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なぜいじめは起きるのか

2001年6月2日

多くの日本人は、いじめというと学校でのいじめを思い浮かべる。実際には、いじめは、学校に限らず、社会のいたるところに存在するのだが、範例として学校でのいじめを取り上げながら、なぜいじめが起きるのかをシステム論的に分析しつつ、その解決策を探る。

rebbeccadevitt0によるPixabayからの画像を加工

1. いじめのシステム論的解釈

いじめられる子供は、どのような共通属性を持っているだろうか。不潔だとか、動作がのろいとか、転校生で訛りがきついとか、外国人あるいは混血児であるなどの異質性は、しばしば、いじめの口実になる。優等生とか美人といった嫉妬の対象もいじめられる。要するに、価値的に高いか低いかを問わず、何らかの点で他の同級生と異なっているこどもがいじめの対象となる。

異質の存在者がいると、社会システムのエントロピーが高くなる。そして、エントロピーの高さは、穢れとして意識され、社会システムは、エントロピーを縮減するために、穢れを清めようとする。具体的な事例を見てみよう。以下は、京都市の12歳の女子小学生の証言である。

私の家はお金持ちではありません。だから同じ服を三日間ほど続けて着ることもよくありました。でも下着は毎日替えていました。ただそれだけで、「わァ、三日も着たはる」「きたなァ。さわんな、くさるぞ」と言われました。ある日、学校に登校してくるといつのまにか一番うしろになっていて、机には、「あほ、ふけつ、おまえがさわったものは全部くさるわ、どっかいけ」などと油性のペンで書き込んであったのです。[1]

こうしたどの学校でも見られるいじめの風景の中にも、子供なりの触穢思想を見て取ることができる。彼女は、下着の方は取り替えているのだから、衛生上問題はない。しかし、みんなと異なって、三日続けて同じ服を着るという異質性ゆえに、学級のエントロピーを増大させ、同級生から汚いと感じられてしまう。

ここから、いじめの本質がスケープゴートであることが分かる。スケープゴートとは、システムと環境の境界線上に存在し、システムと環境の差異を不明確にする両義的存在者を排除することにより、システムと環境を差異化する再秩序化の儀式である。同級生は、《自分たちとは異質であるにもかかわらず、自分たちと同じクラスに存在する》中間性ゆえに、両義的存在者を排除しようとする。

この点で、学校におけるいじめは、裏切り者の粛清に似ている。裏切り者は、《味方なのに敵》という両義性を持ち、敵と味方の区別をあいまいにする。裏切り者は、敵以上にシステムのエントロピーを増大させるので、敵に対する以上の憎悪をもって抹殺される。「敵ながらあっぱれ」と、敵の勇敢な行為が褒め称えられることはあるが、「裏切り者ながらあっぱれ」と、裏切り行為が褒め称えられることは絶対にない。

2. いじめの構造主義的解釈

菅野盾樹は、彼が謂う所の「構造主義の見地」に立って、E.リーチとM.ダグラスの理論をまとめつつ、「曖昧なものを産出することをつうじて秩序が作られるという、いじめの基本的戦略[2]」を説明する。

リーチのいう、中間的な範疇の創出により分類が実施されるという見地は、ダグラスのいう、秩序化が汚れを要求するという見地と立派に両立する。それだけではない。ふたつを一緒にして、一つの社会理論へ統合することができる。リーチが発見した、多少なりとも儀礼的価値を担った中間者と、ダグラスがいう汚れとは、広く存在論の用語でいえば、いずれも「曖昧なもの」に含められる。彼らから学びうることは、存在論に即していうと、秩序は曖昧さの創出をつうじてもたらされるという命題なのである。[3]

「中間者」「汚れ」「曖昧なもの」は、私が「境界上の両義的存在者」と呼んだものに相当する。菅野は、いじめにおいて曖昧なものが産出されるというのだが、むしろ逆に、曖昧なものが排除されると言うべきではないのか。いじめという動的プロセスを説明する時には、秩序と無秩序を示差的関係で静止的に対置するだけでは不十分である。もしも、曖昧なものが秩序を作る上で必要ならば、なぜいじめをする者たちは「どっかいけ」と言って、曖昧なものを抹殺しようとするのか。

もう一例を挙げて、曖昧なものの産出が秩序の形成に要求されるさまを観察してみたい。日本語では、「暖かい」と「冷たい」が対立する。それぞれが意味するのは、アルコール温度計の目盛りに代表される連続的な量に、暖かくもなければ冷たくもない中性点、<生ぬるい>がもちこまれてはじめて分節化してくる質である。我々の温度感覚を秩序づけ構造化するのは、この曖昧な<生ぬるさ>なのだ。[4]

おかしな議論である。菅野の論法を使うならば、「合法」と「違法」の間に、裁判官の恣意的な判断でどちらにでも解釈できる「曖昧」なグレーゾーンが存在した方が、白黒がはっきりしている場合よりも、法的秩序が形成されるということになってしまう。

[この]観察は、ある種のいじめに光を投げかける。一九八四年に東京都教育委員会が都内の小、中、高校の生徒を対象に調査した結果では、いじめの動機の首位に「弱い子や鈍い子を面白半分に」があげられている。[…]なぜ彼らはいじめられるのだろうか。曖昧さを背負っているからだ。いや、正確にいうと、彼らに曖昧さが付与されることによって、集団の同一性が集団外のものに対立するかたちで確保されるのである。[5]

菅野は、このように、いじめられやすい属性である「弱い」と「鈍い」を「暖かい」と「冷たい」の中間である「生ぬるい」に対応させようとする。しかし、「弱い」も「鈍い」も平均から離れているという意味で、菅野が説明するような、連続している量の中間値ではない。

現実には、ふたつのタイプの子がいじめの対象になりがちである。ひとつは過小タイプ、ふたつは強意タイプである。[6]

「過小タイプ」とは「弱い子や鈍い子」といった平均以下の存在者で、「強意タイプ」とは、「体格がよく成績も良い」平均以上の存在者である。平均以下と平均以上がいじめられやすいという主張は、菅野の《いじめられる対象=曖昧なもの=中間者》というテーゼと矛盾している。以下の図は、菅野が謂う所の「世界帽子」であるが、むしろ平均に近い中間者ほど階層は高くなり、平均から外れるほど階層が低くなり、いじめの対象となりやすくなる。

画像
菅野の「世界帽子[7]」。中心から外れるほど階層は低くなる。

いじめられる対象としての中間的存在者とは、《自分の近くにいる同質者》と《自分の遠くにいる異質者》という《排除する必要のない存在者》と《排除することが不可能な存在者》の中間に位置する《自分の近くにいる異質者》という《排除する必要があり、かつ排除することができる存在者》である。つまり、件の中間性とは、性質の平均性ということではなくて、不可能性と不必要性の間に存在する地平的中間性なのである。

3. いじめをなくすにはどうすればよいのか

なぜいじめが起きるかという話はこれぐらいにして、どうすればいじめがなくなるのかという話に移ろう。これまで述べてきたように、いじめは、社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではないのだから、いじめの問題を解決するうえで、「思いやりの心を育む」とか「心と心のふれあいを大切にする」といった、NHK で教育評論家が口にするようなキャッチフレーズを持ち出しても的外れである。

また、学校や警察や政府がいじめ問題を解決してくれることを期待することも、場合によっては逆効果である。徹底した管理教育を行い、「我が校にはいじめは全くありません」と校長が胸を張る学校ほど、見えないところでいじめが行われているものである。学校の名声が汚されないように、ケガレをキヨメようとすることが、いじめの温床になるのである。

皮肉なことに、しばしばいじめ問題の解決を期待される学校や警察や政府の内部では、子供間のいじめに勝るとも劣らぬ陰湿ないじめが行われている。学校の職員室では、嫌われている教師が当番でお茶を入れると、同僚教師たちは、みんなでいっせいにそのお茶を飲まずに捨てる。お茶の排除を通して、嫌われ者を象徴的に排除しようというわけだ。先生たちも触穢思想の信奉者なのだ。警察で先輩が後輩をいじめるということもしばしば報道される。

永田町でもいじめは盛んだ。もっとも、野党が与党を激しく攻撃しても、それはいじめとはいえない。むしろスケープゴートとしてのいじめの典型は、党議拘束に反した投票を行った造反議員に対する同僚議員たちの冷たい白眼視[8]の視線の中に観て取ることができる。

学校や官僚のような、規則に縛られて個人に自由がないところや、警察や軍隊や政党のような、組織が一体となって敵と戦わなければならないようなところでは、スケープゴートとしてのいじめが起きやすい。いじめをなくすために必要なことは、個人が組織から自立して生きていくことができるように、社会構造を変えることである。

学校でのいじめ問題は、最近では下火になった。これは、いじめで自殺するぐらいなら、学校に行かなくてもよいというリベラルな考えが社会に広がったからで、学校から社会全体に視点を広げるならば、いじめ問題は、ひきこもり問題へと形を変えながら、いまだに残っている。

私も、子供の頃から、同級生によっていじめられてきた。私は、自分を殺して周囲と協調することが嫌いだ。だから、同調圧力の強い日本社会では、どこに行っても浮き上がり、疎まれ、最後は排除される。しかし、私は、自分が落ちこぼれのひきこもりだと卑下してはいない。なぜならば、現代は、もはや、ピラミッド型組織に没個性的に所属し続けることがベストであるような時代ではないからだ。

4. 参照情報

  1. 朝日新聞大阪本社.『なぜいじめるの―渦中からの報告』朝日新聞社 (1985/09). p.48
  2. 菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 72.
  3. 菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 47-48.
  4. 菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 44.
  5. 菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 44-45.
  6. 菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 134.
  7. 菅野 盾樹.『いじめ・学級の人間学』新曜社; 増補版 (1997/10). p. 117.
  8. 私たちは、意中の人を見つめる時には、瞳孔を大きくして、相手を視野の《中心》に置く。それに対して、汚らわしい存在を見るとき、それを視野の《周縁》に位置付けて顔をそむける。だからそのまなざしは、見られるほうからすれば、白眼視なのだ。周縁へと追いやられた汚らわしい存在を視界から抹消することがスケープゴートである。