨てる。お茶の排除を通して、嫌われ者を象徴的に排除しようというわけだ。先生たちも触穢思想の信奉者なのだ。警察で先輩が後輩をいじめるということもしばしば報道される。
永田町でもいじめは盛んだ。もっとも、野党が与党を激しく攻撃しても、それはいじめとはいえない。むしろスケープゴートとしてのいじめの典型は、党議拘束に反した投票を行った造反議員に対する同僚議員たちの冷たい白眼視[8]の視線の中に観て取ることができる。
学校や官僚のような、規則に縛られて個人に自由がないところや、警察や軍隊や政党のような、組織が一体となって敵と戦わなければならないようなところでは、スケープゴートとしてのいじめが起きやすい。いじめをなくすために必要なことは、個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。
学校でのいじめ問題は、最近では下火になった。これは、いじめで自殺するぐらいなら、学校に行かなくてもよいというリベラルな考えが社会に広がったからで、学校から社会全体に視点を広げるならば、いじめ問題は、ひきこもり問題へと形を変えながら、いまだに残っている。
私も、子供の頃から、同級生によっていじめられてきた。私は、自分を殺して周囲と協調することが嫌いだ。だから、同調圧力の強い日本社会では、どこに行っても浮き上がり、疎まれ、最後は排除される。しかし、私は、自分が落ちこぼれのひきこもりだと卑下してはいない。なぜならば、現代は、もはや、ピラミッド型組織に没個性的に所属し続けることがベストであるような時代ではないからだ。
4. 参照情報
- ↑朝日新聞大阪本社.『なぜいじめるの―渦中からの報告』朝日新聞社 (1985/09). p.48
- ↑菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 72.
- ↑菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 47-48.
- ↑菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 44.
- ↑菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 44-45.
- ↑菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 134.
- ↑菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 117.
- ↑私たちは、意中の人を見つめる時には、瞳孔を大きくして、相手を視野の《中心》に置く。それに対して、汚らわしい存在を見るとき、それを視野の《周縁》に位置付けて顔をそむける。だからそのまなざしは、見られるほうからすれば、白眼視なのだ。周縁へと追いやられた汚らわしい存在を視界から抹消することがスケープゴートである。
ディスカッション
コメント一覧
私は個性を失くしてでも他者(学部内の知人)との調和を図ろうとしているのですが、どうしてもその他者全員とは上手くやっていくことが出来ません。 数人に嫌われてし まうのです。 そこで理由として生理的に嫌うという言葉が挙がりました。
生理的に嫌うというのはどういうことなのでしょうか? いじめなど社会的な心理現象は理解できます。 しかし個人的な心理レベルでの対策が分かりません。 総ての人と調和させるのは無理な話なのでしょうか?
生理的に嫌うというのは価値的に上、下であるという嫉妬も含まれるのですか?
例えば、友達にgood-lookingでかしこい人(A君)がいますが、 A君は私から見れば、自分に自身があってその余裕からなのか、元々性格が良いからなのか分かりませんが、誰にでもやさしい人です。
けれどもA君と私の知人(B君)が会話を交わす時とてもぎこちないのです。 B君は私から見れば言い方は悪いですが、 価値的にA君より下だと考えていて、 そのぎこちない雰囲気はB君の嫉妬により作り出されているのではないかと考えています。
いじめはスケープゴートだということは理解できました。
「誰かを生理的に嫌う者の深層心理」 というのは、 個人的な心理現象であるため、一般に論ずることはできないのでしょうか?
もし良ければ永井先生の考えをお願いします。
生理的に嫌っているものを食べると吐き気を催しますね。生命というシステムは、環境との間に複雑性の落差を設けることで、自己を維持しています。カタルシス、すなわち異質なものを排除することは“生命の原理=生理”です。社会は一つの生命体ですから、カタルシスは、個人レベルでも社会レベルでも起きます。以下も参考にしてください。
◎ 人はなぜ笑うのか
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2003/laughter-catharsis/
◎ 人はなぜ泣くのか
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2003/crying-catharsis/
◎ 芸能人とはいかなる存在か
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2004/entertainer-ambivalence/
カタルシスで排除される異物は、平均からかけ離れた存在で、A君のように価値的に高いか、もしくは低い人がスケープゴートのターゲットとなります。
いじめは、原則的に「いかなる理由があろうとも、いじめはいけないことだ。」と先鋭と保護者が子供に断言するところから根絶が始まるのが誰も大学に進学しないような面々の間での常識ですが、この考えはこの議論だとどこにはいるのでしょうか。
永井さんの「他人の意見に賛同せず」というスタイルのルーツを垣間見た気がします。
僕も幼い頃いじめを受けた身として分かりますが、それはさておき……。社会学の講義を聴いたことがあるので、永井さんの論に付け足す形ですが、第一に、「いじめ」における定義の必要条件は「争う」というファクタで、社会学的に「コンクリフト」と呼ぶと聞いたことがあります。永井さんの言う〝システムと環境の差異を明確にする両義的存在者を排除すること〟つまりスケープゴートも「コンクリフト」の一過程と解釈できます。社会、あるいは国家、国際社会というシステムから見れば、どこかで争いは局所的に起こっているもので、総じて何らかの存在を排除しようとする、戦争、紛争、裁判、夫婦喧嘩などでも似た構造を取ることがあります。いじめは、それらの集合の部分集合という形でしょうか。
第二に十分条件を挙げるとすれば「大勢の目に晒されることなく、陰湿的に」というものです。つまり、いじめ加害者のグループ(あるいはシステム内部の個体数?)は相対的にマイノリティであることでしょうか。それ以上増えるとすれば、何らかの権力的存在(教師、親、マスメディア、等)、あるいはマジョリティグループに認知され(何とか委員会、多くの人間等)、問題対処、排除、鎮圧される可能があり、もし、それでもいじめが成り立ち続けるとすれば、それはいじめではなく、別形態の「争う」になってしまうからです(権力に認知されたいじめというのは、蹂躙と言ってもいいかもしれない)。
つまり、決してマジョリティに転じない小規模ながら安定した構造をとっているものがいじめと言えるでしょう。
また「争う」はただ無秩序状態であるということではなく、そこで起きた何らかの「問題」あるいは「葛藤」をマジョリティに提示する必要悪的な機能を果たしています。争いが起き、社会に認知され、初めてそこで双方の要求を交渉し、目的の再認、妥協、あるいは一時的な対処が行われます。そうやって社会のシステムが進化していきます。裁判はそうですし、テロも犯行声明を出します。しかし、いじめにはそれがありません。むしろ自らの問題を大勢から隠蔽するスタイルを取っているような、あるいは問題すらそこにない気がします。いじめる理由が曖昧(あるいは理由などない)なのもこの点ではないでしょうか。「何となく、むかついたから」とか「いやな感じの奴だったから」とか。
たとえばの話ですが、あるとき世界レベルで、同時多発的に争いが起こったとしますが、それらはやがて世界戦争に発展するか、あるいは矮小化して局在的に紛争が続くかのどちらかですよね。そういった戦争が、小規模な同族集団や国家という共同体を形成させる、というのも頷けますし、永井さんの〝スケープゴートとは、システムと環境の境界線上に存在し、システムと環境の差異を不明確にする両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である〟という論にある通り、いじめを通してある種のグループを形成するということも、同意できます。
なので、もう一つの結論として、いじめは人間の「権力への欲求」だと思うのです。つまり、いじめとはグループ権力への欲求が満たない、という葛藤の一時的な逃避である。あるいはそれを通じて、子供が社会的能力の身につけ方を本能的に履修している、といういじめの心理学的解釈です。いじめには法的罰則がない利点や、目的性の無さ、小規模ながら崩壊し難い点ということから、非常にコンビニエンスかつプリミティブなシステムだと思います。
ナチスのユダヤ人迫害のように、公然と行われる場合は、いじめではないのですか。
>>ナチスのユダヤ人迫害のように、公然と行われる場合は、いじめではないのですか。
はい、これについて暫く考えていたのですが、ナチスのユダヤ人迫害をいじめと呼ぶには規模が大きい気がします。同様に、テロと戦争も規模も意味も違うものです(これは喩えです)。またいじめの捉え方について永井先生とは違うかも知れませんが。
ただ、厳密に違うか否かと聞かれたのであれば、スケープゴート(必要条件)という点で同じだと思いますし、そういった見方があるということは僕にとって新しい価値を与えて貰いました。
けれども十分条件に於いて違うものがあるという僕の考えは先に言った通りです。「迫害」「虐殺」など「虐め」という言葉もあるとおり、共有する部分はありますが、完全に置換可能なものであるのか、同じ解釈でいいかどうか、議論が別れるところでしょう。
また、僕がいじめに関してイメージしたものが学校や職場のようなものという意識が強かったせいかもしれません。
権力による(永井先生のいういじめ」「迫害」「虐殺」と、職場や学校で起こるいじめを同じものにしてしまった場合、議論の上で不都合があるか、ないかで選択、決定すべきではないでしょうか? 永井先生の場合は、ユダヤ人迫害やいじめにスケープゴートという構図があり、それらについて論を進めていたので特に不都合はないと思います。それらを現実世界に再解釈した場合、ナチスの行ったことが、身の回りでも起きているかどうか考えていけばいいと思います。
正直本当に返信して貰えるなんて思ってもいなかったので、少し驚いています。たどたどしい言葉ではありますが、まだ二十歳そこそこの学生なのでご勘弁を。哲学も好きですし、こういった議論も好きです。永井先生のような頭のいい方の話も刺激的なので、こっそり応援しています。
いじめている人間はいじめられた人間がきっと口をつぐんでいるだろうとおもっている。いじめられる人間に問題があるといつもいつもいわれてきた。自分を変えよう人をゆるす心をもちなさい。とか、いじめる側に都合の良いことばかりの本を読んでいじめられる側はじっと耐え忍んでいる状況。いじめにばっそくがないからとかではおそらくもうすまされない状況におかれている人々がたくさんいるにもかかわらず。いじめた人間はグループをくんで今日ものうのうと「あ~いじめるやつがさってよかった。次はだれにしょう。」と思っていると思う。それに対して警察はあまりにもいじめられたがわにとり非協力的な態度だったし、職場も学校もあまりにも無力でなさけない。結局、被害を受けた人間が、自分で解決しなければならないとは、いったいなんて情けない状況なのか。いじめられる人間が毅然とした態度で臨めとあるが、それで、いじめを
やめるような人間たちではなかった。全員20代後半から30代の人間たちは、その人生の大半をいじめと共にいきてきたらしく、一部の人間にはそれを楽しんでいる。いやみたらしい顔でのぞきこんだり、また、いじめ窃盗を共犯させいじめグループにする。あまりにしつくしらばっくれていじめをくりかえしてつかまらないからとたかをくくっている。こういう人間たちは上司からきつくおしかりを受けたって、なんとも思わない人々だと思う。ほんと、精神が病んでいるのいだ。と思う。
私は、学校から虐めのことを調べてここにきました。
なんで虐めはあるのだろう、なんで起こるのだろう、と
疑問に思ってきました。
苛められる理由とか、わかりません。
苛められてる自分がイチバン、苛められる理由が
わからないと思います。
もっと調べてみたいと、希望がわいてきました。
(ウィル)
私は、五年生です。二年生の時は、思い出したくありません。
ほかの子と遊んでて教室帰ったら、その子はされてないのに私は、男子にお腹を殴られました、「遅いねん!はよ帰ってこいや」と・・・
その子は、逃げるかのようにサササ、と自分の席に座りました。ひどい!
私だけ悪いのですか?なんで私なの?
ほかには、給食のときはストローやゴミを集めたり、お皿(食器)を集めて給食室まで持っていくという決まりがありました。
(班で1番の人や、2番の人をきめて、1番の人が食器、など)
で、私が3人班だったときのこと。
一人が「おまえ、全部持っていけや!」「そうや!チビやからもっていけや!」
私は、勇気や根性がないので、断れませんでした…
私は、結局もって行きました。
(チビだからって、なんで持っていかなきゃダメなわけ?
そうゆうアンタだって背高いくせに!のっぽは持っていかなくていいの!?)
私は、自殺や転校ほど苦しくはありませんでしたが、
今振り返ってみると、結構苦しくなりますね。
動作がはやい/のろい、背が高い/低い、どちらも、中心(平均)から外れることでいじめの対象になりやすいようにみえますが、実際には、動作がのろい、背が低いほうがいじめの対象になりやすいようです。