上品さとは何か
上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定することであり、上品さにおいて文化が自然から区別される。上品さは、上流階級の人々が富を衒示的に浪費することで示されるステータスシンボルである。
1. テーブルマナー
上品さとは何かをテーブルマナーを例にとって考えてみよう。スープを飲むとき、口を皿に直接付けて飲むことは、マナー違反である。スプーンという媒介を使って、動物的な直接性を否定しなければならない。しかも、スプーンでスープを飲むときは、手前から向こうへとスプーンを動かさなければならない。向こうから手前にすくって、口に運ぶ方が効率的なのだが、そうした効率性はあえて犠牲にされる。またスプーンを口に運ぶ時、猫背になってはいけない。背筋を伸ばした超然とした態度で、自分から欲望の対象に近づくのではなく、近づいてくるスープを待つかのようにして摂取する方が、優雅である。
パンを食べる時も、直接丸かじりしてはいけない。一口分の大きさにちぎって食べなければならない。また、バタークーラー(バターボール)に盛られているバターを直接パンにつけてはいけない。まずバタークーラーからバターナイフでバターをパン皿にとり、それから皿の上で一口大にちぎったパンに自分のバタースプレッダーでその都度バターをつけ、口に運ぶのがマナーである。あらかじめパンをすべてちぎって、まとめてバターを塗るほうが効率的だが、そうした効率的な食べ方は、見苦しい食べ方として軽蔑される。
このように、上品であるためには、直接性と効率性が否定されなければならないが、それはテーブルマナーに限ったことではない。洗練されたコミュニケーションについても同じことが言える。
2. 洗練されたコミュニケーション
私たちは、動物にある振る舞いをさせるように命令する時、鞭で打ったり餌で誘導したりする。相手が人間ならば、こうした直接的な行動に訴えなくても、言語によって間接的に相手を動かすことができる。上流階級の人々同士となれば、自分の気持ちを相手に言葉でストレートに表すということすらしなくなる。平安貴族は、花鳥風月を優美な和歌に詠いながら、縁語や掛詞で自分の感情を間接的に伝えた。相手が教養人なら、それで十分意思疎通ができたのである。
現代の上流階級の人々も、和歌を詠わないまでも、露骨であからさまな表現を野暮と感じて慎むことが多い。例えば、相手がモーツァルトの愛好家ならば、相手を直接褒めずに、モーツァルトの作品を褒めることによって間接的に相手を褒めるという具合に、である。
相手を非難する時には、さらに入念に直接性が否定される。なぜならば、非難するという行為は、褒めるという行為に比べて下劣な行為だからだ。動物が敵にほえるように、相手を直接ののしることは、相手の品格を下げるという意図とは逆に、自分の品格を下げることになる。そこで、直接相手Aを非難する代わりに、Aに聞こえるような声で、近くにいるライバルBのAにはない長所を褒めるという二重の否定によって、自分の品格を維持したまま自分の意図を実現するという巧妙な手段がとられることになる。
3. 謙虚さのパラドックス
直接性は、欲望を剥き出しにするがゆえに、下品である。上流階級の人といえども、否、上流階級の人ほど、権力、名誉、金、性などに対して強い欲望を持つのだが、あたかもそうした欲望を持たないかのように振る舞うことが、上品であるための条件である。
例えば、平安時代、藤原氏は、天皇から関白に命じられても、いったん辞退することを慣わしとしていた。実際には、藤原氏は権力の亡者であったにもかかわらず、そうした儀式が行われた。自分から欲望の対象に近づくのではなく、超然とした態度で、近づいてくる名誉を待つかのようにして受け入れる方が、優雅なのだ。
今でも、エリートは、自分が賞賛されるとそれを否定し、あたかも名誉を望まないかのように振る舞う。謙遜すれば、自分の名声と人望が高まることを計算に入れているのだ。このように、謙遜には、名誉を否定することによって肯定するという屈折した構造がある。
4. 非営利と非効率
直接性の否定は、非効率、すなわち資源の浪費を帰結する。だが、たんに浪費されるわけではない。経済資本が蕩尽されることにより、上品さという文化資本と人望という政治資本が生産されるのだ。社交界での舞踏、乗馬や狩猟やテニスといった洗練されたスポーツ、弱者に哀れみの手を差し伸べる慈善活動、趣味としての芸術や文学など、有閑階級の人々が行う非生産的な活動は、彼らが、生産的活動に直接従事しなくてもよいほどに富があることを周囲に誇示するがゆえに、彼らの高貴さにいっそうの輝きを与える。
現代日本における高級官僚たちは、かつての貴族に相当する。マスコミは、官庁や高級官僚が天下った特殊法人や公益法人の非効率性をしばしば批判するが、彼らは、民間企業の経営者のように、収益をあげることができないことに対して、何らの劣等感も持っていない。むしろ、彼らは、自分たちが、利潤の増減に一喜一憂する商人的な世俗性から超然としていられることに貴族的な優越感を持っているのだ。
ボランティア慈善活動も、営利活動に対する蔑視に基づいている。「ボランティア活動は公益になるか」で、ボランティア活動は非効率だといったが、非効率であるにもかかわらずというよりも、非効率であるがゆえに、慈善的なボランティア活動は、高貴で崇高な行為として人々の尊敬を集めることができるのである。
5. 貴族趣味
もしもすべての人が上品でいられるならば、上品さはエリートたちの貴族的な欲望を満たしてくれないだろう。しかし、すべての人が上品であろうとするならば、社会全体の効率性が著しく下がり、あまりにも資源が浪費されるので、社会が成り立たなくなる。だから、上品であることは、富裕階級にのみ許される特権である。
もっとも、たとえ一部とはいえ、非生産的な階級が存在することは、経済にとっては重荷である。寄生虫的有閑階級がはびこると、その国は滅びる。かつて世界一の帝国であった清王朝は、アヘン戦争以降、新興工業国イギリスの半植民地となったが、それを予感させるこんなエピソードがある。中国の高官は、従者にドアを開けさせて部屋に入り、召し使いに椅子を引かせてテーブルについた。典型的な直接性の否定である。ところが、イギリスから来た大使は、自分の手で椅子を引いてテーブルについた。それを見た中国の高官は、自分の手で椅子を引くような身分の低い人間と話はできないといって会談を拒否した。椅子ぐらい自分で引けばよいという合理主義が理解できなかったのだ。
合理主義的なイギリス人も、日本では、一流の理工系大学を卒業したエリートが作業服を着て工場で働くとか、経営者が労働者と同じ食堂で同じようなメニューの昼食を食べるという話を聞くと驚く。しかしここに、戦後の日本が先輩工業国であるイギリスを追い抜くことができた秘密がある。
日本の本社からアジアの途上国に派遣された工場長が、現地の作業員に範を垂れようと、自ら作業服を着て工場で作業を行ったところ、現地の人は、「こんな肉体労働をするなんて、この人はきっと賤しい身分の人に違いない」と考えて、その工場長の言うことを聞かなくなったというエピソードがある。
現場で直接働く労働者よりも、オフィスで間接的に働く中間管理職の方が、そして中間管理職よりも、一切の労働から解放されて、非生産的活動に時間を浪費する上流有閑階級のほうが高貴である、つまり直接性が否定されればされるほど身分が上になるというのが貴族趣味的な価値観である。戦後の日本の製造業が、世界のトップに登りつめることができたのは、こうした貴族趣味的な価値観を放棄し、エリートが現場と一体となって効率性の向上に努めたからである。
かつては勤勉だった日本人も、80年代のバブルの時には、富の衒示的浪費である成金趣味に走った。貴族趣味は、見た目は華やかだが、衰退する経済の花道を飾る徒花に過ぎない。上品さには、憧れの対象であると同時に、呪われた部分であるという両義性がある。
ディスカッション
コメント一覧
合理的な人は下品なのですか。
効率を重視すると、下品になります。しかしながら、自分の文化資本や政治資本の維持のためには、上品であることが合理的であることがあります。
非合理主義な人は上品なのですか。
逆は必ずしも真ならず。
下品でない人は合理的でないのですか
1.合理的な人は下品である。
2.上品な人は非合理である。
この二つの命題は対偶なので、論理的に等値です。1と2の逆は、それぞれ
3.下品な人は合理的である。
4.非合理な人は上品である。
で、3と4は、対偶なので論理的に等値ですが、1=2 と 3=4 は論理的には等値ではありません。それが、「逆は必ずしも真ならず」ということの意味です。
貴族はみな上品なのですか
違います。なぜならば、貴族がすべて貴族らしいとはかぎらないからです。
成り金は上流でも下品な人はいますが
経済資本と文化資本は資本の種類が異なります。
田舎者を上品にするにはどうすればいいですか?
田舎にも富豪がいるし、彼らは都会の貧民より上品です。もちろん、都会的でないということなら言えるかもしれませんが、その場合、都会的であることが洗練されていることであるという価値観の方を疑うべきでしょう。
服装などはあまりに華美だと下品と称されることもあるし、逆にシンプルなもののほうが上品とされることもあります。それでもやはり上品は非合理的なものなのですか?
機能性を重視した結果のシンプルさは上品とは言いませんが、機能性を犠牲にして、見た目の美しさを追求した結果のシンプルさは上品と言えます。
社会に出て気付いたことは、マナーをすごく尊重する人と、反発する人に二分されるんだなってことです。
例えば、ネクタイ。
これを着用せよなんてマナーは、後天的に作り上げられたもので
こんなのつけてようがつけてなかろうが、ボクはどうも感じないのですが
中にはすごく気にして、サマータイムは何日から何日までとか、決まりを作ってはそれを守ることに
満足感を得る人がいますよね。
箸の持ち方もしかり。
うちの家庭は運よく、まったく気にしない家庭なのですが、ボクの彼女の家庭は重要視するのですよ。
外国人から見たら何も違いはなかろうに。
というわけで、上品さ、みたいなパラメータを重要視する人は
階級制度に組み込まれることを好む人だと思うのですがどうでしょうか。
支配者層でも、非支配者層でもかまわなく、人為的に作られた制度をなぞることを好むのです。
上から命じられたら、まず従わなければと思うし、自分が上長になれば、なんか決まりを作りたいなと思うわけです。
ボクはうんざりだ!
日本では堀江貴文氏がその先駆者ですけれども、ITセレブは、公式の場でもネクタイを着用せず、Tシャツ一枚で登場することが多いですね。もっとも、そのTシャツもブランドものだったりするから、上品/下品の差異がなくなったわけではありません。
なぜ異常に下品な人は貧困層に多いのですか
一日に5000キロカロリー食べる生活保護の人がいたりします
これだと下品な貧困層が色あせて見えます
実は下品さの一部否定が必要な場合がある
合理主義が暴走した場合、世界の富の80パーセントを支配したいなど極端な場合
実はリバタリアンには下品な人も多い
リバタリアンは冷酷で知性が高い
永井さんが仰られる上品な人を想像すると、上流階級が骨の髄まで染み込んだおほほ笑いをするおばさまが浮かんでくるのですが、中流階級の若い女性で上品な人というとどんな人になると思いますか?
パンの食べ方やバターの塗り方を知らずとも、穏やかに笑い、優しく、身の丈にあった上質なものを身につけ、背筋がしゃんと伸びていればその人は上品だなと私は思うのですが、永井さんは非合理で遠回しで、俗物を嫌って自分を着飾る貴族趣味な人を上品だと定義しますか?
…色々と屁理屈を書いてしまいましたが、”上品”に対する捉え方が違うだけなのかもしれません。
強欲なくせに品の良いふりをしていると、なりふり構わず行動する合理的な人に負けてしまうという教訓を得ることができました。
ありがとうございます。
他の性質と同様、中間的な形態は存在し得るのですが、典型的な事例を示した方がわかりやすいだろうと考えて、「上流階級が骨の髄まで染み込んだおほほ笑いをするおばさま」のような事例を挙げた次第です。
この説…完全に間違いです。
先ずテーブルマナーは国によって違う。韓国人やインド人は欧米人より合理的なのだろうか?
マックでハンバーガーをちまちまちぎって食べてる人が上品に見えるだろうか?
上品、下品はその場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である。
更にマウンティングや権威付け行動と品格と言う物を区別出来ず同列に語っている。
マウンティング、権威付け行動はブランド品で身の回りの物を固めつつ、他人の持ち物と自分のブランド品の値打ちを比べ、それによって他人の人格まで決め付ける様な行為、価値観である。
この記事で上品さの例として挙げられている行為、
官僚の天下り云々、アヘン戦争時の中国の高官云々、工場長云々、記事中の非生産的な貴族趣味、更には成金趣味等々、一切が下品な行為であり、寧ろマウンティング、権威付け行動或いはそれに近い上品さとは真逆の行動である。
平均的な日本人であるならばこれらの行為を上品と感じる事はない。
何故なら思い遣り、配慮とは真逆だからである。
上品、下品はその場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である。
訂正
上品さは、その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である。
でした(^◇^;)
富の衒示的浪費は、マウンティングなので、気分を害する人もいるでしょうが、上品か下品かという問題は、相手の気分を害するか否かという問題とは区別して考える必要がああります。
マウンティングこそ上品さと真逆の区別すべき行動だと思いますが?
>> 相手の気分を害するか否かという問題とは区別して考える必要がああります。
僕が説明した上品さ、品格とは他人に対する配慮であり、実際の相手の受け止め方ではありません。
マクドナルドのようなファーストフード店に行く段階で、貴族的ではありません。ファーストフード店は、早さと安さを売りにしていますが、上流階級が好んで行く高級料亭は、早さと安さという経済合理性を否定しています。
真逆に見えるものが同居しているからこそパラドックスなのです。3の「謙虚さのパラドックス」を読み直してください。
相手がどう受け止めるかがどうでもよいのなら、「他人に対する配慮」があるとは言えません。だから「その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動」と書いたのですよね。
それはともかくとして、他人に配慮する人は「思いやりがある」とは言えるけれども、必ずしも「上品」とは限りません。下品な人でも他人に配慮することがあることからもわかるとおり、両者は概念的に別です。したがって「上品さは、その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である」は、定義に求められる必要十分条件を満たしていません。
本記事の主題は「上品さとは何か」であって、「上品さはどうあるべきか」ではありません。もしも本記事の主題が後者なら、「上品さには他人に対する配慮がなければならない」といった主張には意味があるし、私もそれには賛成ですが、そうした主張は、本記事の趣旨に副うものではありません。本記事は、上流階級の特徴である上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析するものであって、価値語としての上品さを理念的に語っているものではないことを理解してください。
他人の著作物を批評する時、相手がどういう趣旨で書いているかを相手の立場になって理解することが重要です。そうした「他人に対する配慮」なしで、自分の主張を外的にぶつけても、議論はすれ違いになるし、不毛な水掛け論になるだけです。もしも「他人に対する配慮」が重要だと思っているのなら、ここでもその「他人に対する配慮」を実践してくださるようお願いします。
上流階級と言う身分がよく分かりませんが…
仮に上流階級たる身分があったとして、上品階級だから上品だ!とは必ずしも言えませんし、マック云々は直接、間接と下品、上品さは必ずしも=ではないと言う例えに過ぎません。
>>下品な人でも他人に配慮することがあることからもわかるとおり、両者は概念的に別です。
普段下品な人が常に下品であるとは限りません。
他人に配慮しているその時はその人は上品に振る舞っていると考えられます。
>>上流階級の特徴である上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析するものであって、価値語としての上品さを理念的に語っているものではない
本当にこの通りなら「上品さとは何か」と言う題名は改題して「マウンティングの社会における役割」と言った様にすべきです。
上品さとは富の衒示的浪費つまりマウンティングだ!と言うのが貴方の主張です。
しかし僕の知る限りでは…辞書を引いても、検索してもそうではない。
つまり貴方が「上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析した記事だ!」と言うなら上品さの誤用であるし、「上品さの新しい定義を定める事を主張する記事」ならば「上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析した記事」ではないと言う事になり破綻している。
これは正確な理解ではありません。3の「謙虚さのパラドックス」をちゃんと読みましたか。上品な人は、露骨にマウンティングとわかるマウンティングはしません。むしろマウンティングを否定します。マウンティングを否定することで肯定するのです。この直接性の否定が上品さなのです。私は冒頭で「上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定すること」と書きました。マウンティングは結果として生じることであって、これと本質とを混同してはいけません。
あなたは、上品さとは他人に対する配慮と考えているようですが、これも私の定義で解釈できなくもありません。人間には利己主義的な欲望がありますが、これを直接満たすことは下品です。「情けは人の為ならず」という諺にあるとおり、利己主義を否定し、利他的にふるまうことが、最終的に自己の利益になります。利己主義の否定による利己主義の肯定という直接性の否定を上品と形容することは可能です。ただし、他人に対する配慮は上品であるとは言えても、これを上品の本質とみなすことはできません。
3の「謙虚さのパラドックス」を読んだからこそ、マウンティングや権威付け行動と品格と言う物を区別出来ず同列に語っている。と思わずにいられませんでした。
何故なら3に書かれてる謙虚、謙遜とは配慮であり、マウンティング行為ではないからです。
本心がどうであれ、他人にも判る行動の結果名声と人望が高まるのは周りに配慮し、敬意を持って振る舞った者に対する周りの評価であり、マウンティングを否定することで肯定している訳ではありません。
マウンティングとは自画自賛です。
謙遜、謙虚と言うのは欲望に対する自制であり、富や権力に対する欲望を剥き出しにした人物は自制の出来ない私利私欲の為に何をするのか判らないと言う不安を周りに抱かせるのです。
藤原氏の儀式は本人の内心がどうであれ周りに不安を抱かせない様な表面上の配慮であり、その表面だけを見れば配慮であり上品であると言えるでしょう。
しかし本人の圧力で儀式を行わせている事が判る者にとっては強力なマウンティングに他なりません。
つまり見る面によっては配慮でありマウンティングでもあるが、単に周りくどさゆえにマウンティングも上品な物になると思うのは両者を混同した間違いです。
例えば中国の高官の例の様に如何に周りくどく間接的マウンティングを行おうとも、それが純粋にマウンティングを目的とした行動の場合、どの面から見ても上品とは言えません。
本質と結果として生じる偶有性との違いが判らないということですか。
貴方にしろ私にしろ本質や偶有性がこうだから上品さとはこうゆう物だと主張しても、それは説とは言えません。
本質と偶有性は哲学用語ですが、どういう意味であるか理解しているでしょうか。本文冒頭に書いたとおり、上品さの本質は「欲望充足の直接性と効率性を否定すること」であり、マウンティングは結果として生じる偶有性です。あなたは後者を本質と誤解しているから、話がかみ合わないのです。
偶有性の評価に関して、もう一つ重要な区別があります。本記事の主題は「上品さとは何か」であって、「上品さはどうあるべきか」ではないと言いましたが、これは、価値語を価値語と前提する当事者意識のレベルとそれを前提としない学問的認識のレベルは区別するべきだということです。
例えば宗教学という学問において、研究対象は宗教を信じていますが、研究者は宗教を信じていません。学問そのものに宗教を持ち込むと、つまり、当事者意識のレベルと学問的認識のレベルを混同すると、学問が学問でなくなってしまいます。だから、二つのレベルを分けなければいけません。その結果、宗教学の内容が信者から見て冒涜的に見えることもあるでしょう。
価値についての社会学的分析も同じです。「上品」はポジティブな価値語であり、ポジティブな価値語でなければ「上品」ではないというのは、当事者意識のレベルでの話で、学問的認識のレベルでは、そうした前提を取り払って、いわば当事者意識から離れて非価値的な機能分析を行わなければならないということです。
>>上品さの本質は「欲望充足の直接性と効率性を否定すること」であり、マウンティングは結果として生じる偶有性です。
いや、上品さの本質は自分の行動が周りの気を害さない様美しく映る事を目的として気を配る配慮です。周りの評価、利益や、非合理性、直接性の否定はプロセスや結果として生じる偶有性です。
マウンティングとは自分自身による自画自賛、力の誇示である為意図して行わず唯結果として付随することはあり得ません。
直接性の否定も上品の本質たり得ません。何故ならそれはプロセスに過ぎないからです。
「上品」という価値語の定義に「美しい」という価値語を入れると、定義が論点先取的になり、判定基準としては使えなくなります。「何が上品なのか」という問いが「何が美しいのか」という問いに変わるだけです。「上品な行為とは、上品な行為である」という定義が、ある行為が上品であるかどうかを判定する基準としては使えないのと同様、あなたの定義は使えないのです。
「上品さとは欲望充足の直接性と効率性を否定することである」という定義においては、定義項に「美しい」というような価値語が含まれていないことに注目してください。非価値的な記述語しか登場しないから、判定基準として役立つのです。
気に入らないなら美しいと言う部分を省いても成り立ちますよ?
僕は定義を主張しているのではなく、言葉の意味を説明しているに過ぎないのですから…
「上品さとは欲望充足の直接性と効率性を否定することである」この主張はそもそも価値語の有無に関わらず本質をプロセスとしている為成り立ちません。
「美しい」を省くと、論点先取的ではなくなりますが、その代わり、定義としては間違いになります。私は既に、以下のように指摘しました。
こう言っても納得してもらえないようなので、下品な人が他人に配慮する具体例を挙げて反証しましょう。今、二人の恋人が部屋の中にいて、周囲には他に誰もいないとしましょう。女が愛情に飢えていることを感じ取った男が、女の欲望に配慮して、女の胸を愛撫したり、股間に手を突っ込んだりし、その結果、女が喜んだとしましょう。
この男の行為は、あなたが言う上品の定義を満たしています。部屋の中にいるのは、本人以外には恋人の女だけです。恋人という他者に気を配り、他者が気分を害するどころか、喜ぶ行為をしたのだから、条件を満たしています。だからといって、女の胸をもんだり、パンティに手を突っ込むという行為が上品と言えるでしょうか。
私の定義なら、この行為が上品であることを否定できます。欲望充足の方法があまりにも直接的過ぎるからです。上品であるためには、こうした直接性を否定しなければなりません。例えば、キスは、上述の行為よりかは上品です。「性的自己擬態の記号論」でも書きましたが、キスは、間接的で象徴的な性交です。間接的で象徴的だから、直接的な性交よりも上品なのです。
配慮と媚び諂いとの違いは配慮は自分が多少手間をかけても欲求を抑えてかつ、自分自身の尊厳も損なわない用自分ににも相手にも気を配る事である事に対し、媚び諂いは自分の尊厳を捨てても相手の欲望、欲求につけいって利益を得ようとすると言う点です。
貴方が例に挙げた性行為は男が本心では女を嫌っているが利益を引き出す為嫌々接しているなら媚び諂っているだけだし、好き同士なら、お互いのニーズ、欲求が合致しているだけで配慮ではないのです。
買い物をしている行為を上品、下品とも言いません。
もし買い物を上品下品か鑑定している人がいればその鑑定行為は下品としか評しようがない。
当事者同士で行われている他人の性行為を鑑定する事も同じです。
定義項に価値語を入れると、定義が論点先取的になり、判定基準としては使えなくなると前々回言ったのに、今回また「尊厳」のような価値語を定義項に入れましたね。「上品であるとは尊厳があることだ」のように、同じような言葉を使って定義しても、「上品さとは何か」という問いが「尊厳とは何か」という別の問いになるだけです。
それで、あなたは「自分が多少手間をかけても欲求を抑えて」といった記述的な説明を今回入れましたが、こういう説明を加えると、上品さとは欲望充足の直接性と効率性を否定することという私の定義に近づくことになります。
恋人という設定ですから、両者の関係は相思相愛です。相思相愛だからといって、常時好き勝手に性行為ができるということはなく、他者に迷惑をかけないように、事前にTPO(時と所と場合)、この場合、誰も見ていない部屋の中で恋人がその気になっている時というTPOに配慮しなければいけません。そういうときに「配慮」とか「気配り」という言葉を使うことは、日本語の使い方として間違っていないと思います。
時と場所を選ぶ事は配慮ですが性行為そのものは上品下品と言う価値観でははかれません。
>>上品さとは欲望充足の直接性と効率性を否定することという私の定義
何度も言う様にプロセスは本質たり得ません。
例えば当事者同士で行われている他人の性行為を鑑定する事が好きな下品な人がいるとして、他人づてにその内容を探ろうが本人に直接聞こうが自分の下品な趣味を口で否定しようが、下品な行動に変わりありません。
どの様なプロセスを得ようと欲求を満たす為に他人に敬意を払わない行為は上品な行動にはなりません。
上品か下品かは相対的な区別であり、性行為、あるいはもっと包括的に言って、愛情表現に対して、より上品か、より下品かという判断をすることはできます。TPOをわきまえていても、直接的な性行為よりもキスのような間接的で象徴的な性行為の方がより上品であり、同じキスでも、唇にするよりも、女性の手を取って、甲にキスする方がより上品です。これらの判定は、すべて「上品さとは欲望充足の直接性と効率性を否定することである」という判断基準で行えます。
プロセス(過程)/結果という区別と本質/偶有性という区別は関係がありません。例えば、「努力」という概念の本質は、成功したかどうかという結果ではなくて、プロセスにおいて怠けていないところにあります。
性行為の鑑定とは何のことですか。鑑賞(いわゆる覗き)の間違いではないのですか。この文章の意図も不明確です。これは、「上品さとは欲望充足の直接性と効率性を否定することである」という判定基準に対する批判のつもりで書いているのですか。
観賞でも鑑定でも意味は変わりません。
もっとも当事者同士のみの性行為の上品、下品を鑑定できるのは僕が知る限りでは貴方だけでしょう。
上品さとは自身のプライドを損なわないその場に応じた周囲に対する配慮、自制です。
そしてこれが上品さを説明する上で欠くことが出来ない上品とされる行為に共通した本質です。
上品さと言う言葉はプロセスを示す言葉でも本質としている言葉でもないのです。
貴方の主張する欲望に対する直接性の否定は自制心と似て非なる物です。
例を示すなら覗き魔予備軍が覗きなんてとんでもない!と口で否定、他の覗き魔を非難しつつ、自分も覗くのが貴方の言う直接性の否定です。
一方自重、自制心とは覗き魔予備軍が覗きたい欲求はあるけれど行動に移す事事態を我慢する事です。
貴方は前者も自重、自制と混同している。
だから上品さの誤用をしてしまったのです。
又同意ある性行為はニーズの合致であり、買い物と変わりません。
所かまわず性行為を行いたいカップルが自重して、キスで済ませたり、人目につかない場所で性行為を行う事は公然猥褻で捕まるカップルよりは上品だと言えるでしょう。
しかし当事者同士のみの性行為は2人の欲求、ニーズの合致であり、上品も下品もありません。
ホテルでカップルが今のキスは手にしたからデープキスより上品とか考えるのでしょうか?
それはホテルにいる時点で愛撫の1つに過ぎません。
二つの熟語の意味は同じではありません。国語辞典で意味を調べてください。
上品か下品かの判別という意味で「鑑定」という言葉を使ったのですか。そういう判別なら、当事者自身がしています。男も女も自分たちがしている(あるいはされている)行為を第三者に話すことは通常ないはずです。それは、その行為が下品な行為だと自身で認識しているからです。
何回同じことを言わせるつもりなのですか。「その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動」という定義は間違っているし、その間違いを回避しようとすると、「美しい」とか「尊厳も損なわない」とか「自身のプライドを損なわない」とかいった論点先取的な限定を付けないといけないという点で、その定義は破綻しているのです。
私が言っている直接性とは、欲望充足の直接性です。覗き魔が覗き行為をするなら、欲望を直接満たしているのだから、下品な行為ということになります。「覗く快楽と覗かれる快楽」に書いたことですが、覗きの欲望を学問的欲望へと昇華させることができます。昇華された欲望を満たすことで、元の欲望を間接的に満たすことは、欲望充足の直接性の否定であり、上品であるということができます。
苦行僧のように欲望を自重、自制しないと上品になれないのですか。そんなことはないでしょう。下品か上品かは、欲望を満たすか否かで決まるのではなくて、欲望の満たし方で決まると考えるべきです。
手の甲にキスをする行為は中世ヨーロッパでの宮廷儀礼で、今でも欧米では上流階級はよくやっています。女性に教養があるなら、上品な行為と受け取るでしょう。少なくとも、いきなりディープキスをする男よりも礼儀正しいと思うことでしょう。
映画の濡れ場を観ていて、それがディープキスから始まろうが手にキスして始まろうが上品、下品の差を鑑賞者は考えません。
又女性が手の甲にキスされて上品だと考えるのはあくまでそれを女性が望んでいるからであり、直接、間接は関係ありません。
マクドナルドより料亭は上品な場ですがそれは経済的合理性を否定しているからでもないし、直接覗かず、カメラを使っても覗きは覗きです。
濡れ場のある映画を見ようとすることは上品なのでしょうか。
まだこの定義にこだわっているのですか。
前回、「私が言っている直接性とは、欲望充足の直接性です」と言いました。直接的か否かは、肉眼で覗くのか、カメラを使って覗くのかという違いではありません。